共感のやさしさ

人間は、時として一人では乗り越えることができないような困難や葛藤に出会うことがあります。不安や恐怖から、誰かに支えて貰わないと前に進むことができないようなこともあります。そういう時に、心に寄り添ってくれる人や、心の支えになってくれる人が救いになって様々な壁を乗り越えることができることもあります。

見守るということもまた、相手の心に寄り添うことで実現するものです。

しかしこの寄り添うと思いながら頭で寄り添ったつもりになっていて考えているだけで心は着いてきていないこともあるように思います。相手のことを考えていることが思いやりではなく、心を寄り添い、心で近づき、心で共感し、心から相手の心を自分に同一化するほどに受容することができてはじめて寄り添っているとも言えます。

人間は頭でなんとなくきっとこうだろうと思い込んで頭で考えて行動しても心は着いてこないことがほとんどです。頭で考えることは共感とは異なります。共感は例えば、相手が痛い思いをしていたら自分も痛いと感じる心、また相手が悲しみで泣いていたら一緒に泣いているような心、相手が自分と同化するほどに気持ちが伝わり感応するのです。

よくカウンセラーなどが共感してのちにアドバイスをしますが、もしもその人が頭で計算しながらやっているのならその場しのぎの対応になるだけでその人の人生を一緒に乗り越えるほどの支えにはなりません。共感しながらも自分の人生体験から励まし勇気を与え信じ見守るという過程は、真心の行動が伴わなければならないのです。

頭で考えることと真心は異なります。相手の苦しみに寄り添う時間や、相手の困難に共感する時間、すべてはじっくりと心が寄り添うために自分から心を寄せていく「共感のやさしさ」が必要なのです。

この「共感のやさしさ」を磨き続ける人こそ真心の人であり、そのやさしさが具体的な行動になり具体的なアドバイスになり具体的な見守りの環境を創造するのです。

慣れてしまい共感から入るのを怠らないように常に自戒し、心を用いてどのような人へも接していきたいと思います。共感のやさしさを失わないように丁寧に心を寄せていく工夫を行っていきたいと思います。

 

もったいない記憶

古民家甦生に取り組み、古いものを直して使っているとそのものに歴史があるのを直観することがよくあります。それは古い傷跡であったり、修復歴であったり、また作り手や使い手の工夫、その他にも収納箱や文書などどのような歴史を持っているものかが伝わってくるからです。

当たり前のことですが、自分の身近にあるすべての「もの」にも歴史はあります。過去、どれくらい前か、その「もの」がどのような経過があって今ここにあるかがそのものが語ります。

これはものに限らず、人も同じです。生まれてから死ぬまでの間に、様々な人たちにご縁がありそれぞれにかけがえのない物語が生まれています。その物語の延長に今の私も生きています。その一つ一つの偶然の組み合わせが、奇跡のように結びついて今の私たちがあります。

このブログを書いている机も、飴色のテーブルからは作り手の丁寧な仕事と思い、そして小さな修復歴、机上の傷跡、引き出しの文字、装飾などに思い出が伝わってきます。だからこそ、そんな机だからこそ木片や破片ですらも捨てるのに気が引けます。そこには大切な思い出も一緒に生きているからです。

私たちは「もの」は単なる「モノ」としてそこには心や精神はないと思ってしまいますが、本来は八百万の神々といって「もの」にもいのちがあります。そして形がないと思われている「思い出」にもいのちがあると私は思うのです。

形がない思い出は、いつまでも私たちの心に生きています。亡くなった祖父母や、幼少期に一緒に過ごした犬や虫たち、そして数々の出会い別れ、気づきの感動は思い出せば心に今も生き続けています。この思い出もまた、私は「生きている」と思っているのです。だからこそ忘れないように、色褪せないようにと大切に修繕しながらその思い出が飴色になるまで大切に思いやり一緒に生きていくのです。

無常にも歳月は経ちますが、いのちは「そのものが思い出と共にある間」はいつまでも生き続けます。そして御縁が結ぶ奇跡の出会いのなかで新たないのちの思い出を燦然と輝かせていきます。そこはまるで宇宙の星々のようです。

その生き続ける思い出を大切に感じながら新しく前に向かって生きていくのは無生物であろうが、かたちがない思い出であろうが、今、生きている人間の姿とまったく同じなのです。それが勿体無いということです。

