個性の尊重~人生を信じるということ~

自分の人生を疑わない姿勢というものは何よりも大切なものであろうと思います。

自分のやりたいことがわからないということで悩むのは、自分のやりたいことを無理やりにつくってきたからともいえます。あらゆることの制限の中で、自分のやりたいことはこれだと無理に教え込めばそれは刷り込みになるのです。

以前、子どもの学校の話で夢を持たせるというものがありました。時間内に夢を決めてきなさいと言って授業参観で報告させるという内容です。夢がないので周りの子どもが書いているものに合わせて書いたという子ども、親が言うとおりにしたという子ども、だいたい身の回りにある職業から決めたという子どもがありました。

本来は自分のやりたいことの先に自分の夢があるのですから、やりたいことは自然に出てくるというのを待つということを信じるということです。しかし、今の世の中では先に何かがあってからでないと頑張れない、結果が先という概念が横行しているようです。結果ありきであれば、努力の真価やその有難い機会に対する感謝なども感じられなくなるでしょう。私にはどんな成功者も結果意外のものを追っている人という定義がありますから、成功の定義を教える人が成功したことがないので分からないままに教えているのかもしれません。

本来の自分の天性というものは、天が与えるものです。たとえば、産まれてから分かれるものに男性女性からその先の個性に至るまで自分の性格というものは天地一体の役割の中で確かなものが存在しています。

その役割がどのようなものかとわくわくドキドキと楽しもうとすることが夢につながっているのではないかと私には思えます。他と比較したり、単に客観的に評価されている世の中の成功者のようになろうとしても、その通りの役割が自分にピタリと当たるのはほんの偶然の産物です。ほとんどの人は自分自身の人生とは異なるものを探し求めては、自分の足元を深く掘り下げようとはしないのです。

あるがままの真の自分自身になるということは、自分の役割を正しく果たしているということです。それは丸ごとの人生を疑わないということであり、自分の個性を尊重して性格を育てていくということです。

それを自分が先にこんなはずではなかったとか、あの人と比べて自分はまだこの程度などと人生に文句を言えば、自ずから個性を否定していることになり、自分自身ではない他人の人生を自分の人生だと勘違いして生きてしまうことになるのです。

自分の人生というものは、今、与えられているすべての機会を自分のものだと信じることです。言い換えれば、そのお役目そのものが尊いということです。どんなお役目であれ、自分に役割があるということを思えばそのもの自体がかけがえのない大切なものをいただいていることに自明します。

人生には無駄がないというのは役割があるという意味です。どんな体験であれ、自分の今いる此処で全身全霊、精いっぱい生き切ったならばそれは天寿を全うしたのだという有難い恩恵の中にいたということでしょう。

誰かと比較し早死にとか病気だとか、他にも色々と不満があるかもしれません。しかしご縁という世界から物事を観れば、一期一会に与えられているつながりに心から感謝できるものです。あなたがいるから私がいる、私があるからあなたもいる。どちらも一生懸命に真摯に人生を生き切っているというのが絶対安心の境地、人生を信じるということでしょう。

疑わないというのは、ありのままの自分自身になるということです。

信じたものが子どもたち一人一人の個性を育む環境につながっていることを忘れずに、見守る環境や子ども第一主義の伝道に自信をもって命を懸けていきたいと思います。

自由自在~性格との邂逅~

先日、芥川龍之介の「運命は性格の中にある」という言葉に出会いました。

これは自由というものを深めている中でとても大切なキーワードではないかと思います。自由というものを引き続き深めていますが、自由というものはその理解も言葉の定義も使う人によって異なります。

世間では一般的には、不自由に対しての自由で用いられます。これは自分を縛っているものから解放されるという意味や、自分の思い通りになることを自由とも言っています。しかしこの自由というものは与えられる自由のことを刷り込まれているだけで本物の自由とは程遠いものです。

刷り込みの自由というものは、何かと比較しての自由であったり、何かよりもましだと実感するときに与えられるものです。他にも権力や管理によって、その中で与えられたものも自由だと思い込んでいるのです。

では真の自由とは何でしょうか?

