魂の指南書~循環する魂~

17歳の頃から数えて21年間、毎年、この時期に山口県の萩市にある松陰神社に参拝にきています。ここには青年期より憧れた吉田松陰の魂が息づいていて、自分の生き方と照らし合わせては四季を振り返っています。

魂の先輩に触れることで、どれだけ魂を磨いてきたか、体験を気づきに換えて如何に学問を深めたかを確認するのです。松陰神社の中にある、ある一角に心が穏やかに澄む場所があります。

同じように思想を遊ばせるとき、死生を超えたところで魂が触れ合うのかもしれません。ご縁は本当に不思議で、現実にはいない人であっても心中にはいつも生き続けている人がいます。自分もそういう生き方をし、子どもたちに永遠永劫の勇気を与えられるような大和の風土になりたいと願っています。

吉田松陰に留魂禄があります。これは死の直前に書かれたもので、いわば遺書のようなものです。この世と別れる最後の最期に記した思想は、魂の指南書とも言えます。命懸けで学び、命懸けで弟子たちに教えたものは何だったか、そこに全て籠められています。

「今日死ヲ決スルノ安心ハ四時ノ順環ニ於テ得ル所アリ 蓋シ彼禾稼ヲ見ルニ春種シ夏苗シ秋苅冬蔵ス秋冬ニ至レハ 人皆其歳功ノ成ルヲ悦ヒ酒ヲ造リ醴ヲ為リ村野歓声アリ 未タ曾テ西成ニ臨テ歳功ノ終ルヲ哀シムモノヲ聞カズ 吾行年三十一 事成ルコトナクシテ死シテ禾稼ノ未タ秀テス実ラサルニ似タルハ惜シムヘキニ似タリ 然トモ義卿ノ身ヲ以テ云ヘハ是亦秀実ノ時ナリ何ソ必シモ哀マン 何トナレハ人事ハ定リナシ禾稼ノ必ス四時ヲ経ル如キニ非ス 十歳ニシテ死スル者ハ十歳中自ラ四時アリ 二十ハ自ラ二十ノ四時アリ 三十ハ自ラ三十ノ四時アリ 五十 百ハ自ラ五十 百ノ四時アリ 十歳ヲ以テ短トスルハ惠蛄ヲシテ霊椿タラシメント欲スルナリ 百歳ヲ以テ長シトスルハ霊椿ヲシテ惠蛄タラシメント欲スルナリ 斉シク命ニ達セストス義卿三十四時已備亦秀亦実其秕タルト其粟タルト吾カ知ル所ニ非ス若シ同志ノ士其微衷ヲ憐ミ継紹ノ人アラハ 乃チ後来ノ種子未タ絶エス自ラ禾稼ノ有年ニ恥サルナリ 同志其是ヲ考思セヨ」

果たして今の私は吉田松陰のような循環を、今を本気で生き切っているか、自分の生が後の世の子どもたちの教えになるような生き様であるか、ここに来るといつも未熟な自分を恥じ入るばかりです。

いのちを懸けて教えてくださったその魂の生き方を、守り通したいと思う同志は今でも産まれ続けています。私のようなわかりづらい人間に着いてきてくださる方々、支えてくださる方々がいてくれるのも、どこかに吉田松陰の見守りがあってかもしれません。

人生とは「四時ノ順環」である。

魂も自然の循環であることをしかと肝に命じ、何事も至誠と真心、正直に素直にかんながらの道の実践を盡していきたいと思います。

 

 

 

昴年会~忘れるものと忘れないもの~

昨日、大掃除が終わった後、社内にゴザやちゃぶ台を出し古民家調にアレンジして忘年会を行いました。今年は魚醬を用いた出汁に、昔ながらの手作りで作られた練物を入れて美味しいおでんを皆で食べました。

