人財教育の王道

人間は理想と現実の間に今を設け、今を見つめ向き合うことではじめて今に存在することができるように思います。妄想ばかりをいくら増やしても、現実は変わらないのですから実行していくしかありません。

昨日、鹿児島に入り維新館を見学する機会がありました。ここ薩摩は、古より教育を何よりも重んじる風土があるような気がします、昔から「島津にバカ殿なし」と呼ばれるようにここには郷中教育をはじめ様々な人財育成の仕組みが文化として継承されているように思えるからです。

その郷中教育の中で、日新公いろは歌というものがあります。これは物心つく前から毎日唱和しからだに沁みこませてきた歌です。そこのはじまりの「い」にはこうあります。

「いにしえの道を聞きても唱えても わか行いにせすは甲斐なし」

(古来から言われてきたどんなに素晴らしい道を聞いても語っていても、自分で実践して行わなければ何にもなりません)という意味です。

そして「ろ」にはこうあります。

「楼の上もはにふの小屋も住人の こころにこそはたかき賤しき」

(どんなに立派な御殿に住んでいる人も粗末な小屋に住んでいる人もそのことだけでは人間の価値は判断できない。要は住んでいる人の心の気高さが重要なのだ)とあります。

今回は「は」までご紹介しますが、そこにはこうあります。

「はかなくも明日の命を頼むかなけふもけふもと学ひをはせて」

(人間明日のことは予測がつかない。勉学修行を明日にしようと引き延ばし、もし明日自分が死んだらどうするのか。今その時その時に全力投球せよ。)と。

この「いろは」だけでもこの言霊の濃さと重さです。これは島津中興の祖である島津忠良が5年の歳月をかけて郷中教育の基本として定めたものです。この出発点であり原点が今の薩摩の人財をいまだに育てているのではないかと思います。

なんだか今回のご縁に何をすべきであるかを直感するものがありました。出発点や原点を思うとき、今までのものを毀す勇気が今にこそ必要のように思えます。そんな時は「今」を奮い立たせる勇気のある詩に励まされるのも人間のように思います。

最後に京都大徳寺大仙院の尾関宗園さんの詩を紹介して終わります。

「今こそ出発点」

人生とは毎日が訓練である
わたくし自身の訓練の場である
失敗もできる訓練の場である
生きているを喜ぶ訓練の場である
今この幸せを喜ぶことなく
いつどこで幸せになれるか
この喜びをもとに全力で進めよう
わたくし自身の将来は
今この瞬間ここにある
今ここで頑張らずにいつ頑張る

普遍的な道の上にこそ人財教育の王道があると確信できました。

ありがとうございます。

実践躬行~至誠~

吉田松陰の座右に至誠があります。この至誠は、孟子の「至誠にして動かざるものは、未だこれ有らざるなり」という言葉から来ています。この至誠とは、読んで字の如く、「言うを成す」から出来ている字です。

つまりは言行一致のことです。誠というのは、自分の言ったことを実行することを意味します。先週の大河ドラマ花燃ゆの中で、吉田松陰が久坂玄瑞に対して「あなたの情熱は素晴らしい、あと実行さえできればあなたは必ず志を実現できる」と励ましていました。

知行合一、常に分かるということは行うことで行うことが分かることであるという王陽明の一文を思い起こします。これはかつての人物たちが必ず実践した理です。

論語では、「子曰わく、弟子、入りては則ち孝、出でては則ち弟、謹みて信あり、汎く衆を愛して仁に親しみ、行いて余力あれば則ち以て文を学ぶ。」とあります。これを伊與田覚さんはこう訳しています。「先師が言われた。若者の修行の道は、家に在っては孝を尽くし、世に出ては、長上に従順であることが第一である。次いで言動を謹んで信義を守り、人々を愛し、高徳の人に親しんで、余力あれば詩書などを読むことだ」と。まず実行が先で余力があれば本を読むなどをすればいい、まずは至誠を盡しなさいといいます。

