彼方の海道 壱

昨日からカグヤ一家のみんなと沖縄に来ています。昔、民俗学を深めていたときにルーツを辿る旅をしたことがあります。海上の道といって、民俗学の柳田国男さんが稲は沖縄・奄美と南方の島伝いに来たとの仮説を説いたように、周囲を海に囲まれた日本列島は太古以来海上の道を通じて広い世界につながっていたということを調べています。

種と共に人がどのように移動してきたかということに着目をして、先祖たちの移動の経路を辿ったのです。以前、種子島に訪問したときある遺跡から赤米を育て赤飯を炊き、貝に装飾をし交易をする古来の民がいたことが分かってきています。またこの南国の島に遺る数々の神話には、ニライカナイという根の国に棲んでいた民が渡来してきたことが口伝されていまに遺っています。

自分たちの先祖がどのように暮らしてきたのか、そしてどのような生き方をして今にいたるのかを知る旅は今を生きる私たちにとってとても大切なことだと私は思います。祖親たちから受け継がれてきた「思い」や「祈り」を、譲られているから私たちの価値観が存在し、私たちの「真心」が生きているとも言えます。

何かを考えるモノサシに「悠久の魂」を感じることは、本来の私たちの暮らし方を見つめ直す大切な機会であると思います。この世のすべては御縁によって結ばれているともいいます。そういう御縁に結ばれていることが常にはっきりと観えているのは心の豊かさに生きていることであり、感謝や御蔭様、偉大な恩恵を授かった今の自分を大切に生きることに似ています。

地球は46億年、そして私たちの先祖たちも何億年も前からこの地球の中でいのちを譲り渡してここまでつないできてくださいました。その「思い」を子どもたちに「つなぐ」のもまた私たちの役割であり使命です。

どんな生き方をしてきたか、どんな魂の磨き方をしてきたか、それは今を生きる仲間たちによって思い出され甦ってきます。懐かしい島の音を聴きながら、「彼方の海道」に思いを寄せてみたいと思います。

 

思いの結晶~ひと・つなぐ・いのち~

私たちは日頃は意識していませんが、それぞれに役割というものを担いそれぞれに活動することで社會を維持しています。例えば、私たちがお金を出してレストランで食べる料理一つ一つまで、野菜は種から実をつけるまでお世話する農家がいて、それを集めて出荷する方がいて、またそれを輸送する方がいて、料理する人がいて私たちは美味しいものを食べることが出来ます。

この一つ一つ何かが欠けても成り立たず、私たちはそれぞれに自分の役割を果たすことで周りの社會を活かすことができます。

明日駅伝大会に参加しますが、この駅伝にも同じような意味を感じます。それぞれに自分の役割を果たすからこそ、みんなでつないだ「思い」を、誰かに届けることが出来るのだと。駅伝は、それぞれは一人ひとりでそれぞれの与えられた場所を走ります。走っている最中は、自分の分担したものを果たすだけですが実際はその自分の走るところに大切な役割が存在します。

みんなのために自分が走るのですが、自分が勝手に走っているのではなく自分自身が走ることが皆と走っていることになるのです。「思い」をつなぐというものは、自分の役割を認識しているということです。自分だけがよければいい、自分さえよければいい、自分のことさえやっていればいいという思いでは、その思いは周りの「思い」とつながることはできません。自分がどんな「思い」を籠めて自分の役割を果たすのかが本当の意味でも協力であり役割分担です。

先ほどのレストランの話で例えれば、本当に美味しいものは農家さんの安心安全で自然なものを育てたいという「思い」を、それをカラダに善いものを多くの人たちに食べてもらいたいという願いを籠めて集める「思い」と、大切に育てられ集められたものを崩さずに鮮度を維持し丁寧に素早く届けたいという「思い」と、届いたものをお客様に幸せに美味しく心身が健康になるように食べてもらいたいという「思い」が『つなぐ』からこそ、私たちはそのつながった思いを一緒に食べているのです。美味しいと感じるとき、それは単に舌先三寸で味わっているのではなく多くの方々がつながっていることを実感して深く味わっているのです。