いのち全てに思いやりや真心をもって生きるとき、人間はかんながらの道を歩み続けます。宇宙の意志は、かたちがあるなしは関係はなく膨大な思い出に見守られながら膨大な思い出を紡ぎ直すことです。今までどんなご縁があったかに思いを馳せると懐かしいものがあり、これからどんなご縁があるのかを思えば浪漫があり、それはいのちの仕合せです。

引き続き、「もったいない記憶」を辿りながら子どもたちに自然至善を譲っていきたいと思います。

自らに由る組織

幼い頃から学校で誰かのルールに従い評価されるという訓練をされ続けると自分で考える力というものは減退していくものです。他人から与えられたルールに従うとき、その人は他者依存が強くなり自律する必要性がなくなってきます。

本来は、人間は道徳というように自らに規範を持ち自らの判断で思いやりを中心にしお互いに助け合うとき人間性の高い社會が形成されていくものです。それぞれに自分の中に初心(良心)を設けて、その初心に従うことができるのなら自律した組織が実現し自由にそれぞれが思考を働かせて豊かな社會を実現します。

組織には思考停止する状態に陥っているものがあります。これは独裁者や権力者の設定したルールに従わせた結果、自分で考えることすらも止めた状態のことを言います。誰かが正解を持っていて、自分が間違わないようにということばかりを考え続けると人間は言い訳ばかりが増えていくものです。なぜなら言い訳は、自分で物事の本質や初心から考えないから出てくるのであって、自分で突き詰めていく人は具体的な改善や行動になって言い訳をする暇がなくなっていくのです。

自律というものは、言い換えれば自己規律ということです。これは自分で決めた規律を自らが守るという意味です。

例えば、ある組織や社會には規範があります。それは理念や方針、もしくは初心や信条などです。どの企業でも経営理念を掲げて、それをそれぞれが理解し自らがそれを自らで守ることでお互いに信頼関係を築き協力して連携することができます。

言われたことだけを守ればいいという組織は、この規範や規律を守るということの意味が分かっておらず表面上のルールに盲目に従えばいいと思い込んでしまいます。余計なことはしない方がいい、言われていないことは遣らない方がいい、自分から主体的に挑戦するのはやめた方がいいと、損得勘定によって自分に責任が追及することを嫌がるものです。このように一人ひとりが思考を停止すれば、もはやマニュアル人間としてマニュアルを設けてマニュアルに従わせるしか仕方がありません。

これは過去の大量生産の工場のようにみんなが機械のように単一に動き、その通りに物を作っていたらよかった時代ならこれはこれで一つの成功になったかもしれません。しかし今は、成熟して価値観も多様化してきてそれぞれが自らで自立し思考を働かせ協力しなければ対応できないほどに変化が求められます。変化が著しい時代には、かつてのようなマニュアルでは対応できないのです。

思考停止しないためには、それぞれが自らで自らを律するという力をつけなければなりません。そこは細かいルールをたくさん設けて従わせるような組織ではなく、方針だけを示したら後は個々の規範を信じて見守るという組織にする必要があります。つまり自由な組織、一人ひとりが自ら考えて自らに律するという「自らに由る組織」にしていくのです。

しかし今までそうではない組織に所属していた人たちはこの方針の意味が分からないから苦しくなります。自らに由るよりも、誰かからに縛られている楽を知ってしまっていれば最初の苦しみが辛いかもしれません。自由というのは、自律しなければなりませんから自立できない人は他者に依存していたいのです。他者に依存するというのは、たばこなどに似ていて常習化すればなかなか止めることができません。

個々の思考停止においては勇気を出して止めてみる努力をすること、自分で規範を設けて規律するという挑戦をすることで少しずつ改善していくものです。組織の思考停止においてはそれぞれが規律できるような環境や場を用意していくしかありません。つまりは他者依存から自立と自律の風土に換えていくということです。

自分で考える力は、これから多様な社會をみんなで築くために必要な力です。子どもたちが安心して自分らしく持ち味を発揮して社會で有用な人物になっていけるように私たち大人がその模範を示していきたいと思います。

真心と至誠

人と人との間の関係において、人間は頭で考えることと、真心で行動することを勘違いしてしまうと本質から乖離してしまうものです。本質を守るためには考えるか真心かという二者択一ではなく、常に真心を用いながら生活しその中で考えを巡らせていくという心身統一が必要になります。

