懐かしい美味しさ

最近は、朝食に収穫したさつまいもを焼きいもにして食べることが増えています。ストーブに置いておき、このブログを書いているうちに出来上がります。出来立ての甘いさつまいもは格別で、温かいお茶と一緒に食べればしあわせな気持ちになります。

さつまいもは種類によってほくほくするもの、ねっとりするもの、しっとりするもの、パサパサするものなど異なります。ほくほくしてしっとりしているものが好みです、特に安納芋などは冬の間はよく食べます。

冬は特に温かい食べ物がおいしく感じ、時間をかけてつくる調理が大好きです。私は炭を使った料理が多いので、冬はいろいろな食材をあらゆる炭調理で楽しみます。

炊飯などもかまどでじっくりと炊く方が美味しく、ご飯とお塩が少しあればそれだけで何杯でも食べられます。それくらい、無肥料無農薬の稲架かけ米は美味しく御飯さえあれば他にはいらないと思うほどに美味です。

さつまいも話を戻せば、私が幼い頃は、軽トラックの荷台に石焼の道具を乗せて石焼芋を移動販売している人が多くありました。「いしやきいも~、やきいも」とスピーカーで大きな声で歌うように語り、ゆっくりと何度も往復していました。

1回目に聴こえたときはどうしようかなと悩み、2回目にまた通過する時には買おうと思い、追いかけるか3回目に通るのを待って買っていました。

よく考えてみると、買いそうな場所をちゃんと3回ほどまわってみんなが買いに来れるように配慮していたように思います。他には、物干しざおなども移動販売していました。

昭和の懐かしい感じもまた、この石焼芋を食べていると思い出します。最近では近所の大型スーパーの玄関先でも石焼芋は置いてあります。甘い香りで、ついつい買っている人も見かけます。

私たちの日頃食べる懐かしい食べ物には、慣れ親しんだ味の記憶があります。美味しいと感じるのは、ただ味だけを感じるではなくそこには美しい思い出も入っています。あの味だと思い出すとき、しあわせがつながります。また食べたいと思うものには、心が喜びを感じる何かが入っているからでしょう。

子どもたちにも懐かしい美味しさを伝承していけるように丁寧に調理していきたいと思います。

いのちの美味

日本には古来から「甦生」という精神性があります。私は場道家ですが、同時に甦生家でもあります。甦生は私のライフワークです。

生まれ代わるというのは、いのちのめぐりのことです。いのちというのは、常に生々流転しています。また輪廻転生するともいえます。あらゆるものと和合しながら生き続けていきます。和合していくことは、新たないのちになっていくことです。

例えば、昨日は新嘗祭を行いましたがお米の種はそのままいのちの種です。土に蒔き、お水と光と風が吹けば別の姿に変化していきます。そのもののいのちのかたちはそこで終え、別のいのちへと変化していくのです。私たちが成長して老化していくように、いのちもまた変化します。そして新たないのちに受け継がれていきます。

当たり前のこの真理ですが、これは実はとても大切な智慧の一つです。

神道では、式年遷宮をはじめ様々な甦生の儀式があります。新嘗祭もその一つです。私たちは毎年、一年に一度、甦生するのです。この甦生によっていのちが若返り瑞々しくなり長寿を得ます。この智慧は、健康食品などでは得られませんし、遺伝子治療などでも得られません、そもそも科学ではないからです。

昨日は甦生した井戸のお水で床下の備長炭を使い、田んぼの土で仕上げた竈に火を入れ、みんなで火吹き竹で息を吹き入れた今年の新米を炊きました。

その味には、確かに新たないのちが別のものになって宿っている感覚を直観します。仲間たちと一緒に味わいましたが、口先ではなく全身全霊で美味しいと感じるいのちの美味です。

甦生や若返りというのはこの感覚に似ています。

私はいつも古民家甦生や、あらゆる伝統や伝承の場を甦生する中でこの感覚を味わっています。いのちは変化する。変化こそ甦生の妙味であると。変化を如何に楽しむか、変化を如何に味わうか、私たちは変わることでいのちを何度も甦生させるのです。

