恩返しの実践

人間には自我がありますから見返りを求めようとする感情があるものです。よくあれだけしてあげたのにとか、せっかくこうしたのにとか、この「のに」が文章の最後につくのは自分が相手に何かをした行為に対してその見返りを期待しているからのように思います。

感謝や恩返しの気持ちが薄まればすぐに人間は自我に呑まれていきます。そして権利を主張したり、義務を押し付けたりし合えば残念なのは真心だったものが見返りを貰うためにやってしまったことにすげ代わってしまうことかもしれません。

なぜそのように見返りを求めてしまうのか、それは「恩」といった心を見失うからのように思います。よく報恩感謝という言葉もありますが、感謝している心はいつもいただいた恩に報いようという心とセットです。

つまりは今の自分があるのは、多くの方々が自分を助けてくださり支えてくださり学ばせてくださり育ててくださった御蔭様の恩に包まれていることを自覚し、その頂いた恩を自分のものだけにせずに少しでも多くの方々に恩返ししていきたいという心が見返りを求めない人間にしていくからです。

見返りを求めないというのは、「ただそうしたかったから」や、「いつも自分の方がよくしていただいているから」といった奉仕の気持ちに満ちています。自分を捧げ切る生き方というのは、感謝や恩返しに生きる生き方のことです。

人間は誰しも自分というものがあります、しかし自分のことを愛しすぎればそれは保身や自己中心的になり周囲に迷惑をかけていることも忘れ自分のことばかりを考える人になってしまいます。

礼という言葉がありますが、これは相手や周囲に対する礼だったものが、相手からのお礼を期待したり、交換条件を押し付けたりすればせっかくの恩が恩ではなくなり、それが恨みや仇、敵対する存在に換えてしまいます。

人はいいけれどなぜか敵が多いとか、いつも相手の気分を害して嫌われたり、他人と一緒に仕事ができない人の特徴はこの自我が強く見返りを期待していることが多いように思います。

毎日は今までの恩返しと、見返りを求めずに自分のことを気にせずに誰かのためにと思いやりと真心で生きる人には常に恩恵は降り注ぎます。受け皿がなければその慈雨は受け取れませんから、その受け皿を大きくするしかありません。

その受け皿を大きくするのは、利他の実践、真心の実践、常に恩返しに生きて多くの人たちのために自分を活かしていこうとする生き方の質量によって受け皿は広がるのでしょう。

お皿は何を載せられても文句はありません、ただ只管に載せられたものを大切にするだけです。そのお受けする人生には、一切の文句も不満もなく、いただいたご縁に感謝していくのみです。

ある歳を越えれば自分が周囲の恩恵で活かされていることに実感していくものです。引き続き子どもたちにこのいただいた恩恵が譲っていけるように日々に恩返しを盡していきたいと思います。

おもてなしの本質

「お客様は神様です」という言葉があります。これは商売の間では、一般的にクレームの声や様々なアドバイスや利益をいただけるお客様はまるで神様のようであるというように使われているように思います。

しかしこの言葉を使い広がった起因となった歌手の三波春夫氏は、お客様は神様であるという意味をこう言います。

『歌う時に私は、あたかも神前で祈るときのように、雑念を払って澄み切った心にならなければ完璧な藝をお見せすることはできないと思っております。ですから、お客様を神様とみて、歌を唄うのです。また、演者にとってお客様を歓ばせるということは絶対条件です。だからお客様は絶対者、神様なのです』

しかしこの本意がなかなか伝わらず三波春夫氏は説明に苦慮されたそうです。それが下記の問答の中にも残っています。

『ある時こんな質問を受けたことがあります。「三波さん、お客様はお金をくださるから神様なんですか」と。私はその時その人に聞きました。「じゃああなたは神様からお金や何かをもらったことがありますか。お賽銭を上げてお参りするだけでしょう」』

