ご縁の筋道

自分のルーツを知ろうとすると私たちはますはじめに自分の血筋というものを確かめていきます。自分の中に流れている血は確かなもので、その血がどのようにこれまで受け継がれてきてかを辿っていくのです。

そして同様にそこには確かな歴史があります。一部は文献として遺されるものもありますが、その文字で書かれたものは当時に誰かが改ざんしてしまったり、自分たちに都合が悪いものを消し去ってしまうこともあります。

だからこそ自ら血筋を辿り、自ら縁故各地を巡り、自分の足で歩いてはその道筋を確認することや、その土地の人から伝えられることや、自分の中で感じるその懐かしさや直観を使って全体的な筋道がどうなっているのかを掴むことが大切であろうと思います。

私もここ数日、自分の先祖に何方が居てどのように今に至ったかを調べていく中で自分の血が滾るのを何度も何度も覚えました。時には悲しい歴史を知り心を痛め、時には素晴らしい偉業を遂げた先祖を誇らしく思い、また時にはその歴史から自分が何を気を付ければいいかを先祖から直接的に諭された気がして頭が垂れる思いがしました。

本当の歴史とは、紙や文字で伝えるものではなく自分が伝えていくことです。それはいつまでも自分自身の感覚が歴史を忘れていないと信じることです。頭や知識で分かるのはせいぜい文字の範囲であり推測や記録の域を超えません。しかしこの自分の感覚で道筋を遡りそして筋道を確かめる、この筋が通った道理を自分自身が確認すれば、なるほど自分にはこういう歴史があると必ず直観できるのです。

ご縁はとても不思議で心に強く思い願えば、自然に導かれるようにその道が示されます。特に因果律が存在する以上、必ず今につながっている結果を遡れば原因に出会います。その原因と結果の間には、列記とした筋道がありますからその筋道の間をどのように直観していくかが歴史を知る醍醐味なのです。

私はもともと直観が強いタイプで、デジャブやシンクロニシティが多く奇跡のような体験が日常的に発生しやすいような気がします。表現が難しいですがまるで何か小さな出来事や微細なご縁につながるメロディーが聴こえて直観し、その筋道や道理がハーモニーを奏でるように観えてくる感じです。これが血が滾るという感覚ですが、歴史を辿るときっと同じような感覚を誰しも持つはずです。そしてその音楽を通して過去に何があったのか、この先の未来に何が起きるのかも心で察知していくような具合です。これは歴史の端を発する音を聴き分けているようにも思います。歴史は音楽を奏でている物語のようです。

そして今でも人々が記憶に遺したい口伝や石碑などにも、その道筋のヒントはたくさん隠れています。そして文献が残っていないものにこそ遺しておきたい事実は隠れています。その隠れたものを自分の足で歩いて手探りで掘り出していくことが歴史の探索の面白さです。

子どもたちにも、歴史の大切さを伝承していけるように私自身がご縁の筋道を通す生き方を磨き継承していきたいと思います。

人生の初心~足跡を振り返る~

日ごろの自分の足跡を振り返り辿ってみるとその道すがら大きな発見がたくさんあるものです。毎日、忙しくスピードを出して高速道路ばかりを走っていたら振り返る間もなく次の目的地のことばかり考えてしまうものです。

現在は情報化が進み、さらには寸刻みでスケジュールが決められ、何をするのにも正確に準備を求められるように思います。その中でみんな忙しくなり、より一層、決められた時間や決められた行程をきちんとこなすことに注力されていきます。

しかし本来、人生とは何かと思い立ち止まって考えてみるときそれは日々の体験をどのように感じるかということによってはじめて自分の人生を噛み締め味わうことができるのです。

大事なものを見失うとき、人は振り返ることがありません。私が日々に内省をするのは、自分の人生が何かを味わいながら歩んでいきたいからでもあります。奇跡のような出会いや出来事に包まれている人生を実感することで人は待つことができるようになります。

