お餅つきの真心~初心伝承~

昨日は福岡の聴福庵でお餅つきを行いました。かつての暮らし、年中行事の復古創新のためにも色々と古来の習わしに従って最初から取り組んでいます。木臼は年代物でかつての「ちぎり」といった修復法でひび割れが修理され大事に何十年も使われてきたものです。そして杵はこれも100年以上前の蔵に眠っていたサルスベリの手作りの杵。また四段の蒸籠も数十年間ずっと大切に修繕されながら使われてきたものです。

これらの道具を昔の竈でじっくりと炭で蒸し、蒸しあがったもち米を石臼でよくつぶした後に木臼で「つく」という流れです。その後は、餅粉の上でみんなで出来立てのお餅を丸めていきます。また鬼おろしで大根おろしをつくり、それにつけて合間合間に出来立てのお餅を食べると美味しくて幸せな気持ちに満たされます。

皆でイキを合わせて一緒にお餅を「つく」という行為は、かつての私たちの先祖の暮らしを思い出させるようでとても懐かしい気持ちになります。この「懐かしさ」というものは、日本人の原点でありその原点があるから今の私たちが存在していることを思えばこの年中行事には常にそれを実感できるものが入っていなければなりません。言い換えればそれは「本物の行事」であり続けなければならないということです。

今では餅つきも簡単便利にできるよう機械化して、この臼と杵で「つく」ことがなくなってきましたし協働で手際よく力を合わせてお餅をつくり食べることもなくなってきたのは残念なことです。プロセスの中に懐かしさや原点があり、それだけを取り除いて結果だけあわせてしまうような取り組みには大切なものが入っていません。

昨日も私たちがお餅つきをしているところを通りすがりのお婆さんが、かつては20年前まではお祝い事があるたびにお餅をついていたと話をしてくださいました。節分や節句、田植えやお盆、お彼岸、結婚や出産、葬式の時、大切な節目にはいつもお餅をついていたといいます。今ではその光景も観なくなってきましたが、本来の日本人が大切にしてきた暮らしが消失することは私たちの精神や生き方が失われてきてしまっているということになります。謙虚に自然に寄り添って暮らし、人々と協働してお祝いを味わうという豊かさが経済の発展と共になくなっていくというのは、本末が歪んでしまうものです。

何のために生きて、何のために暮らすのかは、こういう人生の節目に周りの御蔭様があること、円満に和み笑うこと、こういうことが言葉に発していなくても年中行事の意味からみんな直観し伝承されてきたのでしょう。

御祝い事のハレの日とは、人生の節目の日であるということです。そのハレの日を「芽出度い日」としてご縁に感謝することを忘れないこと、お陰様を感じて生きてきたからこそそういう日々を慈しんで歩んできたのが私たちの先祖の真心だったのです。

引き続き大切な願いや祈りを子どもたちに譲っていけるように、先祖から続く一つひとつの暮らしを今に合わせて新しくしていきたいと思います。

 

教育改革

昨日から自由の森学園の音楽祭に参加しています。いつもながら子どもたちが活き活きと青春をし輝いている様子に学校の楽しさを感じます。どの学校も子どもが子どもらしくいられるような認められ尊重されている風土が醸成されている場は美しく明るく楽しいものです。

今の時代は、人口知能やロボットの出現から、いよいよ人間らしさが問われる時代に入り教育もアクティブラーニングをはじめ価値観が入れ替わってきた時代に入ります。この自由の森学園が堅持してきた思想が今や世の中方が同じ価値観になってきています。だからこそ自由の森学園の初心や理念が改めて見直されるような気がしています。

まずその自由の森の理念の支柱になっているのが日本の数学者、遠山啓の思想です。その遠山啓はこのような言葉をインスパイアしています。

「この宇宙のなかでもっとも複雑で知りがたい人間をいともお粗末なテストの点数などで序列づけることなどできるはずはない」

まずは人間というものを理解するのに点数と序列などは不要であるといいます。数学においてこのような数字の使い方と数字による序列などという考え方の無意味さをもっとも見抜いていたといえます。特に序列についてはさらにこう続きます。

