お気楽極楽

昨日、「お気楽極楽」について書きましたが少しこの意味を深めてみようと思います。

このお気楽極楽とは、天国というものではありません。よく極楽が天国だと言われますが、天国には地獄もあります。天国とは、自分の願望がなんでもかなっていくのを天国だと思われています。逆に地獄は、自分の思いどおりにならない状態、苦しく辛い状況のときに地獄だと使われます。

それに対してお気楽極楽というのは、心の状況のことを言います。よく西洋の考え方の基準に「正・反・合」という見方があります。正しいではなく反対でもなく、合わさった場所が中庸だという意味です。私はこれに対して「正・反・福」というように正しいでもなく反対でもなく福であることが本来の中庸だと思っています。禍転じて福にする、人間万事塞翁が馬とも言いますが、お気楽極楽とはそういう何があっても「福」だと考える見方のことを言います。

人は自分の願望がかなったことを天国にし、思いどおりではないことを地獄にしてしまうと常に心は天国と地獄の狭間を行き来し、天国の時は幸せだといい、地獄の時は不幸だと言います。そういう心境はとてもお気楽でも極楽でもありません。

新潟の方言で「じょんのび」というのを聴いたことがあります。これはのんびりとゆったりとするという意味だそうです。漢字で書くと「寿命延」と書きます。心が穏やかで安らか、豊に伸びやかに落ち着いていると寿命も延びていくという意味でしょう。

心配事や不安なことは、自分の中にある天国と地獄という物の見方の方に問題があるように思います。TODOリストを出しては、それが叶ったら幸せで叶わないと不幸という捉え方をするのではなく、足るを知り、頂いている方をよく観ると本当に膨大な恩恵を与えてくださったことに感謝の心に包まれるものです。

物が増えて使い捨ての文化が蔓延することで、「ないものねだり」の刷り込みはますます分厚くなっていきます。今の時代の不幸の元凶は、感謝できなくなってくることのように思います。

人は思った通りにいかなくても、思った以上のことをいただいているものです。ないものをみては焦り、周りに矢印を向けるのではなく、いただいている御恩の大きさをみては自分に矢印を向けて内省することで心は落ち着いてくるものです。

お気楽極楽の境地というものは、安心している心境であるということです。きっと福になる、きっと善いことになると運を信じて今此処に集中することは福を呼び込みます。

福を呼び込むというのは、信じるということであり、私たちはそれを聴くという実践によってその福を広げていきます。日本の祖親には、「アメノウズメ」という先祖がいました。踊りの神様であり、和来の神様です。世の中が暗闇に沈むとき、踊り詠うことで福を呼び込みました。争い世の中が乱れるときもまた、踊り詠うことで福を呼び込みました。

私たちカグヤの理念の原点には、このアメノウズメの実践があります。

引き続き、お気楽極楽を広げて今の刷り込みの社會に真の豊かさと智慧を広げて子どもたちの未来が笑いに満ちるように生き方を精進していきたいと思います。

彼方の海道 完

久高島は、原始母系の社會が残存している島だと言われます。アマミキヨという女神を中心にノロと呼ばれる神女(巫女)たちが島でいのりを捧げる場所です。島では「男は海人、女は神人」という諺もあり、女性のほとんどが神職者として様々な祭祀を取り扱っています。女性は家族の守護者として、一生涯、夫、子をはじめ一家を見守り続けていく存在としています。

この島は、女性たちが完全に自給できる島であったと言います。島の東側にはたくさんのサンゴがあり、潮の満ち引きででてくる貝を採ったり、森には貴重な野草や、食べ物がありました。その他、近海の魚も採れ、暮らしを立てていたそうです。男の役割は、漁にでて留守にしていますからほとんどが女性たちで家を形成していたとも言えます。

