自他中心の世界

人間は利己的な生き物です。

まずは自分のことを考えてしまいますから、気づくといつも自分が一番大変なのではないかと考えるようになってしまいます。特に忙しく、自分のことしか考えられなくなると周りへの思いやりに欠け自分から孤立してしまいます。

人は自分のことは自分ですからよくわかります。自分がどれだけの思いをしているかとか、周りは分かってもらえないとか、自分だけなぜこんな目にとか思いやすいのです。しかし実際は自分だけが大変ではなく周りの人たちも大変なのです。

たとえば、自分が忙しい時は周りは暇そうに見えるものです。それは自分が忙しいからそう見えるのです。逆に自分が暇なら周りはなぜあんなに忙しいのだろうと思ってしまいます。これは自分を中心に考えるからそこを基準に周りを見るからそう見えるようになるのが道理です。ほかにも、自分が楽しくないときは周りは楽しそうに見えたり、自分がつらい時には周りは楽をしているように見えたり、自分が貧しいときは周りが裕福そうに見えるのも同じく自己中心的に物事は見えてしまうのです。

しかし実際はどうかといえば、みんな大なり小なり人間はみんな等しく同じように喜怒哀楽様々な感情がありますし、それぞれの価値観にそって苦しいことも辛いことも嬉しいことも楽しいことも日々に浮いては沈んでいるのです。

大事なことは、自分だけがという考えに陥らないことのように思います。

論語に人生において仁を実践するのにとても大事な一説があります。

「子曰わく、人の己を知らざることを患(うれ)えず、人を知らざることを患う。」

これは私の意訳ですが、「孔子は言う、人が自分のことを分かってくれないと嘆き悲しみ憂うよりも、自分が周りの人たちのことを思いやり共感していないことをもっと憂いなさい。」と。

なぜ自分だけがとか、なぜ自分がこんな目にとか、そう思うときは、周りとのつながりを自らが断ち切って自分の殻の中に閉じこもってしまっているのです。そういうときこそ、誰かのためにや他人のことを自分のことのように思いやれる優しさや強さが人間として必要だということでしょう。

他人を思いやれるというのは、自分が満たされているからできるのではありません。人を思いやるというのは、自分も大変だからこそみんな人は大変なのだと共感し受容して自他の人生が幸福になるように祈り行動することのように思います。

それはまるで家族が平和で幸福に暮らしていけるように自らのお役目や役割を果たそうと真心を優先する生き方のことでしょう。

今の時代は、つながりが弱くなり、しかも受信する力も麻痺してきています。如何に自らが積極的につながり、そして自らが発信していくかということが思いやりの絆を深めていくのには重要です。

それらのことはまずは周りを分かってあげたいといった思いやり、きっとみんなも大変なのだろうと共感していこうとする姿勢、その人の感謝の実践によりその自他中心の世界が観えてくるものなのかもしれません。

自分の心配をするよりも大切な人たちの心配をしている自分の方が人間は自分のことが好きになれるように思います。忘れてはならないのは、そういう自分も周りが支えてくださり活かしてくださっているからあるのですから周りに還元していくのはそのことを思い出させることになるのでしょう。

常に初心は真心や思いやりで感謝を忘れない自分でいたいと思います。

王道経済

先日、偶然にアルビントフラーの「第三の波」の一説に出会うことがありました。

この第三の波とは何かといえば、トフラーは、経済的パラダイムシフトを「波」と仮定して社会の趨勢を予知し第一の波、【農業革命】では狩猟採集社会であった社会が農耕技術の伝播によって農耕社会へ変わる。そして第二の波、【産業革命】では18~19世紀に興った産業革命による社会システムの大幅な転換をする。そして次に第三の波、【脱産業社会化】では産業社会化からの脱却、情報革命の社会へと突入すると定義しています。

そして情報革命の中で大量生産・大量消費を前提に組立てられた諸システムはもはや限界であると看破しています。言い換えれば、もう今のような社会は限界で大きく変えなければならないと言及しています。

今の時代は短期的に見て良い方ばかりを優先する価値観が蔓延しています。長期的に見てとか伝統的にとかいう時代ではありません。農耕一つに観える育成の智慧をとってみても、食という文化そのものの保存法にしてみても先祖、祖神たちは先々のずっと先の社會を見据えて私たちに生き方や働き方を指導してくださいました。