この心身統一とは、理想と現実の統一とも言ってもよく、自分の人生でどう生きるかという生き方と、同時にどのように創意工夫して初心を保つかという知恵の活用です。

剣・禅・書の達人と言われた幕末から明治の武人に山岡鉄舟がいます。この人物はまさに、その心身統一に生きた真心の人だったように思います。江戸の無血開城もこの人物無しではありえなかったことですし、明治天皇の教育指導者としてもその後に大きな影響を与えます。山岡鉄舟が遺した言葉にこういうものがあります。

「まこころの ひとつ心の こころより 萬のことは なり出にけむ」

意訳ですが、「心を一つにすれば真心が発動し、すべてのことはそれによってのみ成り立っていくんだよと。」つまりは、自分の心の声に従って活動することで真心のままになりそのことがすべての出来事と一体になって活動していくのだという意味です。

人は頭で考えたことを心の声だと勘違いします。我が強く自分の思い通りにしようと思うばかり、我欲から出た声も心の声と思い込んだりもします。心の声を聴くというのは、我欲に呑まれないように常に真心のままに生きる実践を行っていくということです。

例えば、「思いやり」を持ち続けることも真心の発動です。頭で考えた思いやり風や真心風ではなく、心を寄せていく思いやりや真心を実践していくことです。人間は、相手の立場に身を置き、心情に寄り添って一緒に事物に傾聴し共感し受容していくのなら、自然に心が発動していきます。心は、常に全体を捉えておりその全体の中には自他の違いがありません。

もしもあなたが私なら、私があなたならと自他一体なのです。それを維持するには、計算から入るのではなく心から思いやる澄んだ精神が必要です。心を研ぎ澄ましていくというのは、山岡鉄舟のように自分の中に雑念や妄念、我欲や計算、保身などが邪魔しないように真心で心を大きくしていく修養を行うということかもしれません。

山岡鉄舟の剣の極意にはこう記されます。

「無刀とは、心の外に、刀が無いこと。敵と相対するとき、刀に拠ることなく、心を以って心を打つ、これを無刀という。」

「宇宙と自分は、そもそも一体であり、当然の帰結として、人々は平等である。天地同根、万物一体の道理を悟ることで、生死の問題を越え、与えられた責務を果し、正しい方法に従って、衆生済度の為に尽くす。」

「剣法を学ぶ所以は、ひとえに心胆練磨。もって、天地と同根一体の理を果たして、釈然たる境に、到達せんとするにあるのみ。」

心胆錬磨して一体何を目指したか、真心一つ、至誠こそその初心であることが分かります。

一日一日を過ごし内省し振り返る際に、もっとも大切なのは頭で考えることよりも、どれだけ心を使ったか、どれだけ心に従ったかという日々の心身錬磨が出てくる未来を変えていくのでしょう。

真心と至誠から常に自分を使い切っていきたいと思います。

非効率な生き方

昨日、ある方から「貴社は効率優先、結果が先ではない、長いスパンで物事を進めているいい会社だ」と評価されました。その方は、長年、大企業のプロダクトデザインをなさっていた方で家電製品や商品全体のユニバーサルデザインなども手掛けておられた方です。

少し前の日本は、すぐに結果だけを優先する成果主義をとっていました。しかしこの方法はどうしても短期的な成果だけに注目されるため、長い目で観て判断されるようなことは後回しになってきたように思います。

本来の仕事の質は、長い目で観た時にどれだけの価値があるかという経年変化の中で顕現していくものです。私が取り組んでいる古民家甦生もそうですが、かつて日本の先祖たちが発明した様々な道具や商品は経年変化する中で智慧は顕現してきます。

現在は一時的に無価値のようになった古いものが増えていますが、実際には何百年もむかしから改良されてきた自然を活用する知恵に溢れているものばかりです。現在価値が下がったのは、決してその道具が悪いのではなく私たちの価値観が自然から反するものになり、自然を活かそうとするよりも、自然を管理しようという人工的なものこそが価値があるという考え方に転換されただけです。

そのうち、自然を活用することが持続可能な社會の実現において何よりも重要だと気づけば日本人の先祖の生み出した道具や仕組みに回帰していくはずです。その時に、それが遺っていなかった、すべて失われたでは取り返しがつかないのです。

人間の価値観というのは時代時代で変化します。しかし本質や本流は変わることはありません。その中で短期的に流行があってある価値観が横行して飲み込んだとしても、自然がバランスを取るように必ず揺り戻しがあるのです。地球も暑くなれば、次は冷えるというようにそれが激しくなれば激しく揺り戻します。

