今を生き切る

過去をひきずるタイプというものがあります。いつまでも過去の自分のことや、嫌だったことを思い出しては今の自分のことを認めることができない人のことです。人は誰しも過去があるのは、その時々で体験して今があるからですが今を生きないための材料になってはもったいないように思います。

日々というのは、毎日新しくなっていきます。当然、同時に人もまた新しくなります。その新しいというのは、過去ではなく今のことであり、新しい日々を生きるというのは、今を生きるということです。

自分を刷新していくのは、今に生き切るということで今に全身全霊を懸けているということです。過去をひきずる人は、過去の自分と比較し、過去の自分と競争し、過去の自分のことを忘れられません。例えばそれは決して過去の嫌なことだけではなく、過去の栄光や過去の成功など、自分がもっともよかった時代をいつまでも忘れないなどもそうです。バブルの頃を忘れられないや、自分が偉かった時代のことをいつまでも話したりします。

本来、私たちが生きているのは過去ではなく「現在」であり今だけです。この今此処だけに全力で盡していくことで比較の刷り込みが拭い去れ過去がすべて過去を含んだ「今」に転換されていきます。そして今があることが過去の御蔭様であることに気付ける生き方をしているのです。そういう今がある人たちは、すべてのご縁に感謝できるようになります。この今には、その人の生き方が出ているのです。

どんな人も「今を生き切る」というのは、一期一会の大切な自分の人生を生きていくための自戒だと思います。

色々なことがあったとしても、今があるのだからこの今に合わせて自分の方を換えていくことを変化といい、そして今に近づき合致していけばいくほどに成長したといいます。過去の自分と比較しての成長は成長ではなく、変化とも言いません。私たちが生きているのはこの今だけだからこそ、今どうありたいか、今の自分そのものを丸ごと認めていくことが今を感じることです。そうやって今に生き切るのなら今が仕合せになり、今の自分は変化し続けることになります。

誰しも変わらないでほしいと願うこともあります、しかし宇宙、地球、すべては万物流転し循環を已みませんから止まることはありません。自分から今を感じて生きているときだけ、その流れの中で万物の御縁と一緒に生きることになります。

まずは今の自分が好きになれるよう、今の自分が仕合せだと感じられるよう「今を生き切る」ことを大切にしていきたいと思います。

真の協力

昨日は、ある高校1年生のクラスの一円対話を見学する機会がありました。4月から関わり始め見守っていますが、あれから9か月ほど経ちそれぞれに背が高くなり、顔つきや様子も大人っぽくなり、著しく成長していく速さに驚くばかりです。

いまではとても仲が善くなり、とても素晴らしい場がクラスの中に発生しています。その一円対話に参加していると、如何にそれぞれがお互いに協力して助け合っているかの日常が伝わってくるのです。

世間ではよく仲が良いという言葉を使います。先日、別の学校でもうちのクラスは仲がいいととか、うちの職場が仲がいいとか聴きましたが実際に入り込んで個人面談をするとまったく正反対だったりします。そこでは、表面上問題が起きないように仲が悪くならないようにしているだけで決して協力したり助け合ったりを自然に行っているわけではないのです。

私が思う仲が良いとは「協力する風土ができている」ということです。それぞれが自分らしい自分であることを保障され、チーム全体やクラス全体のためにいつも心を開き、主体的に支え合い助け合いをしたいと思ってそれが自然体で行われている状態のことです。

しかし実際には、ほとんどの組織においてみんな自分のことばかりを考え、周りへの配慮が欠け、個々がバラバラに好き勝手になっているところがほとんどです。そして協力しなければ責任問題になるというような状況をつくり、手伝わないといけない状況になっているだけでそれを仲が良いと思い込ませたりしようとしています。

責任を押し付けたり立場を分けたり、罰則を与えたりする中での協力などは協力という言葉を使ってはならず、本来の協力の意味とは大きく異なっています。誰かによって操作された協力などは協力という言葉ではなく、それは協力風に見せかけても真の協力ではないからです。

