本当の希望

アニメの「それいけ!アンパンマン」の作者で有名な「やなせたかし」さんがいます。幼児教育や子どもに関わる仕事をしていれば、アンパンマンは子どもたちの身近にある存在です。そのアンパンマンの作者がどのような人生を送られた人物であるかを知っている人は少ないように思います。

この「やなせたかし」さんは、自分でも遅咲きであるといい70歳になるまで代表作というものもなくヒットすることもなくずっと漫画を描き続けた方だといいます。そのやなせさんの遺した言葉は平易に語られていますがその質はとても重く、ご自身の深い人生観が宿っているように感じ私たちをアンパンマンのように励ましてくれます。

病歴をみても腎臓結石、白内障、冠動脈の手術、すい臓炎、胆のう脾臓切除にヘルニアの手術も。さらには緑内障手術、重度の腸閉塞、肺炎、心臓病、さらには糖尿病を発症、そして2005年は腎臓がんと診断され左腎を摘出、手術後も転移が見つかり86歳から2年間で10回のオペを受けたともいいます。94歳になっても最期まで現役を続けられた人物です。

「僕は、この“らしく”という言葉が好きじゃない。“らしく”というのは、そのものにふさわしい特質を備えているかどうか、ってことでしょうが、人間、人それぞれなのですから、別に“らしく”ある必要はないと思うのです。この延長線上にあるのが『老人は老人らしく』であり、『もう、いい年なんだから、そんな無茶はやめなさい』ということになります。これがどうにも僕には腑に落ちない。“いい年をして”という世間の常識は、高齢者の元気を奪い、枷をはめているようにしか思えないからです。せっかく面白そうなことが目の前にあるというのに、『もう年だから、みっともない』と尻込みする人がいますが、僕からいわせると、本当にもったいない。『この年だからこそ、やりたいものはどんどんやってみましょう』。こういきたいものです。老いはクヨクヨする時期ではありません。老いてこそ、何かをやって、ワクワクする。自由に生きることができる季節の到来なのです」

誰かの評価を意識して誰かから言われたことを鵜呑みにして自分自身で生きるらしさを手放し、誰かの言うらしさに囚われて生きていくのはまっぴらごめんということでしょうか、晩年はチャイドルをもじって自分をオイドルと呼んでいたそうです。

自分の人生だから、自分の納得いくようにやりたいことをやって一生を終えるという気概が独立自尊の自分を磨いていくように思います。

私が今、励まし励まされ、またみんなを励ますために紹介するのはこの言葉です。

『絶望の隣は希望です』

その言葉に関するこのような詩を遺しています。

『絶望の隣に

だれかがそっと腰かけた

絶望はとなりのひとにきいた

「あなたはいったいだれですか」

となりのひとはほほえんだ

「私の名前は希望です」』

人生の中で実体験から学んだことを表現し続け、多くの人々をアンパンマンのように励ましたやなせさんは、死してなお人々を励ましています。

「生きていることが大切なんです。今日まで生きてこられたなら、少しくらいつらくても明日もまた生きられる。そうやっているうちに次が開けてくるのです」

「夢も希望もない世の中だけど、生きていりゃ良かったと思えることがあるかもよ
あるかもよ としか言いようがないけど もうちょっとだけ我慢して生きてみて」

「一日一日は楽しい方がいい。たとえ十種の病気持ちでも運は天に任せて、できる限りお洒落もして、この人生を楽しみたい」

「なんとかなるさと辛抱して、とにかく生きていくんだ。
人生は捨てたものではない。やがて道は拓けてくる。それが実感だ。」

今はたとえ、希望の光が観えないようなことがあったとしても必ずすぐ隣まで光は来ています。諦めず時をじっと堪えて待っていれば、日々、その日だけを乗り越えていけば必ず光が観えてくるはずです。

「幸福は本当はすぐそばにあって、気づいてくれるのを待っているものなのだ。」

もうすぐ隣まで来ていると信じて、自分がそれに早く気づいてあげることができるようにないものや失ったものを見ず、あるものやいただいたものを観ていけるよう祈っています。