価値観も同様に時間の経過とともに揺れ戻していきます。その際にどこに回帰するのか、どこを原点として間をとっておくのか、それは常に私たちは自分たちでバランスを掴んでいる必要があるのです。そのバランスを掴むためにも、本質を深め続けていく必要があります。物事の本質を深めていけば、自ずから原点回帰していくからです。

私たちは理念や初心があり、本質的に何をすることがもっとも子どものためになるのか、子孫のためになるのかを考えています。そこから、何を優先することが本質なのかと考えるようにしています。

質を高めるというのは、本質を極めるということです。

だからこそプロセスを大切にし、そのプロセスの中で出てきた問に対して改善を続けてそれを味わいながら成長していこうとしています。まさに非効率な生き方ですが、本質を守る生き方が人類や世界に必要になるときが来るはずです。

いつになったらという思いもありますが、粛々と初心の振り返りと脚下の実践を楽しんでいきたいと思います。

 

聴く姿勢

人間は、無敵の時と敵だらけになるときがあるように思います。敵だらけになるときは、総じて誰の話にも耳を傾けず独善的に自分が正しくて周りが間違っていると思い込んでいるものです。その時は、一番身近にいる親しい人や、自分のことを心配してくださっている友人にまで敵だと思い込んでしまったりするものです。

では無敵であるとはどういうことか、それはこの反対に人の話に耳を傾けるという時です。人は、話を聴いている状態の時は自分の間違いに素直に気づくことができ、人のアドバイスや忠告を謙虚に受け止め周りの人たちのことが仲間になります。仲間になれば敵はいませんから無敵となるのです。

人間は、話を聴けるかどうかが何よりも自分の状態を確認できる物差しです。大体、人は自分にとって都合の良い話や自分が聞きたい話を探し求めているものです。その逆に、耳の痛い話や聞きたくない話は耳を閉じていたり避けたり、無視したりと耳を傾けることはありません。

この耳は、聴くと書いているように心に直結しています。自分の心が聴きたくないことは耳を閉じればいいのです。耳を閉じるというのは、話を聴かなくなればいいのです。しかしこの時、心を閉じてしまうから周りは敵に見えてしまうのであり心を開いていれば周りは仲間に見えるのです。

思い込みが強ければ強いほど、相手のことを先に決めつけてしまい話を聴くことはありません。確かに正しいか正しくないか、自分にとって有利か不利かはありますが本来は相手の言い分にも「一理ある」と聴くことこそが自分によって有利でありそしてもっとも正しいことに近づくことになります。

この「一理ある」という聴き方は、自分だけではなく相手のことを認めているという行為です。相手を認めず自分の思い込みだけを押し付けてしまえば相手は自分が尊重されなかったと感じてしまい信頼関係が崩れてしまいます。人間は、見た目が同じようでもそれぞれに個性が異なり持ち味を活かし合う生き物ですからお互いを尊重しあい信頼関係を築くことで協力して生き延びる戦略を発揮して社會を形成してきた生き物です。

だからこそその基本(ベース)には、「聴く姿勢」を持つ必要があるのです。素直さや謙虚さは自分の「聴く姿勢」に顕れます。自分から「きっと大切なことを教えてくださっている」という姿を持ち続けて、人の話を聴く努力ができる人が将来的に人格が磨かれ徳を高めていくように思います。

子どもたちも素直に謙虚に心を開いて自分らしく生きていけるように、聴く姿勢を正していきたいと思います。

むかしのいのち~もったいない~

昨日、聴福庵のおくどさんの間の天井煤竹の残りで装飾などを行いました。煤竹は、丈夫で傷まないのであらゆるところに活用することができます。飴色に美しくしなるこの竹は歴史を生き抜き燻されたいのちの凄みを感じます。

今の時代、何でもすぐに加工して大量生産をして本物に似たようなものを作ることができます。本物風の似て非なるものが、席巻しているこの時代では時代の篩にかけられて生き残ったものは古臭いものとして捨てられていることが多いように思います。

しかし少し考えてみればわかります。

この本物の煤竹を作ろうと思ったなら、100年から200年間、囲炉裏の上で日々に燻し続ける必要があります。そんな時間と手間暇をかけてつくろうとしたら、出来上がるのにこれから100年から200年待たなければなりません。ホームセンターなどで売ってある煤竹は、見た目は飴色風ですがこれは機械で一気に燻し加工することで本物風に似せているものです。

