弱くてゆっくり

聴福庵に90年くらい前の石油ストーブが届きました。早速、手入れをして火を入れてみると緩やかに弱くゆっくりと温かくなってきます。強い火にすることもできますが、昔の道具たちはあまり強いものを好まないので弱火で使うことにしています。

そもそも弱くてゆっくりというのは自然の仕組みです。

老子は弱いもの、ゆっくりなものこそ自然の中では至上であるといいました。人間でいえば赤ちゃんこそが至大至強の存在であるとも言いました。老子の中にこういう言葉もあります。

「人之生也柔弱、其死也堅強。萬物草木之生也柔脆、其死也枯槁。故堅強者死之徒、柔弱者生之徒。是以兵強則滅、木強則折。強大處下、柔弱處上。」(人は生まれたときは柔らくて弱いが、死ぬときは堅くて強ばっている。全ての物、草や木も生まれたときは柔らくて脆いが、死ぬときは枯れて干からびる。つまり、堅固で強いものは死んでいくもので、柔軟で弱いものは生き続けるものだ。このように、強大な兵力でも滅び、強力な武器でも折れる。強大なものが下になり、弱小なものが上になるのだ。 )

私たち人間が思い込んでいる生態系ピラミッドは弱肉強食の構図です。食物連鎖の中でもっとも強い存在が百獣の王であったり、人間であったりと考えています。しかし自然を観察してみるとすぐにわかるのですが、植物でいえば小さく柔らかい雑草、虫でいえば同じく弱弱しい虫たち、動物においても争わないで食べられているようなほうが「長い年月」で照らしてもどちらが長生きしているかはよくわかります。

私たちが勘違いする最強とは、非常に短期的で刹那的な強さとも言えます。盛者必衰とか言いますが何をもって盛なのか、自然の摂理と人間の理屈はまったく同じではありません。

つまりは短期的な強さは、悠久の中ではたいした強さではなく本来の強さは永遠的なものを持っているのです。そしてそれはさきほどの「弱くゆっくり」という仕組みを持っています。屋久杉のように長寿の大木は、ゆっくりと長い時間かけて少しずつ成長します。私が大事にしている榧の木は、300年かけてはじめて成木になります。それだけ年輪を刻み、敢えて少しずつ成長することで揺るがない至強の存在になっていきます。

自分の代だけのことを考えて取り組むことの如何に脆弱なことか、それは歴史を鑑みれば自明します。ずっと先の未来のことを慮り、今何をするのかは決して大それた目立ったことをやる必要もありません。

身近な暮らしや生き方から、弱弱しくてもゆっくりと変化させていくことで悠久の流れに従うことができ、そのゆっくりと弱い成長こそが何よりも偉大な存在とつながり世代を超えて自然の摂理を活かすことができるように私は思います。

昔の道具たちは、先人のこういった智慧が籠っています。改めて自分たちの今の刷り込みを見直し、じっくりとちょっとずつ時間を重ねていくような日々を過ごしていきたいと思います。

自然の流れに逆らわないものこそ、柔弱謙下の徳を持つことができます。

引き続き、弱さの中にある真の強さ、弱さをさらけ出して生きていくものたちが持つ真実の美、自然体の善境地、あるがままの一体感を様々な実践から学び直していきたいと思います。

 

考えるとは何か

人間は当たり前すぎるものを考えなくなる性質を持っています。例えば生きていく上で大切な呼吸をはじめ、食事、睡眠などの意味を深めようとはせずに何か問題があるとすぐにほかの理由を探したりするものです。

しかし人間のカラダというものはとても正直で、頭で考えて理解するのとは程遠く実際の今の状況を語らずして伝えてくるものです。

例えば睡眠というものもそうですが、生きているものは睡眠を持ちます。一緒に暮らしている動植物から虫に至るまですべての生き物は睡眠をとります。これはなぜかということですが、単に疲れを回復するためとか、細胞を甦生するためとか、そういう目に見えるところだけの効果があるのではなく本当はまだまだ未知の領域がたくさんあります。

人間の知識では追いつかないほどの叡智は、頭で考えられないところで働き続けているのです。そう考えてみると、よく学校で「考えてやりなさい」というのは果たしてどれだけの意味があるのかと疑問に思います。

