多様多彩

先日、仏教の子ども主体のある保育園で理念研修を行いました。もう十年以上一緒に理念に取り組み、一円対話やその他の私たちの社内と同じ実践を行っていますがその中での発見や気づきはいつも深い感動があります。目指している生き方を共にし、磨き合い高め合う関係は同志そのものです。

この園の保育の方針にはこう書かれています。

「この世界には山があり、谷があり、川があり、海があり、そしてそこにはたくさんの小さな薬草、中ぐらいの薬草、大きな薬草もあり、大きな樹木も、小さな木も、きれいな花も小さな花も、ありとあらゆる草や木があります。そこには、同じように太陽はあたり、雲が湧き、等しく雨が降り注ぎます。その雨はたとえどんな小さな花にも、大きな木にもあまねく平等に降り注ぎます。降り注ぐ雨は平等ですが、小さな花は小さいなりに、大きな樹木は大きいなりに、その受け取る量はまったく異なります。それでもそれぞれが自らの命を精一杯輝かせ、生き生きと成長していくのです。小さな花が大きな樹をうらやむ事も、大きな樹が小さな花を見下すこともいらないのです。仏さまのお慈悲は降り注ぐ雨のように、平等に注がれるのです。」

これは法華経の中にある仏陀の話、「三草二木のたとえ」から抜粋されています。これは私の意訳ですが、「どんな生き物も同じ自然の一部、その宇宙の下、お互いに尊重し合い、認め合っていこう」ということを仏陀が分かりやすく諭してくださっているように思います。

昔から見た目の違い、身分の差、持っているか持っていないかなど人間は自分の都合で違いばかりを見てはないものねだりをしていくものです。持っている人をうらやみ持っていない人を見下したりもします。比較と競争はこの世に争いを産み出していくものです。異質なものを受け入れず、単一で画一化されたものを良しとする風潮が世界に争いの種を蒔いているように私は思います。

今でも本来は異なるものを、みんなを平均化することでまるで同じものであるかのように教育を施しています。最先端の教育ではダイバーシティやインクルージョンの重要性が叫ばれてきていますがその根底には「お互いを尊重し認め合う」という人間として当たり前のことに気づこうとする原点があるように私は思います。

もちろん公平に分けるということは大切ですが、平等とは受け手が平等を感じることが平等ですから公平に分けてもそれは平等ではないのです。平等とは私の言葉では「認め合う」ということです。国の違いを超えて、生物非生物の違いを超えて、当然、大小や貧富、男女、そうやって二元化して分けてきたものを超えて本来は一つではないかと気づくことが平和になるということです。

人間が争わないで生きていく道は、この三草二木のたとえの実践を行っていくしかないように私も思います。自然はみんな異なっているのは、お互いを認め合っているからです。姿形が違うものは、それぞれにそれぞれでいいところがありそれを互いに尊重するから共存共栄の社會が存在していくのです。

最後に、かつて中国を訪問した時に御縁をいただいた慈覚大師円仁の句で締めくくります。

「雲しきて 降る春雨は分かねども 秋の垣根は おのが色々」

それぞれに己の命を全うしていく、その姿に慈雲慈雨はいつまでもあまねく降り注ぐ、そこにどんな命の姿が出てくるだろうか・・・命はその慈愛の真心にいつも偉大な見守りを感じています。私たちが見守ることが大切なのは見守られていることを自分自身がいつも忘れないためでもあります。

子どもたちが多様多彩に自分らしくそれぞれの命を燃え盡すためにも、引き続きこの世の刷り込みを一つ一つ丁寧に取り払っていきたいと思います。見守る実践を心新たに深めていきたいと思います。

 

主燈明

この世に死なない人がいないように必ず形あるものは消滅していきます。自然でも同じく、いくら固い石であろうが鉄であろうが時間が経てば必ず風化して消滅していくものです。これは今の国家であっても世界であっても時代時代で必ず消えていくものです。