暮らしフルネスの基本は、このいのちの美味を知ることからはじまります。

引き続き、徳の世を醸成し心豊かな社會のために智慧を実践し続けていきたいと思います。

いのちの新嘗祭

今日は、これから浮羽の甦生中の古民家で新嘗祭を行います。有難いことに、今年はとても由緒ある田んぼとご縁ができ手植え手がりで無肥料無農薬でお米を栽培することができました。仲間との思い出もいよいよ終盤、今年の有難いご縁と感謝でみんなで笑顔で新米をいただき予祝をします。

振り返って見たら、お米と共に一年を暮らす仕合せは格別なものです。一年中食べているのがお米ですからお米のいのちをいただいているといっても過言ではありません。一粒一粒にいのちが宿る種を食べているのです。それは元氣にならないはずはありません。

田んぼでいのちが充実しているという事実。

これは生き物がいっぱいの田んぼに入ればすぐにわかります。私たちはその田んぼの元氣をいただき、元氣溌剌と生きているのです。今ではお米も次第に、お金や物のように扱われています。先物取引のようにも扱われたりしました。しかし本来は、お米は私たちのいのちそのものに深く関係するものだからいのちとして接することが本来のあるべき姿ではないかとも思います。

お米に対する意識や姿勢こそ、私たちの精神性の中心を支えていたものです。

新嘗祭はそれを甦生する大切な儀式とお祭りです。

丁寧にいのちをいたわり、みんなで有難くいただきます。

場徳の醸成

無声呼人」(むせいこじん)という言葉があります。これは福寿園の家訓が由来で商売においては徳や品格が商品に必要であり、それがあれば自然と人が集まるという教訓になっているともいいます。

これは論語の徳は孤ならず必ず隣ありに意味が似ています。これは私の場の道場の実践徳目と似ていて、その場に徳が醸成すれば自然にいのちが活き活きしてあらゆるものが自然に調ってくるというものと同じです。

よく振り返って見ると、人生も同様に善いご縁がさらに好いご縁を結びます。これは好循環ともいいます。自然に一つが誠実になれば、次が自然に用意されてやってくるのです。

日本人は、「予祝」(よしゅく)という精神性を持っています。これは未来に起こる良い出来事をあらかじめ祝うことで、その実現を引き寄せる考え方のことです。現代でいえば、過去が未来になるという考え方です。今、御祝いすれば未来はそれに引き寄せられて自然にそうなるということ。

量子力学が発展して、意識というものの存在も再発見が続いています。先に私たちは意識を持てば、それに現実が顕現するということ。意識が先にできる、無から有が産まれるということでしょう。

私もこの無声呼人という言葉がとても好きです。

場づくりと徳を磨く実践には、その集まってくるご縁の楽しみと喜びがあります。

善い場をつくれば、相応のものが訪れます。よい人、よいめぐり逢いを味わいながら一期一会を生きていきたいと思います。

自然の恩恵

世の中の商品には、自然環境を著しく破壊するものがたくさんあります。同時に、人体を著しく破壊するものもあります。今も文明と人類が滅び、長い時間が経ては回復するかもしれません。しかしそれはとても残念なことのように思います。

そもそも縄文人をはじめ、太古の人々は自然と共生して自然の恵みだけで生きてきました。その恵みを過剰に取りすぎず、破壊しないように配慮して長い時間をかけて回復する自然の恩恵に肖っていました。その自然の恩恵に氣づく感性もまた研ぎ澄まされていたようにも思います。

どこからか自然の恩恵よりも資源として採掘をはじめ、それをどう資金にしていくか。埋蔵金の発掘や海賊のように恩恵を搾取するようになりました。それも個人の権利として特定の人たちがだけが独占するという具合です。

恩恵の独占によって恩恵から外された人たちは厄難であり迷惑をうけます。特定の人たちが権力や富を牛耳ることで問題が発生して恩恵ではなくなったということでしょう。つまり恩恵をわが物にして、恩恵を与える側になったようにふるまうのです。

恩恵というものは、人間が造り出したものではありません。恩恵は元々、宇宙自然によって存在しているものです。その恩恵をみんなで分け合い暮らしていくと決めて生きてきたのがかつての人々であったということでしょう。