人は考えずにあらゆることを行動で行います。睡眠も呼吸も排泄もすべては考えていないところでやっています。それはまるで全自動で頭で考えれば不可能とさえ思えることも簡単にやってのけています。これは考えてやっているのではなく、「考えずにやっている」のです。

そもそも考えるというのは、単に知識で自分の頭で理解することを言うのではなく私に言わせれば深めるということです。この深めるというのは、叡智に近づくということです。自分の知らなかったことを深めるというのは、分かった気にならずに実践し続けて叡智と一体になるということです。そしてある「境地」を持てる人になるということです。それが考えずにできるようになること、会得や体得の境地です。これはすべてにおいて経験によって実現することです。

経験なしに考えなさいというのは、土台無理な話で人間は経験するからこそはじめて考えることができるのです。ここでいう考えるのは先ほどの深めるに置き換えれば、経験するから深めることができるということです。

つまりは深めるということは経験が伴わなければ深まらないということ。そして深めている最中だからこそはじめて人は考えることができるということ。考えて動きなさいではなく、動くから考えているということです。

シンプルな言い方だと、「なんでもやってみなければわからない」ということです。そして今度は、やってみたから何の発見があったのかを内省することでその事物そのものがその人の先生になって自分を導いていくのです。

自分はあまり考えないタイプですから、来たものを選ばずに何でも有難く受け止めてやってみることにしています。そしてやってみたことが一体何だったのか、その意味を紡ぐ間に点が線になり面になり立体になり空間になり全体になり無限になり転になり点になります。

人生は知識が先にあったのではなく、経験した人たちによって知識が発生してきたのですから過去の産物をいくら勉強してもそれは経験をなぞっただけであって自分自身の経験とは関係がないものです。自分の人生を味わうというのは、経験を味わい尽くすということです。

子どもたちの主体性を奪う前に、本来の経験をさせてあげたいという親祖の真心、そしてそれを見守る親心を大切にしてあげることが私は「育」ということの大前提に据えられるものだと自分の実体験から感じます。

それでもやりたいということがあるから、人間は面白いということ、人生は愉快痛快になるということ。引き続き、子どもたちが憧れるような生き方を目指して挑戦していきたいと思います。

愉快痛快

「苦労」という言葉があります。苦労というと今では忌み嫌うもの、避けて通りたいものという考え方が多いように思います。しかしこの苦労というのは昔から「若い時の苦労は買ってでもせよ」とあるように得難い価値があるものとして大切に扱われてきました。

苦労というものを避ける理由は何か、それは自分の生き方が定まらないからです。苦労か楽かという考え方で苦労をみると、できるだけ苦労はしないように知識を得るのも楽な方法を模索するからです。苦労か楽かに流されているうちは、本当の苦労の味も楽の味もわからないように思います。大切なのはこの今をどれだけ深く味わうかにかかっているかということでもあろうと私は思います。つまり「苦味」がわかる人になっているかということです。苦労人というのは昔から人生でいろいろな苦労や辛酸をなめて忍耐を持つ中で人の心や人情に精通している人のことを言います。

人生の体験を深く味わい、それと正対し受け止めて丸ごと活かし、そのことで社會の役に立ち同時にその人の人間性は磨かれて一人の人間としての人生を全うするのが人の一生です。

以前、ある戦前生まれの方とのお話の中で「自分が苦労したから孫たちにはその苦労を与えたくないとやってきた結果が今の社会になった」と仰っていたことがあります。もちろんそこから「逞しさ」を理念に保育を磨きなおしていましたが、この自分が体験した苦労を味合わせたくないという心理が働くのは苦労の苦しい面の側面ばかりをみてしまうからかもしれません。

しかしその苦労の中では逆境という珠玉の宝もあります。逆境の中で人は鍛えられ、心が強くなり信念は育ちます。なんでもうまくいくことが良いことになってしまえば、逆境はありません。うまくいかないこと、自分にとっては都合がよくないことの中にこそ相応しい成長の糧があります。

理想を高くもち大きな夢を描けばそれに伴い現実とのギャップに苦しむものです。しかしそれでもその思い通りにならないことに対して、悔しさを噛みしめ、諦めず絶望と向き合い、一歩一歩、身体を動かして前に進む中で人ははじめて成長します。

成長するというのは、苦労することです。そして苦労することで得られるものに、仲間があり新しい自分との出会いがあります。そして苦労すればするほどに感謝が持てる人になり、謙虚に物事から学べる人になっていきます。