それは自分自身になるということです、自分らしくいるということです。これはあるがままの自分になるということ、自由自在の自分でいるということです。これを孔子は、50にして天命を知るとありますがそれだけ内省が深まり、自分自身の性格を悟ったということなのでしょう。

私はまだまだよくわかっていませんからあと十数年の学問の楽しみがあります。

性が象ったものがどのようになるのか、それは自分がどのようなものかを言います。自分の性が何を求めて、自分の性がどこに向かうのかを自らが知覚するとき運命というものが顕現するように思います。

つまり性格というものは、その運命によって象られる。自分の性格次第で運命が決まるという意味なのでしょう。その性格をどのように育てていくか、それが本来の学問の意味なのかもしれません。

性格を善くしていくには、元来の性格の善さだけではなくその性がどのように伸びたいのかに随って自らの道を正しく修めていく必要があります。正しく体験するというものですが、これは自らを磨き続けて自分自身になっていくということです。

この自分自身というのは、本来は産まれながらに純粋な自分の魂をより磨き、その魂の穢れを取り払い続けるように心を清らかに澄ませていくことで自分とは何かを悟るようなものです。

一つ一つの事件も出来事も、その人の性格が出ているともいえます。その人にしか起きない出来事はその人の性格がそれを呼び込むのです。性格が善くなるというのは、自分自身との真のつながり、本物の自分になるということを意味するのでしょう。

人は出会いによって自らを高めていきますから、自分の性格が何と出会っているのか、そこには本当に深い関心があります。これからも自らの直感のままに自由自在のかんながらの道を歩んでいきたいと思います。

主体性とは

自由と自立にとって何よりも重要である主体性について深めてみます。

私たちは幼いころから、与えられたものの中で何かを行うように何度も訓練されてきました。教育によって与えられた環境と与えられた課題によってそれをきちんと遂行することで評価されてきたともいえます。

つまりは先に相手から与えられることが大前提で、与えられてないものを自ら先に行うということをあまりしてきてはいないのです。言われたことはやるけれど、言われていないことはわざわざやろうとはしないのです。今の教育ではそういうモチベーションは育ててきていないといっても過言ではありません。

そういう中でいきなり自由な環境があって「なんでもやっていい」といわれても、どうしていいのかわからなくなり身動きしなくなるのはそれまでにそういう体験をあまりやってきたことがないからです。

本来、自由な環境を活かすというものは誰かによってまず与えられてからやるものではなく、与えられなくても自らの意志で遣りたいことがあるということです。たとえば、志があるからこそ道を求めては自らが新たな道を切り開くという具合にです。

そして主体性というものの責任は、与えられる責任ではなく自らが世界や人生への責任を持つということです。誰のせいにもせず、何かのせいにもしない、自分の全人生が丸ごと自分の責任となったときはじめてその主体が全人格の自分自身と一致するのです。

その人が志が立っていれば、自ずから主体性は引き出されていくものです。しかしその志が弱ければどうしても与えらる中でや、誰かによって動かされる中でしか自分を動かし発揮していくことができなくなります。

本来の自分を存分に発揮するには自由が必要であり、その自由の中で主体性を発揮していることが自立であり、それが自分らしく自分にしかできないことを実現し、そのプロセスこそが世界でたった一つの自分にしかできないことで世界へ貢献することになるのです。

人間がありのままで生きるということは、何も思い通りになることでも何もしないで与えられることでもありません。自らが自らの人生を真摯に求めているからこそありのままになるのでしょう。

これを論語、「中庸」ではこう記されています。

「天の命ずるをこれ性と謂い、性に率うをこれ道と謂い、道を修むるをこれ教えと謂う。道は須臾も離るべからざるなり。離るべきは道にあらざるなり。是の故に君子そのみざる所を戒慎し、その聞かざる所を恐くす。隠れたるより見(あらわ)はなく、微(かす)かなるより顕(あらわ)なるはなし。是の故に君子その独りを慎むなり。」