フボー御嶽というところは、原始の魂が宿る場所と呼ばれ男子禁制になっています。アマミキヨといった祖神の魂が、その住居跡に遺っていると信じられています。ニライカナイをはじめ、「原始の魂」とは心の故郷でもあります。戻ってきたいと思える場所、帰ってきたいと思える場所、それが故郷「根のクニ」であろうと私は思います。そしてその根のクニには「見守られてきた思い出」がある場所だとも言えます。人は見守れるからこそ故郷(根のクニ)があり、見守られたところが故郷(根のクニ)です。そういう魂の故郷(魂の根)を持っているということは、生き死にを超えたところに存在するように思います。

民俗学の柳田国男さんが、同じ民俗学の折口信夫追悼会にて「根の国とニルヤのこと」としての言葉にはこうあります。

「つまり日本人が昔持っておったニルヤ、ネノクニという国は、モトの国、モトツクニであって、遠くの方、海の水平線の向こうのウナサカにあり、相応に楽しい所であり、人も時々は戻ってくることのできるところであったということであります」

海の彼方には根のクニがあったと言います。魂の故郷、自分たちが見守られた場所があったと言います。そこは魂の楽園であり、何かがあれば戻れる故郷があったといううことです。人々が疲れ斃れそうなとき、懐かしい場所があるということは何よりも魂を救います。かつてヤマトタケルの望郷の詩「大和はクニのまほろば・・」を思い出しました。私たちの望郷というのは、故郷への思いです。その故郷がいつまでもあることで私たちは外に出ていくことが出来ます。そして外に出たら帰る場所があるから安心できるのです。さらに柳田国男さんはこういいます。

『亡き人と会える場所と伝えられる』三井楽(みいらく)という地名の考証には、私は最初南島のニルヤ・カナヤが、神代巻のいわゆる根の国と、根本一つの言葉であり信仰であることを説くとともに、それが海上の故郷であるがゆえに、単に現世において健闘した人々のために、安らかな休息の地を約束するばかりでなく、なおくさぐさの厚意と声援とを送り届けようとする精霊が止往する拠点でもあると、昔の人たちは信じていたらしいこと、その恩恵の永続を確かめんがために、毎年心を籠め身を浄くして、稲という作物の栽培をくり返し、その成果をもって人生の幸福の目盛りとする、古来の習わしがあったかということを考えてみようとした。」と。

まさに久高島が「神の島」と言われる由縁です。一家を見守り、いのり支えられる場所、そして魂が戻る処こそ、私たちが永遠を確認する場所であったということでしょう。そこには神の仕業という仕組みがあり、具体的には稲作という稲を共に育てることをもっていつまでもその魂の故郷の生き方や暮らし方を見失わないようにという初心伝承があったのかもしれません。稲がどのように伝播してきたか、そして海上の道を先祖たちがどう歩んできたかの終始点は確かに琉球にあったのかもしれません。

そして同じ民俗学の折口信夫はこう言います。

「万葉人の時代には以前共に携へて移動して来た同民族の落ちこぼれとして、途中の島々に定住した南島の人々を、既に異郷人と考へ出して居た。其南島定住者の後なる沖縄諸島の人々の間の、現在亡びかけて居る民間伝承によつて、我万葉人或は其以前の生活を窺ふ事の出来るのは、実際もつけの幸とも言ふべき、日本の学者にのみ与へられた恩賚である。沖縄人は、百中の九十九までは支那人の末ではない。我々の祖先と手を分つ様になつた頃の姿を、今に多く伝へて居る。万葉人が現に生きて、琉球諸島の上に、万葉生活を、大正の今日、我々の前に再現してくれて居る訣なのだ。」

生き方を見つめるのならかつてどこから私たちが生き方暮らし方を訣別し分けてしまったのかを思い出す必要があります。分かれてしまって出来上がった社会が今の現実だとし、もしもこの今の社会が間違ったのではないかと心が気づいたのならまたそこでご破算にして初心からやり直せばいいのです。その初心を求めるとき、まだ全国各地の美しい故郷にはそれが遺っているはずです。そこに暮らす悠久の長い歴史を助け合い和の心で生き抜いてきた先祖たちを尊敬し、今の私たちの生き方をどう温故知新していくかは今を生きる私たちの本当の使命ではないかと私は思います。

