人のために動く~働く幸せ~

先日、日本理化学工業を見学するご縁に恵まれ、大山会長から「皆働社會」についてお話をお聴きすることができました。

そもそも「働く」という字は、人の為に動くと書かれています。この字は日本語であると仰られ、他人の御役に立つという意味で用いられるのが本来の意味であると教えていただきました。

昔の日本人というのは、暮らしそのものが働くことだったと言われます。西洋のようにバカンスもあるわけではなく、休みも週休2日かだったわけではありません。日々に御日様が昇りご挨拶をしたら社會のために自分のできることでお役に立ち、日が沈めはみんなでまたその日一日の仕合せと御蔭様に感謝し御休みするという繰り返しの中で助け合っていました。

今では個人主義が蔓延し、朝から仕事をして夜寝る前まで黙々と行うことが増えているように思います。時には徹夜で休みもとれず仕事に追われるような日々を送っている人も多い時代です。

そのうち何のために行うのか、これは何のお役に立つのかを思うのではなく終わらせることが目的になって疲れはてている人も増えてきました。人間というものは、自分のできることが誰かの御役に立つ実感がでるときその疲れもまた清々しいものになるものです。しかしそれを思わずに、ただ遣ることがメインになれば疲れもとれず楽しくなくなってしまうものです。

仕事を楽しもうと無理に楽しんでも、それは一時的な娯楽のような楽しみは感じられても長続きする愉しみにはなりません。よく仕事で疲れたからと旅行にいってみても、帰ってきたらどっと疲れるということがあります。本来、仕事の疲れというのは、仕事でしかとることができないのに、仕事以外のことで疲れをとろうとするから楽しくなくなってしまうともいえます。

長続きする真の愉しさというのは、働くことで得られるものです。それはただ業務を遂行することではなく、誰かのためにお役に立ち、そのことでお役に立てる実感を自らが味わっているとき働く幸せを感じて愉しくなるのです。

仕事が楽しくないというのは、業務そのものが目的になってしまい本来何のために行うのか、誰かのために自分が親切であったかというのが関係しているのです。

私も日々に忙しくしていますが、どんなに忙しくても自分の存在や自分が一生懸命に取り組んだ仕事が誰かの御役に立っていると実感するとその疲れも吹き飛んでいきます。自分が他人のために動くとき、働ける有難さ、働くことの幸せを実感できるのです。

心の豊かさと心の貧しさというのは、働くと仕事の違いに似ています。西洋でもwork とlaborという言い方で単語が分かれているそうです。言われたことをちゃんとできるのが仕事に対し、言われていなくても他人のために動くのが働くということです。

毎日、自分を存在させて有用に活用してくださる組織や社會に対して、どれだけ自分が御恩返しをしているか、どれだけ自分から困っている人たちの力になれているか、そういうことを探して自分を用立てていくことがみんなで働くということなのでしょう。

社會とは本来、みんなで働けるという意味が本質のように思います。

他人の御役に立てる有難さがあるから、自分が幸せになるというのは人間は本来周りと一緒に豊かになっていくための存在であるということなのでしょう。一人で仕事ができるようになることにあまり意味を感じません、それよりも多くの人たちと働くことができるような人になることを自立といいその中で自分が役に立った実感が得られることが自己実現というのでしょう。

仕事から考える自己実現は自分勝手で我儘なものですし、それを得ても本当に周囲が幸せかどうかは微妙なものです、それよりも働くことから考えた自己実現は思いやりにあふれ自他もみんな一緒に豊かで幸せになるのが分かります。

どちらに生きるかも、その人の生き方、そして働き方次第です。子どものモデルになるような生き方働き方を見つめていきたいと思います。

遊び心~画一ではなく個性尊重を大事にするということ~

今の日本社会や組織の問題を見つめていると、画一化という教育とは何かというのが観えてきました。ほとんどの場所では、同じことを周りと同じように平均的に行うことが良いと教えられ、それを目標に刷り込まれてしまうと他とは異なるということをあまり良いことだと思わなくなります。

周りと同じであるかというのが平均ということで、その反対が独創というものです。

人と異なることを行うにはユーモアが必要です。これを日本語では遊び心というように思います。そしてユニークな個性が必要です。これを日本語では自分らしさというように思います。