「日本中の子どもはこの幻想のピラミッドを一段でも高くのぼるように尻をたたかれる」

「教師が創造的になることを妨げる最大の障害物は、教師の中にある内なる序列主義である。」

「序列主義で骨がらみとなった教師は、いきづまると、いわゆる能力別指導に救いを求める。つまり、それは劣等生が優等生の邪魔をする、という考えになってくる」

「『差がある』ということと『序列づけが可能』とのあいだには天地ほどのちがいがある。」

「教師にとってなによりも必要なことは、点数というメガネで子どもを見ないようにすること」

序列とは優劣を決めて順序を決めることです、これは言い換えれば個の能力によって個の優劣を決めるということです。本来、チームや仲間などで一緒に生きていくのであればこの序列は必要がありません。個の能力ではなく、集団の中での個の持ち味になるからです。しかしこれまでの教育は、そうではなく個の集団における優劣に終始したことで、歪んだ個人主義が蔓延していったように思います。さらにこう言います。

「おとなにはあまり期待がかけられない。まちがった教育でだめにされてしまっているからだ。しかし子どもにはまだ希望がつなげる。そのためには、いまのまちがった教育を変えて行かなければならない」

これは思うところがあります。間違った教育とは、人間の序列と優劣です。これらの大人の刷り込みは競争比較社会の中でなかなか取り払われず、子どもの方が色濃く人類永続の智慧を持っている気がしています。理念の実践を通して、自分が変わっていくことで大人がそのモデルを示す必要を感じますが、子どものころからその智慧が守られれば将来に確かに大きな力を社會で発揮していくと思います。そして学校についてはこう言います。

「学校にいきたがらない子どもがひとりでもでたら、その学校にはもはや危険信号があるのだ、と考える必要がある」

「私は、現在の学校で、平凡なことで忘れられていることがあると思います。それは、『学校は楽しいところでなければならない』というだいじな原則が忘れられているのではないかということです。」

学校が楽しいのは、仲間と一緒に学びあう喜びに出会うからです。学問に師があり道ができ、友があればそれは最幸の人生です。人生において道を一緒に生きていくことができるようにするのが師の役割でもあります。

また自由の森学園の初代校長の遠藤豊さんは、この遠山啓さんの思想を受けてこういう言葉を遺しています。これは当時の先生ではなく、私たちの本業に対しても同感するものがあります。

「子どもといっしょに生きて、子どもといっしょに考えて、そして、自分自身を変えていく、ということが、まず、教育という仕事が成立する基本」

「子どもといっしょに考えたり、あるいは子どもが考えやすいようにしたりして、子どもたちが試行錯誤を経ながら自分自身の発見として一般化をなしとげるような授業をつくらないとだめ」

「それまでの自分の考え方やものの見方を打ちこわして、新しい世界を発見していくこと、そして、自分のなかに新しい考え方を生み出していくこと、そのことが学ぶということ」

私たちの実践も、そして一円対話をはじめ様々に取り組んでいる現場の改善もまた以上のことを実現するために行われているのです。そして最後にこの言葉で締めくくります。

「学校に教育がなくなってしまっていることをいちばんよく知っているのは子どもたちです」

子どもの声を聴いて、今何の改革が自分自身に求められているか、教育に関わる全ての人はもう一度そのことを見つめなおす必要があると私は思います。教育改革は、人類の甦生です。たしかな道が遺り続いている以上、布置を見出し自分はこう変わるというのを社業を通して示していきたいと思います。

一期一会~今~

四書五経の一つ「大学」の中で「苟日新、日日新、又日新」という言葉が出てきます。これは古代中国に殷という国の初代湯王が (まことに日に新たに、日日に新たに、又日に新たなり)と毎日使う手水の盥(たらい)に銘辞を刻んで日日の自戒としたとされているものです。

これは自分の日々の垢を洗い清めるように、過去に発生したすべてのことを取り払い新しい自分でいようと磨き続ける、言い換えれば「今を生き切る」と弛まずに精進し続けたという証です。自分が過去に捉われないよう、自分が今に生き続けるようにと自戒したという生き方にとても共感します。

