場とは何か

日本の文化の中には、「場」という概念があります。最近ではパワースポットなどとも呼ばれ、その「場」にいくと不思議な力が宿っていてそこで何らかの力が引き出されていくと考えられています。

この「場」には何があるのか、そこにはその「場」を創りだしている意志があります。それを少し深めてみたいと思います。

例えば、ある組織の集団においてその集団をファシリテーションする人の存在はとても大きなものです。学校でいえば先生などがそれにあたります。幕末の松下村塾などは、吉田松陰という人物が志を掲げ塾を通して「場」を顕現しました。その「場」には志士が誕生し、沢山の同志たちが集まってきました。それもまた吉田松陰という生き方や意志が「場」に反映されているとも言えます。

先ほどの組織に戻れば、組織をファシリテーションする人物の思想や生き様、生き方や信念、その姿勢や実践がその周囲に「場」を産み出していきます。この「場」というものは、直接的に発生するのではなく間接的に発生していくものです。それは言い換えれば、祈りによって物事が成就することにも似ています。祈りというものは、神仏に祈るのですが祈っているうちに信じる力が備わってくると自分以外の他力によって物事は解決していきます。ここには直接的に自分がやってあげたり自分が何かをしなくてもその祈りによって時間が自然に物事を解決していくのです。そういう体験をしたことがある人は少なからず存在しているように思います。

これなどは先ほどの「場」に意志が働き間接的な力が引き出されて物事が好循環していくのですがその場作りをする人の意志がとても重要になるのです。

別に特別な力を感得していなくても、産まれてきたことや育ててもらったこと、今生きていることや授かっている全てが「何ものか」によって与えていただいたものだと感じるときそこに御蔭様といった「間接的な力」を感じることができるはずです。

この間接的な力は、意志によって左右されます。その人の理念、信念、初心、生き方、生き様、覚悟、大義によって「場」が創出されるのです。この場のことを別の言葉で言い換えれば「想念」と呼んでもいいのかもしれません。

どのような想いとどのような念を抱き生き続けているか、その意志を継ぐ者たちによって場が永遠に受け継がれて益々場はチカラが漲ってきます。パワースポットには、その太古から連綿と続いてきた意志の場が遺っています。その意志の場に自分を運べば、その意志の力の影響を受けて自分の内面にあるものが引き出されてきます。そこには間接的な力の密集地帯であり、その間接的な力を得て人は元気を取り戻すのです。

私たちが取り組む聴福人の実践もまた、この「場」をファシリテーションしていることと同じです。どのような場を創出するか、それは聴福人をする人物の想念に懸っています。その想念をどれだけ真摯に抱き、そこに「場」を創出するか、それはそこで働く人たちの気づきの集積と理念の反復、そして素直な内省によって育まれていきます。

「場」さえ出来上がってしまえば、あとはそれを受け継いでくれる存在が永遠に発展させてくれます。常に間接的な力によって物事が動いていくことを信じて、どんな想念を持つか、そしてどんな場をつくっていくか、日々に御縁を味わっていきたいと思います。

安心基地と平常心

人間をはじめすべての生き物は、それぞれの持ち味を活かして才能を発揮して生きています。如何に自分の能力が周囲に活かせるか、特に集団で共生する人間にとってはその力はとても重要です。

そしてそのパフォーマンスの良い状態を如何に持ち続けるかで個人をはじめチームとしての協働が効果的になり最高の力を発揮していくのです。その状態になるにはどうしたらいいか、それは安心を如何に創りだすかのように思います。

藤森平司先生が、見守る保育の中でよく安心基地という言葉を使われます。具体的には、子どもが意欲や好奇心を持つための安心基地が必要で、子どもが大切にされているという気持ちが持てるように、求められた時にはいつでも手が差し伸べられるような「保育」の精神そのものであるといいます。

この安心するということが如何に自分のパフォーマンスを高めるかは、あまり大事にされてきていなかったように思います。不安を解消するために動いていたら、そのパフォーマンスは自分だけが下がったのではなく周囲も下げてしまいます。自分が安心することで周りが安心し、自分を含めて周りも自信がつくものです。しかし自分が不安であれば周りの自信をも奪ってしまいます。