また夕方からは、福岡の自然農園の田んぼではじめて無肥料無農薬で収穫した御米の籾摺りを手作業で行い、その玄米を伊賀焼の土鍋で炊いて一緒に食べました。それに自然発酵のマッコリや、ドイツの白ビール、自然酒やなつめやしの焼酎など、本物に囲まれた贅沢な素食を味わうことができました。

里山でもなく田舎でもなく古民家でもなく、都庁の隣の新宿のオフィスの中でも創意工夫すればいくらでも生き方も働き方も直すことができます。

また忘年会ということもあり、苦労は労いゆるしては、楽しいことはより楽しくなるように一年の思い出を深くじっくりと味わいます。なんだか忘年会というと、世間では大酒を飲み大騒ぎをして嫌なことを忘れてしまおうという勢いですが、私たちの場合は実践できたこと、またその仕合せ、御縁を味わい引き続き理念を大切にしようといったまるで同志と楽問をしているようで有難い時間になりました。

本能は本物を尊びます。それは本物を本能は感知することができるからです。私たちは古代から今まで、どのように暮らしてきたか、そこにはご縁を大切にし感謝をおもてなしに換え、心の穢れを祓い清めて魂を磨いていくようなことをしてきたのではないかと感じます。

冬至を過ぎ、新しい太陽が昇るとき祖神達は心を澄ませたのでしょう。

色々なことがあっても、一円観、全部善いことに転じていくのは「子ども第一主義」があるからです。理念に助けられ、初心に救けられ、道を歩んでいけます。忘年会を通して、忘れるものと忘れないものをまた再確認できました。

最後に、「昴」という星があります。

昴は一つの星ではなく、その星の周りに在る星々の星団のことを言います。一年一年、一人ひとりが時を経ることで内省により魂が磨かれ光輝きまるで一つの大きな星の光のように煌いていく・・・一人、深夜に公園を歩いて帰りながらそんな「昴年会」であったと感慨深い時間を過ごしていました。

来年もまた昨日のような光煌く昴年会になるように日々に信を入れ、素直に内省を深めて精進していきたいと思います。

メンターとメンティ③~仲間の絆~

メンターとメンティという相互の関係についてもう少し深めてみます。

映画の三銃士を会社で見る機会がありました。先日からメンターとメンティの在り方を深めているのにちょうどよく、仲間を通してどのように人物が関わり合っているかを関係性の中から再認識することができました。

三銃士で有名な言葉は、「みんなはひとりのために、ひとりはみんなのために」があります。映画ではこれを「一心同体」と訳していました。

アトス、ボルトス、アラミスという国王直属の精鋭部隊で近衛兵でもある銃士隊で名を馳せる人物が三銃士です。そこにダルタニアンといった銃士を夢見る新人が入ってくるという話です。

これは会社でも同じく、生き方や哲学、そして実践をしている先輩に対して後輩が入ってくるのに似ている関係です。三銃士は絶妙な見守りを通して、仲間との信頼、結束の強さ、守るものの価値、自立しているモデルを自分たちのありのままの生き様を通して見せてはやらせてみて志に信を入れていきます。

もっと簡単に言えば自分のありのままの生き様を見せて本人に考えさせ、そして本人なりにやることを認めて覚束ないところはフォローしてあげるというように寄り添い大切に見守っていきます。

何かこの通りやれと指示命令をしてやったことだけを評価するのではなく、自分たちの生き方や生き様で手本を見せてはやってみろと挑戦を促し、その上でできないところはいつでもフォローするという安心感を与えます。そのフォローは出来事だけに限らず、ダルタニアンの向こう見ずで気が強い性格の弱点なども見抜き、三銃士は陰ながらフォローしていきます。

その中でダルタニアンは次第に助け合いを学び、成長し、立派に銃士として自立していくのです。

そもそもメンターとメンティとは、互いに信頼し合っているから絆が結べます。それは言い換えれば「一心同体」の関係です。それを仲間とも言います。この三銃士の話が美しいのは、本質的な仲間意識を観るからです。それは単に強い集団といるから安心というわけではなく、「一心同体」だからこそ安心だということです。