真の協力とは、それぞれの人生を尊重しつつお互いに目的や理念に対して真摯に正対し、同時に一緒に生きていく仲間なのだから助け合い支え合い歩んでいこう、また思いやりの社會のために自ら参画するときにこそ発生すると私は思います。つまりは、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」が実現しているということです。

だからこそ、常に主体的に自ら選択して理念を共有していくことを一人一人が実現していく必要があります。また全体が一人ひとりの人生を見守るためにも、目的を定めその目的が実現できるような環境をみんなで一緒に創造していく必要があるのです。自分の使命を自らが自覚して自分の人生に責任を持つのです。

子どものころから、子ども同士の中で子どもたちはお互いを認め合い支え合い生きていくことを学びます。言い換えれば人間社會を学びます。どんな人間社會にしていくかは、今の子どもたちの様子がそのまま将来の社會になります。今はいじめや不登校、その他、悲惨なことが学校でも起きていますが将来安心した豊かな人間社會を実現できるように私たち大人がまずそのお手本を示し、協力する風土を醸成していきたいと思います。

一人一人が幸福な人生を味わえるように、引き続き理念の実践を通じて人間の持っている徳を伸ばし、善心を引き出せるように聴福人の実践を高めていきたいと思います。

 

人

人は人に魅力を感じるのは、その人の根底にあるものに惹かれるからです。例えば、その人の人間性、義理堅さ、また信念、人柄、人格、生きざまや生き方など、つまり私たちは「人」をみて自分が一緒に着いていくかどうかを判断しているものです。人を観るとき、自分は自分の中にある大切にしているものを観ています。自分の中にある大切なものをその人も持っていてそこに共感するものがあるからこそお互いの存在価値を認め合えるのです。

昔、ずっと若いころ私は人が自分に着いてくるのは自分の能力が高く、才能があるから従ってくれていると思っていた時がありました。自分の存在価値は、自分が誰よりも周りの人と比較して能力が高く結果を出しているから人が着き従うのだろうと思っていたのです。その頃は、自分のできるところや能力の高さを周囲に認めさせようと躍起になり、失敗を隠し、できない自分を見せないようにし、完璧な存在であるように振舞っていました。さらには組織において人が言うことをきいてくれるのは、自分には立場や肩書があるからだろうと仮初の自分を構築してはその立場や肩書通りであるように演じていました。

他者評価ばかりを気にして、周りが着いてくるような人になろうとしていて頑張っていると次第に、周りが自分の何を認めてくれているのが分からなくなっていきます。自分に自信があるのならいいのですが、実際の社会では比較、競争、争い、評価と日々にそういう圧力の中に存在しますから周りの声が怖くて自分の自信が持てなくなっていきます。自信がなくコンプレックスばかりが増えれば増えるほど、より能力ばかりを頼ってしまうのです。そして能力が高まれば高まるほどに反比例して自分の存在価値の自信がなくなっていくのです。さらに悪いことに能力だけで人を判断する物差しが強くなればなるほどに、他人の評価も能力ばかりを重視するようになっていきます。言い換えれば、その人ができる人かできない人か、能力があるかないかを基準に見るようになるのです。そうしてしまうと、大きな勘違いがはじまり「人」を観なくなっていきます。人を観なくなり能力だけになればもはやその人は、単なる道具や機械のようになっていくのです。こんな人には誰も着いていきたいとは思わなくなります。なぜなら人と人にならないからです。

人間は人格や能力は生きていく上でどちらも欠かせません。それがバランスよく成熟するためには、お互いに理念を共有し理念を中心にしてそのどちらも磨き上げ、人格と能力を高め続けなければなりません。今、たとえ人格が追いついていなくても年を積み重ねて経験を糧に精進していけばそのうち人格は成熟していきます。能力もまた然りで、鍛錬していけばその能力もそのうち成熟し成果も出てくるのです。

