永遠の物語~魂の綴り~

加速度的にスピードが増していく時代、それは何でも捨てていく時代だとも言えます。一体何を捨てているのか、それは物語を捨てていくということです。日々の暮らしも永い目で観てどのように暮らしていくかを省みるのではなく、刹那的な目でその場しのぎでこの一瞬さえ乗り切ろうとすることを繰り返しているようにも思います。

本来、今立っている場所をよく観直すと今まで久しく紡いでくださった時間の重みを感じるものですがそれをも感じることがないくらい目の前のことに追われていく日々を人々は送ります。

この目の前に追われていく忙しい日々になったのはなぜか、今の心の問題や社会問題もここに集約されている気がします。

昨日、クルーのみんなと一緒に福岡県八女市の福島地区を見学する機会がありました。その中でかつてのものをかつてのままに修復し修繕しながら町屋を再生していく姿を観ました。

簡単に新しいものに換えてしまうのは歴史がなくなってしまうからと、本物のままに遺そうと工夫を凝らしてパッチワークのように古材を活かしながら修理をしていきます。これは単に古いものを守ろうとしているのではなく、物語を守ろうとしているのだと感じます。全ての”もの”には記憶があります。それは一緒に暮らしていく中で、関係性や御縁の中で同じ時を共にした大切な思い出の存在だとも言えます。

だからこそその物は単なるモノではなく、その物には掛け替えのない一期一会の物語があります。物語があるということは無機質の存在であってもいのちが宿っているとも言えます。例えば何百年も前からある柱に子ども達がせいくらべをした痕跡があったり、屋根裏に隠した落書きがあったり、道具一つにはその時代を共に生きた人たちの魂の痕跡があります。その痕跡と共にあるものは、その痕跡の御縁に今も結ばれているとも言えます。

そうやって愛し愛されたものの思い出は時代を超えて今に伝承されていきます。そのものの物語を新しくその物語の続きを綴るのが私たちの存在そのものでもあります。

昨日の振り返りで特に印象深かったのが、今の時代ではもう素材が手に入らず修理できないまま壊れているものがあるという話です。それをどうするのですかとお聴きしたら、「材料がないからこのままにする、後は来世の楽しみにとっておく」と仰っていたことです。

今世でそのものを修理できなくても、来世生まれ変わったら修理してあげたいと願う心。思い出を大切にして何度もその思い出と触れていきたいと、いつまでも感じる心の中に魂の邂逅と勿体なく生きている人間と先祖たちの生き様が観えてきます。

来世もあるからこそいい加減な関わりは持つまい、そして捨てるのではなく大切に物語を紡いで綴りたいと感じるのです。この魂の綴りこそ時を超越して悠久の中でご縁に活かされる豊かで仕合わせな暮らし方の証明だと私は思います。

勿体ないという言葉、おもてなしという言葉、真心という言葉、それは全ての中心に「物語」があるということです。物語がないものがないからこそ、どんな物語を温故知新していくかは自分の生き方次第です。

悠久の時の流れの中にある今の御恩に報いられるよう、また来世の子ども達のためにも全ての機縁から学び直して紡ぎ直して永遠の物語を語り続けていきたいと思います。

人間の仕合せ~仲間の存在~

人生には、何をするかという考え方と誰とやるかという考え方があります。これは旅も同じでどこへ行くかではなく誰と行くかというものがあります。面白い旅には、もちろん目指したい旅路の方向性というものがあります。みんながどこに行きたいかは理想としている世界があり、自分がもっとも味わいたい場所へ向かって歩みを進めていきます。

しかし時として人間は何か成功を手に入れて結果を出そうとするあまり、行き先ばかりを求めるあまり周りを省みず一人になり孤独になることもあります。誰といくかを思えば自ずから旅の優先順位がプロセスに変わり仲間の存在が何よりも大切であることに気づけるようになるのです。

一生懸命に頑張って手に入れることだけが人生の歓びではなく、現在、いただいている御縁を噛み締めて仲間の存在に気づくこと、その仲間と一緒に生きて暮らしていく歓びに気づくことが人生の醍醐味のように思います。

