聴福人の実践目録

人間というものは様々な感情を抱きかかえながら生きていくものです。また真面目に生きていけば、理不尽だと感じることがあったり、なぜ自分だけこんなことになど被害者意識に苛まれることもあるかもしれません。人間は弱いからこそ人と繋がりますから甘えもまた人間の大切な感情の一つです。

私たちの目指している「聴福人」は、傾聴や共感、受容というプロセスを大切にしていますがこれはできるようで大変難しいことだと実感しています。人には、みんな異なる苦しみがありそれを乗り越えようと努力する中で葛藤があり成長していきます。その成長に寄り添うということで人は安心して成長を選ぶことができます。

成長を選べない理由は、成功や失敗を恐れたり、不安や不信があれば成長よりも無難であることを望むようになります。成長は失敗をすることで学び、不安を乗り越えてしていきますから誰かが見守ってくれていると実感しながら取り組むことは成長を助けるうえでとても大きな要素になると私は思います。

人間の感情を詩にして励ましてくださる方に詩人の「相田みつを」さんがいます。この詩にはすべて傾聴、共感、受容、感謝があります。一人で抱え込んだりして辛く苦しいときは心情を見守り理解してくれる存在として聴いてくださっているのを感じます。

「ぐち」

ぐちをこぼしたって
いいがな
弱音を吐いたって
いいがな
人間だもの
たまには涙を
みせたって
いいがな
生きているんだもの」

(にんげんだものより)

生きていればいろいろなことがある、それを丸ごと共感してくれます。さらにこういう詩もあります。

「うん」

つらかったろうなあ
くるしかったろうなあ
うん うん
だれにもわかって
もらえずになあ
どんなにか
つらかったろう
うん うん
泣くにも泣けず
つらかったろう
くるしかったろう
うん うん

(いのちいっぱいより)

このうん、うんと聴いているのはただ聞くのではなく丸ごと受容してくれているのがわかります。誰かにわかってほしい、逃げ出さずに頑張っている自分をわかってほしい、そうやって自立に向かって甘えを乗り越えて巣立っていく。人間は弱い自分を受け容れてはじめて自分自身と素直に向き合うことができるのかもしれません。そうして御蔭様や見守られたことを実感し人格が高まり感謝を知るように思います。

またこういう詩があります。

「肥料」

あのときの
あの苦しみも
あのときの
あの悲しみも
みんな 肥料に
なったんだなあ
じぶんが自分になるための

(いちずに一本道 いちずに一ツ事より)

振り返ってみると、苦しみがあったから成長したともいえます。困難から逃げず、苦労に飛び込んではじめて今の成長があります。成長の過程で人間は、己に克ち己と調和するために、挑戦の最中ずっと自分を誉めたり、慰めたり、労わったり、安らいだり、癒したり鼓舞したり、激励したりと自分自身との対話を通して本物のじぶんが磨かれ自分になっていきます

だからこそその時の心情がそのまま詩になります。

心情を吐露することができるのは、苦労の真っ最中であり幸福の真っ最中、まさに生きている真っ最中ということです。生きている実感や生きている歓びや充実は、困難や苦労の中、つまり成長にこそあります。

成長する仕合せを福に転じ続けていくためにも聴福人的な生き方が大切であることを改めて感じます。引き続き子どもたちのためにも、聴福人の実践を積み重ねていきたいと思います。

 

理想と調和

人は向上心があるのは理想を持つからでもあります。理想が高くなればなるほどプライドも高くなり、そのことから現実とのギャップに苦しむことがあります。それは目標に向かって努力するモチベーションにもなりますがストイックになりすぎると苦しみが増えて楽しみが減っていきます。そういう時は、理想よりも調和を優先することで楽しみも増えて苦しみが和らぎます。

この場合のストイックな理想は自分の理想のことであり、それを言い換えれば小我がエゴだとも呼びます。理想にはもう一つ、本当の理想があります。それは全体調和や全体最適とも言いますが、自然界のように全体が活かされるものと一体になってお互いに活かし合う存在になっている理想のことです。

