歴史を継ぐということ

昨日は、郷里の炭鉱遺構でもある大門炭坑(原口炭坑)に見学にいくご縁がありました。長年、住んでいながらちゃんと見たのははじめてで,、ここの土地のオーナーの方に隅々まで案内していただきました。

ここは市が運営しているのではなく、完全に個人で整備し無料で開放して見学者に炭坑の歴史を遺してくださっています。かなりの広さに合わせて、竹林の伐採や除草など大変な費用や労力がかかっていると思いますが、これだけの炭坑跡はなかなか遺っておらず有難いことだと感じます。

ここは明治27年に開坑し、昭和38年ころに閉坑したそうで巻揚機台座などがまだまだしっかりと遺り、ボタ山も立派に存在しています。足元には、1億年前の木の化石でもある石炭が大量に転がっており、かつては黒ダイヤとして非常に価値が高く、燃料として人々の暮らしを支えたものですが今はひっそりとした佇まいにかつての歴史を感じます。

本来、自分たちの先祖が何をしてきたか、そこにはどのような文化があったか、そのルーツを知ることで私たちは自分たちのアイデンティティの源泉に触れていきます。特に子どもの頃に、どのような風土や環境の中で育成されたかが自分たちの将来の誇りになっていくこともあります。

よく私はどこどこ出身とか、幼いころからこのような行事をしてきたとか、何が有名だとか、自分たちを語るとき、自分たちの郷里や風土を語るとき誇りや自信を感じます。かつて留学した時、世界各国の人々が集まりそれぞれに自己紹介するとき最初に話をするのは自分が何処からきたものであるか、そしてこれから何処にいこうとしているか話していました。

それだけ私たちは自分を語るとき、自分が何者であるかご先祖様はどのような人であったかと伝え合うのです。今も残る世界各地の少数民族もまた神話を通して自分たちの歴史を語りルーツから今までを伝えます。

それが誇りであり、どのような生き方をした人がどのような生き様であったかと伝え自分はその文化を伝承しているということを語ることで自分を知るのです。

今ではこの炭坑跡も、お金にならないからと産業廃棄物を捨てる場所になったり整地されてソーラーパネルが置かれたりしています。この文化や遺構の価値に気づく人も次第にいなくなり、跡形もなくなくなり誰も語られなくなることは本当に残念なことです。

歴史を継ぐというのは、私たちがこの伝統の民族であり続けるということでもあります。子どもたちに、誇らしく感じてもらえ、自信をもって世界に出ていけるような存在にしていけるように真摯に時代を見つめ直して福に転じていきたいと思います。

火から学ぶ

古民家甦生を実践する中で、囲炉裏や竈、和ろうそくなどかつての暮らしの火を中心に甦生していきますがこれはとても現代の暮らしとの対比をするのに重宝しています。

かつて日本の民俗学者である柳田國男氏にこのような記述があります。

「世の中が進んだということを今が昔とくらべてどのくらいよくなっているのかいうことを考えてみるのには火の問題が一番わかりやすいと思います。闇を明るくするために昔は大変な苦労をしたのであります。」

今では電気をつければスイッチ一つでどんな暗闇も瞬時に明るくなりますが、昔は夜を明るくするということは大変なことでした。昔のことを調べていると、かつては夕方になるとじわりと送電線から電気が流れてきて夜は電気が灯され、朝方には自然に消えていたといいます。スイッチなどもなく、水力発電などで電気を送電していたそうです。

明治の頃、若い留学生たちが欧米に渡航した際にガス灯で明々と照らされた夜をはじめてみたとき、きっと今では計り知れないほどの衝撃であったかもしれません。それほどかつては、夜は真っ暗であり火を灯しながら暮らしを成り立たせていました。

現代においては、コンビニを中心に明々と町中が照らされ、どこもかしこも街灯があり都会などはまるで昼間のようなネオンの明るさでにぎわっています。夜が失われたことと同時に、火の暮らしも失われたのです。

しかしこの懐かしい火の暮らしは、人間を内省的にし、心に豊かさとぬくもりを与えていました。ゆらゆらと揺らぐ炎には、まるでいのちの様相を実感し、その灯りによって精神が落ち着いて心が穏やかになったものでしょう。

なんでも便利になっていくと当たり前のことに感謝できなくなっていくものです。そしてそれは物だけではなく人に対しても感謝の気持ちが失われていくものです。不便さというものは、当たり前ではないことに気付けるものです。電気の有難さは電気が失われて気づきます、そして火の有難さも火が失われて気づきます。