子どもたちのためにも、本当の希望を与える存在でありたいと思います。

幸福の本質

先日から坐骨神経痛になり、急に歩くことができなくなりました。寒くなってくると、筋肉が収縮し今までと異なる場所に力が入りすぎるようになり全体のバランスが崩れることで神経を損傷することがあるといいます。

改めて歩けなくなると、日ごろ当たり前にできていることが如何に有難いことか気づきます。ちょうど自宅を掃除する機会だと思い、整理整頓していると以前神社で見かけた「生命の言葉」という紙が出てきました。そこには「それいけ!アンパンマン」の作者のやなせたかしさんの言葉が紹介されていました。

「健康でスタスタ歩いているときには気がつかないのに、病気になってみると、当たり前に歩けることが、どんなに幸福だったのかと気づく。幸福は本当はすぐそばにあって、気づいてくれるのを待っているものなのだ。」(明日をひらく言葉 PHP文庫)と書かれます。

そして表紙には「ごくありふれた日常のなかに、さりげなく、ひっそりと、幸福はかくれています」と、これはとても含蓄があり深い味わいのある言葉だと思います。

私たちはみんな誰にしろ幸福というものは隠れています。生きているだけで、ありとあらゆるものに恵まれ私たちは日々の暮らしを営んでいます。この体も五感も心も、すべては天からのものであり、さらに広げればこの空気も太陽も水も宇宙もすべて私たちは存在そのものに活かされます。

幸福ばかりをもとめて足るを知らず、恩恵を省みず当たり前のことのように感じていれば幸福は逃げていくばかりです。幸福は、気づかないところ、隠れているところ、ひっそりとしているところ、そこを見つけてほしいと待っているように思います。

つまり幸福の本質とは、足るを知ることにありいただいている恩恵を見つける心にあるとも言えます。

当たり前のことの中にある幸福に気づかせてくださるように、天はありとあらゆる機会を私たちにあたえてくださいます。そう考えれば、この機会もまた恩恵であり気づくことで幸福感を味わえます。あたりまえができなくなることは決して不幸なのではなく、当たり前に気づけることが幸福だと実感できる自分でありたいものです。

子どもたちに見せる背中として、そういう幸福の姿を譲り遺していきたいと思います。

立志

人間は一生の中でもっとも大切なものを持つのに「志」というものがあります。これは生き方のことで、生まれてきた以上どのような生き方をするかと決心するようなことです。

よく夢と志を混同されていますが、夢は願望のようなものであり志は信念であるとも言えます。同じ夢を観るにしても、志があるのとないのではその夢は野心や野望にもなります。しかしひとたび志が立つのならその夢は、自分の欲を超越した公のものになっていきます。

ちょうど昨日、テレビのドラマで「陸王」という番組が放映されていました。その中で足袋会社の社長が、1億円の借金をしてでも新しいシューズを開発するかどうかの岐路に立たされます。その中で、周りの人たちからどうするのかを尋ねられます。その際、社長の「できるならば、、」という言葉に、その程度なのかと周囲は幻滅して一人二人とその人から離れていきます。

人は誰かと何かをやろうとする時、どこまで本気かどうか、そこまでしてでもやるかどうかを確認するものです。それは自分のいのちを懸けるだけのものがあるか、自分の人生を懸けるだけのものがあるのかを確認するからです。

結局は、生き方や人生を迫られるとき人は悔いのない選択をしたときにこそ志が試され、その覚悟を決めた時に志が立つのです。

以前、大河ドラマの中で「あなたの志は何ですか?」と吉田松陰が弟子たちに問いかけるシーンがあります。これは、あなたの覚悟は何ですかとも言い換えることができます。

そこで先ほどのように「できることならば、、」というくらいでは、それはまだ立っていないといえます。私はこれを何がなんでも実現する、そしてそれが世界人類、またはすべての存在に対して貢献することを信じるというものがでた時、その人の志が立つと思います。

その志は、事あるごとに試されます。つまりどこまで本気なのかと、果たして全身全霊だったかと、自分自身に迫ってくるものです。できればいいかなくらいの気持ちは、本気の勝負の時にその人自身が自滅する原因になります。だからこそ周囲は、その人がそうならないように本気を試し確認してくるのです。