天の命じたものが性といい、その率うをこれを道という。本性から遣ろうとするからこそ今の道に出会っているはずですがこれが実際の人生と道が一致させることができずに人は疲弊しているのでしょう。主体と本性が一致するのなら、それは道です。その道を修めたものが教え、そしてそれを育むと書いて「教育」です。そしてそれが実現してこそ一人一人の人生の主体性が存分に発揮されているということになるのです。

本当に今、此処が道だと思っているか、だからこそ独りを慎むということがどれだけできているのかを何よりも内省するのが君子なのでしょう。

子どものころは、やりたいことが本当にたくさんあるものです。あれもこれも全部やりたいと思うものです。自由というものの真価、何でもやっていいという有難い環境があることに感謝できるのです。

まさに人生のキャンパスは白紙、そこにどのような絵を描いている最中であるのか、それは単に新しいことをやればいいというわけではなく、本当に脚下の実践を大切にし自分に与えられた天与の道を丹誠を籠めて日々に歩んでいるのかという意味でしょう。

自立とは、一人一人の幸福、そして社會の幸福、言い換えれば全人類全世界の幸福に直結しているものです。

主体性とは、「性」が主体と書いて字の如くです。

自由と自立の本義を改めて確かめ直して時代の教育改革に挑戦してみたいと思います。

自然循環~感謝の絆~

全世界の人間環境問題のことがニュースで流れるといつも心が痛みます。

今の環境がこうなっている責任は今を生きている私たちの責任です。子どもたちのことを思えば思うほどに、何を遺しているのが自分の生き方なのかと向き合うことばかりです。

昔の先祖たちは智慧があり、自分たちがどう生きることが子孫の繁栄と発展につながるのか、そして種を遺すためにどんな今を遺せばいいのかを真摯に取り組んできたように思います。

自然の中から、どうすれば何千年も生きていけるのか、生き残れるかと何よりも悠久の時間を観ては長く広い視野で物事を見つめていたように思います。その自然の叡智を自分たちの生活にまで還元し転換することで代々の生活を見守ってきたように思うのです。

それらの文化は何よりも優しさと思いやりに満ちており、共生と貢献の自然の仕組みにピタリと合っているのです。それを民族の歴史ともいい、そういった祖神たちの徳恵によって私たちの今は存在するのです。

それを御蔭様といい、先祖たちの御蔭で今の私たちが存在しておりますという意味です。

その恩恵に感謝するほどに、お返ししようにも直接はできないのだから子どもたちにそれを遺そうとするのが感謝の絆なのです。言い換えればこの「感謝の絆」こそが「自然循環」のことです。

昔は成人したならば、残りの人生は子どもたちのために生きなさいという言い伝えがありました。これも成人までできたのならば、子孫のために自分のいのちを使いなさいという意味でしょう。自分が生きられ活かされ感謝できるようになるのなら、子どもたちに何が遺せるのか自分のいのちの使い道をよく考えるようにという伝導があったのでしょう。

今を生きる私たちは自分のことばかりを考えがちです。しかし自分が今まで育ててくださった偉大な存在に対してどう思っているのでしょうか。その存在があるからこそ今があるのなら、自分にしかできないことでお役に立とう、そしてそれは子どもたちのためにより善い世界を譲っていこうと考えることでしょう。

子どもは絶対的に人間や環境や社會を信じてこの世界に産まれてきます。その子たちにどのようなモデルを示せるか、どのような生き方を真似してほしいか、それは今の大人たちが自覚しているはずです。そういうものを道徳というのかもしれませんが、より善いものを譲る中にこそ、祖神の徳が満ちているのです。

全部自分一人で世の中を変えることは難しいかもしれません、しかしその方法や仕組み、生き方は多くの人たちに遺せます。

それを私は子ども第一主義と定義しています。

自然循環の源になっている自覚を忘れないように、ご縁を弘げ実践を高めていきたいと思います。

自由と自立

人間は、常に安心を求めて生きているものです。当然、不安なままでいたいと思う人はいないと思います。しかしその不安は何から来る不安であるかを見つめることは少ないように思います。

