幾を観通す

四書五経の中の一つ、中庸の有名な言葉に「至誠の道、以て前知す可し(至誠之道、可以前知)」があります。これは私の意訳ですが、真心はすべてを見通しているということです。私心なきものは、私心なきゆえにすべてのものがあるがままにありのままに観得ています。そこにはあらゆるものの現実があり、あまねくものの直観があります。

王陽明はこうもいいます。

「良知には、前も後も無く、ただ現在の〈幾〉を知ることができるだけで、これがすなわち、一を悟れば百に通じるものなのです。もし、前知ということに執着する心があれば、それはほかでもない私心なのであり、利に走り、害を避けようとする作為なのです」

この「幾」は、私心なきところには必ずそのきざしがあるといいます。そして伝習録の中でこのような問答が記されています。

『誠とは、実理、つまり天理のことであり、他ならぬ良知のことです。天理の霊妙な働きが神ということで、その動きが今や兆そうとする、そこがすなわち「幾」なのです。周濂溪は、誠、神、幾であるのを聖人という。『通書』と説きましたが、聖人は決して未来を前知することを貴ぶのではありません。第一、幸不幸(禍福)がやってくるのは、いかに聖人といえども避けることはできないのです。聖人は、ただ「幾」を知っていて、だから非常事態にあっても、それによって身動きが取れなくなることはありません。良知には、前も後も無く、ただ現在の「幾」を知ることができるだけで、これがすなわち、一を悟れば百に通じるものなのです。もし、前知ということに執着する心があれば、それはほかでもない私心なのであり、利に走り、害を避けようとする作為なのです。『易』について研究を深め朱子に影響を与えた邵康節が、必ず前知できるとしているのは、利害損得の心をまだとり去り切れていないからです』

私心が取り払われず、心が澄まされないから己に囚われます。自我妄執があればあるほどにその幾は自己中心的な幾になります。本来、全体のためにもっとも善いことは何か、何のために自分が真心を盡すのかをよく修めている人は幾を逃しません。そして同時に、因果律に従って自分に降りかかる禍福を受け容れ準備することができます。

幸運不運がどうかなどが問題ではなく、自分に起きるあらゆるご縁を受け容れ味わうのです。何をもって見通すというか、それは予言や予知のことではなくどんな出来事があったとしても心のままで過ごしていくことで幾を観通すことができるという意味でしょう。それが自然体の境地なのです。

人生は誰にも有限ですし、生老病死は必ず誰にしろ訪れます。子どもたちにいのちがつながるように一期一会の人生の道を味わい、心を磨いていきたいと思います。

 

元気の源

昨日は自然農の畑で妙見高菜の種を蒔き直しました。昨年同様に、蒔き時を間違えたのかほとんどが虫に食べられ他の野草に負けてしまいました。殺虫剤などの農薬を使わない限り、ほとんど虫から新芽を守る手はありません。できる限りの手を尽くしても虫の圧倒的な量や威力にはなかなか手が届きません。

きっとむかしの人たちも同様に、何回も種を蒔き虫の威力が弱くなる時期を待ったかもしれません。もしくは、肥料等で土を活性化して新芽が負けないようにしたのかもしれません。自然農は無肥料無農薬なので、肥料は枯れた草くらいなので自然環境から学び直し、自分の生き方を見つめつつ自然の時期を掴みます。

この畑のある場所は、山の中で周りには畑もないことからイノシシやシカなどもよく出てきます。また雑草や野草の勢いは激しく、少しでも草刈りをしなければあっという間に様々な野草で埋め尽くされます。特に野草は、我先にと高いところを占有して種を遠くに飛ばそうとしますから自分の背丈よりも高い雑草たちが埋め尽くして草刈りが大変で骨が折れます。さらにはそこにツル系の雑草があちこちから畑に侵入してきて、周囲の防護柵などをなぎ倒していきます。一般的な平地の耕しやすい畑とは異なるので、野菜を育てるのにはちょっと不適切ではないかというところに畑があるのです。