便利になればなるほどにもっとも当たり前である大切な存在を忘れ、そうではない存在ばかりを気にしてしまいます。太陽であったり空気であったり水であったり火であったり、私たちはもっとも当たり前にあって大切である存在に日々に感謝できているでしょうか。

便利さという豊かさは、真の豊かさではありません。不便さの中にある豊かさは、当たり前の存在をいつも気づかせてくれます。昔の人々は、人間として感謝の心が磨かれていたからこそ自然そのままの暮らしで善かったのでしょう。敢えて技術的な豊かさに走らず、もったいない質素で慎ましい暮らしの中にある心の豊かさを大切にしたのかもしれません。

火から学ぶものを、様々な心のカタチにして子どもたちに伝承していきたいと思います。

 

豊かさ~感受性を磨く~

人生が豊かな人という人がいます。その人はどんなできごとも感受性豊かに感じ取り、自分と周囲を尊敬して美しいものに日々に感激しています。物質的なものは他人でも作り出せますが、心の中のものは自分にしか創り出すことができません。心の感性を磨いていくことができる人は豊かであり、仕合せな人だといえます。

ではどのように心の感性を磨いていくか、それは人間の持つ豊かさを高めていくということです。どんな小さなことでも素晴らしいと感じる感性、どんなに微細な変化でもすごいじゃないかと驚く感性、どんなご縁であってもそれがとても有難いと感謝を実感している感性、そういうものを日々に味わい感受する力を育てていくということです。言い換えれば無感動人間ではなく、日々感動人間になるということです。

私はかつて営業の仕事をしていたころ、日々に出会う方々の御蔭様でいつも自分と相手の素晴らしいところや美しい心を感じる修行をする機会がありました。毎日、本当に多くのお客様のところに訪問し常に自分が何者か、そしてお客様に何を伝えたいのかと、その時々に合わせて対話をしていました。どんな人でもこの方は本当はきっと美しい心を持っていると尊敬し、この方はきっと素晴らしいことを教えてくださっていると信じて、心をオープンにし、相手を尊重し褒めたたえる訓練をしました。

周りの営業の方からは私がおべっかを使っているとか、褒めすぎて気持ち悪いとか言われましたが、私自身は褒めることは自分が相手を認めるところを磨くことだと信じていましたから相手の善いところ美しいところを探そうと精進していきました。

その御蔭様で、どんな人ともいい出会いに恵まれさらには同時に自分の感性も豊かになっていくような機会をいただいたような気がしています。そしてそれがどんなに苦しい時にでもできるか、つらい時にもできるかと心の感性が高まったように思います。

人間は豊かさの分だけ、その豊かさが周囲に伝達していくように思います。豊かな感性がある人は感動によって自他を動かしていきます。豊かな人は、感性のアンテナがたち、好奇心が発動している状態であり、さらに万物を尊敬する状態になっています。

人間はどんなに物質的な豊かさを持っていても、感性が鈍くなると何も感じません。そしていくら物質的に貧しくても感性が豊かな人はその貧しさを豊かに転換していきます。そうやって人間性が磨かれていけばいくほど、真の豊かさもまた持てるようになるのかもしれません。

何歳になっても感動できるような人物になるというのは、豊かな人間になるということです。豊かな人はその存在だけで周囲を仕合せにしていきます。感受性を磨いていく人生とは、豊かな人生のことです。

引き続き、感受性が鈍ったり感動がなくなったりするようにならないようにどんな物質的なもののあるないにかかわらず、子どもたちに見習い感性を豊かに育てていきたいと思います。

 

日本人の役割

自由や平等という言葉は、以前からよく権力や支配に対立するものとして用いられています。言い換えれば、権力や支配によって社会を管理していく中で反発するものは排除していこうとするときにこの言葉が使われることが多いように思います。

人間は社会をつくっていく生き物ですから、そこに個々の主張が入ってくればどう折り合いをつけるかを考えなければなりません。それを誰かだけの主張を優先し個々を無視したり軽視すればそこに差別が発生し反発していくものです。