だからこそ、すぐに完璧を求めるのではなくもともと完全であることを自覚し、人間はお互いに同じ目的を握り合って弱い自分、できない自分、人格的に未熟である自分を認め合い、互いに助け合って支え合っていくなかにこそ「人」である価値があるのです。

人がもしも「人」を観て選ぶのなら、その人は必ず時間の経過と共に成長し成熟していきます。その紆余曲折のプロセスこそが豊かなことであり、そういう豊かさを一緒に味わえるからこそ人生で出会える仲間や同志の醍醐味もまたでてくるのです。

人間の夢や志は、その豊かさを味わえるためにあるといっても過言ではありません。人が生きていくというのは、仕合せになることであり、仕合せになるというのは「人」になることであり、それが「人生」の幸福になるのです。人生の幸福は心の豊かさを得ることですから、人としてお互いに認め合うことが私たちの大切な人生目録なのです。

今から未来の人々の人生を豊かにしていくためにも、人の魅力に気づかせて人の魅力を引き出せる生き方をしていきたいと思います。子どもたちの憧れるような人を目指していきたいと思います。

今変化人

人は過去の認識で今を持つものです。しかし今の認識が過去になっているのなら、自分の修正は過去に対しての今になるはずです。本来の今とは過去に対しての今ではなく、今に対しての過去でなければなりません。この認識がズレてしまうといつまでも変わらない時代遅れの人になってしまうこともあるのです。

過去の成功体験などもその一例で人間はその過去の成功体験に基づき、その成功体験から物事を考えてしまえば今の認識が歪んでいきます。時代が変わっているのにかかわらず、その時代の変わっている認識が昔のままでは自分の対処法も変わっていくからです。

例えば、今では情報化社会になっているのだから昔のようにアナログ電話などはほとんど使われていない時代になっています。それなのにアナログ電話の時のような機能や考え方で今の新しい時代のスマートフォンの機能を考えるのは過去の産物にしばられて自由に発想することができなくなるものです。

つまり過去の産物から考えるのではなく、今の時代の産物から物事を想定していくと今の認識が持てるようになるのです。教育であっても同じで、かつての一斉に画一的に教え込むといった情報処理能力ばかりを高めていた時代から今はアクティブラーニングといって情報創造能力を高める時代に入っているとします。そうであれば、過去の教育を基準に考えて今を修正するのではなく、今の変化済みの社会に合わせて今を修正していくといいのです。言い換えるのなら、今の社會と子どもたちがすでにアクティブラーニングになっているのだから変えるべきは過去の教育であるとして過去の分を修正していけばいいのです。

それは過去から今を修正するのではなく、今から過去を修正するという発想です。

こうやって今の自分を刷新できる人だけが、正しく今を集積してその今の上にある未来を豊かに創造していくことができます。今ここに集中するというのは、過去から考えない、今から過去と未来を修正するという発想が必要なのです。

時代は何度でもこのブラッシュアップを人々に求めてきますから、変化し続ける人であるためにもこの部分の認識をゆがめないようにしたいと思います。今を創り続ける今変化人になっていきたいと思います。

 

イニシアティブチャレンジャー

昨日、チームのことを書きましたが人がチームを形成するときに何が邪魔して協力することがスムーズにできないかはそれは個々の意識の問題でもあります。そもそも個人というものとチームというものを対立して考えてみると、個人から見たチーム観、チームから見た個人観というものがあるように思います。

例えば、個人から見たチーム観であればまずは自分ができるようにならなければならない。チームの足を引っ張るわけにはならないといいながら自分の方に意識を向けていくものです。しかしチーム観から見た個人でいえば、誰がやってもいい得意な人がみんなをリードしていけばいということになります。つまりはせっかくチームなのだら色々な人があるのだからこの分野は誰、この分野は自分というように全体の中で興味があったり自分が向いていたり、持ち味を活かせるのならチーム内の誰かがイニシアティブをとっていけばいいのです。