言い換えれば、人間を正しく導くことで永続し共生する世界を遺そうと尽力してくださっていました。その徳や恵みのお蔭で私たちはこの地球上で仲良く幸福に暮らしていくことができるのです。

しかし今の社會は、自利や欲望が際限なく追及され世界はまるで暗がりの中に入っていくような感覚があります。国家間の問題も、利害関係からでしか語られず、善悪や本質で話し合われることが少なくなってきています。

これは人間自体を如何にお互いが高め合おうかというような議論ではないことは一目瞭然です。人間は仲良くなるのに、堕落していく仲間と、高め合っていく仲間というものがあるように思います。真の信頼関係とはお互いを尊重し、明日の敵は今日の友のように切磋琢磨しお互いを許しあって助け合ってご縁を大切に生きていくことのように思います。

そういう精神性を磨き高めてきたのが、私たち日本人の崇高な理念の中にはあるのです。武士道にせよ大義にせよ、歴史の中で残っている上杉謙信や源義経、楠正成という武徳高い人物から学び、二宮尊徳や聖徳太子、中江藤樹など聖人と呼ばれるような方々からも教えを施されてきた民族なのです・

それが第二の波の中で失われつつあるのは、時代がいつまでも急なスピードや緊急性の中で我を見失っているからであろうと思います。もう一度、思いだし、どうあるべきかということについて語り合えるような場や仲間、つながりがこれから必要であろうと思います。

最後にトフラーはこう語ります。

『勝ち負けの経営の限界が見えてきた。企業経営は、覇道ではなく、王道でなければならない。経営の王道とは、人を育て、導くことである。自社に関わる一人ひとりの幸せを目指すことである。このことを忘れ、勝ち負けにこだわる覇道の経営に走り、合理的な経済至上主義の考え方で事業をしている会社は、遅かれ早かれ衰退の道をたどっていくだろう。あなたの会社も変わらなければ、発展の道は閉ざされてしまう。』

子どもにどのような社會を遺してあげたいか、そこで判断するのが当たり前の道理です。そして何を譲っていくかは、その人たちの生き方にかかっているように思います。発展というものは永続的なものであってはじめて発達といえるように思います。

日々学びを深めながら、温故知新した経済を求道していきたいと思います。

社會活動

日本の社會では、あまり自分の意見を出さない方が善いという考え方を持っている人がいます。しかしよく聞いてみると、流されてしまっているだけや周囲に合わせているだけといった自分を持っていないことで我慢したり悩んだりしている人も多いのです。

先日、ある園の相談で自分の意見を言える子どもになってほしいという願いについて話し合いました。なぜなら、自分の意見が言えないというのは社會の中で自立していけないからだとありました。

この自分の意見を言わないということを少し深めてみたいと思います。

そもそも自分の意見が言えるというのは、自発的で主体的であるということです。何かの物事に参加するとき、それが妥協ではなく協力であるならば自分はこうしたいという意見がありそれを周囲に発信して自分から進んで取り組んでいきます。

しかし、これを周りに合わせてから自分をだそうや、周りの評価や自分を我慢して従っていこうとなると一見トラブルも発生せずに無難で安全ですがそうすると他発性で受け身になってしまうのです。

自分から意見を持つというのは、自分をもっていないとできません。そして自分を持つというのは自分で考えていないと自分は持てません。つまりは何かの問題に対して手綱を自らが持ち全体を御しているか、それともただ馬に乗せられているだけかの違いになるのです。

ただ乗っているだけならだれでもある程度はできるものです。しかしそこに確かな自分の意思や主張を出すのだから積極的に物事にかかわり、自分の意見をその社會に対して発信して最終目的まで主体的にかかわり続ける必要があります。

つまりは社會参加のように、見守られているのだから自分の社會人として社會の一端を担おうと自ら見守る側として考え意見を発信するということになります。社會活動も同じく、自分も社會の中で存在する大切な一員なのだから自分が社會をつくる責任を持つのです。

自分の意見がないというのは、その自覚がないということです。だからこそ会社でいえば、自分が会社を創っているのだから自分の意見はとても大切なのだと自覚することや、一人一人が自分が大切な存在なのだから他の意見を認め、自分の意見も認められる社會にしようとすることが共生する場を創出していくことになるのでしょう。

自分の人生を自分で生き切るというのは、自分の意見を持つということです。それは単に反対するとか、わざわざ反抗するというような幼稚なものではありません。自分なりに考え抜いた問いを自分の発言に責任を持ち周囲に発信するということです。