宗教論争や、戦争の発端になるのもまたこの人権のところが折り合いがつかずに争いは尽きません。歴史をみて今をみても、あまりその問題は変わっておらず世界情勢を観ていてもいつも問題は自由や平等の主義主張の話ばかりです。植民地化するということが前提になっている国造りではこの問題はいつまでもなくなりません。勝者や強者が敗者や弱者を支配すれば、対立がうまれすぐにまたその立場が栄枯盛衰で逆転すると何度も似たようなことを繰り返していることに変わりません。

7世紀初頭、日本ではこの似たようなことに正面から向き合った方がいました。それは聖徳太子です。この時代は、それまでの日本に渡来文化や宗教、他民族との融和などあらゆることが同時に発生していました。その争いの姿を観た聖徳太子は、未来の国と子どもたちの行く末を案じて国家の理念を明確に打ち出しました。それを17条の憲法を制定し、「和をもって尊しとなす」としたのです。

この「和」は、すべてのものが守るべき理念でありその理念を何よりも優先することとしました。これは日本の風土の中では、どんな民族、宗教、文化の違いがあったとしても、何よりも仲良く協力して調和することを優先しなさいといった考え方です。

誰かが誰かを支配するのではなく、一緒になって協力して調和を優先していこうとすること。言い換えるのなら、個々を尊重し合い和することを絶対的なルールにしなさいということにしたのです。

それぞれに信じたものを絶対的な正義にしてその正義を振りかざせば対立や争いは尽きません。そうではなく和を優先していけばそこには調和や融和、対立や争いではないところで対和していくことができます。そこからお互いを思いやることを大事にしてみんなで一緒に助け合い生きていく方法を考えようとなるのです。

日本の平和の精神の礎はこの「和」にこそ存在します。

あの時代から1300年、変わったようで変わらないのが人の世の常です。しかしあの当時に心配してきたものが世界の国々がいよいよ混ざり合う今の時代になってようやくはっきりとその意味と向き合う時期に来ています。

日本に産まれ日本人としての役割を世界に果たしていきたいと思います。

幸福の道

生きていく中で私たちが学ぶ大切なことに「感謝」というものがあります。この感謝は、自然に生まれてから備わっているものですがそれを磨いていく中で人格が高まり人生がよりよく仕合せに実現していきます。

しかしこの感謝は、性格の歪みによって別のものにすげ換ってしまうことがあります。それは「素直」かどうかがカギを握ります。性格が素直な人は、感謝しかない状態でその心境のままであるから無理をしたり頑張ることがありません。

文字通り素直に自分の心と言葉が一致しており、無理して頑張って感謝したりされなくても自然に感謝の状態を維持することができています。その素直さが謙虚さであり、感謝しかなく有難いと全てのことを感じているからこそその人物は自然体で人を信頼し、また周囲から信頼され、楽しく豊かな日々をみんなと一緒一体になって生きていくことができます。それこそが、真実の幸福であり自由であり自立した成熟した人間の姿です。

ただ幼少期から、自分以外の誰かの評価を気にしてはその評価がよくなるように頑張って評価される経験を積み重ねていくと自分の仕合せが歪んでいきます。無理して誰かのためにやることで自分が仕合せになると信じ込めば、感謝もまた評価の一つにすげ換ります。

本来、感謝は自分が仕合せを感じているのが先です。例えば、こんなに恵まれて有難いや、自分の好きなことをやってみんなが喜んでくれてとか、自分の遣り甲斐が誰かの役に立っていて幸せとか、まずは自分自身が自分自身であることに感謝していることが先であることが本来の感謝ということです。

しかし実際は性格が歪み素直でなくなれば、感謝のために頑張ろうとして感謝を忘れるという本末転倒することをしてしまうのです。

禅語に「足るを知る」がありますが、これは自分がまずその恩恵をいただいていることに感謝することです。不足を思うのは感謝ではなくなっているからであり、知足を感じるのは感謝の状態になっているからです。そこには無理な努力や頑張りは必要なく、いただいている感謝を活かしてもっとみんなの歓びになりたいと自然体になっていきます。

自分自身が仕合せかどうか、それを立ち止まって考えることは感謝を忘れない実践です。感謝を忘れていないのならば素直のままであるということです。素直だから事物は明察され鏡の如く真実がそのままに映りますからどのような判断もあるがままです。

人間は誰かのことをとやかく言う前に、自分自身はどうなっているのか、自分に矢印を向けて謙虚かどうか素直かどうか、また感謝のままでいるかどうか、「人間としての自然体」を常に自己反省して人格を磨き高めていくことが幸福の道につながります。