そして私たちの先祖、「万葉人」は『言霊』を扱う民でした。その本来の万葉人の直流こそが琉球人だともいいます。私たちの先祖たちがどのように暮らしてきたかを求め探し出し、伝承する場所をどのようにして遺していくか、課題はまだまだ山積みです。

最後に魂を磨く時代、魂を救う時代、沖縄では魂のことを「マブイ」といいます。先日、沖縄で参加した朝礼である経営者の方から「魂を磨いている人たちをみると眩しい」と言われたことを思い出しました。

マブイを磨くのは、俗語ですがマブダチ(仲間)に出会い、マブシイ(本物の美しい姿)を顕現していくことかもしれません。引き続き、子ども達の三つ子の魂を見守るためにも、魂磨きを深めつつ実践していきたいと思います。

彼方の海道も今回で御仕舞ですが、引き続き島根へとつながりを愉しみたいと思います。子どもの故郷を遺して譲っていくために、いただいたいる御縁を大切に歩みを進めていきたいと思います。

魂磨き~人類の夢~

昨年に貝磨きの体験をしてから、貝をとても身近に感じるようになりました。貝というのは、古代人の夢であったように今では感じています。古代の人たちが貝を首飾りにし、土器の模様にしたのは、きっと貝が人間社會そのものを顕していたのではないかと私には思えます。

人生はまるで貝磨きのようなもので、人間は一つの社會を集団になって形成し、その社会の中で自らの本性をお互いに磨き合いつつ豊かで平和幸福に暮らしていきます。まるで一人一人がそれぞれにいのちの塊、その魂の原石であり、その魂を出会いによって互いに輝かせては大切な思い出という物語を宇宙の記憶の中に保存していくかのようです。

一人ひとりが自らで魂を磨いてきたからこそ、私たちは発展と繁栄を繰り返してきたように思います。その中で私たちは何度も何度も繰り返し繰り返し、まるで海の押しては引く波と同じように魂を磨き続けてきました。

貝の中に観る神性とは、「めぐりとひかり、いのち」の3つではないかと感じます。

磨き方は人ぞれぞれですが、みんなで一緒に磨こうとしたことは時を超越して今でも変わらず受け継がれています。

機会をいただけること、ご縁をいただけることが何よりも有難く、人生で一緒に出会えることに感謝の心に包まれました。

最期に、「人類の夢」という詩を紹介します。

「人は誰しもが何かしらの魂の原石です。
  だからこそ磨けばだれでもその人らしく光っていく。
 一人で磨くのではなくみんなで磨いていけば
必ずの世の中は澄んできて美しい世界になる。
 だからこそ一緒に磨こう、魂を磨いていくことは、
    子どもから私たちが学び直していくこと。
 子どもを人類の先生にして、私たちが学んでいくことこそ魂磨き。
     一緒に磨く仕合せ
を感じていこう。」(藍杜静海)

何が人類の初心であるか、それを出会い御縁をいただけた方々の道しるべになれるよう精進していきたいと思います。

 

私たちの実践~守りたいもの~

今の時代は経済優先の競争社会が当たり前の環境の中に蔓延っています。豊かさの定義は経済力でありその経済力というパワーを持っている人ほど豊かであると周りも羨ましがるものです。

実際に世界では経済力を持たなくても仕合せに暮らす人々もいます。それはかつての先住民族や農耕民族、今の西洋文明が入り込んでいないところで何千年も前から同じ暮らしをする民族たちです。

以前、ブータン王国のことを調べたことがありますがその発展の度合いを測るのにGDP(Gross Domestic Product/国内総生産)ではなく、GNH(Gross National Happiness/国民総幸福量)を使っているとありました。

つまりは幸福の定義をお金ではなく、仕合せかで量ろうというものです。簡単に言えば、どれだけ今の自分が豊かであるか貧しいかを量るブータン独自のモノサシを持とうというものです。

