心の訓戒

以前、「心訓七則」という文章を読んだことがあります。作者不詳ですが、一つの訓戒としてはとても奥深いものです。これは愚直に生きるための自己内省の基準にもなるように思います。

一、世の中で一番楽しく立派な事は一生涯を貫く仕事を持つと云う事です
一、世の中で一番みじめな事は人間として教養のない事です
一、世の中で一番さびしい事はする仕事のない事です
一、世の中で一番みにくい事は他人の生活をうらやむ事です
一、世の中で一番尊い事は人の為に奉仕し決して恩に着せない事です
一、世の中で一番美しい事はすべての物に愛情を持つ事です
一、世の中で一番悲しい事はうそをつく事です

これはこの逆を考えてみるとわかります。目的も持たず人生を懸けられる仕事をせず、精神修養もしない、人のためによりも自利に走り、他の誰かと比較しては不平不満で妬み羨み、損得勘定で他人を評価し裁き、自分のこと以外無関心で、嘘をつき言い訳ばかりをする、このようには生きてはならないという訓戒です。

世の中というものは、自分の生き方でどうにでも観え方が変わってくるものです。自分が正直に生きていれば世の中は美しくなり、自分が不誠実で生きていけば世の中はただ世知辛く感じるものです。

誰がどうであれ、自分はこう生きようと信念をもって信条を優先して生き方を貫けばこの世はその通りの世の中になるものです。つまり自分次第でいくらでも世の中が変わってみえるということです。

だからこそ重要なのはいつも自分が世の中に対して如何に心の姿勢を正しているか。正直であるか愚直であるかと確認し続けることが大切なように思います。人はそれぞれに心訓というものを持ち、自分の心がどんな時でもちゃんと着いてこれるように日々に心掛けを実践していくしか真に仕合せの道はないということでしょう。

これを別の言い方で「平常心」とも言いますが、如何に常に自分に打ち克って心で決めた信念を優先することができるか。平常心を保ちながら試練を通して人生を磨いていくのが人生です。一生涯ずっと自分との闘いとも言えますが、それが人生をよりよく生きるということの本懐だと私は思います。

子どもたちにもそういう心の在り様を観て訓戒を持てるような生き方の背中が遺せるように日々に愚直に正対し内省していきたいと思います。

 

 

 

仕事とは何か、生き甲斐とは何か~人生の大切な問い~

今の時代は、生き方と働き方を分けて考える人が増えたように思います。仕事は仕事だと分けて考えるようになり生き方と次第に分かれていったように思います。本来の仕事は生き甲斐を感じるものですが、損得勘定が入ってくることで楽ができることが得であり、苦労することが損であるという考え方から余計に生き方から遠ざかっているようにも思います。

この生き甲斐というものは、生きるに値する価値のことですが自分が志した目的に向かって命を懸けることができるときに感じられるものです。自分の命を懸けてまで取り組んでいることに如何に価値を見出して働くか、そこが人生を味わうことと関係しているように思います。

ニュースキャスターの池上彰さんが生き甲斐についてこう解説しています。

『自分が社会の中で何か役立っているなということを認識できて初めて生きがいを感じる事が出来るんですね 社会における自分の価値や存在を認識するその作業が「働く」という事なんですよ』

人間は本来「働く」ときにこそ、その生き甲斐を感じることができるということです。

よくスケジュールや時間に追われて、ただ目の前のことをやるだけの仕事や、上司の命令やお客様の要望をただ終わらせることが目的になっている仕事などは決して生き甲斐にも働くことにもなりません。すぐにこんな状況に陥る人は、どこかで本来の目的や働くことを忙しいという理由で初心を手放すことでそうなるのです。

仕事をすることは人生とはどこか別のことのようになっている状態は、たとえば学校でやらされた義務教育と実際の人生が別のものになっているものと似たようなものです。過去の刷り込みからそうやって人生と分けて考える癖を持っている人は、仕事が本当の意味で楽しくなることはありません。またそういう状態の時は決して初心のままに取り組んでいることもありません。先に作業があって初心を後付けというものはないからです。初心があるから作業に価値が出てくる、それが生き甲斐になるという構造だからです。価値を創造するのは価値を決めた人間の質に左右されるのです。