日本人はもともと独創性をあまり重視せず真面目に周りと合わせていく中で困難を乗り越えようとしてしまいます。これがマジメすぎてアソビを失う原因ではないかと最近感じるのです。

以前、オランダに訪問した際、ある子ども主体の教育のコンサルティング会社の代表者より私が大変ユニークだと褒めてもらったことがあります。人と異なることを行い、それを愉しんでいるからという理由だったのかもしれません。そしてそれが我々が目指す子ども像だとも付け加えられました。

人と異なることをしないというのは画一化ということです。それはみんなを正解に従ってその答えになるようにコピーしていくということでもあります。そうやってコピーされていたら、マジメにやれるようにはなってもふざけたことはしなくなってしまいます。

特にふざけたことをすれば常識外れだと罵られたり、変人だと蔑まれたりしていればそのうち誰もそういうことをしない方がいいと思うようになっていきます。

しかし本来、一人一人の人生は別物であり同じことはありません。他人の人生は参考になったとしても同じ人生など歩めることもありません。だからこそ自分は自分なりに独創性をもって事に挑み、新たな道を常に切り開き続けていかなければなりません。

その時の正念場は、周りと同じことをしないということです。

そのためには、きっとこれで合っているといった固定概念に縛られないことだと思います。常に新しい発見と発明を繰り返しては、それを試行錯誤する。その中でユニークさもユーモアも磨かれていくように思います。

硬直した組織は必ず遊び心を失っていますし、硬化した人間関係も同様に遊び心が亡くなっています。

世紀の大発見も、時代を揺るがす大発明もすべては遊び心から産まれるものです。それはもっとも自分らしい姿から誘発されるものです。マジメでもフマジメでもなく、遊び心満載のふざけた生き方が硬直硬化した自分自身を解放してくれると思います。マジメそうにしてサボっていることの方がフマジメだと思いますから、いい加減にみえても本気であることの方が自分らしいと私は思います。

大人になるというのはサボらないこと、そして周りをコピーすることだというのはあまりにも虚しいものです。いつまでも子ども心を大切に一度きりの人生なのだからもっと遊んで愉快に道楽を歩んでほしいと思います。子どもたちにはいつもいつまでも愉快痛快に個性尊重し生きる自分の背中をみせていきたいと思います。

今と人を大切に~一期一会~

人間は誰かを思いやることで礼儀を学びますが、その礼儀は感謝を忘れないということにつながっています。

そもそも親しい仲になるというのは、お互いに分かり合っている関係のことです。お互いの性格を知り、お互いのことを信頼し合うから親しくなっていきます。そしてそういう関係が当たり前になってくると、遠慮がなくなり失礼なことをしてしまいます。

失礼とは、読んで字のごとく礼を失したということで当たり前のことをしなくなっていくのです。思いやりや気遣いが足りず、相手の存在を蔑ろにしてしまいます。これは人にだけ関係することではなく、あって当たり前やこうあるべきであるのは当然だというような思い込みは感謝を忘れている証拠です。

自分が今、生きていることや、自分が助けられていること、自分が健康であることや、自分が必要とされていることなども当たり前のことだと思ってしまえば感謝はなくなっていきます。感謝がなくなってくれば傲慢になりますから、言葉や態度がとても相手を傷つけてしまうのです。

あって当たり前というものはない、それは人生は一期一会であるからです。

この今はもう二度と戻ってきませんし、このご縁は二度と同じようにはなりません。いつまでも続くことはないからこそ、何よりも大事にしようとする生き方が必要なのでしょう。今の時代は、お金を中心にしたつながりや、肩書きを中心にしたつながりが優先され、形式的な関係の中で常識を優先しようとしてしまいます。

取引先という言葉であったり、上司部下であったり、雇用関係であっても何かそこに当たり前といった常識から物事を決めつけて人に接するような風潮もあります。しかし本来のご縁は一期一会ですから、そこに常に「礼儀」があるということなのです。

礼儀とは、相手を思いやり、当たり前ではないことに感謝していることで実践されるのでしょう。私はまだまだで、自分のことばかりを考えては親しい人への言葉も丁寧にはなりません。天が自分に与えてくださっているのは天が真摯に苦悩するこんな自分の姿を憐れんで使わしていただいた大切なご縁です。