グローバリゼーションが広がると、そこには今までの豊かさを経済の持つ豊かさに変えてしまいます。今までの「ゆったり生きること、手間暇をかけること、一緒にやること、楽しく面白く過ごすこと」を優先してきた先祖たちの生き方を、「早く効率よく済ませること、便利であること、一人でもできること、勤勉にやること」を優先する生き方に変えてしまい、その分だけお金(豊か)が得られるという謳い文句で人々の生き方を操作していくのです。

人間の慾を優先するか、それとも自然の道理に沿う命を優先するか、それを決めるのは自分自身なのです。

敢えて今の時代に刷り込みを取り除こうとするのであれば、心を強くしていくしかありません。心が本来の目指す生き方を選ぶなら環境に左右されない真の強さを育てあげていけるからです。本来の生き方を守りながら文明と上手に付き合っていける国際世界人に近づいていくからです。

今まで人間は何度も文明の崩壊を繰り返してきました。それは歴史を観れば一目瞭然です。あれだけ繁栄発展した古代文明も等しく滅んでいます。しかしその中でも滅ばずに生き残っている先住民族たちがいるのを忘れてはなりません。その先住民族たちがなぜ今も生き残り今でもこの世に存在するか、そこに共通するものが悠久を生きる鍵なのです。

私にはそれは自然に沿って暮らし、人との結びつき大切にし絆を守った人たちに観えます。

果たしてこのままどこまで人間の慾が金融を操り臨界期まで突入するか、原発の事故のようななれの果てまでいくのはそう時間がかからないようにも思えます。だからこそ、その警告を真摯に受け止め、世界に生き方と働き方を示していきたいと思うのです。

文化と文明は、自然と人間のかかわりのように一体になって時代に息づいています。子ども第一主義の理念に従い、地道にコツコツと根強く耐えて実践を続けながら天機を待ちたいと思います。

立志という生き方

人にはそれぞれに生き方というものがあります、同時に働き方というものもあります。私たちは生き方と働き方を一致するということを目指していますが、これは志を育てるためです。

そもそも志というものは、最初から誰でも持っているわけではりません。生き方を定め、言行一致させていく中ではじめて志は育っていきます。そしてその志は、様々な現実の中の紆余曲折、艱難辛苦の中で、それでも自分は生き方を貫けたかどうか、言い換えれば道を切り開き脚下の実践を遣り切ることができたのかという内省により醸成されていくものです。

志を持つのも育てるのもその人次第です。

途中でそれを已めてしまえば、世の中の安逸の中であっという間に自分の生を終えてしまいます。人の人生はとても短く、志を育てていかなければ気がつけば何をやっていたのかと悔いてしまうことにもなりかねません。自分の生き方と向き合うのは自分にしかできませんから、それに生き方には嘘がありませんし他人のせいにもできませんから志とはもっとも身近で自分のことを信頼する伴侶そのものになっていきます。

吉田松陰は、塾生との手紙のやり取りの中でその志が育つような数々の叱咤激励を送っています。

たとえば、塾生の山田顕義へは「立志は特異を尚ぶ、俗流と与に議し難し。 身後の業を思はず、且だ目前の安きを偸む。 百年は一瞬のみ、君子は素餐する勿れ。 」と記します。

これは私の意訳ですから意味が違ってくるかもしれませんが敢えて訳すと、「志を立てるのならば他人と異なることを恐れてはいけない、世俗のことや常識の中でそれを実践するのはとても難しいことだ。しかし世間の常識に囚われれば自分の身の保身ばかりを思い煩い、目先の安楽安逸に流されるばかりになるのです。百年という月日は一瞬に過ぎないのですから、君子は決して現状に甘んじるんではなく志に生きるのですよ。」と。