しかし実際の組織を見るとそうやってチーム観で動くのではなく、自分がやっていないと思われたらどうしようかと誰も手を上げず周りに迷惑をかけないようにと誰もイニシアティブをとろうとはしないものです。これは、もしも自分が責任問題を発生させたらどうしようかとか、自分だけできなかったらどうしようかとか、ここにも平均を最良とする刷り込みが入り込んでいるように思います。

「イニシアティブ」というのは、翻訳すれば「自発力・先導力・率先・発案・先制・主導」という意味になります。つまりは、自発的に自分からやろうとする人であり、全体の中で自分がやったほうがいいと自分から挑戦する人のことを言います。

これは決して管理型組織においての上司や管理職のことを言うのではありません。自らが率先垂範して取り組んで形にしていく、仕事であれば仕事の組み立て方を構築したり、ノウハウを具現化したり、周りの仲間が安心して取り組めるようにまずは自分から場数を踏んで挑戦してその使命を果たそうとする人です。

その時、周りはその人が向いていると思えばその人を信頼して任せ、自分は自分がチームの中で得意を活かせるところに活かされればいいとして貢献できるチャンスを待てばいいのです。

さらに応用ができるのなら、この件は誰と誰が組んだ方がいいかや、イニシアティブを一緒に取れるパートナーとペアで組んだ方がいいなどプロジェクトに発展していくように思います。

よく考えてみればすぐにわかることですが、自分がやるよりもチームでやった方が効果があるだけではなくその楽しみや豊かさがあります。これはわざと全員で取り組んでいるように見せることにエネルギーを費やしてチーム風にするのではなく、イニシアティブをそれぞれ全員が取っていくということでチームになっていくことです。

一家宣言をしていても、まだまだ仕事を通してのリハビリが必要になります。常に日々に課題があればイニシアティブをとって前進していくチャレンジャーが状況を変化させていきます。今までの牽引したり纏めたりするリーダーではなく、これからは人々の持ち味を活かし一緒に豊にしていく「イニシアティブチャレンジャー」こそが、新しい時代のチームを創造していくのでしょう。

引き続き、歪んだ個人主義の刷り込みや平均ばかりを押し付けてきた価値観を見つめながら子どもたちに豊かさを弘めつつその打開の仕組みを構築していきたいと思います。

チーム

一人ひとりの持ち味を活かしていくチームというのは、それぞれの個性を認め合う組織であるとも言えます。それは言い換えるのなら、そのままでいい、あるがままの自分のままに周りに役に立っていくということを言います。そのためには、全体がお互いに自分のままでいいという考え方を持てる必要があります。

昨日、藤森代表の講演の中で平等についての話がありました。それはそれぞれの生き方を認めることであるといいました。今の世の中は、生き方まで文句をつけてはそれを無理やり直そうとしたり、みんなと同じことをできるようにさせようとします。また個性があるにも関わらず、個性を潰したり、個性をなくさせたりします。しかしそれでは平等でいられなくなってきます。

自分が相手に与える平等ではなく、受け手がどれだけ平等だと感じるか。そこにはお互いに生き方を認め合い、その生き方を保障してあげるような思いやりが必要になります。またチームにおいては、それぞれがお互いの特性を活かしあっていくからこそ同じことをさせようではなくお互いの持ち味を出し合っていこうということになるのです。

個々がバラバラであることがダメだとなるのは、その根底には同じ価値観を持たせることや同じでなければならない、できるできないで差別したり、自分が正しいと思い込んで他人を否定したりといった不平等が存在するのです。受け手の平等というのは、受け手が自分が認められている、自分が活かされていると感じられるように自分自身が全体に役に立てていると自信を持つからもてるように思います。

自分への自信とは、存在に対する自信です。周囲がその人の存在を丸ごと認めているからこそチームというものが実現します。そのためにも、皆で一緒に一つの目的に向かって取り組んでいたり、理念をみんなで実践して互いの価値観を認め合うような日々の取り組みがいるのです。