そして人は安心する存在がある人ほど、その人は自分の実力を存分に発揮していくことができます。これは子どもだけではなく大人においても「自信」を持つということが如何に大切かわかります。

自信を持つためにも安心基地は必要であり、それは一つの生き方モデルを持っている人を手本にしてもいいし、いつも助けてくれる仲間があってもいい、もしくは王道を歩む師匠や、陰ひなたからいつも見守ってくれているメンターがあってもいい、その人が安心するものを持つことでその安心が自信につながっていくのです。

その人の不安をどう拭い去っていくか、それは抜苦与楽にあるように思います。人の不安はどこからくるか、それは心から来るものです。そして過去の失敗やトラウマ、そういうものが棘として引っかかっておりそれが抜けなくて苦しむのです。もしくは、何かしらの我執や執着を持っているから余計にその苦しみが大きくなっているのかもしれません。

そういう人たちの力になり、自信になり、不安を消すというのは発想を転じて福にしたり、どんな時でもこの人が援けてくれるという絶対的な信頼を築き上げることでそのトラウマや不安は小さくなって安心が増えていきます。将来的には不安が気にならないようになればなるほどに、その人やチームのパフォーマンスは常に好循環に入り目的や目標は自ずから達成されます。

まず聴福人の実践するのは、その不安に寄り添うことです。そして自分の心配するまのないくらい真心を盡していくことです。実践はシンプルですが、それは日頃からの自分の心の状態の維持、つまり安心基地と平常心が大切になります。

子ども達に見守るを広げていけるよう、大人たちからお手本になるような見守りを実践していきたいと思います。

伸びるチカラ

変化と成長というのは、日々に地球が廻る様に私たち人間も前進していくことに似ています。自然界も同じく、変化成長を已みません。同時に私たち人間も日々の仕事や出来事、様々な御縁や出会い、挑戦によって変化成長していかなければ時代の流れに取り残されてしまいます。

結局、変化とは人格形成をしていくことであり如何なる出来事に対していかなる人格を磨いたかということが変化と成長には深く関わっているのでしょう。

先日、お客様から興味深い御話をいただきました。

常に物事はその良し悪しや好き嫌いに関係なくどのようなことが起こったとしてもそれは自らの人格を高めるために起きた出来事だとし、その出来事に素直に向き合ってその出来事を受け止めるということです。

そのために必ず行わなければならない3つのことがあるといいます。

  • 人や環境のせいにしないこと。
  • 人と比べないこと。
  • 人の悪口を言わないこと。

つまり言い訳をせずに誰のせいにもせず、何ものとも比較しないということです。これは斜に構えないという言葉の代わりでもあるように思います。何でも斜に構え受け止めないで流していたら、いつも物事の本質やその物事が発生した理由などは考えず、現実から逃げ言い訳ばかりに終始していたら自分が変わる機会を失ってしまいます。

人は自分にとって都合が悪い出来事があるのは、自分の自我欲や執着に気づきそれを手放す機会でありそして自分のとって面白くない出来事があるのは、自分に沁み付いた生き方の癖を直す機会です。

そういうものを如何に受け止めるかで人間の変化と成長が変わってくるように思います。そしてなぜ人間力が必要か、それは周りは変えられず自分の見方を換え変わるしかありませんから徳がいるのです。この徳というのは、人が道を歩み続けて変化成長を已まないことで磨かれて研ぎ澄まされていきます。この徳が磨かれて高まれば、どんな出来事があってもそれを丸ごと前向きに信じることができ、そしてどんな事件があったとしてもそれを全て有り難い御蔭さまと感謝で祈ることができるようになるからです。

人間は産まれてから死ぬまでずっと精進が必要なのは、変化成長こそが生きる意味につながっているからです。もし世の中に成功の秘訣があるとするのなら、それはこの変化成長を已まないことのように私は思います。誰かのマイナスや、言い訳、そして比較をするとき人は「必ず停滞」します。それは変化成長を自らがとめてしまっているとも言えます。だからこそ、誰かのプラス面を観る、そして言い訳をしないで受け容れる、さらには自分の信念や天命を優先し、理念を自分らしく遣り切れば必ず成長と変化の流れが進み時間が物事を解決してくれるように思います。