駅伝での役割分担もこれに似ています、そして仕事での役割分担も同じです。

駅伝部が始動し、協力や助け合いといったことも深まりましたが実践というものはその「つながり」が観えているか、「つなぐ」気持ちで役割を担っているか、一人ひとりが目先の作業に意識を奪われるのではなく、その大切な「思い」を届けようとしているかということに関係するのです。多くの「思い」に支えられている人は「思い」によって助けられ、救われ、見守られ大きなお力添えをいただき事を成就していきます。もしも「思い」に支えられていない人ならば、その人は簡単にそこで力尽きるかもしれません。

人がお役に立つのは思いが観えるからです。

「思い」をつないでいるという感覚というものは自然循環の中で共生するいのちの姿を実感することに似ています。私たちは周りの方々の「思い」により大切に生かされてきました。そして生かされた自分、見守ってくださって育ててくださった方々の「思いの結晶」の自分。その偉大な恩恵を授かっている自分をどう盡していくかは、一生涯の命題とも言えます。

いただいた御縁、いただいた御恩、その中には「思い」がいっぱい詰まっています。その「思い」を大切に守り、そして仲間へと「つなぐ」ことが私たちの本当の「お役立ち」かもしれません。自立の本質は、周りの仕合わせが自分の仕合わせになることでしょうから子ども達のためにも常に自分の「思い」を大切に道を歩み続けていきたいと思います。

自然体

自然循環の中にある素直な世界の中で、私たち人間は自分たちの都合の良い世界をつくり上げています。本来の自然に沿った生き方をしていれば、人間の我欲や我執などに縛られにくいものでしょうが実際は個人主義が蔓延しそれぞれが自分の思い通りにしていこうと自分の価値観を優先しているものです。

本来は、すべての生き物たちは自分の都合を優先せずに自然に合わせて自然に沿って暮らしています。それは素直な世界であり謙虚な世界で生きている方が安心して信じた世界の中で見守ってくださっていることを実感できるからです。

そういうものを私たちは神様とも呼びましたが、実際の神様はお願いばかりする存在になってしまい本来の神様の姿とは程遠いものになっているように思います。実際の神様は自然ですから、自然の中にいて自然に沿っているときには絶対的な信の安心の中でその存在を実感できるように思います。

不自然な生き方とは何か、それは人間の都合ばかりを周りに押し付けていく生き方のことです。例えばこれは人間関係でも同じです。自分の価値観を押し付け合っていることをいがみ合い不仲、そして非協力、最終的には戦争に発展していきます。相手に都合がいいことは自分には都合が悪い、御互いに自分の価値観を認めさせようと躍起になっているだけでいつまでも折り合いがつくこともありません。

我儘さというものや自分勝手というもの、自己中心的な考え方があるからこそ価値観の押し付け合いからの人間関係の不仲は広がっていくだけです。だからこそ、そういう時は自分の価値観を見つめそれを手放しゼロベースで流れに従い応じて柔軟性を持って対応するチカラが必要だと思います。

そしてそれが素直さで謙虚さです。

素直さと謙虚さは、自分が何を間違っているかを確認するということです。それは天の声が聴け、自然の声が聴け、周りの声が聴ける状態です。聴けるというのは、自分の心に尋ねて心が感応しているということでもあります。

自分の価値観を手放し、大きな流れに身をゆだねていくことは信じているということです。信じていることがあれば、すべてを受け止めることができます。そして自分の方が変わっていくことを愉しんでいく境地に入ることが出来ます。

境地の体得をするまでどれだけ精進していくか、初心を忘れずに本来の活かされている自分を感じられているか、御縁のつながりが観え続けているか、日々に内省を続けて何が間違っているかを改善することが人格を磨いていくことだと思います。

出会いが人を変えていきます、一期一会の出会いを大切に常に自分に矢印を向けて自然に近づいていきたいと思います。

孤高の志~覚悟~

アメリカのオバマ大統領が尊敬する人にキング牧師が居ます。インド独立の父と呼ばれるマハトマ・ガンジーに啓蒙され、非暴力主義で黒人公民権運動を行った方です。

「私には夢がある・・」の一節は、オバマ大統領も演説の中で使っていました。私もこの演説をかつての映像で拝見したときは、魂が強く揺さぶられた記憶があります。

このキング牧師の遺した言葉にも、魂が揺さぶられるものばかりで如何に覚悟を持って生きることが大切か、自分自身を自分で決心し生きよという本気さが言葉の中に滲み出てくるような思いがします。そのいくつかはすべて、自分の人生の責任を他人に委ねるなという自戒が込められているようにも思います。不可能を可能にし、夢を実現するのはまず自分自身が覚悟を決めることであるということをキング牧師の生き方から学び直せます。