しかし地力という意味で、転じて見方を変えてみるとそれだけ土は野草や雑草が瞬く間に広がるほどに肥えているとも言えます。表土を少し削るだけでもミミズや幼虫、様々な虫たちがどんどん出てきます。また多様な雑草の種類も多く、様々な野草が共生しながら楽園のように育ちあっています。その豊かな生態系が存在している場所で、野菜を育てるとイキイキとした野性的な野菜に育ち、その味は決してスーパーなどで買っているものとは大違いです。

私の育てている伝統の妙見高菜はそういう場所でこだわり育てています。だからこそ味にそれぞれの個性が出て、イキイキとした艶と食べ応えがある美味しいものになるのです。

そう考えてみると、この野生の中で育つということはいかに肝心なことかということです。人間もまた自然の中で育てば元気になります。この元気の源とは何かということなのです。

私たちは自分たちの都合で育ちやすいそうに育てやすいようにと、環境ばかりを整えます。自然のままにすることは、大変だからと加工した環境の中で肥料や農薬を与えて膨らませていきます。しかしその本質はどうなっているかということです。見た目を膨らませたとしてもその質はどうなっているのかということです。

自然のままに育つというのは、生きる力、元気の源を成長させていくことです。それは決して環境としては楽なものではなく、どちらかというと厳しく苦労ばかりがある場所ですがそこは生態系が豊かであり、生きる力を発揮している生き物たちで充ちており、野の中で自分のいのちを磨き上げていきます。

その場には確かに人間にとっての快適さはありませんが、人間にとっての心の平安があります。私が取り組んでいる自然農をはじめ、古民家甦生も、会社経営もまた古くて新しい教育を提案するものです。

引き続き、試練を楽しみ、試練から学び、子どもたちに生きる力の本質を伝承していきたいと思います。

善の発心

人間は生きている感謝に心を満たすとき、この有難い御恩に対して何かで報いたいと思うものです。その報いたい思いは、いろいろな徳のカタチになって子孫たちに譲られていくものです。これは決して物だけではなく、生き方であったりしたり、有形無形問わずそれが子孫たちの恩恵として永遠に譲られていくものです。

自分さえよければいいや自分のことのみを優先するようになればあまり恩を感じなくなってしまいます。人が恩を感じられるのは、いつまでも感謝の心のままにかけがえのないこの一期一会の日々を深く味わい生きているからです。

いのち尽きるその日までもったいなく生きようとしている人は、自分に与えられた任務や使命を受け容れ真心で生きていくように思います。古民家にあるようなむかしの道具たちも、そしてその時代の懐かしい思い出を持ったあらゆる場にも真心は残っています。その真心がカタチになっていく一つに、布施というものがあります。

この布施の語源は、サンスクリットの「ダーナ」といい清浄な心で人に法を説いたり物品の施しなどを行うことをいいます。本来の布施の内容は、その布施の生き方を説いているように思います。仏陀は、布施は六波羅蜜の善業の実践のことを言うといいそれを「無財の七施」という言葉でも遺しています。

これは「雑法藏経」というお経の中の言葉で仏陀が人間はたとえ財力や智慧が無くても七施として、七つの施しができるということを示します。「眼施(がんせ) 」は、常に温かく優しい眼差しをおくること。「 和顔施(わがんせ)」は、いつも心地よい素直な笑顔で人に接していくこと。「 言辞施(ごんじせ)」は、穏やかで愛情の籠った誠実な言葉遣いを心がける。「 身施(しんせ)」は、自らの身体を使い奉仕すること。「 心施(しんせ)」は、思いやりの心を持ち、自分を相手の立場になって接していくこと。「 床座施(しょうざせ)」は、座席や場所、地位を譲り相手を慮ること。そして最後の「 房舎施(ぼうしゃせ)」場を与え、場を清めその場を譲ることです。

布施の本質とは、ここからわかるように自分から周囲に真心を盡して周囲の恩徳に報いていこうとする実践を行うということです。自分の中に備わっている人間としての徳を活かし、自分から与えられる善行を行っていこうとすることを恩とも言います。

現代は貨幣経済が中心で西洋の考え方も入ってきているため布施については誤解があり、本来の布施の意味もだいぶ変わってきていますがこれは生き方の話であり布施の生き方をしていこうとすれば自ずから布施によって自他善が結ばれていくということでしょう。