時間も流れ世界も循環しますから、大事なのは成長と変化をし続けることのように思います。この変化と成長、つまり伸びるチカラこそ変化成長の根源です。日々に来たものを選ばずに、ど真剣に全てのことにニコニコ顔でいのちがけでやってみてそれをじっくりと省みて味わっていきたいと思います。

自然の暮らし

神話の時代、私たちの先祖たちが暮らしていた時代は自然に沿った暮らしをすることは当たり前だったように思います。自然の廻りの中で、春夏秋冬、季節の準備や生活道具の準備、その他、様々な食べ物の調達や保存をしながら他の生き物たちと一緒に日々を味わい繋ぎ過ごしていたように思います。

今の時代は、自然に沿わなくても一年中食べ物が豊富にありますし建物の中にいて空調器具を使えば一年中同じ温度で過ごせます。また時間がキメ細かく設定され、スケジュールが決められその通りに進められます。動物や虫たちは生活圏内から姿を消し、植物はコントロールされて栽培されています。

人間の思い通りになる世界というものの中にどっぷりと入り込んでしまうと、自然に沿うということはなくなっていくのかもしれません。人間にとっての便利さを追求しているうちに、不便さの代表のような自然は遠ざけたい存在だったのかもしれません。

しかし自然に沿う暮らしを手放すことで私たちはとても大切なものを失っていくように思います。それは何か、それは自然への畏敬を忘れてしまうことです。そして自然への畏敬とは何か、それは全ては自然のハタラキで私たちが活かされていることを感じなくなることです。それは信じる世界の消失であり、本来の絶対的な安心を手放していくことです。

最近、祭りを深めていく中で気づくのは自然(神様)に祀ろうということの意味です。古代から人々は自分たちが自然の一部として存在し、自分たちをいつも陰ひなたから助けてくださっているのは自然(神様)であると信じていました。これを私は「かんながらの道」の実践の一つだと感じていますが、本来、自分の力などはなくすべては自然のチカラが働き事が為るという発想を持っているということです。

言い換えれば、その頃の人々は自然(神様)の御蔭様を沢山授かることができたことが実力であったのです。だからこそ、自然に沿うように、自然に間違えないように心を清め、素直に正直に純粋に自然の流れが読め、自然と一体になって自分たちが邪念や邪気、我慾などに流されないように創意工夫を施していたように思います。祭りなどはその最たるもので、全国約30万種以上ある日本の祭りはかつての私たちの先祖が常に自然に寄り添って暮らしてきたことの証明でもあるのです。

自然に沿うためには、自分というものを一度見直す必要があります。そして自信というものの本質を改め直す必要があります。自分とは自然の一部であることを決して忘れず、自信とは自分の力ではないという御蔭様の本質を悟ることです。なぜなら自然の一部である時が素直になるときであり、御蔭様の御力を感じるときが謙虚になるときであるからです。

私たちの先祖たちが永らく暮らしてきた自然の暮らしは、とても素直で謙虚だったように思います。そういう暮らしはとても心の安静がありまさに平和で幸福な楽園だったような気がします。かつてできたその暮らしは今ではもう取り戻せないのでしょうか、時代は次代に受け継がれていますが大切なものを失わないように繋いでくださった文化はまだまだこの国の端々に遺っています。

その一つ一つを結び付け、かんながらの道を譲っていくこともまた子どもを深く愛し慈しむことのように私は思います。自然から学び直すことができることは有り難いことで、自然そのものが先祖一体ですからいつまでもなくなることはありません。

刷り込みを取り払い、刷り込みに気付いてどのように現代で折り合いをつけるか。まだまだ実践によって深めて融和していきたいと思います。

 