孟子に「天の将に大任を是の人に降さんとするや、必ず先づ其の心志を苦しめ、其の筋骨を労し、その体膚を餓やし、其の身を空乏し、行ひ其の為すところに払乱せしむ。 心を動かし、性を忍び、その能はざる所を曾益せしむる所以なり」があります。

これは志を立てるために天が敢えて試練を与えるということでもあります。

天理は不思議で、何を拠所にして何を中心に自分を立てるかが決まらない限り手助けが借りられない仕組みがあるように思います。いつまでも自分ばかりを握って自分の個人のことに執着し固執していたら志は倒れるばかりです。

子どもたちのためにも、立志を磨き続け悔いのない人生を歩んでいきたいと思います。

 

 

老い

老いというものがあります。仏陀の説く生老病死の中の老いは、人間だけではなくすべての生き物が宿命的に備わっているものです。その老いというものは、経年によっていのちの変化していく様のことです。人間も若いころは考えもしないことを、歳を経ることによって次第に老いを意識するようになります。

つい年齢の刷り込みを受けることによって、私たちは歳をとるイメージを勝手にもってしまうものです。20代はこう、30代はこう、50代はこうで、80代はこうだと誰かが勝手に決めた平均年齢での状態を誰かに常識を刷り込まれ思い込んでいるものです。

しかし実際には、身体機能などは衰えてきたとしても武道の達人や芸術家の極みの人物のように無駄な動きが全部とれて自然体になり万物すべての力を活かす能力を持てるような人もいます。若いからいいのではなく、極まったから価値があるのでありそこに年齢はあまり関係がありません。

ただし年々の修行において、余計なものが磨かれてそぎ落とされていく中で余裕が生まれその余裕によって老境に入ります。

若いころに分からなかったことが経年変化をすることで次第に気づいていくという歓びと仕合せは、老いによって気づけるのかもしれません。

そう考えてみると、若いころはできるようになったことが喜びであり一つ一つできることに幸福感を味わいました。老いていけばこの逆にできなくなることが喜びになり、それが一つ一つそぎ落とされていくことが幸福感になっていくのでしょうか。

今の私にはわかりませんが、老いることで顕れる歓びを探している途中です。

昨年より古民家甦生に取り組むことで、何十年前も何百年も使われていたものに囲まれる暖かさや懐かしさの中で味わい深い時を楽しむご縁をたくさんいただきはじめました。そこでの学びは心の余裕ともいうか、真善美の持つ豊かさともいうべき妙味を感じる時間のようなものです。

そこでは一杯のお茶を炭を熾し立て静かに縁側にいて四季の流れを眺めるだけですが、そこには確かに老いる中でのみ感じられる経年変化の心の素晴らしさがあるような気もします。

自然を見つめ、自然と一体になり、自然体に近づくために老いに素直に向き合っていきたいと思います。

聴き上手

諺に「話し上手聞き上手」というものがあります。これは話の上手な人は人の話を聴くのも上手だという意味です。この反対に「話し上手の聞き下手」もありますが、これは自分の話にばかり夢中になり相手の話を聞かないで一方的に話をするという意味です。

さらに「話し上手よりは聴き上手」というものもあり 、これは話し上手を目指すよりも聴き上手になった方がいいという意味です。

この聴き上手とは何か、少し掘り下げてみようと思います。

そもそも人の話を聴くというのは、単に言っていることを頭で理解すればいいわけではありません。それはどんな意味で言っているのか、そこにはどんな深さがあるのか、そして自分の中でそれはこう受け取っていいものかと、相手の話を聴きながら本当に聴いているのは自己との対話です。

この自己との対話は、相手を中心にして自分はこれを聴いて何を感じたか、何に気づいたかと常に自問自答しながら深めていきます。そのうえで、相手が言わんとしてくださっていることを天の声ように謙虚に受け止め、これはこのような意味ですか?それはこれで間違っていないかと素直に確認していくこと。それが聴くという行為であります。

