いのちのままに

昨日から鞍馬山に来ています。

不思議ですがこの山に来ると、いつも何かに包まれている感覚になります。もう何年になるでしょうか、子ども達の御志事をいただき参拝させていただくたびに山の気の有難さを感じます。

昨日も鬱蒼とした雨の九十九折坂を歩きながら、山全体と共に生きている波長や波動のような振動に触れては自然に包まれる御縁を感じていました。

私たちは出会いに包まれることで御縁に気づきます。その御縁に気づけば、自然に感謝する気持ちになります。それは私たちも同じように目には見えないものに包まれて活かされるいのちの存在だからでしょう。

いのちの存在は空気、水、火、そして宇宙、そういうものにいつも包まれています。

当たり前すぎて分からなくなったいのちの存在を、もう一度思い出すことの大切さは私たちが謙虚に生きてきたことの生命の記憶に触れていくことです。そしてそれを祖親は御縁といい、その御縁を感じる心を勿体ないといい、この世には一つも無駄なものがなく役に立つことという本質を今までカタチにして伝承してきました。

常に変わらず御指導いただける御縁によって、自分の真心を鑑にして徳磨きは高まっていくものです。人生の砥石は日々の初心の内省と、我執の削ぎ落としと実践による研鑽にこそありますが、時折、清水を沁みこませるように真心を洗い清めて静かに包まれていることを見つめ直す時間は人生にとってかけがえのない仕合せの余韻でもあります。

自然の厳しさの中には慈しみがあります。そういう厳慈の愛に包まれている私たちが包まれていることを思い出すことは本当のいのちの豊かさの意味に気づくことに似ています。

いつからか私たちは大自然の暮らしから遠く離れてしまい、同時にいのちを見つめることがなくなってきました。いのちに近づくとは、自然に寄り添ってみるということです。

自然は私たちよりもずっと長く悠久の歳月を暮してきました。

だから自然は私たちの先生です。

先生はだからみんな丸ごとで先生です

本来の先生は人間が偉そうにすることではなく、丸ごとみんな先生であるということを自覚することで全てが先生になっていきます。一視同仁、いのちの先生の言うことを素直に謙虚に聴けるいのちの生徒としての師弟一如の真心をこれからもあるがままのいのちのままに歩んでいきたいと思います。

 

発酵の智慧~直感と技術~

昨日、発酵場の高菜漬けの高菜の漬け直しをしました。

基本は木樽に丸ごとお任せですが、気になるときに開いてみると塩加減が足りなかったり、漬物石がズレていたりと、毎回、ちょっとずつ色々と改善しなければなりません。発酵場は狭く中腰での作業は大変骨が折れるものですが、漬物を触りながら発酵具合を確かめるのは心安まる手作業です。

今のよく出回る漬物は、化学調味料を使ったり、防腐剤を入れたり、着色したりと発酵する時間をかけずに楽に漬物風として作られることがほとんどです。見た目は本物風にパッケージしていますが、発酵の時間すらかけていないものです。安心で美味しいものよりも、形が良くお金になるものが優先されています。むしろその刷り込みも功をなし、今では安心で美味しいものの定義が本物風の方が本物と逆転してしまいました。

特に人工添加物については悍ましく、ほとんど原料が本物ではないものを用いて加工されます。飲み物、食べ物も白い粉類と水さえあればどんな味でも偽造でき、色の粉と香料さえ足せば目と舌をうまく騙せます。そして残りは腐らないように殺菌、漂白、防腐剤で菌の発生そのものを抑え込みます。

昨日の漬物の中には三年目のものがあります。

一年に数度漬け直しをするだけで熟成したうまみや味わいがあり、漬け直しさえしていれば防腐剤に頼らずに長期に保存することができます。防腐剤で半年の消費期限だとか書かれていますが、漬物は漬け直していればいくらでも腐ることはありません。

発酵とは保存の仕組みですから、防腐剤などは要らないのです。

自然というものは、必ずそのものを分解して土に還すように菌が発生してそのものを食べて消化していくものです。これは菌類に限らず、全ての自然は還元循環しますから発生するのは自然のことです。これを無理やりに抑え込もうという発想自体が無理があり、それが腸内に入ることで腸内の菌類の活動にどのような影響を与えるのかはすぐにわかりそうなものです。