信仰するということの意味から離れて、個人の損得のみで判断する世の中になっていく中で本来の「神様に対する姿勢」という畏敬の念もまた失われてきたのかもしれません。

この神様に対する姿勢の中で日本民族の代表的な言葉に「おもてなし」があります。広辞苑ではとりなし、つくろい、たしなみ、ふるまい、挙動、態度、待遇 馳走、饗応など書かれます。真心を持って気遣いや心配りをする生き方のことで日本人の徳性の一つです。

このおもてなしは、裏表なしの「おもてなし」とも言われます。裏のないあるがままの純粋な心のままに気を配るということです。ここに私は先ほどの神様が深く関係していると感じるのです。

日本では古来より、神事や御祭において神様を自然の場所から御社へと御迎えして「おもてなし」を行います。供物や神楽をはじめ素直な心で真摯に感謝の念を伝えます。この時、私たちが実践しているのは「神様をもてなす」ことであり、「お客様は神様」になっているのに気づきます。

お客様が神様であるというのは、私たちのご先祖様が常日頃から生活文化の中で「暮らし」を通して自然に実践を積み重ねてきたものであり、世界に誇る真心の接待は神様をお客様として御迎えするなかで伝承されてきた「生きざま」だったのです。

しかし今では、御祭りの意味変わり、個人主義が蔓延し、人間のみを相手にサービスばかりを増やしては満足度を気にしているようでは「お客様は神様」の意味もまた変わってしまうのでしょう。

どれだけ相手を卑下せず尊重して自らの姿勢を正すか、畏敬の念で相手の心に寄り添い丹誠を籠めて真摯に尽力しようとするところにその人たちの目線の丁重さを感じます。低姿勢の人はみんな生き方が謙虚であり、相手のことを慮り思いやる素直な姿勢を持っています。

常に自分の姿勢を省み、全てのいのちを神様だと思いそのお客様に仕える心で生きていきたいと感じます。ご先祖様たちの大切にしてきた暮らしを守っていきたいと思います。

原点回帰とは

今というものを紐解いていくと、それは過去のある時点での決心の延長線にあるものだと気づくものです。今の自分が存在する結果は、かつて蒔いた種が実っているということになります。そしてその種ともいえる動機を初心とも言い、それを原点とも言います。この原点を忘れないままでいると、自分の根がどこに伸びているか、そしてその根がどのように何を吸収しているのかを自分で理解できるようになります。

例えば、自分の根の成長を省みると自分の信念や理念、その初心とつながりそれが困難や苦労によって下へ下へと根が広がっていくのが分かります。そして根は養分を土の中から上へ上へと土壌の水分などを吸い上げていきます。

それが「いのちの成長」でもあります。

私たちは表に出て変化している部分と、表には出ませんが土の中で成長していく部分があります。これは植物で比喩していますが、見た目と内面の変化とも言えます。

原点を持つというのは、この根を深めるということにおいて何よりも重要になります。根を深めるとは、原点回帰をすることであり、何のために自分が今これをやるのか、なぜこれを今やるのかと、常に自分の根を張り巡らせてしっかりとその場所に根付いていくことです。

根無し草や根が弱ければ、ちょっと風が吹いたり嵐がきたり、困難があるとあっという間に吹き飛ばされたり折れたりして枯れてしまいます。そうならないように、その場所に深く根を張ることで困難を成長の糧にし、艱難を持って信念を醸成するのです。

人が自分の根をそうやって深く掘り下げていくように、組織もまた同様にみんなで深く根を掘り下げていきます。そうやって繰り返し、植物たちのように「いのちの廻り」を繰り返しているうちに土壌は発酵し様々ないのちをささえる楽園になっていきます。そこに他のいのちが活かされ、そこはまさに生き物たちのユートピアになるのです。

原点回帰というのは、それぞれが自分の価値観よりも少し大切なものを持つということに似ています。また自分の価値観よりも優先するものを持つということ、言い換えればこれだけは譲れないと思っているものを持っているということです。