これを座右にした昭和の大経営者の土光敏夫さんがこのようなことを語っています。

「神は万人に公平に一日24時間を与え給もうた。われわれは、明日の時間を今使うことはできないし、昨日の時間を今とりもどすすべもない。ただ今日の時間を有効に使うことができるだけである。毎日の24時間をどう使っていくか。私は一日の決算は一日にやることを心がけている。うまくゆくこともあるが、しくじることもある。しくじれば、その日のうちに始末する。反省するということだ。今日が眼目だから、昨日の尾を引いたり、明日へ持ち越したりしない。昨日を悔やむこともしないし、明日を思いわずらうこともしない。このことを積極的に言い表したのが「日新」だ。
昨日も明日もない、新たに今日という清浄無垢の日を迎える。今日という一日に全力を傾ける。今日一日を有意義に過ごす。」

今この瞬間に生き切るということは、自分のいのちを一期一会に使い切っているということです。私の座右も一期一会ですから、この生き方に共感するのです。時は過ぎ去っていくだけで過去の成功に縛られても仕方がないし、未来のことばかり憂いていても仕方がない。大切なのは、今どうにかできる今だけですから今に真摯に真心を盡していくことこそが人生を豊かに感謝で生き続けることになると思います。新しい自分とは、今の自分のことで古い自分も今の中に生きています。だからこそ古今は未来そのものです。

この殷の湯王の自戒には、もう一つ私が心から尊敬するものがあります。反省とはこういうもので、内省とはこういうものだという至高のお手本を示したものです。論語を学び、大学を学ぶものとしてこの殷の湯王は何よりもそのモデルになります。

最後にこの殷の湯王の自戒で締めくくります。

「希望あれば若く
燃ゆる情熱
美しいものへの喜悦
逞しい意志と情熱と
安易な惰性を振り捨てて
人は信念とともに若く
情熱を失うときに老ゆ
希望ある限り若く
理想を失い失望と共に老ゆ
心して暮らせ」

一期一会というのは、この信念と情熱と理想、意志と希望と喜悦によって真心を盡して暮らすことです。子どもたちのためにも、自分がその実践を体現して生き切っていきたいと思います。

本末樹立

学問には時務学と人間学というものがあります。これは人間が成長していく上で両輪であるとされます。時務学は末学といい、人間学は本学といいます。この本末をしっかりと調和させていくことが今を生きることになります。

例えば、どんなに新しい時代の道具や仕組みなどもその人物の人間力によって左右されます。これはIT技術などもそうですが、進歩していく技術は時が経てば発展していきます。しかしそれに対して道徳といった人間の進化が発達していかなければその技術は人間や自然を破壊するように使われるかもしれません。

本と末というのは、本ははじまり末は終わりという意味です。そしてこれが入れ替わってしまうことが本末転倒という諺にも出てきます。例えば、種があって花が咲くのであって、花があって種ができるわけではない。また幹があって枝葉ができるわけで枝葉があって幹があるわけではないということ。

これを人間に例えれば、人間が徳があってこそはじめて技術が進歩していくわけで技術が進歩することで人間ができてくるわけではないということです。

人間学を学び精進しながら本当の技術を伝道していく、これは私たちの会社のウェブも同じですが単に技術だけをやるのではなく、人間学を真摯に学ぶ人がどのような技術を使っていけばいいかを実践して示していくのです。こういう使い方が本来の姿であるということや、こういう事例は人々の徳を高めいくというように人間が進化していくのを見守っていくのです。

そのためにも、何が根幹であり何が枝葉であるかを決して忘れないことです。それは言い換えれば「何のためにやっているか」という本質は決して忘れずに「今」の技術を活用していくことです。

本質がなくなればその文字通り「本」が消失します。するとうわっつらの見せかけばかりに終始していつまでも本質に立ち返ることもなくなります。何のためにかを考える力は魂の力でもあるし、心胆力でもあります。常に理念に沿って初心を忘れずに自分が場数を踏んで働いているのなら、それは本から離れることはありません。その上で日々の日常業務などができる人、それを今の時代に合わせた仕事にしていける人物が本末樹立させていく人です。