小林正観さんに「もうひとつの幸せ論」があります。ここには『「人生の目的」とはと書かれ「思い」を持たず、よき仲間からの「頼まれごと」をただやって、どんな問題が起こっても、すべてに感謝する(受け入れる)こと。「そ・わ・かの法則(掃除、笑い、感謝)」を生活の中で実践し、「ありがとう」を口に出して言い、逆に、「不平、不満、愚痴、泣き言、悪口、文句」を言わないこと。すると、すべての問題も出来事も、幸せに感じて「よき仲間に囲まれる(=天国度100パーセント)」ことになり、「喜ばれる存在」になる。……これこそが「人生の目的」であり「幸せの本質」なのです。』と紹介されます。

とても印象深く共感するのは、人生の目的の中に「よき仲間に囲まれることが最も大切である」と書かれていることです。そして人生の目的を具体的に仏陀と弟子との話でその意味が紹介されています。

『お釈迦さまの第一の尊者と言われた、アーナンダはあるときお釈迦さまにこう言ったそうです。

「お師匠さま、今日、私はあることで突然、頭の中に閃(ひらめ)きが生じました。私たちは《聖なる道》というのを追い求めているわけですが、もしかしたら、よき友を得るということは《聖なる道》の半ばを手に入れたと言っていいのではないでしょうか」

《聖なる道》というのは、自分の中に悩み、苦しみ、煩悩がなくて、いつも幸せで楽しくて執着がない状態ですね。

すると釈迦は「アーナンダよ、“良き友”を得られたら、その《聖なる道》の半ばを手に入れたということではない」と言ったんです。

釈迦は言葉を続けて「アーナンダよ、良き友を得ることは《聖なる道》の半ばではなく《聖なる道》のすべてを手に入れることである」。

同じ価値観をもち、同じ方向に向っている人たちを自分の友人にすることが、実は人生のすべてなんです。』(弘園社)

善き仲間に巡り会いその仲間と一緒に人生を歩んで往くということ。そのこと自体が聖なる道そのものであり、それが人生の幸せを手に入れたことなんだということ。

私も色々と半生を振り返ってみて、どこから歩みが変わったか、そしてなぜ歩みが変わってきたのか、今の自分の選択があったのかを鑑みればこの「仲間に巡り会う」ことが全てであったと思えます。決して人々が願っているような成功や最初に思ったような成功は手に入らず、その通りの結果も手に入りませんでしたが、御蔭様で今が豊かであること、そしてよき友を得ることができたことの仕合わせに何よりも有難い思いがします。

仲が良いというのは、仲間が良いということです。この仲間が良いから仲が良くなるのであり、この人と人の中にあってその人たちが一緒に和気藹々と日々に暮らしていくことが何よりも居心地がよくそこには必ず人生の幸せがあります。つまり人間の仕合せとはこの「仲間に巡り会うかどうかが全て」であると感じるのです。

どこへ行くかではなく、誰といくか、もしも人生を2分割して折り返し地点を過ぎたならば頑張るのをやめて降りていく生き方をしてみるといいかもしれません。今の時代は競争や比較の刷り込みで、頑張り過ぎて苦しんでいる人たちがたくさんいます。頑張るのをやめて周りを大切に仲間と暮らしていくのならそこには今までに観えなかった幸せがあります。きっとないものねだりではなく、あるものの尊さに気づいてその刷り込みが取り払われ仲間が次第に集まってくると私は思います。

人間の道を示した仏陀の生き様に安心感を覚えます。そしてそのように生きた小林正観さんのメッセージが有難いと感じます。引き続き、子ども達に遺せる生き方を自らの道の実践で精進していきたいと思います。

歴史との対話~先祖になること~

古民家再生を手がけていく上でいつも感じるのが先人たちの暮らしを感じることです。現在は文字を使って文章で物事を伝えようとしますが、先祖たちはそのほとんどを文字ではなくそのものと対話をして伝承し続けてきました。

例えば、古民家であれば家の柱と対話し先人がどのように組んだのかをその意味を感じ取りメッセージを感受しました。他にも生活の道具一つであっても、大切に使われてきた道具が何に使用されたのか、どのように物と接してきたかのメッセージも感受しました。