この原点を大切に守っていくことが原点回帰であり、時代の変遷の中であっても不易と流行のように変わるものと変わらないものをちゃんと回帰しながら歩んでいくということです。

この「回帰」というのが、初心に帰るという意味であり理念に立脚するという意味です。

引き続き、人間の一人一人が幸せに生きていく社會、やりがいと生きがい、誇りと安心立命できる豊かな社會を目指して、原点回帰の実践を仲間と一緒に取り組んでいきたいと思います。

 

個性を伸ばし、魅力を活かす

人間には誰にしろ欠点というものがあります。言い換えればこれは個性があるということで、その人にしかできないことが外に顕れているということです。

私たちの会社は個性が強い人たちがたくさんいます。みんな最初は今の日本の社会教育の中で揉まれてきていますから自分らしくいることを隠そうとしますが、安心してオープンな風土が醸成されている中に入ると自ずから自分の個性や特性が引き出されていきます。するといろいろな事件が発生してくるものです。

例えば、価値観の相違からくるトラブルであったり、一般的にはないような出来事を突然やったり、ちょっと変人だと思われるような言動があったりと、世間常識から少しずつ逸脱していくのです。

言い換えれば、最初はその人の欠点や短所が次第に出てきます。気になるところが増えていくのはその人の個性が出てくるからです。最初は気になるのは自分が変わらなければならないからで見方の転換時期が近づいてくるからです。そしてその人の持っている美点も同時に引き出されてきてその人のことが丸ごと理解できてくるのです。その時、その人の本当の魅力に出会えます。その人を単体で観て、その人を矯正しようと考えるのならばその欠点はない方がいいように思います。しかしそれをしてしまうと、その人は欠点が消えてきますが同時に美点も消えていきます。

美点も欠点も消えた人には個性がなくなってきます。個性がなくなってくればその人の魅力もなくなってきます。人間は欠点があるから助け合うことができるのであり、美点があるから尊敬し合うことができます。

本来、個人主義で個だけを完璧に仕上げていくという発想は一人で生きていくときのやり方です。しかし協働で協力し合っていくといった共同の中でみんなで生きていくときのやり方は個を完璧にするのではなく、個は完全であるという発想になっていきます。

つまりはその人のままでいい、あるがままのその人を活かすという考え方になっているのです。個がバラバラになって個だけが天才がいても、その天才を活かせる周りの人たちがいなければその才は活かせません。

しかしみんなで力を合わせて才を活かしあえばそれはみんなが天才になったと同じ意味になります。これを協力天才ともいい、集合天才とも言っていいかもしれません。衆知を活かすという考え方は、皆で協力すれば欠点は美点に、短所は長所になるということです。

そのためには、リーダーをはじめ仲間たちがないものを探すのではなく「あるものを活かそう」という哲学を身に着ける必要があります。同時に、自分自身に対してもないものを補おうという発想ではなく、「あるものを伸ばしていこう」という積極的で前向きな生き方への転換がいります。それは利他に生き周囲を活かす生き方に変わるということも意味します。

いつの時代も、物語もロマンも豊かな人生もそれはすべて道と友、仲間との暮らしによって得られます。何を大切にして生きていくか、、、その問は出会いの邂逅や天命の成就によって答えが出てくるものです。

引き続き、子どもたちの憧れる生き方ができるように理念を優先して精進していきたいと思います。

暮らしの本質

世界には様々な民族が生まれ、多様な文化が醸成されてきました。それはその土地や風土に影響を受け、それぞれの歴史を経て発展してきました。日本においても、地域性の中で生まれた風土や様々な人たちが混じり合うことで変化成長を続けてきたとも言えます。

今では宗教や文化などと呼ばれ、特別なもののように差別化されていますが実際には「どのように暮らしてきたか」という民族のシンプルな生き方を示していたのです。

例えば、どのようなものを食べ、どのようなものを着て、どのようなところに住んだかという衣食住をはじめ、何を信じてきたか、どんなものに感謝を持ったか、またどのように育児をしたかなどこれらをひっくるめて「暮らし」を行ってきたのです。