人生を振り返ってみても、いつも大事な局面で応援し励まし、一人ではない、いつも見守っていますよといってご縁をくださっているように思います。それはまるで父母の恩徳のように、有難いものだったように思います。

親しい仲とは、親と仲の字で構成されます。これは親しいというのは、親との関係のようなものということです。いついかなる時も見守ってくださっていることを自分自身が忘れないことが「親しき仲にも礼儀あり」ということなのかもしれません。

見守られることは当たり前ではないということを自覚し、自分も見守らせていただけることも当たり前にしないと覚悟することが礼儀を重んじることかもしれません。二度とない出会いをしているのが人生ですから、今と人を大切にしていきたいと思います。

真心の醸成(志道と志事)

吉田松陰の志というものは、多くの志士の心を動かしました。

そこには志というものが何か、そしてそれは何をもって志が育っているのかということを自らの背中を通して塾生に語り掛けました。周囲からは狂人と呼ばれ、危険人物として疎まれました。

本来、志高く歩む人を理解するというのは周りからみれば変人の類なのかもしれません。一般的な姿と考え方も異なり、見た目も異なり、素行も異なるのは、常識の枠に囚われることがないからです。

吉田松陰もその時代には常識的に理解されず、それでもそれを貫きました。たとえば、友との約束のために脱藩をします、今では外国に亡命するくらいのことです。そのあと黒船に乗ろうとします、これは宇宙船に乗るようなものです。そして安政の大獄の真っただ中、仮保釈中に老中暗殺のために武器を藩に願い出ます、これなどは仮出所中に銃や武器を国家や裁判所に貰いたいと嘆願するようなものです。

「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」という言葉も遺ります。塾生たちに遺した言葉には「諸君、狂いたまえ」などという言葉も残っています。これなどは、「もっとおかしくなりなさい、遣り切りなさい」と他人と異なってもいいからもっと変人になることを奨めているのです。

なぜこうすればこうなるとわかっていながらもこれをやり遂げたのか、そこには本人にしかわからないものがあったのだろうと私は思います。

吉田松陰の立志という生き方はまずこれらの言葉に見られます。

「志を立てて、以って万事の源となす」「志定まれば、気盛んなり。」

すべては志からはじまり、そして志におわるという意味でしょう。そして志は覚悟が決まれば、気が満ち溢れ燃えているはずだというのです。

そして孟子の下記の言葉を引用して「講孟余話」という授業の中で弟子たちに発奮激励を語ります。

「志士は溝壑にあるを忘れず、勇士はその元を喪うを忘れず」

意訳ですが(志士ならば道義のためなら窮死してその屍を溝や谷に棄てられてもよいと覚悟し、真の勇士は志のためならばいつ首をとられてもよいと覚悟を決めているのだ)という意味です。

そしてここにはこう続きます。「書を読むの要は、是れ等の語に於て反復熟思すべし 」と。

志士が本を読む意味は、これは孟子のいうところを繰り返し繰り返し読み直しその書いている本人の真心に透徹するまで思うことであると。読むというのは単に字を読めばいいのではなく、志で道を切り開く同志を思いそれに志心を奮い立たせていくということでしょう。

吉田松陰の志道というものは、決して仕事ではなく志事であったのです。

言い換えれば、人生を懸けて志を貫こうとし、それを塾生たちが感じ取ったのです。吉田松陰は出来合いの指導などを行っていたのではないのです。では塾で何を行ったのか、それは志道と志事を実践していたのです。

その塾生の一人、高杉晋作はこう言残します。

「何の志も無きところに、ぐずぐずして日を送るは、実に大ばか者なり」

そしてもう一人、高杉と合わせて塾生の双璧と呼ばれた久坂玄瑞の言葉で締めくくります。

「私の志は、夜明けに輝く月のほかに知る人はいない」

私の志も、あの天高く広がる宇宙のほかに知る人はいないという心境です。別に誰に分かってもらう必要もないし、誰に知ってもらう必要はない、ただ自分の志道を貫くだけというのがこの志の道の目指すところなのでしょう。