全体善という言葉も今では聞かなくなってきましたが、一人ひとりが布施をし善に生きる世の中こそ仏陀の目指した平和な社會だったのかもしれません。子どもたちが安心して暮らしていける社會のためにも布施的な生き方を学び直し、自分自身の中に善の心を高めていきたいと思います。

日本人の母~観音様~

先日、鹿児島県知覧町にある富屋旅館に宿泊するご縁がありました。特攻の母として有名な鳥濱トメさんが開業した富屋食堂の離れとして特攻隊員が最期のお別れを家族で過ごしたり、自分らしい最期の時間を過ごすためにとご用意した場所をそのまま旅館として経営されております。

最初にその離れにお伺いすると、その佇まいはとても凛としていてまるで荘厳で澄み切った神社のように清々しい場が醸成されておりました。場を守るというのは、その魂を守ることであり、言い換えるのなら心の故郷を守ることでもあります。

心の故郷を大切に守り続けている富屋旅館には、日本人の原点に気づく貴重な何かが存在しているように思います。

また鳥濱トメさんの遺した言葉や遺志をお聴きしていると、日本のむかしの教えがそのままに伝道されており如何に気骨がある人物だったかを直観します。遥かかなたのクニの行く末を案じ、いつまでも子孫たちが平和で暮らしていけるようにとその祈りがこの富屋旅館で往き続けています。

鳥濱トメさんは知覧から知覧からクニの行く末を見守り続けるトメ観音様、また特攻の母と呼ばれていますが、実際に感じたのは「日本人の母」でした。そう省みると、あの特攻の人たちは代表的な日本人であったということです。

その代表的な日本人たちが、クニの行く末を心配し子どもたちの未来を信じて笑顔で生き切っていった。その日本人の魂を見守り見送った母もまた、日本人の母であったという事実。そしてこの日本人の母こそ、観音様そのものであったということ。むかしから日本にある人生の教えは、この観音様と大和の心魂の間に生き様が智慧として連綿と伝承されてきたのかもしれません。

現代は、とかくクニのことをいえば政治問題にされ、魂のことなどをかけば宗教などを批評されます。しかしよく考えてみれば、当たり前なのは自分の今を想えば御先祖様たちの人生や生き様の積み重ねた上に私たちが今あって生きていることは揺るぎません。

だからこそ、行く末を案じてくれて自分のいのちを懸けて捧げてくださった方々の御恩を忘れたらいけないと切に思うのです。その御恩を思う人たちは、政治や宗教などという言葉で批評することはないと思います。そしてそのつながりが見える人は、白黒や右左と分けずに真実を観ようとするでしょう。自分の人生は短く、子孫のこの先の人生は長いのです。だからこそ、子孫のために何ができるかと願い生きた人たちの私心なき生き方のご先祖様に自分の魂は深く揺さぶられるのかもしれません。

日本人として生きていく若者たちは、この教えに触れることで本来の道徳や生き方を学び直すことができるように思います。

私もこの富屋旅館で得た気づきを、次世代の人たちにつないでいけるように真摯に自己を磨き魂を錬磨していきたいと思います。

ありがとうございました。

 

いにしえからの風

「萬古清風」という言葉があります。これは中国・唐時代の漢詩の一節で禅語でもよく見かけますが「はるか昔から清らかな風が変わらずに吹いてくる」、「古きにも新しきにも全ての時空にあまねく清風が吹く」という意味で用いられます。

とても素敵な言葉で、大昔の古来から永遠に風が吹いている様子に心が洗い清められるようです。私たちは、昔の教えや知恵、先祖の生き方や伝承などをお聴きするご縁に巡り会うと、古来より何が真実であったか、そしてむかしから何が根本であったかに気づき有難い思いがしてきます。

それはまるで、何百年前から何千年前も、そしてこの今に向かって彼方から風が吹いて自然の循環が已まないで私たちに恩恵を与え続けてくださっているかのようです。

これは御先祖様の遺風や遺徳なども同様に、今の私たちがあるのは何の御蔭様かを思い出すとき、そして子孫の行く末をいつまでも案じてくださっている親心を感じるときにこの清風を感じられます。