もしも先ほどの100年から200年の煤竹の大量注文をお店が頼まれたらすぐに「品物がない」と断るはずです。また「200年待ちでもいいですかと聞いて「はい」と答える消費者はいない」と答えるでしょう。

簡単に真似できるものと、真似できないものがこの世にはあります。いくら似せても、歴史や時間は似せられないのです。

私は伝統というものを考えるとき、かけてきた時間の長さを感じます。

人間は誰でも寿命を全うしたいとは願うものです。そのために、いのちを永く使い切ろうと大切に用いてきたのです。「もったいない」という言葉の本質や背景には、このいのちの大切さが籠められているのです。

そのいのちを加工して時間を懸けずに簡単に作りこまれて消費しては捨ててゴミにするという世の中では、いのちの価値もまた失われていくように思います。

すぐに加工して使える物を欲しがる風潮は、人間にまで影響を与えすぐに加工して使える人間を欲しがるようになります。

本来、時間をかけてそのもののいのちをじっくりと感謝して使おうという価値がもったいない心を育み、自然の智慧を活かす風土環境を醸成したように思います。

むかしのいのちの価値観が失われてきている現代において、子どもたちの感性にも影響を与えてきているように思います。伝統というものは、その歴史の時間を通して先人たちが守り継続してきた思いや願い、祈りがあります。

聴福庵の天井に配置した煤竹には、そういう祈りや願い、思いが入っています。引き続き、子どもに譲り遺していきたい生き方を伝承していきたいと思います。

空氣の本質~元氣な暮らし~

人間は空調に慣れてしまうと空気の流れや新鮮さなどを感じなくなりますが、むかしの古民家に住んでみると風が縦に流れているのを感じ澱みのない新鮮な空気の美味しさを味わえるものです。家の中では囲炉裏をはじめ、火鉢などを炭を熾してお茶を飲みますがその空気も床下から天井の屋根へと流れていく空気によって常に浄化されていきます。

以前、新潟のとある古民家宿泊施設に泊まったときそこは空調設備が整い現代のサッシの窓で厳重に閉め切られていたのですが、囲炉裏で火を熾したらすぐに一酸化炭素中毒の症状が出たことがありました。現代の住宅では危ないからと決して閉め切ることがないのですがつい古民家だから大丈夫だろうと安心していたのが原因でした。古い家でも、現代風になっているところは空気が循環していないのだなと改めてむかしの家の智慧を感じる善い体験になりました。

人間は空気を吸っていかなければ生きてはいけません。空気の中から水分を吸収したり、目には観えない様々ないのちのエネルギーを得ています。森林浴なども空気の中に入っている様々なものを吸収して心身ともに癒されていくのです。その空気が環境汚染によって汚れており、都市ではなお空気は汚れますから健康を害しているのは当然とも言えます。

以前、「医師が薦める本物の健康住宅」という記事を読んだことがあります。そこに小児科医の真弓定男院長の記事に「食事と空気を昔に戻せば、子どもはみんな元気になる」というものが書かれていました。

「特に、みなさんが普段何気なく吸っている空気の問題は重要です。何より気をつけないといけないのは、冷暖房で温度調節された空気です。人間は25日間、何も食べなくても水さえあれば生きていけます。その水も5日間程度なら飲まなくても大丈夫。でも、5分間呼吸をしなければあっという間に死んでしまいます。それほど空気は大切なものです。ところが、この空気をおざなりにしている人が非常に多いのです。
町中の空気より、自然な空気のほうが体にいいことは誰でも知っていること。それなのに、冷暖房や加湿器を効かせた室内で、一年中同じ温度、湿度の中にいるのは、あまりにも不自然だとは思いませんか?体には、もともと温度調整機能が備わっています。気温が高ければ自動的に毛穴を開いて汗を出し、逆に気温が低ければ毛穴を閉じて体を震わせ、熱を生み出す。そうやって体温を一定に保っているにもかかわらず、機械によって体の状態を保とうとすれば、体本来の機能が失われていくのは当たり前です。」

現在、東京では総合空調のビルの中で一日を過ごすことがあります。田舎で自然農や古民家で暮らしているなかで都会の生活に戻るとあっという間に皮膚や疲れが溜まっていくのを感じます。もちろん、病院の入院のように病気の時は回復に役立つのですが健康な時にはかえって不健康になるという具合に体温調節の機能などが働かなくなるのを自分の体験からも感じます。