使命感と責任感~人が強くなるということ~

人は行動を起こすとき、使命感と責任感があります。

どちらかといえば責任意識が強い人は組織の中で自分が指示命令を受けて責任の範囲を決めて動いていた経験が長く、自分にプレッシャーをかけることで責任を感じて行動しようとします。責任が重大であればあるほどプレッシャーはかかりますから、そのプレッシャーのストレスに押しつぶされそうになりながら頑張っている人も良くみかけます。スポーツ選手なども大事な試合や、国の代表選手や決勝での試合などその責任感で本来のパフォーマンスが存分に発揮できずに悔しそうにしている場面もよく見かけます。

また組織では上司が部下にプレッシャーをかけたりする場面があったり、本人が自分でプレッシャーをかけて頑張ろうとします。誰かから指示命令されてやらなければならないことはその指示命令された範囲をきちんとやれば責任を果たしたと褒められるものです。責任の範囲を決めて運営する組織というのは、最高責任者がトップにいてその下に責任を切り分けた責任者がいて、またその責任者がまた細かく責任を切り分けて、それぞれの人たちに範囲を限定してその範囲内を責任を果たすように管理していくことで成り立ちます。自分の与えられた責任を果たしていれば、自分の仕事はちゃんと行ったことになりますから与えられた責任以外はやろうとしなくなるものです。しかしこれは責任感ではなく、責任のことです。本来の責任感とは、何のためにやるのかといった理念を自覚し、自分がやらなければ誰がやるといった自らの在り方や生き方に対する自覚でありそれが育っていくことが責任感とも言えます。

そして続けて使命感というものがあります。

使命感は、自分の人生の目的を持ち、なぜこれをするのかのその意味を知り、その上で自分は何を成し遂げるのかをはっきりと明確に持っていることをいいます。つまりは自分が今此処にいる意味や、役割、存在価値や存在意義を自覚しています。こういう人たちは責任の範囲を限定していません。指示命令があったとしても、自分の範囲を限定せずに自分からその範囲を超えて役割や責任を自らが拡げ使命を果たそうとします。

この目的を達成する意義や意味、この理想を実現することの必要性、なぜこれを自分がやるのかということが自分自身の人生とつながっていることに自明するのです。そういう人は、やるなといってもやりますし、休めといっても動きます。つまりは自分から使命に燃えて使命を果たそうと自ら行動し続けることが生きがいになるからです。

本当の主体性というものは、とても積極的なものです。つまり使命感を持って自分のいのちや人生の意義をもって日々に挑戦し続けるとき主体がはっきりと出て来ます。志が醸成されその志が先に出ていますから主体が積極的に動いているのです。その状態は、自分の魂と自分の身体が一体になっていますから最高の状態が引き出されてきます。魂と身体がバラバラでは主体はでてこず、どうしても受け身になってしまうことで最高のパフォーマンスが出てこなくなるのです。

責任感か使命感かということではなく、責任感を使命感にまで昇華させて働くことがもっとも世の中に貢献する仕合わせ、仕事の楽しさ、遣り甲斐や生きがいを感じる方法のように私は思います。その時、責任感が強すぎるよりもむしろ使命感の方が大きくそれに責任感が付き従うようなものがいいように私は思います。

何のために行うのか、自分が今此処でこれをやる意義が何かを知る人は不思議ですが使命感がバックアップしてくれます。そのバックアップは信念とも言え、その信じる力が心身を鼓舞してくれて理想への自動運転がはじまります。

本当の意味での持続する普遍のモチベーションというものは、他人から与えられるものではなく実際は自分で高めていくもので自分で育てていくものです。それは使命を感じることのように私は思います。使命感は、志を持ち、如何に常識を破っていくか、つまりは自分の範囲を限定せずに本来の目的や理念のために果敢に勇気を出して常識を壊し変化し続け行動していくことで育っていきます。

元ダイエーの創業者中内功さんはこう言います。

「人間とは、本来弱いものだ。だが、信念とか使命感で行動するときは、なぜか果てしなく強くなる。」

変革をするとき、変化を求めるとき、変化を怖いとふつうは思います。しかしその変化が怖くても武者震いしてそれでも果敢にやりたいと挑戦するチカラはこの使命感と信念があれば強さが備わり歓びや愉しさ幸せになっていくのです。