人間は、自分を中心に善悪や優劣をつけたがるものです。しかし考えてみればすぐにわかりますが、自分が成功すれば相手は失敗していたり、自分に利益が出れば誰かが損失を被ったりします。そうやって自分だけをみて自分さえよければと、自分のことばかりを理想にすればその陰には全体にとってどうかなどあまり感じなくなっていくものです。

本来、私たちは自然のようにみなそれぞれが懸命に生きて周りと調和して生きていく生き物です。その中で、周りのために自分を盡してまた周りも自分のために盡していきます。恩恵をいただき、恩返しをする関係が私たちです。恩恵を忘れてしまえば恩返しもなくなるように、まずは全体からいただいていることを忘れないようにして如何に自分を全体のために活かしていくかに取り組むことが理想の実現になります。

自分の小我の理想のためならすべてを犠牲にしてもいいという考え方の中にある理想では、周りは仕合せになりません。みんなの仕合せのために自分の理想を実現するのなら、全体最適や全体調和を優先しながら自分も懸命に精進していこうと思うものです。

肉体でも調和が乱れると病気になったり怪我をしたりするものです。病気は文字通り「気」が「病む」となり気の循環が乱れてしまうこと、怪我は「我」を「怪しむ」、これを中国語の意味では良心の苛責、自分を責めることだといいます。

自我が前に出すぎないように理想を持つために理念があり、常に理念を優先して取り組んでいけば全体調和や全体最適こそが本当の理想の実現に向かうことを自覚するのです。自分のことばかりを思い悩み、理念を忘れて理想ばかりを追いかければ病気や怪我が付きまとうのかもしれません。

自然治癒とは、調和に向かう作用のことです。

どんなことがあったとしても人間をはじめすべてのいのちは調和に向かいます。何が不自然であったか、何が自然かを私たちは本能で自覚していますからやり過ぎたらまた反省し見直し再び挑戦していけばそのうち中心を掴んでいけるのかもしれません。

引き続き、子どもたちの憧れる生き方と働き方を見つめて楽しんでいきたいと思います。

急がず味わう

先日、離れのお風呂の流し台を古い手桶や箪笥などを組み合わせて改造してつくりました。最後の仕上げには柿渋を塗って復古創新された美しい流し台になりました。

現代は、なんでも物は大量に安くつくられますから修理ということがほとんどなくなっています。少し壊れればすぐに買い替えられ、壊れていないのに古くなったからと捨てられます。

少し昔に遡れば、古民具や骨董の道具などは何十年も何百年も長く何代も使われたものでした。それも今の時代は、古いからと捨てられどんどん新しいものに変わってきています。

昔の素材は長く持つように時間をかけてつくり、素材も長く生きるものを用いました。現代は化学が進歩し、プラスチックをはじめ様々な化学素材ができ長持ちはしなくても便利にすぐに使えるものを生み出しました。

そのことから古いものを時間を待って修理するよりも、新しいものをさっさと買って来た方がいいという価値観になっています。このどれもが「時間を急ぐ」ことによって行われます。

スピードが上がっていけば上がっていくほど私たちは時間を無駄にしているという感覚になっていきます。一分一秒を惜しんでというのは、目標に早く達するためにということがあります。しかし一見、急ぐことは時間を無駄にしていないように観えますがその実はとても時間を無駄にしているとも言えます。

かけがえのない時間、少しでも寿命を伸ばしていこうとする価値観は急ぐのではなく味わうのです。例えば、早く急いで食べて次のものを食べようとしていたら食べているものの味などよくわかりません。大量に食材があってそれをすべて平らげようとしたらそうなりますが、それが果たしてもったいないことなのかと思います。

ひとつのものでも丁寧にじっくりと関わり、ゆっくりと食べていたら味わい深い時間を過ごせます。そこまで手にかけてきたすべて、周囲の御蔭様の感謝、心が満たされながら体も満たされます。

同様にものづくりも、時間をかけて材料を集めて構想をしっかりと練って、丁寧に手作業でつくっていくこと。この時間をかけたことが仕合せであり、そうやってできたものは魂を分け与えた気持ちになります。