腐敗するための菌を発酵する菌に代わってもらい菌の新しい暮らしの寝床にすることで発酵菌に食べ物を保存してもらうことで自然そのものを邪魔しないで一緒に生きていく共生の智慧なのです。そしてそういう暮らし方のことが熟練の智慧であり、熟練の智慧を持つ職人文化があるというのが本来の私たち日本人の美徳であったとも思います。

手間暇かけて熟成させていくというのは、生き方を通しての実践が必要です。毎回、失敗と改善を繰り返し、面倒でも「カラダで覚える」必要があります。それが本物であり、それが自然だからです。

毎年、漬け具合材料、その時の心境や手入れによって微妙に異なりますから手で触れ香りを確かめ、舌で味わい、場の空気を感じるというように五感をフル稼働して”直感と技術”を磨き学ぶのが本来の自然の姿です。

発酵の智慧は、日々の偽造に刷り込まれそうな私たちに大切なことを思い出させてくれます。道は偽造できませんから発酵は道です、その後に技術があって人は自然が何かを自明自得するのでしょう。

当たり前のことまで分からなくなってしまう人工的な社会の中で、本物の自然に触れることで本来の智慧、「カラダで学ぶ」ことを呼び戻していきたいと思います。発酵を通して昔から変わらずに大切にしてきた直感と技術、熟練して磨くことの真価を子ども達にも譲り渡していきたいと思います。

 

 

人生一生一期一会

人と人の間にはご縁というものがあります。毎日、人は何かしらに出会いますが同じ道を一緒に歩む中でご縁が深かったということに気づけるものです。どのようなご縁なのか、それは後々ふり返ってみれば自然に明らかになってくるものですがご縁の最中には感情もありますからなかなか気づけないものです。

ご縁というものは、感謝を土台に心を澄ませていくことで観えてくるようにも思います。それは仲間であったり家族であったりパートナーであったり、呼び名は色々とありますがつまりは「一緒」であったということです。

人はご縁を活かせるかどうかで、その人の人生の物語の質量が変わります。

同じご縁であっても、気づかない人、気づく人、また活かす人では全く異なる世界で生きているとも言えます。気づかない人は、自分にも気づかず、気づく人は、自分に出会い、活かす人は自他一体に生きていきます。

そうやってご縁もまた道ですから、5級、3級、初段、達人と、修行練磨することで次第に発達していくようにも思います。そしてもしもご縁の達人になったなら、柳生家の家訓のように「袖をする縁をも活かす」境地に達するのかもしれません。

松下幸之助さんも「人との縁・つながりは大切なもの。縁あることを喜び、誠意と熱意でお互いのつながりをより強めたい。」と仰っていました。素直の達人もまた、ご縁の尊さを活かす人だったということでしょう。

人の縁組というものは、まさに神業でありなぜこの人と一緒に生きるようになったかは神のみぞ知るかのような神秘的なものを感じます。御互いに一緒に生きることに真摯であり、真心と本気の覚悟で必死に生きていくから絆もまたより一層強くなり、繋がりもまた厚く結べます。

昨日の一円対話の振り返りの中である方が「ここにこなければ私はこんな体験ができなかった、この出会いがなければ私は気づけなかった。一生の宝物にします。」と心を澄ませ素直に仰いました。

今の自分をこれまで育ててくださったのはまさにご縁の御蔭様です。

そのご縁の御蔭様を大切にできる人は、ご縁を一生大事に生きている人です。私自身もこれからもどのような縁組であったとしても、誠実に真心と情熱、本気と熱意で踏み込んで”一緒御縁”の感謝をまわりに御恩返ししていきたいと思います。

人生一生一期一会。

いつまでもご縁のままに歩んで往きたいと思います。

世界の平安

全ての出来事というの物は、直接的なものと間接的なもので出来上がっているものです。それは直接目に見えるところと、間接的に観えるものが合わさっているともいえます。人は視野狭窄になると、目に見える直接的なところだけで物事を判断してしまうものです。しかし実際の物事は、目に見えないところの間接的な効果によって顕れてくるものです。

こういうことが分かるには、眼だけではなく心眼のようなものも同時に働かせることで気づけるように思います。そしてその訓練は、内省と振り返りによって行うものです。

例えば、過去のことを思い出すとします。その際、あの過去のことが生じたのは一体何が原因であったかということを見出していきます。すると、あの時の出会いがそうだったとか、あの時の行いが繋がっていたとか、あの時が運命の分かれ道だったとか、様々なことを思い出されます。そして今を見つめると、天の助けがあったとか、実践をしてきたからだとか、生き方が変わったからだとか、夢を信じたからだったとか、様々なことを振り返ります。