松下幸之助さんも「使命感があれば人は力強くなる、そして何をなすべきかの目標を持ち、使命感を持って、みんなが一致団結するところに成果がある」と言います。

刷り込みというものを取り払うのに、この使命感はとても役に立ちます。引き続き、どのように今までの刷り込みを取り払えるか、様々な研究を深めていきたいと思います。

祭り部発足

昨日、社内の今年の取り組みとして「祭り部」ができました。昨年は「駅伝部」ができて、朝練をはじめ各地の駅伝に参加したり現地の志ある会社を訪問したり、その地域の歴史や生き方、人々や場に触れたりして愉しみ学びを深めましたが今年は「お祭り」を通じてまた新たな社内での実践を象っていくことになりそうです。

先人たちが遺してくださった叡智や智慧に触れることは、自分たちの歴史やアイデンティティがどうなっているのかを自明することにもなり、子ども達に先人たちの願いを繋いでいくことにもなります。今の時代を生きるものとして、何を遺し何を譲るか、それを先祖に学ぶことは何よりも大切な使命のひとつです。毎年、その時々で必要なテーマが降りてくるということはそれだけ前年のテーマが充実していたということです。そうやって哲学や思想がはっきりと明確になり、その明確になったものがテーマになりそのテーマによって人は創造や革新が促されます。

今年は「祭り」になりましたが、祭りというものが何か少し整理してみます。

古事記に本居宣長が祭りとは何かをこう言います。

「祭事(まつりごと)と政事(まつりごと)とは同語で、その語源は奉仕事(まつりごと)から来たのであろう。天皇に仕え奉ることを服従(まつろう)と言い、神に仕えることを祭りと言うも、本は同じである。」

他にも中国の漢字を分解するとこの「祭」という漢字は夕(肉)と又(右手)と示(神示)から成り立ち、右手の肉を持って神にささげる意味です。祀は示(神)に巳(シ)を付けた字で、祭・祀はどちらも神様にささげるという意味になります。

古語辞典「字訓」を書いた白川静氏はこう言います。

「神のあらわれるのを待ち、その神威に服することをいう。「待つ」と同源の語。祭酒を「待酒」という。まつりのことをまた「まち」「日まち」のようにいうところもある。」

古代の神道は、祭政一致であり人々は日々の暮らしを神様に委ね神様の声を聴きながら生活を営みました。神様の声を聴けるというのは、いのちを常に感じてそのいのちを活かしていたからこそ話ができたとも言えます。その一つの神事として「お祭り」があり、お祭りを行うことで穢れを祓い清めたとも言えます。

この「祭り」を「待つ」と同源の語であると言います。私も待つことは信じ切ることで、丸ごと信じていることですから待つことで出づるのを静かに待つという心境は神様を奉る依代としての御役目として必要なことのように思います。

同時に神様が訪れるのを待つ、しかしそれをどのように待つのか、そこに待ち方というものがあると思います。その待ち方こそが祭りの本質であり、ただ待てばいいのではなく神様が顕れるのをどのような姿勢で待つのか。つまり自分たちの中から神様が出てくるのを静かに待つのです。古来、私たちは八百万の神々であり、一人ひとりが魂と命を持っています。だから親祖や先祖の神様たちは自分たちのことを「尊」をつけて尊称するのです。

その尊が出てくるのを待つのに、善いところを観る、信じて観る、素直に明るく、清らかな心になっていくようにして自分の中から出てくる神様と同じ心が顕れるのをみんなで「祭る・祀る・待つ儀式」を行ったのではないかと私は思うのです。

私たちが実践している一円対話においても、御互いが認め合い尊重し受容して清浄で無邪気な場が出来上がると神がかっているような言葉が発言者から出て来ます。これも一つの「お祭り」であり、そのことで人々が素直になり本来の真心や初心を思い出されるのです。

人が初心を思い出すためにお祭りがあり、お祭りを通して一体自分たちは何を大切に生きていけばいいかを反復して理解していく。単なる西洋からきたイベントではなく、日本のお祭りはとても精神的な意味や生き方を観直す内省的な意味を持っているのではないかと感じています。つまり神人合一していくところに、その本質があったのではないかと私は思います。

