福の修行

昨日から新潟の春日山に来て、上杉謙信を深める機会がありました。春日山神社、毘沙門堂、その後、林泉寺に参拝しました。上杉謙信の生き方や思想は、この地に多く遺っています。上杉謙信の「謙信」は、法号であり戒名を不識院殿真光謙信と言います。そして林泉寺には「第一義」という謙信の座右が山門の入口に掲げられています。この法号のはじめにある「不識」というのは禅の達磨大師の言葉です。

「不識」には林泉寺HPにこう紹介されています。

『仏道修業に励んでいた謙信公は、林泉寺八代目の益翁宗謙大和尚「達磨大師の言った不識とはどういう意味か」と問いました。苦修練行数カ月の末、ついにその本旨に達しました。不識の中味に合致した生涯を見出した謙信公は、自ら「不識庵」という号を名乗りました。不識というものの意味は、梁(中国)の武帝と達磨大師の間で取り交わされた問答の中で達磨大師が答えれらた言葉です。不識は、「しらぬ」ということではなく、「ただ頭の中で考えたり、本で学んだ知識などでおしはかれるものではない。あらゆる偏った見方、考え方を捨てて、仏様に身も心も預けて、仏様とともにその教えに生きるとき、初めて真理と自分とがひとつになり、悟りがひらけて、自分も仏様になれるのだ」ということです。』

自ら毘沙門天を志し、戦国時代に生まれ義を貫くことを覚悟し生きた謙信にとってこの「不識」というのは人生の大きな課題だったように思います。何がもっとも善いことなのか、何を信じて生きるのか、その時、経典の中にあった良し悪しをも全て忘れ、無心に私我を手放し捨て去っていく中に「第一義」があったように思います。私も理念で「子ども第一義」としていますが、この第一義はそのまま、あるがままという意味があります。つまりは、子どものままを貫くともいい、子ども心のままともいい、常に子どもの側から物事を観続けるという意味でもあります。

また毘沙門天というのは、サンスクリット語(インドの古語)では「ビシュラバナ」と表記し、この音写が「ビシャモン」と言います。言葉としては「全て丸ごとを聴く」という意味を表しています。そして毘沙門天は七福神の一人に数えられています。私が実践を重んじる「聴福人」というのはこの毘沙門天の生き方、つまり如何に全てを聴いて信じて福に転じるかを徳目に実践するということです。

「義」というのは、古来から続く日本人の生き方を貫くときに顕現するものです。そのあるがまま、自然、かんながらの道の上には義は燦然と輝き子孫たちへの道しるべとして風土の彼方此方に文化として継承されていきます。

毘沙門堂で四方の自然を感じながら毘沙門天を念じ続け、神人合一しようとした謙信の祈りが聴こえてくるかのような感じがしました。人間の世界での筋道もありますが、人間よりも先に自然の筋道というものがこの世には存在します。その人間の小我を手放し、自然の大我を悟るというのは第一義の実践によって実現するように私は思います。

常に自然を優先しているという意味が、「謙」でありそれを「信」じるものとして自然あるがままであったその生き方に私は「義」の本質をいつも感じます。義と言えば、日本には義将と呼ばれる風土自然を顕現した武将たちの生き様や真心がいまでも語り継がれています。

古来から大切にしてきた忠義という言葉も、今の時代は色あせて別の意味で使われます。そのうち自分の価値観に囚われて思い込み、忙しさに流されて大義を忘れて自分をも亡くしてしまっている人も増えたように思います。

こういう時代だからこそ毘沙門天から福の徳目を学び直し、もう一度「第一義」を座右にしていくことが必要になってくると思います。引き続きカグヤは「子ども第一義」を掲げ、この時代に温故知新した福の修行を積み重ねていきたいと思います。

 

 

表裏一体~徳の見方~

世の中の全ての物事は陰陽から成り立っているものです。光と闇、熱い冷たい、健康と病気、男と女、水と火、全ては陰陽があり表裏一体とも言えます。御互いに長所があり御互いに短所がある。その両方が上手く機能して調和しているのが自然界とも言えます。

しかし実際は人間の都合で、良し悪しを決めつけてしまいそのものを裁いて分けてしまうと本来の姿、物事の実相が観えなくなっていくものです。悪いと決めつけたものがずっと悪く、良いと決めつけたものが良いとは限りません。特に人においては、集団で何かを行う組織においてはその人の個性が一般的に悪いと言われることが善いところになったり、良いと思われていたところが悪くもなります。