家族や真の仲間といった心の絆の清らかさと美しさを大切にしている安心です。

メンターとメンティとは生き方を通して、同じ生き方に共感し、その生き方をできるように見守り合い育ち合う存在ではないかと私は感じます。この関係は志と共にする生涯の「友情」と呼んでもいいのかもしれないし、同じ理念を掲げて命を懸けて共に戦う「戦友」と呼んでもいいのかもしれません。

そういう「真の仲間」に自分自身の心が絆を結べ、廻り合えることは何よりも仕合せなことだと思います。孔子や仏陀、キリスト、吉田松陰、同じ師を持つ弟子たちもまた、メンターとメンティだったのでしょう。

最後に、ダルタニアンは国王や王妃を助けた褒美として銃士隊になることを認められます。その信条は、国王を守るということの本質として真実、勇気など大切な生き方を貫くように約束します。

そしてダルタニアンがつい昔の癖で一人で何かを遣ろうとするときに、三銃士はその若者を引き留めこういいます。「みんなはひとりのために、ひとりはみんなのために(私たちは一心同体だ)」と、いつも仲間と一緒に闘うようにと促すのです。

三銃士はとても興味深い映画で、ここでは本当の強さというものは自分のみの力を頼り一人でやることではないと教えが入ります。真の強さとやさしさは、仲間の絆であるというストーリーです。

今の時代、なんでも一人でやることばかりを教育され刷り込まれてきましたが一人ひとりの真の自立において「仲間の絆」というものが如何に大切か、改めてメンターとメンティとの関係から観直してみたいと思います。

 

 

表現が自由~人格~

自由の森学園の音楽祭の2日目を見学しましたが、初日とは変わってそれぞれのクラスによる合唱が行われました。それぞれにクラスの個性があり、歌をよく聴いていたらそれぞれの色が観えてきます。

合唱というものは、呼吸を合わせて気持ちを合わせていくことで一体感が生まれその協力し合う一体感に人間は感動するのかもしれません。音楽ということの本質を主体的な発表を通して学び合う善い体験になっているのではないかと思いました。

私の昔の学校時代は、音楽の授業は好きではありませんでした。毎回、意味もわからずに無理に歌わせられ、歌えば間違いを指摘され、何回も間違ったところを歌い直され、何の興味のわかない歌を只管に授業が終わるまで練習させられます。学校のテストのように正解かどうか、ちゃんと教科書通りかが優先させられまったく楽しい思い出がありませんでした。

1回の本番の達成感のために音楽を利用するのも一つの考え方ですが、私にとっての音楽は鳥の声や川のせせらぎ、木々の風に揺らぐ音や、動物や虫たちの鳴き声です。神社にいけばいつも穏やかで静かな音楽が流れ、いつも一体感を感じています。

音楽の愉しさは、自分の心の中の自由に由ります。

自分の心の中に自由はあるのだから、それを自分でどう掴んでいくか、そこには音楽が大いに助けてくれると思います。学生時代は学校への反発からかバンドも組み、編曲しライブもし、オリジナルで歌を表現し、今では社業で歌を作詞し一緒に歌い充実した今を演出するためにも音楽を用いています、

自由を求める心に音楽を活用するというのは、新しい発見がありました。今後の社業でもさらに活用してみようと思います。

自由というのは、自由か不自由かの自由はありません。本来の自由とは、そういう比較対象するものを超えたところに存在するものです。自由が分かるのなら自立するというのも、それは自らが自由に気付ける人格を備えているからということなのでしょう。

マハトマ・ガンジーに「私は人格をすべて表現するために自由を望む。」があります。

よく表現の自由とか言われますが、表現が自由なのです。

如何にオープンにいるかというのは、如何に自由でいるかということです。自分の本心や本音を隠したままで我慢をしては人格を表現することはできません。自分の人格のままにいられるのは周囲をはじめ自分を信じるからです。