例えば、「もし世界が明日終わるのだとしても、私は今日りんごの木を植える。」があります。周りがどういう状況であろうとも、どんなに苦しみに打ちのめされても私は自分で決心したことは最期までやり遂げるという覚悟です。

そしてこうも言います。

「そのために死ねる何かを見つけていない男は、生きるのにふさわしくないのではないか」と。

生き方というのは死に方です。どんな死に方をするのかを何のために死ぬのかを決めていない人では、どのように生きるのかもまた決まらないだろうということなのでしょう。

「ほとんどいつも創造的でひたむきな少数派が世界をより良いものにしてきた。」とも言います。本気で遣りきってきた人たちが周りを変えていったのだという事実を語ります。そして「最大の悲劇は悪人の圧制や残酷さではなく善人の沈黙である」と。善人は思っていても実践しないから単なる善い人で終わります。実践する人は歩んだ道が遺りますから必ずその道の跡に気づいた人たちが自らを変革していく変化になります。やらない不正とも言いますが、不正をしていなければいいではなく見て見ぬふりもまた不正であるということでしょう。だからこう言います。

「人は『発言する』ことにのみならず、『発言しない』ということにも責任を持たなければならない。」と。自分自身の覚悟はどうかを常に確認して発言するしないに関わらず、その責任を自覚しているかということを問われているのです。

その人生は、最期の暗殺される瞬間まで覚悟が光り続けた自分を生き切った方でした。暗殺の前日のスピーチには、夢を生きるとは何か、そして自分自身を生きるとは何かを感じます。それを紹介して終わりたいと思います。

「これから何が起きようとしているのか私にはわかりません。私たちの前途に困難な日々が待っています。でも、今となっては、私にはどうでもよいことなのです。

なぜなら、私は山の頂上に達したからです。だから私は気にしない。皆さんと同じように、私も長生きがしたいものです。長寿とはよいことです。でも、今となれば私にはどうでもよいことなのです。

私はただ神のご意志を実現したいのです。神は、私が山に登るのを許されました。そして私は山の向こうに約束の地を見たのです。

私は皆さんと一緒にそこにたどり着けないかもしれない。しかし、今夜、皆さんにわかって欲しい。私たちは、ひとつの民として必ずや約束の地に到達するということを。

だから、今夜、私は幸せです。私は何も心配することはなく、誰をも恐れてはいないのです。私の眼は、神の再臨の栄光をみたのです。」

孤高の志は不滅です、真心で真摯に道を切り開く本気の姿勢を見習い、日々に自己の完成を精進していきたいと思います。

価値観を磨く~人格を高める~

人は今まで生きてきた中で自分の価値観というものを形成してきます。それは自分にとって好きなものは何か、自分にとって都合のいいのは何かということが身に付いてきた経過とも言えます。それは言い換えれば「生き方」とも呼ぶものです。どのような生き方をしてきたかが今であり、その生き方の集積が今の自分の価値観とも言うものです。

その生き方を換えることが自分を変えるということです。生き方を換えるような機会に出会えることは仕合せなことですが、みんな自分の生き方を換えてまで何かをやろうとはなかなか考えないものです。自分らしさをはき違えたり、相手らしさというものも勝手に勘違いします。価値観があるから自分の思い通りにしたい、相手を思い通りにしたいと思うものです。実際に自分がしないかどうかとは考えずに相手に求めては期待をするのは理念を実践するのとは異なります。

イエローハットの創業者である、鍵山秀三郎さんの掃除道があります。今では日本全国でその道を学び掃除に取り組む人たちが大勢増えていますが最初に自分の会社で掃除を始めたとき、社員は誰もしてくれなかったそうです。しかもその掃除をしている鍵山社長の手をまたいでいったといいます。 社員がみんな自主的に掃除をするまで10年はかかったといいます。それでも「掃除をしなさい」と強制はしなかったそうです。自主的にやらないと本物にはならないと気付いていたからです。