今年はそれを改めて学び直し深めていく機会をいただけそうです。引き続き、本業であり志業である子ども第一義の理念を自他一体、理想現実一致にしていくためにも一円融合、全てを福に転じて発明を続け実践を弘めていきたいと思います。

人をつくる~志を定めること~

人間は志や目的、目標や夢の大きさによって物事の取り組み方や見え方が変わっていくものです。人それぞれ同じことをやっていたとしても、その志がどうなっているかでそのやることは変わっていきます。

田坂広志さんに「二人の石切り職人」という寓話の話があります。以前、お聞きしたときには観得なかった世界が今ははっきりと私も観えてきました。如何に志を抱かせることが大切か、何よりその人が一隅を照らしたいと願うようになるか、その発心の大切さを深く感じるようになりました。改めてその話を紹介します。

「二人の石切り職人 」

「旅人が、ある町を通りかかりました。
その町では、新しい教会が建設されているところであり、
建設現場では、二人の石切り職人が働いていました。

その仕事に興味を持った旅人は、
一人の石切り職人に聞きました。

あなたは、何をしているのですか。

その問いに対して、石切り職人は、
不愉快そうな表情を浮かべ、
ぶっきらぼうに答えました。

このいまいましい石を切るために、
悪戦苦闘しているのさ。

そこで、旅人は、もう一人の石切り職人に
同じことを聞きました。

すると、その石切り職人は、
表情を輝かせ、生き生きとした声で、
こう答えたのです。

ええ、いま、私は、
多くの人々の心の安らぎの場となる
素晴らしい教会を造っているのです。

どのような仕事をしているか。

それが、我々の「仕事の価値」を定めるのではありません。

その仕事の彼方に、何を見つめているか。

それが、我々の「仕事の価値」を定めるのです。」

これが二人の石切り職人の話です。この話は、志の話です。あなたの志は何かと質問されたとき、その志をどのようにその人が語るのか。それによって仕事の価値が定まる。つまりは志の中身がどうなっているのかが先で、仕事の技能や実践は後からついてくるのです。本来、何のためにやるのか、その人の志が育っているのなら必ずその仕事は価値があるものになっていくということです。

吉田松陰に「志を立てて、以って万事の源となす」 があります。その人が一生の一度の人生に何を成し遂げたいか、それさえ立てられるのならそれが全ての根本になるということです。もしその成し遂げたい志に出会わずに進むのなら、私利私欲や自我慾に負けて狭い世界で迷い惑い続けて自分の人生を歩むことを忘れてしまいます。そうならないためにも、初心や原点といった志をその人がまず立てることが大切なのです。

吉田松陰は「志定まれば、気盛んなり」とも言います。この「志を定める」ということの真価、そこに人生の全てが凝縮され方向性が決まってしまうのです。結局は、人に成るとは何か、成人の本質は志を抱く人にすることなのです。

私は足元にあるものに気づかず、随分と遠回りしてきました。教育は引き出すものだということは知っていても、何が引き出すのかまでははっきりと自覚していませんでした。今こそ確信するのが志こそ万物万事の根源であり、その志を立てることができるようにし志を抱いて生きる手助けと手伝いをするのが私たちの伝道でもあります。

子ども達に未来を譲っていくためにも、今の時代の人たちが一人でも多く自分の志に気づき、その志に生きた背中を遺していくことが世の中を今までよりもっと善くしていくことになります。

いのちを活かし使命感を持たせることは、本物の人をつくっていくことです。本物の人とは志を持つ人にしていくことです。未来の子ども達のためにも、自分が何が本業かを間違えないように真摯に志を実践し弘めていきたいと思います。

本質的な関わり合い

昨日、訪問したお客様のところで素晴らしい御話をお聴きすることができました。ここは、土台に仏教の基本理念を持ち全職員が仏教保育の実践を通して自らを高め磨いている保育園です。もう9年目に入りますが、一緒に目的を共有し学び合いを続けていると何が本業なのかを思い出されます。単なるビジネスの関係ではなく、お互いに共通の目的に向かって手を取り合って助け合っているのです。