必ず消滅すると知るのなら、執着しているものの全ては消えてほしくないと願っている私たちの心でもあります。あるものを保とうとするのは意識から細胞にいたるまで自己防衛本能の根本でもあります。しかし消えてしまうものを無理に消えさせまいと自然の摂理に反していたらその歪から変化することを抑え込もうや変化することを避けようなどという不自然なことをやってしまうものです。

例えば、川の流れで水をいくらせき止めてみても水は増え続けて流れようとするものです。堤防が大きくなってみても雨の量や風化のスピードは抑えようもありませんから必ずその堤防は決壊して変化の流れは誰にも止められません。

だからこそ人はその変化を受け容れて、その自然万物が消滅することを知りそれが少しでも永く継続維持できるように努めていくのでしょう。変わることを受け容れる人だからこそ今あるものをもったいなく感じて大切にしていくことができます。

人間は自然の摂理において淘汰されるはずのものでも、いつまでもみんなが守り大切にすることで生き続けていく文化として子孫へ継承されていくようにも思うのです。

仏陀は2500年前に自燈明・法燈明という言葉を遺しました。「他者に頼らず、自己を拠りどころとし、法を拠りどころとして生きる」と解釈されます。これは私たちでいえば組織に頼らず、内省を怠らず、理念(初心)を拠り所にして実践していきなさいという言葉になります。

変化していくというのは言い換えれば諸行無常ということです。変わらないものはなく、いつまでも今のままであることは続きません。だからこそどんな変化が訪れても理念(初心)を拠り所にして内省を怠らず、自分自身の心に意見をして歩んでいく必要があります。変化はいついかなる時も已むことはありませんから、常に人は日々に理念や初心を確認して自らがズレていないか、自分の心が変化に流されていないか、その変化に気づき心を常に原点回帰しているかと一歩一歩歩むたびに自らを省みる必要があります。

そうやって自分の心の主になることを自燈明といい、理念の主になることを法燈明になると私は思います。主体性というものは、自らの積極的な自燃力によって命を熾すこと、決して時と他人の奴隷になるなということでもあります。それを私は「主燈明」と名付けます。禅語でいうところの主人公のようなものかもしれません。

主は誰か、主とは何か、ひょっとすると仏陀はそれを生き方で示した方だったのかもしれません。

引き続き、私たちは子どもたちの主体性を守る仕事しているのだから自分自身が主体性を発揮して変化の中で何を守り何を守らないかを実践して子どもたちに主燈明を通してその背中を見せていきたいと思います。

道中日記

中国の格言に「10年、偉大なり。20年、恐るべし。30年、歴史になる。50年、神の如し。」というものがあります。これは決心したことをそのままに継続ができるのなら、以上のようになりますよという事実が説かれているものです。

これは力の本質を語る言葉ですし、すべての偉大は日々の偉小の積み重ねにおいて行われることを語るものです。二宮尊徳に積小為大という言葉もあります。日々の進歩や進化、改善や探求や実践が時を経てそれがすべてを動かす力の源であるということです。その力の源は「楽しい」ということです。

物事は日々に深めていると次第にそれそのものが楽しくなってきます。楽しいと思えるように本気で楽しいことに取り組んでいると次第に発見が多くなりもっとそれを探求してそのものに辿り着きたいと思うようになります。好奇心とも言いますが、飽きっぽいものは決して好奇心というものではなくそれは単に知識欲が旺盛ということで本当の楽しみは同じものを見ても毎日同じに見えないという「変化」を楽しむことができるということです。

日々に実践していくとそれまで知らなかったこと、わからなかったこと、わかった気になっていたことに気づきます。「おお、そうだったのか!」と驚きまたそのことがもっと知りたくなってきます。知ることが楽しくなっていくのです。そうすれば単にわかることが目的ではなく、もっと本当のことが分かりたいというまるで自然の妙味や宇宙の真理にも近づいていくかのようにドラマが生まれワクワクドキドキが止まらなくなるのです。