この聴くという行為とは逆にもったいないことをしているのは、自分の思い込みで単に聞いているだけということになります。これは読んでいるものもそうです。本当にその意味なのかが深まっていないものをその時の「自分の思い込みのみで解釈」して話をちゃんと聞こうとはしない。そういう素直ではない姿勢では、周囲はその人に話をすることも次第にやめてしまいます。話し上手よりも聴き上手というものは、ちゃんと人の話を素直に聴く方が話ばかり上手くても人は離れてしまうという意味もあると私は思います。何のために話すのか、何のために聴くのか、それが人間にとって必要なことだからです。

さらに素直に聴く力というものは、ただ黙って相手の言う通りのことに従順に従えばいいというものではありません。素直に聴く力は、相手を深く尊敬し相手が言っている言葉の真意を自分自身の真実や本質から深く掘り下げて、相手の言っている言葉以上の価値を相手に敬意をもって確認することです。その際、ひょっとすると自分の方がその意味が深まっているのなら相手のいう事が如何に素晴らしいかも気づく自分がありますからそれを称賛し共に深めていくくらいの人こそが聴き上手といわれるのです。

よく学んでいる人や、物事の本質を深めている人、体験を内省し自分を磨いている人は聴き上手です。なぜなら、その人が聴けば自然に相手のいいところが引き出され、その人の智慧も活かされ、まるでどんなにくすんだ物体もその人の前に立てば澄み切った鏡のようにすべてを明瞭に写し出すことができるからです。

素直な人は、思い込みで人の話を聴くことはありません。さらには自分勝手な解釈で他人の親切を棒にふるようなこともありません。話を聴くという心の態度は、相手の真意を確かめて自分自身の至らなさを恥じる謙虚さがあってはじめて醸成されていくように思います。それが相手の立場を思いやる徳になり、聴いたことで福にする力になっていくと私は思います。

善い聴福人を目指して、本質を確かめ意味を深め学問を究め、徳を磨いていきたいと思います。

 

用力

能力主義という考え方があります。これは1970年代から80年代にかけて多くの日本企業で取り入れられた賃金制度に関する考え方で、その人が保有する能力を反映して賃金を決定したものです。同時に成果主義というものもうまれ、その人が出した成果に対して報酬を支払うという考え方です。

この頃から、人は評価によって有能か無能かと分別を意識するようになったように思います。今でも社会全体の中には、有能な人ばかりが出世し、無能な人は切り捨てられるとし、派遣を中心に能力で人が移動するという仕組みで人材も動いています。そしてもっとも価値があると教え込まれるものは、有能であること、そしてさらには万能であることが求められていきます。

この万能とはなんでもできる人のことであり、能力が高い人が世の中に必要されていると教え込まれ多種多様な資格をもっている人が重宝されるといわれています。言い換えれば、どこでも使いやすい人という意味で万能を求めていた企業があったのかもしれません。

しかしこの能力というものは少し掘り下げてみればわかりますが、そもそもそれを用いる人がいなければその能力は発揮されることはありません。いくら自分は能力が高いと周りに自慢して誇張してもそれを用いたいと思う人がいなければ社会でも組織でも嫌がられる存在になってしまいます。

能力ばかりを高めて、成果ばかりを求めて一人その能力を見せつけても気が付けば誰も自分と一緒にやってくれなくなったという話はよく聞く話です。例えば、営業会社で能力主義と成果主義を用いて競争させてトップセールスマンが出てきてその人が成果を出して能力を褒めたたえても、そのうちその人は周りとの関係が築けずに成果がでなくなれば周りが悪い、会社が悪いと、すぐに飛び出していきます。会社の中はギスギスしたものになり、居心地がわるくその能力が使えなくなればその人は会社から不必要だといわれ解雇されたりするものです。

これは能力というものを中心に人間を管理することで起きることです。個の能力だけを評価するというのは、チームや全体との連携に大きな欠陥があるのです。海外の企業では、個は独立していますから転職をしながら能力を使ってもらえるところに移動しながら働きます。しかしそれは組織の中でその能力を活かすために能力だけではなく用力も備わっているということです。