永平寺の道元禅師は、「修せざれば現れず」という教えを遺しています。ここには「曰く、「知る」ということと「わかる」ということとはちがうのです。知っていても実行されなければ、わかったことにはなりません。薬の効能書を読んだだけでは病気は治りません。禅も実行してはじめてわかることなのです」とあります。

常に実行を伴うことで語りそれを言葉にしていくような生き方をするように諭します。言い訳のない生き方というものの中に、覚悟を感じ、その覚悟こそが志を為す元であることを感じずにはおれません。

できないことを並べてもできるようにはならず、諦めそうなときは実践者の先人先輩たちが背中で励ましてくれます。

その覚悟の激励のやり取りも論語の中に遺っています。『冉求曰く、子の道を説ばざるに非ず、力足らざればなり。子曰く、力足らざる者は、中道にして廃す。今、女は画れり』。

これを意訳すると(冉求が言いました。「私は先生の言っていることを有難く思わないのではありません。しかし今の私の実力や力量が不足しているのです」と。それに対して孔子は言います。「もしも本当に実力や力量が足らないのならば、途中で投げ出しているはずだ。今、お前は自分で見切りをつけているのだ」)と。

冉求は、心を入替えて自分から先に見切りをつけるのをやめ、真摯に実践躬行に取り組みその後にある国の宰相のように大きく用いられました。この冉求は孔子十哲の一人と称されていますが、消極的な性格だったので常に孔子から「聞くままに斯れこれを行え」(すぐに実行しなさい)と叱咤激励され続けたと言います。

どんな時代も、頭でっかちにならないように真心の汗をかきなさいという教えに救われる気がします。他人にはそれぞれの特性はありますが、躊躇うことは誰にでもあります。見守りの中で信念を育て、信念の根をはっていけるように実践させていただけることに感謝して歩んでいこうと思います。

 

心の在り処

人生はゆっくりでいいと言いつつも、この世の中のスピードは目まぐるしく変化していきます。周りを見ては比較をし、遠くをみては不満ばかりを募らせ焦ることも多々あります。

人間は自分の思い通りでなければ不安を感じるものですし、執着がありますから様々なストレスがかかってくるものです。しかし論語の「速やかならんを欲するなかれ、 小利を見るなかれ。 速やかならんを欲すればすなわち達せず、 小利を見ればすなわち大事成らず。」にあるように、なんでも急ぎ、自らの我欲を満たそうとすればそもそもの初心や原点を忘れてしまうものです。

如何にそうならないようにするには、一つ一つの実践を踏み締めていくことでしょうがもう一つ別の心境もあるように思います。

先日、ある場所で下記のような詩に出会いました。作者はちょっと難しい名前で○石と書かれていましたがこの○のところの漢字がどうしても読めませんでした。その詩に、今を生きることの大切さ、焦ることの愚かさ、現実の只中で生きていくことの真価を学んだような気がしましたので紹介します。

「足元ばかり見てたら 行く先がわからなくなった。
遠くの夢ばかり見ていたら 足元の石ころにつまずく。
だから休みながら のんびりのんびり
遠くを見たり 近くを見たり
ゆっくりゆっくり 今を楽しみながら。
あしたもきっと しあわせないちにち。」

焦る気持ちが今との直視を避けるものです。心が着いてきていない日々はまるで迷いと不安で心落ち着かない状態になっていることになります。そんなときは、一度立ち止まり何度も内省し、大事なことを思い出し、今の有難さや御蔭様に気づくことのように感じます。

人間、畢竟、天を敬い足るを知ることで心の本来の在り処に気づけるのかもしれません。まだまだ物来順応の境地には程遠いですが、見守りに逆らわずに子ども第一義の道草を味わい尽くしていきたいと思います。

 