周りに迷惑をかけなくなるのは、そこに全体への思いやりが育つからです。つまり思いやりのない自律などなく、周りにオープンではない自立など自由ではないのです。

引き続きどのように自由な環境によって子どもたちの心が育つのか、じっくり観察し探究してみたいと思います。

自由に楽しく~やりきる~

昨日、自由の森学園の音楽祭に参加することができました。

子どもたちによって企画され運営される音楽祭は、「楽しむ」をテーマに沢山の「有志」といったグループが構成され、それぞれに演舞や音楽を表現していきます。日頃の部活動の延長になっていることや、学校の文化を実感できるもので子どもたちのパワーに圧倒され青春をする様子に暖かな気持ちになりました。

その音楽祭のレジメの最初のページには実行委員長のお言葉として「オッシャー!!音楽祭だぜ!!今を楽しむことに集中すること、楽しむことに全力をそそぐこと、楽しめていないヤツは今すぐ楽しむこと、分かった?よし、いい子、それじゃぁね。」と書かれています。

初日はサンバにはじまり、27グループの有志がそれぞれに自分たちの企画で出演していました。話を聴くと、50以上のグループの中から予選で選ばれて出てくるそうでみんな自信をもって取り組んでいるのが伝わってきました。

学校運営といっても、大人の理想と建前を使い分けている学校が多い中、ありのままに見せてくれて安心して取り組んでいる子どもたちをみていたら可能性というものは自由の中にあることを改めて実感します。

一人ひとりの主体性という言葉も、自由を伴う言葉です。学校側が何かしてくれることを期待するのではなく、自分たちで運営をしていこうとする子どもの姿に主体的に取り組む意義を実感しました。

アメリカ合衆国第35代大統領、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディにとても有名な言葉が遺っています。

「Ask not what your country can do for you; ask what you can do for your country.」(国があなたのために何をしてくれるのかを問うのではなく、あなたが国のために何を成すことができるのかを問うて欲しい。)

そもそも学校に自分は何をしに行くのか、学校に来て何をするのか、それを自ら明確にしていくのも刷り込みを取り除くには必要だと思います。学校には理念が必要です。そしてそれは会社でも同じです、会社にも自分は何をしにいくのか、会社で仕事をすることで自分は一体何をしたいのかということを自覚していなければなりません。

会社に理念があるのはそもそもの目的があり、どれだけそこに自分自身が主体的に参画しているかということが問われるからです。誰かに何かをしてもらうことばかりを求めて国家にすがり、社會にすがり、組織にすがっていたら、いつも与える側と貰う側という二つに分かれてしまいます。その時点で、人間社會は仕合せにはならず自由もまた喪失してしまうのです。

お互いに活かしあう社會というものは、一つの理念のもとに共に運営に携わるということでしょう。この自由の森学園に共感するのは、理念が学校運営に具体的実践として顕現しているところです。

引き続きJ・F・ケネディに「Liberty without learning is always in peril; learning without liberty is always in vain.」(学問を伴わぬ自由は危険であり、自由を伴わぬ学問は空虚である。)があります。

私なりの解釈では理念を実践しない自由など危険そのものであり、実践も自由もない学問など意味がないということでしょう。自分が素直でオープンで本当の自分自身であるかどうか、世界の中の一人として社會で自由かどうかが自分が「生きている実感」のことでしょう。

私も常に自分の生き方が誰かのためになる、自分の人生が世界の役に立っている、自分の実践が世界を変えると信じています。今ある数々の実践のすべてはそのためです。

世界の中で自分という主体が、どれだけ世界の一部として貢献するか、そこには感謝があり謙虚な生き方があります。自由とはそういうものをすべて丸ごと含んでいる言葉なのでしょう。自ずから由るべきは自分なのです。他人に支配された方が楽かもしれませんが、それではいつまでも人生は誰かのものになってしまいます。自分で決めた人生、自分の本気の人生、誰かのモノサシに従ってばかりではなく自分で納得していく人生こそが真の自由です。