好奇心というものは、人が道を求め道を歩むときに必ず隣に有るもののように私は思います。

二宮尊徳は「知れたることを知って行ふは聖人なり、知らざることを知れというは小人なり」という言葉を遺しています。なんでも即席栽培のように速成をしようとする昨今の風潮がありますが、本来はじっくり醸成し凡事を非凡に徹底することの真価を身近な大人たちが示していることが大切ではないかと私は思います。

一つの道を極めていくのは、長い年月が掛かります。言い換えれば長い年月を掛ける価値はその人の日々の進歩に懸っているとも言えます。大きな目標ばかりを追い求めては今やるべき目の前のことには心を籠めないでは本末転倒です。

一つひとつの頂いた機会を如何に活かすか、それはその人がどれだけ日々の実践を徹底しているかに由ります。水脈にあたるまで井戸を掘り続け、山になるまで土を盛り続けるように弛まず諦めない根気がいります。

しかしその夢が大きければ大きいほど、周りの人には馬鹿にされるような小さなことをやり続けることになるものです。そういう真実に対して愚直に実践するものを私も聖人と呼びます。いつまでも知ってもやろうとしない人たちが変わらないのです。

目指す頂は壮大でとても自分一代では不可能だと思えます。しかしそれでも人類を愛し、人間を信じるからこそ諦めたくないと思います。

このブログも私にとってはその進歩を遠方の朋と味わう工夫であり楽しさを弘める道中日記のようなものです。

引き続き子どもたちのためにも、自然の恩恵の中で感謝報恩で生きていく仕組みを時中に合わせて開発していきたいと思います。

 

心田を耕す

心田という言葉があります。これは心の田んぼのことを言います。二宮尊徳は心田開発とも言い、また心田を耕すといいました。この心田の「田」とはどのようなものかということを少し深めてみます。

自然農の田んぼで昔ながらの農法を実践していればすぐにわかるのですが、田んぼがちゃんと田んぼであるのは人の手で手入れを行っているからです。畔の管理から草の管理、その他、田んぼに稲が育つようにその環境に相応しい場を見守り続けていきます。これは畑も同じく、作物を育てるためには育てる作物に応じて適切な場所や適当な広さ、または必要なら畝をつくり水切りし、太陽が届くように周りの木々を剪定します。

このように手入れをすることではじめて田も畑も私たちが暮らしていけるように順応してくれるとも言います。ここで大切なのは放置しないということです。自然農の田んぼで人手が足りず一つの場所だけは放置しているところがあります。そこはもう人の手が入らず自然そのもので雑木林のようにススキやセイタカアワダチソウなどで畑とは呼べるようなものではありません。手入れを怠り数年経てば、野生のままに回帰していくということです。

二宮尊徳は心田についてこう語ります。

「私の本願は、人々の心の田の荒蕪を開拓して、天から授かった善い種、すなわち仁義礼智というものを培養して、この善種を収穫して、又まき返しまき返して、国家に善種をまき広めることにあるのだ。」

「そもそも我が道は、人々の心の荒蕪を開くのを本意とする。一人の心の荒蕪が開けたならば、土地の荒蕪は何万町歩あろうとも恐れるものはないからだ。そなたの村は、そなたの兄ひとりの心の開拓ができただけで、一村がすみやかに一新したではないか。」

田んぼの手入れを怠れば田んぼは自然の摂理で野性地に戻ります。しかし人間が手入れをすれば耕作地となり私たちが生きていくための「保育地」になります。これを人の心に置き換えるのなら、私たちが心の手入れを怠れば人間も野性に戻ります。場合によっては動物のようになり理性が失われ本能だけのものになります。しかし心を正しく手入れをしていけば人間が育成され自然の恵みに感謝して共に助け合い暮らしていくための思いやりのある道徳社會ができてきます。