ゼロベース~体内時計~

今の世の中のことを知ろうとするとき一つは知識を増やすことによって得られ、もう一つは知覚を澄ますことで得られるように思います。そのどちらも自分という刷り込みを破るためです。今の私たちは自然の叡智に触れて自然の叡智を可視化して自分たちのものにするために知識を得ましたが、同時に自然の叡智の切り取った一部しか視なくなったとも言えます。

様々な叡智を可視化し分けてしまうことで分かれてしまったのは叡智そのものの自然から離れた人間の方かもしれません。そもそも分けてしまっているのですから、一度全ての知識を御破算にして無分別智のところ、つまりゼロベースにしてみないとこの世の基本ともいえる自然を丸ごと理解することはできないように思います。

このゼロベースというのは、例えれば動物の体内時計で自然を理解するのに似ているように思います。ニワトリや猫、犬、その他すべての動物たちは自分たちの体内に時間を持っています。朝になれば朝を知り、春になれば春を知る、新しい仲間も、古い仲間も、生死のめぐりでさえ、体内時計に従います。その彼らの時間は、まるで宇宙のように悠久と矛盾が絶妙に調和して無のようです。

よくよく観察していると、彼らには時間もなく今があるだけです。この今という時間の中には、妄想もなくそのままの宇宙があるように思います。そういう流れて流れない時間の中で、永遠を感じることができるからこそ、その魂をいつも全うすることができるように思います。

魂への刷り込みは、この世の美しさも奪い、この世の真心も穢すように思います。私たちは新しいものばかりを詰め込みますが、本来の古代からの古いものも同時に詰め込めばいいものを古いものは価値のないもののように切り捨てていきます。ここに人間文明の深い問題があるような気がしてなりません。

魂は温故知新することで、あの宇宙の星々のようにいつまでも光り輝くように思います。

英国の詩人、ウィリアムブレイクの「無知の告知」の冒頭に有名な詩があります。

「To see a World in a Grain of Sand  一粒の砂に世界を見、
And a Heaven in a wild Flower  一輪の野の花に天国を見る
Hold Infinity in the palm of your hand  手のひらに無限をつかみ、
And Eternity in an hour  一瞬のうちに永遠をとらえる 」

私の意訳ですが、一粒の砂は土の姿であり、一輪の野生の花は自然のいのちです。その手には悠久が顕れ、時を遡り時は超越されるという意味なのかもしれません。

ゼロベースで感じるご縁とつながりの中で、魂は存在するのかもしれません。詩には不思議な力がありますが、その詩を学ぶとき、詩の中で伝えようとする真実が観えてきます。

詩こそ体内時計のゼロベースで詠う自然の声色なのかもしれません。あの動物たちや植物たち、虫や魚、あらゆる自然界の歌声に詩を感じます。詩を学び、自らゼロベースでいることから自然を取り戻していきたいと思います。

 

からだ~自然の智慧~

先日、地元だけではなく全国で名医と慕われる医師に身体についての話をお伺いすることができました。その方は、知識で身体を学ぶのではなく身体から身体を学ぶというように、身体の反応をよく観察しその反応から原因の根を探し出すというような感じです。

先生の言い方では、雨漏りがあればどこが雨漏りなのかを探せばいいという感じです。身体のことを会社経営をたとえに説明してくださり、経営改善と体質改善が同じであること、体温を如何に下げないで血流を整えること、またもっとも集まっている場所(内臓)のところの環境を温かくすることなどを教えていただきました。

特に目から鱗が落ちる話は、身体の痛みが回復そのものであるたとえです。今の医療はすぐにどこかが痛いや何かのストレスがあるとすぐに薬を出していますが、それでは対処療法にしかならないという話です。

膝を曲げれば足が痺れてきます、それは血流が滞ってきているからです。そして膝を伸ばせば痺れがとれて血流が順調にめぐりはじめます。その時、足はジンジンしてきます。そのジンジン痛いというのは、血流が流れはじめて回復しているということです。他にも熱が出たり、怪我したときの苦しみは痛みは、すべて治癒している証拠であると話がありました。