しっかりと大地に根をはり、天に向かって大きく豊かに成長していくためにも本末樹立を大切に実践を積み重ねていきたいと思います。

できないことを頑張る努力~競争刷り込み~

人は、完璧な自分に向かって努力していくことと完全な自分に向かって努力していくことでは努力の定義が異なります。例えば、育てるときに使う努力と、育つときに使う努力とが異なることとも同じです。無理に育てるために努力するのなら詰め込みやらせた方がいいのですが育つための努力するのなら見守る方がいいのです。

私たちの会社は一家という家族という関わり合いで働いていきます。チームも同じですが、一人で生きていくわけではないのだからお互いに持ち味を活かしあって働きます。一人だけで生きていくのならなんでも自分でオールマイティにできなければならないことも、仲間やチーム、組織があるのだからできないことは周りに頼り自分にしかできないことでみんなに貢献していくのです。

しかしかつての比較競争の社会教育を施された人たちは、できないことがあってはならないと無理になんでも頑張ろうとします。自分にしかできないことをやろうとするのではなく、常に自分ができるまで努力しようとするのです。こういう刷り込みを持つと「できないことを頑張ることが努力」だと思い込んでしまいます。そしてできないことを頑張らないことは楽をしたことだとし真面目な人は悪いことをしていると罪の意識すら持ってしまうのです。

実際に教室では先生と生徒はどこでも縦の関係が強く上下のピラミッドの関わりです。そして生徒と生徒は仲間というよりも比較競争されたライバルだったりします。そうなってしまうと一人でできるようになることを目指していくようになります。全員が同じ課題を持ち、全員が同じことができるようになる組織の中では自分だけができないことは悪いことになるのでしょう。

しかし時代は変わり、今ではアクティブラーニングのようにチームや仲間と一緒に学びあうということになってくるとできないことを頑張られると周りの人たちは協力できなくなるので困るのです。もしも仲間やチームがあっての中の自分ということになれば、「自分にしかできないことをやり、できる人に頼んで手伝うことが努力」と定義が変わっていきます。それぞれの得意分野を活かしつつ、自分にしかできないことをやるのは、その根底には助け合い支え合って思いやり一緒に生きていこうとする協働社會が存在します。

協働社會の時の努力と、競争社会の時の努力は価値観が丸ごと全く異なっていますからそれが誤解してしまいといつまでも協働して一緒に働くことができないことになります、無理をしてできないことをできるまで頑張ったり、できることばかりをやり続けたりすることは最終的な孤立を生みます。そうやって助け合わずに働けば結局はいつも一人ぼっちになり、仕事が増えすぎてパンクして投げ出すことが関の山です。

だからこそそんな働き方、つまり競争の働き方をやめて協働の働き方に換えていくべきです。時代は今は、協働を求めていますしすでに今世紀は協働世紀です。それは人類がかつてから智慧として大切にこのいのちを繋いできた至高至大の唯一の徳恵だからです。

働き方改革というのは、私にしてみれば競争から協働へということです。

子どもたちに遺し、譲っていきたい未来の社會のためにも自分自身が何よりも自分にしかできないことで全体に貢献したいと思います。そして無理をして自他を責めず仲間を信頼し自分にはできないことを助けてもらい、頼り頼られる絆やつながりが広がっていくような協働の実践を積み重ねていきたいと思います。

できるできない刷り込み

今の世の中には「できる・できない」の刷り込みがあります。幼少のころから比較競争し能力を評価されていく経済社会の中で育てられそれに合うようにと教育を施されれば人はできるかできないかを基準に考えてしまうものです。

しかし、できるかできないかといった能力を中心にする考え方では本当の意味で持ち味を活かすことができません。例えば、自分が何ができるかを考えていけば努力次第ではなんでもできるということになります。しかし自分にしかできないことを考えてみるとできないことが何かをちゃんと取捨選択できるようになります。

人は一人でもしも生きていくのなら何でもできるにこしたことはありません。しかし実際の社會でオールマイティというものはとても弱いもので、お互いにできないものがあるから人は一緒に助け合い働くのです。