これができてはじめて自分もチームの一員だという自覚が芽生えるのでしょう。自分の意見が誰かのお役に立つことがあるのですから、どんな意見も大切にしていこうとすることがよりよい多様性の社會を産み出していけるように思います。社會活動というものの本質は、自分自身の自立をもって行動するということでしょう。

人の話を聴くということ、そして自分の話をするということ。

たった一人の自分の人生を歩む覚悟として、常に自らの姿勢を正していきたいと思います。
堂々と言いたいことがはっきり言えるような大人のモデルを実践していきたいと思います。

社育

なぜ教育が必要なのか、その問いについて私なりの明確な定義があります。色々と賛否もあると思いますが、ここで書き記してみたいと思います。

そもそも教育とは何かというと世間では学力だの躾だの評価だの色々と語れます。それは何か知識を得て指導されることにより、優れた人間になるというように思われています。その優れたというものも何をもって優れているかと言えば、社會に善い影響を与える人だということは自明の理です。

世界でも学力ということが注目され、日本の教師も海外視察をし様々な学校の仕組みに注目しそれを国内へと取り入れるよう苦心しています。そういう私もオランダやドイツに訪問し、その国の学校の仕組みを観察したりもしました。

しかしそれは具体的な教育技術であって、そもそも教育とは何かという答えではありません。

私の思う教育者というのは、社會者というものです。

畢竟、社會がないのであれば教育は要りませんし、教育しなければ社會は成り立ちません。人が人と一緒に集団で社會を育てるために教育が必要になるのですから真の教育とは「社育」のことです。

つまり私は社會を育てることが、教育の真価であると定義しているのです。

以前、イエナプランのコンサルティング会社の経営者と会食する中で私が日本の社会が貧しいと嘆いていたら「教育に携わるものが社會の文句を言うべきではない、そうしてしまったのは教育がしたのだから」という話に感銘を受けたことがありました。

あの頃から、私にはオランダに行こうがドイツに行こうがどの国に行こうが、もしくは国内でも教育というものは常に一人一人が内省により実践し、自らの人格を高めることにあるということを自覚自明しました。

世界に影響を与える自分という社會を如何に自らが育てるか、つまりは社會人としての自分を如何に高めて学び徳を積んでいくのか、そういうことを自立し実践することが真の社會者=教育者であると私は思っています。

そしてこの人は真の教育者だというのは学校にだけいるわけではありません。

ある社會では会社であったり、宗教であったり、病院であったり、あらゆる1人以外の組織、コミュニティ(集団)の中にだって顕現しています。

善きリーダーが育ち、善き社會が顕われることこそが、真の教育に他なりません。

いくらテクニックばかりで教育を遠くに求めても、まずその自分自身の内省による社會が変わらないのならばそれはとても教育と呼べるものではないと私は思っています。

かつての神話にあるような世の中を、大国主が社育した世界、また聖徳太子が目指した社育、思いやりや正直に溢れた世に拡げていくことこそが日本人の伝統教育であると私は直観しています。

真の社會人になれるよう、矢印は自分に向けて自らの社育を実践し拡げていきたいと思います。

 

真心が至誠

昔から人は真心を持って生きる事や、至誠であることは天を相手にしているという言い方をします。これは天というものの存在を実感し、その天に恥じないような生き方をしようと心掛けているということです。

これをお天道様という名で呼び、そのお天道様がいつも見守ってくださっているのだからそれに恥じないように生きて活きましょうという声掛けをして正直にその性を全うしていたのだと思います。

そもそもこの天とは何かといえば、天地自然のことです。大宇宙という言い方をしてもいいのかもしれませんが、私たちを活かしてくださっている偉大な存在のことをいうように思います。

例えば、私たちの身体は何もしなくても自分で成長し自分で回復していくものです。これは本能とも私たちは呼びますが実際は何かによってそうさせていただいているということです。つまりは私たちの身体も英語で言う何ものかサムシンググレートによって活かされているということです。

私たちが天を感じるというのは、そのサムシンググレートを感じているということでありその天の運行、天の恩恵を素直に正直に承れるようにしていることが謙虚でいるということであるように思います。

本来は天が活かしてくださっているのだから何もしなければその恩恵は享受できるのですが、しかし人間は我や私が入りますからそれをすぐに邪魔をしてしまうように思います。自分の我や私が入り込むことで丸ごと受け取ることができなくなり、運が悪くなっていくようにも思います。