人間は価値観がそれぞれ異なりますから、異なっているものを無理に合わせようとすると衝突が発生するものです。しかし、お互いにどのような暮らしをしてきたかを学び合っていくのならそれは暮らしが豊かになっていくとも言えます。

民族の暮らし方というのは、智慧の宝庫であり、どのように先人たちがこの風土の特性を活かしてそれを生活の中に取り入れてきたかという創意工夫のあり方を示しています。

今では地域や風土につながる暮らしは不便だからと排除し、人間にとってもっとも便利なやり方を同一に行うような社会にしています。機械や道具、電気を使ってどこでも誰でも同じやり方で衣食住を実現しています。そこにはかつてあったような「暮らし」は失われ、先祖が磨き上げてきた自分自身に流れている民族の生き方も感じられにくくなっています。

民族の暮らしが私たちの個性を醸成したのであって、その個性が失われるというのは自分が今までどのように生きてきたかという智慧を失うことです。生き方というのは生きざまであり、例えば感謝して歩み続けてきた先祖の畏敬の念を忘れるというのはそれまで生き残ってきた方法を亡くしていくということと同じなのです。

人は自分の生き方が子孫の生き方になり、自分の生きざまが子孫の生きざまになるのを忘れれば自分のことだけしか考えない人になることもあります。自分が活かされているという実感が生の喜びであり、その生により周囲を活かそうとすることではじめて「生活」は成り立ちます。この生の実践こそが生業であり、その生業を実現することが生活そのものになるのでしょう。

自分自身の生活を見直すことが民族の誇りを取り戻すことになるのでしょう。子どもたちのためにも暮らしを見直していきたいと思います。

時間の使い方~志間~

昨日、長年一緒に歩んできた理念の同志の志を確認するご縁がありました。改めて深く聴き直してみると、この期間どのような生き方を目指してどのような生きざまがあったかという時の変遷です。

人間は時間は等しく同様に与えられ過ぎ去っていきますが、その時間をどのように使ってきたかはその人の生き方で決まります。時間が同じであってもその人の時間はその人の人生になるからです。言い換えるのなら時間とは命のある時の間、生まれてから死ぬまでの寿命のことです。

そしてその時間を自分の為だけに使う人と、世の中や人の為に使う人がいます。同志は自分のことよりも誰かのため、他人のため、世の中のためにと使い切って歩んでいました。自分を捧げ切るという生き方は、頂いた命を捧げ切るという生き方でもあります。そしてそれは自分を生き切る、命を生き切るという生き方にもなってきます。

命の使い方をどのようにするかと決心することが覚悟の価値であり、その決心したままに生きることで実践が積まれ本物になっていくように思います。ここでの本物とは、素直なままの自分、あるがままの自分、天命のままの自分になるという意味です。

人は我執が強くなり、自利ばかりに傾くと天命に気づかなくなっていくものです。そして天命は自分の与えられた時間でもありますからその時間を「何のために使うのか」という自問自答は、自分の一度しかない人生を生きる上で何よりも大切なことのように私は思います。

そしてその人生をどう生きるかどうかを決める出会いや邂逅がその人にあったというのは、その人が幸運に恵まれているとうことでもあります。そしてどんな人が幸運に恵まれるかというのは、道を求め感謝の心を忘れずに素直に謙虚になろうと決めた人のようにも思います。

人間は自分の物事の受け止め方が歪んでしまうと、一つひとつの出会いを大切にできないように思います。出会いを大切にする人は、物事から逃げようとせず、避けようとせず、誤魔化そうとせず、言い訳しようとせず、ただただその出会いに感謝します。そしてその出会いに感謝できている人はそれを恩とし、その恩に感謝しその恩を自分もお返ししたいと思うようになります。