古い道具たちはみんな、そういう時間を主人たちと共に過ごしてきた大切なパートナーたちです。新たなパートナーとのかかわりもまた、急ぐのではなくじっくりと味わい創り上げていきたいものです。

引き続き古民家甦生を通して生き方を改善していきたいと思います。

生き方の改善~健康とは~

何が自然で何が不自然かと比べながら病気を深めていると色々と体への常識が歪んでいることに気づきます

人間は誰にしろ生きていれば死ぬまでに必ず何かの健康問題に遭遇します。元気な時には気づきにくいですが、それは病気になったときにはたと気づくものです。そもそもこの健康というものは、健康になったから終わりではなく如何に日々に健康を維持し続けるかということを指す言葉でまさに健康は中庸と同義であることに気づきます。

一生涯、自分の健康を維持するには食生活に睡眠生活、運動生活、精神生活、心の生活、その他にも生活環境など日々の生活習慣を改善し続けることではじめて維持していくことができます。不慮の事故や、先天性のものを含めれば当たり前になっている健康の維持ということは如何に大変なことであるかに気づきます。これは守られていなければ実現しないほど偉大な恩恵をいただいて私たちは生きているということです。

以前、ある方に一汁一菜の話をお聴きしたときに今の時代は都会に住めば食にあふれなんでも世界中の食べたいものが食べれる時代ですからこれを実践するのは本当に難しいことだと感じたことがあります。そう考えてみると先ほどの生活の種類でも、都会に住めば食も睡眠も運動も心もする機会がほとんどなく、生活環境は排ガスや密閉建築の便利な生活の中でほとんど健康を維持することができません。

そして心身に支障をきたし病院にいき高価な治療費を払い、薬漬けになって健康を取り戻したと思っているのが如何に不自然なことかと思うのです。お金を払って健康を買うというのは、現代社会のもっとも大きな問題だと思います。まさに医療費も増えてさらに経済を追い続けて破たんがくるとわかっていても自転車操業のようにやめられない、この社会システムの悪循環によって貴重な国家の未来の人財や人口が減っていくのは悲しいことです。

時代が変わり続け終わることがないようにそもそも病気は死ぬまで完治などないのだから、私たちは如何に一生の病と付き合いながら生活を改善し継続していくかを考える必要があります。そうなってくると、次第に訪れる様々な出来事に耐えれるだけの力を身に着けていく必要があります。

この世で耐えられる力は何でつくか、乗り越えるための強さは何でつくか、それは「生活習慣」によって実につくものです。それを実践とも言います。何の実践を継続していくか、それは生き甲斐や遣り甲斐のある一生を送るためにの生き方の改善です。

ですから生活習慣の改善を通して行っているのは実際は生き方の改善をしているということです。

生き方を見直し、何を改善するか、それは病気がすべて教えてくれています。病気は私たちを強く活かし耐える力を育むために、そののちにやってくるであろう困難に立ち向かうための活力と恩恵を同時に与えます。

だからこそ痛くても前に進むことや、つらくても歩くことは治癒をいただくことですから希望が出てきます。希望さえ持てば誰にせよ自然の治癒力が働いていることに気づきはじめます。その希望に向かって如何に自助努力を続けるかが、人間健康の本質ということでしょう。

引き続き、できることをやりながら時が経つのをじっくりと生活習慣を改善しながら待ちたいと思います。

 

 

自然治癒の根源

坐骨神経痛になった御蔭で、自然治癒のことを学び直す機会が増えています。医と農は私の生涯の学習テーマであり、自然に照らして自己を内観することでさらに道が深まり楽しみも増していきます。

昨日は、「自助」ということについて考える機会がありました。本来、人間をはじめいのちのあるすべての生き物は偉大な恩恵を宇宙や地球からいただいて生活を営んでいくことができます。

当たり前のことですが、自然の中に空気も水も光もあり、さらに地球には重力というものがあり私たちはその存在によって活かされています。この活かされているもの、それが自然治癒の根源とも言えます。この自然治癒の根源の力が常日頃から発揮されて私たちは生きています。