だからこそ日々初心を忘れないようにするには、目の前の仕事を如何に楽しむか、楽しくしていくかに懸かっています。この楽しむとは仕事の価値を如何に自分が認識し続けるか、つまりは苦しく辛くてもそれが次第に大好きになってく、まるで目的に向かって人の役に立ち徳を積んでいけることが歓びなるような生きる姿勢の鍛錬こそが生き甲斐を感じる生き様になります。仕事ばかり増えて働くことがないことほど人生で寂しいものはありません。

仕事を嫌々やっていれば仕事が増えれば文句を言い、仕事がなくなればまた誰かに不満を言う。こんな自分にとっての損得だけの物差しで責任転嫁ばかり続けていたらもっとも不幸になるのは自分自身です。この世界の問題は他人事ではなく自分ごとであると当事者意識をもって責任を持つことができればその自分にとって嫌なことがすべて世界や社會に大いに役に立つことに気づけるのです。傍を楽しくするのが働くことの本質だからです。

仕事を如何に面白くしていくかという取り組みは、自分の人生の生き甲斐を伸ばすために大切な素養になります。そのために必要なのは常にその仕事の本来の目的を見つめることです。仕事の目的は必ず自分の人生の目的と繋がっているはずです。そしてその目的に向かって取り組んでいるとき、池上さんが言うように「自分の価値や存在を認識できる」状態になります。これが目的意識をもって働いている状態を維持し、人生の生き甲斐になるのです。

何のために自分の人生を使うのか、何のために自分はこの仕事をするのか、当たり前のことですが単に作業を終わらせるためにではないし、早く楽をして休みたいからや他のことをしたいからというのではないのは考えればすぐにわかるものです。

日々に流されて目的を見失い自分から仕事を無価値なものにしないように常に初心を忘れないこと、つまりは生き方と働き方を分けないままの自分で取り組んでいくことが大切なのです。そしてそれは働くことを楽しむことで心を亡くさない状態を維持します。沁みついた生き方の癖は、働くことを楽しむリハビリで必ず修正できます。

私でいえばやっていることはすべて子どもの第一義になるのだから損な仕事など一つもないとすべて意味を見出して取り組んでいるうちになんでも楽しくなってきます。この楽しいという気持ちは、いつも子どものためとイコールなのです。

最後に本田技研工業の福井威夫社長の言葉をご紹介します。

「自分が楽しまないと本当の仕事はできない。自分が楽しんで仕事をすれば、それが会社の為にも世の中の為にもなる。」

これは決して欲望の楽ではなく、「初心が楽しんでいる」という境地のことなのでしょう。

生き甲斐をもって働くことが未来の子どもたちに道を伝承できる本当の仕合せです。引き続き生き甲斐をもってこのブログも楽しく取り組んでいきたいと思います。

道を歩む

人生の中には、選べない道があるように思います。いくら自分が避け続けていてもその道は必ず自分の前に現れてくるものです。一度ならずも二度も三度もその道が現れるのならば運命だと思ってその道を進むことで人は救われることがあるように思います。

実際には、その道があることがわからずその道すら現れない人もいます。前に進むのをやめてしまえば、道は現れずいつまでも停滞を続けていくのです。自分が否定した道や避けてしまった道は、目の前にあっても気づくことがありません。他の道ばかり探していると、結局はその場所をぐるぐるとまわっているだけで通過することができないのです。

人生というのは面白いもので、自分に与えられた道があります。道の良し悪しを選びたくなる気持ちもよくわかりますが、問題は道そのものではなく道をどのように歩いたかの方が本質的に生きることになるのです。

その道を歩まないという選択は、その道を味わうことがないということです。自分の人生の目的地に行くためにはその道は避けては通れないとしたらどうするか。怖くても辛くても苦手でもその道を通る必要が出てきます。