引き続き、自分たちの生き方と働き方をみてもらいつつ、子どもたちの保育に活かしていただけるように精進していきたいと思います。

自分とは何か

人は自己認識というものをどのように持っているかで自分というものの理解が異なってくるものです。今の自分を丸ごと認めている人は、自分にこだわりませんが自分の何かをいつまでも認めない人は今の自分のことがわからなくなるものです。

今の自分とは何かということです。

今の自分というのは、過去のある時の自分や、誰から評価されていたときの自分、自分の理想の自分など色々とあります。自己中心的な人ほど、自分というものを自分で設定する傾向が強く、またその自分像を周りに押し付けていくものです。しかし本来の自分というものは、今に徹することで顕現するものであり今、此処のすべてを自分だと感じない限りは本当の自分に出会えることがありません。つまりは自分は変わり続けていることを自覚できるということです。

人には思いがありますが、その思いがこだわりすぎるとその思いが真実をゆがめていくことがあるのです。

小林正観さんの著書「豊かな心豊かな暮らし」(廣済堂出版)にこういう言葉があります。

「自分の思いを持たなければ、生きることはそんなに大変ではありません。流れていくままに、流されていく生き方でいいのではないかと思います。」

よく思いを持てとかいう自己啓発本は出ていますが、この思いを勘違いしている人が多いように思います。ここでの思いは執着ですが、いつまでも自分にこだわると変化ができなくなるよということです。それよりも今の自分が置かれた環境で変わり続けている自分を認識できるかということです。そのためには、門前の小僧習わぬ経を読むの心境でなんでも新人になったつもりで挑戦し続けていくしかありません。小林正観さんはこう言います。

「自分でわからないことについては、とりあえず、「わかりました」と言って引き受けてみる。出来なかったら、「出来ませんでした。ごめんなさい」と謝る。そういう素直な自然体の心で生きていけばいいと思うのです。 思いを持てば持つほど、重くなります。思いが重いのです。」

この素直で自然体な心、それが今の自分を認識する唯一の方法なのです。素直になるというのは、自分勝手な執着を持たずに今の境遇に感謝して仕合せになるということです。こんなはずではないとかこんなはずではなかったとか、思い通りにいったとかいっていないとか、いつまでも自分に執着して今の自分を受け止めず受け容れないような心の態度ではその人は変わることができないのです。

変わるというのは、変わり続けている状態を言い、周りに役立てる自分、周りに活かされている自分、そして周りに感謝している自分になっていくことです。そのためには具体的な実践として「なんでもやらせていただきます」という今に対する生き方の覚悟がいります。これは自分の仕事ではないとか、これは自分には相応しくないとか、やりたくないとか、そういう自分の思いを持ってしまえば身体も心も重たくなります。そして次第に動けなくなって、そのうち周囲に心を開かずに閉じこもって病気になります。

そうではなく、変わり続けている今をたのしみ、どんな自分が本当の自分だろうかと今の自分を丸ごと味わい学び続けるとき、人は自分の本心と対話し、自分自身になっていくように私は思います。機会を活かす人はご縁に活かされるからです。

幼いころから誰かの目線を気にして嫌われないように演じたり、または評価されては比較され競わされ争ってきたり、または歪んだ愛情を押し付けられ条件で愛されようとしたりと自分が素直に自然体でいられなかったことがあったことで今が受け止められない人がいることも共感できます。

しかしいつまでもそんな日々は続くわけではなく、人は今を受け止めて受け容れて今を100パーセント愛していくことで未来も過去も許し認められるようになりますから執着を手放してみて身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれと一度握っている自分を手放してみれば新たに観えてくる境地もあると私は思います。

同じように苦しんでいる人たちが沢山いて、その人たちが自分らしく生きていくためにも自分の方がさらりと変わっていく生き方が自他を素直に正直にしていくようにも思います。

引き続き子どもたちのためにも、今ここを楽しみ味わう生き方を実践していきたいと思います。

 