権力者や独占者は、恩恵を奪取するのが得意です。恩恵がなくても、恩恵のように見せかけて人間を操るのも得意です。最近では、マッチポンプといって敢えて環境を壊すことでそれを回復させているかのように振舞いお金を集める組織や会社も氾濫しています。マッチポンプとは、自分で起こしたもめごとを鎮めてやると関係者にもちかけて報酬を得ることのことをいいます。

自作自演をして恩恵を誤魔化しているのを見ると、悍ましさに悲しみも覚えます。今の時代、グローバリゼーションがそれを加速させています。

暮らしを調えていくことは、生き方を調えていくことでもあります。

よくよく自然の恩恵とは何かを見究め、恩恵と共に暮らしていくことを積み重ねていくことでしょう。子どもたちのためにも、恩恵に感謝する暮らしを精進していきたいと思います。

侍の精神

昨日は日本の「天下の三大揃え」の一つ、秋月の鎧揃えに法螺貝役としてお役目をいただき勤めてきました。秋月和紙の侍、井上さんとのご縁で参加してからはや五年目になります。

もともとこの鎧揃えは江戸時代の秋月藩における年中行事の一つであり、寛永14年(1637年)の島原の乱に際して初代藩主「黒田長興」(黒田長政の三男)が家中に命じて正月三日に鎧揃え(軍事演習)を行ったことが起源です。

その後は明治維新とその後の廃藩置県で秋月藩は消滅し、残された士族たちによって細々と続けられていた鎧揃えも昭和20年代には一度途絶えます。それから60年余りの時が流れ、平成21年(2009年)に地元有志により『秋月鎧揃え保存会』が結成され現代に鎧揃えを甦生しました。

この鎧揃えが生まれた背景を調べてみると江戸時代に入り最後の関ケ原の戦いが終わってから38年ほど経ち、武士たちも平和が続き平和ボケしていたといいます。実践経験のない武士たちはとても弱く、島原の乱に対応できず実践経験がある古参の武将たちがその時、とても重宝したといいます。平和ボケした武士は戦おうともせず、鎮圧もなかなかできず、一揆などがおき反乱する状況になるまで初期の対応もしなかった藩にも問題がありました。

つまり平和に油断していたことで被害が大きくなったのです。

この鎧揃えの年中行事の目的は、易経、孔子の『 安くして危うきを忘れず(安而不忘危) 存して亡ぶるを忘れず(存而不忘亡) 治まりて乱るるを忘れず(治而不忘乱)』の意味もあります。

これは安泰な時であっても危機を忘れず、存続している時も亡びる事を忘れず、治まっている時も乱れる事を忘れないこと。どのような時でも、油断してはならないという先人からの遺訓であり智慧の一つです。

そう考えて観ると、ただ伝統は繰り返し行っているわけではありません。この本質を守り続けようとする意志を伝承したものが行っている大切な実践であるのです。

現代ではどうでしょうか?

政治の無関心や先送り、そのうちなんとかなるだろうと何も主体的に動くことがなく、忙しさとお金儲けや目先のことで精いっぱい、誰かがやるだろうと他人任せにしては油断していないでしょうか。

今、もしも食糧危機が来たらどうするのか、もし近隣の戦争に巻き込まれたらどうするのか、もし大災害や金融危機が来たらどうするのか、ちゃんと対策はできているでしょうか。

私は暮らしフルネスの実践を通して、いつも危機に備えた暮らしをしています。自然と離れずに循環の中で食料や燃料やお水を確保し、徳を中心に据えた講のコミュニティをつくり、伝統の智慧を継承し、古民家を甦生しています。そして子どもたちの主体性を見守る環境をつくり広げ、最先端技術を温故知新しています。それでも油断してないかと色々と挑戦をしています。

武士道とは何か、商人道とは何か、日本人が大切にしてきた精神を守ることが治に居て乱を忘れずという実践ではないでしょうか。

引き続き、子孫のために志士たちの真心を紡ぎながら侍の精神を守り続けていきたいと思います。

竹との関係

昨日は、古民家和楽の竹垣をみんなで一緒につくりました。澄んだ秋の空と竹垣の美しさが映えていてその家と調和する姿に感動しました。

現在は、人工竹垣というものも増えています。プラスチックなどによって見た目が竹のようにつくられた別物です。よく本物の竹を使うか、人工竹を使うかで迷う人も増えているといいます。