人間は私心を捨て去り、万物一体善の境地になれば心が澄み渡り自然そのもの、言い換えれば神人合一の境地に達します。その崇高な穢れなき魂は至純であり透明で水や光そのものになります。

そうやって無私の境地でいのちを奉げてきた方々の陰徳は、忘れないで居続けることでいつまでも子孫にその徳風が吹き続けてきます。この徳風とは、無私の人たちの生き様から吹いてきます。その吹いてきた徳風が心身を通り抜けていくとき、私たちはその新しい風をいつまでも浴びることができ、その新しい風によって私たちの記憶もいつまでも甦生し続けていくことができます。

いのちの甦生です。

いのちがこのように甦生し続けるのは、まさに萬古清風の御蔭なのです。

いつの時代も人間である以上、自分との向き合いは人間の課題であり、その中で私心が私欲に呑まれる人と私心や私欲に打ち克つ人がいます。しかしその生き方の模範として、魂を極限にまで磨き上げ美しく光る人たちが子孫たちに徳の道を繋いでいきます。

道は終わりなく、また魂も廃ることはなく、永遠に風が清め続けますから私のその風の一吹きになって子どもたちの行く末を見守り続けていきたいと思います。いにしえからの風になりたいと思います。

人間学の要諦~気づきの学問~

人間は自分の先入観が壊れるような出来事や、今まで見知ったものがまったく異なるという体験をすることで目から鱗が落ちることがあります。私は探求心が強いからか、自ら体験を重視し自分の先入観を疑い真実を知りたいと思うタイプのようで敢えて怖いことでも学びたい欲求の方が上回ります。

本当のことがわかると、それまでは上辺だけでしか知らなかった自分を恥じてさらにその本質を深めたくなります。今の時代のように知識ですぐに何でも分かり調べることができるようになったからこそ、知識で分からないものが理解できたとき目から鱗が落ちるのです。

この「目から鱗が落ちる」という言葉の由来は、新約聖書の中の話のひとつでイエスキリストを迫害していた男性が、天の光によって目が見えなくなってしまったのちそのキリストの弟子の一人であるアナニアからイエスキリストの啓示を聴いたとき目から鱗のようなものが落ちて目が見えるようになったことが由来であるといいます。

今では何かを切っ掛けに急に物事の道理が理解できるようになったという意味で使われますが、本来は自らの間違や誤解から悟りをひらき、諸所の迷いから覚めることができたという意味の言葉です。

本当のことに覚めるというのは真実を悟ることで、真実とはありのままの現実を理解するということです。人は体験していないものをいくら理解しようとしても、自らの人生で直接的に体験していないものを真実のままに理解することはできません。例えば、何かの味があったとしても食べてみなければわかりませんし、五感なども感じてみなければわかりません。修行もまた、頭で修行したとは言わないように似たような体験を思い出し多少は近づくことはできても、同体験の精進なしに意味を感じることはできません。そういう意味で人生は必ず誰にしろ平等なのです。現在は知識でなんとなく頭で妄想したり空想したりして分かった気になり処理してそのまま片付けていますが、その頭で行ったことがのちのちまでの先入観となり真実を理解する機会を遠ざけていたりするのです。

そうならなためにも日々の気づきを高めて精進していくしかありません。そのためにも私たちが目から鱗の体験は貴重なのです。目から鱗が落ちる体験は、その体験をした人たちのあるがままの言葉をお聴きし現地に足を運んだり、自分の妄想や空想よりも現実の真っただ中に存在した真実を直視して心で感じたり、現在でも目に見えてその本質を悟り実践している人の現場を一緒に味わうことで鱗が落ちることがあるように思います。

自分の直観を信じて現地に足を運ぶのは、自分が真実を追求したい、本当のことを知りたいと探求していくからです。そして道はその探求した中にこそあり、探究する過程においてその道は次第に拓けていき、自分の中にある道理もまた繋がっていくのです。