その活かされている力は、例えば重力であればそのことによって筋力も骨力も高まっていきます。他にも空気や水であれば、美しい森の森林浴のように私たちは心身を癒され安らいでいきます。

当たり前すぎて忘れてしまうものですが、私たちの体は自然の一部です。自然の一部だからこそ自然治癒をする。その自然治癒を邪魔するものが何か、それが人間の意識であろうとも思うのです。

自然治癒を邪魔するものは、不自然なもののことです。例えば、昔の人たちはよく自然の中で歩き、歩くことで心身を循環し鍛錬し健康を維持していました。今では車社会になり、ほとんど歩くことも亡くなってきています。道路は舗装され、かつてのような弾力のある土や砂利、草の上を歩くこともありません。

不自然な生活を積み重ねることで生活習慣病になり、様々な問題が発生してきます。それを一時的な対処療法で治してしまうと自然治癒がより働かなくなることにもなります。

自然治癒の特徴は、じっくりとゆっくりと治していくというものです。即席栽培のようにいきなり育たせるのではなく、自然栽培のようにじっくりと周りの環境に適応しながら治していきます。

私たちが生活習慣病になるもの時間をかけて行われるように、同時に生活習慣病が治癒して本来の自然な姿に原点回帰していくのもまた時間がかかります。その際に、何が不自然なのかを見極め、その不自然な暮らしを少しずつ改善していくことで自然治癒に向かっていきます。

自然をよく観察していけば、何が不自然で何が自然であったかを学び直すものです。もっとも危険なことは、不自然なことが常識になってしまうことと、不自然であることに気づくことがなくなってしまうことかもしれません。

自分の不自然に気づくために病気もあり、活かされていることを忘れていることで不安も葛藤も起きてきます。これは実は自然なことかもしれません。人間が自然の一部であることを忘れることから問題が生まれ、その問題に気づくために病気がある。病気とは天の声であり、その病気はすべて治癒のはじまりなのです。

自然治癒の根源に気づくことこそが、自然治癒の極意なのかもしれません。

見守られていると感じながら病を得ることは、病があることに感謝する生き方です。この病が自然から離れないように心が自分自身を助けてくださっているのかもしれません。自然に見守られる中で如何に自立するか、これはすべての生き物のいのちの命題です。

子どもたちに不自然な道を残していかないように、かんながらの道を歩んでいきたいと思います。

 

運を拓く

先日、郷里のある方から古民家甦生の取り組みで嬉しいお知らせをいただきました。地道な取り組みが一部の方々に知らず知らずに認められて応援してくださっていますよという内容でした。私たちは地道に自分たちの信じたことを継続するだけですが、まわりまわって地域の方々に伝わり応援していただけるのは本当に嬉しいものです。

先日からやなせたかしさんの言葉を紹介していますが、「運」と「継続する」ということについて語られていたものがあります。

『運をつかむには、自分のやりたいことをずっと継続して、やめないことだ。「継続は力なり」という。同時に「継続は運」なのだ。』

この運とは何か、それは道のことだと私は思います。道をやめないからこそ運がある、そう考えるともっとも大切なことは「道の実践を継続する」ということであろうと私は思います。やなせさんは、継続の人でした。どんな状況になっても、周りからどんな批判や批評、諦めそうな出来事があるときでさえ、継続をした方でした。

『「運がよけりゃ」と、棚の下でぼた餅が落ちてくるのを待っていても、そんな好都合なことは起こらない。自分でぼた餅をつくってこそ、類は友を呼ぶではないが、いろんな餅が寄ってくるのだと思う。自分自身も、世に出なくとも、代表作がなかなか描けなくても、黙々と漫画を描き続けてきた。アンパンマンはそうした長い歳月から生まれた「運」だったのだ。』