子どもたちを見習い、素直で謙虚で感謝しかない生き方を目指していきたいと思います。

自他一体~八百万の精神~

日本には古来から全体にとって善いかどうかを大切にする精神があります。これを「和」とも言います。この和というものは、調和の和であり、バランスを取りみんなで協力し合い生きていくことを優先して暮らしを形成してきた民族です。

この和を尊ぶというのは、日本民族の理念であり日本という国が世界から称賛されるのも根っこにこの和が息づいているからであろうと私は思います。例えば、震災や災害時には日本人は誰に教えられたわけではなく自然とみんな自律して周囲のために思いやりの行動をとります。これは自分だけが勝手なことをせず、全体善のために自分が自らを律して自立するということを実践しているということです。そしてこれが本来の自由の姿です。

「自由」という漢字はもともと仏教から伝来したものだそうで、これは仏陀が臨終が近くなった時に弟子たちに「自らを拠り所とせよ。他人を拠り所とするな。法を拠り所とせよ。真理を拠り所とし、どこまでも向上せんとする自らを灯とせよ。」といったところからきているともいいます。自灯明、法灯明といい、自らに由り、法に由れともいってもいいかもしれません。

ちょっと難しくなりましたが、私なりの解釈ではこの自我に囚われないで思いやりを盡すことや、我執を手放し真心で生きていくことを指すように思います。そしてそれを自分自身で自覚することは、勘違いすることもあることからみんなのためになることをし、全体にとって善いことになるようにつとめていくことをいうのだと思います。そしてその状態が「和」であり、社會の一員として周囲を思いやり生きていくことを優先して平和を築いてきたのです。

現在、その自由の意味が単なる束縛からの自由であったり、外圧からの自由、自分の欲望を開放する自由や、常識から逸脱することを自由だと定義しているものもあります。人格が未熟な状態で自由を持てば、人間はその自由を武器にして他を傷つけ、周りを排斥し、平和を壊し戦争を生み出します。そうなると結局は、対立関係になりいつまでも本当の自由は訪れることはありません。

本当の自由は、全体善のときにこそ出てくるものです。日本では八百万の神々といって、この世のすべての存在は神様であるからその神様たちがみんな仕合せになるように配慮して生きていこうとする思想があります。

これは自然の思想ですが、みんなによって善いものを探しみんなにとって善い生き方をしていこうと全てを幸福にするように自分を少し慎み利他に生きようとし循環型の社會を築いていきました。

本当の自由は、どこまで全体を自分だと思い思いやるか、如何に自分が全体によって生きていられる存在であるかを自覚することで目覚めていくことができます。それを私は自他一体の境地であるとしています。

引き続き、子どもたちが未来に異なりや違いを超えて幸福な社會を築いていけるように様々な刷り込みを取り払っていきたいと思います。

真の国際人

世界にはそれぞれの風土に適した文化というものがあります。それはその風土で仕上がった環境が個性として生き物に顕現されてきたものとも言えます。その個性が風土そのものであるとき、私たちはそこに多様性を見出し、さらには世界に唯一の個性を実感するように思います。

現在、大量生産大量消費の経済優先の世界において画一化されていき風土の個性もまた消失して文化も失われていきますが本来はこの唯一の個性を発揮するからこそ国際的に必要になるわけでそれがなければ世界の中でユニークな自分を発揮していくことはできません。

白洲正子にこんな言葉があります。

「本当に国際的というのは、自分の国を、あるいは自分自身を知ることであり、外国語が巧くなることでも、外人の真似をすることでもない。」

自分自身を知るということは、言い換えるのならば風土を知るということです。その風土を知り、風土人であるからこそ世界でその風土の進化の過程が発展の原動力になっていきます。あらゆる生き物や道具は、文化を具備していますからそのものの値打ちや価値が分かってこそはじめて世界の同様に進化してきたものと渡り合うことができるのでしょう。

日本の文化というものは、私たちが今までどのような環境の中で育まれてここまで来たかというご縁の変遷のことです。そしてそれは景色や風景というようなものと一体になってどのように自然の姿そのままに暮らしを実現してきたかということです。

今は、渡来した文化に影響を受けかつての日本人としての個性や風土の文化を捨てて別の国の人のようにその国に存在していますが自分たちが何者であるのかを分からなくなった人たちが増えたように思います。自分が何者なのかを知るということは、国際人たる人物の入り口でありさらにはそこを掘り下げていくことが真の国際人になる道です。