その鍵山さんの言葉にはなぜ理念を実践する必要があるのか、なぜ価値観を超えて人格を磨き心を成熟させていく必要があるのかの理由が示されているように私は思います。そのいくつかを紹介します。

「この国をよくするのは、財務大臣でもなければ、総理大臣でもありません。国民一人ひとりの、ほんのちょっとした生き方にかかっています。」

誰かをあてにし期待するのではなく、自分自身が実践することが生き方であり覚悟であるということです。

「人間は義務でやらなくてもいいことが、どれだけできるかということが、人格に比例していると思います。」

主体的に自ら気づき自らを変革できるものだけが人格を高めていけるということです。義務ではないということが磨いているという証です。

「いままで、誰にでもできる平凡なことを、誰にもできないくらい徹底して続けました。そのおかげで、平凡の中から生まれる、大きな非凡を知ることができました。」

自分の生き方を換えることで世の中そのものが変わるという体験のことかもしれません。マハトマ・ガンジーが「世界を変えたければまず自分が変わることだ」という遺訓があります。

これは価値観のことを言っています。相手に変わってもらおうと思っても他人をあてにして自分の世界を変えることはできません。なぜなら自分の価値観がこの世界の見え方を決め、自分の価値観が実際の素直な世界とズレて見えているからです。

自分の価値観に固執し頑固になり、相手に自分の世界通りにいてほしいという欲望がある限り、世界はいつまでもとどまったままで何も変わることはありません。だからこそ思い切って自分の方を変えていこうとすることで、今まで気づけなかった新たな価値観に出会い自分自身の価値観をゼロベースで修正していくことができるのです。

自分が間違っていると気付くには理念が必要ですが、その理念に対して間違ったと気付いたならば柔軟性をもってサラリと変わってしまうことが謙虚さであろうと思います。そのサラリと変わるには、地味な実践が必要で日々にコツコツと理念に対して反省し内省し自分の価値観が独善的にならないようにメンテナンスする必要があるのでしょう。

価値観が異なることは別に悪いことではありませんが、一つの価値観を押し付けるというのは世界を縛り付ける妄想を拡大させているだけかもしれません。世界は本来は自然のように変わらずに存在しています。その自然の手ほどきを受けられる素直で謙虚な心をいつまでも忘れないように精進していきたいと思います。

私たちの理念「子ども第一義」とは、単なるらしさではなく子どもにどんな生き方を遺して譲っていきたいかということです。価値観で理念までも私物化し歪めることがないように克己復礼しつつ日々新たに理念の実践を深めていきたいと思います。

 

ブレない生き方~自己の理念経営~

人は理念や初心からブレることで、様々な問題が起きてきます。これは組織であれば組織がブレますし、個人であれば個人がブレます。自分が定めた生き方や優先順位が変わってしまうということは、何が大切なのかを忘れてしまっているということですから周囲から観れば何をやっているのだろうと思われるものです。

そもそも人は生きていれば、目先で起きる出来事によって忙しくなっていきます。忙しさというのは、心で決めた初心を失ってしまっている状態とも言えます。目先のことで追われていて視野が狭まりそれを処理するために日々を過ごしてしまうとそのうちその目先を処理するためだけに毎日を過ごしてしまうものです。そうやって過ごしてしまえば、重要なことを優先するよりも緊急のことばかりを処理することが優先されていくものです。

人生の優先順位がもしも緊急のことばかりでついていくならば、日々というのは浪費しその疲れも溜まっていきます。本来の重要なことが優先されてその実践を怠らずに順位が下がらないのならその日々は理想や理念、初心を忘れずに取り組めていますから疲れも程よく心地よい疲れを感じるものです。

人が理念からブレるというのは、初心(本来の人生目的)を忘れて生き方の優先順位を間違うことを言います。それぞれに人には価値観というものがあります。その人の価値観が優先順位を決めているといっても過言ではありません。しかしこの価値観というものは曲者で、今まで生きて来た人生観がその人の価値観を形成してしまいます。かつてどのように自分が生きてきたかが「生き方」ですから、その生きてきたままに自分が生きてしまいます。