アンパンマンがヒットしたのは70歳を過ぎてから、それまでの継続が実を結んだといいます。

代表作をつくりたい。漫画家としてのアイデンティティを持ちたい。そんな長い間の願いがかない、アンパンマンの人気が高くなったのは、なんと七十代に入る直前、六十九歳のときだった。遅咲きも遅咲き。よく「大器晩成」とおだてられるが、いやいや、「小器晩成」の典型だ。でも、大器でも小器でも、いいじゃないか。せっかく生まれてきたのだ。絶望するなんてもったいない。なんとかなるさと辛抱して、とにかく生きていくんだ。人生は捨てたものではない。やがて道は拓けてくる。それが実感だ。

『「継続は力なり」というが、あきらめないでひとつのことを思いを込めてやり続けていると、ちゃんと席が空いて、出番がやってくるものなのだ。』

だからこそこう言います。

『運は自分で拓くもの 運は自分が呼び込むものつまり、運は天が定めたものではなく、自力で動かすものなのです。』

運は継続によってはじめて拓かれる、そう考えれば継続とは運を自分で動かす大切な実践ということです。誰がどういおうと、どんなことになろうと、自分が信じた初心を貫くことで運ははじめて拓けるものです。

引き続き、子ども第一義の理念と一緒に歩んでいきたいと思います。

 

 

本当の希望

アニメの「それいけ!アンパンマン」の作者で有名な「やなせたかし」さんがいます。幼児教育や子どもに関わる仕事をしていれば、アンパンマンは子どもたちの身近にある存在です。そのアンパンマンの作者がどのような人生を送られた人物であるかを知っている人は少ないように思います。

この「やなせたかし」さんは、自分でも遅咲きであるといい70歳になるまで代表作というものもなくヒットすることもなくずっと漫画を描き続けた方だといいます。そのやなせさんの遺した言葉は平易に語られていますがその質はとても重く、ご自身の深い人生観が宿っているように感じ私たちをアンパンマンのように励ましてくれます。

病歴をみても腎臓結石、白内障、冠動脈の手術、すい臓炎、胆のう脾臓切除にヘルニアの手術も。さらには緑内障手術、重度の腸閉塞、肺炎、心臓病、さらには糖尿病を発症、そして2005年は腎臓がんと診断され左腎を摘出、手術後も転移が見つかり86歳から2年間で10回のオペを受けたともいいます。94歳になっても最期まで現役を続けられた人物です。

「僕は、この“らしく”という言葉が好きじゃない。“らしく”というのは、そのものにふさわしい特質を備えているかどうか、ってことでしょうが、人間、人それぞれなのですから、別に“らしく”ある必要はないと思うのです。この延長線上にあるのが『老人は老人らしく』であり、『もう、いい年なんだから、そんな無茶はやめなさい』ということになります。これがどうにも僕には腑に落ちない。“いい年をして”という世間の常識は、高齢者の元気を奪い、枷をはめているようにしか思えないからです。せっかく面白そうなことが目の前にあるというのに、『もう年だから、みっともない』と尻込みする人がいますが、僕からいわせると、本当にもったいない。『この年だからこそ、やりたいものはどんどんやってみましょう』。こういきたいものです。老いはクヨクヨする時期ではありません。老いてこそ、何かをやって、ワクワクする。自由に生きることができる季節の到来なのです」

誰かの評価を意識して誰かから言われたことを鵜呑みにして自分自身で生きるらしさを手放し、誰かの言うらしさに囚われて生きていくのはまっぴらごめんということでしょうか、晩年はチャイドルをもじって自分をオイドルと呼んでいたそうです。