つまり個体として悪いところが見えるのはその反対に善いところがあるのであり、短所を見るとき、その人の長所が同時に発見できるとも言えます。長所短所も表裏一体ですが、どのようにその人は見るかはその人の物事の見方に由るものです。

私は自分に都合の良い人の見方をするのではなく、全体を丸ごと見て如何にそれを善いことにするかということを気を付けるようにしています。なぜなら、物事はその部分だけで完結するものではなく全体を観た時に発生する相乗効果があるからです。自然界も同じく、色々な生き物には一長一短あります。完全に自分には都合の悪い存在もあります、しかしよくよく観察し全体を通してみた時、その都合が悪いことはとても大切な役割を果たしていることがあるのです。そういうものを排除するのではなく、そのものの特性を活かそう、そのものの持ち味を活かそうとするところにこの世の陰陽の法理を修める境地があるように思います。

たまたま表裏一体のことを深めていたらあるブログに感性論哲学創始者の芳村思風氏の言葉が掲載されていましたので紹介します。

「世の中は何事も、陰・陽、内・外、白・黒、高・低、表・裏・・・と一対を成している。性格も同様に、社交的な人は八方美人、慎重な人は優柔不断、意志の強い人は頑固者と、長所と短所は表裏一体。好感を抱く人に対しては、裏(短所)を見ないようにして、表(長所)を見ようとする。嫌悪感を抱く人に対しては、表(長所)から目を背け、裏(短所)ばかり見てしまう。 性格は持って生まれたものなので、直そうとしても直せない。 自分の長所を伸ばして輝かせれば、裏は表となり、短所が目立たなくなる。 同様に、人を見る際は正面だけでなく、上からも下からも斜めからも、360度丸く見て長所を見つけなさい。」

この”360度から丸く見て長所を見つける”という言葉は、私の実践哲学である一円観であり、何よりも丸ごと信じきるからこそできる境地です。よく社内でも、その人の短所を見極めたり深めたりしていますがそれはその人を丸ごと知るために必要なことなのです。そしてそれをどう長所として転換するかが本来の持ち味の活かし方です。良いところのみを限定して見ている人には、その人の本当の持ち味や実力は分かりません。メリットもデメリットも見たうえで、その人のことを丸ごと好きになる、そういう人だけがそのものを活かせるように私は思います。

好きになるという境地の先には、物事を愉しむ境地があります。よく「知好楽」という言葉もありますが、全ての物事を善い方を観ようとする人はいつもこの境地を素直に楽しんでいるものです。

人間関係も同じく、表面だけを知っていて裏面も知らないではそれは表裏一体を知ったとは言えません。表裏を知るものだけが、表裏を好きになり、表裏を好きになるものだけが表裏一体の境地を体得するのです。

その人を味わうように感じることや、そのものを味わい盡すように愛おしむ中にこそ人格が高まり円熟していく秘訣があるように私は思います。子ども達の個性を活かし合う場を創出していくためにも、この表裏一体を磨いて徳の見方を学び直していきたいと思います。

鐵から学ぶ

私たちは明治期に諸外国の技術に追いつくために、それまで永らく先祖たちが磨いてきたそれまでの技術を一旦捨てました。例えば、製鉄法でいえばたたら製鉄という砂鉄を炭で熔かして純鉄といった玉鋼を作る技術から、西洋のコークスによる高炉から錬鉄の製造を始めた炭素との合金である銑鉄を作る技術になりました。

それまで少量ですが質の高かった技術よりも、質が下がっても大量に便利につくれる効率の良い技術の方を優先したとも言えます。産業革命はそこから発生し、大量生産をした戦争の武器を含め、様々な鉄製の道具が作られました。

世の中の道具を見渡してみると、車も船も飛行機も、それに身近な建物から生活道具に至るまで鉄は利用されています。

地球の3割は鐵でできていると言います。マグマの鉄がなければ磁場を作り出すことはできませんし、磁場がなければ地球は紫外線や太陽風を避けられず生命は存在できません。さらに生育の観点から見れば、血液が赤いのは赤血球が赤いからであり、その中のヘモグロビンなど鉄イオンがなければ酸素を肺から身体の隅々にまで送ることが出来ません。他にも植物をはじめすべての動物には、体内に酸素を供給する鉄分の補給が欠かせません。つまり光合成、呼吸、窒素固定、DNA合成、等々、地球上のあらゆる生命体はこの鐵がなければ生きていくことできないほどかけがえのない存在なのです。