今では病院に行くときは薬をもらいにいっているようなものですが、その都度、苦しみや痛みを悪者のようにして薬を処方していたら直るものも治りません。本来、治癒の本質は苦しみや痛みを伴うように私も思います。

人間が成長し発達するとき、そこに大きなストレスがかかります。あらゆる感情や妄想が頭をもたげてきます、しかしそのもたげたストレスをどのように善いものに転換できるかで私たちは治癒を働かせていくように思います。

ストレスといえばすぐに良い悪いと区別しては、コントロール不能に感情に呑まれていますが、本来は善いも悪いもなく、そのものを生長の糧にしていけばいいのでしょう。

しかし今の社会の在り方がストレス社会になっていますから、気が付けば刷り込まれてありとあらゆる病気を引き起こしているように思います。それは知識が氾濫しルールばかりが増えて、速度超過、多忙を極めた不安と心配で緊張して、人とのつながりが薄く金権主義的な世の中になっているからです。言い換えれば、不自然な世の中にいるからストレスが悪いものになっているのです。

どのようにストレスと向き合っていけばいいか、そこには考えずに行動したり、悩む前に実践をしたり、優柔不断になる前に覚悟を決めたりといった方法でストレスを善いものへと転じていくしかありません。

そもそも上手くいかないから上手くなりたいと願うものですし、できないからできるようになりたいと思います。さらに優しくなれないから優しくなりたいと思い、人の役に立てないから役に立ちたいと願うのです。すべては表裏一体に自分の心の赴く方を示しているのが感情です。

その感情に素直になるためにも、今此処、一瞬一瞬を大事に味わいつつ内省し人事を盡して信じたことを天にお任せしていくことしかないように思えます。そしてそれがストレスを福に転じるコツかもしれません。

転じるというのは、めぐりを善くすることです。

川が海に流れてそれが雲になり雨になって川になる。変化に柔軟であることが、自然であり、その自然をお手本に身体を労わることが自然治癒を学ぶ基本なのかもしれません。

自分自身のからだから自然の智慧を学び直していきたいと思います。

自分の答えに生き切る~自分らしく~

幼いころから、周りのありとあらゆる正解というものを与えられて私たちは育ってきます。大人と呼ばれる人たちから大人になれと様々な正解を教え込まれてきます。そうちに楽を覚えて何かを知ろうとすればすぐに正解を探してはその正解という常識の中で誰かの答えに合わせるのです。知識で自分の人生が変わるはずはないのに、知識でまるで人生が変わったかのように錯覚してしまうほどです。

自分の人生を思うとき、答えは自分の中にしかなく、尊く生きた実体験の中で自分の答えを出していくしかありません。しかし実際は、刷り込みから誰かの答えが先にあるから自分で答えなくてもいいと勘違いしている人も多いように思います。

一度答えを刷り込まれて考えることをやめてしまったら、自分の答えを放棄してしまうことにもなります。誰かが言ったからや前例にないからや、きっとやっても無駄だからと思うのは自分の答えに生きることをやめているのです。

人生はその人その人に個性がありますから、誰かと同じようにはならないものです。その人の姿かたちが微妙に他の人と異なっているように、自分の人生もまた同時に千差万別に異なるのです。だからこそその答えもまた異なります。

如何に自分の答えに生きていくかは、自分のままでいるということです。評価の中でねつ造した自分ではなく、誰かに言われたからそう思い込んでしまった自分ではなく、刷り込まれる前の子どものままに自分で手さぐりで答えを感じ取っていく好奇心全開の自分の中で出た正解に生きるということです。

人がどういおうがもしも人生を最期まで自分らしく生き切ったならその人の人生は偉大な幸福であったと言えるように思います。最期には、「あの人は遣り切ったね」と言われたらきっと「自分の答えを出したんだね」というように憧れられるように思います。

人生は産まれてきたときから、その人にしかない物語、その人にしかない個性、その人にしかないご縁があるように思いますからその人らしくあってほしいと願うのは人類の目指す理想かもしれません。

