自分の選択

人生というものは選択と決断によって今を切り拓いていくものです。今というものを振り返ってみるとそれは過去の一つ一つの自分の選択の結果が今にあるということです。あの時、違う選択をしていたらどうなったかそれは今を見れば想像がつくと思います。今が幸せかどうかというのは、過去の決断が今になっていいことになった、いや「善いことにしたか」というそれまでの自分の決断に伴う努力、その生き方や生き様が問われています。

人は一つの人生において自分ではどうしようもないことも発生します。また自分が思っていること以上のことが起きて自分の判断ではどうしようもないこともあります。そういう時、考えを超えて心の声に従うことや、魂の疼きに従うというような決断があります。

人は自分というものを考えるときに、自分の中にはたった一人の自分がいると思い込んでいますが自分の中にはもう一人の自分というものがあると私は思います。言い換えるのなら、心や魂といった生死を度外視して全体と繋がっている自分。それと自我や感情などと欲求や欲望を持っている個としての自分我です。このひとつのカラダの中に同居する自と分があるから人は悩み苦しみ迷い、常に今の選択をしていくなかでシーソーのように自己との対話が発生するのです。

自然界の野生の生き物たちにはこの自と分は分かれてはいません。そのものとして丸ごと一つになっているからおかしな行動も選択もありません。それは自然体のままであり、あるがままです。しかし人間は教育によって自我を持ち、自然とは「分かれて」自分というものを認識させられ持つようになります。それは本来なかったものです。先住民族や言葉を持たない文明とかけ離れた暮らしをしている人間たちはそういうものがありません。名前も持たず、上下もない、自然に地球に習い家族を形成し助け合って暮らしています。

私達はこの「個」というものを知り、人間文明を独自に創りあげてきました。それは過去の自分たちが選択をすることで今の社会を築き上げてきたとも言えます。時は流れ、時は進み、加速度的に私たちの選択した文明は地球全土を覆いました。今は、大量生産大量消費の中で誰もブレーキをかけることもなく自転車操業のように走り続けている世の中であって選択をする自由すらも失われてきつつあります。

人は心の声や魂の疼きを体験することで、自分ではどうにもならないような運命や宿命、そして定めのようなものを直感することができます。時代や時に関係なく、そのものが地球全体の循環の中でどんな役割を持っているかを自然とのつながりによって実感するのです。

人間が地球と一体になり風土に原点回帰しその中で文明を弁え生きることが出来たのならば、この今の人間文明の終焉の姿を変えてしまうことができるかもしれません。人間が本当に人間らしく生きる世の中というのは、頭でっかちになり個がバラバラに生きていく世の中を広げることではなくそれぞれが心でつながって共に生きていく世の中を広げていくことです。そうすれば無理にこぎ続ける自転車の回転を古来の水車のように緩やかに回転させる日も来るかもしれません。

人類は今、大きな選択を迫られています。

この今の選択が未来の今を創造するからこそ、自分が今選択し決断することを後悔したくないと思います。子ども達の未来は、今の私の決断と選択が決定づけます。常に選択を誤らないよう、本当の自分自信、あるがままの自然体になって世の中で自分の役割を全うしたいと思います。

適合適応

以前、樹木研修で樹木がどのように生きてきたかを深める機会がありました。樹木たちは自ら他の樹木と競争しないように自ら厳しい環境へと移動して生き残っていました。生き残りの戦略というのは、周りと戦って勝ち残るのではなく自分自身が厳しい環境に「適合」し誰も来ないような場所へと移動しそこで「適応」することで克ち遺るという具合です。

これは自然界の理であり、私たちはこの勝ち残るということの本質、そして生き残るということの意味を学び直す必要を感じます。

人間の世界でもいつまでも適合もせず適応もせずに他と比較し自分の居場所を獲得するために競争し続けようとする人がいます。頑固に自分の存在価値を周りへ押し付けては、自分が一番になろうとします。しかし自然界ではそのような生き物はすぐに淘汰されており、生き残っているものはありません。人間は刷り込みによって自分という存在を歪められて、周りとつながっていない存在、自然から離れている存在だと自分自身で思い込んでいるから全体のことを考えず自分勝手に自分中心に物事を見るようになったのかもしれません。