自然のセンス

日々に鉄瓶でお茶を沸かして飲んでいる炭実践をしている中で火について色々と深まってきています。火といっても一概に火とは呼べず、蝋燭の火、ガスの火、灯油の火、薪の火、炭の火、炭の火の中でも木炭、石炭、備長炭、竹炭などどの火も同じ火は一切ありません。さらに言うならその時の湿度や空気、季節やタイミングなどでも火は変わってきます。

火と一括りにして火と呼びますがこのような感覚が人間本来のセンスを鈍らせているようにも思います。同様に、空も水も同じものは一つもありません。無限に組み合わせがあり、同じものがないのに人はそれをただの空と呼び、それを水と呼びます。

頭や知識は、その物体を認識するために文字や言葉にして分類分けましたが実際は分類分けなどがまったく意味をなさないのが自然なのです。

火はその揺らぎ熱さ、温度、見た目、範囲、容、光、燃焼具合、燃える素材、燃える環境によってその火の姿が変わります。例えば、ガスの火はとても強く炭の人はまったく異なり近づくとトゲトゲします。石油の火はもっと強くトゲトゲしてまるで尖った岩山のように差し込んできます。

それとは逆に天然の植物油や、もしくは炭などはほんわかする軟らかく弱い火が出ています。特に備長炭などは周りを包み込んでくるような春の日差しのようなぬくもりが出てきます。

人間は感覚を研ぎ澄ませていけば、火は単なる火ではなくなり同様に水も空も単なる水や空ではなくなるということです。どれくらいのセンスで日常を過ごしているか、今は頭でっかちになってやれスケジュール管理だの、やれ衛生管理など、栄養管理など、人間の思いどおりにするように先ほどの分類された知識をフル稼働していますが本来の自然科学というものはそのセンスが前提にあっての科学であったはずです。人間主導の科学は理に適うこともなく本来の道理から反してしまい本末転倒です。

センスなき科学というものは、どこか限られた狭い世界のみで通用する知識のように私は感じます。センスは自然ですから、センスのセンサーを高めていくことで自ずから自然の科学は身につくように思います。

引き続き、五感、六感、いやすべての感覚を研ぎ澄ませ子どもたちのために今を見つめていきたいと思います。

和ろうそくの心

日本の伝統に和ろうそくというものがあります。和ろうそくが持つ「あかり」は懐かしく今でも暗闇に照らせば心が和みます。このあかりは60万年前から使われていたといわれますが、日本で和ろうそくがはじまったのは奈良時代に中国からはちみつを用いた「蜜ろう」というものが入ってきたことからです。その後、平安時代には松脂を使ったろうそくが開発され、その後室町時代から現在まで櫨(はぜ)の実を使ったものが和ろうそくの代表となっています。

手作りでしかつくれず原料も天然のものを利用した和ろうそくは高級品であり、庶民には手がなかなか出せず菜種油を使う家庭が多かったといいます。しかし明治時代になると、洋ろうそくが急速に普及し各家庭にろうそくが広がりました。今では電気が普及しほとんどろうそくは日常の生活から消えてしまっていますが、改めて和ろうそくの価値が見直されてきているとも言います。

和ろうそくと洋ろうそくの違いは、同じろうそくと言っても原料を含めてすべてが異なります。例えば、和ろうそくは世界の中で日本にしか存在しない天然の櫨の実の原料に対し、洋ろうそくは石油系のパラフィンという原料です。ろうそくの芯も、い草の髄から取れる燈芯を使うのに対して洋ろうそくは糸を使います。最も異なるのは、和ろうそくは手作りで一本一本作るのに対して反対に洋ろうそくは機械で大量生産することができます。そこからわかるように金額も和ろうそくは高価で洋ろうそくは安価です。

肝心なあかりはどうかと言えば、灯せばすぐにわかりますが暗闇を包み込むようなあかり、そして情緒がある揺らぎ、また炎の落ち着いた柔らかい様、そのほのかに燃えていくときの優しい音、和紙の燻る薫り、そのどれもが和の風情を醸し出します。

