理念の共有

誰かと何かをやるときに理念の共有というものは大切なことです。特に組織でいえば全体を一緒にカバーしていくような柱の人たちはこの柱を支える役割がありますからその柱がちゃんと立っている必要があります。

もしも柱がどこかにいってしまったり支えていなければ、それは全体の家を支えることができなくなるからです。だからこそこの理念の共有は、柱を支える人たちにとってはなくてはならないものだともいえます。

家であれば柱が傾けばその柱に重みが一点に集まって乗ってしまうことはわかります。傾いた柱に重みが乗ればあっという間にその全体の重量がかかり家が傾いてしまいます。そうならないように周りの柱も一緒に支えることで家は立っています。

例えば他にも重たい石やものを持つときにも、持ち上げる際には一人よりもみんなで持ち上げることで持ち上がります。その際は、一緒に息を合わせて持ち上げることで持ち上がります。これもまた先ほどの理念の共有と同じく、みんなで支えて持ち上げなければなりません。

自分だけでやろうとするのではなく、みんなに協力してもらって持ち上げていくこと。そのためにも理念の共有は欠かせないのです。大黒柱がもしも家からなくなってしまえば、その家は少しの災害でも倒壊してしまいます。同じくチームの中での大黒柱がなくなればそのチームも同様に崩れてしまうかもしれません。大黒柱とそれを支えるチームの人たちが如何に目的を共有して一緒に組織を支えるかは、その目的の共有の質量に由るのです。

目的の共有とは、何のためにやるのか、誰のためにやるのか、なぜこれをやるのかという意識の共有のことです。意味があってやっていることであっても、その意味が分かっていないのでは目的が共有されているのではありません。

一回言ったからいいではなく、何回でも耳に胼胝ができてでもその目的を伝え続けなければなりません。それが本質であり続けることであり、本来の目的に対して誠実にみんなで力を合わせて取り組んでいくことになります。

柱が多ければ多いほど、また真っ直ぐに凛として立てば立つほどにその家は強く逞しくなっていきます。自分が支えているものが何か、何をすることが支えることなのか、その経過を理解し合い持ち合うことが家を守ることになります。

幹部というのは木の幹、根幹の幹ですからこの経過を常に確認することはチームや組織において何よりも優先していく必要があると私は思います。

引き続き、お客様の理念がブレずに目的に向かえるように理念の共有を説いていきたいと思います。

 

宿る

昨日は、熊本から長くお付き合いいただき一緒に理念の実現に向かって取り組んでいるお客様が聴福庵にきてくださりお泊りされました。

すぐに箱庭を気に入っていただき、庭木がとても喜んでいるように見えると仰られありがたい気持ちになりました。ちょうど昨年、鬱蒼とした庭木の剪定を素人ながらに必死に行いすっきりさせ、その庭に年代物の春日燈篭や江戸中期の壺、そのほかにも竹垣や土器、睡蓮鉢にメダカを育て水盤、いろいろな道具も配置していきました。

それに苔も8種類ほどのものを混植し、観音竹や山の清流に流れている石や草草なども移動しました。それから約一年経ち、鑑賞していただけるものになりそれを誉めてくださる方が出てくると、庭に一つの空間が宿ったことを感じます。

そもそもこの「宿る」という言葉は、いのちが宿るや魂が宿る、もしくは宿命といういい方もします。この宿は、単に泊まる場所をいう場合と、宿るといってそこにすまうものがあるという意味もあります。

私たちの体にもいのちと魂が宿ることで存在します。宿っていないものはすぐにわかります。この宿るというのは、目には見えませんが確かにそこには思いや願い、祈りや精神、そういうものがいつまでも留まっているということです。

魂を宿しておくというのは、体がたとえなくなったとしてもその魂自体はその空間やその道具に遷して留めておくということです。それは物に限らず、言葉であったり、建物であったり、遺し方はいろいろとありますが大切なのは宿らせることなのです。

暮らしも同じく、そこの家で取り組んできたものはその空間に宿り続けています。それは継いでくれる人によってさらに高められ、確かに宿ったものに由って甦るのです。

私たちは死んでなくなるという発想を持つのは自分のことや自分の代のことだけばかりを考えるからで、死なない存在がある、つまり宿るのだということに気づけばその生き方やプロセスの方を大切にすると思うのです。