本来、何のために行うのかを考えた時、それぞれの施設や事業には目的があり、その本質である目的を確認すればその理念や初心が分かります。同じ保育園という施設やその保育事業であったとしても何のためにやっているのかがそれぞれに異なるのだからその本質も異なるのです。

例えば、地域貢献のためにという理念であったり子ども一人ひとりを尊重するという理念であったり、それぞれに目的が異なります。そしてこれはそこで働く一人ひとりの目的とも関係します。人間は、自分がやりたいことを持っていて本質的にその人がやりたいことに近いところに近づけば仕合わせを感じることが出来るように思います。

同じ理念を共有できる人が、仲間になり同志になり戦友になったりして深いご縁を結び互いに切磋琢磨して学問を励まし合い心を磨き合うのもまた同じ目的な理念を共有することができるからです。本来の目的を忘れていない人は、何をその人たちと一緒に行っているのかという本質から離れることがないから楽しいのです。

よく何がしたいのか分からないという人がいますが、何のためにを考えていないと目的から離れるから物事の本質が観えなくなるとも言えます。目的から離れる理由は、責任を負ってしまうことや失敗を恐れる不安から感情が先に入り、そのものの目的を明らかにしないような選択をするからでしょう。目的を忘れず常に本質を求めている人は質の高い判断をして自らを磨いていきます。何のために行うのかは全ての行動の基礎であり、その基礎があってはじめて判断や選択が目的に対してブレなくなるように思います。人は責任感を負わされるし失敗したくないから働くのではなく、本来は使命感で理念や目的のために働くことでその仕事の質は上下します。

本当に善い仕事とは何か、それは単なる業務業態がどうこうではなく何のためにやるのかを片時も忘れずにそこから使命感で働くことができているから質が高いのです。本物の仕事や、プロフェッショナルと呼ばれる一流の仕事は本質や目的から離れません。そこに自我や感情に呑まれては仕事ができませんから、常に本質を見極めて素直に本当のことに対して勇気を出して行動していくように思います。

本来、子どもはクニの宝です。そして子どもが未来です。その子どもたちの周りの大人たちがどのような生き方と働き方をするか、そこから子ども達は方向性を学びます。そして私たち大人も子ども達を信じ切り、子ども達のお手本になるように精進することで未来に真心を譲っていくように思います。

何のためにやるのかは日々の主体的で積極的な実践を行うことでブレなくなります。目的意識は使命感ですから、日々に使命感を高め挑戦させていただけることに感謝し、いただいている御縁を全て活かしていきたいと思います。

体験の真価

人間は色々な体験をして成長していく生き物です。

頭でっかちに知識だけが豊富であっても、体験していないものは知恵にはなりません。知行合一、知るということは体験してはじめて知ることができるものであり、行わない知は知識になっても知恵にはなりません。知恵とは何か、それは体験により体得し学んだコツのことです。

そしてそのコツを掴む中でもっとも価値のあるものは、厳しく辛い体験かもしれません。涙を流すような辛い体験で、もう二度とあんなことをしたくないと体に刻まれるような体験はその後その人を謙虚に素直にしていくものです。

人は手入れを行い己の慾の赴くままに調子にのっているとすぐに傲慢の芽が育ってきます。その慾はあらゆることで忍び寄ってきます。だれしも人間は自分というものがありますから自分を愛しすぎてしまうことで物事の実相が分からなくなるからです。

思いやりや真心、自他一体に生きるということはあらゆる体験を通してそれでもどう生きたいか、それでもどのような自分でありたいか、それでもどのような生き方を貫くかと自問自答する中で磨かれていくように思います。

私も思い出してみると、過去に様々なことで傷つき学び直しました。傷つくという言葉は、気づくということです。体験を通して自分の無知を知り、恥を知り、自分が如何に素直でないかに気づくこと。素直でなかったからおかしな習慣を沁みつかせ、素直でなかったから自分に対して平気で傷つけるようなことをした、そしてそれが翻って愛する人たちまで平気で傷つけていた。それまでの歪んだ自分の生活習慣や価値観、自分が自分を傷つけ続けていることに気づくことができるのです。