そうやって内省と振り返りを通して、人は直接的にも間接的にも、生じたご縁に気づきそのすべてを実感することで出来事や物事を全体を観ることができるように思うのです。もしそのように全体を素直に観ることができるのならば人間は方向を見失うことが少なくなるように思います。いや、言い換えれば人類は方向を見失わないのではないかとも思うのです。

今の時代は、間接的なことに対する意識が失われつつあります。振り返りと内省をする時間がないほどに何か急いでいるような気がしてなりません。別にただ早いという意味ではなく、内省し振り返る時間がなくなってきているのです。

目に見えるところばかりを見て生きるのは忙しくなるだけで思いやりを優先できなくなってきます。本来は、多くの間接的な見守りによって現実の世界は生じてきたのだからそこに対する感謝の心があってこそ御蔭様の有難さに気づけるものです。

一度、眼を半分だけ閉じて心の眼を半分だけ開き、同じ目で全体を丸ごと見つめその偉大な御蔭様に気づけるのなら如何に御縁を結べた思いやりで今につながっているかといった人類の初心をも思い出させていけるように思います。

大切な気づきを共有することで、心の平安も得られ世の中の平安も広がります。何を優先して生きていくか、力強く実践を高めていきたいと思います。

 

本元の味

昨日、ある方にお会いすることができました。ずっと以前から知っている方でしたが、ご縁はいつも不思議で「場・間・和」の織りなす今のタイミングをいただけます。あの頃ではお会いしても全く分からなかったと、今、過去を振り返れば思うものです。

自分が通ってきた道の延長上にいらっしゃる方とのめぐり会いというのは、自分が通っているからこそその存在の価値を認識し、まるで過去と未来が回転します。

改めて道縁の素晴らしさに感謝するばかりです。

人は無意識ですが、風土の魂が宿るのではないかと私は思います。その風土とは、この私たちの住まう土地のことですがいつもそことつながり結ばれているのが私たちのいのちのように思います。

だからこそその自然の中には風土の魂ともいい、そういう人物のことを大和人と呼ぶのかもしれません。私自身の中に流れるその大和魂との邂逅も、道縁によって顕現してきます。

昨日は、ワークショップについてや様々な西洋からの教育手法についてのお話を拝聴することができました。この方の素晴らしいのは西洋から来たものを自分で美事にアレンジし、自ら風土に合うように仕上げていくところです。それはまるで海外の料理を、日本人が日本に合うようにアレンジしまた世界に返り咲かせるかかのように日本の和の精神を存分に取り入れたものに調理していきます。

私が目指した味付けをもう随分と先に現場で実現されており、ただ感動するばかりでした。なぜそうなるのかと内省するとき私が直観したのは、そこに「師弟一体心の境地」を感じました。

これは、日本の職人文化に似ています。師が全身全霊で弟子のことを思い、弟子も命がけで師を思う、その間、まるで自他一体の真心で智慧を受け継ぎます。そのようにして様々なことを結和させたのではないかと、これは智慧の感得力です。

そういうそもそも別であるものを自分のものにしていくチカラというのは、風土の魂や和の心が存分に発揮されたものではないかと私には感じます。そしてそういう人だけが「本元の味」を知っているのでしょう。本元の味を知るからこそ、様々な文化を含有でき異質なものを融和させていくことができるように思います。

本元の味が分かる人物に出会えるというのは、本当に仕合せなことです。
御蔭様の御引き合わせと、めぐり会いに心から感謝しております。

子ども達の未来のためにも引き続きこの縁起と学問を味わい楽しんでいきたいと思います。

本気=徹底

先日あるクルーが断酒をしました。子どもが憧れる大人になるために、自分の憧れる方の自分を優先しようと決心したそうです。決心をした後の、その人の言葉には本気さが滲み出ていました。

人は「本気」になると変わるものです。

その本気というのは何かということはそれぞれの理解ではなんとなく漠然としているものです。昔から本気になったとか、本気になれとか言いますが実際の本気になるとは一体何か、それを少し深めてみたいと思います。

最近人気の松岡修造さんの語録の言葉に「本気になればすべてが変わる」があります。日めくりカレンダーなども、本気を引き出すための様々な語録が集約されて紹介されとても売れているそうです。皆、人は変化に対して自分を変えたいけれど変われないで煩悶としていますからどうやったら変われるかということを悩むものです。