そういう体験を子どもたちにさせているということの価値を再認識しました。今年30周年を迎えるそうですが、創業者の理念は継承され人間とは何か、人格とは何か、人の仕合せを重んじている校風に私たちの会社の理念に共通するものを実感しました。

私たちにも理念がはっきりあるのだから安心して子どもたちが憧れる生き方を大人の手本になるように、あの子どもたちの青春する姿のように「自由に楽しく=やりきっていきたい」と思います。

 

 

樹の本質~The Giving Tree~

ギビングツリー(The Giving Tree)という物語があります。これは米国の作家のシェル・シルバースタインという作家が描いたお話です。この本はすでに30ヶ国語以上に翻訳され今でも世界中で読まれ続けています。

この話は、樹と少年のかかわりの物語です。少年が大好きな樹は、少年がほしいものを自分の身を削って与え続けます。すべてを与え続けてそれでも少年が大好きで、樹はいつまでも幸せだったというものです。もっている自分のすべてを大好きな少年に差し上げていく樹の姿に、言葉に表現できないぬくもりや見守りを感じます。そして少年もまたいつまでもその樹を忘れずに大切な節目にはいつも頼りにしながら自分の人生を自分で歩み切っていきます。

この樹と少年の関係の中には、お互いの絆を通して共に絆を深め合っていく尊いご縁と結びが観えます。この物語が深く共感され長く人々に読まれるのは、そこに確かな愛を感じるものがあるからかもしれません。

先日、ある森を歩いて樹を観察していたら樹はもともとその性質の中に「与える」という徳性があることに気づきました。なぜなら樹は存在し生えることで、周りの生き物たちをすべて活かすからです。

樹は1本から循環をはじめます、その樹は伸びていくことで水の流れを保ち、落葉しては土壌の微生物たちをはじめ様々な生き物の住処を用意し、木蔭で休憩する動物たちや、実や樹液は食べものになり、幹はあらゆる道具として活かされます。

地球上にいて歴史が古く、もっとも長く自然の篩にかけられても生き残っているのは樹木です。この樹木がなぜ選ばれるのかは、そこに「与える」という生き方があるからではないかと思います。

私にとっては、「tree=giving」であり、「与える=樹」であるとしています。樹はもともと与えるのが樹であるということです。今の樹があのようになっているのは、与えるのみの姿であるから私たち人間には気づきにくいのです。本来の樹は与える中に存在しているからこそ、自分の生き方がそうなったとき樹の生き方が観えるのでしょう。

そして自分への見返りを一切求めずに与えることは、それは失っているのではなく同時にサムシンググレートから偉大なものをいただいているということでもあります。自分が得ようとするよりも、与えることで得られるのが天恩であり天恵です。

つまり自分にとっての損得ではなく、自然そのものの尊徳を感じているのが樹ではないかと私には思えます。

樹から生き方を学んだ一年でしたが、少しだけ樹の持つ本質を学び直したように思います。

この「TheGivingTree」の物語のように、愛と見守りの仕合せの関係を生長の中で真の自立=人間愛を築き合っていきたいと思います。

 

心の原点回帰~もののあはれ~

昔から日本には八百万の神々という思想があります。これは万物の全てには神様が宿っているという意味です。つまりすべては丸ごと神様であるという考え方です。

これは西洋のように人間と神とを分けて考えるのではなく、自然界の仕組みのように人間を中心にするのではなくすべて丸ごとを中心にするという考え方です。

しかしそれを感じる力を持つというのはモノやコトの中に真心を感じる感性がなければそれを実感することはできません。つまりは江戸時代の国文学者の本居宣長が言うように「もののあはれ」を直感できるかということによるのです。