最後に白洲正子の言葉です。

「日本の自然ほど多くのものが含まれているものはない。その中には、宗教も、美術も、歴史も、文学も、潜在している。」

もっとも日本の風土に長けた人物こそが、これからの時代で日本を代表して世界で活躍していくでしょう。引き続き、子どもたちに根がつながる暮らしを通して本物の日本人を伝承していくために命を懸けて文化事業に取り組んでいきたいと思います。

今ここ、すぐやる

物事をやるときにすぐやる人と先延ばしにする人がいます。少し前の流行語に「いつやるか、今でしょ!」がありましたが、今やる人は常に主体的であり後でという人は受け身になっていることがほとんどです。

この理由は簡単で、期限が迫ればその期限の圧力や惰性の力で物事をなんとかしようとするのは「しなければならない」という外圧を用います。例えば宿題などもそうですが、期限があるからやらなければならないからやっているのでありそれを何度も何度も繰り返していく中でそうやってやることが癖になってしまっているからです。

本来、宿題などではなく自分から進んで学びたいと思っている人は期限がありません。いろいろなことを深めていきながら、その事物に没頭していきます。この没頭するというのが今のことで、今没頭しているのだから後にするという発想はありません。もしも後にしたとしても、それは先延ばしではなく没頭しながら後にするので「今」から離れたわけではありません。

これはどんな仕事もそうですが如何に意義を持たせて面白くやっていくか、面白くないことでも如何に面白く取り組むかが、「創意と工夫」です。創意と工夫をする理由は、好奇心をもって主体的に自分が取り組めるようにするためでそれを維持することでマンネリ化を防止しているのです。

そもそもどんなこともそれをやる理由は何かと思うとき、それは単にやること自体が目的ではなかったはずです。そう考えてみると、ただ真面目に頑張ればいいのではなくもっと楽しく面白く豊かにやる工夫は自分自身ができるはずです。余裕がないからそうなったのではなく、余裕を創造していないからそうなっていくのです。

忙しさというのは、創意工夫で忙しくなくなるものです。それは自分が初心を忘れずに心を籠めていくことを大事にしたり、せっかくだからと一石二鳥のようにこちらで学んだことをあちらで活かし、自分が起きたことを誰かの役に立てたりと発想を転換していくことで忙しさは感謝に換ります。

一見つながっていないように観えますが、この感謝があるかどうかが「やっているのとさせていただいている」との大きな違いになります。させていただいていると思っている人は無駄なことは一つもないことを知っており、その機会に感謝し、天からの声やお客様からの声、周囲からの声を真摯に聴き、それを楽観的に福に転じていきます。いわば素直で謙虚な人です。聴いて福にする人というのは、常に素直に謙虚に物事の声を聴き自分に矢印を向けて反省を欠かさない実践を積んでいます。

思考の癖もまた刷り込みですからそれに気づいてそれを転換するためにもっと創意工夫や余裕を創造していくといいのかもしれません。またあれこれと考えて先延ばしするのではなく、今来ているものだけを丹精を籠めて取り組んでいくことで今に没頭していけるように思います。今、此処すぐに自分を使っていくことの繰り返しが真の余裕を持たせるように思います。引き続き、今できることに人事を盡していきたいと思います。

精とは何か

よく精進や、精神、精通、精一杯、精を出すとか働くときに用いられるこの「精」という字があります。この精という字は、誠や魂、真心など目には観えませんがそのものの根源、そのものの本体、本性のことを指すように思います。

精神統一という言葉もありますが、これは自分自身のすべてが混じりけのない純粋なものになっている、雑念もなく澄んだ状態でそのものと一体化しているときにも使われます。

精の語源は、青はよごれなく澄んだ色をあらわし、精はよごれなく精白した米。(漢字源)とあります。自然体で無の境地、そのものの根源や根本、根元の力を使っていくことが精を出すということです。

働き甲斐や遣り甲斐、生き甲斐はこの精を出すかどうかに由ります。

そう考えてみると、どんな小さな仕事であってもどんなにわずかな行為であっても、その事物や出来事に初心や目的を忘れないで取り組んでいくことが精進とも言えます。

社会福祉活動家のヘレン・ケラーが遺した言葉に、「I long to accomplish a great and noble task, but it is my chief duty to accomplish small tasks as if they were great and noble.」があります。これは訳されると「私は素晴らしく尊い仕事をしたいと心から思っている。でも私がやらなければならないのは、ちっぽけな仕事をも素晴らしくて尊い仕事と同じように立派にやり遂げることなのだ。」といいます。