しかしその生き方の癖が、もしも理念や理想と間違ってしまっていると気付いたならその生き方の癖を修正し、本物の習慣によって生き方を改めて上書きしていく必要があります。つまりは生き方の転換が必要になっていくのです。例えば、自利で生きてきた人が利他に生きると決めたとします。しかし実際は自利や我利ばかりに囚われてしまい利他で動くことが出来ないものです。それを何度も利他に向くように時間を設け、実践し、自分の心が変わらないように、自分の判断のモノサシがブレないようにと何度も何度も内省し修正していくことで生き方の癖が改善されていくのです。

人はもうこんな生き方はしたくないという反省が素直にできたなら、忘己利他(もう懲りた)と改心するキッカケにも出会えるかもしれません。しかしたとえそれで変わったにしても生き方の修正は一生涯の一大事ですから、実践を怠らず自らの精進を続けていかなければまたブレてしまうものです。ブレてもすぐに素直に直すことができればいいのですが、ブレていることに気づかないから余計に問題があるようにも思います。

昔のリーダーたちは、自分に耳障りのよくないことを忠言してくださる人を必ず身近に置いたと言います。そのことで自分の生き方のブレをチェックし、自らを素直に生長し精進していくための鏡にしたそうです。それはそれだけリーダーがブレると、周囲に大変な影響を与えてしまうことを自覚していたからなのでしょう。自分のことくらいや自分がなどと考えてしまうと、周りのことよりも自分のことで一杯いっぱいになってしまうものです。そうやって好き勝手にしてしまい自分の好きなことばかりやってしまうと確実に理念はブレてしまいます。

本来、本当に好きなのは、本当に大切にしたいと思った初心のことであったはずです。だからこそその本当の好きにどれだけ忠実であるかが自分を大切にしたことであり、その正直さが自分を信じて着いてきてくださった人たちを大切にしたことになるように私は思います。人はみんな自我や自利を超えた理念、つまりは大義に自分を使っていきたい、使ってもらいたいと願うものです。それがもしも個人的な欲望や我利我利に偏る価値観に従うのなら誰だって素直にやりたいとは思わないものです。

だからこそリーダーは、自分自身がブレていないかを常にチェックしていく必要があるように思います。理念というものは自分の心ですから、誤魔化しがききません。どれだけ自分の心に誠実であるか、正直であるかが「ブレない生き方」を実現していく鍵であるということなのでしょう。

生き方を換えるというのは、人生の一大事ですがその生き方が換わることによってはじめてその人の人生が大きく換わります。いつまでも換わらないのは生き方の方が問題だと気付くことが第一歩なのでしょう。生き方を換えていくための努力は、独立自尊、孤高の正対ですが常に理念を優先しているかを内省することで近づいていけるはずです。

仲間と一緒に歩んでいくのだから、周りを観ては自分を省みて実践を厳格に積み重ねていきたいと思います。周りの御力に少しでもなれるよう私自身も、克己復礼、精進をしていきたいと思います。

名誉の傷~トラウマ~

人は誰しもトラウマというものを持っています。このトラウマ“trauma”という言葉は、古代ギリシャ語で「傷」を意味します。フロイトが心的・精神的外傷のことをトラウマと名付けたところからきています。

人はかつて心的・精神的な傷を負うことで後遺症がいつまでも残っているものです。これは肉体的な傷と同じで、昔の古傷がいつまでも痛むように強烈な痛みを伴う怪我はのちのちまで感覚が覚えているものです。これを心や精神でも起きているとも言えます。

人はあまりにも強いショックを受けた時、それを自分の中で認めることができずに自分自身が乖離してしまうのです。昨日、自分と自身についてブログで書きましたがこの自分自身との関係の中で如何に認め合うことが必要かを書きました。実際には認めがたいことがあり認められないと拒絶するといつまでもその影響は引きずってしまうようにも思います。