自分の人生だから、自分の納得いくようにやりたいことをやって一生を終えるという気概が独立自尊の自分を磨いていくように思います。

私が今、励まし励まされ、またみんなを励ますために紹介するのはこの言葉です。

『絶望の隣は希望です』

その言葉に関するこのような詩を遺しています。

『絶望の隣に

だれかがそっと腰かけた

絶望はとなりのひとにきいた

「あなたはいったいだれですか」

となりのひとはほほえんだ

「私の名前は希望です」』

人生の中で実体験から学んだことを表現し続け、多くの人々をアンパンマンのように励ましたやなせさんは、死してなお人々を励ましています。

「生きていることが大切なんです。今日まで生きてこられたなら、少しくらいつらくても明日もまた生きられる。そうやっているうちに次が開けてくるのです」

「夢も希望もない世の中だけど、生きていりゃ良かったと思えることがあるかもよ
あるかもよ としか言いようがないけど もうちょっとだけ我慢して生きてみて」

「一日一日は楽しい方がいい。たとえ十種の病気持ちでも運は天に任せて、できる限りお洒落もして、この人生を楽しみたい」

「なんとかなるさと辛抱して、とにかく生きていくんだ。
人生は捨てたものではない。やがて道は拓けてくる。それが実感だ。」

今はたとえ、希望の光が観えないようなことがあったとしても必ずすぐ隣まで光は来ています。諦めず時をじっと堪えて待っていれば、日々、その日だけを乗り越えていけば必ず光が観えてくるはずです。

「幸福は本当はすぐそばにあって、気づいてくれるのを待っているものなのだ。」

もうすぐ隣まで来ていると信じて、自分がそれに早く気づいてあげることができるようにないものや失ったものを見ず、あるものやいただいたものを観ていけるよう祈っています。

子どもたちのためにも、本当の希望を与える存在でありたいと思います。

幸福の本質

先日から坐骨神経痛になり、急に歩くことができなくなりました。寒くなってくると、筋肉が収縮し今までと異なる場所に力が入りすぎるようになり全体のバランスが崩れることで神経を損傷することがあるといいます。

改めて歩けなくなると、日ごろ当たり前にできていることが如何に有難いことか気づきます。ちょうど自宅を掃除する機会だと思い、整理整頓していると以前神社で見かけた「生命の言葉」という紙が出てきました。そこには「それいけ!アンパンマン」の作者のやなせたかしさんの言葉が紹介されていました。

「健康でスタスタ歩いているときには気がつかないのに、病気になってみると、当たり前に歩けることが、どんなに幸福だったのかと気づく。幸福は本当はすぐそばにあって、気づいてくれるのを待っているものなのだ。」(明日をひらく言葉 PHP文庫)と書かれます。

そして表紙には「ごくありふれた日常のなかに、さりげなく、ひっそりと、幸福はかくれています」と、これはとても含蓄があり深い味わいのある言葉だと思います。

私たちはみんな誰にしろ幸福というものは隠れています。生きているだけで、ありとあらゆるものに恵まれ私たちは日々の暮らしを営んでいます。この体も五感も心も、すべては天からのものであり、さらに広げればこの空気も太陽も水も宇宙もすべて私たちは存在そのものに活かされます。

幸福ばかりをもとめて足るを知らず、恩恵を省みず当たり前のことのように感じていれば幸福は逃げていくばかりです。幸福は、気づかないところ、隠れているところ、ひっそりとしているところ、そこを見つけてほしいと待っているように思います。

つまり幸福の本質とは、足るを知ることにありいただいている恩恵を見つける心にあるとも言えます。

当たり前のことの中にある幸福に気づかせてくださるように、天はありとあらゆる機会を私たちにあたえてくださいます。そう考えれば、この機会もまた恩恵であり気づくことで幸福感を味わえます。あたりまえができなくなることは決して不幸なのではなく、当たり前に気づけることが幸福だと実感できる自分でありたいものです。

子どもたちに見せる背中として、そういう幸福の姿を譲り遺していきたいと思います。

立志

人間は一生の中でもっとも大切なものを持つのに「志」というものがあります。これは生き方のことで、生まれてきた以上どのような生き方をするかと決心するようなことです。

よく夢と志を混同されていますが、夢は願望のようなものであり志は信念であるとも言えます。同じ夢を観るにしても、志があるのとないのではその夢は野心や野望にもなります。しかしひとたび志が立つのならその夢は、自分の欲を超越した公のものになっていきます。

ちょうど昨日、テレビのドラマで「陸王」という番組が放映されていました。その中で足袋会社の社長が、1億円の借金をしてでも新しいシューズを開発するかどうかの岐路に立たされます。その中で、周りの人たちからどうするのかを尋ねられます。その際、社長の「できるならば、、」という言葉に、その程度なのかと周囲は幻滅して一人二人とその人から離れていきます。