天は人間を活かし、そして万物を丸ごと包み育むのだから必ず善くなるようにしてくださっているのです。だからこそ天を邪魔しないように生きていくこと、自分に与えてくださったものを選ばないこと、来たものは全て善いことになるように祈り取り組むこと、周りの全てを受け容れて一体となって丸ごと善いことになるのだと信じた実践を積んでいくことが徳を高め運がより善く開けていけるように私は思います。

西郷隆盛の座右に「敬天愛人」がありますが、これは天が自分を愛してくださるように自分も人を愛する、それは天の真心のままに活かされますという覚悟ではないかと私は思います。

天人合一というのは、全てを一円の和の中で丸ごと善いことにしていく生き方のことです。言い換えれば、天に対しては謙虚、人に対しては素直でいるということであろうと思います。

人間は無我や無私になる時にだけ、すべての問題が自分の問題になるように思います。
自他一体とは、無我や無私のときにこそ実感でき同時というのもまた其処に存在します。

日々は学びの連続ですが、天に感謝し、全てを善いことにしていくよう内省したいと思います。
日々の有難い体験と学びという豊酬に心から感謝しています。

自由の責任~社會の中の一個人~

自由には責任が伴うという言葉があります。

このことについて深めてみます。

もともと責任とは何かという定義ですが、これは誰かによって取らされる、誰かによって責められるものではありません。他から外圧的に与えられた責めというのを任されるというものは本来の責任というものの自覚とは異なるものという意味です。

責任というものは、一つの社會の中での一個人としての自立という意味で用いるものです。言い換えれば、自分自身が自由の中でどれだけ責任を自覚しているか、つまりは自立する責任のことをいうように思います。

社會というのは、本来、何かによってつくられたものではなく自らが社会の一員になって社會を育てて社會をより善いものへと変化させていく責任があります。一人で生きているのなら自分の好き放題にしてもいいのかもしれませんが、社會は多くの人達の支えで成り立っているものです。

その成り立っている御蔭で自分が存在できる価値をどのように見出して、どのように還元していくのかは自分自身の自立心に懸かっているといっても過言ではありません。社會というのは、自分の存在価値を認めてくれているのだからその自由の中で如何に自分自身が責任を持つのかというのを自覚することではじめて責任を持ったと言えるのです。

責任というのは、自覚でありとても厳しいものです。自分自身の社會での責任を思うなら、自分自身が正直に周囲や社會の一員として社會に関わっていく必要があります。例えばそれは、自分がどんな社會にしていきたいか、自分がどのように社會に参画し社會を育てていくかということを優先して自らの生活を創造していくという具合にです。

子どもを大切にするといっても、単に子どもを溺愛することを大切にするとはいいません。子どもを大切にするには、自分自身が子どもを大切にする社會の責任を担うことが必要になります。それは、自分自身が社會がこうなればいいなと思うのならば自らが社會に働きかけて社會そのものを善くするためのモデルとして実践していくということです。

自由というものは、自分の好き放題、好き勝手の自由は責任感の欠如で発生するものです。本当の自由とは、そこに自立しているという責任があるかどうか、言い換えれば自分の生き方と働き方が社會をより善くしているかということに自らが責めを負い、そしてその役割の一端を任されているという自覚をいうのでしょう。

常日頃から、誰かの評価だけにあわせて自由を確保したり、世間一般の社会にのルールはこうだからと決め込んでそこに迎合して責任はとっていますというのでは自分自身の人生にも責任を持てなくなるかもしれません。

子どものたちのことを思えば、如何に社會の一員として責任を持てる大人が増えていくかが大切です。未来を社會を譲るということは、子どもたちが安心して暮らしていける社會をつくるために今の社會の責任を持てるかどうかということにかかっているのかもしれません。

そもそもの自立、そもそもの自律、その社會の中での一個人としての使命と責任の意味を私的な個人の感情ではき違えないように自らを戒め、気を付けたいと思います。本当の本質や真の正直で取り組めるように実践していきたいと思います。

好奇心~決心式~

人間には何よりも大切な宝として好奇心というものがあります。

この好奇心というものがある限り、私たちは自然から離れることはありません。

子どもの心は純粋で無垢です。

この純粋と無垢とは何かといえば、好奇心を持っているということです。

好奇心というのは、自然に触れたいと思う心。自然と一体になりたいという心。自然を愛でたいという心です。つまりは五感を超越した第六感ともいえるもので、いのちの正体です。