本来、視野の広さというのは自分中心ではないということです。すべて丸ごとの存在としてみることができれば勝ち残るという意味も、生き残るという意味もはっきりと自明してくると思いますが常に人間自我が中心になっている人はどうしても視野が狭くなってしまうのでしょう。

自然界では棲み分けというものがあります。常に自分から他の種と争わないように移動していくのです。そのようにして今の地球の生命たちは多様化したとも言えます。今に遺る種たちは歴史を重ね自ら争わず生き残る戦略を優先して共生と貢献の社會を創造してきました。人間も本来はこのように個性が争わず、自分らしく適合適応していくのなら組織の中でも自分の役割が自然に分かれて御互いに協力して生き残るために助け合うことができるように思います。

いつまでも適合適応しないでいるというのは、進化でもなければ変化でもなく便利で楽な方を選ぼうとする人間の傲慢さのようにも思います。画一化されていく世界は人間のみ一番の中で勝手に役割を振り分け人間のために労働するようなロボットを製造し、バラバラに組織を分断化しているかのようにも見えます。

もう一度、全体に対して適合適応する生き方を示していくことが自分自我を手放し自然の理と一体になる方法のように思います。子ども達のためにも、自然に沿った生き方や暮らしを通して本当の意味で宇宙や地球で勝ち残る生き方、克ち続ける生き方、生き遺るための道筋をつけていきたいと思います。

文化の原点

最近は日本文化について触れる機会が増えてきました。そのことからそもそも日本文化とは何か、文化というものはどういうものかということを考えています。すると文化とはその民族の原点であり、その民族の生き方であることに気づきます。この文化というものを少し深めてみようと思います。

まず広辞苑を調べると「①文徳で民を教化すること。②世の中が開けて生活が便利になること。文明開化。③人間が自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果。衣食住をはじめ技術・学問・芸術・道徳・宗教・政治など生活形成の様式と内容とを含む。文明とほぼ同義に用いられることが多いが、西洋では人間の精神的生活にかかわるものを文化と呼び、文明と区別する。」とあります。

また一説によれば、現代では当たり前に使われている文化という言葉は明治の文豪の坪内逍遥によって造られた言葉であるとも言われます。また英語の「culture」は「耕す」ことを意味するラテン語の「colere」に由来しているとし土地を耕すことから心を耕すことの意味で用いられるようになったと言います。そこから文化という言葉になっていったと言います。agriculture(農業)は畑を耕すという意味で用いられます。

いろいろな言い方をされますが英語のいう耕すという言葉がとてもしっくりくるのは、そこに文化というものを客観的に顕している意味が入っているからです。この耕すというのは、土を掘り起こしていく作業のことです。それは「深堀りしてその土を積みあげていく」作業のことです。また言い換えるのなら、人が土に近づき土に馴染み土に親しみ、土と一体になっていくことです。

これを人間に置き換えてみると、自分自身を深堀りしてその気づきを積み重ねていく行為に似ています。単なる知識を蓄えるのではなく、文字通り耕していると好奇心も面白さも愉しさも増えていきます。耕すという行為は、未来を創造して労苦を惜しまずに掘り起こして畝をつくっていく行為であり、その後そこに種を蒔けば実のある作物を育てて食べることができる喜びがあるのです。

このように育てる喜びにつながる土づくりこそ文化そのものの意味です。自然の風土の中に新しく入っていき開拓をして自分たちが順応し暮らしていけるような場所にしていくことでもあります。

文化という言葉ができるずっと前から文化は存在しているということです。そして日本文化は、先祖が川で禊をし草を払い穀物の種を蒔いたところからはじまっている神話もあります。