そう考えてみると、その人ができないというある種の「弱さ」の御蔭で人は人とつながっていくということになります。しかしできるできないの刷り込みが深い人は、自分からできないということを周りに公開することがありません。他人からできないことを指摘されても、それを自分でさらけ出すことはなく必死で隠そうとしたり、もしくはできたように見せかけたり、もしくはできないといわれないようにと頑なになり孤立します。そしてできるできないの刷り込みは、周りの人へ対しても同じような目線で観るようになります。あの人はできる人、この人はできない人で、できる人同士で組めばいいということになるとそのうち個人の利益を中心につながろうとしだします。簡単に言えばただメリットがあればつながるのです。

確かに競争の経済社会でそのように組んでメリットがなくなればすぐに他の人という考え方は効率的かもしれませんが、実際には会社や社會、組織ではそんな簡単に切ったりはったりなどはできません。なぜなら人は人間ですからいっしょに生きていく仕合せや豊かさも味わいたいからです。むしろ、人間が働くのは有史以前から人類がそうやって地球で豊かに暮らしてきたからであり、それが人間の本質だからです。

本来、チームや家族のような関係はできないことを補い合います。つまりできないことを補い合う方が協力になるからです。できないからこそ、助けてもらう、できないからこそ支え合う、つまりそこに思いやりや絆が生まれるということです。そしてそこには個人主義ではなく、皆のために貢献していこうとするみんなの中の一人という責任のある自分になります。

今のように個人主義が優先されれば、誰に頼ったらいいのか、誰に頼んだらいいのか、誰に任せればいいのか、次第に分からなくなって孤立するのは自分からできないことを安心してさらけ出せる組織ではなくなります。だからこそ、もっと組織においてはできるできない刷り込みを捨て去って一人でできなくてもいいという文化を醸成する必要があると思います。

それは能力がないのに努力しなくてもいいというのではなく、何のために努力するのかをみんなが理解しあっているということです。そうやって一緒になっていけば、本来必要な努力が何をすることかが必ず自明します。

引き続き、世の中が弱い人たちを断罪しないように、強い人たちばかりが頑張らないように、みんなが助け合う社會、多様性が活かされ続ける人類の至高の強みの境地、それを実現していきたいと思います。

今を生き切る

過去をひきずるタイプというものがあります。いつまでも過去の自分のことや、嫌だったことを思い出しては今の自分のことを認めることができない人のことです。人は誰しも過去があるのは、その時々で体験して今があるからですが今を生きないための材料になってはもったいないように思います。

日々というのは、毎日新しくなっていきます。当然、同時に人もまた新しくなります。その新しいというのは、過去ではなく今のことであり、新しい日々を生きるというのは、今を生きるということです。

自分を刷新していくのは、今に生き切るということで今に全身全霊を懸けているということです。過去をひきずる人は、過去の自分と比較し、過去の自分と競争し、過去の自分のことを忘れられません。例えばそれは決して過去の嫌なことだけではなく、過去の栄光や過去の成功など、自分がもっともよかった時代をいつまでも忘れないなどもそうです。バブルの頃を忘れられないや、自分が偉かった時代のことをいつまでも話したりします。

本来、私たちが生きているのは過去ではなく「現在」であり今だけです。この今此処だけに全力で盡していくことで比較の刷り込みが拭い去れ過去がすべて過去を含んだ「今」に転換されていきます。そして今があることが過去の御蔭様であることに気付ける生き方をしているのです。そういう今がある人たちは、すべてのご縁に感謝できるようになります。この今には、その人の生き方が出ているのです。

どんな人も「今を生き切る」というのは、一期一会の大切な自分の人生を生きていくための自戒だと思います。

色々なことがあったとしても、今があるのだからこの今に合わせて自分の方を換えていくことを変化といい、そして今に近づき合致していけばいくほどに成長したといいます。過去の自分と比較しての成長は成長ではなく、変化とも言いません。私たちが生きているのはこの今だけだからこそ、今どうありたいか、今の自分そのものを丸ごと認めていくことが今を感じることです。そうやって今に生き切るのなら今が仕合せになり、今の自分は変化し続けることになります。

誰しも変わらないでほしいと願うこともあります、しかし宇宙、地球、すべては万物流転し循環を已みませんから止まることはありません。自分から今を感じて生きているときだけ、その流れの中で万物の御縁と一緒に生きることになります。