田舎での体の活き活きした強さは、自然の中で五感が働き躍動することで得られる元氣です。都会は体はあまり使わず、頭ばかりを使うので五感よりも脳さえ動けばいいのかもしれません。しかしその脳も、便利すぎる都会の生活の中で空気や電磁波、食事によって働きが減退しているのも感じます。

さらに真弓先生は、「本来、外気と室内の温度差は、5℃以上あってはいけません。できるだけ外と近い空気を吸う。冬でも薄着の習慣をつける。それが子どもの健康を守る大事な秘訣です。」といいます。

自分の体をあまり甘やかさずに、少し厳しくすることで本来備わっている力を発揮させるようにする。健康を守るというのは、今の時代では環境に甘えずに自律して自立する生活習慣を身に着けるということかもしれません。

最後に、「本物の家」についてこう語られています。

「通気性のいい家とは、家の中の風が縦に吹く家のこと。昔はどの家にも必ず縁の下がありましたが、床下の空気が畳を通して1階に上がり、格子状の天井を通して2階へ行き、その空気が瓦屋根を通って外へ行く。昔ながらの木造旅館などがそのいいお手本です。すぐに新しい家を建てることができないという方は、窓を開ける習慣をつけましょう。外の空気となじませるだけでも違います。建物の空気を大事にすれば、健康面だけでなく、心ものびのび育つはずですよ。」

むかしの家にすれば、本物の家になるという言葉はまさに本質だと思います。

先人たちは、この土地の風土の中で私たちよりもずっと長い間、暮らしを営んできました。その中で得た住宅や家の智慧は、私たちが健やかに安心して健康に生きていくために創意工夫された努力の結晶とも言えます。

それを外来の異なる風土から入ってきた建物や家に住み、その翳った分を加工して乗り越えるのもそろそろ限界に来ているように思います。環境汚染が進み、気候変動やあらゆる資源が激減する中で、そんな遠くない未来に私たちは便利さや快適さを見直してでも健康で長生きし、安らかに豊かに暮らす方を選択することになると思います。

その時のためにも、先人の智慧を伝承することは今の時代を生きる世代の大切な使命です。引き続き、子ども第一義を実践し「本物」を譲り遺すために自立と自律を実践して継続継承していきたいと思います。

 

野性のチカラ

昨日、熊本で自然を愛する会と共にヒューマンネイチャースクールを主催する方とお会いするご縁がありました。会が立ち上がってから43年間、自然と共に育ち、自然と共に生きる、「共育」・「共生」を願いに、登山やキャンプといったアウトドアをベースに、会員相互の親睦や社会奉仕活動・国際交流事業をはじめ、様々な活動を行っておられました。

お話をお聴きしていると、私たちの観ている子ども観と同様で「子どもはできないのではなく、知らないだけだ」という言葉に改めて環境が変わって得たものと失ったものの存在を再確認することができました。

公式サイトには、「子どもたちの現状とこれから」というところでこう書かれています。

『「生きる力を育む」ということで、教育の現場では様々な取り組みが行なわれているようですが、昔の子どもと今の子どもは何処が違うのでしょうか?食生活が欧米化したことにより体型の変化はあるようですが、本質的な部分は少しも変わっていないように思います。大人が作り出した社会環境の影響をまともに受けているだけで、子ども達は今も昔も子どもらしい部分は何も変っていないように思います。確かに今の子は、昔の子に比べて我慢強くありません。辛抱出来ない子が多いと言われます。しかし、それは大人の都合ではないでしょうか。出来ないのではなく、したことがない、しなくていい、する必要がない、知らないという環境にいるからだと思います。昔の人が創意工夫してきた知恵を含め、私たちが子どもの頃に当たり前のようにやっていたような体験が不足しているだけのようです。体験させ伝えてあげることができれば大丈夫だと思います。』

今の時代は、物に溢れ、環境に恵まれ、自ら何もない中で強烈に「求める」ということも少なくなってきています。現状に満足してこのまま特に大きな辛抱や苦労をしなくても生きていくことができる時代でもあります。そんな状況の中で、最初からやる前にできないと思い込んでいたり、どうせ自分にはできないと決めつけたりして諦めている人も多いように思います。