地球は鐵の塊であり、その周りを水で覆っているだけとも言えます。水の惑星とも見えますが本質は鐵の塊が星の姿であるのです。その星の根本が隕鉄で生成されて、私たちは星の熱にいのちが暖められ地上でいきることができています。

話を戻せばその鐵の生成において、単に効率を優先して大量に生産すればどうなるか。鐵を生成する本物の技術が消失するということは、本来の鉄の質が低下していくということです。

例えば、日本刀でいえば慶長年間以前に製作された刀を古刀とんでいますがこの年代を境として日本刀の製作方法や用いられる鉄材に大きな変化があったそうです。慶長年間以降の日本刀を新刀と呼びますが不思議なことに鉄の精錬技術が未熟であったはずの古刀期の日本刀の方が刀鍛冶同士の技術交流や鉄の精錬技術が進んだ新刀期以降の日本刀よりも優れた作品が多いといいます。戦争により大量生産がはじまることで優れたものが消失してきたとも言えます。これは明治以降と同じ状況です。常に質は戦争によって下がっていきます。

大量に生産するということは、質を求めていくこととは異なります。ここでの質とは本質の質のことです。つまりは「それは何であるか」が失われていくことです。本来の鐵が次第に鉄ではなくなって別のものになっていく、それでは自然から得た智慧をも失っていくとも言えます。

先人や先祖たちは、そのものの性質を見極め、そのものの性質に合わせたものづくりを大切にしてきました。もっとも理に適った方法で、もっとも理に沿ったものを作ったとも言えます。それは自然循環に逆らわず、地球が喜び、生き物たちが活かされる技術でした。人間都合でだけの技術は、質が低いものとして扱わず大切にしてきたからそのものの伝統技術が今に光っています。

鐵は今、まさに過渡期にきていますがこれは人もまた過渡期になっていることを意味します。如何に明治時期に失った技術を温故知新して今の時代に譲り遺していくか、これは生き方を含め真摯に向き合う必要がある様に私は思います。

鐵を深め、鐵から学び直していますがそこに観えてきたのはいのちを活かすという自然の智慧を鐵が持っているということです。歴史の中で変えてはならないものが何で、変えていくものが何か、本質を維持するために今の世代の責任者として今できることを子どもたちのために遣り切っていきたいと思います。

 

 

和とは何か 1

昨年から暮らしの実践をはじめ、身のまわりの道具や環境が和のものに変化してきています。和のものとは、日本古来のものであり先祖たちが手作業で編み出して産み出してきた智慧の姿を顕すものです。

今の時代は、西洋や外来の文化を中心に大量生産されたものを家具や道具に用いることが増えています。家も西洋風になり、家具もその他の生活スタイルも西洋のものを取り容れています。しかし、歴史のある建物や古民家などにはかつての日本の生活スタイルで用いられた文化が遺っていることもあります。

改めて「和」とは何か、少しずつ深めていきたいと思います。

和というものは、辞書をひけば「仲よくすること」や「調和すること」、「協力すること」や「結ぶこと」など書かれています。他にも「やわらぐ」、「おだやかな」という意味もあります。この和という言葉は、私たちは聖徳太子の時からはっきりと意識しはじめたように思います。和の文化と呼ばれる日本文化は、伝統文化の中に色濃く残っています。先祖たちがどのように生きてきたか、どのように暮らしてきたか、その中に和の本質は現存しています。その先祖の智慧を敬い、謙虚にその智慧に触れるとき和は私たちの心の中に感応できるものです。

私の思う「和」というものは、自然に融け合うことです。道具をはじめ家具から家屋、その他の文化はすべて自然に寄り添い自然と融け合う中で自然人一体になっています。自然との共生の中で日本の風土を顕したものが和なのです。そしてその和には、連綿と受け継がれている御縁や繋がりが存在します。その太古の昔から日本人が自然を深く敬愛し、自然の中から学んだ共生の法理、その実践がかんながらの道です。

それらの悠久の歴史の中で、私たちは「和する」ということ、調和し平和することの真心を感じてきました。それは「福する」と言い換えてもいいかもしれません。自然のままにあるがままに生きていけば自ずから全て調和することができるという意味です。

それを間違えるのは人道に反することを行うときであり、我慾や己に負けてしまうときです。そうならないように自然から離れず謙虚に学んできたのが「和の精神」です。今、時代は西洋の考え方を取り容れすぎたために自然を征服しようとまで考えが変わってきました。自然から離れ自然を管理し、人間が傲慢になってくればそれは「和」とは程遠いものになります。