心の原風景の中に、自分の答えに生き切った人がいることは絶対的な安心感です。子どもたちのためにも、憧れを大事に生きるミスターチルドレン(子どものままの大人)の一人になれるよう足るを知りつつ歩み続けたいと思います。

人生の物語~個性~

人は物事を考えるときに、無理やりに二つに分けて理解しようとするものです。これは善か悪か、正しいか間違いか、できるかできないかなども極端に考えてしまうものもあります。

私が好きな心理学者に河合隼雄さんがいます。発達障がいの勉強をする際に、その著書や対談テープを随分参考にしましたが実際は人生というものとどう向き合っていけばいいかという指南書のようなものがほとんどでした。

その中で分けるということについて書かれている文章があるので紹介します。これは、小川洋子さんとの対談の中からの抜粋です。

「河合:分けられないものを分けてしまうと、何か大事なものを飛ばしてしまうことになる。その一番大事なものが魂だ、というのが僕の魂の定義なんです。
小川:数学を使うと非常によくわかりますね。
河合:お医者さんに、魂とは何ですか、と言われて、僕はよくこれを言いますよ。分けられないものを明確に分けた途端に消えるものを魂と言うと。善と悪とかもそうです。だから、魂の観点からものを見るというのは、そういう区別を全部、一遍、ご破算にしてみることなんです。障害のある人とない人、男と女、そういう区別を全部消してみる。」『生きるとは、自分の物語をつくること』(新潮社)

人間は、分類の中でしか人間は認識しないものです。私たちの会社も分類分けの中には入っておらず、無理やり分類分けされていますがわからない人には変な会社と呼ばれています。

結局は分類の中で人は物事を自分の都合で分けては認識していますが、実際の世の中は分類分けできない複雑で矛盾なものであるのです。中庸や中心などというものもそうですが、そのままに観得る状態であってはじめてその意味を感得できるように思います。

物事にはわからない部分があるからこそそこに物語があるように思います。わかりきった人生を生きるのではなく、分からない部分を愉しむ心の余裕やゆとりがあるからこそ目には見えない部分が実感できるようにも思います。

頭ばかりよくなり現実を自分の思い通りにしようと我を強くしていけば、次第に思い通りではない愉しいことも感じる力がなくなってくるように思います。分けないというのは、頭でわからないところを直感するということです。

物事を直感するとき、そこに偉大な物語があることに気づきます。二分法ではなく、直感法で理解するには体験による気づきと内省、振り返りを優先する生き方に換えていくことかもしれません。

最後に、河合隼雄さんの言葉です。

『物語の「主人公」は自分。人間は一人ひとり違うのですから、それぞれが自分の物語を作っていかなければなりません。』
・・・

『「せっかく生まれてきたこの世で、自分の人生をどのような物語に仕上げていこうか」という生き方の方が幸せなんです。』
・・・

『僕の言い方だとそれが「個性」です。「その矛盾を私はこう生きました」というところに、個性が光るんじゃないかと思っているんです。』

たった一つのたった一人の自分の物語が人生です。その人生の物語を面白く愉快にしていくのも自分自身です。マジメに考えることも大事ですが、マジメの中に遊びがなければ物語に気づけなくなります。

今のような時代だからこそ、敢えてふざけて生きてみたいと思います。子ども達にも遊びの中でその人らしい物語を生きれるように、自分自身がチャレンジしていきたいと思います。

 

 

 

 

正解探しの愚~コーティング~

人は刷り込まれ正解を教え込まれてコーティングされてしまうと、正解以上のことを考えなくなってしまうものです。世の中には、理というものがありますから知識を学び、その理を知れば、世の中を分かった気になれるものです。