たとえば自由というものがあります。一般的には、規律やルールがあってある程度、その雰囲気に合わせれば安心していられるというのは自由に伴う錯覚の一つであろうと思います。

主体性というものは、相手に期待したり組織や会社が与えてくれると勘違いし続けることではなく自らの決断と覚悟と自発的な行動によって切り開いていくことを言います。

いくら自由を与えられても、自分が楽しんで切り開こうとしなければその自由の環境もただの宝の持ち腐れになってしまうからです。人から認められている環境下では、やるのも自分、やらないのも自分ということに気づかなければなりません。

自分から進んで色々なことを挑戦していいというメッセージが自由と自立の中には存在します。誰かによって与えられ、誰かによって評価されるためにやろうというのは受動的に言われたことをやろうという意識です。

この意識は確かに失敗もないのだから無難ですし、何も起きませんから現状維持ができるのです。しかしこの現状維持の中に「道を切り開く」という楽しみがあるのかということなのです。

指示命令を与えてくれるのを待つくらいなら、どこか理想の指示命令を出してくれる組織に転職した方が人生が活かせるのかもしれません。もったいないと思います、自由を持つ組織が与えるものは指示命令ではなく「チャンス」です。チャンスを与えてもらっているのを活かせるかどうかは自分自身であり「自分次第」です。

人間はたった一人のたった一回の人生をどのように自らが主人公になって責任を持つかということが教育の真価のように思います。この誰のせいにも環境のせいにもしない、「自分の責任を自分で持つ」ということができてはじめて自由と自立が適ってきたともいえるように思います。

自分が責任者(=リーダー)なのだから、自分で責任を取るという覚悟があるかということです。いつまでも誰か任せ、いつまでも何にも試そうともせずに縛られたままで果たして真の自立ができるのかということでしょう。

自律ということは、外圧で用意されたルールや規則に従うから自律ではないと私は思います。単に自由が自分の思い通りと思っているのなら、それはまだまだ縛られている証拠でしょう。

自分自らが責任を持ち、自らを律することで周りの環境に左右されず自分らしく自分を信じて道を生きていくことができることを自律というと思っているのです。

その情熱は、常に道を切り開くのは自分という足取りを已めないことで燃え続けます。

畢竟、自由も自立も自分の天命や使命、役割や役目を果たそうと自分にしかできないことを遣り切る力を持っているかということに他なりません。何のための自由と自立かといえば、自分らしく生きることがもっとも世界に貢献するからそこを目指すのです。

怖がっているだけでは何も変わりませんし、これでいいと周りに合わせているだけでは何も動きません。思い切って自分から主体的に道を切り開こうとする人にだけ、確かな今と輝かしい未来が顕れはじめて「自由自在」の自分を顕現させることができるのです。

何をやってもいい環境、責任をリーダーが取ってくれる環境、その有難さというのは「思う存分に生き切っていい」と励まし応援してくれる環境があるということでしょう。自然界と同じように、地球に棲まう私たちが、どれだけポジティブに「チャンス」を与えてくれていると実感するかが自由でもあり自立につながる道筋でもあるのでしょう。

自由ということは生きていく上で、「主体性」を示唆する重要なテーマです。子どもたちの行動からたくさんのことを学び取り、世の中がチャンスに満ちていることを伝道していきたいと思います。

いつも励まし支援し、そして見守り、背中を押してあげるような存在になりたいと思います。

和合

自然界のすべての生き物を見ていると、脳の習慣とは別に本能で習慣化するという機能を持ち合わせているのに気づきます。

たとえば、動物でも昆虫でも同じですが生活のパターンがある程度決まってくるとその通りに生活しようとするのです。それはその場の環境に合わせて、気候や季節によって変化するのですから同じパターンでも変化を感じる力を本能は見失うことはありません。