自分との関係を認め合えなければ、どうしてもまわりも認められていると感じることができません。自分がいくら認めていると思っていても、周りは認めていないことは伝わります。その認められない理由の中にもしもトラウマがあるのなら、それがあることを自分自身が認め、周りにもトラウマがあることを伝えることで肩の力が抜けていくのかもしれません。

「傷」というのは、傷跡が残ります。完治したように見えていても、傷ついた記憶はいつまでもなくなりません。私自身も人間関係でかつて傷つき傷つけあい、自分自身を責めて許せなかったことで認めなかったことがいつまでも心の傷になり、現実で似たことがあれば胸が締め付けられ思考が停止し感情に呑まれ苦しくなって解離してしまうことが多くありました。生きていれば傷はつきますから、何度も傷を負っては前に進むことが嫌になることもあります。

しかしその傷の御蔭で、その後の人生を気を付けることができたり、また今までの以上に人を大切にすることが出来るようになったりします。自分自身の不注意から思いやりに欠けていたり、自分勝手な自我欲から大切な人を粗末にしてしまい傷つけたりと、自分自身が無意識無自覚でやってしまうことで人は互いに傷つけあいます。その傷つけあったことを未熟であったと認めていけば、その未熟であった自分を生長させて残りの人生はそこで学んだことを周りのためにとお役立てしていこうとすればその傷は名誉の負傷になるように思います。傷つくことを恐れてトラウマだとし諦めるのではなく、敢えて傷ついてでも前に進もうというのはその傷を負ってでも遣りたいことがあるという真心があるからかもしれません。

ドイツのショーペン・ハウエルが『名誉は、外に現れた良心であり、良心は、内に潜む名誉である。』と言いました。名誉の負傷は、傷ついた過去を学び直して善いものへと転じていこうといった主体的で幸福な生き方を選択するということです。

自分のトラウマを無意識に避けるのではなく、このトラウマは誰かの御役に立てると信じてそれを活かそうする真心、その方々にいただいた御恩を何かしらの困っている人に返していきたいという思いやりがトラウマをも活かすということになるのかもしれません。

痛みが分かる人は共感力が高い人ですし、痛みを知る人は他人の痛みにも優しく包み込むことが出来る人です。自分にはないといくら思っていても、過去の痛みはいつまでも心の中に遺っているものです。その遺った痛みを福に転じて同じような痛みの人たちに乗り越え方を伝えられるのなら、その痛みの御蔭様に感謝する日もくるでしょう。

すぐにはとはいきませんが、心で寄り添って痛みを分かち合えるやさしさと強さを自分自身で磨いていきたいと思います。何か意味があるといった味わい深い御縁に感謝して、傷を癒して傷を名誉に換えていきたいと思います。

 

自分自身

人は自分を信じて厳しくするのと、自分を信じないで厳しくするのではその甘えの構図は異なります。自分に厳しくすることは、本来は自分に甘えないということですが自分に甘えれば甘えるほどに間違った厳しさを自分に課してしまうものです。

自分というものは、本質的に進みたい自分と、現実的に進みたい自分が同居しているようなものです。つまり例えて観れば自分の中には二人の自分が存在しているように捉えてみればいいように思います。言い方は別にしてここでは「自分」と「自身」にして例えてみます。

自分というのが本質的自分だとしたときに、自身というのを現実的自分だとします。これらの自分と自身が協力関係にあるときは、自分自身になり一体となって信じ合うことができています。この状態のときは、無理に環境で自分を追い込まなくても自分の意志にあわせて身体が動いてくれます。朝早く起きて何かをしようとするときに自然に無理なく起きることが出来、健康健全で手伝ってくれるのは御互いの信頼関係が築けているからです。自分を少し優先してくれて自身がそれを支えてくれれば、ほとんどのことが融通無碍に自由自在に愉しく取り組んでいくことができます。

しかしもう一方で、自分と自身が不信になり信頼関係が結べていないと自分と自身が敵対関係になります。すると、自分がやりたくても自身がついてきませんから常に自分と自身で御互いに追い込み合ったりいがみ合って仲が悪くなっていては何をするにも無理をしないといけなくなります。朝早く起きて何かをするのも言うことをきかず、無理やりに目覚ましや何か環境で追い込んではなんとかしてしまうのです。環境を追い込んで無理やり自身を抑え込んだにせよ、自身と自分は同居していますからいつまでも仲が悪いままでは済まされません。如何に御互いに信頼関係を結んで折り合いをつけるかが大切で、これが他人との信頼関係を築くうえでもとても重要な要素になってくるのです。