和の文化が消失するのは、この自然から遠ざかることを意味します。先祖たちは数々の道具を自然と一体になって産み出しました。その感性はまさに調和する道具たちであり、その道具たちが周りの道具と一体になるとまるで自然の叡智の中にいるかのようです。この安心感は心を癒し、寛ぎを与え何よりも静けさや穏やかさといった心の平和をもたらしてくれます。和の家や和の部屋に居るだけで、心が穏やかになり静寂が訪れます。

もう一度、日本人とは何か、日本文化とは何か、自らが暮らしの実践を通じてそれを体現していくことです。和風というものは、その生き方を実践する人たちが醸し出した生き様のことでありその生き様が文化継承のカギになるように私は思います。

子ども達のためにも、和をもって貴しとなすような生き方を今の時代の責任を担う世代の責任者として少しでも道を歩みカタチに遺して譲っていきたいと思います。

 

伸びるチカラ

変化と成長というのは、日々に地球が廻る様に私たち人間も前進していくことに似ています。自然界も同じく、変化成長を已みません。同時に私たち人間も日々の仕事や出来事、様々な御縁や出会い、挑戦によって変化成長していかなければ時代の流れに取り残されてしまいます。

結局、変化とは人格形成をしていくことであり如何なる出来事に対していかなる人格を磨いたかということが変化と成長には深く関わっているのでしょう。

先日、お客様から興味深い御話をいただきました。

常に物事はその良し悪しや好き嫌いに関係なくどのようなことが起こったとしてもそれは自らの人格を高めるために起きた出来事だとし、その出来事に素直に向き合ってその出来事を受け止めるということです。

そのために必ず行わなければならない3つのことがあるといいます。

  • 人や環境のせいにしないこと。
  • 人と比べないこと。
  • 人の悪口を言わないこと。

つまり言い訳をせずに誰のせいにもせず、何ものとも比較しないということです。これは斜に構えないという言葉の代わりでもあるように思います。何でも斜に構え受け止めないで流していたら、いつも物事の本質やその物事が発生した理由などは考えず、現実から逃げ言い訳ばかりに終始していたら自分が変わる機会を失ってしまいます。

人は自分にとって都合が悪い出来事があるのは、自分の自我欲や執着に気づきそれを手放す機会でありそして自分のとって面白くない出来事があるのは、自分に沁み付いた生き方の癖を直す機会です。

そういうものを如何に受け止めるかで人間の変化と成長が変わってくるように思います。そしてなぜ人間力が必要か、それは周りは変えられず自分の見方を換え変わるしかありませんから徳がいるのです。この徳というのは、人が道を歩み続けて変化成長を已まないことで磨かれて研ぎ澄まされていきます。この徳が磨かれて高まれば、どんな出来事があってもそれを丸ごと前向きに信じることができ、そしてどんな事件があったとしてもそれを全て有り難い御蔭さまと感謝で祈ることができるようになるからです。

人間は産まれてから死ぬまでずっと精進が必要なのは、変化成長こそが生きる意味につながっているからです。もし世の中に成功の秘訣があるとするのなら、それはこの変化成長を已まないことのように私は思います。誰かのマイナスや、言い訳、そして比較をするとき人は「必ず停滞」します。それは変化成長を自らがとめてしまっているとも言えます。だからこそ、誰かのプラス面を観る、そして言い訳をしないで受け容れる、さらには自分の信念や天命を優先し、理念を自分らしく遣り切れば必ず成長と変化の流れが進み時間が物事を解決してくれるように思います。

時間も流れ世界も循環しますから、大事なのは成長と変化をし続けることのように思います。この変化と成長、つまり伸びるチカラこそ変化成長の根源です。日々に来たものを選ばずに、ど真剣に全てのことにニコニコ顔でいのちがけでやってみてそれをじっくりと省みて味わっていきたいと思います。

自然の暮らし

神話の時代、私たちの先祖たちが暮らしていた時代は自然に沿った暮らしをすることは当たり前だったように思います。自然の廻りの中で、春夏秋冬、季節の準備や生活道具の準備、その他、様々な食べ物の調達や保存をしながら他の生き物たちと一緒に日々を味わい繋ぎ過ごしていたように思います。

今の時代は、自然に沿わなくても一年中食べ物が豊富にありますし建物の中にいて空調器具を使えば一年中同じ温度で過ごせます。また時間がキメ細かく設定され、スケジュールが決められその通りに進められます。動物や虫たちは生活圏内から姿を消し、植物はコントロールされて栽培されています。