これは山田顕義が15歳の元服(成人式)の時に、吉田松陰が扇に書いて送ったものですが何を優先してあなたは生きるべきかとその初心を塾生に自らの生き様で与えています。

そしてさらに感動的で印象に残る叱咤激励に塾生の高杉晋作に送った手紙があります。
そこにはこうあります。

「貴問に曰く、丈夫死すべき所如何。僕去冬巳来、死の一字大いに発明あり、李氏焚書(明の学者李卓吾の書)の功多し。其の説甚だ永く候へども約して云はば、死は好むべきに非ず、亦悪むべきに非ず、道盡き心安んずる、便ち是死所。世に身生きて心死する者あり、身亡びて魂存する者あり。心死すれば生きるも益なし、魂存すれば亡ぶるも損なきなり。又一種大才略ある人辱を忍びてことをなす、妙。又一種私欲なく私心なきもの生を偸むも妨げず。」

これはそのままに味わってほしいものです。吉田松陰と高杉晋作が如何に志で絆を結び、共に不二の道を切り開いていたのかが分かり感動します。死を前にしての、生を語り、その生き方を示しています。

そして志を立てることを最期に述べます。

「死して不朽の見込あらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込あらばいつでも生くべし。僕が所見にては生死は度外に措きて唯だ言うべきを言ふのみ」

これは私の人生観からの意訳ですが、「もし死んだとしても志がそれで立てられるのならいつでも死んでもいい。しかし生きて志が立てられるのなら生きることだ。常に志を求め言うのなら、常に自らの生死のことなどは度外視して志は語るものだ。」

「立志」という生き方。

これを実現したのが松下村塾なのでしょう。

孟子はこう言い遺します。

「自ら反りみて縮くんば、千万人といへども、吾往かん」

そして孔子はこう言い遺します。

「三軍も帥を奪うべきなり匹夫も志を奪うべからざるなり」

引き続き、君子の道とは何かを自問自答しつつ覚悟を育てていきたいと思います。

 

好奇心~決心式~

人間には何よりも大切な宝として好奇心というものがあります。

この好奇心というものがある限り、私たちは自然から離れることはありません。

子どもの心は純粋で無垢です。

この純粋と無垢とは何かといえば、好奇心を持っているということです。

好奇心というのは、自然に触れたいと思う心。自然と一体になりたいという心。自然を愛でたいという心です。つまりは五感を超越した第六感ともいえるもので、いのちの正体です。

いのちというものは、感じることで活き活きしていきます。

もしも無感動無関心になるとしたら、好奇心を苛まれる枠組みや常識によって本来のいのちが閉じ込められることで発生しているといっても過言ではないと思います。人は好奇心を失わない限り永遠に光り輝き続け、そしていのちの灯を炎々と燃やし続けることができるからです。

今の社會は好奇心というものをあまり大切にしていないように思います。

その好奇心を守るのは自分自身です。

如何に面白く楽しい日々を送っていくか、それは自分の生き方によります。そしてその生き方の根幹に「感じる」という力をどれだけ養うか、目には視えないものをどれだけ実感しているか、すべてのものにいのちがあるという感覚をどれだけ研ぎ澄ませているかで変わって来るようにも私は思うのです。

三つ子の魂とは何かといえば、私は好奇心のことであると定義します。

大宇宙の中で、地球の一部として活かされているこのいのちが、そのいのちの顕現である子どもたちが、いつまでも子どもたちらしくそのままでいられるような社會にしていきたいと思います。

引き続き、社業にいのちを懸けて実践していこうと思います。

夢とは何か

人は夢を持っています。

自分がこうなりたいとかこうしたいとか、夢は膨らんでいくものです。実際の人生では、自分の思っていることよりも思っていた以上のことが起きて夢を諦めないで善かったと思うことが本来の夢そのものであるのかもしれません。

叶ってしまうような夢ならば夢ではないというのは、夢とは追い求めていくときこそが夢であり夢を持つというのは全ての今は夢の途上であると向かうことに意味を見出しているときだからです。

先日、夢についてイエローハットの鍵山氏と伊那食品工業の塚越氏の対談の著書「幸福への原点回帰」(文屋)にてとても共感し感銘を受けた文章があります。夢を追い求める人達へのエールになると実感しました。ここにはこう書かれています。