この感受したというのは、その物との対話をして直感していくものです。現代は、そのものとの対話をしないですぐに理解しようとします。説明書やマニュアル、文章がなければ使い方が分からないとしすぐに投げ出してしまいます。これは生き方の変化であり、そのものと対話をして感受感得し深めるということなしに簡単便利に誰でもわかるようなものが人気があります。勉強をするのもさせるのも速効性があり、すぐに誰でも平均化できるものがよく売れています。

しかし本来、その物の由来はかつての先人や先祖の恩徳そのものでありその方々がどんな真心や思いでそれを遺し歴史を紡いできたかというものを伝承するのが子孫の勤めでもあります。

それは決して簡単便利に平均化されたものを単に使えばいいのではなく、そのものの真価に触れて今の時代ならその真価をどのように再定義して活かそうかと温故知新することが今を生きる私たちの本来の使命だろうと私は思います。

そうやって伝承されていくのが文化であり、文化のない単なる文明の利便性だけを追求するのなら歴史と対話することがなくなってしまいます。なぜ歴史が必要かということが分からないで今を生きているというのは誠に滑稽な話です。この歴史というのは、そもそも先祖と対話をするために遺すのです。私たちは歴史に触れることで今を感得し、今の自分があることの意味を知ります。知識だけが膨大に増えて何でも分かった気になり知ったかぶってみても、その本質を感受感得していないのはスキルだけが上塗りされる中身のない薄っぺらなものです。

歴史を学び直すのは、歴史と対話していくことです。そして歴史と対話することは、先祖になることです。

先祖の暮らし方に触れ、先祖たちは子ども達を深く愛している真心や愛情を感じない日はありません。先祖たちが子ども達のためにと実践してくださったこと、里山然り、古民家然り、自然に逆らず福を惜しみ少しでも子孫へ渡せるようにと気遣ってくださった姿に恩徳を感じます。

子ども達である私たちが歴史と対話し感受感得するものは先祖たちの恩徳であるべきでしょう。

私も先祖の一人として、先祖として子ども達に生き方を譲り恥ずかしくないような暮らしを実践していきたいと思います。子ども第一義は、実践躬行にこそありますから引き続き家から生き方を立て直していきたいと思います。

 

内的生産性

先日の理念研修の中で「内的生産性」という話をお聴きすることがありました。生産性という言葉は、産み出す力のことで如何に生産性を高めるかということが組織の課題だとも言えます。一人ひとりの生産性が高まれば高まるほどに組織は生長し、生産性を上げていくことができるからです。

この内的生産性というものは、一般的には「意識」ともいいますが動機やモチベーションのようにも使われます。それに対し外的生産性というものは「行動」であるとし、如何に実践により成果を出していくかというものです。

この意識と行動というものは、一人の中で完結する場合もありますが組織においては役割分担をすることでそれが相補作用を行うこともあるのです。

例えば、ある組織のリーダーがポジティブ思考を持っている人であったとします。するとそのリーダーの意識が全体の組織に与える影響は大きく、失敗を怖がらず成長を愉しみ、また悪いことも善いことへと転換しますからどんな出来事もチャンスに換えて挑戦していくことができるものです。この反対にネガティブ思考を持っている人だとすると、その影響は先ほどのことと逆に事が起こってきます。

先日、ある映像の中で拝見したのはある御店の店長をした方が重度のハンディキャップを持った方でしたがその方の笑顔で周りのみんなが元気になるという御話でした。その方は具体的に身体を動かし外的生産性を産み出せないように見えましたがその人の存在自体が産み出す内的生産性によって周りが動機づけられ相乗効果を産み出しているのです。

この「笑顔」一つが与える影響を観るとき、笑顔が持っている内的生産性の価値に気づきます。自分の意識が与える影響を知る人は、周りを活かし自分を活かすことができる人です。

このことからもわかる様に一人ひとりの意識というものは何よりも重要であり、自分くらいという意識が全体に与える影響は大きいのです。自分勝手に我儘に自分の保身ばかりに視野狭窄になっているとその意識が周りを辛く苦しいものにしてしまいます。貢献というのは、自己内省による克己の実践をすることではじめて共生の価値に気づくものです。だからこそそれぞれ一人ひとりが自分の意識に責任を持つことで生産性というものは確実に高まるのです。