何でも待てずに手を出しては焦り、余裕を失い、正確かどうかで忙しくなってしまうのは自分の人生からどこか遠く離れた自分になってしまっているかもしれません。焦らずにゆっくりと、丁寧に歩んでいく人は人生の初心を忘れていないということでしょう。

人生の初心を歩んでいくのは先ほどの足跡を確かめながら歩んでいくことです。ここまで歩んできた道筋を振り返っては、「ああ、自分はこう歩いてきたのか」と歩き方を確かめて、「これからはこう歩いてみよう」と改善を続けていくことです。

自分の足跡は自分の人生を映し出します。

だからこそどのように自分を運んでいくのか、誰と一緒に歩くのか、どこを目指すのか、どの道を往くのかを常に日々に確かめていかなければなりません。それが人生を創るということです。

色々な道がある中で自分だけが通った道がある。もしくは自分にしか通れなかった道がある。その道が自分の人生だと思うとき、人は導かれている今に気づくことができるのでしょう。

常に導かれて歩いている実感がある人は見守られて生きていく人であり、次に歩く人たちや子どもたちを見守っていく人です。

日々の振り返りが人生であると、初心を忘れない実践を楽しみたいと思います。

自分を遣り切る意味

日々の自分の直観やご縁を信じて歩み、その意味を深めていくことはルーツを辿ることです。その理由は、真理として人間は因果律の中で様々な体験をしていくものだからです。因果の法則に従って、自分が何かをすればその原因が必ず結果を生む、そしてその結果がまた次の原因になるというように永遠に因果は巡ります。

このご縁の鎖は途切れることはなく、今まですべてつながり合ったままに存在しています。自分が生きているということは、先祖の血が流れているということでありそれまでどのように先祖が生きてきたか、つまりは原因を創ってきた結果を受けて生きているのです。

その結果とは、自分の体験することのことです。この体験の意味を深めていくほど、なぜこんなことが起きるのだろうか、この体験は何だったのだろうかと直観すると先祖の中でこういうことがあったのではないか、もしかしたらあの原因がこの結果になっているのではないか、そして私が創る結果が未来への新たな原因になっているのではないかと思いを馳せるのです。

私たちはつい自分に起きたことは自分の人生の範囲だけのことだと思い込んでしまいますが、実際に自分に起きることはその原因はもっと過去につながっていることであり、そしてこれから起きることも実際は今がつながって発生してくるのです。

例えば、何かをしようとするときには様々な出会いがあります。ある人は支援をしてまたある人は邪魔をする、しかしそれは過去のつながりから発生して出会うこともあるのです。また今出会っている人への行いで未来が変わっていくこともあるのです。徳を積んでいればその徳や恩によって周りがその人を手伝おうとしますし、それを使い切ってしまうようなことをすれば同様に仇になることもあります。恩も仇もご縁ですが結ばれていく内容が変化していくのです。

また先祖の遺徳を辿る生き方をする素直な人は、その遺徳が輝き先祖がもっとも託したい志や願いを叶えるために今世で使われていきます。私たちの先祖は死んでいますが、魂は死ぬことなく血の中で今の自分の方向性やご縁を導いていくようにも感じるのです。

選ばないというのは、先祖への恩徳感謝を忘れずにご縁を大切にして一期一会に生きていくということです。そしてルーツを辿り、先祖の生き方を学び今の時代にその生き方を活かしていくことです。

親祖が臨んだ生き方が連綿と連鎖し、全体として一つの芸術のように歴史を創造します。その歴史の一部として私たちは存在しながら親祖の物語をつなげていくのです。親祖が原因であり、私たち子孫はその結果なのです。

親祖の初心が何だったのか、それを知るのが今の私たちが生きている人生の体験です。人生の体験を通して私たちは親祖の初心を思い出し、それを実現するために生きるのでしょう。