道理を学ぶというのは、この目から鱗が落ちる体験をどれくらい行うかということのように思います。刷り込まれた知識や自我妄執からの迷いを取り払うためにも、歴史やその道の達人から直接学ぶことが効果があるのは間違いありません。その体験した気づきこそ本物であり、人間は気づく感度が高いほどに学問が研ぎ澄まされていくからです。

気づきこそ、人間学の要諦なのです。

子どもたちに真実が伝道できるように、安易にわかった気にならず一つ一つを足を運び、気づきの学問を伝承していきたいと思います。

歩み方=生き方の改善

人は小さな習慣の積み重ねで経験を積んでいくものです。継続は力なりともいいますが、小さな日々のことをコツコツとやるかで未来の出来事を手繰り寄せていくものです。しかし、このコツコツと行のを面倒だと嫌がり目に見えてすぐに結果が分かった方がいいと焦るのは心に不安があるからとも言えます。

心が安定している人は、コツコツと地道に一歩ずつ取り組んでいくことができます。これはコツコツと地道に一歩ずつ取り組むから地に足が着いているため心が安定しているとも言えます。頭と異なり心は常にちょっとずつ活動しているからです。

心をなおざりにしてやったりやらなかったりしその分、一気に結果だけの帳尻を頭で合わせようとすればそれだけ心が不安定になります。そして不安定になるからまたマイナス思考になり焦り結果ばかりを追いかけてまた地から足が離れて空回りするのです。

心というものは、目には観えませんが自分の体と一緒に歩んでいるものです。体の足が一歩前に出れば、一緒に心もまた一歩前に出る。これを同時にしていくことで、現実や真実が変化していくのです。

自分がいつまでも変化しないのは、自分が一歩足を前に出してもいないのに心だけは10歩や100歩など先に先にと進めようとしている時です。これは体と心が和合していませんから、ずっこけてしまいます。心と体はまるで二人三脚のように、息を合わせて一緒に歩んでいくことではじめて前進していくのです。

日々に心の一歩と、体の一歩は、具体的に言えば、思いを醸成する一歩と、具体的に実践する一歩を同時に行うことをいいます。例えば、何かを決断し行動すると決心したのなら、何かを已めて何かを始めるという具合に心と体を一致させていく必要があります。

そのために人間は、自分の一日を反省し、「自分の一歩はどのような一歩だったか」と振り返り次の一歩に向けて改善していくことで、歩き方を変えていくのです。

人生も同様に、歩き方を変えていくというのは生き方を変えていくということです。自分の歩き方は、一歩一歩、自分で意識しながら変えていくしかありません。

人間は怪我をしたり病気をして立ち止まり、上手く歩けなくなる時こそ、自分を変えるチャンスであり、もう一度、一歩一歩歩き直す中で自分の歩き方を見直していきます。そうやって歩いていけば、生き方も同時に変わり、人生も変わり、未来も今も変わっていくように思います。

一歩一歩と地に足が着いている人は、不平不満を言う暇がありません。一つずつ、丁寧に取り組んでいこうと改善することに着手し日々の一歩を豊かに楽しんでいくように思います。その歩み方は軽やかで楽しく、安心して歩み続けてきます。

人生は自然と同様に周りは日々に変化を已みませんが、その中でもどのように歩んだかは自分の歩き方で決めていくことができます。どんな状況でも歩くというのは、どんな状況でもこのブログに取り組む私の姿勢も歩み方を磨く大切な砥石です。

子どもたちのためにも道が続いていくことを祈り、日々に歩むことの大切さを伝承していきたいと思います。

清明心~徳の祈り~

先日、終戦間際に「特攻」をして亡くなった若い方の遺言やメモを拝見し色々と考える機会がありました。この特攻は、「特別攻撃」の略で敵に対し、兵士自身が兵器を抱えて突撃、もしくは兵士が搭乗する兵器をぶつけて道連れにする自爆攻撃のことをいいます。

お国のために死ぬと分かってて突入する、その必死の人物たちはどのような人たちだったのか、今のように平和ボケしてしまっている現代においては戦争のことすらも理解するのも難しいように思います。