いつも私はこの和ろうそくを観るとき、いのちを完全に燃焼し尽くしてあかりの余韻を空間に遺すこの存在に尊敬の念を覚えます。

同じ燃えるにしても燃え方があり、燃え様があります。これが翻っていのちにたとえると、生き方と生き様です。和ろうそくには、日本人としての連綿と繰り返しつながり結ばれてきた姿があるように感じて灯すと先祖に触れる気がして懐かしくいつも心が揺さぶられ深く感動するのです。

今は時間にあくせくし忙しくて心をなくして自分を見失い、また魂が傷ついている人が多くいるからこそ、私はこの「和ろうそく」の火を用いて人々の心を癒したいと思うのです。

聴福庵は炭を用いているところばかりが注目されますが私の中では「火」が中心であるということを重んじているのです。暮らしの中の火は、いのちそのものですからそのいのちをどのように扱うか、どのようにつつみこみそのものを感じるかは火の姿によって物語るを読めばいいのです。火はいのちとの対話のつなぎ役なのです。

和ろうそくを用い、子どもたちの心にいのちの火を包み癒し灯し続けられるように実践を続けて深めていきたいと思います。

 

 

佇まいと庵

佇まいということを深めていると「場」ということがどのようなものであるのかを実感します。この佇まいと場とは必ず一体になるものであり、場があるから佇まいが存在します。空間の美というものは、この場の関係性によって仕上がり、そのつながりの中で私たちがしっくりと来ることで実感することができるものです。

この佇まいについて少し書いてみます。

例えば、私は和室や庭を構成するときその場に何を置けばしっくり来るのかを観ることにしています。明らかに、その物と物とがつながり調和するときそこには確かな佇まいができてきます。

この佇まいの意味は、大辞林には(1 立っているようす。また、そこにあるもののありさま。そのもののかもし出す雰囲気。「家並みの佇まい」「庭園の落ちついた佇まい」2 身を置くところ。暮らし方。また、なりわい)とあります。

この佇まいというものは、その本人のことではなく場が主体になっているのがわかります。つまりは、場というものはその関係性や共鳴性、共感性や響き合いなどといった物と物、物と人、その空間の中に何が発生したかという妙を観ているのです。そしてこの佇まいが落ち着いてくると、自ずから空間の中に余韻が出てきます。

今、古民家再生をしている庭園然り、和室然り、しっくり来るまでには様々なご縁を活かしきっていかなければそれは顕れません。それは人とのご縁は当然のこと、物とのご縁、そのほか、時間とのご縁、物語とのご縁、心とのご縁、導かれるご縁、神仏の御縁など様々なご縁を活かしきったときにこそ佇まいは顕現します。

まるではじめからそれがそこにあったかのようなもの、またお互いに一緒に一体になって自然になるようなもの、そのしっくりとくる場には確かな佇まいがあるのです。その佇まいは、すべてのご縁に活かされた場であり、その空間にはご縁が凝縮されて永遠にいのちが生き続けていきます。その空間に何を入れて、何を遺すか、そこには子々孫々まで真心を通じさせ、その場において伝承も継承も伝道も教育も行われていくのです。

なぜ日本家屋は場によって教育を行えるか、そこには佇まいがあるからです。その佇まいを活かすのは、その場で暮らした日本的人物、分を弁え謙虚に生きた生きざまと一体になって残存するのでしょう。私にとっての日本家屋はの場は庵です。

庵とは昔ながらの質素な佇まいの家のことを言います。「庵」は古くは「いほり」と読み、その古形である「いほ(庵)」が動詞「いほる」を生じ、その連用形「いほり」が名詞化したものです。そしてかつて人は岩穴に住んだことから「いほ」は「岩」に通じるともいわれています。

一家が暮らすその庵の中には、そこに暮らした人々の祈りや願い、そして信念や理念があります。そういうものをどれだけ子どもたちに譲っていくかは、場を主体にしてどれだけ学び磨き上げたかという一人一人の生き方が決めます。

日々の場は、すべて自分が創り出しているという自覚を忘れずに丁寧にじっくりと場を練り上げていきたいと思います。