色々な出会いがあり今がありますが、易経の「潜龍用いるなかれ」、その信念を日々に棲む水面に憂いつつもその真心を醸成し、確固不抜の志を高めていきたいと思います。

立志という生き方

人にはそれぞれに生き方というものがあります、同時に働き方というものもあります。私たちは生き方と働き方を一致するということを目指していますが、これは志を育てるためです。

そもそも志というものは、最初から誰でも持っているわけではりません。生き方を定め、言行一致させていく中ではじめて志は育っていきます。そしてその志は、様々な現実の中の紆余曲折、艱難辛苦の中で、それでも自分は生き方を貫けたかどうか、言い換えれば道を切り開き脚下の実践を遣り切ることができたのかという内省により醸成されていくものです。

志を持つのも育てるのもその人次第です。

途中でそれを已めてしまえば、世の中の安逸の中であっという間に自分の生を終えてしまいます。人の人生はとても短く、志を育てていかなければ気がつけば何をやっていたのかと悔いてしまうことにもなりかねません。自分の生き方と向き合うのは自分にしかできませんから、それに生き方には嘘がありませんし他人のせいにもできませんから志とはもっとも身近で自分のことを信頼する伴侶そのものになっていきます。

吉田松陰は、塾生との手紙のやり取りの中でその志が育つような数々の叱咤激励を送っています。

たとえば、塾生の山田顕義へは「立志は特異を尚ぶ、俗流と与に議し難し。 身後の業を思はず、且だ目前の安きを偸む。 百年は一瞬のみ、君子は素餐する勿れ。 」と記します。

これは私の意訳ですから意味が違ってくるかもしれませんが敢えて訳すと、「志を立てるのならば他人と異なることを恐れてはいけない、世俗のことや常識の中でそれを実践するのはとても難しいことだ。しかし世間の常識に囚われれば自分の身の保身ばかりを思い煩い、目先の安楽安逸に流されるばかりになるのです。百年という月日は一瞬に過ぎないのですから、君子は決して現状に甘んじるんではなく志に生きるのですよ。」と。

これは山田顕義が15歳の元服(成人式)の時に、吉田松陰が扇に書いて送ったものですが何を優先してあなたは生きるべきかとその初心を塾生に自らの生き様で与えています。

そしてさらに感動的で印象に残る叱咤激励に塾生の高杉晋作に送った手紙があります。
そこにはこうあります。

「貴問に曰く、丈夫死すべき所如何。僕去冬巳来、死の一字大いに発明あり、李氏焚書(明の学者李卓吾の書)の功多し。其の説甚だ永く候へども約して云はば、死は好むべきに非ず、亦悪むべきに非ず、道盡き心安んずる、便ち是死所。世に身生きて心死する者あり、身亡びて魂存する者あり。心死すれば生きるも益なし、魂存すれば亡ぶるも損なきなり。又一種大才略ある人辱を忍びてことをなす、妙。又一種私欲なく私心なきもの生を偸むも妨げず。」

これはそのままに味わってほしいものです。吉田松陰と高杉晋作が如何に志で絆を結び、共に不二の道を切り開いていたのかが分かり感動します。死を前にしての、生を語り、その生き方を示しています。

そして志を立てることを最期に述べます。

「死して不朽の見込あらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込あらばいつでも生くべし。僕が所見にては生死は度外に措きて唯だ言うべきを言ふのみ」

これは私の人生観からの意訳ですが、「もし死んだとしても志がそれで立てられるのならいつでも死んでもいい。しかし生きて志が立てられるのなら生きることだ。常に志を求め言うのなら、常に自らの生死のことなどは度外視して志は語るものだ。」

「立志」という生き方。

これを実現したのが松下村塾なのでしょう。

孟子はこう言い遺します。

「自ら反りみて縮くんば、千万人といへども、吾往かん」

そして孔子はこう言い遺します。

「三軍も帥を奪うべきなり匹夫も志を奪うべからざるなり」

引き続き、君子の道とは何かを自問自答しつつ覚悟を育てていきたいと思います。

 