「もののあはれ」とは何か、本居宣長はこう言います。

「世の中にありとしある事のさまざまを、目に見るにつけ耳に聞くにつけ身に触れるにつけて、そのあらゆる事を心で味わい、そのあらゆるの事の心を自分の真心でありのままに知る。これが事の心を知るということであり物の心を知るをいうことである。物のあはれを知るということである。そしてさらに詳しく解釈するならば、ありのままに知るのは物の心、事の心であり、それらを明らかに知ってその事のあるがままのかたちに動かされるままに感じられるものが”もののあはれ”なのである。」

この「あはれ」というのは、哀しみのことを言うのではなくありとあらゆることを直感する感性のことであろうと思います。自他一体の時に実感する、繋がりや絆、そのご縁を尊重するときに自分が渾然一体になっているものの変化と同化しているときに味わっている感覚のことです。

なぜ「もったいない」という言葉があるのかは、そこには心があるからです。心があるからこそ粗末にしない、心があるからこそ大事にする、そのモノもコトにも、確かな心が関わりいのちが存在しているからこそ大切にしていこうとする思想です。

今の時代はありあまるほどに存在するモノやコトに囲まれています。一歩外に出れば、そのモノやコトの情報が氾濫し、内に戻ればそれを持ち帰ってしまいます。穢れを祓い清めるというのは、心を亡くしてしまったものを取り戻し、それをキチンと整理整頓し清潔にシンプルにしておくということなのでしょう。

自分の心と感情を澄ましていくというのは、「もののあはれ」を感じられる状態にいつも自分を維持していくことだと思います。それはモノやコトをどれだけ大切にしているかですし、内省によってどれだけ丁寧に暮らしていくかということでもあります。

何でも雑にしていたらそのうち心は亡くなって、モノだけではなくコト、そしてヒトやタカラまで失っていきます。沢山いただき恵まれているものに感謝の心がなくなってしまったら、それは何よりも悲しく不幸なことです。

常に「もののあはれ」を感じる心は、心が清く明るいままで維持されるようにその汚れをきれいに払しょくし洗い流すような実践が必要になるように思います。日々に穢れなくさっぱりとしている自分かどうかを確かめ、余計な雑念に大切な理念や初心を忘れないように平常心を磨いていきたいと思います。

あの美しい自然、今朝の綺麗な朝の光のようにいつも心の原点回帰をしていきたいと思います。

観方を転じる~徳に報いる~

先日、あることを考えていると天罰ということについて見直す機会がありました。よく悪いことをすると天罰が当たるという言い方をしますがこの天罰とは何かということです。

そもそも天は罰を与えることはありません。罰が当たるのは自分自身です。自分にとってつらいこと苦しいことを罰とし、その罰が来たということです。天がわざわざ罰を与えたわけではなく、自分自身が素直になったときに「これが報いか」ということを自覚するだけです。

報いというのは因果応報のことですが、これはそもそも先ほどの天罰と同じく悪いことで使われますがこれもおかしな話で自分にとって悪い報いだけが起きるわけではありません。善悪というものも、人間が自分にとって善悪を決めるだけで天は善悪を持ちません。つまりは、因果応報もこれは単に行ったことが形になっただけでそれに善悪を設けているのは自分自身ということです。

人間というものは、自分を中心に置いて物事の善悪や成否を決めます。そしてそれは常識という枠組みの中によって正解と不正解を裁きます。そのことにより自然だったものが不自然になり、本心だったものが本心じゃなくなっていくのです。

物事というのは観方の問題です。

現実というのは、偉大な循環の中の一つであるためその物事や出来事は必然的に自分に置かれます。つまりは産まれてくる場所をはじめそこに自分がいるのは全体の一部としてそこに必要として来たのです。その現実は現実ですから受け止めて受け容れるしかないのはそれはどうしようもない事実だからです。

だからこそその事実を変えてしまいたくなるような自分中心の自分自身があるのでしょうが、それを手放していかなければ現実の苦しさに自分が耐えられなくなってしまうのです。そういう時は、観方を換えるしかありません。本来、善いことであるという観点、丸ごと善いことであるという観点、繋がり味わい楽しむならばそれが正しいという観点のように、自分の観点を不安不信ではなく信の世界に換えるのです。