いのちというものは、感じることで活き活きしていきます。

もしも無感動無関心になるとしたら、好奇心を苛まれる枠組みや常識によって本来のいのちが閉じ込められることで発生しているといっても過言ではないと思います。人は好奇心を失わない限り永遠に光り輝き続け、そしていのちの灯を炎々と燃やし続けることができるからです。

今の社會は好奇心というものをあまり大切にしていないように思います。

その好奇心を守るのは自分自身です。

如何に面白く楽しい日々を送っていくか、それは自分の生き方によります。そしてその生き方の根幹に「感じる」という力をどれだけ養うか、目には視えないものをどれだけ実感しているか、すべてのものにいのちがあるという感覚をどれだけ研ぎ澄ませているかで変わって来るようにも私は思うのです。

三つ子の魂とは何かといえば、私は好奇心のことであると定義します。

大宇宙の中で、地球の一部として活かされているこのいのちが、そのいのちの顕現である子どもたちが、いつまでも子どもたちらしくそのままでいられるような社會にしていきたいと思います。

引き続き、社業にいのちを懸けて実践していこうと思います。

貧困の原因

今朝がた朝練中に池の周りを走っていたら沢山のゴミが落ちていました。花見客がそのままバーベキューなどをして片づけをせずに捨てていくのでしょうが、朝練の子どもたちと一緒に走った後にゴミ拾いをしてきました。

最初は大きな袋2つで足りると思っていたら、ゴミの量はとても多くあっという間に一杯になり袋を増やしてまた取りました。その他にも網、瓶、段ボールその他の粗大ごみまでそのままに捨ててありました。

捨てているゴミを見ていたら、いつも同じところで同じ缶コーヒーを飲んでは捨てているものがあったり、マクドナルドのハンバーガーやたばこの箱、一番多かったのがビール缶でした。

改めて他人の捨てるゴミを拾っていたら、今まで見えなかったものが観えてきます。

裕福そうに観え、豊かそうに感じる日本ですが捨てられたゴミからそれを実感することができません。物の価値が下がり、便利なもので溢れていく中でまた買えばいい、持ち続けるよりも捨てる方がいいという考え方が拡がっています。

有り余るから使い捨てるという考え方ですが、果たしてこれは豊かというのでしょうか。

最近では、飲み放題とか食べ放題、使い放題とかそういう無限にあるものが価値があるかのように宣伝されます。それにチラシには激安とかお買い得とか、色々と安ければいいという考え方もまた広告されます。そこに何か貧しさや虚しさといったものを感じるのです。

豊かさというのは、物量が増えることではありません。

豊かさというのは、心の豊かさでありそれは物量とは関係がないということなのでしょう。むしろ今のような時代、有り余る物量の中でお金で何でも買えるようになればより一層、貧困は拡大していくばかりです。

その心の貧困は、貧富の国の差ではなくゴミであるという考え方の中にあるように私には思えるのです。日本には、かんながらという伝承された生き方が残っています。そこには、八百万の神々がいるという全てのものにはいのちがあるという真心のことです。

どんなものにもいのちがあり、そのいのちを尊敬し慈しみ愛おしむように大切にしていくということですが、その中にこそ真の豊かさがあるのではないかと私には思えるのです。

そしてその豊かさの正体は、感謝のことです。この感謝を人々が忘れることで世界中のゴミは悪循環に増え続け、そして貧困もまたそれに引っ張られて拡大し続けます。

最後に、二宮尊徳の道歌に、「むかしより人の捨てざる無き物を拾い集めて民に与えん」があります。

本当に価値があるかないかは、その人の心しだいなのかもしれません。今朝は粗大ごみの中でまだまだ使えるものを拾うことができました、話し合った結果、それを持ち帰り長く使わせていただくことになりました。

学びは脚下の実践の中にあります。

色々とまた教えていただき有難うございました。

大自分

人間は自分の中に罪悪感や負い目というのを持つと日々は怒りの感情に囚われるものです。

我というものは自分の思い通りかそうではないかという価値観に囚われます。そしてその感情が怒りを誘発するのです。いつも自分が中心になっている考え方に起点を置けば思い通りにならず上手くいかないと感じるものです。