本来、人は人生を丸ごと変えようとするとき、表面ではなく根本から直さなければ本質的に変わりません。その根本とは”心から決める”ということです。心から決めるというのはなんとなくではなく、必ず「徹底」するということがセットになっています。

人がなんとなく徹底できないのは本気ではないからです。やったりやらなかったりすることは本気ではなく、やると決めたら徹底することが本気であるということです。なぜなら本気というのは、「決心」したものだからです。決めたという言葉は、決断した、決心した、決定した、決意したという「思い(信)が立った」状態のことです。

人が「思い(信)を立てた」時、必ずその次の行動として「徹底」があります。

心とは常に一つで、二心などというものはありません。もしも人が一つのことを徹底できないとしたら、それは心が決まっていないからです。あちらがいいかこちらがいいかと迷うとき、それは心が入っていないとも言えます。

心が入った、言い換えれば思い(信)が立ったとき人は実践を徹底することができるように思います。昔から凡事徹底という言葉がありますが、あの凡事は心の姿であり、それを徹底するという意味でしょう。

掃除道で有名な鍵山秀三郎氏が、「凡事徹底」を座右の銘にしています。凡事徹底平凡を非凡に努めるという言葉もあります。これはつまり「心を磨く」ということを本懐にしているからではないかと私は思います。

本気になったかどうかは、その人の徹底ぶりによります。やったりやらなかったりではなくまさに「決めて断った」ことが、その人の本気なのです。その本気は時間をかけてじっくりとゆっくりとまるで悠久の大樹の樹の根のように土中に張り巡らされていきます。そして心を磨き続ける日々の修行や実践によって高まってくるように思います。そして高まり極まる時、その人は本心のままの本当の自分に出会う事が出来るように思うのです。

仲間が本気になっていく姿を見守れるのは有難く、本当に沢山の勇気をいただけます。こういう一人の変化が波打って周りに影響を与えていくような好循環こそが世の中を変えていくチカラになっていくのでしょう。一緒に理念に向かって取り組む仲間があるというご縁が仕合わせそのものです。

最後に応援と励ましを籠めて詩人坂村真民さんの言葉で締めくくります。

『本気になると
世界が変わってくる。
自分が変わってくる。

変わってこなかったら、
まだ本気になっていない
証拠だ。

本気な恋、
本気な仕事。

ああ、人間一度はこいつを
つかまないことには。』

自分自身の決心と決断を支えるのは自分の初心ですから、その時々の初心を常に省みて心を磨いていきたいと思います。

 

 

自然の世界

私たちは無意識に自分の観えている世界が世界だと信じ込んでいます。しかし実際に虫の目や動物の目には同じものが観えているとは限りません。また目がついていないと思われている生き物、菌類や植物でさえその感覚器官を通して観えている世界があるのが実際の世界です。

例えば、色であっても私たちが観ているように花が観えているかどうかは分かりません。それはまるで特別な嗅覚で花のあるところを探し当てる昆虫たちや、生き物の残り香をかぎ分ける動物たちのように私たちには臭わないものでも彼らには臭うのです。

色も同じく、紫外線や毒のあるなし、危険かどうかも彼らはその模様や色で識別しているのではないかと思います。以前、庭先で一緒に暮らしている烏骨鶏の小屋にアシナガバチの巣ができたのでそれを切り取り下に落としたことがあります。もう成虫になり飛べる状態で下に何匹も落ちましたが烏骨鶏はそれを食べようともしませんでした。日頃あらゆる虫を食べるのに、一切食べようとも近づこうともしませんでしたからきっと彼らの持つ臭いや色、模様、何かが気になるのでしょう。

私自身も、昆虫や生き物と触れるとき、なんとなく嫌な予感があるものは毒があったり攻撃的であったり、気分が悪くなったりしたことがあります。無意識ですが、昔は観えていた感覚が残っているのかもしれません。

私たちは知識がなくても本能というものがあります。その本能は、知識を持つ以前から体験や経験、または感覚を進化させて他の生き物と同じように自然界の中で生きていくための智慧として発達発展させてきたように思います。

今になってみたら、人間のみの人工社会の中で森や自然の中にいるわけではないのでそういう感覚は減退していくのでしょうがあの虫たちや動物たちはその感覚がなければ自然では生きてはいけません。