こういう生き方の態度が決まっている人は、自ずから幸運を味方につけていきます。それは周りから活かされていることを知り、その活かしてくださっている周りを活かそうと自然の流れに逆らわないからです。つまり幸運とは好循環する自然の摂理に適ってきたということでもあります。

自然の摂理に対して、自然に反して自分の方にひきよせようとすればするほどに問題が起きます。自分のことばかりを考えて自分の心配ばかりしていては不自然になります。もっと周りのために自分を活かそうとすることが自分自身のいのちを大切に使っていくことになるのです。畢竟、人間は己に克つことが肝要で日々に我執に吞まれないように、どのように時間を使っていくのかの積み重ねが最期の自分の人生を創るということなのでしょう。

同志の生き方や生きざまに勇気がもらえ元気になります。引き続き私も自分の理想とする生き方に近づいていけるようにあるがままの自分を丸ごと認め、日々の小さな心がけと志間の積み重ねを継続していきたいと思います。

機嫌好く

人には「機嫌」というものがあります。これは表情や態度に現れる自分の感情であり、その感情の良し悪し、気分の良し悪しで機嫌が分かれていきます。この機嫌というものは、自分で自覚できるものでありその機嫌をどのようにするかは自分次第で調整していくものです。

これは体の健康と同じで、調子が良い悪いはいつも出てきますからいつも体調が良い状態に維持するように努めるのは自分自身の自覚と日ごろの努力に由ります。そして自分にとって良い状態とは、悪い中でも最善を尽くしていくことや、好循環になるように気を配り続けることでもあります。

この機嫌というものは、心や精神の健康のことをいいいつも機嫌が好い人は心が健康であるということでもあります。さらには主体性が出ている人や積極的に楽観的な精神を持っている人は魂が健康であるとも言えます。日々に健康に過ごすというのは、常に自分の状態を好循環する方、言い換えれば機嫌を善くしていくことで実現するのです。

かつて中心社の常岡一郎さんがこういう言葉を遺しておられます。

「機嫌のよい心には弾力がある。 機嫌のよい時は、おい隣村まで行ってくれないか
と言われても、「よし」とすぐ引き受け、すぐ走り出せる。 機嫌の悪いときは、なにもかもおっくうになり、 重苦しく感じる。 すべての人間はいつでも、どこでも自分の心の責任者である。 心に明るさをたたえた、機嫌のよさを失ってはならない。 これを失えば人生の旅はすぐ疲れる。 それが不幸や不運や病の原因となる 。」

常岡さんはこの機嫌の好いことを「心の弾力」といいます。これを言い換えれば「植物の新芽」であるといいます。常岡さんはこれを「伸びる力」であるといいます。

そして伸びるものはやわかいといいます。

「育つもの。伸びるもの。生命おどるもの。それは常にやわらかさを失ってはならぬ。固まったら伸びない。我執は人間を堅くする。偏狭は人間の明るさを失わせる。草や木も、やわらかな間にのびる。やさしい新芽から伸びる。堅くなったら伸びることが止まる。人の心もそうである。」(常岡一郎一日一言」(致知出版社)より

自分の心の責任者は自分という言葉、これはとても大切なことだと思います。誰のせいでもなく、言い訳もしない、如何に自分自身が感情を大切にし疲れないように手入れをするかは日ごろの心がけに由ります。

いつもニコニコ機嫌よく、穏やかで明るい人は、皆から安心され信頼されるだけでなく関わる人たちを元気にしていきます。好循環をつくりだす人はみんな運が好い人であり、そういう幸運の人の周りには幸運が集まってきます。

「ご機嫌いかがですか?」というあの挨拶は、心の健康はどうですかという挨拶です。他人と会うときにはまずは自分の機嫌を自覚し、いつも快活に元気に健康に日々に感謝の念と謙虚な反省の気持ち、そして素直な実践をもって自分を磨いていきたいと感じます。