自分が感謝できるかどうか、謙虚かどうかを悩むよりも、苦労の真価を知って苦労に向かって飛び込んでいくことが人生の学び方、そして自分が決める生き方だと思います。

苦労がいいと思う生き方をしたい人はなかなかいないものです。だからこそ覚悟が決まりません。しかしそのように人生の妙味を感じて仕合せに生き方をしている人たちが学ぶ感謝や真心、謙虚さ、そして活かされている喜びを感じているようにそこに辿り着くには、自分からそれまでの自分の生き方と決別して、敢えて挑戦して同じように苦労してみないとわかりませんし、苦労だけを避けようと斜めに構えていてもその境地に近づくこともできません。逆境こそが境地の体得には必須徳目なのです。

有難いと念じ味わい尽くす中に苦労の至喜あり。

この生き方が善いと思ってくれるように、人生を味わい楽しんで笑いながら愉快痛快に歩んでいきたいと思います。

一円組織

組織というものはいろいろな形があります。以前はピラミッド型組織が流行し、官僚のように上下の階級がはっきりしたものを使われていました。そこからフラット型組織というものが流行し、トップ一人にあとは全部横並びというものに変わっていきました。その両方は、どちらにしても上か下かという概念に縛られます。

私は一円対話というものを実践しつつ、一円組織というものを考えています。これは新しい経営の在り方のモデルに挑戦することであり、持ち味を活かし全体が一つの生命体のように機能する組織のことです。

しかしそれを実現するには、今の社会の常識に縛られないこととそこで一緒に働く人たちが過去の刷り込みに負けない変化が必要になります。

一円組織というものは、上下がありません。そこにあるのは、それぞれの持ち味を活かしあい豊かに一緒に働く仲間があるということです。実際の組織では上下がありますから、指示命令の上下運動で物事は進みます。しかし一円組織においては上下がありませんから、いつもオープンに積極的で自発的なコミュニケーションを自ら取り合って「助け合う」必要があります。

かつて日本では、大事な決定を考えるのに火を囲み車座になって語り合いながら合議していました。そこでは階級などが存在せず、一座としてみんなで自分たちの今について心を開き語り合いました。それは囲炉裏の文化として引き継がれ、皆で丸くなって助け合い働くということでお互いの意思疎通だけではなく相互理解、また談笑のうちに本心をさらけ出し周囲との信頼関係を築いて物事に取り組みました。

そこには結果責任がどうだと、分担だどうなのではなく、豊かに一緒に働ける歓びや仕合せや感謝、もしくは愛を分かち合う場がありました。まるで家の中で一緒に手を取り合って生きていく温かい家族の絆が観えます。今では一部の人たちにだけに責任を負わしたり負わされたり、または誰かを責めたり貶めたり、背負ったり投げ出したりと、競争や比較、評価ばかりの中でみんなが一円になることがなくなってきています。

本来の人間はどういうときにもっとも力を発揮するか、そして社會はどういうときに思いやりの循環が生まれるか、それはお互いが尊重され一人ひとりが活かされるときです。そしてその一人ひとりが活かされるのは全員参画型の組織に変わる時です。その先に組織があり、その先に社会があり、その先に町があり、都市があり、国家があり人類の未来があるのです。

まだまだそこには私たちも辿り着けていませんが、このプロセス自体の中に実践からのヒントや、型を産み出していく中で世間の刷り込みを取り払うための方法などが発明できています。

引き続き、一人ひとりが全員主人公で豊かで仕合せな幸福型組織、一円組織を目指して挑戦し続けていきたいと思います。

志の道

人は志を持つことではじめて信念を持つことができます。信念というのは単なる想いや思い込みではなく、その人が一生涯かけて貫こうと決心した志のことです。

この志を勘違いする人も多いといいます。世間では一般的に志の定義は、人の為に何か高尚なことをしようすることを言います。しかしそれは単に世間でいう志の客観的な評価がそうなっているだけで本人の決心とは関係がありません。自分の心が決めたものでなければ志にはなりません。

もともと志とは、一生涯かけて死ぬまで已めないと決めている自分の人生の決心です。それは数週間や数か月や数年のことを言うのではなく、文字通り「一生」というものに照らして覚悟を決めるものです。ちょっとうまくいかないことがあれば辞めるや状況が少し変化したくらいで変更するようなものは信念でもなければ志でもありません。