その時、その似たような道を通った人からの助言をもらったり、自分と同じ道を歩む人と一緒に歩いてもらったり、無我夢中になっているうちに勇気が出て歩んでいたり、歩み方はいろいろとありますが歩む必要は誰にしろあるように思います。

人生の旅路は、みんな大変でも目的地に向かってその道を歩んでいきます。その歩む道すがらに仲間がいたり、同志がいたり、パートナーが顕れます。その人たちは自分の代わりに歩いてくれるわけでもなければ、自分が歩かないのでと頼んだりすることができません。

その仲間たちはみんなそれぞれに苦しくても辛くてもその道を歩んでいくなかで、共に励まし合い、声掛けをし、時にはその背中を見せて勇気をくれたりする存在であって自分の代わりにその嫌な道を歩いてもらうことはできないのです。自分から先にその道が嫌だからと歩くのやめれば、道は閉ざされてしまいます。

道を歩むというのは、現実のことであり空想や妄想で誤魔化すことができません。だからこそ、その道を避けるのではなくその道を歩んでみようと敢えて足を踏み入れる勇気を出して前進していくことが人生の仕合せの王道のようにも思います。

その時、見守ってくださる存在があることの有難さはかけがえないものです。

私たちの会社は、道しるべになることを目指していますが道すがらに見守るお地蔵様のように道を歩む子どもたちを見守りたいと思うのです。自分の道を歩む人が次は他人の道を見守れるようになる。

子どもたちのためにも道を守り続けて歩み続けて味わい続けていきたいと思います。

時の流れ

昨日は時の感覚について個人差があることを書きましたが時には同時に遠近によって待つ長さも変わってくるものです。遠大な目的や目標がある人は、時はゆっくりと時間をかけて動いていくものです。それは例えば自然界のように徐々にゆるやかに変化を続けていきます。

地球誕生の45億年といいますが、宇宙などは私たちが想像を超える年数を経て今でも変化を続けています。その時の流れはあまりにもゆるやかで私たち人間からみるとまるで何も変化がないように見えるものです。

しかし実際は、ゆるやかで大きい流れはとても偉大な変化であり目に見えることとは異なり目に見えないところでは想像を超えた変化を続けていることになります。私たちは目に見える変化をみては一喜一憂して迷い悩み、判断ばかりを焦ってしまいますが実際にはこの偉大な変化の方に心の目を向けて観れば流れに任せるしかないという境地に至るのです。

偉大な変化の中で自分に与えられる役割というものは自分の目からはわからないものです。それは自分を超越したものに身を委ねるときに大任を預けられていることを直観するときに天の目というか偉大な変化に任せようという心持ちになります。

どうにもならないことに身を任せながら与えられた今に最善を盡していくという生き方は、まるで変化そのものと一体になった姿です。そうなることで絶対安心を感じられ、安心立命の心を持つこともできるように思います。

しかしそうならないことが多いのは、迷いがあるからです。その迷いは、目先のことに囚われ視野が近くなり遠大でゆるやかな変化を感じることがなくなってくるからです。自我の欲望を捨てることや、執着を忘れることや、自利をゆるすことは迷いを取り払うためには必要です。迷うことで人は心を亡くし、迷いから覚めて素直に反省し心が甦るようにも思います。

素直さというものは丸ごと信じきることで、言い換えれば自分には運があるという物の観方、また時に任せて委ねて信じて歩む生き方ができるということです。時はそういう人の味方になり、時がすべてを解決してくれるようになります。

時の流れというものは、誰にも平等ですからまた時がすべてを司りすべてのご縁を結んでくれるように思います。時を信じきる、時を信じ抜くという実践こそが、見守られていきるという私たち人間の目指す生き方かもしれません。

伝統と伝承を守りながら新たな道を切り拓いていきたいと思います。

恩送り

人は何かしらの恩を受けて生きています。生きていけば必ず何かの恩恵を受けて生きています。誰にも助けてもらったことがないことなどこの世には存在しません。つまり生きていくというのは誰かから、また何かしらの恩を受けて生きているということです。