引き続き子どもたちのために、ルーツを辿る選ばない生き方を貫き子孫たちが純度の高い物語を受け継いでいけるように自分を遣り切っていきたいと思います。

謙虚の入り口

人は御蔭様に感謝して足るを知れば、自分に与えられているものに気づくものです。そして自分を認めることができてはじめて謙虚の入り口に立つことができるように思います。

自分というものを受け容れるとき、謙虚に近づきます。しかし実際は、自分のことを認めずそのことから自信がなくなり謙虚とは程遠い高慢な態度をとってしまうものです。そうなるとプライド合戦がはじまり人間関係に支障をきたしていきます。自分のないところやできないところばかりを見ては、自分に対してマイナスな頑張りを続ければ続けるほど傲慢さが増していくのです。

自分自身のありのままを認めないという考え方は、自分の思っていた理想ではないことへの苛立ちや周りの期待に応えられないことへの不満もあるのかもしれません。しかし、自分のないものねだりをするばかりに自信を失いかえって周りの人たちの自信を奪い、さらには人間関係そのものを壊すような人になってしまっては本末転倒です。

本来は自分というものは天から与えられた欠けることが一つもない完全な存在であると認めることが自信の本質です。自分のままでいい、あるがままでいいというのは天から与えられた個性や才能を認めるということです。ここで認めることがなければ、周りも「あなたはいったい何様なのか?!」と思うでしょうし、その人の高慢で傲慢なプライドが増長し復讐心にまで高まると同時により一層自分自身ことを嫌悪して負の悪循環に陥るのです。

人間は生まれてすぐの純粋な子どもたちのように差別なく自他のあるがままを認めることができるとき、人は自他をゆるすことができます。このゆるしとは、誰も責めることがなく感謝で思いやることができているということです。一緒に生きていく人たちが、他人のことをどうこうするまえに自分自身をそれぞれで認める努力をし、その延長線上に周囲と認め合えばお互いに仕合せになれるように思います。

それに何かあるごとに当たり前の存在である水はダメだとか太陽はダメだとか、空気がダメだとか地球がダメだとか言ってそのものの存在を認めない人はいないと思います。この世にあるすべてのどれも必要な存在だと差別せずに受け容れることですべてを認めることができます。

私たちの日本の先祖はそれを八百万の神々として大切に尊重し合って暮らしてきました。それが和を尊ぶという意味です。

人間関係も同じく、お互いにこの世に必要な存在であることを自覚するのならその人のままがいいと思えるのではないかと思います。

謙虚の「謙」の字は、自然のままという意味です。善悪正否もそこにはなく、自然の姿、あるがままを認める人だけが宇宙万物一体全とつながる一つの存在になれるように私は思います。それが私が目指す自然体の姿そのものです。

簡単にはいきませんが、何か事あるごとに「これだではダメだ」という意識ではなく、「天がそうしてくださったのだからきっとこれでいい」と丸ごと信じることでゆるされた存在であれるように思います。

引き続き、足るを知り、御蔭様や感謝の気持ちを忘れずに人を自分の定規で裁かず、きっと何かその人にしかできない大切な使命があるのだろうと聴福人の実践と福徳を積み重ねていきたいと思います。

自分が変われないとトラウマを抱え心を痛め苦しんでいる人たちのためにも、自分自身が誰よりも丹精を籠めて素直な心を磨いていきたいと思います。

完全な存在としての自分を認めること~本物の個性~

人は競争社会の中で比較され優劣を持つことで「できる・できない」を過剰に気にしてしまうものです。まるで「できる」ことはもっとも価値があり、「できない」ことは価値がなくダメなことだと思い込んだりしています。

これは優等生と劣等生と分けられ、ダメな人は頑張らせできる人はもっと頑張らせようとしたことでできた来た刷り込みのように思います。私が言いたいのは、できるかできないかを基準に物事を評価するのではなくその人らしいかどうかをもっと大切にするということです。

能力だけで人を裁くようになればなるほどに、個性が擦れて薄れていき能力を自信にしてしまうとできないことが悪のようになり自他を責めていくからです。自分がダメなことがまるで罪のようになれば、無理をして頑張り過ぎて本来のその人らしさが失われていきます。頑張らせようと誰かにされるのではなく、自分からやりたいと思うことに正直に生きていけばいいのですが今まで「できる・できない」刷り込みを持った人はやっているうちにできること(手段)が目的になってしまい本当の自分のやりたいこと(目的)が分からなくなってしまっています。このように「できる・できない」刷り込みによって目的と手段がすげ換る癖がつけば、最初は自発的にやりたかったことなのに気が付いたらどれも受け身になりやらされることになってしまうのもこの刷り込みの影響があるからです。