つまり文化とは原点であり、原点が文化であるのははじまりを知っているからです。初心というものが伝承される必要があるのは、その民族の生き方や暮らしが今に受け継がれているからです。結局は、私たちはある風土の上にあってずっと今でもその足元を耕しているだけであり、如何にその風土を活かしその風土の中で風土人として暮らしを創造しているかという存在であることを超えないのです。

だからこそその風土にあって、風土にないものは耕しているわけではないのだから文化ではないのです。この日本の風土でどのように暮らしてきたかは、私たちの先祖、今であればその暮らしを遺す天皇陛下や伊勢神宮などでもまだまだ残存しています。

自分たちの風土を自分たちが如何に掘り下げて積み重ねていくかはその風土の中に暮らしてきた先祖の意志と子孫の使命を感じます。引き続き文化を学び直し原点を子ども達に譲っていきたいと思います。

豊かな社會の創造

先日の藤森代表の講演で「自立は助けてもらうこと、協力してもらうこと」とありました。世の中では自立は助けてもらわないこと、独りでできることと教え込まれて刷り込まれていますが依存と自立が間違ってしまっている人が大勢いるように思います。

いつまでも持ち味を活かせないのは自分自身がいつまでも自立を勘違いしているからです。間違って歪んだ自立の刷り込みをどのように取り払うかが最初の関門になってくるように思います。これは「助けてください」と自分から言えるかどうか、また自分からいつも周りに損得を考えず積極的に尽力しているかどうかだと私は思います。

プライドが高い人や頑固な人、言い換えれば自立したいと刷り込みが深い人ほど人に助けを求めません。格好つけては助けを求めようとはしません、しかし助けを求めなければ周りとのつながりができません。人は他人に迷惑をかけている生き物だから、迷惑をかけないことを望むよりも迷惑をかけて感謝することの方が大事なのです。

そして迷惑をかけていることを自覚しているからこそ、御蔭様に感謝し御恩返しをしようと自分が周りに協力していこうとするのです。迷惑をかけている自分が、周りの迷惑を自ら引き受けるようになるのです。それが御恩返しになり、御互いの絆が深まり繋がりができ社會が形成されていきます。

今では、自分は問題を起こさずにキチンと仕事さえできて結果がでていれば迷惑をかけていないと思い込み、今度は周りが迷惑をかけるのを過度に嫌い迷惑をかける人を罵倒したりさげすんだり、いつも自分のことばかりを優先する人が自立している人などと勘違いしている人もいます。人が人に迷惑をかけていないことなどは一切ありえず、自分の知り及ばないところで本当に多大な迷惑をかけているのが人間です。

そういう存在だと自分から自分で自覚することが助けてもらい協力してもらうことが善いことであると納得することにつながっていくように私は思います。何もできない存在が価値がないではなく、何かできるから価値があるのではなく、自分の持ち味を活かして周りに貢献できているのが人間の本当の価値です。

先日、新潟での理念研修の中で重度の身体障碍者の方がお店の店長をしていた映像を見ました。車イスで動けないのですが、ひとつ商品がお客様に買ってもらえるととても嬉しそうで仕合わせな笑顔をしてくれます。社員たちはその笑顔を見たいからもっと商品を売ってはその店長に報告にいきます。

これは重度障碍者で笑顔しかできないではなく、その人の持ち味を活かしているのです。人は他人の善いところを見出しては、それを活かせばそれはその人の持ち味として周りに貢献できます。

如何に貢献できるようにするかは、その人が仕事が周りと同じくらいできるようになればいいのではなく、自分が思い込んだ結果を人並みに出せればいいのではなく、その人の持ち味を周りに使ってもらい、いつも周りのためにと尽力し続けて貢献すれば自ずから自分の持ち味を発見し社會の中で自立することになるのです。

依存というのは言い換えればいつも自分のことばかりに執着し自分勝手に我儘で周りを省みることもない状態になっていることです。感謝や恩返しなどもなく、御蔭なども忘れている状態です。社會の一員として如何に迷惑を善いものへと転換しているかは、自分勝手なことよりも周りと一緒に成長したいという豊かな社會の創造なのです。