「どんな人でも、成長の過程で、何らかの夢をもつと思います。しかし、多くの場合、この夢が途中でなくなってしまうようです。これは、夢が逃げ出していったわけではありません。自分が夢から逃げ出したということです。これはとても残念なことです。夢に向かって重ねていく努力というのは、なかなか「これだ」と成果を確認することができません。簡単に成果を手にすることができるなら、おそらく多くの人が努力をし続けると思いますが、どれだけ努力を重ねても、近づいている実感がもてないものです。やがて、その努力を続けることがむなしくなり、はかないと思うようになります。そこでいやになり、もうやめてしまおうかと考えはじめてしまったら、それは自分が夢から逃げているということです。」

夢というものは、逃げないことで夢に向かうという意味なのでしょう。そしてこう続きます。

「私が会社で掃除を始めてからも、長年の間には、むなしい気持ち、はかない気持ちに襲われたことが数えきれないほどありました。一貫して希望に燃えていたわけではなかったのです。ほんとうにいやになり、やめてしまおうかと思ったこともあります。しかし、やめませんでした。「もうやめようか」という考えが湧くたびに、私は同じ結論にたどり着きました。それは、「昨日までの努力は、捨てるには惜しい努力であった」ということです。よしんば、昨日までの自分の努力が、いつ捨てても惜しくないものであれば、あっさりと投げ出したかもしれません。しかし、ここでやめてしまったら、昨日までの努力が無駄になると思ったとき、ふたたび心が奮い立ち、努力を続けることができました。」

そして鍵山氏は、若い人に「捨てるには惜しい努力、自分自身で納得できる努力をしていっていただきたいと思います」とエールを送っています。

この著書は素晴らしい名著で、今の時代の真摯に生き切ろうとする経営者の人達のバイブルになるものであろうと思います。

夢を持つというのは、向かい続けるということ、向き合い続けるということです。それでも逃げずに向き合っているならば、必ず夢は向こうから顕われてくるものだと私は思います。

信じるということは、今の自分が夢に向かっていると納得できるほどの努力をしていることだと思います。それまでやってきたことが、捨てるには惜しい努力であるか、そこに今を生きるという夢の本質があるからです。

何も手に入らなくても、この瞬間、生きている実感、感謝しかないと覚える今が夢そのものの真の価値なのかもしれません。そして人生の夢とは素晴らしい記憶に包まれている今に酔いしれて、味わい噛み締めているようなものです。この瞬間が儚いからこそ、永遠に感じるからこそ、いつまでも諦めないで続けていこうと思います。

未熟でガキで我儘なこんな自分を、耐え忍びて志に転じることで芯の強さに換えながら自らを磨き抜き、その本懐を遣り切りたいと誓います。

選択の集積

人にはそれぞれに運命というものがあるように思います。

それはその人がどのような道を辿るのか、その道がある程度決められているように思えるからです。どこで生まれてどこで育つのか、誰を両親としているか、その他、どんな性質を持っているかなどをよくよく洞察していたらやはり何らかの運命があるように思えます。

しかしその運命に対して、流されてしまえば運命に負けてしまうようになり自分の思い通り生きたとは思えないように思うのです。運命に負けないというのは、どんな運命を背負っているにせよその選択は自らが行ったということができるのなら人生を自分で切り開いている実感を持つことができるように思います。

人生を自分で切り開く実感というものは、運命に流されないで常に自らが決断して選択した連続であったという感覚と同じように思います。

たとえ今の自分が今のような状況や環境にあったにせよ、その選択は運命だったではなく自分で決めたことだと思えるかどうかにかかっているのです。

運命だからと何もしないでいたら、運命に流されてしまい人生はどこか消化不良で納得いかないものになってしまいます。どんなときも自分が決めたことだからと遣り切れば、その都度納得いくものになり人生の舵を切ったのは自分だという充実感もあるように思います。

どんな時代もそうですが、自らの境遇に嘆くのはどこか何かの刷り込みにあい流されてしまうからのように思います。その刷り込みを自らで取り除き、その刷り込みに負けないように実践を積み上げていくことで新しい可能性を切り開いていくことが人生の歓びでもあろうと思います。