自分が何もできないからやらないのではなく、自分のできることで何でも貢献しようとするその意識、たとえできなくても少しでも力になりたいと発奮し協力して御互いに必要とし助け合い見守り合うからこそそこに確かな行動が生まれ本当の生産性が発揮されていくのでしょう。

だからこそ組織のリーダーは、そう思えるような組織にしていく必要があります。愛し愛し合う組織というものは、御互いを大事に思いやり御互いに大事にしたいと思える居心地の善い場を創っています。

引き続き、内的生産性の価値を深めていきたいと思います。

 

場の責任

昨日、新潟県にある「実家の茶の間」で理念研修をする御縁をいただきました。ここは代表者の河田桂子さんが自らの体験をもとに創造された場所です。見学してすぐに気付くのが、私たちの弘めている見守る保育と同様にそれぞれの人たちが自主的に自発的に参加をして場を創りあげていたことです。

それぞれに環境が用意された中で、一人ひとりが自らの考えで行動し活動する。また協力し助け合い、それぞれが学び合い愉しいときを共にする。一緒に生活している人たちのぬくもりが伝わってきました。つまりここではみんなが主役の居場所としてそれぞれが主体的に協力しているからこそ居心地が善い場が創造されています。

現在、世の中ではサービスを提供する側とサービスを提供される側に分かれています。そうなってしまうと、サービスを提供する方は一方的にサービスをし続けなければならないし、サービスを提供される方もただサービスを提供されるのを待たなければなりません。このように立場が分かれてしまえば、御互いに一緒に取り組むというよりは御互いに求め合う関係ばかりになってしまいます。これは組織の上下関係などもそうですが、立場を自分から分けて取り組んでいるから主体性が喪失していくのです。

本来、自らが主人公になり主役であるのなら立場が分かれるということはありません。一緒に同じ方向に向かって助け合い生きるのだからそれはまるで平等な関係です。不平等に上下で分かれるのではなく、役割分担があるだけです。

場というものがどういう時に生まれるかといえば、依存し合っている中では決して発生してこないと思っています。場は、それぞれが主体的につくり上げるものです。言い換えるのなら居心地が善い場を創るのは、その場にいる一人ひとりの自発的主体的な関わりによってはじめて醸成されるのです。

学校の中で刷り込まれて育つと、教えて貰う人と教える人が分かれています。教えてもらうことが当然になっているから、不平不満を先生にぶつけます。そして教える方も、教えることが当然になっているから生徒に不満を持つようになります。本来、学問は学び合いであり気づき合い磨き合いによって成り立つものです。一方的にどちらかが立場を分けてその立場でやってもらおうとするところに消極的で受け身な姿勢が沁みつくように思うのです。

本来、人は主人公であり誰もがこの世の中で生きていく責任を持っています。言い換えるのなら生涯現役で世のため人のために生きながら仕合わせを磨いて高めて豊かにしていく使命があります。それが御役に立てる歓びであり、人が人である理由でもあります。

現在は、すぐに誰かにやってもらおうとして誰かのせいするという刷り込みが沁みついてしまい自分でいることが出来なくなっている人がたくさん増えています。子ども達も同様に、主体性を発揮することができなくなると目の輝きが消え個性が失われていくものです。

一人ひとりの個性を尊重し、人間を平等にしていくことは自然体の人間に回帰していくことです。「場」を創る人、言い換えるのならその場でどのように生きているかで場は産まれますから場に対する責任をいつも持っていたいと改めて責任を感じました。

私たちは刷り込みを取り払うのが本業のようなものですから、ここでの学びを活かして如何にして「場」を工夫するかを発明していきたいと思います。子ども達と子どもたちに関わる人々すべてが分かれていないところで協働できる皆働社會を引き続き実践を通して創造していきたいと思います。

日本人らしい生き方~報恩の実践~

昨日、新潟の点塾で2回目の理念研修をする御縁をいただきました。もう長い間同じように様々な方々に同じ理念で使われてきた場所で今の私たちが理念を体験したこの機会がただただ有り難いと仕合わせな気持ちになりました。