宿っているものを見てくれる人がいることがありがたく、この道をしっかりと踏みしめていきたいと決意と覚悟を新たにしました。

子どもたちのために、何を大切にし譲っていくか、本質を守り続けていきたいと思います。

志結

吉田松陰が死の直前に書いた留魂録というものがあります。これは辞世の句からはじまり、仲間や同志、弟子たちには「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」と記し、家族宛に「親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん」と記しています。

これと同じく、「諸友に語(つ)ぐる書」というものを遺しました。

ここに最後まで忠義に生きた吉田松陰の生き方が観え、深く共感するものがあります。

「諸友蓋(けだ)し吾が志を知らん、為(た)めに我れを哀しむなかれ。我れを哀しむは我れを知るに如(し)かず。我れを知るは吾が志を張りて之れを大にするに如かざるなり」

意訳ですが、「君たちはきっと僕の真心を理解していることと思います。これから先に死んで逝く僕のことを決して悲しまないでください。僕の死んでしまうことを悲しみ同情することは、僕の本心や真心を理解してくれたのではありません。もしも僕の本心や真心を深く理解して同情してくれるのなら、僕の志を受け継ぎ、この志を更に大きく実現してくれることなのです。」と。

ここに最後まで真心に生き切り、自らの志、その忠義に生きた吉田松陰の生き方が観え、深く共感するものがあります。

志は、自分の人生だけで完結するものではありません。何代も先のため、せめて七代先のことも憂い、自分がその使命を果たそうとするのです。志を継ぐというのは、それだけ物事を長いスパンで考えてその志のバトンを受け継いでまたそれを次に渡していこうとする試みなのです。

例えば、孔子や仏陀、キリストをはじめ、神話や伝説などもそれは語り継ぐ人がいたから今の私たちがその言霊と真心を理解することができます。数千年以上前の出来事が今でも生き続けているのは、その志を継いでくれた人たちがいたからです。

その志を継ぐことは、決して頼まれた結果を出せばいいのではなく同じ生き方をしていってほしいという願いと祈りに近いものがあるのです。自分の真心や本心は何か、それは未来の子どもたちや子孫のためにも、先祖のためにもこう生きたいという心そのものです。

その心のままに歩んでほしいと願い、その心が同じであるから共に同志が集うのだから守るべきは自分のことではなく志を守ろうとするのです。守るものがあるから生きられ、守るものがあるから本来の自分の使い道があるとも言えます。

何を守るか、何を信じるか、何のために生きるのか。

これらが志と結ばれ、その志が永劫に受け継がれ生き続けるのです。吉田松陰にこんなに惹かれるのは、志が同じくするからかもしれません。別に外国を追い払おうとしたのではなく、大和魂を守ってほしいというのが志だと私は思います。

引き続き子どもたちに大和魂を譲り遺すためにいのちを懸けていきたいと思います。

四季のめぐり

昨日は、聴福庵の箱庭のカエデの選定を行いました。昨年は、時期がずれていたこともあり大量の毛虫が発生しそれを食べる蜂もたくさん来ていていろいろと虫に刺されひどい目に遭いました。

今年は、昨年の四季の巡りを体験しましたからどの時期にどのような手入れをすればいいのか体が覚えています。田植えなどもこれから行いますが、何年も四季の巡りを体験すれば自ずから体が覚えて全自動的にタイミングを合わせてきます。

私たちは自然から離れて時計やスケジュールに体を合わせますが本来は四季の巡りに合わせていきているのがすべてのいのちです。そのいのちが四季に合わせるからこそ周囲とのタイミングも合ってきます。もっとも無理も無駄もなく、周りの様子を感じてどの時期に自分が何を動けばいいかを自明するのです。

本来、タイミングと合わせる力というのはもっとも大切な力です。タイミングが合わなければ何をやってもずれてしまうこともあります。そうなれば徒労に終わるばかりで何をやっても周囲との不調和が生まれるのです。

自然に四季があるように自分の体にも四季があります。その四季の巡りを熟知し体で体得するというのは自分のことだけではなく周囲のことも深く理解していくために必要なことです。

この四季の体得は、体を使って感じるしかなく、それも一年の四季の巡りを全体で掌握して時期を感じながら生き続けるしかなく、ここに人間の五感を磨き生き方ががらりとかわる理由があります。

何か自然物を自然に共に育つ関係を持てば、すべての生き物は四季に合わせて変化します。その変化に応じて自分自身を変化していくことで体が変わっていきます。体を四季に合わせて変化していくのは自然の道理に従って自分の感覚を研ぎ澄ませていくものです。