まずは今の自分が好きになれるよう、今の自分が仕合せだと感じられるよう「今を生き切る」ことを大切にしていきたいと思います。

自然のセンス

日々に鉄瓶でお茶を沸かして飲んでいる炭実践をしている中で火について色々と深まってきています。火といっても一概に火とは呼べず、蝋燭の火、ガスの火、灯油の火、薪の火、炭の火、炭の火の中でも木炭、石炭、備長炭、竹炭などどの火も同じ火は一切ありません。さらに言うならその時の湿度や空気、季節やタイミングなどでも火は変わってきます。

火と一括りにして火と呼びますがこのような感覚が人間本来のセンスを鈍らせているようにも思います。同様に、空も水も同じものは一つもありません。無限に組み合わせがあり、同じものがないのに人はそれをただの空と呼び、それを水と呼びます。

頭や知識は、その物体を認識するために文字や言葉にして分類分けましたが実際は分類分けなどがまったく意味をなさないのが自然なのです。

火はその揺らぎ熱さ、温度、見た目、範囲、容、光、燃焼具合、燃える素材、燃える環境によってその火の姿が変わります。例えば、ガスの火はとても強く炭の人はまったく異なり近づくとトゲトゲします。石油の火はもっと強くトゲトゲしてまるで尖った岩山のように差し込んできます。

それとは逆に天然の植物油や、もしくは炭などはほんわかする軟らかく弱い火が出ています。特に備長炭などは周りを包み込んでくるような春の日差しのようなぬくもりが出てきます。

人間は感覚を研ぎ澄ませていけば、火は単なる火ではなくなり同様に水も空も単なる水や空ではなくなるということです。どれくらいのセンスで日常を過ごしているか、今は頭でっかちになってやれスケジュール管理だの、やれ衛生管理など、栄養管理など、人間の思いどおりにするように先ほどの分類された知識をフル稼働していますが本来の自然科学というものはそのセンスが前提にあっての科学であったはずです。人間主導の科学は理に適うこともなく本来の道理から反してしまい本末転倒です。

センスなき科学というものは、どこか限られた狭い世界のみで通用する知識のように私は感じます。センスは自然ですから、センスのセンサーを高めていくことで自ずから自然の科学は身につくように思います。

引き続き、五感、六感、いやすべての感覚を研ぎ澄ませ子どもたちのために今を見つめていきたいと思います。

和ろうそくの心

日本の伝統に和ろうそくというものがあります。和ろうそくが持つ「あかり」は懐かしく今でも暗闇に照らせば心が和みます。このあかりは60万年前から使われていたといわれますが、日本で和ろうそくがはじまったのは奈良時代に中国からはちみつを用いた「蜜ろう」というものが入ってきたことからです。その後、平安時代には松脂を使ったろうそくが開発され、その後室町時代から現在まで櫨(はぜ)の実を使ったものが和ろうそくの代表となっています。

手作りでしかつくれず原料も天然のものを利用した和ろうそくは高級品であり、庶民には手がなかなか出せず菜種油を使う家庭が多かったといいます。しかし明治時代になると、洋ろうそくが急速に普及し各家庭にろうそくが広がりました。今では電気が普及しほとんどろうそくは日常の生活から消えてしまっていますが、改めて和ろうそくの価値が見直されてきているとも言います。

和ろうそくと洋ろうそくの違いは、同じろうそくと言っても原料を含めてすべてが異なります。例えば、和ろうそくは世界の中で日本にしか存在しない天然の櫨の実の原料に対し、洋ろうそくは石油系のパラフィンという原料です。ろうそくの芯も、い草の髄から取れる燈芯を使うのに対して洋ろうそくは糸を使います。最も異なるのは、和ろうそくは手作りで一本一本作るのに対して反対に洋ろうそくは機械で大量生産することができます。そこからわかるように金額も和ろうそくは高価で洋ろうそくは安価です。

肝心なあかりはどうかと言えば、灯せばすぐにわかりますが暗闇を包み込むようなあかり、そして情緒がある揺らぎ、また炎の落ち着いた柔らかい様、そのほのかに燃えていくときの優しい音、和紙の燻る薫り、そのどれもが和の風情を醸し出します。