これは習慣の力で同じことを繰り返す力と、変化に順応する力の両方をバランスよく活かしているともいえます。私にすれば、顕在意識で日々の習慣化を行い、潜在意識で日々の習慣化を同時に行う。つまりは、判断と本能によって常に自分をあるべきようにするのが自然の持つ和合の姿なのかもしれません。

これらの和合が邪魔されるのは、どちらかに偏るときのように思います。変化のみを追い求めて、日々の実践を怠ったり、日々の実践が慣れてしまいマンネリ化したということが起きることで肝心の和合ができません。

何かを実践するのには、心を籠めてから判断をするという順番が大切なことのように思います。自然に合致し、自然の運行と和合する生き物というものはこの真心と謙虚であるという法理から離れることがありません。

天の運行は真心ですから、真心にそって生きていきながらも、自分の我がありますから謙虚であることでいのちにそって正直でいられるのでしょう。

かんながらの道には、和合というものがつきものです。

自然であるというものは決して環境にただ自然が多いことを言うのではなく、本来の宇宙や地球の姿そのものの真心であるということだと思います。それは自分という一部がどれだけ全体の中にいるかを忘れないということです。

主体性というものも独立自尊というものもそういう状態ができて生きてきます。

社會の通念に流されて自分を見失わないように日々和合を大切に変化順応を楽しんでいきたいと思います。

本業の本質

昨日、自然農の田んぼの田植えを無事に終えることができました。お思い返せば3年前の震災を機に、様々な出来事を体験し、これを必ず善いことに転換するのだと覚悟を決めてから開始した実践の一つでした。

如何に人間が自分たちの都合で社會をつくっているか、本来の自然からかけ離れた発想の中で暮らしているか、その先にあの原発や歪んだ欺瞞が存在するのか、そういうものが子どもたちにどう残っていくのかを向き合ったのです。

先日もある方から、私が楽しそうで自然農の実践も続くので「本業ではなくて遊びだから続くんでしょ」と言われましたがその時はそうなのかなと思いましたが初心を思い返せば「生き方と働き方が本業だからこそ遊んでいる」のかもしれません。

私は少し変わっているタイプのようで、自分でも自分のことがよく分かっていないことがあります。自然のことは大好きですし、田植えだけではなくその周囲の虫たちや生き物たちに囲まれて自由に遊んでいるのをご一緒するのは心が幸福を感じます。

しかし何のためこれらをするのかというのは、遊びではない「本気」の志もまたあるのです。

他人からどんなふうに思われていても、私の中には「子ども第一主義」が息づいており、そこがあるから挑戦も改善も已まないのです。人はそれぞれに自分の物差しがあるのでしょうが、理念に合わせていけば周りから見れば変だと思えることでも合点がいくのです。

理念や信念がある人が変人に見えるのは、それは一般的な社会通念に合わせて生きているのではなく、その人には譲れないものがあるということです。そして生活は普段通りに暮らして周りに気を使って快活でもある一線には不退転の決意が存在しているのでしょう。

人間は守りたいものがあるとき、傷つくことをも恐れなくなるのかもしれません。

挑戦は常にその初心によって助けられながら前進していくものです。何かをしたから本業なのではなく、どうありたいかが本業の本質なのです。

初心を忘れたなれ合いでは何かをした気になってしまうのかもしれません、畏れ慎みたいと思います。常に色々な人たちの言葉は自分の初心を思い出すための助言だとして素直に正直に謙虚な心で自戒していける自分でありたいと思います。

誰かを思いやりはじめたことは常に感謝の中にいるのですから怠らず勤めていきたいと思います。

ご縁に活かされる

人生というものを振り返ってみると、様々なご縁に導かれて今の自分がいることがわかります。

そのご縁は、人間だけではなく様々な事物や時間、場所に留まらずありとあらゆるいのちとの邂逅によって得られています。これは自分で選んだようで自分で選んだようでもなく、自然の流れの中で自らがそれに気づき、それによって発達しているようでもあります。

世界では産まれた時代や生まれた場所で、様々な人生を送ります。それがどのようなものであるのかはその人にしかわからず、ある時はその悲惨な人生を知り悲しく涙を流し、ある時はその栄光に満ちた人生を羨み祝福をしたりもします。