引き続き、刷り込みを取り払うために具体的な仕組みを開発していきたいと思います。

万人共通の理念と智慧

GTサミットが無事に終了することができました。毎年この時期に、全国から集まり理念を共有したり新たな一年の方針を確認することは明日への活力になります。昨日は、来年改定される保育所保育指針についての解説と改定のポイントについて藤森代表より話がありました。

昭和40年に制定された保育指針は、平成20年にこれまでの局長通知から厚生労働大臣による告示になり遵守すべき法令として示されたものです。これは保育園においては何よりも優先されるルールであり、この保育指針に沿って保育をしているかどうかが何よりも重要だとされています。

告示化されたものをどれだけの人たちが真摯に捉えているか、全国の保育現場をみていたらまだまだその重要性を理解していない人たちが多い様に思います。同様に遵守するものとして子どもの権利条約というものがあります。

これは1989年に国連で採択され、1990年国際条約として発効 しました。日本は1994年4月22日に批准し、1994年5月22日に発効されました。しかしこれもどれだけの教育機関や施設が重要性を理解しているかを見ているとあまりこれも理解していない人が多い様に思います。

子どもが自分らしく育つ権利というものは、世界中で認められているものです。そして子どもが自分らしく発達することを保障されていることもまた同じく日本としても国家としても何よりも守っていこうと法にまで昇華されたものです。

しかしその法律を違反するような保育や教育が行われていて、好き勝手に大人の都合で子どもの子どもらしく育つことを邪魔されたのなら子どもの人権というものは蔑ろにされてしまいます。子どもが施設で犠牲になる報道が増えてきましたが、もう一度、この当たり前のルールに沿って保育を実践するということの意味を見直す必要があるように私は思います。

そしてこの子どもの権利を守る組織は、職員の権利を守られる組織であり、組織のリーダーだけではなく保護者、関係者も含めて守られる組織になります。子どもの権利条約は大きくは4つに構成されています。

この4つは、「生きる権利」「守られる権利」「育つ権利」「参加する権利」です。お金や経済ばかりを優先するあまり、当たり前ともいえるこれらの人として安心して暮らしていける権利を奪っていくという組織になってしまうのは、この大前提としての子どもの権利条約や保育所保育指針を遵守しなくなるところからはじまっています。そして保育所保育指針は子ども一人ひとりの発達を見守る保育をするということに尽きます。

何を拠所にして保育を実践するかはそれぞれの施設の方針があるのでしょうが、私たちはその前に世界で共通する理念や、人類が共通する智慧をもっと大切にしていく必要を私は感じます。

今の私たちが生活できているのは、このように世界が人間の生き方を大切にし、人類が先人からの智慧を大切に守ってきたからです。それを言語化しているものが、これらの子どもの権利条約や保育所保育指針であるのを忘れてはならないと私は思います。それが何のために行うのかの源泉であり、まさに万人共通の理念と智慧の結晶だからです。

引き続き、私たちもミマモリングを展開する事業者として保育所保育指針の重要性やその真価をしっかりと現場に伝えていきたいと思います。

人類の進化~赤ちゃん~

昨日、東京でGTサミットが開催されました。講師の先生から赤ちゃんの「見る」と「聴く」についての講演がありました。改めて赤ちゃんはどのように見えているのか、聴こえているのかを思うと、私たちが今の時代の社會に適応する前の原始の状態が観えてきます。動物たちと同じように産まれてすぐの存在が如何に全知全能でその後、次第に必要な能力だけを残して他を削っていくという最適化のシステムを持っているのには納得することばかりです。

本来、人間は周りの環境の中で自分自身をどのように役立てていこうか選択していきます。組織や所属、環境が変わればその人もその場所で変化していくものです。頑固に自分を変えない人もいますが、その場合はその頑固が辿りつく先に役に立ちたいものがあるのかもしれません。