かつて返せないほどの偉大な恩を受けた人に、恩を返せない場合は自分と同じような人を見つけてはその恩を返すという具合に恩は送られ続けていくものです。もしも与えた恩を自分に見返り求めて返してほしいなどと思うのなら恩を仇で返されたなどと感じるのが人間です。

大隈重信の遺した言葉に「施して報を願わず、受けて恩を忘れず。」があります。これは人に施しや親切を行っても、そのお返しを願ってはいけない。また、施しや親切を受けても、その恩を忘れてはいけないという意味ですが人間は我がありますからその逆を思っていたりするものです。こんな態度になれば徳を積むこともできません。

いつも誰かに助けてもらっているはずであるのに自分からは誰も助けようとしなかったり、自分がしてあげた分に報いようとしない相手に矢印を向けたりと恩を私物化してしまうのです。まさにこれこそが仇そのものであり、恩を仇に置き換えてしまっているのです。恩を仇にし仇を無理やり恩着せるでは恩の意味が違ってしまいます。

この仇というのは、辞書によればあだ、かたき、特に憎い相手。相手の仕打ちに対する深い憎しみ。あだする。憎む。恨む。また仲間、相手などという意味があります。今まで仲間であったものが裏切ったりすることで仇になります。つまりは恩を忘れると翻って仇になるというものです。

いつも自分から恩を感じることは、いつまでも助けてもらったことを忘れないことです。それを忘れては逆恨みをするというのは助けてもらった相手を憎むなどというおかしなことをしていることになります。

恩とか仇とかに悩むときは、ただ只管に徳を積むことを意識するといいのかもしれません。お互いに見返りを求めずにただ徳を積んで御蔭様や助けてもらっている存在に感謝して行動をし続ける。そういうことで恩は本物の恩として周囲に送られていくようにも思います。

恩が仇になっていくのは、してやったとかされてやったとか自分のやったことを正当化し過ぎるからです。させていただいたと謙虚にその機会にこそ恩を感じて自他を意識しない方がいいのかもしれません。

人間関係は対等であることや平等であること公平であることなど常に自分が意識して帳尻を合わせたがるものですから恩を仇で返すようなことは日常茶飯事で発生するのかもしれません。

恩送りのままにいられるように徳を積み、徳を磨いて精進していきたいと思います。

素直さを磨く

素直さというものは、人間の生きていく上でもっとも重要な徳性であるように思います。素直な人はいつも大事な局面において、天の助けや人の助けを得ては困難な状況を打開していくことができるように思います。

人間は自分の心の動機や、純粋な思いや、そして正直さなど自分の信じることが道理に沿っているのならその道は必ず導かれて使命に近づいていくように思います。そのためには素直に聴く力を高めていく必要があります。それは自分の思い込みで聴かずに決めつけていくような歪んだ状態ではなく、正直に素直に丸ごと人の話を聴く心を持っているということです。

松下幸之助さんにこういう言葉があります。

「素直な心とは、何物にもとらわれることなく物事の真実を見る心。だから素直な心になれば、物事の実相に従って、何が正しいか、何をなすべきかということを、正しく把握できるようになる。つまり素直な心は、人を強く正しく聡明にしてくれるのである。人の話を素直に聴けるのは、自分の心の中にある素直さを守り続けていく必要があります。」

決めつけや思い込みや自分の勝手な解釈や都合で他人の話を聞くのは素直な心ではありません。何物にも囚われないとは謙虚な姿勢であり、教えてくださっていることを素直にやってみようとする心です。人は運を味方にして成長して伸びる人と伸びない人がありますが、前者は素直に何でも受け容れてそれを体験して自分なりに味わう人です。後者は最初から疑いながらいいところだけを取ろうという人です。