禮と義

中国、論語の一つに礼記があります。これは論語の四書五経のひとつで禮について書き記るされたものです。

仁、そして義、次に禮というように何よりも君子の徳が明らかになったことで顕現する真心の現れをそれぞれの言葉で表現しているように思います。実際はどれも分かれているものではないものですが、それをどの道から入るかが示されるように思います。

その礼記には、色々なエピソードが書かれておりその中から禮とはどういうことかということを学ぶのです。その一つ、特に印象的なものが大学を記した曾子の最期の場面です。

「曾子、疾ひに寢ねて、病なり。樂正子春、床下に座し、曾元、曾申、足もとに座し、童子、隅に坐して燭を執る。童子曰く「華にして睆なるは、大夫の簀か?」と。子春曰く「止めよ!」と。曾子之を聞く,瞿然として曰く「呼!」と。曰く「華にして睆なるは、大夫の簀か?」と。曾子曰く「然り,斯れ季孫の賜なり、我未だ之を能く易へざるなり。元、起ちて簀を易へよ。」と。曾元曰く「夫子の病、帮なり、以て變かすべからず,幸にして旦に至れ、請ふ、敬みて之を易へん」と。曾子曰く「爾の我を愛するや、彼に如かず。君子の人を愛するや徳を以てす、細人の人を愛するや姑息を以てす。吾、何をか求めん?吾、正を得て斃るれば斯に已まん。」と。舉げ扶けて之を易ふ。席に反りて未だ安んぜずして沒す。」

口語訳では、「曾子は病気で寢つき、危篤の状態だった。樂正子春は枕元にすわり、曾元、曾申は足もとに座り、子どもが部屋の隅に坐って燭台を守っていた。子どもは言った「すごく美しく輝いていますね、これは高級高貴な簀なんですか?」と。子春はすぐに「静かにしなさい!」と叱った。曾子はこれを聞いて驚いた様子で言った「ああ、そうだよ」。そして曾子は続けて「そうだ、この簀は季孫の殿が私に下さったものだ、私はまだこれを取り換えることができなかったのだ。曾元よ、立って来て簀を取り換えてくれ。」といった。それに曾元は言いました。「父上の御病気は重篤です、今はとても動かすことはできません、もし幸にも持ちこたえて朝になりましたら、謹んで簀を取り換えさせてください。」曾子は言った「お前の私への愛は彼(子ども)に及ばないのだよ。君子の思う人への愛は常に徳にこそ基づいている。小人の人への愛は間に合わせのありきたりなものだ。私が一体何の道を求めているのか、私は正しい道に適う行いをして死ぬのなら、もうこれでいつも死んでもよいと思っているんだよ。」と。そこで、皆で扶け起こして簀を換えてもとの席に戻って腰を落ち着ける前に曾子は亡くなりました」

曾子は「大学」の中で、「大学の道は明徳を明らかにするにあり、民に親しむにあり、至善に止まるにあり。」と徳を示していました。その徳に報いることを重んじた曾子の人柄を感じる話が礼記には紹介されています。

もちろん真心とは形式ではなく、その時、その場所、その状況によって示し方も変わりますがきっとここでは相手の立場になって思いやって行動したことを曾子が学問によって最期まで実践を尽くしたのでしょう。

お互いを察するということは、もしも自分が相手だったらと思いやることです。それは自分の立場ばかりを考えて保身に走るのではなく、もしも相手が自分だったらどんな気持ちだろうか?もしも相手は自分そのものであるのならどう感じるだろうかと自分と同じように大切にすることを言うのではないかと思います。

礼儀に問題があるというのは、言い換えれば自分のことしか考えなていないということでしょう。保身に走るのは、自分が一番かわいいからです。それを二番にする必要はないのですが、相手を一番にしていくことで自分もまた一番になっていくようにも思うのです。

お互いを慈しみ愛し、そして尊敬するという間にこそ真の禮もまたあるように思います。そしてそれを正しく実践することが義に近づくようにも思いますし、その先に仁の実践も徳の醸成もまたあります。

常に真心を優先して、損得利害の刷り込みに負けないように自らに打ち克って禮に復えりたいと思います。

 

自由と責任

自由の関する責任についてもう少しだけ掘り下げてみます。

責任というものはそもそも人間を信頼しないというマネージメント下では押し付けられたり与えられたりするものです。世の中では、責任というものは取らされるという考え方をもっている人も多くいます。一人で多くを抱え込み、一人で全部の負担を負うようなことをするのもこの責任というものの認識がかかわっています。