しかし実際は、周りを見て環境に適応していくというのが生き物の姿です。動物たちや畑の植物たちも、周りの環境の中で適応していきます。その適応は例えば、長い時間をかけて鳥が飛ばなくなることもあり、地上の生き物が水中に入っていくものもあります。

これは決して数年から数十年で行われることではなく、数百年数千年をかけて行われていきます。これを私は「進化」と呼びます。進化というのは、環境に適応しつつ自分の方が環境にあわせて変化していくことです。

ヤゴがトンボになるように、地中の幼虫がカブトムシになるように進化の過程で生き物は変化していきます。現在の人間が機械を用いておこなっているのは進化ではありません。赤ちゃんをみているとその進化の原点が確認できます。

自分から進化をするというのは、古来からの生き方を伝承しつつ今に温故知新していくことです。進化をやめるのは、自分は変わらずに環境の方を変えていけばいいという人間の傲慢さのようにも思います。如何に便利な技術で、環境をコントロールした気になったとしても、本格的な自然災害に耐えうる持続可能なものは現段階では生まれていません。

人類は改めて、進化とは何か、赤ちゃんから学び直す必要性を感じています。子どもを人類のお手本にして原点回帰する時代も近づいてきているように思います。引き続き、子ども達のためにも環境について深めていきたいと思います。

古いということ

昨日は、聴福庵の板戸や柱の数か所をベンガラ塗りし乾燥させたあとミョウバンで仕上げを行いました。深くて温かみがあり重厚な暗い紅色は、なんど見直しても見飽きることがありません。かつては縄文以前より土器などにも使われてきたこの紅色の魅力、有史以来から大事に使われて来た染めの色に不思議と心が馴染んできます。

このベンガラは土中の鉄が酸化した『酸化第二鉄』を主成分とする顔料でのことです。このベンガラの名前の由来はインドのベンガル地方で良質のものが取られたことからベンガラニッチという地名が色名になったというのが有力な説です。日本では漢字を当てて紅柄、紅殻と書かれることもあります。

私はこの色のことを「古色」と呼んでいます。つまりは染めにも色々とありますが私たちがかつてから安心して使ってきた色には確かな意味があり、古代の先祖たちが使ったものには自然美の妙があります。草木染めなども、あの浅く澄んだ柔かい色をみていたら心が涼やかになっていきます。色は常に心の機微や感情と密接につながっており、私たちは魂の深いところで色を感じているものかもしれません。

例えば、古木なども独特な色合いを醸し出します。そのものの色に包まれているだけでどこか落ち着く思いがあります。他にも古い伝統的な工法で造られた手作りのものなども傍に置いてあるだけで和んできます。

私達が「古い」と思っているものは、その古さの中に確かな理由があるのです。今の形になっている理由は、長い年月を経て時代の篩にかけられてやはりこの形がもっとも理想だったと試行錯誤の歴史の上に存在している形なのです。

古代の色や古代のもので今の時代にまで受け継がれたものというのは、新しいものにはない原色や原点が息づいているように私は思います。

そういう原色や原点を感じることは、何がもっとも自然であるか、何がもっともシンプルであるかを本能的に直感し、感性を磨くことにも欠かせないものです。

身近の家の中に、日本の伝統の精神が宿っているというのは私たちが常に原点としているのは何かを感じさせる絶妙の先祖代々からの伝承の仕掛けなのでしょう。

引き続き日本文化を学び直しながら、日本人としての感性を磨き直して子ども達に原風景を譲っていきたいと思います。

和紙の文化

昨日は行灯の和紙の張り替えを行いました。紙・裂・糊を使って繊細な木に和紙を張り付けていくのですが慣れない作業でとても集中力を使いました。昔の人たちはこれらのことを身近でいつもやっていたと思うと、丁寧な仕事の大切さを道具から学び直していたのかもしれません。