人生というものは、一期一会です。

どんなことがあるのか、どんな出会いがくるのか、それは一瞬一瞬の邂逅に由ります。私たちは御縁というものに導かれていきていますから、その御縁がこれからどのような変化と広がりを持っていくのかはこの今に懸っています。

そして未来に思いを馳せるとき、人は同時に今までのことも追憶します。今までを思いかえせばかえすほど今の自分があるのが多くの御縁を頂いた方々の偉大な御蔭様であることに気づきます。あの時、あの出会いがなければ今の自分がなく、あの出会いを活かしてこれからからこそはじめて今の自分が存在します。

その出会いを活かすとは何か、昨日、塾長の清水義晴さんからとても大切なことを教えていただきました。

「今の自分があるのは、そのご縁を繋いでくださった方がいるから。それが原点だから私はその人を決して忘れないし、いつまでもその人のことを語りつづけます。その御恩を忘れていないからです。」

よく聞く報恩感謝という言葉は、言葉としては知識で見知っていてもそれを「実践する」というのは生き方に顕れていきます。すぐに人は傲慢になり有頂天になるとそれまでの御恩を忘れてまるで自分がコントロールしてやっているかのように錯覚します。しかし実際によく反省し観直してみればすぐに自明するものですがこれまで何一つといっても御蔭様の力をかりずにやったことはないのです。だからこそいつまでも御恩を忘れず感謝のままに生きていくことが、本来人として当たり前のことなのです。

謙虚さというのは、自然の中だけにあるのではなく人の中にもあります。それが報恩の実践をし続けているときであり、恩を片時も忘れないで生きている時だと私は思います。

人になるために学び直す、それが人格形成の本質なのかもしれません。

私自身、今まで本当に多くのメンターに出会い助けていただきました。その御縁は忘れがたいほどの形見です。子ども達のためにも間違えることがないように日本人らしい心を形見にして生きていきたいと思います。

家とは何か

昨日からクルーのみんなと一緒に新潟の弥彦村に来ています。弥彦神社に参拝し、宝物館をはじめ百年以上続く古民家を見学したりと「いにしえのえにし」を直感しながら過ごすことができました。

私は初代当主を名乗った数年前から「家」とは何かと考え続けています。歴史を鑑みて代々家が繁栄し続いていくところと、すぐに家が廃退してしまうところがあります。その違いは一体何か、それを見極めるためにも古きよきものに触れ学び直しています。

今回は少し今まで気づいたところまでをまとめてみようと思います。

永く続く家というものは、徳がある家とも言えます。代々、徳を高め徳を譲り徳が遺るものが永く続く家の特徴です。家が廃退するというのは、目にはみえない徳が廃退することに似ています。如何に自らに与えられた徳に気づき、その徳を活かすか、そしてその徳を伸ばしていくか、それはその代の生き方に懸っているとも言えます。

そして今の自分の徳を思うとき、その徳はどこから来たものか、それは先祖の丹精であることに気づきます。ご先祖様の皆様が、その代その代をもって一生懸命に世のため人のためにと自分のいのちを周りに役立てていたとも言えます。その苦労がみのり、今の代に種から芽が出て花が咲くように繁栄が訪れているとも言えます。

以前、幸田露伴の幸福の三福のことをブログで書きました。徳とは福のことで、福を如何に使い切らないかということが書かれていました。同じく徳を如何に使い切らないか、言い換えるのなら如何に自分が日々に徳を積み続けていくかということです。そういう徳を重んじる生き方、二宮尊徳はこれを報徳とも言いましたが先祖の御恩に感謝し、先祖の徳に報いるように自分の代を盡していくことが継承していく真理であろうと思います。

そして家とするとき、もっとも大切なことは「火を絶やさない」ということだと私は思います。その火とは何か、火は一つのもので謙虚と傲慢を顕します。人が己に負け傲慢になるとき、その欲望が業火の如く顕れ焼きつくしてしまいます。しかし人が己に克ち謙虚になるのならその火は、世の中を光り輝かせ照らす美しい火となり心を癒していきます。

比叡山延暦寺の国宝根本中堂に1200年絶えたことのない火があると言います。常に菜種油に4~5本の芯をつけ火が灯り続けています。この油を一瞬でも絶やせば火が消えることから ”油断するな” という語源が生まれたそうです。