自分がこの世において何を成し遂げるか、結果は度外視、生死は度外視してでも貫徹するぞと決めた心こそ志なのです。「志」という字を分解しても、「一生を一心に貫く」という字体になっているのが観てとれます。

高尚を目指していくことが志を持とうとすることではなく、志があるからブレなくなり信念があるからそれが他人から高尚に見られるだけです。何かこれを勘違いして知識をどこかから持ってくるようなやり方でいくら外側から志を纏おうとしてもそれは自分の志ではないのだからいつまでも持てるものではないと私は思います。

自分自身が何のためにこの世に生を受けたのか、そして自分の一生を条件に左右されずに何のために使うのか、それを使命とも言いますがその使命感があるからこそその人は自由自在に真心の人になることができるのです。

自分がないと悩む前に、志がどうなっているのかまずその心に確認することが何よりも先なのです。志を立てるには、一生涯という物差し、また生死を度外視してという物差し、また命を懸けるにふさわしい大義という物差しがあります。そののちに、百年から千年の物差し、子どもたちの行く末を祈る物差し、地球規模、宇宙観で考えていく物差しなどで精査していきます。そのうえでこの今のご縁を活かし、感謝のままにどのように日々の決心を実践するかが志の道になります。

自分の人生をどのように使うかは自分次第、惑うのは自分と向き合わないからです。迷いがあっても惑わない、それは志如何にあります。子どもたちが安心して志の道を継承していけるように数々の実践を容にしていきたいと思います。

 

こよみ(干支)

暦のことを深めていると現在、あまり馴染みがなくなった「干支」についても考え直す好い機会になりました。現在、この十干十二支は人々の生活との関わりが近世までと比べてずっと希薄になっているといいます。十二支が十干のように忘れ去られずにいるのは年賀状の図案にその年の十二支の動物が多く使われることや人々がその生まれ年の干支によって、「○○年(どし)の生まれ」のような言い方をする習慣が残っていることの二つの理由だともいわれます。

本来、明治に改暦されるまで使っていた暦はとても意味深く先祖たちの知恵が凝縮したものでした。中国から渡来したものを長い時間をかけて日本のものに順応させ日本独自の文化にまで昇華したものをあっという間に入れ替えてしまいましたがここにきて改めて暦の価値に気づいている人も増えてきているように思います。

そもそも地球や宇宙をはじめあらゆるものを円を描きます。それは球体であり〇であることを意味します。〇には偏るものがなく、常に円転循環していますから陰陽というものは放てば戻り、揺れれば止まるというように調和をしてそのサイクルは已むことはありません。

私たちが物事を見るときに、循環を感じにくくなるのは自分を中心に前後左右と見なしたり、平地のように平面で物事を見ることで円環を感じにくくなるのです。中国から来ている様々な暦も木星や太陽、月や地球の周期を観て編み出されているものです。根本の考え方に循環があった時代と、今のように一方方向だけをみる時代とで変化が起きているのを感じます。因果応報という言葉もありますが、やったことは必ず自分に戻ってくるという思想も生活の中から失われてきたのもこの暦(こよみ)が関係するように私は思います。

干支の話に戻りますが、干支の干は天干として天の気を顕し、支はそれを支える地支として地の気を顕します。これを組み合わせて六十干支といい、60歳で還暦と呼ぶのはこれが一巡するから暦が循環したのでそう呼びます。二十四節気などもそうですが、「気」というものが自然界には存在します。気候が変わるのは、その生き物のバイオリズムがあるからでその気の流れに沿って生きていくことで無理を生じにくくなり自然体に近づいてきます。自然体であることは気と一体になっていることであり、そこから外れてしまうことを病気と呼んだのかもしれません。

今は単なる数字としての時間だけになって季節も気候も無視した住宅や設備、仕事の仕方も朝昼晩関係なく働きますから「気」の流れを無視した生活をしているとも言えます。本来は、どの時刻にも「気」がありその「気」のチカラをお借りして働いていました。そういう気の御蔭というものを感じて天気地気空気の気質を味わいながら感謝で生きてきたのでしょう。干支十二支もそういう自然への畏敬や感謝が生活から離れてしまった理由かもしれません。