つまり心田の手入れとは何をいうか、それは我慾を制し、己に打ち克ち、自らを律し、感謝の心を育て、恩に報い、周囲を見守ることに似ています。そして心田を耕すとは、その荒れ果てて欲望のままに野生化した人の心をもう一度手入れをすることの大切さに気付かせそれを一緒に直し、直したらまた荒れることがないようにと手入れを怠らない工夫を人々に与えていくことです。

そうやって心田を耕すことで人ははじめて自然の叡智を得た人間の智慧を持ったことになります。何もしなければ自然のままに壊れていくのが天理ですから、その天理の道理を悟り、人道はその壊れていくものを壊れないように手入れをしその自然からの恩恵をいただき生きていくという人間本来の姿に回帰していくということです。

今は田んぼを耕すのは農家の仕事としてあまり周りの人たちには馴染みがなくなってきましたが、本来は自然の恵みを受けてそれを感謝でいただいて暮らしていくという人間本来の営みは農家に限らずこれは人類が今まで生き延びてきた由来であり由縁であるのです。自然の恩恵をいただき自然と共に暮らしていくことこそ迷いなく人間が生きるためのたった一つの悟りです。

もう一度、心田を耕すことを思い出し原点回帰する必要を感じます。

引き続き、子どもの傍にいて心の手入れを行うとはどういうことか。その手入れ方法を人々に伝授し、私も尊敬する二宮尊徳のように自然から学び直したことをカタチにして心田を耕すことに生涯を捧げていきたいと思います。

 

真の学者、真の学問

今年も無事に萩にある松陰神社に参拝することができました。毎年欠かさず24年間、一念発起してから初心を忘れずに今でも実践が続けられていることに改めて感謝します。

私は吉田松陰の生き方に触れ、魂が揺さぶられ如何に義に生き切るかということの大切さを学びました。その人の功績よりも、その人自ら背中で語る生き様に日本人の美しい精神、純粋な真心を学びました。

吉田松陰は思想の方ばかりを注目されますが、私はその真心の方に心を打たれました。真心の生き方を貫いた人物でこれほどの純粋無垢な人物が先祖にいたことに何よりも誇りに思います。

松下村塾には、竹に刻まれた「松下村塾聯」というものが掲げられています。これは吉田松陰が27歳の時に刻んだもので、塾生たちの最も目に入るところに掲げて戒めたものです「刻む」というのは忘れてはならないという意味です。

「万巻の書を読むに非ざるよりは、いずくんぞ千秋の人たるを得ん。一己の労を軽んずるに非ざるよりはいずくんぞ兆民の安きを致すを得ん」

一般的にはこれは「たくさんの本を読んで人間としての生き方を学ばない限り、後世に名を残せるような人になることはできない。自分がやるべきことに努力を惜しむようでは、世の中の役に立つ人になることはできない」と訳されています。

私の意訳は、「立派なご先祖様たちの生き方を文字や言葉を通して学ばない限り、同じようにご先祖様と同じような立派な存在になることはありません。そして自分自身の人生を自分のことだけに使い、世のため人のためにする苦労を自ら避けようとするようではとても社會を平和に変えていくことはできませんよ。」としています。

この書を読むことと苦労は一つであるとしているのです。

「日本の国柄を明らかにし、時代の趨勢を見極め、武士の精神を養い、人々の生活を安らかにした歴史上の秀れた君主や宰相の事蹟や世界の国々の治世のしくみを調べ、一万巻の本を読破すれば、つまらぬ学者や小役人にならなくてもすむ」といいます。

ここでのつまらぬというのは、「そもそも、空しい理屈をもてあそび、実践をいい加減にするのは、学者一般の欠点である」という意味と同じです。思想だけを弄び決して自分では実践しないでは世の中は何も変わらないから言ったのでしょう。