人間の思い通りになる世界というものの中にどっぷりと入り込んでしまうと、自然に沿うということはなくなっていくのかもしれません。人間にとっての便利さを追求しているうちに、不便さの代表のような自然は遠ざけたい存在だったのかもしれません。

しかし自然に沿う暮らしを手放すことで私たちはとても大切なものを失っていくように思います。それは何か、それは自然への畏敬を忘れてしまうことです。そして自然への畏敬とは何か、それは全ては自然のハタラキで私たちが活かされていることを感じなくなることです。それは信じる世界の消失であり、本来の絶対的な安心を手放していくことです。

最近、祭りを深めていく中で気づくのは自然(神様)に祀ろうということの意味です。古代から人々は自分たちが自然の一部として存在し、自分たちをいつも陰ひなたから助けてくださっているのは自然(神様)であると信じていました。これを私は「かんながらの道」の実践の一つだと感じていますが、本来、自分の力などはなくすべては自然のチカラが働き事が為るという発想を持っているということです。

言い換えれば、その頃の人々は自然(神様)の御蔭様を沢山授かることができたことが実力であったのです。だからこそ、自然に沿うように、自然に間違えないように心を清め、素直に正直に純粋に自然の流れが読め、自然と一体になって自分たちが邪念や邪気、我慾などに流されないように創意工夫を施していたように思います。祭りなどはその最たるもので、全国約30万種以上ある日本の祭りはかつての私たちの先祖が常に自然に寄り添って暮らしてきたことの証明でもあるのです。

自然に沿うためには、自分というものを一度見直す必要があります。そして自信というものの本質を改め直す必要があります。自分とは自然の一部であることを決して忘れず、自信とは自分の力ではないという御蔭様の本質を悟ることです。なぜなら自然の一部である時が素直になるときであり、御蔭様の御力を感じるときが謙虚になるときであるからです。

私たちの先祖たちが永らく暮らしてきた自然の暮らしは、とても素直で謙虚だったように思います。そういう暮らしはとても心の安静がありまさに平和で幸福な楽園だったような気がします。かつてできたその暮らしは今ではもう取り戻せないのでしょうか、時代は次代に受け継がれていますが大切なものを失わないように繋いでくださった文化はまだまだこの国の端々に遺っています。

その一つ一つを結び付け、かんながらの道を譲っていくこともまた子どもを深く愛し慈しむことのように私は思います。自然から学び直すことができることは有り難いことで、自然そのものが先祖一体ですからいつまでもなくなることはありません。

刷り込みを取り払い、刷り込みに気付いてどのように現代で折り合いをつけるか。まだまだ実践によって深めて融和していきたいと思います。

 

使命感と責任感~人が強くなるということ~

人は行動を起こすとき、使命感と責任感があります。

どちらかといえば責任意識が強い人は組織の中で自分が指示命令を受けて責任の範囲を決めて動いていた経験が長く、自分にプレッシャーをかけることで責任を感じて行動しようとします。責任が重大であればあるほどプレッシャーはかかりますから、そのプレッシャーのストレスに押しつぶされそうになりながら頑張っている人も良くみかけます。スポーツ選手なども大事な試合や、国の代表選手や決勝での試合などその責任感で本来のパフォーマンスが存分に発揮できずに悔しそうにしている場面もよく見かけます。

また組織では上司が部下にプレッシャーをかけたりする場面があったり、本人が自分でプレッシャーをかけて頑張ろうとします。誰かから指示命令されてやらなければならないことはその指示命令された範囲をきちんとやれば責任を果たしたと褒められるものです。責任の範囲を決めて運営する組織というのは、最高責任者がトップにいてその下に責任を切り分けた責任者がいて、またその責任者がまた細かく責任を切り分けて、それぞれの人たちに範囲を限定してその範囲内を責任を果たすように管理していくことで成り立ちます。自分の与えられた責任を果たしていれば、自分の仕事はちゃんと行ったことになりますから与えられた責任以外はやろうとしなくなるものです。しかしこれは責任感ではなく、責任のことです。本来の責任感とは、何のためにやるのかといった理念を自覚し、自分がやらなければ誰がやるといった自らの在り方や生き方に対する自覚でありそれが育っていくことが責任感とも言えます。