しかし自然から離れた暮らしをしながらも今でも午前、午後などと言葉としては使われ遺っていますし、子どものたちには絵本の昔話などでも十二支が動物の物語になり語り継がれてもいます。しかしそれを正しく伝承していくにも、今の私たちが昔の人たちがどのように生活の中に暦(こよみ)を取り入れていたかを学び直すことが子どもに智慧を継承してもらうことにもつながるように思います。

自然界の仕組みに精通した先祖たちが、如何に自然と共に暮らしてきたか。暦(こよみ)は歴史を語ります。

 

 

こよみ(暦)

現在、生きていくうえで人間は時間やスケジュールというものを中心に一年を過ごしています。特に日本では時間に正確に動くことは当然となり、電車であっても1分遅れでさえもクレームがでるほどになっています。日時というものに合わせて、曜日というものに合わせて計画を立てて生きていくのですがどこか時間的余裕が失われ季節感もなくなり日々の忙しさに追われているようにも思います。

私たちが生きていく基準にしているものの中に「暦」(こよみ)というものがあります。これを辞書で調べると「語源は日読み (かよみ) 。1日を単位として数えることにより,週,月,年と時間を分割した体系,また,この体系の基礎となる天体の知識,年間の予知すべき事項を記載したものをいう。分割の基礎になるものは,月の公転周期 (朔望月 29.531日) および地球の公転周期 (太陽年 365.242日) であり,前者を採用したものを太陰暦,後者を採用したものを太陽暦,両者を併用したものを太陰太陽暦という。 」(コトバンクより)とあります。

現代の私たちはかつての太陰太陽暦を捨てて明治以降から太陽暦(グレゴリオ暦)という西洋で作られた「西暦」というものを用いて生活しています。これは1582年にカトリックのグレゴリウス13世はユリウス暦を西暦が100で割り切れ、かつ400では割り切れない年(例:1700年、1800年、1900年)は閏年とはしないという新しいルールを加えたグレゴリオ暦を制定したところから来ています。

古代ローマで作られたのがはじまりですから、12月のカレンダーにあるJanuary、Marchなどの月の呼び名はすべてローマの神話に出てくる神様の名前です。それにsunday,mondayなどの曜日の呼び名は北欧の神様も入っています。おかしな話ですが、私たちは日本人の神話もあるのに暦は別の国の神話の神様のカレンダーを使っているとも言えます。私たちが誕生日にこだわるのも、キリスト教会がイエスの誕生祭にこだわるからでもあります。

日本でそれまで用いられてきた太陽太陰暦にあったような農業や年中行事の和暦を全く無視した西暦(グレゴリオ暦)に明治時代に強引に政府が入れ替えました。それまで農業では、季節の節目を洞察してつくられた二十四節気・七十二候が用いられ種まきや収穫の時機や季節による農作業の準備をきめ細かく行ってきました。そして正月や節句のような年中行事は月の満ち欠けの太陰暦の日付で行っていました。それだけ昔の人は、暮らしと暦が密接でありこの和暦があることで安心して自然と一体になって暮らせていたとも言えます。

季節感がなくなってしまったのは、この暦が季節とまったくかけ離れたものを用いだしたからともいえます。今では年中行事も土日の方が人が集まるや、それがやりやすいからと勝手に日時を人間都合のスケジュールで動かすようになってきました。本来の年中行事の意味や自然の季節のサイクルともズレた行事は本来の暦の本質からも離れていく一方です。

改めて明治時代の改暦から約140年経ち、社會の今の見つめれば何が歪んでいるかに気づきます。その歪に気づいたなら自分自身がまず本質に回帰した生活や暮らしを実践し温故知新して次世代に譲り渡していかなければなりません。

今では季節感もなくなり年中行事も意味が失われてきていますから、子どもたちのためにも自分たちが実践により今の時代に適応した仕組みを創ってみたいと思います。古民家再生の一つの主柱にこの「こよみ」(暦)というものを使います。

愛は人の為ならず

人間は情というものがあります。この情に感がつけば感情と書きます。つまりはどんな人にも感情があり、心が感応するとき同時に情も感応します。昨日、我のことを書きましたがこの情というのが我に密接していますからどう折り合いをつけていくかが大切になるように思います。

諺に「情けは人の為ならず」というものがあります。現在はこれの意味とは間違って理解しているものが多く、他人に情けをかけることはよくないように使われています。しかし実際の意味はそうではなく、他人にかけた情けは巡り巡って自分のところに戻ってくるご縁なのだからそれは他人のためにではなく自分のために行っているものだということです。