常自問自答し、に自らの選択を優先していきたいと思います。

子どもになる~自然観~

子どもと共に遊んでいると子どもになっていきます。

子どもはどんなことにも興味を持ち、私たち大人が当たり前と思っていることにも大きな驚きと感動を示します。そして地球の中で自分たちが夢見る現在に生きています。子どもたちがあんなに楽しそうにしているのは、そこに自分の生きる現在を持つからです。

大人になれば、先々のことを心配したり、過去を悔いたり、心配事はいつもこの現在の中にはありません。そうしているうちに、この現在の中にある一瞬の驚きや感動に生きることを忘れてしまうのです。

昨日、死生観についてのブログを書きましたが生きるというものはそもそも現在そのものでいることであり、死もまた現在そのものでいることであろうと私は定義するのです。

一生懸命に現在を生きるというのは、子どもになるということでしょう。

私の子どもは、この現在の中に棲んでいます。

私は子ども第一主義というものの本質には、この子ども心を失わないでいるということであると思っているのです。子どもの中にある、すべての感動や感性を失わないままで私たち大人たちが現在に生きればこの世は一体どうなっていくのかを死ぬまで見届けたいのです。

子どもに学んでいくことは、忘れてしまうような当たり前のことに気づき直していくことです。

生涯かけて、子どもになることを学び続けていこうと想います。
これが私の自然観であり、子どもの姿です。

素直とは正しく向き合うこと

覚悟というものを認識するのに逃げないというのがある。

逃げないというのは何を持って逃げないと定義するかと言えば、来たものに私心を入れずに真っ直ぐに向き合うことをいうように思います。

これを正対するといいますが、それではその反対は非正対というのではなく斜に構えるとか逃げるという言い方をするように思います。

本来、人は素直かどうかなど自分のことは実はよくわかっていないものです。それは、自分が自分を分かっているようで自分のことが一番よく分かっておらず、無意識に自分を正当化しては自分と向き合わないように都合よく調整していることが多いからです。それは私心や欲がメガネを曇らせているからのように思います、自分を直視するということは私欲にとって都合が悪いことが多いので避けて通っていたいからです。

例えば、全ての問題や事物はすべて自分の内面の問題から発生するのに対してそれを何かのせいにしたり言い訳をするときなどもこれは自分が向き合いたくないからそうしているのです。特に影響力のある人は、自分を知るということから逃げていては人はそれを一緒に学ぼうとしなくなっていきます。だからこそ、人はみんな自分という生き方としてどのような心構えをもって心掛けを大切に行うかで、他人から尊敬されたり認められたりして互いの信頼を紡いでいくように思います。

そう考えてみると、この心の構え方というものが生き方のことをいうのかもしれません。

心構えとは覚悟のことで、自分が決めたことから逃げないということに他なりません。何を決めたか、何を信じていくていくか、人はそれをもって自分らしいというのかもしれません。だからこそ人はその都度、覚悟を自問し、それを周囲に確認し、自らが正しくいようと向き合うことで自分らしい生き方を貫いていけるように思います。

それを自分の都合で決めたことを誤魔化し、事があれば逃げて、そして自分を正当化していけば素直に反省することなどはできずそれによってまた同じ過ちを何度も繰り返してしまうように思います。

間違いは間違いとして、信頼できる人に正してもらおうとする姿勢そのものが素直な姿でありそういうものが逃げない覚悟ではないかと思います。そしてこれは紙面や机上で学ぶものではなく、実体験を通じてその時、自らの道に照らしてどのように判断したかということが自分を生きたということになるのでしょう。

万物は相矛盾し、渾沌としているのだから永遠のテーマばかりでこの世は存在します。
それは友情であったり、愛情であったり、そして信頼でもそうです。

そもそもつながりの中で異なるなどという人間の複雑奇妙さのことなど分かるはずもありません。だからこそ一日一日と、日々に発生する出来事に真心で正対していくことがもっとも価値のあるものかもしれません。

このブログもそうですし、世の中には終わりがあっても永遠のテーマがあることばかりです。
精進していこうと思います。