そして続けて使命感というものがあります。

使命感は、自分の人生の目的を持ち、なぜこれをするのかのその意味を知り、その上で自分は何を成し遂げるのかをはっきりと明確に持っていることをいいます。つまりは自分が今此処にいる意味や、役割、存在価値や存在意義を自覚しています。こういう人たちは責任の範囲を限定していません。指示命令があったとしても、自分の範囲を限定せずに自分からその範囲を超えて役割や責任を自らが拡げ使命を果たそうとします。

この目的を達成する意義や意味、この理想を実現することの必要性、なぜこれを自分がやるのかということが自分自身の人生とつながっていることに自明するのです。そういう人は、やるなといってもやりますし、休めといっても動きます。つまりは自分から使命に燃えて使命を果たそうと自ら行動し続けることが生きがいになるからです。

本当の主体性というものは、とても積極的なものです。つまり使命感を持って自分のいのちや人生の意義をもって日々に挑戦し続けるとき主体がはっきりと出て来ます。志が醸成されその志が先に出ていますから主体が積極的に動いているのです。その状態は、自分の魂と自分の身体が一体になっていますから最高の状態が引き出されてきます。魂と身体がバラバラでは主体はでてこず、どうしても受け身になってしまうことで最高のパフォーマンスが出てこなくなるのです。

責任感か使命感かということではなく、責任感を使命感にまで昇華させて働くことがもっとも世の中に貢献する仕合わせ、仕事の楽しさ、遣り甲斐や生きがいを感じる方法のように私は思います。その時、責任感が強すぎるよりもむしろ使命感の方が大きくそれに責任感が付き従うようなものがいいように私は思います。

何のために行うのか、自分が今此処でこれをやる意義が何かを知る人は不思議ですが使命感がバックアップしてくれます。そのバックアップは信念とも言え、その信じる力が心身を鼓舞してくれて理想への自動運転がはじまります。

本当の意味での持続する普遍のモチベーションというものは、他人から与えられるものではなく実際は自分で高めていくもので自分で育てていくものです。それは使命を感じることのように私は思います。使命感は、志を持ち、如何に常識を破っていくか、つまりは自分の範囲を限定せずに本来の目的や理念のために果敢に勇気を出して常識を壊し変化し続け行動していくことで育っていきます。

元ダイエーの創業者中内功さんはこう言います。

「人間とは、本来弱いものだ。だが、信念とか使命感で行動するときは、なぜか果てしなく強くなる。」

変革をするとき、変化を求めるとき、変化を怖いとふつうは思います。しかしその変化が怖くても武者震いしてそれでも果敢にやりたいと挑戦するチカラはこの使命感と信念があれば強さが備わり歓びや愉しさ幸せになっていくのです。

松下幸之助さんも「使命感があれば人は力強くなる、そして何をなすべきかの目標を持ち、使命感を持って、みんなが一致団結するところに成果がある」と言います。

刷り込みというものを取り払うのに、この使命感はとても役に立ちます。引き続き、どのように今までの刷り込みを取り払えるか、様々な研究を深めていきたいと思います。

祭り部発足

昨日、社内の今年の取り組みとして「祭り部」ができました。昨年は「駅伝部」ができて、朝練をはじめ各地の駅伝に参加したり現地の志ある会社を訪問したり、その地域の歴史や生き方、人々や場に触れたりして愉しみ学びを深めましたが今年は「お祭り」を通じてまた新たな社内での実践を象っていくことになりそうです。

先人たちが遺してくださった叡智や智慧に触れることは、自分たちの歴史やアイデンティティがどうなっているのかを自明することにもなり、子ども達に先人たちの願いを繋いでいくことにもなります。今の時代を生きるものとして、何を遺し何を譲るか、それを先祖に学ぶことは何よりも大切な使命のひとつです。毎年、その時々で必要なテーマが降りてくるということはそれだけ前年のテーマが充実していたということです。そうやって哲学や思想がはっきりと明確になり、その明確になったものがテーマになりそのテーマによって人は創造や革新が促されます。

今年は「祭り」になりましたが、祭りというものが何か少し整理してみます。

古事記に本居宣長が祭りとは何かをこう言います。

「祭事(まつりごと)と政事(まつりごと)とは同語で、その語源は奉仕事(まつりごと)から来たのであろう。天皇に仕え奉ることを服従(まつろう)と言い、神に仕えることを祭りと言うも、本は同じである。」

他にも中国の漢字を分解するとこの「祭」という漢字は夕(肉)と又(右手)と示(神示)から成り立ち、右手の肉を持って神にささげる意味です。祀は示(神)に巳(シ)を付けた字で、祭・祀はどちらも神様にささげるという意味になります。