その研ぎ澄ませて感覚を得れば全体把握ができるようになります。人間はどれだけ大きく全体を観るかで自分の動きも変わってきますからこの感覚は人生を生き抜くためにはとても大切な力になります。

地球の流れとともにある生き物たちは、四季とともにあるとも言えます。引き続き四季に合わせて四季の巡りを学びつつ、自然一体の境地のままに道を歩んでいきたいと思います。

和が宿る

古民家甦生を続けていく中で、古いものを磨き直し新しくし、さらに手作業手作りのものに入れ替えていくと落ち着いた空間が発生してきます。その空間に入ると、とても心穏やかになりなんともいえない安心感に包まれます。この空間に入ると落ち着くという感覚、これが日本の伝統的な「和」のことです。

和むというのは、心の作用を言います。そして心はそのものと人、人と人、すべてのものが相調和したときに空間に一切の邪魔が入らず無為自然になるのです。これは自然の中に入るのと同じで、あるべくしてありなるべくしてなる。日本の風土に沿って日本の伝統的なものに包まれたとき、私たちは心が安らぎ和むのです。

例えば、都会の喧騒と鉄筋コンクリートの壁の中でのむ一杯のお茶とこの日本の和の空間の中でのむ一杯のお茶は同じ味にはなりません。舌先三寸の味はどれも同じであっても、心が落ち着いて和むのはそのお茶によって周囲の空間に気付けるのであってお茶がそれをなしているのではありません。

私は茶道のことはよくわかりませんが、伝統的な自然な日本民家で鉄瓶でじっくりと沸かしたお茶の味わいは心がよく知っています。その心の落ち着きはすべて和からきているものです。この和とは、日本の道具を使えばいいのではなくそこに流れている暮らしや主人の精神、人と家と道具が見事に調和するときに出てくるものです。

空間とは呼んで字の如く、「空」の「間」です。

その間を如何に空にするか、そこに邪魔が入るような私欲や邪念を一切捨て去って真善美の徳を顕すこと。そういう空間にこそ場が生まれ和が宿るのです。

古民家甦生を通して磨かれるのはその和の精神、大和魂です。

引き続き子どもたちに和の精神、大和魂を伝承できるように真摯に「場」を磨き続けていきたいと思います。

乗り越えることの意味

人は何かを諦めていろいろなことが嫌になってしまう時もあります。幼いころから他人の評価を気にして自分を責めたりすれば自己嫌悪になり自暴自棄になってしまいそうにもなるものです。

誰かと比較しては自分のことを評価する癖を持ってしまうと本当の意味で自分自身のことをあるがままに評価することができません。本来は比較することをやめて自分は自分のままでいいと思えればいいのですが、自分で自分自身を理解するには大変な時間と苦労もかかるのも事実です。

しかしその大変な時間と苦労は、必ず誰かのお役に立つのも事実です。そう考えてみると、なぜ自暴自棄になりそうなときでも諦めずに遣り切ることができるのかと思えばそれが必ず誰かの役に立つと信じることができるからです。

自分の悩みや苦労は、同じように悩み苦労する人たちの力になっていきます。自分だけがこんな苦労をしてというようにちっぽけな自分に囚われてしまえばその苦労は乗り越えられないような気がします。しかし同時に、この苦労はきっと他にも同じように苦労している人がいるはずでその人のためにも自分が遣り切りたいと思えるかということです。

それが逃げない理由になり、乗り越えたいと思う勇気になっていきます。

事物から逃げずに残る理由というのは、自分がその役目をいただき自分がその大切な役割を果たしたいという使命感かもしれません。さきほどの評価でも同様に比較され苦しんだことがあるからこそ自分はそれに向き合い乗り越えて同じように苦しんでいる人たちの勇気になろうと諦めないでいられるのです。この諦めないというのは、誰かの力になるのを諦めないということです。自分のことは諦めそうでも、自分が諦めたら誰かのお役に立てなくなるから諦めないということです。

そして自分が逃げたらそれを他の誰かがやるだけです。しかし逃げても他のことがやってきます。それが人生であり、その人生で自分に与えられた課題をどう受け止めてそれを乗り越えて社會のお役に立てていくか、それが人間共生の一つの役割のように思います。自立というのは、それだけ多くの人たちの力になるように思います。

振り返ってみると、なんでこんな大変なことにと思うこともありましたがそれを乗り越えさせていただいた御蔭様で今では同様に苦しむ多くの人たちのお役に立てています。有難いことは、自分にそのお役目を与えてくださった自分自身の存在、乗り越えてきた意味の方です。