最後に常岡一郎さんの言葉で締めくくります。

「あなたはいつも上機嫌ですか、こう突っ込まれてにっこりほほ笑むことの出来る人になる。これが他人の心に明るさを与える資格だと思う。」

子どもの周囲に思いやりを運ぶ仕事をする私たちだからこそ、働き方や生き方、その機嫌の在り方が大事だと思います。子どもたちのためにも、機嫌好く笑いの絶えない現場を創造していきたいと思います。

あるがままの自分

人は自分自身をどのように受け入れているかによって、他者への態度が決まってくるものです。自分というものに期待し過ぎたり、自分というものを卑下しすぎたりする態度は、周囲の人へも同じように接してしまうからです。

あるがままの自分を受け容れるというのは、あるがままの自分で善いと思えること。そこには自信が必要で、その自信は等身大の自分自身を受け容れるところからはじまるように思います。

例えば、理想が高いと自分は本当はまだできるはずだといつも無理をしようとします。また反対に、自分はできないと不安を抱えていると同様に無理をしてしまいます。これはどちらも「本当はこんなはずではない」という自分が描いている自分像とかけ離れるときに起きる執着の一つのようにも思います。

過信と自信は異なり、過信はそうであってほしいという自分の欲望が変化したものです。自信は謙虚で素直な心の態度であり、自分自身を深く慎み受け止め、いただいているご縁に感謝して自らを少しでも高めていこうとするものです。

ごう慢さというのは、自分がこれでいい、間違っていないという自分の思い込みを優先し他人の話に耳を傾けないところから発生してきます。これであっているはずと過信して取り組むことは周りに迷惑をひどくかけとても乱暴なことです。しかし自分がひょっとしたら間違っているかもしれないと、常に周囲への配慮、耳を傾け謙虚に自分自身のままで学び続けている人は本当の自信を持っています。

結局は、自信を持つとは自分のままでいられることであり、あるがままの自分を受け止めそれを肯定して認め、同様に他者を認め無理をせずに自然体でいることのように思います。そのうえで、自分自身を自覚し周囲への配慮を忘れないということです。

不自然な姿が周りに不自然を作り出し、本来の自分ではない姿が周りに警戒心を与えたりするものです。自分以上のことは出せないし、自分自身であることが周囲への安心感を与えるのだからもっと自信をもって自分自身と対話し向き合い受け止めていくことを大切にしていきたいと思います。

引き続き、子どもの純粋な心を見守れる大人になるようにあるがままの自分を自覚し他者を認め自然体に近づいていきたいと思います。

思いは実現する

人は「思い」を持つことで、心が顕れてくるものです。「思いは実現する」といいますが、それが本心からの思いかどうか、その思いが如何に澄んでいるかどうかがその思いの実現に向けたプロセスに現れてくるように思うのです。

京セラの稲盛和夫さんは、「思い」を大切にされた方です。以前、何かの著書を拝読したときに「思う」ことの大切さを松下幸之助さんの講演で教わったとあります。それから毎日、社員の皆に「思う」ことの大切さを説き一緒に夢の実現に向かって邁進したとありました。

その稲盛さんはこう言います。

「私が創業した京セラは、もともとは中小零細企業です。私は、社員が希望を持てる会社にしたいという一心でやってきました。それには何が大事かというと「思い」です。それも非常に強い思いが必要になる。」

「人生は、心の中で強く思ったことが原因となり、その結果が現実となって表れる。だから考える内容が大切で、その思念に悪いものを混ぜてはいけない。」

「「思う」ということは、人間のすべての行動の源となっている。経営者が何かを強く心に「思う」と、まさにそのことが実現していく。」

「思いが人生を形作ります。現在の自らの状況は、その人が思い続けてきた結果です。現状に満足していなくても、それはその人の思いの集積なのです。」

この稲盛さんが言う「思い」とは、単に考えるというものではないことはすぐにわかります。明らかに覚悟が異なり、自分がそう決めたという決心のことであり、その決心の維持のことです。