この「油断するな」とは、いったい何を油断するなということなのか。

それは初心に対する情熱を決して絶やすなということだと私は思います。家の存続は、この「油断するな」の一言に尽きると私は思います。どんな時も、理念や初心を忘れずに日々に実践し続けることを怠らなかった家は何百年何千年と火が絶えません。

火は己自身ですから、その火を消すのも灯すのも自分次第です。

家を守る人は、どんなことがあってもその火を守り続けていくのでしょう。血筋がどうこうではなく、火を守れるかどうかが当主の資質です。未来の子ども達のためにも、1000年、10000年と続く家を興せるように真摯に今生と向き合っていきたいと思います。

火の用心~心のぬくもり~

現在、炭を使って暮らしの実践に取り組んで一年になりますが毎朝と毎晩の火入れは心安らぐ温かな時間になっています。火鉢に炭を入れ、鉄瓶で御湯を沸かしむかしからの手法で育てられたむかし茶をのむ。心と言うのは、考える以上に感覚が先になりますから毎日のこのほっとする時間にとても暮らしが充実していくのを感じています。

現在はガスを中心に火は用いられますが、ガスの火と炭の火はまったく異なるものです。人はみんな火をひとくくりにして「火」といいますが、火は扱う人や道具によってまったく異なるカタチをしているのです。

例えば、ガスの火はボウボウと一方的に強い火で人工的につくり上げています。火力もいきなり大きな強い力で素材に火をつけていきます。しかし炭の火はじっくりとゆっくりと周りから弱い火で自然につくりあげていきます。呼吸をするように少しずつ火は強くなり全体に浸透するように火をつけていきます。

これは滝つぼに落ちる巨大な水と、せせらぎに流れる水との異なりと同じようなものです。人はそれをただ水と呼びますが、それは水でも似て非なる存在なのです。台風と微風も同じものではありません。

そしてこの炭を使って行う火は、常に心を遣います。最近は聞かなくなりましたが、昔は夜回りといって拍子木の音と一緒に「火の用心」といいながら地域で歩いてまわったことがあります。

「火の用心」は「火は心を用いる」と書きます。火を危険視して危ない存在として遠ざけるのではなく、火を用いるときは常に心も一緒に用いるものだという意味であったと私は思います。

炭火の暮らしをはじめてみると、炭と火のもつあたたかさを感じます。このあたたかさは「心のぬくもり」のことです。炭と火を使い、人をもてなすというのは心を用いて行う実践の一つです。

聴福庵が囲炉裏にこだわるのは、囲炉裏という場に人が集まるためであり炭にこだわるのは循環していく日本人の生き方を顕すためであり、火にこだわるのは心を用いて謙虚であり続けるためなのです。

火は自然物そのものであり、私たち人類の最大のパートナーです。

引き続き、火の用心の実践を深めていきたいと思います。

実践の意味

昨日、永い間お会いしていなかった方とお会いすることができました。もう16年ほど前にご一緒してから、何度かご連絡したのですがすれ違いようやくお会いすることが出来ました。

ずっと永い間、お会いしていなかったものの会ってみるとすぐに懐かしく心が温まる有り難いお時間をいただくことができました。あの頃には分からなかったと、あの頃にはこんなに近くて同じ方向に向かって御互いに一生懸命であったことなど気づきませんでした。

お会いしてみると、子どものためにどれだけ深めてきたのか、また社会のためにとどれだけ盡してきたのか、どれだけ実践を積み重ねたのかが全身全霊の感覚で伝わってきて有り難く嬉しい気持ちに包まれました。

ご縁はとても不思議で、立場がどうであっても志が同じくしている人との出会いは本当に仕合せです。論語に、「遠方より朋来る・・」がありますが御互いに実践していることを学び合い語り合えれば瞬時に仲間であることを思います。改めて、学問の醍醐味に感謝します。

昨日印象深かった話に、レッジョエミリアの保育の話です。これを現在は、レッジョ・アプローチというが、実際はレッジョ・インスパイアであるということ。つまり、イタリアを真似ても意味がなく自分で実践してものにしていかなければならないということです。