自分自身と仲良くしていくには、信頼関係を築いていく実績が必要です。言い換えれば自分自身が御互いに甘えずに信頼を優先して協力していくことの集積があって、御互いがチカラを合わせて乗り越えていくことができるように思います。それは決して自身が言うことをきかないからと無理やりに環境で追い込むのではなく、自分自身と対話をして断捨離をし覚悟決心を定めて実践していくことだと思います。

実践というものは、自分自身の協働作業とも言えます。互いに信頼し合っているからこそ実践は続けていくことができます。実践できたという一日一日の積み重ねこそ、信頼関係の構築であり、御互いに「よく頑張ったね、有難う、御蔭様、恩にきるよ」という自分自身との励ましや思いやりが、周りへの信頼にもつながっていくのでしょう。

まず何かを判断する前に、自分自身が逃げていないか、甘えていないかを確認したら、後は真摯に実践を遣りきって内省していけば本らの自分自身に出会えるように思います。この世に産まれてきて、一生涯ずっと寄り添ってくれるパートナーは自分自身です。子ども達が自分自身のことを好きになるためにも、正直に信頼し合える関係を築いていきたいと思います。

 

小欲知足~御縁結実~

先日、台風の後の稲の様子が気になっていたのですが何とか無事に乗り越えることができていました。かなり穂をつけていたので、ひょっとしたらと思って心配していたのですがだいぶ倒されながらも地面までは倒れ込んでおらず重たくなった実を支えつつ元気に育っていてくれていました。

昨年の種から苗を育てて今、まさに実をつけていのちの廻りを一巡しますがその間、様々なことを乗り越えて今が存在していることを感じます。これは人間の一生も同じく、ただ育ったのではなくそのプロセスを経て今に育ったということです。齢を経るということはそれだけ沢山の経験の集積によって今があるとも言えます。その人の今は、過去に精進してきた今ですからその一つ一つのプロセスの姿が実になって顕れているとも言えます。

これは御縁が結実したのです。どんな環境の中で、如何に育ってきたか、そして見守られ今があることにただただ感謝の気持ちがこみ上げてくるものです。

また自然農の田んぼでは、他の田んぼと違ってそんなに沢山収穫することができません。特に私の実践田は小規模で一人で作業するのにはちょうどいいくらいですから他と比較するならば余計に少ないと思われるものです。しかし本来は、一年間自分一人で食べる分があるかないかくらいですからこの規模が分相応でもあります。

人間はみんな欲深いものです。「もっともっと」と分相応を思うよりも常に増やしていくことばかりを考えていくものです。昔、アイヌをはじめ自然と共生していた人間たちは取り過ぎることの怖さを自然界にいて身をもって体験していました。欲を優先し乱獲することで絶滅した種も多く、そのことで自然の生態系が崩れて結果的に自分たちが棲みにくくなっていくことを自覚していたからです。これは自然の本能で、生き物たちはその時その分しか食べません、決して取り過ぎることはありません。それは「足るを知る」という自然の本能を持っているからです。

しかし今は、その自然の本能は減退し制限なく拡大し地球規模で資源を貪り世界へと流通させていきます。お金のためにはまだまだ必要になってくるのです。

老子に「足るを知るものは富む」という言葉があります。大金持ちになっても、結局はもっともっとと欲を深めていけばそれは確かに貧しい人の心になっているのかもしれません。自分に相応しいと思う心があるのなら、そのいただいたているものを大切に活かしていこうとするならその心は豊かであるとも言えます。

豊かな心を持つというのは、自然の心のままであり、それが足るを知る心を持っている存在だということです。それはないものねだりをやめ、今あるところをどう深く掘り下げていくかということのように思います。もちろん生きているのだからもっともっとと自己満足で向上していく気持ちも大切なことですが、その根にある自然の姿、感謝の心を忘れては欲に取って代わられてしまうなら自分勝手に自利に走り、周りを苦しめて自他ともに貧しくなってしまうかもしれません。