そもそも天罰などはない、天はいつもすべてゆるしてくださっている、天はいつも助けてくださっているというように大前提を変えてしまわなければ観点は変わりません。つまりは自分の解釈そのものの基準を、信じる方へと善い方へと変えるということです。

自分の不安が未来を悪くしていくのは、そういう観方を換えられないだけです。今の生き方を常に善い方へと善転できるならその人はどんな運命であろうとも自分の人生を仕合せに歩んでいくことができるからです。

人は自分の思い通りになるとき、このままずっと今のままがいいと願うものです。しかし時代はそれを待ってくれません、自分ひとりで生きているわけでもなく世界は発展を続けるからです。

だからこそ今の自分を転じていくこと、それが人事を盡していくことだと思います。天は信ですから、その信に報いるのは徳です。その徳を磨いていくことは、人事を盡してあとは天に任せていくことです。

自分の思っていることなどたかが知れていて、ほとんど全ての出来事が自分ではない周りのところが動いてくださってことはなされていくものです。それが循環の理でもあり、地球の中に共生する原理でもあります。

偉大な中に存在させていただいているのだから、自分の役割を果たしていくことが徳に報いることです。自分都合自分勝手な解釈を戒め、常に観方を転じて信の世界を子どもたちに譲っていきたいと思います。

善い一日

日々は毎日、あらゆる出来事に満ちています。自分の主体性が失わなければ人は毎日新しいご縁と感動の中で生きているのです。自分を見失うのも自分、自分を取り戻すのも自分、どれだけ日々に好奇心を失わないように精進するか、そこに魂の磨きがあるように思います。魂を磨くというのは曖昧な感覚で捉えられるものがありますが、それは状況や環境に左右されずに生き切ることができるかということなのでしょう。

人生をどれだけ真剣であったかは何よりもその魂に影響を与えます。人が結果だけを見るのではなくその生き方ともいう経過にどれだけ真摯かは自分の使命の重要性を自覚するからでしょう。自分自身の自覚とは日々の過ごし方が決定づけます。日々を遣い切る、日々を出し切るように真心を絞り出す人の魂はいつも子どもの憧れのまとでありその周囲はいつも光り照らされて観えます。

先日、作家の三浦綾子さんエッセイに触れる機会がありました。その生き方や生き様から学ぶことが多くこのタイミングで有難いご縁をいただきました。

その中の言葉をいくつか紹介します。

「私たちは、毎日生きています。 誰かの人生を生きているわけではないのです。 自分の人生を生きているのです。 きょうの一日は、 あってもなくてもいいという一日ではないのです。 もしも、私たちの命が明日終わるものだったら、 きょうという一日がどんなに貴重かわからない。」

どれだけ毎日を真摯に生き切るかは、どれだけ自分を誰かのお役に立て切ったかということです。全体のために自分を使うとき、人は自分の考えた一日ではなく自分に与えていただいた大切なご縁に気づきます。そのご縁に気づいたら人は、一日一生の気持ちで生きようと思うのです。死にかけてみてはじめてわかるのが生の有難さです。人はすぐに昨日の繰り返しや、過去から予想して一日を過ごしますが好奇心はそれでは輝きません。常に新しい一日であったか、常に感動と感激を発見しているか、ひとり慎む内省の時間によってそれを育んでいくのでしょう。

私自身も太陽が出てから最大の活動をし、太陽が沈んでから静謐な内省をすればするほどにその間の御縁を通して機縁の奇妙さや不思議に心が感動し魂が揺さぶられます。毎日がかけがえないの記憶の中にあることに感謝する気持ちに満たされ愛に包まれていきます。

人は結局は、一日の過ごし方が一生の過ごし方になります。日々にどれだけ心を遣ったはその人の力量ですが、常に不満から入るのではなく感謝から入ることで自分自身の真の尊さに触れて初心に帰れるのかもしれません。