自分のやりたいことは、できるできないに関わらずそれが「自分の魅力や持ち味だから」だと思えるようになるのは自分の観念や価値観、意識をまずは変えていかなければなりません。

例えばできないことがあったとき無理をしてできるようになろうとせず自分は他にもっとできることがあるんだなと思うようなことや、やりたくないことがあったらもっとやりたいことがあるんだなと自分に素直になっていくことをやりながらもっと自分を認めていくことが必要です。

自信というのは、能力があるかないかではなく自分の求めていることに近づいているという実感があるときに湧いてくるものです。自分らしくいるためには、できるできないかを諦めてもっと自分のやりたいことをやろうと周りに遠慮せずに遣り切っていくことで個性が引き出されていくものです。

一人ひとりの人間はもともと何一つ欠けるところなく完全体で生まれてきます。欠けたところを無理に埋めようと完璧を目指してできるようになろうとすることで余計に本来の姿が歪になりおかしなことになってしまうのです。

「そのままでいい」「あなたのままでいい」と、完全であると自分が認めることで次第に自分らしさは表出されていきます。その逆に能力刷り込みが深い人は、「このままではダメだ」「自分がいけないのだ」と自分を認めようとせずに無理をして頑張り続けていきますがもしもそれで能力がついたとしてもそれは果たして心からやりたかったことなのかということなのです。

人間は社會を創造する生き物ですから、能力をみんなが一律に高め完璧な個々になるよりも個性を活かして助け合い思いやり協働していくことでお互いを認め合いそれぞれのやりたいことを見守り合うことで仕合せな世の中にしていくのです。

人工知能やロボットの技術が進化するなかで、高い能力を発揮していくその存在によって私たちはもう一度、自分とは何か、個性とは何かと見つめ直す時代に入るでしょう。

だからこそもっと自分自身を認め、できないことを諦め、もっと他に自分にしかできないことがあるんだなと持ち味に気づき、自分だけではなく周りに対しても「あなたのままでいい」と丸ごと信じてくれる存在に近づいていくことが子どもたちの未来を活かすことになると私は思います。

その人らしさを励まし勇気を与える存在になれるよう、そして子どもたちのためにも自分の生き方を見つめ自分らしい生き方のロールモデルを遺して譲っていきたいと思います。

安心運転、安心社會

何かの問題がトラブルが発生するとき、人はその問題やトラブルを何かのせいにしようとするものです。それが例えば環境のせいであったり、誰かのせいであったり、会社のせいや家庭のせいなど、何かのせいにしてしまいます。

実際にそのことを深く見つめて、何のメッセージだろうかと受け取ってみるとそれはほとんど自分の内面の問題であることが分かるものです。自分の内面の心やものごとの観方を転じない限り、それはいつも誰かのせいや何かのせいになってしまいます。

確かに環境を変えたり仕組みを変えることは大切ですが、その大前提に自分のものの見方を変えていないと環境のせいや仕組みのせいになってしまうかもしれないのです。

自分の価値観で自分が観ている世界が自分の置かれた世界であり、その世界の問題は自分が問題にしてしまうことで問題となります。人は観方によってそれを問題と観たり、チャンスと観たり、それはその人の心の状態に由って変わってきます。

心は車の運転と同じようにその人の癖が出てきます。ある人はスピードを出し過ぎたり、ある人は周りを見ずに暴走したり、またある人は自分で運転しようとしなかったり、またある人はクラクションばかり鳴らしたり、またある人は自信なさそうにノロノロ走ったり、その運転には癖があります。