素直さというものをもって人の話を聴くのなら、どんな結果になったとしてもそこから大切なことを学びます。それは何か、それは真実のことです。正直さや素直さというのは、自分の観念で現実を歪めることがなく常に現実あるがままを直視し、直すものは直し、素ではないものは素にするのです。

自分の素が分からず、自分をいつまでも直せないのは自分の心の中にある素直さを裏切り続けることで発生してきます。そうやって心が曇ってしまえば、自分自身のことも見失い人の話も聞けなくなり自己と正しく対話することもできなくなるのです。

自分の素直さを守り続けるというのは、常に素直に聴くことができる状態を維持し続けるということです。なんでも人の言う事を鵜呑みにすればいいという意味ではなく、心で聴くという実践と訓練をし続けるということです。

心の鍛錬は常に素直さの鍛錬により磨かれます。

子どもたちのためにも、素直な心でいる訓練を怠らないよう精進していこうと思います。

ゼロベースで生きる

人間の思考には過去から考えて判断をするという習慣があります。過去の経験というものは時にはそれが自信になったり知恵になることもありますが、時としてはその過去の経験が枠や囚われになってしまい自分の考えを制限する材料になってしまいます。

その時の状況や環境は今とは異なっているのにも関わらず、過去にこうだったからと決めつけては先に答えを出してしまっています。そうなると未来への挑戦をするにしても、自分で決めた枠組みや先入観からのどうせ無理だろうに先に負けてしまい過去にしばられて未来を自由に創造することができなくなります。成功体験は自分の成功パターンとしての過去の栄光にしがみつきその同じパターンでしか成功しないと思い込んだり、失敗体験は自分の失敗パターンとしてそこを避けて行動することで視野が狭くなり行動も縮こまってしまいます。

そうならないようにするにはゼロベースで考える訓練が必要です。これは過去のことに囚われず、今までの先入観や枠を一度すべてご破算にしてもしも今からやるとしたらどうするか、もしも何もないところから挑戦するのであれば何を目的にしてどこまでいくかという目標を自由に考えるところから始める訓練です。過去や柵に囚われている姿はもっとも目的から離れた姿なのです。

自分はきっとこうだと勝手に思い込んでは、自分の収まりのいいところに甘んじていても未来が変わることはありません。そうではなく、真っ新の状態、ゼロベースで過去から考えず、初心や目的、理念から自由に発想して取り組んでいく中で過去が刷新されていきます。

畢竟、人生を変えるというのは過去を刷新するということです。過去がどうだったかが問題ではなく、今ここがすべてだと思い新しい自分になっていくことです。それは自分の中で良し悪しを決めないことであり、如何に目的に対して自分の方を変化させていくかということです。言い換えるのなら人生の挑戦者であり続ける訓練なのです。

本来やりたかったことをやったり、本当に願うことに取り組むためには無条件で自分がやりたいことを自分の中から見出す必要があります。そのためには、自分をゼロにする努力、つまりは自分の先入観や過去や偏見をまずは捨ててて目的達成のためだけに集中してみることです。

それは決して今流行りのリセット願望のように自分にとって都合の悪い過去をなかったことにしたり、自分の理想の状態以外は認めずに消し去ってしまおうとしたりするのではなく、自分というものに固執せずに目的のために自分を変えていこうとする挑戦によって新しい自分に出会い続けることが人生を本当の意味で変えていくということです。

ゼロベースで生きるというのは、常に目的や初心や理念に合わせて新しい自分に出会い続ける挑戦者であるということです。子どもたちにも諦めずに自分を大切に生きていく手本が示していけるように挑戦を続けていきたいと思います。

最高の宝、天性の持ち味~自分を見つめてみよう~

人は本当の自分になることで真実が観えて現実が変わります。その価値観の殻を毀すのは自分自身ですがそれは自分を自分で創り上げていくという人生の使命です。その自分を自分で知るには、自分の体験や経験を通して学んでいくしかありません。その学んだことを通して自分が何を感じて何が変わったか、その変わっていく過程を知ることが人生の本の一ページをめくることのように思います。