人間には自我が情がありますから、してあげたことややってあげたことを相手に見返りを認めたりするものです。本来は、真心からしようと思っていたことも我が強すぎたり自分の情ばかりを優先してしまうと相手に求めたり期待したりとその行為まで歪ませてしまいます。そのうちに、恩知らずとか恩を仇で返されたとか、恩を返せとか要求したりするものです。こうなってしまうと、最初から真心などなかったかのような出来事にすり替わってしまいかえってお互いの感情がぶつかり対立関係を深めてしまいます。

同じような諺に、「受けた恩は石に刻み、かけた情は水に流せ」というものもあります。これは先ほどの情けをかけて見返りを求めるなということと似ています。なぜではこうなってしまうのかということです。

人間は誰しも自分を満たしたいと思っています。生きていくうえで、人間は承認欲求というものがあります。認められたいという心や、自分の存在を認めてもらいたいという欲があるのです。これは決して悪いわけではなく、生きていくうえでそれが転じれば社会貢献をしたいという気持ちを育てる側面もあります。しかしこれが歪んだ自己愛になっていくとよくないプライドになったり、自己中心的な考え方になったりしていくものです。

この情というものも、相手を自分と分けてかけるのではなく相手は自分そのものと自他一体になっているのならそれは先ほどの情けが人の為ならずのように真心の愛を循環させていくことができるように思います。これを言い換えれば、「愛は人の為ならず」ということなのです。

本当の自分を愛することができる人は、同じように他人を愛することができるように思います。自分の中にあるものを一つ一つ受け容れて、みんな同じような苦しみを持っていると同時に生きていくのならそのうちに自他は一体になっていくものです。

これを邪魔するのが自他を分けるということであり、自分を愛しすぎたり、自分を粗末にし過ぎたりすることで歪んだ情愛が根付いてしまうように思います。

福沢諭吉に『世の中で一番尊いことは、人のために奉仕して恩に着せないことです』というものがあります。

感謝の心を育てていくのは、人事を盡していくこと、真摯に自分を活かしていくことをやりきっていく中で次第に醸成されていくようにも思います。見返りを求めないことが愛でもあり真心です。自分がそうしたかっただけという言葉の中には、相手がもしも自分だったらと他人事にせずに全身全霊を懸けて取り組む実践によって磨かれた生き方や生きざまがあります。

愛を循環させていく心の深淵には、人を深く愛しているという人道があります。人道支援というものは決して弱い人を助けることを言うのではなく、自他一体に「情けは人の為ならず」を日々に実践していくことです。

引き続き、人類を愛するからこそ日々の小さな真心の実践を積み重ねていきたいと思います。

 

本義本業

人は誰しも感情があります、その感情は我があるから感応します。また人には誰しも真心というものがあります、その真心があるから真我が感応します。ここの境目にははっきりと我と真我という分かれ目があるわけではなくそこは薄明りのように和合しています。

この我や真我というものは頭で理解することはできず、たとえば真心なども言葉や知識で理解できるものでもありません。心技体、真摯に苦労をおしまず自己すべてを使い切っているときに発動しているものです。すべての物事はこの真心に懸っているとも言えます。つまり良いか悪いかは頭ですること、心でするのは真心のみです。

聖徳太子がこういう言葉を17条の憲法の中で遺しています。

「真心は人の道の根本である。何事にも真心がなければいけない。物事の善し悪しや 成否は、すべて真心のあるなしにかかっている。真心があるならば、何事も達成できるだ ろう。群臣に真心がないなら、どんなこともみな失敗するだろう。」

これは第9条に書かれており、良いか悪いか、正しいか間違っているか、それはすべては真心のあるなしがすべてであるといいます。それを受けて第10条にはこう添えられます。

「十にいう。心の中の憤りをなくし、憤りを表情にださぬようにし、ほかの人が自分とことなったことをしても怒ってはならない。人それぞれに考えがあり、それぞれに自分がこれだと思うことがある。相手がこれこそといっても自分はよくないと思うし、自分がこれこそと思っても相手はよくないとする。自分はかならず聖人で、相手がかならず愚かだというわけではない。皆ともに凡人なのだ。そもそもこれがよいとかよくないとか、だれがさだめうるのだろう。お互いにだれも賢くもあり愚かでもある。それは耳輪には端がないようなものだ。こういうわけで、相手がいきどおっていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかとおそれなさい。自分ではこれだと思っても、みんなの意見にしたがって行動しなさい。」