今の人間は経済的にも環境的にも恵まれすぎて当たり前の豊かさや仕合せを手放してしまったとも言えます。当たり前ではないことに感謝できる感性は、一日一日の過ごし方という実践にてはじめて得られるように思います。わかった気になってはならないのは何よりも毎日毎朝ということです。

最後に三浦綾子さんの言葉です。

「今日という日には、誰もが素人。」

気づけば教えてくださるのに気づくことができない自分がいるだけです。いつも見守られている自分さえ感謝で気づけるなら、大事なことや大切なことは常に日々が私に伝えてきてくださっています。

学びの感性があることそのものに感謝の日々です。毎日が真っ新、毎日が新鮮、毎日が発達、子どもの魂のままに善い一日を過ごしていきたいと思います。

役割意識~人生の目的~

北米インディアンの諺に「7代先の人達のことを考えて生活しなさい」があります。ちょうどこれは200年から300年くらい先のことを考えて今を判断しなさいという教えです。

人は判断をするのにどれくらいの長さで物を観るかでその哲学が変わってきます。今が過去の集積によって存在していることの実感は、同じように先祖たちが考えてくださった未来を今を生きる自分たちが感謝し子孫へ譲っていく思想です。

例えば、食糧でも同じく自分たちの代で食べ尽してしまえば必然的に子どもたちの時には残っていません。子どもたちが貧困で苦しい思いをしてほしくないという思いは誰だって子どもが産まれたら願うものです。そして戦争でも同じく、自分たちの代で戦争をすれば子どもたちには戦禍を遺すことになってしまいます。子どもたちが悲劇に見舞われないようにという願いは同じように誰にでもあるのです。

しかし今の人たちは意図的に操作された自我優先の慾環境によって盲目に刷り込まれ自分たちの身の上のことばかりを思い煩い、先々のためにどう生きるかということを優先することができません。まるでそれは自転車操業のように、走り続けなければ倒れてしまうと思い込んでいるように働きに働きづくめで忙しさに心を取り戻せません。

空の悠久に流れる星々をみつめて今世の自分の役割を果たそうなどと考える時間もないほどです。

北米のインディアンたちは、太古の昔から「自分のいのちは役割を果たすためにある」といった哲学をもって生き抜いてきました。何よりも優先するのが使命や役割だったのです。「グレートスピリッツ」という全自然の偉大な大生霊の循環によって産み出された自分の存在を生き活かそうとするのです。

それは自分が男や女、またどの家系に紐づいているか、その今の自分そのものの全体の中の役割に生き切ろうとするのです。

その役割についても徹底してて、部族の役割の頂点にいるのが酋長です。この酋長は全ての物を全ての人に分け与える存在として選ばれます。従って酋長は一切資産資材を持たず、一族の中では最も質素な暮らしをしていて全体のために自分の役割を生き切るのです。

役割意識というものは、何よりも大事な意識です。

自分の人生を役割だと思えるか、その役割を果たそうと実感できるか、そこには謙虚な生き方があります。自分の生とその自分に与えられた役割に素直に感謝できるとき、今の自分が見守られていることを知ります。そして満たされている存在、足るを知ることによりその御蔭様に対して御恩返しをしたいという願いがでてきます。

その時、はじめて自分がどう生きたいか活かされている自分をどうしていきたいかという人生の目的に出会うのです。

どんな人もどんな動物草木昆虫菌類、無機質のものにいたるまで役割があるから一緒に暮らしているのです。お互いが違う役割を求めるとき、人は生きる意味を見失うように思います。

自分探しや自分の目的など色々と彷徨っている話を聴きますが、大切なのは与えられた役割に気づき役割を果たすことに専念することのように思います。

「自分のいのちは活かされている」という実感があって人は目的に出会うのでしょう。

役割を果たせるように今日も未来永劫に続き未来の子どもたちと、宇宙や世界全体のために今できることに専念していきたいと思います。

 

この酋長はもっとも