いつも私はこの和ろうそくを観るとき、いのちを完全に燃焼し尽くしてあかりの余韻を空間に遺すこの存在に尊敬の念を覚えます。

同じ燃えるにしても燃え方があり、燃え様があります。これが翻っていのちにたとえると、生き方と生き様です。和ろうそくには、日本人としての連綿と繰り返しつながり結ばれてきた姿があるように感じて灯すと先祖に触れる気がして懐かしくいつも心が揺さぶられ深く感動するのです。

今は時間にあくせくし忙しくて心をなくして自分を見失い、また魂が傷ついている人が多くいるからこそ、私はこの「和ろうそく」の火を用いて人々の心を癒したいと思うのです。

聴福庵は炭を用いているところばかりが注目されますが私の中では「火」が中心であるということを重んじているのです。暮らしの中の火は、いのちそのものですからそのいのちをどのように扱うか、どのようにつつみこみそのものを感じるかは火の姿によって物語るを読めばいいのです。火はいのちとの対話のつなぎ役なのです。

和ろうそくを用い、子どもたちの心にいのちの火を包み癒し灯し続けられるように実践を続けて深めていきたいと思います。

 

 

佇まいと庵

佇まいということを深めていると「場」ということがどのようなものであるのかを実感します。この佇まいと場とは必ず一体になるものであり、場があるから佇まいが存在します。空間の美というものは、この場の関係性によって仕上がり、そのつながりの中で私たちがしっくりと来ることで実感することができるものです。

この佇まいについて少し書いてみます。

例えば、私は和室や庭を構成するときその場に何を置けばしっくり来るのかを観ることにしています。明らかに、その物と物とがつながり調和するときそこには確かな佇まいができてきます。

この佇まいの意味は、大辞林には(1 立っているようす。また、そこにあるもののありさま。そのもののかもし出す雰囲気。「家並みの佇まい」「庭園の落ちついた佇まい」2 身を置くところ。暮らし方。また、なりわい)とあります。

この佇まいというものは、その本人のことではなく場が主体になっているのがわかります。つまりは、場というものはその関係性や共鳴性、共感性や響き合いなどといった物と物、物と人、その空間の中に何が発生したかという妙を観ているのです。そしてこの佇まいが落ち着いてくると、自ずから空間の中に余韻が出てきます。

今、古民家再生をしている庭園然り、和室然り、しっくり来るまでには様々なご縁を活かしきっていかなければそれは顕れません。それは人とのご縁は当然のこと、物とのご縁、そのほか、時間とのご縁、物語とのご縁、心とのご縁、導かれるご縁、神仏の御縁など様々なご縁を活かしきったときにこそ佇まいは顕現します。

まるではじめからそれがそこにあったかのようなもの、またお互いに一緒に一体になって自然になるようなもの、そのしっくりとくる場には確かな佇まいがあるのです。その佇まいは、すべてのご縁に活かされた場であり、その空間にはご縁が凝縮されて永遠にいのちが生き続けていきます。その空間に何を入れて、何を遺すか、そこには子々孫々まで真心を通じさせ、その場において伝承も継承も伝道も教育も行われていくのです。

なぜ日本家屋は場によって教育を行えるか、そこには佇まいがあるからです。その佇まいを活かすのは、その場で暮らした日本的人物、分を弁え謙虚に生きた生きざまと一体になって残存するのでしょう。私にとっての日本家屋はの場は庵です。

庵とは昔ながらの質素な佇まいの家のことを言います。「庵」は古くは「いほり」と読み、その古形である「いほ(庵)」が動詞「いほる」を生じ、その連用形「いほり」が名詞化したものです。そしてかつて人は岩穴に住んだことから「いほ」は「岩」に通じるともいわれています。

一家が暮らすその庵の中には、そこに暮らした人々の祈りや願い、そして信念や理念があります。そういうものをどれだけ子どもたちに譲っていくかは、場を主体にしてどれだけ学び磨き上げたかという一人一人の生き方が決めます。

日々の場は、すべて自分が創り出しているという自覚を忘れずに丁寧にじっくりと場を練り上げていきたいと思います。