古語辞典「字訓」を書いた白川静氏はこう言います。

「神のあらわれるのを待ち、その神威に服することをいう。「待つ」と同源の語。祭酒を「待酒」という。まつりのことをまた「まち」「日まち」のようにいうところもある。」

古代の神道は、祭政一致であり人々は日々の暮らしを神様に委ね神様の声を聴きながら生活を営みました。神様の声を聴けるというのは、いのちを常に感じてそのいのちを活かしていたからこそ話ができたとも言えます。その一つの神事として「お祭り」があり、お祭りを行うことで穢れを祓い清めたとも言えます。

この「祭り」を「待つ」と同源の語であると言います。私も待つことは信じ切ることで、丸ごと信じていることですから待つことで出づるのを静かに待つという心境は神様を奉る依代としての御役目として必要なことのように思います。

同時に神様が訪れるのを待つ、しかしそれをどのように待つのか、そこに待ち方というものがあると思います。その待ち方こそが祭りの本質であり、ただ待てばいいのではなく神様が顕れるのをどのような姿勢で待つのか。つまり自分たちの中から神様が出てくるのを静かに待つのです。古来、私たちは八百万の神々であり、一人ひとりが魂と命を持っています。だから親祖や先祖の神様たちは自分たちのことを「尊」をつけて尊称するのです。

その尊が出てくるのを待つのに、善いところを観る、信じて観る、素直に明るく、清らかな心になっていくようにして自分の中から出てくる神様と同じ心が顕れるのをみんなで「祭る・祀る・待つ儀式」を行ったのではないかと私は思うのです。

私たちが実践している一円対話においても、御互いが認め合い尊重し受容して清浄で無邪気な場が出来上がると神がかっているような言葉が発言者から出て来ます。これも一つの「お祭り」であり、そのことで人々が素直になり本来の真心や初心を思い出されるのです。

人が初心を思い出すためにお祭りがあり、お祭りを通して一体自分たちは何を大切に生きていけばいいかを反復して理解していく。単なる西洋からきたイベントではなく、日本のお祭りはとても精神的な意味や生き方を観直す内省的な意味を持っているのではないかと感じています。つまり神人合一していくところに、その本質があったのではないかと私は思います。

今年はそれを改めて学び直し深めていく機会をいただけそうです。引き続き、本業であり志業である子ども第一義の理念を自他一体、理想現実一致にしていくためにも一円融合、全てを福に転じて発明を続け実践を弘めていきたいと思います。

人をつくる~志を定めること~

人間は志や目的、目標や夢の大きさによって物事の取り組み方や見え方が変わっていくものです。人それぞれ同じことをやっていたとしても、その志がどうなっているかでそのやることは変わっていきます。

田坂広志さんに「二人の石切り職人」という寓話の話があります。以前、お聞きしたときには観得なかった世界が今ははっきりと私も観えてきました。如何に志を抱かせることが大切か、何よりその人が一隅を照らしたいと願うようになるか、その発心の大切さを深く感じるようになりました。改めてその話を紹介します。

「二人の石切り職人 」

「旅人が、ある町を通りかかりました。
その町では、新しい教会が建設されているところであり、
建設現場では、二人の石切り職人が働いていました。

その仕事に興味を持った旅人は、
一人の石切り職人に聞きました。

あなたは、何をしているのですか。

その問いに対して、石切り職人は、
不愉快そうな表情を浮かべ、
ぶっきらぼうに答えました。

このいまいましい石を切るために、
悪戦苦闘しているのさ。

そこで、旅人は、もう一人の石切り職人に
同じことを聞きました。

すると、その石切り職人は、
表情を輝かせ、生き生きとした声で、
こう答えたのです。

ええ、いま、私は、
多くの人々の心の安らぎの場となる
素晴らしい教会を造っているのです。

どのような仕事をしているか。

それが、我々の「仕事の価値」を定めるのではありません。

その仕事の彼方に、何を見つめているか。

それが、我々の「仕事の価値」を定めるのです。」

これが二人の石切り職人の話です。この話は、志の話です。あなたの志は何かと質問されたとき、その志をどのようにその人が語るのか。それによって仕事の価値が定まる。つまりは志の中身がどうなっているのかが先で、仕事の技能や実践は後からついてくるのです。本来、何のためにやるのか、その人の志が育っているのなら必ずその仕事は価値があるものになっていくということです。