しかし実際の自分の人生を思うとき、自分に与えられた道が一体なんであるのか、なぜこれらのことが自分の身の上に起きるのかと考えると、意味というものはつながっていて、その意味をたった一人の自分がひも解くことが何よりも大切であることを自覚するのです。

何も考えなくても生きられるようにできていますし、どれだけ考えても生きられないこともあります。人生とはまるで、大河の中に浮いている葉っぱのようでもありますがその道中がどのようになるのか人事は尽くしても天にお任せしていくしかないのでしょう。

先日、「遠野馬物語」(高草操著)里文出版の冒頭に作家の曽根綾子さんの言葉に出会いました。とてもシンプルな文章ですが、そこに人生というものの大切な意味が込められていいるように思いますので紹介します。

「人間は長い歴史の中で、たまたま自分が生まれ合わせた時代の、たまたまそこに居合わせ場所で、最善を尽くして生きればいいだけなのである。それ以上、小さな一人の人間に何ができるだろう」(失敗という人生はないより抜粋)

この小さな人間に何ができるのだろうか、、、ご縁という不思議で霊妙な世界に生きる私たち。

どれだけ大切に過ごしているのか、もう一度、今いるこの場所、周囲の人たち、そして自分を見つめ直すことができる言葉です。

一期一会の人生を真心のままに活かされていきたいと思います。

強く逞しく~情熱人~

何かの物事を観照するとき、そこにどれだけの強い思いを持っているかというのは何よりも大切であろうと思います。

これはどの体験でもそうですが、事が為るのと為らないのにその結果を見つめるといつもそこに「思いの差」というものがあるのに気づきます。同じことをしても、いつもその結果が異なるのはその人の思いの強さに影響されているのです。

今、学んでいる流鏑馬にしても的を射た板に射手の思いが宿るといわれて縁起物とされています。つまり昔から私たちは「思い」というものを何よりも大事にしてきたのであり、その思いがどうであるかということにこだわってきたのです。

目には観えませんがその「思いの醸成」というものをどれだけ怠らずに行うかで自ずから成果が異なっていくように思います。そしてその思いの醸成とは、情熱によって行うものであろうと私は思います。

現在、誰もが知っている有名な経営者に稲盛和夫さんがいます。今では著書の写真などで拝見すると穏やかな顔つきで泰然自若のようですが情熱という意味ではモデルになる方ではないかと思います。昔、若い時に自らを鼓舞し啓蒙するときによくその言葉に励まされたのを覚えています。

いくつか紹介すると

「強い思い、情熱とは、寝ても覚めても、24時間、そのことを考えている状態。自分自身の成功への情熱と呼べるほどの強い思いが、成功への鍵。」

寝ても覚めても遣るんだという強い思い、その時こそが情熱の炎は燃え盛っているということでしょう。濡れた炭にならないように水をなんど浴びせられても何度でも何度でも自分から燃えて火が消えないように起き上がることでその火を燃やし続けるのは「強い思い」です。

「成功する人と、そうでない人の差は紙一重だ。成功しない人に熱意がないわけではない。違いは、粘り強さと忍耐力だ。失敗する人は、壁に行き当たったときに、体裁のいい口実を見つけて努力をやめてしまう。」

そして続けて、粘り強さと忍耐力とありますがこれはピンチをチャンスととらえるか。情熱はあってもそこで止まっていないか、努力を燃やしたか。この時の努力というものは、最善を尽くすために最期まで諦めずに実践を続けているかということでしょう。忍耐力というものは、逆境こそが自らを磨くチャンスだと創意工夫と改善のチャレンジを続けたかどうかということです。

そしてこの言葉が何よりも印象的です。

「どんな仕事でも喜んで引き受けてください。やりたくない仕事も、意に沿わない仕事も、
あなたを磨き強くする力を秘めているからです。」

まさにこの言葉の中に「情熱の本質」が入っているように思います。

来たものを選ばない、そしてすべてを受け止めて受け入れて引き受ける。稲盛和夫さんは西郷隆盛の「敬天愛人」が座右なのでしょうが、見事にその生き方を貫かれていらっしゃるように思います。