人は誰かと何かをやろうとする時、どこまで本気かどうか、そこまでしてでもやるかどうかを確認するものです。それは自分のいのちを懸けるだけのものがあるか、自分の人生を懸けるだけのものがあるのかを確認するからです。

結局は、生き方や人生を迫られるとき人は悔いのない選択をしたときにこそ志が試され、その覚悟を決めた時に志が立つのです。

以前、大河ドラマの中で「あなたの志は何ですか?」と吉田松陰が弟子たちに問いかけるシーンがあります。これは、あなたの覚悟は何ですかとも言い換えることができます。

そこで先ほどのように「できることならば、、」というくらいでは、それはまだ立っていないといえます。私はこれを何がなんでも実現する、そしてそれが世界人類、またはすべての存在に対して貢献することを信じるというものがでた時、その人の志が立つと思います。

その志は、事あるごとに試されます。つまりどこまで本気なのかと、果たして全身全霊だったかと、自分自身に迫ってくるものです。できればいいかなくらいの気持ちは、本気の勝負の時にその人自身が自滅する原因になります。だからこそ周囲は、その人がそうならないように本気を試し確認してくるのです。

孟子に「天の将に大任を是の人に降さんとするや、必ず先づ其の心志を苦しめ、其の筋骨を労し、その体膚を餓やし、其の身を空乏し、行ひ其の為すところに払乱せしむ。 心を動かし、性を忍び、その能はざる所を曾益せしむる所以なり」があります。

これは志を立てるために天が敢えて試練を与えるということでもあります。

天理は不思議で、何を拠所にして何を中心に自分を立てるかが決まらない限り手助けが借りられない仕組みがあるように思います。いつまでも自分ばかりを握って自分の個人のことに執着し固執していたら志は倒れるばかりです。

子どもたちのためにも、立志を磨き続け悔いのない人生を歩んでいきたいと思います。

 

 

老い

老いというものがあります。仏陀の説く生老病死の中の老いは、人間だけではなくすべての生き物が宿命的に備わっているものです。その老いというものは、経年によっていのちの変化していく様のことです。人間も若いころは考えもしないことを、歳を経ることによって次第に老いを意識するようになります。

つい年齢の刷り込みを受けることによって、私たちは歳をとるイメージを勝手にもってしまうものです。20代はこう、30代はこう、50代はこうで、80代はこうだと誰かが勝手に決めた平均年齢での状態を誰かに常識を刷り込まれ思い込んでいるものです。

しかし実際には、身体機能などは衰えてきたとしても武道の達人や芸術家の極みの人物のように無駄な動きが全部とれて自然体になり万物すべての力を活かす能力を持てるような人もいます。若いからいいのではなく、極まったから価値があるのでありそこに年齢はあまり関係がありません。

ただし年々の修行において、余計なものが磨かれてそぎ落とされていく中で余裕が生まれその余裕によって老境に入ります。

若いころに分からなかったことが経年変化をすることで次第に気づいていくという歓びと仕合せは、老いによって気づけるのかもしれません。

そう考えてみると、若いころはできるようになったことが喜びであり一つ一つできることに幸福感を味わいました。老いていけばこの逆にできなくなることが喜びになり、それが一つ一つそぎ落とされていくことが幸福感になっていくのでしょうか。

今の私にはわかりませんが、老いることで顕れる歓びを探している途中です。

昨年より古民家甦生に取り組むことで、何十年前も何百年も使われていたものに囲まれる暖かさや懐かしさの中で味わい深い時を楽しむご縁をたくさんいただきはじめました。そこでの学びは心の余裕ともいうか、真善美の持つ豊かさともいうべき妙味を感じる時間のようなものです。

そこでは一杯のお茶を炭を熾し立て静かに縁側にいて四季の流れを眺めるだけですが、そこには確かに老いる中でのみ感じられる経年変化の心の素晴らしさがあるような気もします。

自然を見つめ、自然と一体になり、自然体に近づくために老いに素直に向き合っていきたいと思います。