吉田松陰は真の学者、真の学問をするように学友や仲間たちに説きました。それは富岡鉄斎の座右「万巻の書を読み 千里の道を行く」に通じるところがあります。これは書を読むことと道を行くことが同じであることを意味します。つまりは「道を深めよ」という学問の本質が隠れていると思うのです。

吉田松陰はこういう言葉も遺します。

「井戸を掘るのは水を得るため、学問をするのは人の生きる道を知るためである。水を得ることができなければ、どんなに深く掘っても井戸とは言えないように、人の生きる正しい道を知ることがなければ、どんなに勉強に励んでも、学問をしたとは言えない」

人の生きる道を学ぶ道場、それが松下村塾であったと私は思います。志とは継続することで磨かれるもの、そして実践することを深めることで実現していくものだからです。常に学友と共に持ち味を活かして磨き合うところに、学問を活かす道があったように思います。

『学問とは何のためにあるのか。』

これをまずはじめに考えなさいと「聯」に刻まれているようで、松下村塾に行くとその初志を観て心が引き締まります。

時代を越えても時空を超えても志によって人々に勇気を与え道を示してくださる、まさに師と言います。私は生きている人をメンターと呼び、亡くなっている人を師と呼びます。

真の学者、真の学問を極めてご先祖様と同じように徳を磨き社會を豊かにしていけるように今年も精進していきたいと思います。

2017のテーマ

昨年は伝統を通して、本来の姿を見つめた一年になりました。かつての先祖たちがどのように暮らしてきたかを知れば知るほどに自然と一体になり、自然に親しみ、自らを慎み、素直に謙虚に生きてきた様子に日本人本来の当たり前の姿を観た気がします。

昨年はもののはじまりを知るがテーマでしたが、すべての物事には起源がありその本質を見極めれば何が異常で何が正常であったかがわかります。今の世に照らして、正常が何であるかをつかむというのは本質的に生きていくことを大切にしていく上では何よりも重要な実践項目になります。

先日、熊本県八代市のい草農家の草野様が聴福庵に来庵した際に「こだわり」と「当たり前」についてのお話をしてくださいました。

草野様が見守り育てているい草は、品質、出来栄え共に「本物」で熊本でも有名で若い人たちの指導もなさっているそうです。そのい草を聴福庵に入れましたがその輝きや美しさ、また触り心地などすべてにおいて素晴らしく、い草本来の徳が引き出されているように感じます。

この草野様のい草づくりはとても手間暇と丹精を籠めてあり、通常ではここまでやるかというくらい徹底して丁寧に育てられているそうです。それを見た周りの人たちは「あそこまでこだわれない」とか「草野さんのこだわりはすごい」などと評するそうです。

しかし本人は「こだわり」だと言われるのは好まず、これは「当たり前」のことだといいます。このこだわりと当たり前の間には、異常と正常の違いがあるのです。

今では心を籠めないで頭でっかちに計算をして取り組むことの方を当たり前だとなってます。しかし古来のように丹精を籠めて丁寧に心を使い手間暇をかけることはこだわりだと言われます。私も様々なことを徹底して実践するタイプですから周囲からはこだわりが強い人だと言われます。しかし私自身は同じくこだわっているのではなく、真心を用いるのは当たり前のことなのです。

メンターと共有した今年のテーマは「常」です。つまりは「平常心で心を乱さない、心のままでいること」です。

常は平ともいい、その常とは平常心のことです。これは心のままでいる、本質が観えてきているから、表面的なものにあたふたしないで心のままであり続けます。心の世界で取り組むのならば常に本質を維持できますが、心から離れればすぐに本質がブレてしまいます。

本当のことや本物にこだわるのは、それがかつては当たり前であったからです。そしてそれが今、最も危うい状況になっているからです。作物を育てるのも人を育てるのも心を用います。心があるからこそ理に適います。つまり「心即理」なのです。

だからこそ今年はその当たり前をさらに深めて、こだわりとか当たり前とか区別されないくらいの自然な姿に私自身近づいていきたいと思います。子どもたちが何が当たり前であるかに気付けるように平常心を大切に取り組む一年にしていきます。