この車の運転はまるで心の運転と同じようにその人の生き方の癖があるのだからそれを気を付けて練習を繰り返して心の運転を上手になっていくしかないのです。スピードを気を付けて安全運転をしたり、周りをよく見て確認したり、自分で苦手な縦列駐車を何度も練習してみたり、クラクションを鳴らさず譲ったり見守ったり、自信をつけたり、運転を通して生き方を磨く必要があります。

問題やトラブルは、自分の心の運転から発生することですから自分の心の状態を見つめ、生き方を省みて捉え方や観方を転じて行動していくことで問題やトラブルが意味があることになり本質的に自分を素直に成長していくことができるのです。

いつまでも誰かのせいや何かのせいにしていたら、停滞が続くだけで自分の観方の方だとは気づかなくなります。相手が変わるわけではなく、自分の心が変わったから相手が変わるのであり相手は変わることはありません。

相手を変えたいのなら自分を変える、世界を変えたいのなら自分が変わる、会社を変えたいのなら自分が変わると、変わることを楽しんでいく方が誰かや何かのせいにして煩悶するよりも心が穏やかになっていくものです。

心のコントロールをするためには、自分に矢印を向けてこれは観方を変えるチャンスであり、自分がもう一つ場を移す岐路だと肯定的に感じて、素直に自分の方を変えてみようと取り組むことで安心運転ができるように思います。

誰かのせいや何かのせいは、自分は変わらないから周りに変われと無言で強要していく行為です。世界は自分が主体的に創造していることを自覚し、自分が世界をよりよくしようと自分の観方を変えて世界をより楽しく美しくしていけば社會は調和して一人ひとりみんなが輝く世界になると思います。

理念や初心のせいにするような貧しい心ではなく、理念や初心の御蔭で自分の方を変えることができたという豊かな心をもって子どもたちに見守り合う安心社會を切り拓いていきたいと思います。

伝統美の面白さ

昨日は新潟県十日町で古民家再生に取り組んでいるカールベンクス氏とお会いするご縁がありました。25年前にこの土地に移住してから現在までに50棟ほどの古民家を再生しており、カールベンクス氏が住む村には今ではたくさんの若い方々が同様に移住してきて奇跡の村と呼ばれています。

「日本の木造建築は世界一である」と語られこのような文化が失われていくのは何よりも残念であるといい、職人さんにとっても子どもたちにとっても絶やしてはいけないと仰られておられました。

本来は日本人の子孫である私たちが語るはずであろう言葉を、ドイツ人の方から直に聴くと目が覚める気持ちになります。

例えば、「日本人がドイツにいけばその土地に古い町並みや懐かしい風景を感じにいくのになぜ日本人は自分の国のそういうところに興味がないのか」という言葉であったり、「ドイツには昔から古い建物は壊してはいけないという法律がある、その法律によって子どもの頃から古民家は貴重なものであるという認識をみんな持っている」ということなどまさに何が本当の価値なのかを気づかせてもらう言葉ばかりです。

現代建築の日本の住宅はプレカット方式といって機械によって加工しやすいため外材を用い木材を人間の手を使わずにカットしていきます。大工さんは昔ながらの手仕事はほとんど必要なく、まるでプラモデルを組み立てるようにトタンや合板で効率よく作業していきます。このような仕事をしているうちに日本の大工さんの技術も心も伝統も失われていくことを嘆いておられました。世界一の木造建築を建てる心と技術と伝統を自分たちから捨てていき、古いものを壊して便利な新しいものばかりを建てようとするのは設計士たちの欲がやることであるとし「本来、家は財宝なのだからいつまでも大切にしなければならない」という言葉に徳の人柄と思いやりを感じました。

カールベンクス氏の設計された建物を具体的に見学すると、ドイツ人の感性で自由に古い日本の材料を用いて古民家を再生しておられました。現代人が住みやすいように断熱を工夫し、断熱に必要な窓や暖炉などはドイツから輸入しておられました。新築を建てるよりも古いものを用いた方が本来は費用がかからないといい、創意工夫をして扉を本棚にしたり、そこにもともとあった古材料や道具を別のものに見立てて家の改修やデザインに活用されていました。