以前、ある人が大学生の時に「自分はもう世の中の理を大体分かってしまった」という話を聞いたことがありますがこれも理論的な理屈を知って教科書を通して正解はもう大方分かったという意味なのでしょう。しかし実際は、理屈が分かって正解を知ったからとそれでうまくいくことはありません。自分の中の正解探しばかりしていても実際の世の中は正解を超えているものばかりですからすぐに通用しない事実に出会うからです。その人もその後は実際の理屈と違う現実とのギャップに大変もがき苦しんだそうです。

これは誰かが敷いたレールのように、筋道というものがいくらあっていると思っていてもそんな正論では人は動きません。人は思いによって動くものですから、正解がどれだけ合っているかよりもその思いがどうであるかを優先するのです。そこには心があるからです、そして心は目には見える正解や理屈以上の真実を捉える力があるように思います。

現実には、「思いやり」や「真心」というものがあります。

例えば、病気の治療や看護であっても正解通りやったから治ったわけではありません。そこに医者や看護婦や周りの思いやりがあってその人の自然治癒が働いて見守りによって回復します。他にも田畑の作物であっても、正しく育てたから育ったかというと、太陽の光や水、その他の風や土の微生物にいたるまで、真心を籠めて見守ったからそれが何かのハタラキを引き出し無事に作物が育ったのかもしれません。

つまりはあらゆる事象は、自分の頭で考えた正解の中にあるのではなく、それ以外の何か偉大な力によって実現している可能性があると思うことがあって正解以上のことを知るのです。先に知識がなかった時代がなぜ続いたかを考えればすぐに自明することです。赤ちゃんが知識がなくても自然に周囲を暖かくするのは、知識が先ではないことを証明しています。

正解ばかりを教え込まれて刷り込まれた人たちは、正解上の答えを探そうとはしなくなります。無関心になり、正解を超えた体験を積み重ねることが次第になくなっていくようにも思います。

本来は、正解通りにいくはずもなく、無理やり頭で正解のように仕立てて真実をねつ造しているだけで実際は正解などはないのです。正解探しの愚をおかしてしまえば、正解以上の真実は遠くなるばかりです。そうならないように一瞬一瞬のすべてを誰かのためにと真心で遣りきっていたり、誠実に思いやりを盡したり、全身全霊で思いを籠めて行動したりしたあとに、はじめて正解を超えるご縁の導き(真理)にも出会うように思います。

人は答えを知っているからすごいのではなく、答えを知らないからすごいという学問があるのです。詰め込まれコーティングされるのではなく、引き出され磨かれていく原石という考え方があることで人は自分自身の中に信や希望を持て努力の価値を再認識できるように思います。

刷り込みを取り払うのは、日々の内省で自分と向き合うことのように思います。一つ向き合えば相手のためになり、一つ受け容れれば相手が一つ変わります。正解をしってその正解を押し付けるよりも、自分の中の思いを高めてその思いを受け止めて思いを遣りきることだと思います。

刷り込みを取り払うには子ども達の姿から学び直すことです。一生は、出会いの連続ですから磨く機会を大切に思いやりを優先していきたいと思います。

運~心をいれかえる心がけ~

先日、幸運について考える機会がありました。人生には運が善いと言われる人たちがいます。なぜ運がいいのかと観察すれば、その人たちが運が善くなるような努力を続けていることに気づきます。

運が産まれながらいいというのは、その人の運が善くなるようなセンスを先祖たちが持たせてくださったとも言えます。無意識下で、本能が何を努力していけば運が善くなるのかを自覚しているということです。しかしその天性の運があったとしても、その後にその努力を怠ってしまえば運のセンスもまた減退してしまうように思います。

他にも運はご縁の中で導かれていくものです、善い人たちと出会い続けることができる人は幸運だとも言えます。それも自らが運が善くなるような生き方をしているから、そういう人と出会うとも言えます。

さらに自分の思ってもみなかった運に廻り合い、その運を伸ばしていくのも努力です。どうにもならないことをくよくよするよりも、自分のさせていただけることに感謝してできることを精進している人はいつも周りの力を借りて物事を成就していきます。