今年もよろしくお願いします。

一期一会~今~

四書五経の一つ「大学」の中で「苟日新、日日新、又日新」という言葉が出てきます。これは古代中国に殷という国の初代湯王が (まことに日に新たに、日日に新たに、又日に新たなり)と毎日使う手水の盥(たらい)に銘辞を刻んで日日の自戒としたとされているものです。

これは自分の日々の垢を洗い清めるように、過去に発生したすべてのことを取り払い新しい自分でいようと磨き続ける、言い換えれば「今を生き切る」と弛まずに精進し続けたという証です。自分が過去に捉われないよう、自分が今に生き続けるようにと自戒したという生き方にとても共感します。

これを座右にした昭和の大経営者の土光敏夫さんがこのようなことを語っています。

「神は万人に公平に一日24時間を与え給もうた。われわれは、明日の時間を今使うことはできないし、昨日の時間を今とりもどすすべもない。ただ今日の時間を有効に使うことができるだけである。毎日の24時間をどう使っていくか。私は一日の決算は一日にやることを心がけている。うまくゆくこともあるが、しくじることもある。しくじれば、その日のうちに始末する。反省するということだ。今日が眼目だから、昨日の尾を引いたり、明日へ持ち越したりしない。昨日を悔やむこともしないし、明日を思いわずらうこともしない。このことを積極的に言い表したのが「日新」だ。
昨日も明日もない、新たに今日という清浄無垢の日を迎える。今日という一日に全力を傾ける。今日一日を有意義に過ごす。」

今この瞬間に生き切るということは、自分のいのちを一期一会に使い切っているということです。私の座右も一期一会ですから、この生き方に共感するのです。時は過ぎ去っていくだけで過去の成功に縛られても仕方がないし、未来のことばかり憂いていても仕方がない。大切なのは、今どうにかできる今だけですから今に真摯に真心を盡していくことこそが人生を豊かに感謝で生き続けることになると思います。新しい自分とは、今の自分のことで古い自分も今の中に生きています。だからこそ古今は未来そのものです。

この殷の湯王の自戒には、もう一つ私が心から尊敬するものがあります。反省とはこういうもので、内省とはこういうものだという至高のお手本を示したものです。論語を学び、大学を学ぶものとしてこの殷の湯王は何よりもそのモデルになります。

最後にこの殷の湯王の自戒で締めくくります。

「希望あれば若く
燃ゆる情熱
美しいものへの喜悦
逞しい意志と情熱と
安易な惰性を振り捨てて
人は信念とともに若く
情熱を失うときに老ゆ
希望ある限り若く
理想を失い失望と共に老ゆ
心して暮らせ」

一期一会というのは、この信念と情熱と理想、意志と希望と喜悦によって真心を盡して暮らすことです。子どもたちのためにも、自分がその実践を体現して生き切っていきたいと思います。

できないことを頑張る努力~競争刷り込み~

人は、完璧な自分に向かって努力していくことと完全な自分に向かって努力していくことでは努力の定義が異なります。例えば、育てるときに使う努力と、育つときに使う努力とが異なることとも同じです。無理に育てるために努力するのなら詰め込みやらせた方がいいのですが育つための努力するのなら見守る方がいいのです。

私たちの会社は一家という家族という関わり合いで働いていきます。チームも同じですが、一人で生きていくわけではないのだからお互いに持ち味を活かしあって働きます。一人だけで生きていくのならなんでも自分でオールマイティにできなければならないことも、仲間やチーム、組織があるのだからできないことは周りに頼り自分にしかできないことでみんなに貢献していくのです。

しかしかつての比較競争の社会教育を施された人たちは、できないことがあってはならないと無理になんでも頑張ろうとします。自分にしかできないことをやろうとするのではなく、常に自分ができるまで努力しようとするのです。こういう刷り込みを持つと「できないことを頑張ることが努力」だと思い込んでしまいます。そしてできないことを頑張らないことは楽をしたことだとし真面目な人は悪いことをしていると罪の意識すら持ってしまうのです。