言い換えるのなら「揺るがない思い」とも言えます。何度も何度も揺るぎそうな自分に打ち克って揺るがない自分を持つようになる。どんなに環境が変化しようが、どんな条件が発生しようが、一つのことを透徹するまでに「思い」続ける。この集中力があってはじめて物事が成形されてくるということのように思います。

そこには自我からの慢心などはなく、非常に素直に謙虚に物事に正対して思い邪なしの透明な心で理念や理想を念じ続けなければならないように思います。人間は「思い」にどうしても私利私欲が入ろうとしますからそれが入らないように常に手入れを行い清浄に掃除を続けていく必要があると感じます。

「動機善なりか、私心なかりしか」

稲盛さんは常にその言葉を自分に問いかけ「思い」を磨き続けおられたそうです。私でいえば、「御恩を感じているか、御蔭様が観えているか」という問いと同じです。

私は稲盛さんの言うこの「思い」に心から共感し、そこにはとても美しい日本人としての魂を感じます。

最後に稲盛さんの言葉で締めくくります。

「思いは必ず実現する。それは、人が「どうしてもこうありたい」と強く願えば、その思いが必ずその人の行動となって現れ、実現する方向に自ずから向かうからです。」

初心伝承の志を実践し、その志のままに生きるべく今日も精進していきたいと思います。

甦定義の実践

郷里の古民家甦生を手掛けながら色々と思うのは価値の甦定義です。もともと今まであった価値をもう一度、それを新たな価値に磨き直す。これが私の考える甦生方法です。例えば古くなったものをもう一度今の時代ならと逆手にとってそれを善いものへと転換するという具合です。

私の郷里は石炭産業で興隆を究め、石油の出現と共にあっという間に衰退しました。もっと以前には参勤交代の宿場町として栄え、それが終われば衰えました。さらに前には古墳群があるように肥沃な河川の周辺の土地を活かし、作物を育て神楽、獅子舞など神幸文化を発展させました。

しかしよく歴史を観察してみると、衰退したからと滅んだのではなく今でもこの土地で幾度も興亡を繰り返しつつ何度も時代を経ては新たな価値を創出して甦っていることに気づきます。

その時代を生きているものは、今の状況しか見えないことが多いのでしょうが実際は長い目で観れば何度も甦生してその土地でドラマが発生してくるのです。時間の特異点を超えてしまえば今まであったことは全く別のものへと変化する。これが価値を新しく甦定義することなのです。

実際に古くなっているのは自分の感性や感覚の方であり、視点を換えて常識を破ればまったく新しい価値は出てきます。それを温故知新や復古創新とも言いますが、甦定義してしまうのです。

ドイツの詩人ゲーテに「我々は常に変化し、甦生し、若返らなければならない。 さもないと凝り固まってしまう。」という言葉があります。この凝り固まるというのは、思想や思考に限界ができることでそのことで二進も三進も行かなくなります。

挑戦するというのは、変化や甦生、若返るためでもあり自分が凝り固まらないための創意工夫の実践とも言えます。自分の限界を自分が設けては、旧習の自分のままで何もしないのでは環境の中で自分が先に衰退していきます。だからこそ、挑戦し自分の価値を新たに発掘し、その価値を甦定義し続けていくことが時代の魁になっていくことです。

ある時は大バカ者と呼ばれ、ある時は変人と呼ばれ、またある時はこだわりの強い人と呼ばれ、またある時は狂った人と言われる。

そういう人でなければ変化は起こせず、あるいはそういう人でなければ時代の特異点を発生させることはできません。

私の地域のへの恩返しは、この甦定義の実践に懸っています。引き続き、未来の子どもたちのためにも新しくした甦生した価値を実現し、故郷と共に生きることの素晴らしさを伝承していきたいと思います。