しかしもし責任をそもそも人間を信頼するというマネージメント下で動いているとしたらそれは認められている証拠をしての責任感が育ちます。これは自分も組織の中で自立した一人として認められているのだからその役割や責任を果たしたいという具合です。周りが認めてくれているというのは、仲間のために協力したいと実感するということです。

信頼するというのは認めているということですが、自分が認められていると実感すればするほどに周りの人たちのために貢献したいと思うようになるのです。

これが集団というものです。そしてこの集団というものにも、そこにはどのような集団になっているかという理念によって集団での働き方も異なっているのです。

本来は集団というものは、お互いが認め合うところで集まって何かを為す組織です。そこがもし目的だけを重んじ、人間は卑下して効率や生産性のみを追求する組織になれば人は入れ替えがきくパーツのようになってしまいます。そうなると人は、信頼で関係を結べず誰かによって管理されることで集団を形成しようとします。そうなると個々がバラバラにならないようにすることがもっとも重要なマネージメントになるのです。

しかしもし集団が人間を尊重しつつ目的を達成するとなれば、非生産性な時間や非効率であってもそれが幸福につながるのならばと対話を大切にする組織になるのなら人間はますます周囲を信頼しその集団を大切にしようとするのです。

そうなれば管理するのではなく、見守り合い助け合い協力し合うといった組織になるのです。これは得意なところを活かしあいみんなで一緒に乗り越えていこうといった総力を合わせたマネージメントになります。

畢竟、責任というものはその人間がどれだけ自分を周囲へ貢献していこうとしているか、その社會の中で自分から周りのためにと協力をしていくかということに尽きるように思います。それは感謝が根っこにあるからこそ自分からもっと任せてもらえるようなことを実現したいと願うのです。

より善い社會貢献をしていこうと願う心に責任が一緒にあるのだから、責任を学び続けるためには常に認め合い助け合う風土を醸成していくことが何よりではないかと思います。自由というものは、信じるということです。

信じることが自由なのだから、信じられているからこそ自由を実感し、その自由を得ているからこそ自立しようと願う。そして自立できていると実感したとき、自分自身の責任に出会うのでしょう。

責任があるところには自由があり、自由があるところには自立があり、自立があるところには信頼があり、信頼があるところには感謝があるのです。

人間尊重の大切さというのは、お互いを同じ人間として大切にしていこうとする思いやりや真心があります。どのようなマネージメントを用いるかは、そのリーダーの考え方でしょうが人材を流用するだけか、それとも人材を育成するか、短期的にみるか長期的にみるかはその人次第です。

子どもたちの未来のことを思えばどちらを選べばいいのかはすぐに理解できます。保育や教育に関わる会社だからこそ常に責任を正しく理解できるように精進していきたいと思います。

自由という教育の本義

自由について掘り下げてみましたが、畢竟、自由は「責任」というものの自覚にたどり着くように思います。

そもそも自分自身の人生の責任を自分で持つということは当たり前のことですがもっとも難しいことと思います。責任というものの自覚も、感謝の自覚と同じく安易に知識で習得できるものではありません。

様々な人生の中での有難い体験を通して、一つ一つを実地で学び、その学びが何だったのかと慎み内省し、それを噛締め玩味し、消化し、排出してこそはじめて自分のものとして体得会得できるものです。

いくら頭で分かったからといってもそれが実地実践で体得会得したものではないのなら現実の世界ではそれはまったく役に立つことはありません。実践で役立つ真の知恵というものは、須らく自らが行動と実践により経験し掴み取った成果であり、何もしないで文字だけを読んでいても行動や実践の量が不足すれば単に分かった気になるのです。人生には訓練が必要ですがそれはめんどくさがらず謙虚な気持ちで全部徹頭徹尾体験するという向上心と志です。

そしてこの「責任」というものを学ぶためには、「自由」な環境が必要です。

人間は、自分の人生に責任を持つには他人のせいにはしないということを学び取らなければなりません。他人のせいになっている人生の責任は、所詮他人の仕業であり他人の責任であり、自分のことにはなっていません。それは自分自身の人生ではありません。