自然に照らせばどのような意識で自分がいるのか、その観えている世界が変わっているということの自覚が必要です。自分が観たい世界があるのなら、その観たい世界に合わせていくことでそれまで観得なかった世界が近づいてくるように思います。そのものを理解するのなら、そのものに近づく努力と実践があってはじめて近づくのでしょう。

自然の智慧は、そのものに近づこうと本能から真似をするところからはじまります。そして本能を呼び覚ますのは、もともとの野生を取り戻していくということです。そしてそれは自然に近づいて自然と共に暮らしていく中で研ぎ澄まされていくのでしょう。知識で暗記する以前の祖神たちは、きっとその自然の世界が当たり前に観えていたのでしょう。

本来の自然の世界が分かるとなってはじめて、あらゆる多様な自分を獲得していくことができるのかもしれません。変化成長のコツはこの自然からの獲得に由るように思います。子ども達のためにも、自然からの学び直しの自己実践を譲り遺していきたいと思います。

 

持ち味を活かす~一心同体感~

人はチームを考える際に、信不信というものがあるように思います。

そもそも信じている人の組み合わせと、そもそも疑っている人の組み合わせはそのでき上がった関係もまた異なっているのです。これは縁起でもそうですが、常に善因を結んでいく人は善果が得られ、悪因を結んでいくものは悪因を得ます。好循環も悪循環も、その根本にあるのは自らの心ということです。

この自らの心が信であるならば、一つのご縁でもその人の善いところを発見しその人のもっともすばらしいところを尊敬してご縁を結べます。しかし心が不信であるのなら、その人を疑い、その人のマイナスな一面を見て警戒したりしては縁を結べません。如何に自分が先に信じているかは、その後の関係に影響するのです。

先ほどのチームでいえば、不信というものを大前提に心に抱いていると能力だけを補う組織を目指すものです。つまり能力を使い合うためにいるわけだから、能力が足りないところだけを補い合うことでチームをつくるのです。しかし、信を大前提に心に抱いているチームになると、助け合うために一緒にいるのだから御互いの持ち味を活かしあう関係で仲間をつくるのです。

仕合わせな組み合わせというものは、相乗効果があるものです。それは能力の足し算ではなく、一緒にいる掛け算のようなものです。仕事だからと、それぞれが能力だけ合わせて済まそうとするのではなく、家族や仲間が大変だからとその時々で持ち味を活かし合おうとするのです。

この「持ち味が活かせる」という環境というのは、御互いに信が結べ大きな見守りの安心の中で助け合うことを優先するから居心地がよくなっていきます。心が安心した中で何かができるというのは、それだけ自分のもっているちからをすべて出し切ることができお役に立つことができます。逆に心が不安の中でいると、それだけ自分を出し切ることもできずまたお役に立ちにくくなってしまいます。

自分の心の置き所をどうするか、チームの一員として自分が何を優先するかが問われるのです。善いチームになるには、まず信じることが必要です。その信じるというのは、自分の持ち味を活かしてもらえるという安心感、そして自分も周りの持ち味を活かそうとする一体感が要ります。

一体感が持てるのなら、もうそれは役に立つ関係が築けているということです。自分の中にある心はどれだけ一緒一体感を持っているか、その内省と実践による学び、つまり素直と謙虚こそが自分を全体のために役に立て、働く仕合せを実感するための最大のコツだと私は思います。

人は誰かと一緒にやっているとき、その心は一つになります。

その一心同体感であることが本来の和の精神であり、祖親から譲り受けた唯一無二の徳宝です。この徳宝をどう引き出していくか、そして持ち味を活かすか、子ども達の未来のためにもまだまだ実践を積み深めていきたいと思います。

本来の自分を知る道

人間は自分のことが分からなくなるのは、自分のことを気にしているからです。いくら気にしていないと思い込んでいても、自他を分けている時点で自分のことが気になってしまっているものです。

それはまるで空気のように当たり前のものであるし、お腹がすくように当たり前に自分たちの意識に入り込んでいます。この自分というものを間違えることで、人は自分のことが分からなくなるのです。

もっとも身近な自分を気にせずに思いやりの実践ができることが真心です。しかし自分を気にするから真心が発信できずまた自分を気にしてしまったと保身に悩むことがあるものです。

相手を気にするというのは、鏡にして自分が気になっているという事でもあります。自分を気にせずに相手を思いやるのは、自分が相手の立場になって心を寄せて共感している状態になっているものです。