私の恩師がよくリジリエンシーの話をします。これは立ち直る力とも言われ、素直に起き上がるために何が必要かという力のことです。私の解釈ですがそこには三つ大切な要素があるといいます。

一つ目は、無条件で愛し愛されること。二つ目は、楽観的であること、ポジティブであること。言い換えれば禍を福に転じたり、ピンチをチャンスにしたり、短所を長所に転換できるということ。三つめは、自分が好きなことです。この自分が好きなことは自己肯定感とも言われ、自分の弱さも含め丸ごとそれが自分であると受け容れて自分自身を信じてあげることだと私は思います。

自分と向き合うためには、自分を見つめられるようにならなければなりません。その時に、自己嫌悪して自己否定ばかりしてきた自分を見つめたくない思いから人はなかなか自分と向き合うことができません。自分と向き合うには、自分のいいところを探したり、自分の信じているところや、自分自身のことをもっと深く掘り下げて本当の自分の良さを自分で見つけることが大事になります。

自分と向き合い、自分を見つめてみれば外側の世界が問題なのではなく自分自身の問題で外側の世界や現実が歪められていることに気づきます。感情もまた向き合いたくない、見つめたくないから自分を防御するために出てくるのです。感情に呑まれるのも向き合いたくないから、見つめたくないからでもあります。

その現実を受け止めてそれでも自分が変わりたいと素直に思えるのなら、その素直に変わりたいと思う自分を信じて認めてあげることで諦めない自分を好きになれると思います。本心や自分の声を大事にするというのは、現実よりも自分の声を信じてあげることで大切にできるからです。

幼いころから閉塞的で画一的な社会の抑圧の中で自分ではいられない、自分を無理やり周りに合わせたり、自分を否定されたりすれば自分が歪みます。その歪みから自然体でいられなくなり、自分がわからなくなり苦しんでいることもあります。しかしそれも必ず殻を毀し抜けていくことができるのです。

そのためには自分の良いところや周りの良いところ、長所や持ち味を活かして自分自身も周りのことを信じてあげるところからはじめることです。みんないいのはみんなが違うときで、人と違うことはすべてその人にしかない天性の持ち味だからです。

もう一度、自分を見つめてみてください。

きっと天が与えてくれた最高の宝が、天性の持ち味が発見でき世界に一人しかない自分の個性を発掘できる仕合せに出会えると思います。子どもたちの心を信じきれるような大人になっていきたいと思います。

内省こそ本物の人生

内省という言葉があります。内観ともいい、英語ではリフレクションとも呼ばれます。一般的には、自分の考えや行動などを深くかえりみることとだとされていますがこれは人生において何よりも重要で優先するものなのは間違いないことです。

なぜ内省が必要なのかを少し書いてみたいと思います。

内省といえば、論語に「子曰。君子不憂不懼。曰。不憂不懼。斯謂之君子已乎。子曰。内省不疚。夫何憂何懼。 」があります。これは孔子が君子は憂えず恐れることはないといったとき、弟子が憂えず恐れなければ、君子と言えるのでしょうかと尋ねた時、自分自身の心に疾しいところがなければ何を憂え何を恐れるものがあるかと言いました。

この時の内省をする相手は誰か、それは自分自身の本心、本物の自分ということです。しかしもしもこの本物の自分自身が何処にいるのか誰なのかもわからず、そしてどんな人なのかを知ろうともせず、自分勝手にきっとこんな自分だろうと勝手に自分の仮定した都合のよい自分を自分だと思い込んでいたらこの内省は決してできません。

内省がとても難しいのは、本物の自分が観えず自分の初心や本心を自分が知ることができないからなのです。

人間は本来、自分の本心、つまりは何のために生まれてきて何のために自分を使っていきたいかということを知っています。しかしそれが様々な我欲や願望、周囲の環境や刷り込みによって自分というものの本心が隠れて別の自分としてこの世の中で立ち振る舞っているうちに自分というものが分からなくなっていくものです。