つまりは運とは一体何かということです。

私は思うに運とは「心がけ」のことではないかと思うのです。そして運を左右するのは「心をいれかえる」ことではないかと思うのです。

その人がどのような心がけをしているか、運の善い人は運の善い心がけをしているし、運が善くない人はやはりそういう心がけをしています。運がいい心がけの人に私淑し、その人の心がけを真似び、それを実践していくことで運は開けていく話はあちこちで耳にします。そうであれば、運とは心をいれかえることでいくらでも善くなっていく可能性があるということを示しているのです。

「心をいれかえる」というのは、変わる決心をすることからはじまります。

今までの生き方や習慣、考え方や行動、心の姿勢や態度を深く反省し、その心を別の心に変えていこうと決心をし、別の習慣や生き方、考え方や実践、その心がけを見直し練り上げていくのです。

人は先天的に運が善い人ですら努力していますし、後天的に運が善くなった人も努力を欠かしません。いつも自分の心がけを善くしていこうと精進していくことこそ、目には観えない幸運に包まれていることに気づくセンスを磨くことかもしれません。

子ども達が知らず知らずに影響を受けて幸運の中で道を歩めるように、自分もその周囲にいて先人のモデルになる大人なのだから心の倖せを見つめつつ、周りと一緒に心がけを高める実践を増やし弘げていきたいと思います。

魂の傷~社會問題~

人は幼少期をはじめ、無意識のうちに心に傷をおっていることがあります。社會の中で自分がどのような環境の中でどのようなことを感じたかは、その人の心の中にあります。その心の傷は、見た目にはわかりませんがいつまでも痛む人ともう治っている人がいます。

例えば、怪我もそうですが古傷が痛むというように昔怪我したところが何かしらのことで傷んだりします。同じように、心の傷も古傷のように痛むことがあります。人は何かしらの怪我をしてはそれを乗り越えて強くなっていくのです。

傷ついて痛みが分かるということは、同じように傷ついた人の痛みが分かります。苦しみも喜びも楽しみも、人間には共感という与えられた天性がありますからその力によって互いに癒しあうところに人間の社會の根がはっていくようにも思います。

ただ、今の世の中を見渡して観ると心を傷つけるよりも魂が傷つけられているような気がしてなりません。自信を失い、自分の役割を実感できず、自分の居場所をなくしたり、昔でいうところの日本人の大切にしてきた美徳、正直、素直、謙虚、誠実、思いやり、真心、勇気といったことが社會の中で否定されることで魂が傷ついてきているようにも思うのです。

魂が傷つくという言い方は曖昧かもしれませんが私なりの言い方をすれば、それは子ども心が傷ついていくということです。

子どもの権利条約の根幹を提起したヤヌシュコルチャックは、大人は大きくなった子どもであると定義しました。身体が大きくなったから大人になったのではなく、みんな子どものままに大きくなっただけです。

それは産まれてから死ぬまでずっと同じく、子どもは子どもであるのです。

その子どもを、無理やりに大人(今の自分たちの境遇に同じに合わせさせよう)にしようとするところに魂の傷つきがあるように思うのです。その大人とは、社會の乱暴な側面ばかりを強めてそれに慣れさせていくかのようにです。

子どもの心を失うことは、心が傷つくだけではなく魂も傷つきます。どんな時でも子どものままでいいと見守ってくれる周囲があればその人は自信を持ち、魂を育てて健やかに逞しく生長していくように思います。

社會の中で傷つく人たちが増えているからこそ、その社會の一員として自分が何ができるかを考えないといけません。子どもの素直さをいつまでも失わないためにももっと大きな目で社會を見渡し、もっと深い心で社會を癒し、もっと篤い耳で社會の声を拾っていきたいと思います。

決して自分の問題ではなく、その人個人の問題ではない、人間における全ての問題は社會問題です。社業の中でさらなる徳の発明に精進し、社會をより善く直すためにも実践で弘めていきたいと思います。