実際に教室では先生と生徒はどこでも縦の関係が強く上下のピラミッドの関わりです。そして生徒と生徒は仲間というよりも比較競争されたライバルだったりします。そうなってしまうと一人でできるようになることを目指していくようになります。全員が同じ課題を持ち、全員が同じことができるようになる組織の中では自分だけができないことは悪いことになるのでしょう。

しかし時代は変わり、今ではアクティブラーニングのようにチームや仲間と一緒に学びあうということになってくるとできないことを頑張られると周りの人たちは協力できなくなるので困るのです。もしも仲間やチームがあっての中の自分ということになれば、「自分にしかできないことをやり、できる人に頼んで手伝うことが努力」と定義が変わっていきます。それぞれの得意分野を活かしつつ、自分にしかできないことをやるのは、その根底には助け合い支え合って思いやり一緒に生きていこうとする協働社會が存在します。

協働社會の時の努力と、競争社会の時の努力は価値観が丸ごと全く異なっていますからそれが誤解してしまいといつまでも協働して一緒に働くことができないことになります、無理をしてできないことをできるまで頑張ったり、できることばかりをやり続けたりすることは最終的な孤立を生みます。そうやって助け合わずに働けば結局はいつも一人ぼっちになり、仕事が増えすぎてパンクして投げ出すことが関の山です。

だからこそそんな働き方、つまり競争の働き方をやめて協働の働き方に換えていくべきです。時代は今は、協働を求めていますしすでに今世紀は協働世紀です。それは人類がかつてから智慧として大切にこのいのちを繋いできた至高至大の唯一の徳恵だからです。

働き方改革というのは、私にしてみれば競争から協働へということです。

子どもたちに遺し、譲っていきたい未来の社會のためにも自分自身が何よりも自分にしかできないことで全体に貢献したいと思います。そして無理をして自他を責めず仲間を信頼し自分にはできないことを助けてもらい、頼り頼られる絆やつながりが広がっていくような協働の実践を積み重ねていきたいと思います。

本物の美しさ ~燦然美~

先日、伝統のある京町家で本物の美しい和室を体験する機会がありました。お昼過ぎ、申の刻の陰翳礼讃を肌で感じ、凛としたその空間の厳しさと包み込むような和かな暗闇に心寛ぎました。雪見障子から眺める奥庭は、四季折々の色々に彩られ季節が室内へ透過され自然と一体になって静寂に入っていきました。

その和室のおもてなしをする主人の真心が感じられ、今までその家がどのような家だったか、どのような暮らしを営んできたのかがわかります。自分の内面の深いところを観てもらうようで、その主人の間にはその家代々の大切にしてきた生き方が刻々とその空間に深く沈んでいます。

一言でいえばその媚びていない空間は、あまりにも自然体でありあるがままの心を開いて受け入れてくれている美しさがありました。この美しさとは一体何か、自然とは何かということです。

媚びるというのは、どこかよく見せようとか、よく見られないとか誰かを気にしている状態です。その状態は自然ではなく、媚びているといってもいいと思います。媚びているものはどこか、凛としたものとはかけ離れ、心を閉ざしている雰囲気があります。

しかし媚びない姿はこの反対で、自分らしくいて自信にあふれ、自然体であり心は常に万物の世界に開かれていてどんなことも一円融合に受け容れる寛さがあります。一言でいえば媚びないというのは、生き方を貫いてきた姿ということです。

どんなに時代が変わっても、どんなに環境が変化しても、どのような生き方をするかは自分自身で決めることができます。流されて自分を持たず、大衆に迎合して自分を失ってしまうことは周りを見ていればすぐにわかります。しかしそんな中でも、最近世界遺産に指定された富岡製糸場のように「売らない、貸さない、壊さない」と信念を貫き媚びない姿を遺したことで今でもその価値は燦然と輝いています。