諦めない心を育てるのは自分自身を嫌いになるのではなく、乗り越えられる自分自身をもっと信じることのように思います。自分自身の存在丸ごとで誰かのお役に立てていく方が、生きやすく、自分を愛せるように思います。

引き続き、来たものを選ばずにいただいた苦労を自分自身を信じて受け取って乗り越えさせていただけるように精進していきたいと思います。

 

お天道様と素直な心

お天道様という言葉があります。これは天の道のことをいいますが、昔は「お天道様がみてますよ」と天の道に背かないように正道を歩みなさいとみんなで声掛けを続けてお互いに見守り合い生きてきたといいます。

日本人にはもともと「恥」という意識があり、常に道から外れないように自戒を持ち社會を形成してきたといいます。今ではあまり聞かなくなりましたが、このお天道様の存在は人間がごう慢になっていかないための大切な社會の基礎だったように私は思います。

この天の道とは何かといえば、自然に沿った道のことでもあります。人間だけにとどまらず全ての生きものたちは天の助けによって活かされている存在だとも言えます。この天とは、宇宙であり自然であり、自分たちを存在させてくれているもの全てのことです。その天の助けが入ることで人はこの世に存在することができています。

いつもその天の御蔭様の存在を感じて生きていけば、人間の欲望だけを優先して生きていくことが正しくないことをすぐに気づけるものです。天の道、天の助けを借りて、今度は人の道、人の助けがあるのが人生です。

その天の助けが入るような生き方とは、お天道様が見守ってくださっていると信じて天の声に従い天命に生きる人にこそひかりが宿るように思います。そのためには、そのお天道様の声が聴けるような素直な心が必要ではないかと思います。

素直な心は、天と一緒にあると思うのです。

天と一緒にあるものは、志を同じくする仲間に恵まれ、そしていつも有難いご縁に導かれ、豊かに大義に生きることができます。

今の時代、あまりそういうことを言う人もいなくなったのは住みながらにして価値観だけが別の国の文化にすげ代わって本来の生き方が入れ替わってきたからかもしれません。

古人が師としたものを師とし、ご先祖様が大切にした生き方を守って、子どもたちに確かな道筋を遺し伝道していきたいと思います。

日本的な精神の醸成

先日、聴福庵で暮らしの体験をした高校生に体験して気づいたことを教えてもらうと改めて学び直すことがありました。

「滞在中ずっと季節を感じることができた」とか、「理屈抜きで手間暇をかけるということを肌で感じることできた」とか、「今まで泊まった高級旅館などと比べてどこよりもドキドキワクワクしっぱなしだった」とか、短い滞在時間で思っていた以上に深い体験をしてくれたのが分かり有難い気持ちになりました。

伝統的な日本の家屋には、昔からある日本的な場があります。それを主人の心得として家が喜ぶかどうかを重んじ、かつての暮らしに忠実に温故知新することで「古くても新しい」という境地を産み出すことができるように思います。

現在では、西洋から入ったきたものを新しいと呼びますが本来はかつての日本の文化が温故知新されて進化することで新しいと呼んでいたものです。かつての文化が取って代わられていることは決して新しいのではなく、「すげ代わった」だけで本来の新しいとは今の時代の子どもたちに伝承されその子どもたちがその時代の価値観に合わせて自ら文化を進化成長させるときにはじめて新しいと呼ぶのです。

今では衣食住すべてが、ほとんど西洋のものにすげ代わっています。そして西洋から入ってくるものを新しいと飛びつき経済も発展させているようですが独自の文化で進化させていかなければ本当の意味で世界の中での日本の発展はないと私は思います。

だからこそ、子どもたちには本物を遺し譲り、そこから学び、感性を磨き、伝統的な日本の精神を持ちつつも世界の一流と渡り合えるほどの柔軟性を身に着けて立派なリーダーを育成していく必要があります。そのリーダーになることを私は国際人と呼びます。

国際人はそれぞれの国の文化を正しく伝承し、それをものにして世界と対等に語り合うことができうる人材です。そこには単なる西洋の真似事ばかりで名誉や地位や知識ばかりを持って偉くなることではなく、日本の文化や自然に精通し、真理を語れ実践により実力を磨いている必要があります。

その修練の道場として、古民家と暮らしが教えるものはかけがえないない伝統的な暗黙知であり、その暗黙知を継承することで独自のアイデンティティが醸成されるように思います。

若く瑞々しい感性は、すぐに日本的な精神を取り戻していくという可能性を感じる3日間になりました。引き続き、真摯に子ども第一義の志のためにも暮らしの甦生に正対していきたいと思います。