謙虚に自分自身の至らなさを恥じて、自分自身の真心を確認して自分を正し続けるということです。そしてこれは私たちが目指す聴福人の姿です。まずは心のままに聴くのが先だということです。そのうえで誠実に実直に真心を盡していくことこそが、人の道の根本でありそれが生きるということにおいての本業です。そういう意味で仕事のコトとは何か、このコトには意味がありますからその事が為すということは真心を盡すということであり、その真心を盡すことこそが仕事の本義本業ということになります。

頭でっかちにわかった気になる理由は、真心を盡すという本来の本義から外れているからです。頭でできるような仕事は真心を使わない分、楽を選んでいきます。自分にとって都合が悪いもの、自分にとっては苦しいもの、自分にとっては大変なものであったとしても、「それでもやるか」と自省するとき、真心がどうなっているのか、自分の至誠は果たしてどうなっているのかは自分自身(我真我)が対話をするのです。

この対話を通して人は対立関係をやめて和合し一つになります。真心を盡していくことが和合そのものであり、その真心こそが何よりも尊いのです。和を持って尊しとするのは、何よりも真心こそが全ての根本なのです。

真心の仕事こそ、カグヤの本義本業です。

刷り込みが深いのもまたこの心の対話がまだまだ未熟な証拠ですから、常に真心からの行動や言葉、そして真心での働き方、かかわるすべての物事へ真心の生き方を通して磨きをかけて刷り込みを転じて丸ごと活かし子どもたちの役にたっていきたいと思います。

 

実践の語り合い

昨日、長年お取引をしていただいている保育園の先生がお二人ほど会社見学に来ていただきました。とても熱心な先生で私たちの社内の環境を観てあらゆるところを写真を撮り、持ち帰って実践できるところなどを書き留めていらっしゃいました。帰り際にはとても感動され、充実した一日だったと喜んでお帰りになりました。

実践をしている先生がさらに新たな実践を求めてやってくる、そして実践を高めている先生がお互いの実践を聞いてさらにそれを発展させていく。ここに私は道の尊さを感じます。

伊藤仁斎という江戸時代の儒学者・思想家にこういう言葉が遺っています。

「一人之を知りて十人之を知る能はざる者は道に非ず。一人之を行ひて十人之を行ふ能はざる者は道に非ず。」

現代の言葉に意訳すると「自分がいくら分かっているつもりでも周囲の誰も分からないようなものはそれは道ではない。自分だけが実践できても他の者が実践できないようなものは道ではない。」という意味です。

つまりは実践とは、皆と一緒に実践できてこそはじめて道につながっているということです。この一緒に実践していくということは、共に道を歩んでいる仲間の存在があるということです。実践が弘がっていくという尊さは、同志たちによって伝道されていくということになります。

そのように自分たちの生き方、働き方が道になっていけばその道を求めて人が集まってきます。そして同じように道を歩もうとする同志たちがそれぞれ一緒に道を歩むことで磨き合い高め合い道は踏み固められていきます。

常に実践は自分だけでわかればいいのではなく、自分だけが実践できればいいのではない。何のために実践しているのかを顧みれば、実践する目的や理由に辿り着くと思います。同じ思いや同じ祈り、同じ願いを持つ人たちは「実践によって語り合います」。

実践によって語り合うからこそ、道の先覚者であることを知り、その思想が単なる幻想ではなく現実に即したものであることに気づけます。現場実践を行うということは、それぞれの場所で同じ理念を実現しようとする生き方の合わせ鏡です。人の道を高め合う中には深い愛があります。この愛を循環させていくことが実践を語り合うということになるのです。

最後にまた伊藤仁斎の言葉です。

「蓋し道は窮り無し。
故に学も亦た窮り無し。」

道には終わりというものがない、故に学ぶことも終わることがないのであると。

分かった気になっている暇もなく、刷り込みに流される暇もなく、道は無窮、万物流転を已まないのだから、常に学ぶ仲間たちと切磋琢磨しつつ道を楽しみながら感謝の一歩をまた日々に新たに歩んでいきたいと思います。その道が子どもたちに続いていくことを信じて実践で語り合っていきたいと思います。