その特攻の方々の遺言やメモを観ると、大切な国を守るため、大切な人を守るためにと、自ら真心で命を懸けて前向きに生き切った証が随所に残っていることが多いように思います。そしてその特攻する人たちを見守った人たちの覚悟もまた、想像を超えるような命をやり取りばかりです。ただの愛国心という言葉で片付けられるものではなく、生き方として真心や誠実に生き切った人たちから私たちは生き方を学び直す必要があるように思うのです。

今度お伺いする鹿児島の知覧には、特攻の母とも呼ばれ親しまれ、特攻隊員たちを息子のように真心で見守り続けた人物がいました。富屋食堂を切り盛りしていた鳥濱トメさんが、戦後、遺族や生き残った人たちが知覧を訪れた時、泊まるところがないと困るだろうという気持ちから、特攻隊員たちが当時訪れていた建物を買い取って、来訪者を泊めている旅館を買い取り子孫の方々が語り部として経営しておられます。

この鳥濱トメさんは、訪れた人たちに「とく」という漢字を掌に書いてくださいと言っているそうです。その上で下記のような言葉を伝えるといいます。

「善きことのみを念ぜよ。必ず善きことくる。命よりも大切なものがある。それは徳を貫くということ。」と。

そしてこう仰ったといいます。

「私は多くの命を見送った。引き留めることも、慰めることもできなくて、ただただあの子らの魂の平安を願うことしかできなかった。だから、生きていってほしい。命が大切だ」と。

人間はどんな極限的な状況であっても、誰かを思いやり誰かのために自分の真心を盡そうとします。それがたとえ悲惨な運命であったとしても、自分自身の真心のままでありたいと思うものです。それが日本人が大切にしてきた清明心でもあります。

清らかで素直に明るく正直に、思いやりをもって優しく生きた人たちの生き様こそが本当に遺していきたいものだったのかもしれません。「人徳」とは、人間が生きる道であり、人間が人間として磨かれ玉として顕現する最期の姿なのかもしれません。

以前、島浜トメさんと同じように「徳という自を書いてみよ」とはじめて致知出版の藤尾社長からお聴きした13年前を思い出しました。あれから生き方をどう磨いてきたか、改めて振り返り原点回帰したいと思います。

 

 

全体観~歴史という学問~

歴史を深めていると、その時あったことが後になって全く別の効果を発揮することに驚きます。たとえその瞬間が誰が見てもいいことではないと思っても、その反対側の側面では別のいいことが発生していることもあるのです。つまり物事は全方位で観る場合と一方方向だけで観る場合では意味が全く異なるということです。

この全方位で観るには、長い時間をかけたり、反対側から物事を鑑みたり、もしくは広く大きな視野で観るなど物の見方が成熟している必要があります。意識しなければ人は自分の都合のよい観方しかしていませんから、自分を中心に損か得かで物事を判断しては一喜一憂し一挙一動を決めているからです。特に我が強くなればなるほどに視野は狭くなり自分の価値観や感情に呑まれますから注意が必要になります。自分にいいことだけをやっていたら自分が追いつめられたでは本末転倒になるからです。

先日、応仁の乱のことを調べるとこれより戦国時代がはじまり内乱が続き多くの人たちが亡くなり悲惨な出来事でもありましたが同時に芸術方面の文化や、それまでの身分や差別などの制度も刷新されたりと新たな一面もありました。一見して、ただ悪いと決めつけるのではなくその歴史を深めれば同時にそうではない一面も出ていると思えば完全にマイナスや完全にプラスなどというものはなく、物事は常に両面や全体によって影響を与え合っているということなのです。

これは自然界も同じで、快晴が続けば人間にとってはいいのでしょうがそれが続き過ぎれば水不足になり多くの生き物たちが困ります。台風や嵐も地震もまた一方では都合が悪いのですが別の方向からだと大変な恩恵をいただいていることもあります。天候は常に調和していくのは、全方位全体に対して吉になるようにと働いていくからです。