この竹と人工竹の違いは、まずは自然の経年変化がないことです。自然の竹は、緑色から次第に乾燥して色が黄色になります。そして時間をかけて朽ちていきます。そのため、柿渋をはじめ年に何回かお手入れをしながらもたせます。人工竹の方は、経年変化がなくそのままですがこれも時間が経てば突然壊れます。塗装も、柿渋などではなく油性の科学塗料を用います。

シンプルですが、自然のものや本物は自然の智慧で対応していく。人工的なものや自然ではないものは、科学的な技術で対応していくということです。しかし、ここではっきりと異なるのは「調和」のことです。

自然と調和するものはやはり本物であることは間違いありません。どうしても人工的なものは自然には合いません。私はよく古民家甦生をしますが、不自然なものは壊れるのが早くなります。山中などの家では、人工的なものはすぐに劣化していきます。あるいは自然の植物や微生物がすぐに排除しようと分解していくので腐食も朽ちるのも早くなります。

一般的には人工的なものの方が長持ちをしているように感じますが、本当の長い歳月を観るとすぐに人工的なものは壊れていきます。

また竹垣などは身近な竹を使いますから修理もしやすく、お手入れも楽です。それに毎年、増えていきますから資源の心配もありません。いのちが循環する素材として、永続的に利用できます。子孫の時にこの材料がないという心配もありません。よくお手入れした竹藪や竹も美しく、風が通るようになると神聖な気配を周囲に放ちます。

自然な竹垣が世の中から失われ、竹藪が放置され竹が悪者になるのはとても残念なことです。人類を長く支えてきた大切なパートナーとしての竹は、いつまでも子孫へその関係を結んでいく必要があると私は思います。

そのためにはまずは暮らしを甦生することが先決です。

引き続き、暮らしフルネスといのちの循環の和樂を味わっていきたいと思います。

大切なこと

人生は、いつどのタイミングで亡くなるのかはわからないものです。大切な人が増えていくと、それだけ別れがつらくなります。その大切さは思い出となっていつまでも大切にされていきます。

この大切という字は、不思議な字です。語源を調べると、平安時代に遡ります。今昔物語集では「大い切る」は、切る(きる)ではなく、切る(せまる)という読み方になっています。平安末期には、「捨て置けない」という意味になります。そして室町くらいの頃になると「かけがえないのもの」となります。江戸時代には、「愛する」と訳されるようになります。今の時代も、守りたいもの、失いたくないもの、敬愛するものと訳されます。

人生は守られている存在が増えていき、自分が守りたいと思う存在も増えていきます。失ったとき、守られていたことに氣づくものです。では何を守られていたのか。それは存在そのものや心が守られていたことに氣づきます。

親切という言葉もあります。これは親を切るではなく、親しみ丁寧に接するという意味です。この切るという字は、守るという意味ではないかと私は思います。この守るという言葉も、切ると同じように歴史の中で変化している言葉です。

言葉というのは成長していくということでしょう。

それは人が用いることが増えていくからです。その言葉をどのような時に用いたか、それによってその言葉に新たな人格が加わるのです。

人が使っている言葉には、人格が宿ります。誰が使うか、どのように使うかで意味も変わります。だからこそ、先ほどの大切という言葉や親切という言葉は特に重要な言葉になっていきます。

私は徳という字もよく使います。この徳も歴史と共に成長していきます。言葉というのは、その時代の人格が依り代になっているものです。

いのちというものを思う時、言葉の大切さを改めて実感します。親切や大切など、暮らしの中で使う言霊を見守っていきたいと思います。

 

古民家和楽

昨日は、古民家和楽で二回目の銀杏拾いの会を行いました。たくさんのご家族や友人、仲間たちが集まり和気藹々と懐かしい時間を過ごすことができました。はじめて銀杏拾いをする大人も多くいて、子どもたち以上に楽しく喜んでいるのが印象的でした。