言い換えればそれは自分の中にこうであるべきといった自分が思い込んでいる「正しい」という観念に縛られているのです。

自分の中に自分の思い通りにいくことが正しいと思えば思うほどに周りに矢印を向けてしまうものです。自己中心的というのは、周りも自分も正しいではなく、自分の正しいが最も正しいという価値観に執着しているのです。

本来は正しいかどうかよりも来ているものに正直に生き切ることで全体でバランスをとるものだから、何かがあれば常に自分の方を柔軟性を持って受け容れることができればいいのですがそれでは自分の思いどおりになっていないから自他を責め、自他嫌悪するのです。

例えば自然界は思い通りにならないけれど、それが必然的に全体を調和させているものです。自分にとっては都合が悪い天気であろうがどうであろうが、地球が全体調和をしようと天候が調整されていくのと同じです。人間の心身の調和でいえば、病気や治癒も同じく感情は波打ちますが自然(体)は全体バランスをとり回復するためにいつも働いているのと同じです。

以前、面白い体験をしたことがあります。

子どもが海の水が服にかかって海に向かってずっと怒っていた様子を拝見したときです。自然からすれば海は波打ちますから水がかかることは当然です、しかしそれに怒ってみても相手は自然ですからどうにもなりません。

自分は自分の世界からしか世界を見ていませんから、それが思い通りにならないということが理解できないのです。妄想や空想の中では自由でも現実は不自由です、その現実を自由にしていくのなら全体の叡智の方へと自分を合わせていく必要があるのです。

自他を一体として正しいと思えるにはとても時間がかかるもので一生ものの学びかもしれません。しかしそれが文化と文明の調和にもなっていくのですから私たちに課せられている大命なのかもしれません。

自然から学び、自然を尊ぶのは、そこに「本物の信」があるからでしょう。

世間では、狭い世界での正義を押し付けて自由というものも平等というものもその隔絶された組織の中だけで通用するようなものを強要し刷り込んでいきます。村社會のような隔絶された秩序の中で自由や自律もはき違えられています。

もっと視野を広げ、世界の大きさで捉えるのが自由であり自律なのでしょう。それは本物の信の世界の中の一員としての自分を捉えられるか、自然という全体調和した中にいることを自覚しているか、人間はいつでも自然から離れずに学び続ける必要性を実感するのです。

一度きりの人生ですし自然の中で活かされている大自分ですから、ご縁を信じて来たものを選ばずに丸ごと受け取り、どんな事件があっても許し、それが有難いと笑っていられるような感謝と御蔭様の真心の実践を精進していきたいと思います。

 

道楽~人生体験~

人が生きるという実感とはどのような体験をしているかということです。

体験こそが人生であり、体験の価値を知るものだけが人生の価値を知るように思います。

人は様々な体験を通して生長していくのは、体験が夢を膨らませてくれるからです。

例えば日々というものは、色々な出来事が実は起きています。気づいていないだけで、好奇心さえ開いていれば本当に無限に無数の出来事に囲まれているのです。しかし日々に流されてしまうとそういう出来事に気づく感受性も衰えていくものです。

何かの出来事が起きるのに対して、その出来事は何だろうと意味を求めて前向きに主体的に取り組む時は好奇心が揺さぶられ新たな発見に出会います。しかしそれとは逆に日々に出来事が起きているのにそれを流してしまうとだんだん感覚が麻痺してきて気が付けば無関心になってしまうのです。

それはとても勿体ないことのように思います。

出来事とは、別に無理に起こそうとしなくても起きているものです。ですからわざわざ遠くにいかなくても、別に新しいことを無理にしなくても、今ある出来事を真心をもって取り組んでいけばそこにはいつも世界が開いてくれていることに気づき感謝できるのです。

体験の尊さというのは、人生の楽しさを与えてくださる尊さのことです。

何が起きるかわからないけれど、ワクワクドキドキと楽しくなっているのは流されないという強い意志、また一度きりの人生なのだから流れないという主体性があってのことなのでしょう。

自分の思い通りにいかないことばかりですが、その反面、自分の思い通りにならないことが面白くてたまりません。そういう前向きな生き方の中にこそ、真の人生の歓び、仕合せ、感激があるように思います。

一生青春、一生感動、掛け替えのない唯一の生であるからこそ来たものを選ばずに全部を有難く受け止め、一つ一つをご縁のある方々と一緒に歩んで大きく夢を育てていきたいと思います。

体験させていただけることに感謝しつつ、世の中のスピードに負けないくらいの努力と精進と内省で道を楽しんでいきたいと思います。