誰かが都合を押し付ければ、誰かが不都合になる、如何に全体にとっていいかと正対する力を育むことこそが人類が永続するための真の文明人を育てていくように思います。

そのためにもっとも大切な学問が、「歴史」であろうと私は思うのです。歴史は単なる数字やものごとの意味を暗記することではなく、今に生きている歴史を遡り、その中で得る教訓や智慧を学び、全体観を身に着けていくことだと思います。

この全体観が身に着けば、人間は自分というものの存在を正しく認識することができ如何に全体にとっての善さが反って自分のためになるということに気づけます。すると自分にマイナスだと思い込んでいたものが、物の見方が転じられそのすべてが「今の自分に相応しい」ことに気づけます。

するとそれまでマイナスだと思っていたことが、プラスになる、いや「相応しくなる」ことで足るを知り、本来の自己を発揮でき本当の仕合せを永く享受されていくように思うのです。そのためには、常に自分が全体観で物事を捉えているか、全体観で自分を見つめているかと内省を続けなければなりません。

時として、その全体観は誰にも理解されず、非難や否定、批判や恨みを買うときもあるかもしれません。しかし真心や思いやりで取り組んだことは、後の歴史で必ず証明されるものです。

自分の信念を信じて、全体観で歴史から学び実践を積み重ねていきたいと思います。

心と器

「ゆるし」をテーマにして取り組んでいると、そのゆるすことの難しさに驚くばかりです。このゆるしというものは、今の自分を丸ごとゆるすことですがそのためには自分の過去の傷を癒したり、自分の視野を広げたり、自分の体験した歴史を認めたり、あらゆる自分自分の今と向き合いそれを許容できなければなりません。

実際に許容するというのは、言い換えれば器を大きくしていくことであり自分自身のゆるしの器が大きくなればなるほどにゆるしの許容量もまた大きくなります。しかしこの器を大きくするというのは、自分をゆるすことができること、そして他人をゆるすことができることに比例します。自他をゆるすことは、自分自身の器を育てていくことでありこれは一朝一夕ではできないことです。

人は自分自身の器を見るとき、そこに自分の本性や本体を心に映し見ます。この時、器の周りの境界線には縁というか壁ができます。その壁がプライドであったり、トラウマであったり、恐怖心であったり、先入観であったりと、自分の器がここまでと決めているものが壁になります。その壁を壊されることもあれば、その壁を融かすこともあり、もしくはその壁によって自分を守ることもあれば、誰かを守ることもある、つまりは自分の心を載せている器が自分自身の心を支えているのです。

人は心が大きくなっていくと、それを載せる器もまた大きくなっていきます。例えば心が大きくなるのに器が小さければ器の壁が邪魔をして心がその器よりも外に出ることができません。その器は心の成長を抑制し、心の壁を厚く大きくしていきます。その器とは自分の価値観のことであり、自分の価値観を変えていかなければ心のままに自分をゆるし生きていくことが難しくなるのです。その価値観の壁は、例えばありのままを受け入れられなかったり、執着にこだわったり、他人からの評価が気になったり、誰かのせいにしたり、等々とプライドの壁として頑固に強くなるばかりです。

その心と器の関係を良好にしていくことで視野が広がり、許容量もまた増えていくように思います。人は心の成長に伴い、必ずこの器の成長があります。器を大きく豊かにしていくためにも、ゆるしの実践は欠かせないものです。

ゆるすためには、今のありのままの自分をあるがままに丸ごと認めることです。自分のことを自分が受容する、もっと簡単に言えば今の自分がもっとも今の自分に相応しいとそのままの自分でいいと自分自身が受け容れることです。そしてそのためには積極思考というかプラス思考というか、物事を前向きに捉えるということを大前提にしていなければ心は器と調和することはできません。

ゆるしとは、つまり前向きな心器を持てることでありすべてのことを全肯定する幸福の道の理なのです。これはまさに自然界に生きる生き物たちが安心してこの世でいのちを全うしている信の境地のことです。今の人間の社會は安心から遠ざかって孤独と孤立の雰囲気に心を病む人が増えています。

安心して子どもたちが生きていけるように、ゆるしを通してあるがままの自分で自由に幸福になり社會を仕合せにしていけるようにまずは自分たちから生き方を改め見直し、心器を豊かにしていきたいと思います。