智慧

昨日は、自然農の田んぼに田植えを無事に終えることができました。もう7年経ちますが、毎回学び直すことが多く自然の奥深さには感じ入ることばかりです。土と水と光、そして風、その空間には人の手間暇が入ることによる場と和、そして間が発生します。

自然の仕組みというのは絶妙で、その時期時期に必要なことが周囲に自然発生するものです。気温ひとつとってみても、生育に必要な温度がそこにあります。私たちはその温度に従い応じて生き物たちの育つための手助けを少しすればいいだけです。

育てているのは自分のように錯覚しますが、実際に育てられているのは自分だと気づく・・・そういう自反自然する境地が自然農の面白さではないかと年々感じます。

私たちは自然の仕組みの中で、学んだことが実際の人生に活かされます。例えば、「待つ」という仕組みもまた他力を活かすという智慧となります。他には、「共生」という仕組みもまた利他により活かされるという智慧になります。

自然には一切嘘偽りもなく加工もなくそこには真理のみ存在します。

その真理に触れることで、自分自身が知識ではなく智慧というものを会得するのです。

自然から学ぶというのは、言い換えれば真理にのみ生きるということでもあります。自然から学んだことを実生活に活かせれば、その真理は人々の間で活かせる智慧となりそれが伝承されることで文化となります。

人類が創始以来より今まで続いてこれたのはこの自然の智慧を習得してきたからです。つまりその自然の智慧の習得があってこそ人類が今から後も地球上で存在し続ける唯一の道だと歴史を鑑みて感じます。

人間は何を師とするか、これは大切な問いのようにおもいます。なぜなら自然から離れた真理を智慧とは呼ばないと私は思っているからです。

引き続き自然に学び、自然から学び直し、子どもたちに大切な智慧をご先祖様たちが学び取ってきたように在るがままに伝承していきたいと思います。

 

福の世

人間の心は、自然にしていればもともと備わっている善良なものがあるといわれます。孟子はそれを「人皆人に忍びざるの心あり」と呼びました。これは人間には忍びないという思いやりの心があるという意味になります。

この忍びないというのはあまり最近では使われなくなりましたが、私の解釈では相手の気持ちになってかわいそうと思いやるときに出てくる言葉です。もしも自分だったらと共感してしまう気持ち、他人事なのに他人事ではなくまるで自分にあったかのように感じる心の中には思いやりが息づいています。

その思いやりの心につながるものとして孟子は四端という言い方をしました。これは「惻隠の心は仁の端なり。羞悪の心は義の端なり。辞譲の心は礼の端なり。是非の心は知の端なり。人に是の四端有り、四體の有るがごとし。」つまり思いやりこそが仁とつながり、不善を恥じることが義とつながり、他人に譲る心が礼とつながり、善悪の見分けがつく心が智とつながっている。つまりは頭・胴・手・足というものが身体にもともと備わっているように人間にはその仁義礼智は備わっているのであるという意味になります。

これが孟子の言う性善説の根本です。

このかわいそうと感じる思いやりはどこからやってくるのか、それは生まれながらにして懐かしい心の中から湧き出てくるものです。生きていればこの世の中にはどうにもならない不幸なことがあります。自然の災害に巻き込まれたり、理不尽な死や病に見舞われることもあります。

そんな時どうにもならないやるせない気持ちとなぜそんな目に遭わなければならないのかと複雑で気の毒に思う気持ちが出てきます。人間にはかわいそうと思う真心が最初から備わっているというのです。

このかわいそうは決して上下や格差の同情のかわいそうという意味ではありません。ここでのかわいそうは、慈愛の心、この世にいのちを創造するものの心とも言えます。

そういう心があるから協力や助け合いがうまれ、より善い循環を行っていこうとする善良な心が働くのです。これらは、現代では科学的にも証明されてきており遺伝子や細胞、その他、生き物たちにはそういう共存共栄して思いやり活き合うという真理が備わっていることが分かってきています。

だからこそ、改めてその四端や仁義礼智の徳を磨き高め世の中にその心が発揮されるような環境を創造していく必要があるように思います。その心が出て来にくい環境とは何か、それは幸不幸ばかりに囚われその中にある福を感じられないことにあるように私は思います。

世界にその思いやりの心を弘げる鍵は「福の世」にこそあります。その真の福世かな社會を創造するためにも一円観、一円対話の実践とその環境の醸成に命を懸けていきたいと思います。