自分が取り組んでいる仕事は、どんなことでも目的や理念に通じる尊い仕事であると片時も忘れずに取り組んでいくことが精を出すことであり精進するということです。ただ闇雲に頑張ることを精進というのではなく、どんな物事や出来事に対してもその価値を自分の都合で決めて要領よく雑に取り組むのではなく常に真心でどんなことに対しても細心の注意と丁寧さ、いわば丹精を籠めて取り組むときその生き様は精進と呼びそして遣り甲斐や生き甲斐になっていくように思います。

マザー・テレサは、「いかにいい仕事をしたかよりもどれだけ心を込めたかです。」ともいいます。日本語に昔からあるこの「精」という字は、同様に誠や真心を顕しています。

結果に対して云々ではなく、そのプロセスにどれだけ精神を傾けて誠を盡したか、それが日々の自己の創造に問われているのでしょう。評価ばかりを気にしている人はどうしてもこの精進することができません。

今の仕事に打ち込んでいくことで道は開けていきますから、子どもたちの未来のためにも常に今、全身全霊で事に当たり精神を磨いて真心を発揮し歩んでいきたいと思います。

 

 

歓びの種

社会現象の一つとして、遣り甲斐や働き甲斐について語られることが少なくなっているように思います。これは生き甲斐のことであり、生きる歓び、働く歓び、遣る歓びを感じにくくなってきているということです。

まず働き甲斐というものは、決して楽ばかりを求めたり、効率や結果ばかりを望んでいても得られるものではありません。実際に働き甲斐は、苦労や非効率、プロセスの中に存在するものであり不便さや手間暇の中で感じるものです。

仕事をする際に自分自身がどういう考え方や姿勢で臨んでいるか、先ほどのように効率優先、要領よく、結果だけをみて早くスピーディなことばかりをやっていたら働き甲斐は失われていくのです。楽ばかりを求めていく社会の価値観に自分も流されれば、日々の仕事はつらいだけのものになります。苦労するのは、誰かの役に立つ歓びを同時に連れてくると感じるのなら、誰かのためになることと自分のためになることが仕事になるように努めていくことが好きな仕事にしていくコツかもしれません。

好きなことをやるというのは、単に自分の趣味をやるということではありません。自分が何のお役に立てるか、どういう天命を持っているか、自分の才能がどのようにみんなの役に立つか、自分にしかできないことで如何に世の中の力になっていくか、ここに生き甲斐と遣り甲斐があり好きなことに出会います。

大好きなことを仕事にする人はみんな、そういう自分が役に立っている歓びを知っている人たちであり、好きなことをして生計を立てることができる仕合せを享受しているとも言えます。

人間社会には、得るものと与えるものしかありません。自分たちが得ているものは誰かが働いてつくってくださったものをいただいて生活を営むことができています。同時に自分はそれをいただき、誰かに何かを与えることで生計を立てることができています。

与えられたもので生活をしているのだから、同時に与えられた場所と与えられた仕事に打ち込むことで自分も与える側の役割を果たすことができます。もしもそれが自分にしかできないことで、社会が必要としていると実感することができるのならばそれが働き甲斐になり、遣り甲斐、生きがいになるのです。

生き甲斐や遣り甲斐、働き甲斐を持つ人は自分の天命を愛しています。同時に仕事も愛しています。自分が心を籠めて取り組んだ質量が、その仕事の値打ちを高め自分の値打ちも上げていきます。どれだけ本気で自分の与えられた仕事に没頭できるか、ここに私は歓びの種があるように思えます。

どんな種を与えてもらったとしても、それを懸命に育てていく中に生き甲斐があります。子どもたちに全身全霊のすべてを与えて愛を育てるように、自分の仕事にも同じように全身全霊の愛をもってかかわっていきたいと思います。そしてそれこそが生き甲斐であり、遣り甲斐であり、働き甲斐なのです。

子どものためになり自分のためになる仕事は偉大な遣り甲斐を感じています。引き続き、いまここの使命に没頭しながら生きる歓びや仕合せ、仕事ができる有難さに感謝しながら取り組んでいきたいと思います。