本当はそれは単に「知らない」だけで、何でもやってみようとすれば人間はなんでもできます。私も幼少期から何もない中で、様々に創意工夫してやってきました。それは今も会社経営をはじめ、現在挑戦しようとしていることも前例に囚われず諦めず「辛抱」して忍耐しながらも子どもたちの未来のためにと日々に新たな挑戦を求め続けています。

最初からできないと思い込んだり、大変なことを避けて苦労を嫌がるのは今の恵まれすぎた環境に対して本来備わっている生きる力が減退しているからかもしれません。農業一つでも、農薬がないとできないとか肥料がないから育たないとか、自然に育つ環境という観点ではなく材料や道具がないからできないと思い込んで最初から諦めていたら共に育つものも育ちません。

人間というものは、なんでも環境を整えて安心安全になってしまうと生きる力がなくなってくる生き物なのです。だからこそ、過保護過干渉にせず信じて見守りその人が育つために敢えて自分から主体的に活動できるような「自然野性環境」が必要になるのです。

この自然野性環境とは、五感を総動員し、ないものねだりはせずにどんなものでもすべて活かそうとする野性のチカラの発揮できる環境のことです。そうすれば元来備わっていた持ち味や活力が引き出されその人にしかできないチカラや魅力が顕現してきます。言い換えるのなら汗と苦労のチカラです。

あまりにも恵まれすぎる環境を与えれば与えるほど、汗も苦労もせず人間はもともと備わっている野性のチカラを消失していきます。そしてそのうち環境がないからできないと何かのせいにしているうちに自分自身も消失していくのかもしれません。

子どもの頃の野性のチカラを発揮する体験は、大人になってもその人の人生に自信を与えるように思います。自然の中で、創意工夫して生きた力はそのままに自分自身の可能性を拡げていくからです。

私も自然や伝統文化を愛するのは、そこにむかしからの先人の智慧を身近に感じるからです。先人の智慧は今のように何でも環境が整っている中では一つとして生まれてはいません。その智慧はすべていのちを使い切るような自然の叡智の中で創意工夫して実現してきたものです。

子孫たちに、その智慧が伝承していくことが生きる力を伸ばしていくいのちのリレーでありかけがえのないバトンになります。

子どもたちが置かれている現代の風土や環境をもう一度、研究し直し何を得て何を失っているのかを真摯に学び直していきたいと思います。

 

自己肯定感のこと

人は自分自身に自信を持つことで安心することができます。他人からの評価を基準にしていたら不安はいつまでも続き、自分自身のことを自分で認めることではじめて自分というものの存在を信じることができるようになるものです。

人間は幼い頃からの育った環境が影響して、自分自身との関係が出てくるものです。本来は自分のままでいい、自分らしくていいものが差別や偏見によって歪められていくものです。

いつまでも自己否定したり自己肯定感が低いままなのは、自分自身に差別や偏見の眼差しがないかをまずチェックする必要があります。他人から馬鹿にされたり、他人から揶揄われたり、蔑まれたりしたことが同様に自分も他人に対して無意識にそういう復讐心から偏見が入っていたりするのです。

自分に自信がないと自分の自信を持とうとすることは大切ですが、そのためにまた評価を求めてしまうのは自分自身の偏見がそうさせているかもしれないということです。思い込みの強い人や、決めつけの強い人の方が仮初の自信を纏っていることが多く、本来の自分らしくや自分のままでいいとは思っていないことが多いように思うのです。

誰しも人間であり、その人はその人のままが価値があると自分の偏見や価値基準なしに思えているかどうか。その観る目が、鏡のように澄んでいるのなら丸ごとの自分自身のこともそのままに認められるはずです。

自分のここは認めるけれど、これは認めない、決して見ようともしないでは向き合うことができないのです。人は自分自身と正対して、自覚して、自認してそれも自分だと認めるとき、自分というものの存在を感じます。

そのうえで、自分自身と折り合いをつけながら対話をしながら協力して生きていくとき自然体になっていくのです。自然体の姿は、差別や偏見のない姿になっているといっても過言ではありません。

自己肯定感が低いと不平不満を言う前に、自分の偏見や差別をなくそうと自他のことをもっと認めて本質を深めて人間を知ろうとしていくことが大切なのかもしれません。

すべての生き物にはいのちがあり、そのいのちは常に平等で普遍です。違いを認め合い、異質なものを受容するとき自分のことも愛せるようになるのかもしれません。

子どもたちが安心してあるがままに楽しく豊かに生きる社會を築いていきたいと思います。