家全体が昔からある日本の古い懐かしいものを活かしながらデザイン全体を楽しんでいるようにも観え、まるで「ドイツの伝統が日本に馴染んでいるような感覚」に新鮮さを感じました。一言でいえばそこは「ドイツ人の美意識が創造する日本の風土を取り入れた古民家」でした。

お互いの善いところを引き出し、持ち味を活かし新しい美意識を創造するというのは芸術そのものです。今まで設計やデザインというものを知りませんでしたが、カールベンクス氏の生き方を拝見することによって「伝統美の面白さ」を学び直した気がします。

未来の子どもたちの心に、大切な日本の心が遺せるように自由に伝統美の表現を楽しみ遺っている文化を上手に活かし和合させ復古起新していきたいと思います。

ありがとうございました。

 

心を磨く人

先日、久しぶりに那覇にある沖縄教育出版社を訪問するご縁がありました。社内はとても落ち着いていて居心地の善い空気が流れていました。「一人ひとりが輝く経営」を理念に掲げ、それぞれが心を寄せながら個性を発揮して働く姿に平和を感じます。

沖縄に行くと特に「平和」への祈りを感じますが、会社を経営しながら自分たちの生き方を磨き平和に貢献するために様々な実践に取り組む社風には学ばせていただくことばかりです。

特に印象に残ったのは、社内で最も高齢(75歳)で今も最前線でご活躍の方の御話しをお聴きしたことでした。その方は、以前会社で発刊されている新聞で紹介されており知っていたのですがお話を聴いて徳の高さを実感しました。

人は学ぶ意欲があることは素直さの顕れでもあります。素直であるからこそ学びたいと思うのであり、一生涯学びたいという心をもっている人は働く仕合せを感じている人だと感じます。

人間は周りからどう思われるかや評価されるかを基準にして選択肢ばかりを求めていたら今に生きることができません。今に生きることこそ素直な姿であり、今与えられていることに一所懸命に学んでいれば自ずから自分に与えられた使命を感じて仕合せを得られるからです。

心の健康というものは、生き方を直すことであり生き方を正すことです。正直ともいいますが、自他に正直に心を開いて素直に学んでいる人は謙虚であり成長を已めません。それは年齢の問題ではなく、生き方の問題だということの証明なのです。

私たちの沖縄に来た理由とそのお仕事の内容の話をすると、「沖縄を創りに来てくださったのですね、ありがとうございます」と御礼を仰られました。その視点や観点にも徳を感じますが、それよりも真摯に日々の実践に取り組んでおられる姿勢そのものを拝見し私自身まだまだ精進しなければと恥ずかしい思いになりました。

何かをやったからや何かをやるからいいのではなく、誰が見ていようが見ていまいが自分の本分に正直取り組んでいく、心を磨いていくその生き方そのものが美しいと思うからです。

沖縄教育出版社には心を磨く風土文化が育っており、存在自体に有難さを感じました。私たちの会社は魂を磨く風土文化ですが、心と魂を切磋琢磨させていただけるご縁に感謝し、私たちも迷わずに子ども第一義の理念を省みて子どもたちの未来のために仲間と一緒に一期一会の作品を育てていきたいと思います。

ありがとうございました。

縄の智慧

むかしから歴史を紐解けば社會というものはみんなで創るものであるという感覚がありました。自分だけで生きることはできないのだから、自分の居場所はみんなで創っていくという具合に社會をみんなで育てていきました。

現代は、社會だけではなく小さな組織でさえ自分さえよければいいと自分のことを主張してはかえって社會を崩して希薄している風潮もあります。自分が所属するこの社會を善くしていきたい、もっとみんなが居心地が善い環境になるように自分を活かしていきたいと思う、人間として当たり前の仕合せが忙しさと共に消失してきています。

人類は太古のむかしより社會を形成してみんなでお互いを見守り合いながらお互いの一生を充実させていきました。そして人類は助け合い思いやることで自然環境の中で今まで生き延びてきて、一緒に協働することで考えられないような大きな力を発揮してきました。それができたのは、みんなの居場所を用意し居心地が善い場をみんなで育ててそれが永続するように見守る「結び」の智慧を使ってきたからです。