これらの境地に入るには、場数を踏んで自分の真心からの行動を積み重ねていくことで自分を気にしなくてもよくなるようにも思います。このことを思う時、私は宮沢賢治の自戒の文章「雨ニモマケズ」を思い出します。

アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
・・・
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

目指している自分の姿が、自分を超越しているところにあることは行間から感じます。私がなりたいものも、真心の自分です。しかし簡単にはいかず、優しさと強さを発揮できる至誠を盡したかどうかはいつも天に尋ねて内省する日々です。

真心の生き方というのは、自分を気にしなくてもよくなるということなのでしょう。世間では自分を知るために自分探しとか、自己実現とか言葉だけが先行して流行っているようですが人間ですから実際に誰かの役に立つ幸せや働き成長できる仕合せが生きる歓びであり自分という意味を自覚できる道なのでしょう。

もしも誰もが常に真心を盡すことができるのならば自ずから自分のことを自明し、世界では自分の御役目を自覚できてきて世界の中に一人自分が在る倖せに感謝することができるように思います。自分を磨くということは、自分を忘れてしまうということです。無我ともいうし没頭ともいいますが、その境地までいってはじめて真心や見守り合いもまた顕現してくるように私は思います。どう身近な自然の持ち味を活かしていくか、私たちの挑戦はそこに集約されています。

道は無窮、縁ある限り自分磨きは一生涯続いていきます。

雨も風をも丸ごと福にして自然の通り道を愉快痛快に歩んでいきたいと思います。

純粋無垢な真心~素直さ~

この仕事をしながらいつも思うことが素直さの持つ伸びる力です。

伸びている人に共通するのは素直さとはいいますが、その姿を目の当たりにすると本当にこの力の持つ神秘を感じます。誰かが自らの体験で掴んだ智慧を、丸ごと吸収してはそれを活かすことができる力です。

同じように接しても、その人のことを信頼して素直に聴ける関係がある人は言われたことを信じています。頭で疑ったり、知識で推察したりすることなどなく、先に信じているのだから素のままに改善していくことができます。この素のままでいるという関係は信じているということと同じになっているのです。

人はもっとも分からないのが自分のことだとも言えます。

もっとも身近にいるくせに、その自分のことはほとんど自分では分かっていません。むしろ他人に指摘された方が、自分のことはよく分かります。自分で自分のことを勘違いしているから直すことができず、自分のことを理解してくださる信頼できる人に自分のどこを直せばいいかを聴いた方が素のままで直すことができるのです。

なぜ自分のことがもっとも分からないのか、それは自分が錯覚してしまうからです。こうありたいと思ったり、こうあってほしいと考えたり、こうあるべきだと押し付けたりしているうちに自分自身が歪んでいき、素であることよりも無理に自分をつくってしまうのが人間というものです。

しかしそうしてしまうと、自分のことを自分が間違って認識しはじめ、様々なことが無理やり調整していかなければならなくなります。例えば、本来は亀なのに鳥のように空を飛べると勘違いしたり、魚なのに陸を駆け巡るチーターだと勘違いしたり、笑えない話ですが実際にはそんな変なことを繰り返すのが人間です。

それを見た周りは、気持ちはわかるのですがその人ができないことはすぐに察します。しかしそれをその人がなかなか受け止めようとしないから、改善もまた進まないとも言えるのです。

そういう時に、信頼できる人があなたはこうだからと本来の自分の姿を観てくださって、こうしたらいいとその人の徳性に合わせて指導してくれたなら本来の自分に気づくことができるように思います。しかしその徳を聴こうとしていなければどんなに親切に教えてくださっていても聴いてはいませんから気づくこともありません。

人の話を聴く時に「ああ、そうだったのか」と常に聴ける姿勢がある人こそが素直な人です。心の対話を素直な自分と交わすことができ、さらに人とも心の対話を素直にかわすことができる人。そういう人が本質的に素直な人ということなのでしょう。

素直さを持つには、まず心の対話ができること、そして人の話を聴けることができなければ維持することもできません。自分を気にしすぎて周りの評価が気になって、聴く気がない頑固な姿では心の対話からもっとも遠い存在になってしまいます。

常に人との御縁を大切に、他人を尊重しながら自分のことを知っている人に自分を教えて貰い、純粋無垢な真心との対話を続けながら天に向かって自分を直しぐんぐん伸びる生長の仕合せを楽しんでいきたいと思います。