情熱というものは、丸ごと引き受ける強さがあるように思います。それが思いがそうさせてくださるのだから、喜んで取り組ませていただきますという素直な姿勢を産むのでしょう。

情熱とは、燃焼のことですが完全燃焼していきたいと願うのが人生を面白く楽しみたいという願いでしょう。本当にそのように生きているか、本当に情熱をもって日々を過ごしているか、この自問自答は常に一緒に継続することで得られるように思います。

遣りきるということは、遣りきらせていただいた感謝の中です。
情熱こそが生命力ですから、その学びを味わって歩みを強く逞しくしていきたいと思います。

 

自他中心の世界

人間は利己的な生き物です。

まずは自分のことを考えてしまいますから、気づくといつも自分が一番大変なのではないかと考えるようになってしまいます。特に忙しく、自分のことしか考えられなくなると周りへの思いやりに欠け自分から孤立してしまいます。

人は自分のことは自分ですからよくわかります。自分がどれだけの思いをしているかとか、周りは分かってもらえないとか、自分だけなぜこんな目にとか思いやすいのです。しかし実際は自分だけが大変ではなく周りの人たちも大変なのです。

たとえば、自分が忙しい時は周りは暇そうに見えるものです。それは自分が忙しいからそう見えるのです。逆に自分が暇なら周りはなぜあんなに忙しいのだろうと思ってしまいます。これは自分を中心に考えるからそこを基準に周りを見るからそう見えるようになるのが道理です。ほかにも、自分が楽しくないときは周りは楽しそうに見えたり、自分がつらい時には周りは楽をしているように見えたり、自分が貧しいときは周りが裕福そうに見えるのも同じく自己中心的に物事は見えてしまうのです。

しかし実際はどうかといえば、みんな大なり小なり人間はみんな等しく同じように喜怒哀楽様々な感情がありますし、それぞれの価値観にそって苦しいことも辛いことも嬉しいことも楽しいことも日々に浮いては沈んでいるのです。

大事なことは、自分だけがという考えに陥らないことのように思います。

論語に人生において仁を実践するのにとても大事な一説があります。

「子曰わく、人の己を知らざることを患(うれ)えず、人を知らざることを患う。」

これは私の意訳ですが、「孔子は言う、人が自分のことを分かってくれないと嘆き悲しみ憂うよりも、自分が周りの人たちのことを思いやり共感していないことをもっと憂いなさい。」と。

なぜ自分だけがとか、なぜ自分がこんな目にとか、そう思うときは、周りとのつながりを自らが断ち切って自分の殻の中に閉じこもってしまっているのです。そういうときこそ、誰かのためにや他人のことを自分のことのように思いやれる優しさや強さが人間として必要だということでしょう。

他人を思いやれるというのは、自分が満たされているからできるのではありません。人を思いやるというのは、自分も大変だからこそみんな人は大変なのだと共感し受容して自他の人生が幸福になるように祈り行動することのように思います。

それはまるで家族が平和で幸福に暮らしていけるように自らのお役目や役割を果たそうと真心を優先する生き方のことでしょう。

今の時代は、つながりが弱くなり、しかも受信する力も麻痺してきています。如何に自らが積極的につながり、そして自らが発信していくかということが思いやりの絆を深めていくのには重要です。

それらのことはまずは周りを分かってあげたいといった思いやり、きっとみんなも大変なのだろうと共感していこうとする姿勢、その人の感謝の実践によりその自他中心の世界が観えてくるものなのかもしれません。

自分の心配をするよりも大切な人たちの心配をしている自分の方が人間は自分のことが好きになれるように思います。忘れてはならないのは、そういう自分も周りが支えてくださり活かしてくださっているからあるのですから周りに還元していくのはそのことを思い出させることになるのでしょう。

常に初心は真心や思いやりで感謝を忘れない自分でいたいと思います。