大事なものを守り続けるというのは、主人の信念が決めるものです。どんなに好条件でうまい話があったとしても、決して本質を見失うまいと覚悟を決めた姿にはその人物の美学があります。

この美学を貫くとき、媚びない姿が顕れ同時に本物の姿、自然体も顕れるのです。

自然が美しいのはなぜか、それはそのままあるがままであるからです。人間はもっと自然に習い、あるがままの美しさ、自然体の素晴らしさを学び直す必要を感じています。自分らしいことを諦め、ただ周りもそうだからと大衆に流されて大切なものをゴミくずのように捨ててしまっているうちになくしてしまうものは何よりも大切な自分自身の御魂かもしれません。

どんな時代であっても、大義を貫きその大義に生きようとする生き方には本物の美しさがあります。私が尊敬しているその家は、有り難いことにその凛とした佇まいのままに京都に遺っています。そんな家のご主人と時代を超えてお会いできる一期一会は、私の人生にとってはかけがえのない勿体ない邂逅です。

また引き続き、日本人としての生き方の御指南をいただくためにもその空間に今後ともご挨拶に伺いたいと思います。

ありがとうございました。

一円組織

組織というものはいろいろな形があります。以前はピラミッド型組織が流行し、官僚のように上下の階級がはっきりしたものを使われていました。そこからフラット型組織というものが流行し、トップ一人にあとは全部横並びというものに変わっていきました。その両方は、どちらにしても上か下かという概念に縛られます。

私は一円対話というものを実践しつつ、一円組織というものを考えています。これは新しい経営の在り方のモデルに挑戦することであり、持ち味を活かし全体が一つの生命体のように機能する組織のことです。

しかしそれを実現するには、今の社会の常識に縛られないこととそこで一緒に働く人たちが過去の刷り込みに負けない変化が必要になります。

一円組織というものは、上下がありません。そこにあるのは、それぞれの持ち味を活かしあい豊かに一緒に働く仲間があるということです。実際の組織では上下がありますから、指示命令の上下運動で物事は進みます。しかし一円組織においては上下がありませんから、いつもオープンに積極的で自発的なコミュニケーションを自ら取り合って「助け合う」必要があります。

かつて日本では、大事な決定を考えるのに火を囲み車座になって語り合いながら合議していました。そこでは階級などが存在せず、一座としてみんなで自分たちの今について心を開き語り合いました。それは囲炉裏の文化として引き継がれ、皆で丸くなって助け合い働くということでお互いの意思疎通だけではなく相互理解、また談笑のうちに本心をさらけ出し周囲との信頼関係を築いて物事に取り組みました。

そこには結果責任がどうだと、分担だどうなのではなく、豊かに一緒に働ける歓びや仕合せや感謝、もしくは愛を分かち合う場がありました。まるで家の中で一緒に手を取り合って生きていく温かい家族の絆が観えます。今では一部の人たちにだけに責任を負わしたり負わされたり、または誰かを責めたり貶めたり、背負ったり投げ出したりと、競争や比較、評価ばかりの中でみんなが一円になることがなくなってきています。

本来の人間はどういうときにもっとも力を発揮するか、そして社會はどういうときに思いやりの循環が生まれるか、それはお互いが尊重され一人ひとりが活かされるときです。そしてその一人ひとりが活かされるのは全員参画型の組織に変わる時です。その先に組織があり、その先に社会があり、その先に町があり、都市があり、国家があり人類の未来があるのです。

まだまだそこには私たちも辿り着けていませんが、このプロセス自体の中に実践からのヒントや、型を産み出していく中で世間の刷り込みを取り払うための方法などが発明できています。

引き続き、一人ひとりが全員主人公で豊かで仕合せな幸福型組織、一円組織を目指して挑戦し続けていきたいと思います。