今の自分が相応しいと思うのは感謝の心が離れていないからです。その上で御恩返しをしていくためにもっと境地を高めていきたい、人格を育てていきたい、思いやりを実践していきたい、自分のいのちのテーマを深めていきたいと願うことが足るを知り、知命・立命・天命というように「自分を誠に盡していく」ことかもしれません。

自分を誠に盡していくためには、足るを知ることが必要です。人間はいただいている御縁に感謝すればするほどに、足るを知ります。足るをしらないのは満足の問題ではなく単に今までのつながりや御縁が観えていないだけかもしれません。心は容を入れますから、心を籠めた生き方を続けていくことで小欲知足を実践していくことが御縁を知るための実践目録かもしれません。

世界の資源の争いは大きくなるばかりで、今も際限なき搾取は続いており世界を巻き込みながら急速に広がりとどまる兆しもありません。人間の欲との折り合いはまだまだ続きますから、自らの実践をもって子どもたちに生き方を譲っていきたいと思います。

 

子どもを尊重する~信じ合う心~

2日間を通してGTサミットでは改めて「見守る保育」とは何かについてその理念を学び直すことができました。一年に一度、初心を確認する上でも理念について学び直せるのはブレていないかを自覚自明するにも大切な機会です。

人はすぐに忙しさの中で自我に呑まれそもそも何のためにといった初心を忘れますから、常に自分の初心を忘れていないかということが一度きりの人生の生きる姿勢に於いて何よりも重要な自己修養になっていくと思います。

亀井勝一郎が「いっさいに対して私は初心でありたい」という言葉を遺しています。もしも人がいつまでも初心のままであるのなら、その人の一生は理想に向かって自分の役割を生き切った美事な人生であろうと思います。初心を忘れさせないメンターや理念を語る実践人の模範がいるということの有難さその恩恵の深さに改めて尊い御縁に感謝の念がこみ上げてきます。

昨日は、藤森平司先生からは「保育は人の生きる道に通じている」という話にはじまり、「見守る」ということについて改めて基本を確認することができました。赤ちゃんから「子ども達は自らで乗り越える力を持っている」だからこそ周りの大人たちが「見えない発達を理解しどう見通し、子ども同士の関係の中でその乗り越える力を身に着けていくか」。そしてその発達が理解でき、見守れるのは相手を信じているからであると仰っていました。

一般的に見守るを見ているだけと批評する人もいますが、それは日本語を知らない人とも言えます。辞書にも「見守る」という意味は「無事であるように注意しながら見る。また、なりゆきを気をつけながら見る。」や「 目を離さずにじっと見る。熟視する。凝視する。」ともあります。

それにやってあげると見守るでよく比較されて、介入するのかしないのかと議論されていることが多いのですが本来の大前提にその人が「子どもを尊重しているか」があるように私には思います。

どんな方法論があったにせよその大前提が”普遍的な道理”(いのちの尊重)に通じているであればいいのですが、実際は単にその人の偏見や、目先の大人の都合や独善的な価値観で相手を不当に扱うから問題になっているのです。それが結局は信じていないことにつながり、子どもが子どもらしく生きていくことができなくなるのです。

子どもが子どもらしく生きていくということは、相手を信じ、相手を尊重して相手の乗り越える力を信じて見守ることのように私は思います。一見、直接的には何もしていないようでもその心では「信じている」という自分自身との正対が求められているのです。

人は信じられることで自分の乗り越える力を信じることができます。そして可能性は信じることで発見発掘され、その人そのものの個性もまた光りはじめるように思います。保育が人の生きる道に通じているのは、それは人生の在り方、生き方に繋がっているからということでしょう。

未来をどんな社會にしていきたいか、それは私たちの願いであり子どもたちを思いやる真心が顕れる夢です。その夢に向かって今は歩んでいる最中ですから、改めて私自身も初心を忘れずに脚下の実践を愉しみながら信じて前進していきたいと思います。

いつもながらの真摯で大義に生きる背中を見せていただき、心から感謝しています。この邂逅の御蔭様に対して、さらなる恩返し恩送りができるよう日々を精進していきたいと思います。