この用力の用とは何か、それは有用の用です。

有能であることばかりを優先するのではなく、その能力をどのように用に立てるかという有用さが全体と一緒に働いていくことになります。言い換えるのなら、仕事をするためだけの能力か、それとも共に働くための用力かということです。

人間は、用いる人があってはじめてその能力が活かせます。自分を使ってもらえるように周りにならなければいくら自分が有能だからとじっとしていても誰もその人を用いません。能力ばかりを磨いてきた人は、用力が足りず自分が何をしていいかわからずに孤立している人が多いです。この用力は、如何に全体のために自分を用いるか、如何にみんなのために貢献するか、如何に自分の我を優先せずにみんなの仕合せのために自分を用いていくか、そういう利他や利益を産み出せる人になるということです。

有能な人は、イコール有益な人ではありません。時として有能な人が有害な人になることがあります。これは自分の用い方を間違っているのであり、能力主義で評価されてきたことで物事を能力だけで判断する刷り込みが抜けないから無能を恐れ有害になるのです。

人の仕合せは、単に自分だけがよくなれば幸福になるのではなく、自分が周りのお役に立てば仕合せになり幸福感を味わえます。どんなことをしたとしても自分がみんなのお役に立っていると実感できるのならその人は働くことが幸福だと実感します。こうなれば有用な人になった証拠であり、みんなにとって有益な人になっているということです。

自分はこの能力があるのだといつまでもその能力に固執してその仕事にしがみ付くのではなく、みんなのために全体のためにみんなに用いてもらえるような存在になるように協働でチーム全体のために尽くすならその人は有能から有用になり有益になってみんなの仕合せを創造する人に変わります。「またあの人たちと一緒に働きたい!」といわれるような用力の人は、みんなの仕合せを創造する人たちになります。

何のために働くのか、刷り込みを取り払い掘り下げてみると人間であることの意味や本当のことが観えてくるはずです。

用力を高め、子どもたちみんなの仕合せのために働く幸せを伝道していきたいと思います。

 

変化の最中

先日、終わりがはじまりということについて書きました。これは「今」というものを中心軸に物事を捉えるとき、始まりと終わりは常に表裏一体ということの意味です。同様に明暗も陰陽も、上下も左右もその中心は変化その最中に存在します。

そう考えるとき、変化とはその両方が移り変わる瞬間に発生していることに気づきます。それが終わりが始まりであり、始まりが終わりである証明です。

しかし人はそれまでの過去の習慣を変えられず、今までと同じように終わりをそのままに終わり、始まりもそのまま終わらせてしまうものです。つまりは何も始まらずに何も終わらないという状況になって停滞してしまうものです。

せっかく頑張って始めたものもそのまま終わってしまえばそれは始まっていなかったことになります。そしてそのまま終わらせてしまえば始まりもなかったことにしてしまいます。

何かをちゃんと始めるというのはその分、同時に何かをちゃんと終わらせるということを意味するのです。つまりは今までの何かを終わらせてはじめて、始めることができるということになります。今までのものを持ちながらその手に新しいものを持つことはできません。もしも両方に持つのであれば、その両手に持てないものはどこかに置くか誰かに渡さなければなりません。自分が持つしかないと思い込んでいつまでも手放すことができなければ、いっぱいいっぱいになったその手には新しいものを持つことができなくなります。器と同様に、その器に何を載せるか、私たちはそれを転換しながらその時代を生きているからです。

さらに人間には決して終わることがないこと、終わってはならないものというものがあります。それが変えてはならないものであり、変わらないもののことです。これは理念や初心、目的や信念、道などもそうですがこれは始まりも終わりもない永遠のものです。

しかし時代は変わっていき環境も変化していくのだから、何かが始まり何かが終わるのは世の常です。その時にいつまでも過去にこだわり、それを手放さずに変化しなければそのまま時代と共に淘汰されてしまいます。それが自然の理だからです。だからこそ、過去にそれがいくら良かったとしてもあるときに次への挑戦がはじまるときその功績や成功を手放さなくてはなりません。いや、むしろその成功事例や功績こそを手放さなければ終わりがはじまりにならないからです。