仕事でも同じく、自分の仕事だと思っていないというのは責任をはき違えているということです。これは自分のやること、これは自分のことではないという考え方はとても縛られた狭い視野での考え方です。本来は、丸ごとすべてが自分の仕事と思えているか、丸ごとすべてが自分の責任と実感しているかというのが正しい自覚というものです。

もっと簡単に言えば、自分の身に起きるすべての出来事は周りと一緒に動いている。世界は自分を含む世界であり、その世界にどう生きるかで世界は変わっていくという意識というものです。自分一人くらいは別に何もしなくてもいいではないかという意識では決してないという意味です。

たとえば、自由の環境下に人間が置かれてみますと自分勝手なことをやろうが何もしないがその人次第です。しかし、世界によく目を開き、自分が世界に存在する価値を自覚し、自分を存在させてくださっている皆様とのつながりを実感するとき、はじめて「自分の人生の責任」を自らが持たねばならないことに気づくのです。

そしてその自分一人の尊い人生を正しく歩まなければならないと直感したとき、はじめて責任を持つのは自分ではないか、責任を育てていくのは自分自身ではないかと常に教えが其処で入るのです。

これは責任は育てていくものだという考え方が大前提ですが、これは関係性の中で育っていく産物です。社會に出て社會人としての自覚を持つというのは「責任」というものを自覚するということに尽きるのです。社會に出てまでいつまでも学生ではないとよく新人が叱られるのはこの社會性の中にある自らの存在の責任の自覚が伴っていないと言われているのです。

そしてその責任とは、他人から与えられる責任ではなく、自らが自覚する責任感、つまりは責任感とは社會の中で自分が存在することに対する正しい自覚、自分の人生の責任を果たすということです。

自分の人生の責任を果たすというのは、自分にしかできないことで世の中に貢献するということです。シンプルに言えば、「つながっているのだから毎日出し惜しみせずに全身全霊で精いっぱい自分を出し切り役割と全うする」ということです。

そうやってはじめて自分の人生の責任は、自由な環境によって醸成されるものです。

自由という信に満ちた環境があってはじめての個々の自立と自律なのです。本来のリーダーが自由に生きるモデルを示すのに「自由にしていい責任は自分が取る」というのは、奥深いことで自他が自立することをそのリーダーは自らで信じているのです。

信じるという実践を形を変えてリーダーが示すもの、それが自由なのです。

信の顕現である感謝の心のように、この責任の心というものもいのちの幸福を目指すものです。自由な環境下で仲間たちと一緒に自分の責任を果たせる人というのは、見守り合う中で信じ合った絆を優先するために自分を律し自立できた人です。

畢竟、自分の人生を信じられる人だけが自分の人生の責任を持てる人なのです。

自由をテーマに、人間形成と人材育成の教育の本質を引き続き深めてみたいと思います。

主体性とは

自由と自立にとって何よりも重要である主体性について深めてみます。

私たちは幼いころから、与えられたものの中で何かを行うように何度も訓練されてきました。教育によって与えられた環境と与えられた課題によってそれをきちんと遂行することで評価されてきたともいえます。

つまりは先に相手から与えられることが大前提で、与えられてないものを自ら先に行うということをあまりしてきてはいないのです。言われたことはやるけれど、言われていないことはわざわざやろうとはしないのです。今の教育ではそういうモチベーションは育ててきていないといっても過言ではありません。

そういう中でいきなり自由な環境があって「なんでもやっていい」といわれても、どうしていいのかわからなくなり身動きしなくなるのはそれまでにそういう体験をあまりやってきたことがないからです。

本来、自由な環境を活かすというものは誰かによってまず与えられてからやるものではなく、与えられなくても自らの意志で遣りたいことがあるということです。たとえば、志があるからこそ道を求めては自らが新たな道を切り開くという具合にです。

そして主体性というものの責任は、与えられる責任ではなく自らが世界や人生への責任を持つということです。誰のせいにもせず、何かのせいにもしない、自分の全人生が丸ごと自分の責任となったときはじめてその主体が全人格の自分自身と一致するのです。