自然農の自家製のお米を銀杏と一緒に土鍋で炊き込みました。それをみんなでおむすびにします。また秋の味覚としてきのこ汁をたくさんつくり、備長炭で炒り立ての銀杏と一緒に食べます。

この古民家和楽の最大の魅力と徳は、お庭にご鎮座する銀杏のご神木であることをみんなで実感する時間です。一年に一度、銀杏の木の下にはたくさんのご縁のある方々が集まり笑い合います。自然の恵みをみんなで分け合うということにここまで安心するのは、そうやって人類は長い間暮らしてきたからではないかとも思います。

現代はすぐにお金で買うようになりましたが、そのお金で買っているものはすべて自然がつくってくれるものです。大地や太陽や風やお水、あらゆるものの中にいのちがありそのいのちがみのり私たちはそのみのったいのちをいただきます。そのいのちに見守られながらいのちに活かされるという体験の安心感は一生涯持続するものです。

たくさんの子どもたちと色々な家庭が古民家の中で一緒に食べてお話をして遊ぶ。昨年はスリランカの方々が来られていましたが、この雰囲気にとても感動され日本に来て一番の体験になったと喜んでいたのが印象的でした。

時代が変わっても、環境さえあればかつての日本人たちが大切にしていた暮らしは伝承していけるものです。

引き続き、暮らしフルネスの場を通していのちを活かしいのちに活かされるという体験を子どもたちに譲り遺していきたいと思います。

いのち宣言

昨日は、大阪万博のいのちの宣言に参加してきました。今年の2月、いのち会議が飯塚の聴福庵とBAで開催されてからそのご縁でこの貴重な機会をいただきました。人のご縁によって導かれていくというもの、まさにこれも「いのち耀く」仕組みであると私は感じています。

そもそも日本人の暮らしの中の神様は「八百万の神々」といい、そして仏様は「山川草木悉皆成仏」といいました。つまり一神教ではなく、すべてには「いのち」が存在しているという「いのちのつながり」の中ですべてのご縁と物事を感受してきたということでしょう。

その証拠に大和言葉や日本の言霊は、自然の中で繋がりながら生きているからこそ産まれたものであり西洋のように自然と人を分けたり、神と人を分けている意識では誕生することもありません。雨にも色々な雨があり、黒にも色々な黒がある。日本人の使う美しい言葉はこのいのちの象徴です。

世界ではこの分けるという便利な思考方法によって様々なものを分類してきました。その結果、思い込みや刷り込まれたものをを真実のように勘違いをしては現実から目を逸らせてそれぞれが本質的ないのちを生きることを忘れて元氣がなくなってきました。ますます世界から元氣は失われているように思います。

この元氣というのは、自然あるがままのことです。そしてそれをかつての日本人は「かんながら」と呼びました。これはいのちの道ともいい、いのち耀く生き方を実践するという意味です。

いのち宣言ではそれぞれの発表するいのちの話をたくさん拝聴してきました。ちょうど、その前日、私は「いのち輝く」を理念にしている鞍馬寺にて2日間過ごし、本堂にてご祈祷と法螺貝奉納をしてきました。鞍馬山はお山の場にいるだけで元氣が湧いてくる。まさに鞍馬山は太古のむかしから今も「場」によっていのちを顕現している信仰の実践道場です。

そして私は現在、九州の霊峰、英彦山の宿坊を中心に法螺貝をつくりその法螺貝を吹き、一人でも多く覚醒していく人を増やすいのちの甦生活動をしています。この10年で500人と定め、場を調えて暮らしを実践しています。

人類は、思い込みや刷り込みからどのように目覚めていくか。謙虚というものは、実践のただ現実の真っただ中にこそ存在します。かつて古代中国の殷の湯王が「苟日新、日日新、又日新」と洗面器に刻み毎日、顔を洗って実践をしていたことが礼記に書かれていました。徳を磨き続ける覚悟があってこそ、いのちは輝き続けるのかもしれません。

私にとって徳を積むというのは、いのち耀くということと同義です。

引き続き、神仏といのちのご縁とお導きに感謝しながら謙虚と素直の両輪でかんながらの道を歩んでいきたいと思います。

ありがとうございました。