変化と永遠は、温故知新する中で常に向き合う大きなテーマです。諺に、「創業は易く守成は難し」とありますがはじめることよりも終わりを始まりにしていくことの方がよほど難しいことなのかもしれません。

引き続き、次世代の子どもたちの環境のためにも変えていくことの重要さを実践により伝承していきたいと思います。

EQとSQ~非認知スキルの意味~

現在、世界では教育改革が進められ今まで認知スキルが優先されていたものから非認知スキルが重要になってくるとし各国の教育現場ではアクティブラーニングをはじめ様々な取り組みがはじまっています。

このEQとは、Emotional QuotientまたはEmotional Intelligence Quotientの略のことで「感情知能指数」とされ「自分自身と他の人達との感情を理解し、自らもモチベートし、自らの感情と他の人達との諸関係を効果的にマネジメントする能力」というように定義されています。

このEQ能力の概念の創始者であるピーター・サロベイ教授は、EQ能力を「人生をより良く生きるために必要な能力」としています。さらにそれを発展し、SQ能力というものが言われ始めました。

このSQとは、Social Intelligence and the Biology Quotientの略で、「社会性の知能指数」とされ、「職場内の意欲や他者の能力を引き出すもので、対人関係や社会性に関わる神経回路と内分泌系に支えられている」としています。さらにSQは、Spiritual Intelligence Quotientの略で魂の知能指数ともいわれることもあります。心や魂を成熟していく力とも読み取ることもできます。

簡単に言えば、学んだことを活かす力とそれを周囲の人々と協力して社會を思いやり持続可能にしていく力とも言えます。人類は今、岐路に立っていることもここからわかります。

かつてはIQ能力といってIntelligence Quotientの略ですがこのIQが高ければ高偏差値につながり、ひいては高学歴につながり、高学歴が高収入につながるという時代もありました。いい学校に入りさえすれば将来が約束されているという時代の学校の在り方と、今のように社會を形成する実力が必要になった時代の学校の在り方ではその場や環境、そのほかの存在意義が全く異なってきます。

なぜいまこのEQやSQが必要になったか、それは個人主義が蔓延しそれぞれが好き勝手に生きていけば社會が壊れていきます。社會があっての時分ですから如何に善い社會、好循環の社會を築きあげていく人物、もしくは会社が社會に必要不可欠になってきたことを証明しています。

日本ではかつては地域社會がちゃんと機能しており、子どもたちは地域が見守り育てていく場がありました。誰もが他人事ではなく、子どもは地域みんなの子どもだとしそれぞれに思いやり注意し、関心と愛情をもって育ててきました。その中で子どもたちは自然にEQやSQも高まっていったともいえます。

しかしその地域が消失したことにより、その能力が急激に失われそれを学校で担おうとなったのです。これは産業界や企業界からの要請であるのはOECDの調査や方針からもわかります。

企業においても今は、協働することや他を思いやり共感することなどが失われ働き方改革などと言われ取り組まれていますが、本来の地域社會の甦生のような抜本的な改革はあまりなされておりません。

私たちの実践する一円対話はそれを解決するものであり、子どもたちにEQやSQを身に着けていくための場や環境を醸成するものです。時代が変わり、暮らしも失われ、当たり前にあった力も失われていきます。何を変えて何を変えてはならないか、温故知新しながら私たちの役割を果たしていきたいと思います。

調和する生き方~ベテランの意味~

歳を経ていくと、体験を積んだ分の知識が増えていくものです。そして歳をとっていくのだからそれだけ様々なものが身に着いていきます。人は誰しも最初は新人で、その後、中堅などと呼ばれ、最後はベテランなどと言われます。それは経験年数と共に、それだけの経験と知識が増えていき立場や肩書なども変わっていくからです。

先日、ある人から老害という話を聞きました。そういうこともあるのかと私にはとてもショックな言葉でしたが、謙虚さを失えば誰しもそう呼ばれるかもしれないと感じたものです。

老害という言葉を辞書で調べると、「自分が老いたのに気づかず(気をとめず)、まわりの若手の活躍を妨げて生ずる害悪。」と書かれています。この対義語には老益というものもあり、主に「チームへの貢献度が高いベテラン選手、全体や組織への貢献度が高い経験豊富な謙虚な老人」ということでしょうか。