吉田松陰に「志を立てて、以って万事の源となす」 があります。その人が一生の一度の人生に何を成し遂げたいか、それさえ立てられるのならそれが全ての根本になるということです。もしその成し遂げたい志に出会わずに進むのなら、私利私欲や自我慾に負けて狭い世界で迷い惑い続けて自分の人生を歩むことを忘れてしまいます。そうならないためにも、初心や原点といった志をその人がまず立てることが大切なのです。

吉田松陰は「志定まれば、気盛んなり」とも言います。この「志を定める」ということの真価、そこに人生の全てが凝縮され方向性が決まってしまうのです。結局は、人に成るとは何か、成人の本質は志を抱く人にすることなのです。

私は足元にあるものに気づかず、随分と遠回りしてきました。教育は引き出すものだということは知っていても、何が引き出すのかまでははっきりと自覚していませんでした。今こそ確信するのが志こそ万物万事の根源であり、その志を立てることができるようにし志を抱いて生きる手助けと手伝いをするのが私たちの伝道でもあります。

子ども達に未来を譲っていくためにも、今の時代の人たちが一人でも多く自分の志に気づき、その志に生きた背中を遺していくことが世の中を今までよりもっと善くしていくことになります。

いのちを活かし使命感を持たせることは、本物の人をつくっていくことです。本物の人とは志を持つ人にしていくことです。未来の子ども達のためにも、自分が何が本業かを間違えないように真摯に志を実践し弘めていきたいと思います。

体験の真価

人間は色々な体験をして成長していく生き物です。

頭でっかちに知識だけが豊富であっても、体験していないものは知恵にはなりません。知行合一、知るということは体験してはじめて知ることができるものであり、行わない知は知識になっても知恵にはなりません。知恵とは何か、それは体験により体得し学んだコツのことです。

そしてそのコツを掴む中でもっとも価値のあるものは、厳しく辛い体験かもしれません。涙を流すような辛い体験で、もう二度とあんなことをしたくないと体に刻まれるような体験はその後その人を謙虚に素直にしていくものです。

人は手入れを行い己の慾の赴くままに調子にのっているとすぐに傲慢の芽が育ってきます。その慾はあらゆることで忍び寄ってきます。だれしも人間は自分というものがありますから自分を愛しすぎてしまうことで物事の実相が分からなくなるからです。

思いやりや真心、自他一体に生きるということはあらゆる体験を通してそれでもどう生きたいか、それでもどのような自分でありたいか、それでもどのような生き方を貫くかと自問自答する中で磨かれていくように思います。

私も思い出してみると、過去に様々なことで傷つき学び直しました。傷つくという言葉は、気づくということです。体験を通して自分の無知を知り、恥を知り、自分が如何に素直でないかに気づくこと。素直でなかったからおかしな習慣を沁みつかせ、素直でなかったから自分に対して平気で傷つけるようなことをした、そしてそれが翻って愛する人たちまで平気で傷つけていた。それまでの歪んだ自分の生活習慣や価値観、自分が自分を傷つけ続けていることに気づくことができるのです。

傷つくのを避けるために自他を傷つけるという斜に構えて生きる癖は、その後も真実を覆い被せ、王道を歩もうとすると何度もそこで足をとられて転んでしまいます。その転んだ時、どのように立ち上がるか、そこに体験から学び気づき自分を成長させるコツがあるように思います。その基本に素直や謙虚さがある人は、かつての刷り込みに気付いて立ち上がる最中に刷り込みを自らで取り払うことができるのです。

人は無意識に、無理をしたり、自分を責めたり、罪の意識を持ったり、自分を特別視したり、他人を裁いたり、自分を許さなかったりするものです。それは自分の子ども心が傷つきたくないから守ってきたことかもしれません。しかし人間は強くなければ優しくなれないし、優しくなければ強くなれません。この世の中で、自分らしく自分を生きて活かしていこうと使命に生きようとするのなら必ず通らなければならないのがこの体験に対する姿勢を磨くということです。

つまり体験をしたことに対する結果がどうこうではなく、その体験をどれだけ素直に受け止めたか、その体験をどれだけ大切に尊重したか、そこに体験の真価があるのです。人の心の成長や魂の生長、そして精神の高まりはこの体験の活かし方に由ります。

子ども達には様々な体験をすることの真価を伝え素直であることの大切さ、そして気づき変わっていくことの楽しさを伝承していきたいと思います。道の持つ深淵に触れる楽しみこそ、学問の醍醐味です。日々に素直な学び直しを続けていきたいと思います。