その人が志が立っていれば、自ずから主体性は引き出されていくものです。しかしその志が弱ければどうしても与えらる中でや、誰かによって動かされる中でしか自分を動かし発揮していくことができなくなります。

本来の自分を存分に発揮するには自由が必要であり、その自由の中で主体性を発揮していることが自立であり、それが自分らしく自分にしかできないことを実現し、そのプロセスこそが世界でたった一つの自分にしかできないことで世界へ貢献することになるのです。

人間がありのままで生きるということは、何も思い通りになることでも何もしないで与えられることでもありません。自らが自らの人生を真摯に求めているからこそありのままになるのでしょう。

これを論語、「中庸」ではこう記されています。

「天の命ずるをこれ性と謂い、性に率うをこれ道と謂い、道を修むるをこれ教えと謂う。道は須臾も離るべからざるなり。離るべきは道にあらざるなり。是の故に君子そのみざる所を戒慎し、その聞かざる所を恐くす。隠れたるより見(あらわ)はなく、微(かす)かなるより顕(あらわ)なるはなし。是の故に君子その独りを慎むなり。」

天の命じたものが性といい、その率うをこれを道という。本性から遣ろうとするからこそ今の道に出会っているはずですがこれが実際の人生と道が一致させることができずに人は疲弊しているのでしょう。主体と本性が一致するのなら、それは道です。その道を修めたものが教え、そしてそれを育むと書いて「教育」です。そしてそれが実現してこそ一人一人の人生の主体性が存分に発揮されているということになるのです。

本当に今、此処が道だと思っているか、だからこそ独りを慎むということがどれだけできているのかを何よりも内省するのが君子なのでしょう。

子どものころは、やりたいことが本当にたくさんあるものです。あれもこれも全部やりたいと思うものです。自由というものの真価、何でもやっていいという有難い環境があることに感謝できるのです。

まさに人生のキャンパスは白紙、そこにどのような絵を描いている最中であるのか、それは単に新しいことをやればいいというわけではなく、本当に脚下の実践を大切にし自分に与えられた天与の道を丹誠を籠めて日々に歩んでいるのかという意味でしょう。

自立とは、一人一人の幸福、そして社會の幸福、言い換えれば全人類全世界の幸福に直結しているものです。

主体性とは、「性」が主体と書いて字の如くです。

自由と自立の本義を改めて確かめ直して時代の教育改革に挑戦してみたいと思います。

偉大な存在の一部

自然を相手にしていると、如何に自分が小さな存在であるのかを実感します。

土を耕し、作物の種を蒔き、育てていても自分が何かをしたからそうなるというよりも自然がそのものを育て活かしていくのに感謝していくことしかできません。自分がいくら何かをして動かした気になったとしても、それは周りの環境がまずあってできるということです。

人間には自分の価値観がありますから、自分が思っているような世界を自分が生きているのは誰にせよ同じことです。しかし、その価値観がどうなっているか、自分の思い通りにしようとしていないかということはメンテナンスがいるように思います。

思い通りにしようとすればするほどに、如何に天に見守られ自然に活かされているかを忘れてしまうからです。

自分だけが大きな存在だと勘違いしたり、自分が分を弁えずに傲慢になったなら、何でも中心は自分の判断基準を最上だと思い違いをします。自分が見ている世界など、ほんの目先の小さなものであることに気づけないということが可能性を狭めていくのかもしれません。

世界を広く観るというのは、自分から見た世界を最上とするのではなく、何か偉大なものによって自分が存在させてもらっているつながりの中にいて観るということなのでしょう。

つながりというものは、片時も自分から離れません。そしてその偉大な羅網のような網目の中に自分が存在していて無限の宇宙のように広い世界を体験するのです。

そして何もしていなくても与えてくださっている存在に気づくことで、自分がやっているのではなく、自分にさせていただけるのだということにも同時に気づきます。つい遣っている気になりますが、本当の有難さというものはこのような体験をさせていただけている不思議をいつも与えてくださる大きな存在のことでしょう。

自分が小さな存在というものは、だからといって卑屈になるという意味ではありません。大きな存在の中にある小さな存在の自分が、何より偉大な存在の一部であるということです。

だからこそ自分を大切に、自分の一つ一つの生き方をつながりを中に置いていきたいと思います。