現代はその結びつきが次第に解かれて、それぞれがバラバラになってきているように思います。歪んだ個人主義は人々を孤立させ、孤独にします。その穴を埋めるのをお金で行うことでより断裂は進んでいきます。

例えば「縄」を観てすぐにわかると思いますが、小さな糸も多くの糸と結びつき絡まり合いそして強く大きくしなやかな切れることのない縄になっていきます。出雲大社にあるしめ縄のように私たちは古来からその縄を結び続けて大切にしてきた民族です。

この「縄」は、「社會」のことを示すように私は思います。

縄をどのように結んでいくか、その結びつきや結び方にこそ民族の生き方がありお互いに見守り合い、心を寄せ合い、愛を与え合い、一緒に協働作業をしていくことによってその「縄=社會」を創造していくのです。

お米を育てるように子どもを育てること、しめ縄を結び神様に奉げ奉るように暮らしていくこと、古来から続いていく縄が切れてしまわないようにその時代時代の人々が子どもを見守っていく社會を育ててきたのです。

そういう意味では今の時代はかつてないほどに、人々の結びつきが失われてきている厳しい時代です。だからこそ私たちが取り組む「見守る」ということは、その結び直しをする大切な実践になるのです。

「縄」こそ、人類の智慧であるとし引き続き子どもの社會を見守る大人が増やしていけるように実践を積み重ねていきたいと思います。

農的生き方

昨日、自然農の畑にたくさんの野菜の苗を植えました。最初の土の手入れとその後の草の手入れ、あとはじっと育つのを見守るだけです。そのものが育つかどうかは野菜ですが育ててくれるのは自然ですから環境を整えるくらいしかできませんがそれが自然の力を活かす智慧になります。

農業は最初は技術から入り、知識などでどのように育つかは勉強できますが実際に育ててみるとその季節季節の日照りや雨の状況、気温によって発生する虫や病気もあることから同じことをしていても同じように育つことはありません。自分自身の観察力を磨き、どのような環境に適したものかを見極めていく努力が必要です。

思い返してみると、今では当たり前に続けている畑仕事もむかしは何もわからないままに育ててみるだけの繰り返しでした。一年のめぐりを通して、そのものがどのように育つのか、そして畑がどのような変化をしていくのか、またタイミングがどうなっているのかなどそれぞれに自分の接し方を学びます。

育てやすい野菜もあれば、育ちにくい野菜もある、素直になってこちらが自然から謙虚に学び直していかなければそれぞれの個性を活かすことができません。人間のもともと持っている調和力や和合のチカラはこの農にこそ原点があるように私は思います。

農を原点にすることを帰農とも言いますが、自分が食べるものを自分で育てる。育てる中で自分もその循環の一部になっていく。人間はその中で調和を創造することができる能力を持っているとも言えます。経営も社會も創造するのは人間ですが、その人間がどのように循環を司る力を持っているかが未来の環境を変えるとも言えます。

かつて、自然世を説いた安藤昌益という思想家がいます。この人の言葉にこういうものがあります。

「春夏秋冬、季節の移り変わりに応じて、人々は田畑を耕し、草を刈り、収穫し、次の春に備え、何の矛盾も破綻も不足もなく、始めも終わりもなく、無限に循環しながら、平和に、道徳的に生き存える社会。」

それを万人直耕ともいい、人々がみんな帰農していけば自ずから循環する自然の社會を創造できるといいます。しかしこれは単にみんな農民になれという意味ではありません。これは農的な生き方を大切にしながら、内省し文明の善いところも活かしながらむかしからある伝統的な暮らしを大切に生きていくことを言っているように私は思います。

今、私が実践しているのはこの自然真営道の一つでもあるように思います。

むかしから今に続く暮らしを伝承しながらも、新しい時代の経済を創造するのは私の思う農的生き方なのです。引き続き、農的生き方を磨きながら子ども第一義の理念を深くし弘めて厚く社會に影響を与えられるように精進していきたいと思います。