同じベテランでも、いつまでも自分が自分がと自分が全面的に前に出てしまい自分が正しい、自分がリーダーだといつまでも先頭でやろうとすると周りが育たなくなっていくように思います。逆に、自分よりも全体を思いやり若い人たちや経験が足りない人たちのフォローやカバーに入ることで次世代を育てたり、大事な局面で心を支えたりすればベテランとしての価値が引き出されていくようにも思います。

人間は誰しも老人になっていきますが、自分自身が今、どのような状況なのかを客観視し、自分自身がどうあることがもっとも全体の役に立つのかを考えて行動するにはやはり謙虚さや素直さが必要になるように思います。

そしてこの謙虚さや素直さは、感謝の豊かさと徳の積み方によって磨かれていきます。

経験することで何を磨いてきたか、老いていく中で何をそぎ落としてきたか、それが歳を経た時に顕著に顕れるのかもしれません。私も老いていますから、いつまでも過去のままでいることはできず降りていく時季を迎えています。尖がったり、偏ったりが磨かれて調和されて一円になる時期です。

降りていく時だからこそ「人は皆わが師」であると尊敬し心を高め、自分自身を謙虚に見つめて素直な感性を常に磨き直していきたいと思います。

 

終わりは始まり~はじまりの有難さ~

実践とは継続をすることですが、継続するのは目的を忘れないということでもあります。何のためにやるのかということが明確であり、そのために努力する人は自然体で日々に精進していくことができます。しかしこの目的がはっきりしていない人は、終わらせることが目的になったりしていますから何かが終わればすぐに気が抜けて継続が止まってしまいます。

目的がはっきりしていないから、楽になりたくなるのであり、楽になりたいために終わらせようとします。目的を忘れ頑張れば楽になると頑張っていけばいくほど、早く終わらせて楽になりたいという欲求にかられていくものです。

よく理由も精査せずに、やりたくないことをやらされてきてそれに抵抗して頑張ってきた人ほどこの終わらせたいという気持ちは強くなるのかもしれません。しかし少し考えてみれば分かりますが、この世の中に終わるものなどはないことがわかります。

太陽が毎日沈み、翌朝出てくるように寝て起きれば朝がくるようにこの世は循環して終わることはありません。これは死ねば終わりと思う人もいますが、植物のように枯れてもそれは肥料になって次の代の生になりますから人間もその人が周囲のための甦生循環の一つになります。

それなのにいちいち終わらせてしまっては、繋がりが途絶えてしまうからご縁が分からなくなるだけではなく内省して学ぶ循環が途切れてまた同じことばかりをしているような気持になってより疲れてしまうのです。

本来、終わりなどはないのだから継続するというのはつながっているものを辿っていると思ったり、これがどのような好循環になっているのかを思いその循環をより活性化していくためにその出来事は一つのプロセスだと思うことです。

そのように意識が切り替わるのならば、継続することが当たり前になっていきます。やったりやらなかったりするのは、すべてはつながって存在するということを自覚できていないからです。周りをみては、評価を気にし、みんなの期待や失敗や挫折を気にするからそれを終わらせようとして評価されるまでを頑張ろうとしますがそんなことを繰り返していたら不安と恐怖で新しいことをやることが楽しくなくなってくるかもしれません。

なんでも終わりばかりを気にするのではなく、これは始まりなのだと意識を変えるだけで継続することができるようになります。終わらせることが目的ではなく、目的は続いているのだから常にはじまりであると実践していくことが、楽ではなく楽しいを選んだことになります。

楽を目指して頑張る人と、楽しいを味わい努力する人では一生の間にとても大きな生き方や生き様の差が出てきます。それは人生の磨き方が異なるからです。どうせ磨くのなら、早く磨いて終わらせたいではなく磨くことそのものが仕合せだと感じることが自分を玉にしていくように思います。

引き続き継続の面白さ、「はじまりの有難さ」を感じながら子ども第一義の実践を味わっていきたいと思います。