松下幸之助さんが素直の百段を目指していたのも、そうした本当の自分自身というものの声を聴くために内省を続け、素直であったかと自分を戒め天命に従い使命を全うされていたように私は思います。

論語には、もう一つ「三省」という有名な言葉があります。ここには「曾子曰。吾日三省吾身。為人謀而不忠乎。與朋友交而不信乎。傳不習乎」とあります。これは私は常日頃から自らのあり方を省みる。人の為に心を動かされて忠ならざる事はなかったであろうか。 志を同じくする友の意に従うばかりで信ならざる事はなかったか。己の身にもなっておらぬ事を妄りに発して、人を惑わせていなかったと。つまりは真心のままであったか、本心のままであったかと常に自分を確かめながら歩んだのです。

本心や真心を初心とも言いますが、この初心のままの自分であるかどうかがもっとも大切なことでありそれは自分の行動や発言、経験したことを常にその場で振り返り初心に照らして本当にそのような自分でいられたかと確かめ続けるということです。

人間は本当の自分になることや、本来の自分自身になることが答えを生きることであり、いつまでも自分を探していても答えがあるわけではないのです。だからこそ内省が何よりも重要であり、内省なくしては本物の人生もまたないのです。

自分自身になることが本来の自立の本質であり、独立不羈、唯我独尊もまたその自分になっていくことです。心をかき乱されないように内省を続け、平常心のままに自分自身を自分自身で生きていく、そういう一生懸命な生き方の中で心を開き心豊かに自分の生を全うしていくことが自然の大道でもあり、人間本来の生きる道を叶うことだと私は思います。

自分に出会える仕合せと、自分でいられる仕合せ、まさに自分との邂逅が内省によって行われるとき人は本当の意味で世界を知り全体を知り、そして自分になります。

引き続き、子どもたちには内省の場の大切さを説きつつ内省の価値を伝承していきたいと思います。

天謙の道理

人間は、自分自身と向き合い初心を確認してその初心から離れないようにしなければ気が付くと他人の夢をいつまでも追い求めたりするものです。自分自身が本当の求めていたものは置き去りにして、自分が認められたいことや手に入れたいと思っていた願望を追い求めたら成功はしても仕合せではないという矛盾が発生してしまうこともあります。

今度はそのように成功してしまえばそこから離れることができず、いつまでも不仕合せが続いてしまうということもあります。この本当の自分が何を望んでいるかという初心を自分から先に手放してしまわないようにすることこそが初心を忘れないということです。

ではどのような時に初心を忘れるかといえば、自分に負けるときになります。例えば、比較競走社会の中で誰かと比較して自分が認められようとしたり、自分が差別されたり酷い評価をされたりすることへの復讐をしようとしたり、ないほうばかりを見てあるものを観なくなったりするときに自分に負けて初心を忘れるのです。

そもそも与えられた天命を謙虚に受け止めて、それが天命であり使命であると真摯にいただいたものに感謝して歩んでいる人は初心がいつも身近に備わっています。その逆に、与えられた環境には満足せずこんなはずではないや、もっとこうであるはずといったないものねだりばかりをしていたら自分に与えられた天分というものもまたわからなくなります。

身の丈が分からなくなるのもそのときで、自分の存在が本来の自分の姿より大きくなったり小さくなったりとしているうちに自分が歪んでしまうのです。自分が歪んでしまったときに、親切な身近な人の声を聴ける謙虚さがあればいいのですが往々にしてそういう時に自分に負けて人間はそういう親切な人の話に耳を傾けなくなるものです。

謙虚さというものは、天命に対する謙虚さのことです。つまり天=謙であるということです。謙虚さを忘れるとき、人は初心を忘れるのです。常に謙虚でいることは、常に初心を忘れないでいること。人の話に素直に耳を傾けられる状態でいること、つまりはもっとも自分が聴くことができる状態でいるということです。

子どもたちに背中を遺すためにも聴福人の実践をしながら、天謙の道理に外れないように初心を忘れずに歩んでいきたいと思います。