和紙を使うことは、採光のゆらぎがあり火を灯せば安らぎのあかりになります。プラスチックやガラスにはない、和紙を通った光は部屋全体を癒し夜の闇をより鮮明に映し出します。また西洋のように上から吊った電灯を照らすのではなく、下に置いた行灯を灯すと空間が活き活きと甦ります。日本家屋の贅沢さと豊かさは、この下から全体を包むように照らしたあかりが漆喰などの土壁をはじめ自然の木材や障子、襖の和紙、そして床の間などの奥行のある多重層の空間に御蔭(光と影の調和)をつくりだします。

日本の家屋の伝統美が豊かで美しいのは、先祖から今にいたるまで長い年月日本文化を育て上げて今のカタチにまで美を昇華してきた精神が宿っています。日本家屋の中で夜の闇の美しさに魅了されると、夜が来るのが待ち遠しく仕合わせで堪りません。聴福庵の魅力はこの夜の闇の中の穏かな火が、一期一会の日常の内省に最高の演出を与えてくれます。

話を行灯の和紙に戻せば、和紙はこの日本の夏の高温多湿、冬の乾燥にあわせて伸縮自在に水分を調節して安定する働きを持っています。ログハウスに住んでみて分かったのですが、一年で多湿と乾燥を極端に繰り返す日本の風土では木だと常に膨張縮小を繰り返します。玄関の扉などは、夏と冬で隙間ができたり、場合によっては閉まらなくなるので扉を付け替えたりと面倒なことが発生します。

しかしこの和紙を使えば障子や襖などもそうですが、まったく多湿乾燥の影響なく自然に順応しています。この和紙というものは、日本建築には切っても切れない関係です。

今はあまり見かけなくなりましたがかつては表具師という方々がいて床の間の掛軸をはじめあらゆる和紙を用いた伝統文化を発展させ日本文化として歴史を紡いでくれていました。日本人にとってこの和紙は欠かせない風土の智慧の結晶であり、西洋の単なるペーパーではなく日本人の精神が宿っている和紙なのです。

100年以上前の行灯の和紙の修繕をしながらかつての生活文化に思いを馳せているととても豊かな自然に恵まれた日本風土の美しさを感じます。

引き続き子ども達に日本の文化を繋いでいくためにも、古民家と対話しながら日本文化の砥石に心技体を磨いてみたいと思います。

旬の実践

自然には「旬」というものがあります。これは季節の廻りによってタイミングというものがあるということです。このタイミングを逃すと旬は離れていきます。今の時代はこの季節や旬を気にせずに好き勝手にやりますが実はこれはとても理に適っている古来からの大切な知恵なのです。

今回はこの「旬」というものを深めてみたいと思います。

この旬というのはよく食材で使われます。季節の中でもっとも美味しい時期を指し、この時期のものを食べれば身体にもいいし味も美味しいということです。つまり四季を通してもっとも最も生育条件が揃った環境で育てられ、最も成熟している時期であるのが旬であるということです。

この時の旬というのは「自然の恩恵」をもっとも受けている時期とも言えます。この自然の恩恵に感謝して、その感謝がカタチになったのが旬の定義でもあります。またこの旬には食材に限らないのも旬です。最後の宮大工と言われる西岡常一さんにこういう言葉が遺っています。

「仕事の割り振りでも、季節を考えなきゃなりませんな。働く人は農家の人が主です。だから仕事をするのでも農閑期に使えるように段取りしたものです。今はそれがありませんな。旬がなくなったんです。旬は食べものだけじゃないんでっせ。仕事を進めていく上でも自然の運行と深い関連がありますのや。」

仕事も同じく、環境が整い、環境に恵まれているときは何をやっても上手く事が流れていきます。反対にタイミングがズレてしまうと後の祭りになってしまうことが多々あります。なんでも直観的に行動する人は、このタイミングを逃すことがありません。タイミングを逃さずに行えば自然の流れに従って力をお借りすることができます。

例えば農家などは全部この自然の運行の力を使います。雨季の前に種を蒔けば、水を撒かなくても自然が水を与えてくれます。また雑草も待っていれば秋風が吹いて自然に枯らせてくれます。自分のチカラだけではなく、自然の他力を存分にお借りしてその仕事を成し遂げるのです。