自然農を実践していく中で、私も試行錯誤して取り組んでいますが真似しようとすればするほどに真似できず、何回やっても同じようにはなりません。その時、自然農の川口由一先生にどうしたらいいのかと尋ねると「田に独りで立ちなさい」と言われたことがあります。

その時から私は「田に独りで立つ」と覚悟し、自分で実践して咀嚼し自分で味わい自分でものにすると決心して今でも取り組んでいます。教科書があるのではなく、誰かが教えてくれるのではない。自分で学び自分で感じ取るものが本来の姿なのです。そのために教えてくれる先生は自然、自然から学び直し自分の中にある知識を削除していく作業をしていくのです。

昨日のお会いした方が「やるからこそ課題が観える、やるからこそ本では得られないことができる。そういう世界で生きている、臨床とも言う。子どもと向き合うのが仕事であれば、子どもに向き合ってみないとわからない。実践の意味はそこではないか。」と仰っていました。

人はやりもしないのに分かるはずがありません、それは知識や頭で分かったものは所詮分別された単なる切り取られた部分であって全体を掴んだわけではありません。コツを掴むこともなく、頭で知っただけでは焦りばかりつのって実際には現実がカタチになりません。

だからこそ分かった気にならないでいるには「実践する」しかないのです。実践というものは知識とは違って「積み重なる」ものです。つまりは集積していきます。ある程度、実践が集積すればその時からはそれが現実の世界で活用できる智慧に変化します。

知識を智慧に昇華するには、場数しかなくトライアンドエラー、そしてまたフィードバックという回数を徹底するしかありません。量がある一定の量を超えるまでやるということですが、質はそのあと自ずから転換されていくように私は思います。

どんなに大変であっても実践を怠らない理由はそこに在るのです。本来の力とは継続のこと、継続とは自分に打ち克つこと。そういう実践をするもののみが、現実の世界で真実を継承し次世代へ伝承していけると私は信じています。

改めて始まった御縁から、色々とまた御役に立てるように関わっていきたいと思います。御縁は本当に何度も何度も容を変えて、機会を得ては顕れますから感謝の心で引き続き精進していきたいと思います。

真心を磨いていく

人は真心を磨くことによって徳を高めていくように思います。その中に智慧もまた生まれてくるようにも思います。そう考えてみると、人間関係というものの中に思いやりが必要でその思いやりに気づくためにも人間関係を学び直しているのかもしれません。

かつての古民家を調べていると、人と人との距離感の中に真心が入っているのを感じます。自分だけでは生きていないのだから、相手への配慮や相手への関心を持つこと、また自分が7割の居心地の善さに留めておいて3割は謙虚に自省していることなど、かつての暮らしには御互いを思いやる真心が随所に残っています。

今の時代は、明治維新以降の湾曲された西洋化が進み歪んだ個人主義が蔓延しているとも言えます。ちょうど町家を調べていたら様々な記録が残っているものも発見し、どのように日本が変わってきたかも次第に深まってきました。その中でもっとも大きかったのは、自分さえよければいいといった我儘な押し付け合いのような社会が広がっていったことのようにも思います。

現在のように人間関係で特に悩み、周りと隔絶しようとする人が増えるのも社会の影響を受けているのかもしれません。本来、人間関係というものは自分勝手なことをすればするほどに周りに迷惑をかけるものです。何もしなくても迷惑はかかるのだから、御互いに思いやりながら相手に尋ねて相手に聴いて自分自身の勝手な思い込みで動かないように気を付けなければなりません。

そのためにコミュニケーションがあり、対話を通して智慧を高めていくように思います。御互いが相手の気づかないところで相手を思いやることで徳が高まり、そして問題があって深く反省し自分を変えていくことで真心は磨かれていきます。

人は人を通して仕合せを感じますから、より仕合せを感じて豊かになるには真心を磨いていくしかないように私は思います。そして真心には終わりがありませんからこの真心を磨くというのはどんな人でも平等に一生涯の使命なのでしょう。

時折、感動し、また苦労し、悲嘆し、歓喜し、心を痛めたり平癒したり、いろいろありますがその中で真心が磨かれていることを忘れないようにしたいと思います。引き続き、真心を磨いていくことに専念し日々の内省を深めていきたいと思います。