傷つくのを避けるために自他を傷つけるという斜に構えて生きる癖は、その後も真実を覆い被せ、王道を歩もうとすると何度もそこで足をとられて転んでしまいます。その転んだ時、どのように立ち上がるか、そこに体験から学び気づき自分を成長させるコツがあるように思います。その基本に素直や謙虚さがある人は、かつての刷り込みに気付いて立ち上がる最中に刷り込みを自らで取り払うことができるのです。

人は無意識に、無理をしたり、自分を責めたり、罪の意識を持ったり、自分を特別視したり、他人を裁いたり、自分を許さなかったりするものです。それは自分の子ども心が傷つきたくないから守ってきたことかもしれません。しかし人間は強くなければ優しくなれないし、優しくなければ強くなれません。この世の中で、自分らしく自分を生きて活かしていこうと使命に生きようとするのなら必ず通らなければならないのがこの体験に対する姿勢を磨くということです。

つまり体験をしたことに対する結果がどうこうではなく、その体験をどれだけ素直に受け止めたか、その体験をどれだけ大切に尊重したか、そこに体験の真価があるのです。人の心の成長や魂の生長、そして精神の高まりはこの体験の活かし方に由ります。

子ども達には様々な体験をすることの真価を伝え素直であることの大切さ、そして気づき変わっていくことの楽しさを伝承していきたいと思います。道の持つ深淵に触れる楽しみこそ、学問の醍醐味です。日々に素直な学び直しを続けていきたいと思います。

サビない関係

刀用語の中に「身から出た錆」という言葉があります。日本刀はたたら製鉄によって玉鋼で鍛造されますが手入れをしなければサビが出て来ます。包丁もステンレスなどのサビにくい鉄もありますがどの鉄も手入れを行わなければサビがでます。

この身から出た錆は刀身から出た錆によって刀身を腐らせてしまうことから自分自身の行いや過ちが原因で、あとで災いを受けて苦しむことなどで使われます。似た諺に刃から出た錆は研ぐに砥石がない、または刃の錆は刃より出でて刃を腐らすとも言います。

このサビは、自業自得などとも言われますが人間関係でも同じことが言えるように思います。一度、仲良くなったからと放置していれば知らず知らずに錆が出てきたりするものです。その錆を手入れすることで、日頃の関係を良好に保つことが出来ます。

このサビというものは、刀や包丁でいえば刀自身が出てくるものです。決して他からやってくるのではなく、刀が自ら錆が出てきて腐っていくのです。鉄がサビる原因は一般的には空気と水が原因ですが、特別に鉄を水に濡らさなくても空気中に含まれる水分、その湿度がある程度高くなると鉄の表面に目に見えない薄い水の膜が出来て腐食が進むのです。なので、何もしなくてもこの自然の中にあればサビが進んでいくということになります。

刀身がサビて腐食してしまえば、鞘から刀が抜けなかったり、折れたり、切れなかったりと役に立てなくなります。必ずサビるものだからと、常に手入れを行い常にサビがつかない状態にし続けることが大切になってきます。これは日々の鍛練の徳目の一つではないかと思います。

身からサビが出てくるのだから、その身を常に内省し、錆びないように手入れをしていくのです。言い換えれば、自分の状態を常に腐らせないように発酵させ続けていくこと、つまりは平常心を維持していくために日々の実践を保っていくことのように思います。

日々に鍛練していればサビに気づく感性が磨かれていきます。錆が出ているなというのは、拭い紙で拭けばすぐに気付けます。何もしていなくても紙で拭けば錆がついているのが分かり、油を塗って保存していてもまたその油が乾いているのも拭えば分かりますから常に自らの刀身ともいえる初心を紙で拭い、それを他のことで忘れてはいないか、忙しさの中で見失っていないかと常に拭き改めることによって刀身の輝きを保つのです。

守るということはとても難しいことで、何百年、何千年とサビない状態を維持するのは御互いに関係を保つために手入れをし続けたということです。人間関係も同じく、常に距離が近ければ近いほど手入れをし続けていくことで互いの信頼がサビないように精進していけるように思います。

身から出た錆に気づく感性、身から錆が出るからこそ日々の平常心や手入れを大切に実践していきたいと思います。