今の時代は、自分の思い通りに動かすことが仕事だと勘違いする人たちが増えこの「自然の運行」や「季節の廻り」というものを無視して自分の都合だけでスケジュールを動かそうとさえします。

しかし何でも物事には「タイミング」があり「旬」がありますから、そのリズムを大切に守りながらそのリズムによって自分を運び動かしていかなければ仕事もまとまるものも全部流れていってしまいます。大事なのは自分の都合か相手の都合かではなく、「流れ」を読むことであり、全体でいま何が動き、何を行うことがもっとも全体の流れを邪魔しないのかと自分から進んでその流れに乗っていくことが必要です。

これもまた旬であるということです。

この旬を逃すとどうなるかは食材でも同じく、熟しすぎて腐ってしまったり早すぎて食べれなかったりします。タイミングを見続けるには自分を優先しすぎてはならないように思います。そして自分を度外視して相手のために真心を盡したり、思いやりから苦労を厭わずに行動していかなければなりません。それが自然そのものに繋がっているからです。

タイミングを逃さないというのは、いつも御蔭様に感謝して御蔭様を見続けている実践、つまりはそこには自分以外の物事がいつも自分を陰ながら助けてくださっているという謙虚に信じ続けているからタイミングに恵まれるのです。

運が善い人というのは、自然の運行に沿っている人ということです。

引き続き、自分の直観を信じて謙虚に学び直していきたいと思います。

自然に直す

昨日は、高菜漬けの漬け直しの手入れを行いました。毎年、秋の出荷に合わせて漬け直しを行っていますが塩加減で発酵しているものですから自分の都合で勝手にスケジュールを変えることはできません。

自然というサイクルというものは、相手に合わせて自分の方の動きを変えていくしかありませんから自分都合でスケジュールを動かしていたら相手は枯れてしまったり腐敗してしまうものです。

常に相手に寄り添い、自然に沿った中で自分の方が見守り続けていくことこそが自然と一体に謙虚に生きていくことのように思います。またその見守りの中で、今、相手がどのような状態なのか、今、どのようになっているのかは気にし合って意識しあって、心を離さず信じ合っている中で距離感が掴めてきます。

毎年同じように作っていても、同じようにできることは一度もなく、少しでも油断すると全部だめにしてしまうこともあります。酒造りや漬物作りは、今では化学薬品や化学調味料で同じように工場で温度なども一定管理して必ずできるものだと思っている人もいますが、自然に作るものが如何に難しいかはやっている人しかわかりません。

そういう意味で、自然に沿ってものづくりをする人たちの生き方、謙虚さにはいつも尊敬の念がこみ上げてきます。

これは作物だけではなく、ものづくりだけではなく、人間関係でも同じことのように思います。自分の都合でスケジュール通りにいったからと、それで人間関係が深くなったのではありません。やはり相手に寄り添い、手入れをし見守り合っていく中で関係が磨かれ育まれていきます。

人は思い通りにしたいという願望から、思い通りではないことを悪とさえ思う人がいます。しかし実際は、不自然だから思った通りにならないだけでそもそも自然が何かと常に正対し内省して自分の方を自然を砥石にして切磋琢磨するのなら思い通りなどというものがないことに気づきます。

そして思った以上のことをいつもしてくださっているという御蔭様の感謝に気づけるのです。今回の漬物であっても、私が不在の間、発酵場の生き物たちや菌類たち、そしてそこの家としてある木樽、そして炭、また漬物石や周囲の木蔭や木々、土にいたるまですべて御互いに活かし合い助け合い補い合いながら共生していました。

そういう場の中で私が作ろうとする高菜も見守られ、安心して出来上がっていきます。この場というもののは、ちゃんとその場を形成する仲間たちの存在が欠かせません。

手間暇をかけて自然に近づいていくことは、自分自身の不自然を直し、生き方を治すことです。引き続き初心を忘れず、何のために実践するのかを大切に取り組んでいきたいと思います。