自分の磨き方~朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり~

昨日、臥竜塾の塾頭に依頼され高杉晋作の生き様についての談義を一緒に行う機会をいただきました。思えば開塾の時に、草莽崛起と記帳した本の言葉の御縁から繋がっていることを感じ有難い気持ちになりました。

何年もかけて人が成長していく様子や、塾生たちが実力を備えていく姿を拝見することは御互いの学んだ期間を確認することにもなり改めて初心に帰る貴重な時間になりました。

高杉晋作についての印象は風雲児というイメージがほとんどです。しかしその日記を紐解き読み込んでいくと、親を思う親孝行の心境や吉田松陰先生を慕い一所懸命に先生の遺訓を守ろうという誠実な姿が観えてきます。また大義を優先し自分のことなど度外視してでも純粋に道を探究し学を深め実践を愉しんでいる子どものような姿もまた観えてきます。

その時代時代に、死生観を持ち必死に生きた人は学問が成熟しています。高杉晋作は『少年の頃、読んだ本に「学問を成すなら世間から利口と思われる人になるな。世間から愚者と思われる人になれ。」とあったので世間から愚者と思われる人になろうと僕は願った。』とあります。論語にある「古之学者為己、今之学者為人」にあるように、死生観を持つ志士の学問は世間から有名になり評価されるためにするものではなく唯一人自分自身の人格を練り上げるためにあるのでしょう。

本来の学問は道ですから、最初から高杉晋作は道を求め続けていたのでしょう。それが吉田松陰との同行した約1年の薫風により花開いていくのです。本気の師弟関係というものは、その真心に決した覚悟があってのものです。今のように知識をただ教えるための偽りの師弟関係ではなく、その道と志が同じくしてこそ本物の師弟ではないかと私は思います。

吉田松陰は「師道(しどう)を興(おこ)さんとならば、妄りに人の師となるべからず、又妄りに人を師とすべからず。必ず真に教ふべきことありて師となり、真に学ぶべきことありて師とすべし。」と言います。

直言直行、必ず実行せよと弟子たちに語りかけるのは即ち本物の師弟の道、つまりは本物の学問を指導しようとしたからに他なりません。このような本気の情熱で語り掛けるなら、その弟子たちの志は養分を得て大きく開花していくように思います。人と人の一期一会の御縁というものは、まるで道中にある大義という糸を通して紡ぎ合っていく一反の織物のようです。

最後に、私が高杉晋作の日記の中で深く共感する一文があります。それは野山獄「先生を慕うてようやく野山獄」と書いた獄中日記の中にあります。

自叙(甲子四月、西海一狂生東行、野山獄北局第二舎南窓の下に題)

「予、下獄の初め既往を悔い、将来を思い、茫然として黙坐し、身を省み心を責む。すでにしておもえらく我れすでに獄に下る。死測るべからず、何ぞ身を省み、心を責むるを用いん。ただ、槁木死灰死を待つのみ。一日、自ら悟りて日く、朝に道を聞かば夕べに死すとも可なりと。これ、聖賢の道、何ぞ區々たる禪僧の所為を傚わん。よって書を獄吏に借り、かつ読み、かつ感ず。或いは涕涙衣を沾し、或いは慷慨腕を扼す。感じ去り、感じ来り、窮極あるなし。乃槁木死灰に向くは人道に非ざるを知る。しこうして朝に聞き夕べに死すは眞楽量るなしとす。心すでに感ずれば、すなわち、口に発して声となる。これ文、やむをえざる所以を記すなり。」

どんな時であっても人の道は、生死は度外視しても道を学び続けることであるという魂の言葉。つまり朝に道を聞かば夕べに死すとも可なりという本物の学問を師と一緒に歩んでいたのだろうと感じ、そこには孔子や老子、仏陀もかつては学んだ境地に達しているように感じます。

こういう言葉を実践と内省に由って日々に高め、体験の中で自らを磨き貫いていた高杉晋作の日記の数々には今でも魂が揺さぶられる思いがします。どんなことがあっても龍になると決めた生き方と生き様からもう一度、”自分の磨き方”を見直していきたいと思います。

御縁と機会に深く感謝しています。少し熱が入り過ぎましたが、志士との語り合いはどんなときにも愉しいものです。その場の中に、見守られている有難さを改めて実感しました。

ありがとうございました。

 

世界の平安

全ての出来事というの物は、直接的なものと間接的なもので出来上がっているものです。それは直接目に見えるところと、間接的に観えるものが合わさっているともいえます。人は視野狭窄になると、目に見える直接的なところだけで物事を判断してしまうものです。しかし実際の物事は、目に見えないところの間接的な効果によって顕れてくるものです。

こういうことが分かるには、眼だけではなく心眼のようなものも同時に働かせることで気づけるように思います。そしてその訓練は、内省と振り返りによって行うものです。

例えば、過去のことを思い出すとします。その際、あの過去のことが生じたのは一体何が原因であったかということを見出していきます。すると、あの時の出会いがそうだったとか、あの時の行いが繋がっていたとか、あの時が運命の分かれ道だったとか、様々なことを思い出されます。そして今を見つめると、天の助けがあったとか、実践をしてきたからだとか、生き方が変わったからだとか、夢を信じたからだったとか、様々なことを振り返ります。

そうやって内省と振り返りを通して、人は直接的にも間接的にも、生じたご縁に気づきそのすべてを実感することで出来事や物事を全体を観ることができるように思うのです。もしそのように全体を素直に観ることができるのならば人間は方向を見失うことが少なくなるように思います。いや、言い換えれば人類は方向を見失わないのではないかとも思うのです。

今の時代は、間接的なことに対する意識が失われつつあります。振り返りと内省をする時間がないほどに何か急いでいるような気がしてなりません。別にただ早いという意味ではなく、内省し振り返る時間がなくなってきているのです。

目に見えるところばかりを見て生きるのは忙しくなるだけで思いやりを優先できなくなってきます。本来は、多くの間接的な見守りによって現実の世界は生じてきたのだからそこに対する感謝の心があってこそ御蔭様の有難さに気づけるものです。

一度、眼を半分だけ閉じて心の眼を半分だけ開き、同じ目で全体を丸ごと見つめその偉大な御蔭様に気づけるのなら如何に御縁を結べた思いやりで今につながっているかといった人類の初心をも思い出させていけるように思います。

大切な気づきを共有することで、心の平安も得られ世の中の平安も広がります。何を優先して生きていくか、力強く実践を高めていきたいと思います。

 

本元の味

昨日、ある方にお会いすることができました。ずっと以前から知っている方でしたが、ご縁はいつも不思議で「場・間・和」の織りなす今のタイミングをいただけます。あの頃ではお会いしても全く分からなかったと、今、過去を振り返れば思うものです。

自分が通ってきた道の延長上にいらっしゃる方とのめぐり会いというのは、自分が通っているからこそその存在の価値を認識し、まるで過去と未来が回転します。

改めて道縁の素晴らしさに感謝するばかりです。

人は無意識ですが、風土の魂が宿るのではないかと私は思います。その風土とは、この私たちの住まう土地のことですがいつもそことつながり結ばれているのが私たちのいのちのように思います。

だからこそその自然の中には風土の魂ともいい、そういう人物のことを大和人と呼ぶのかもしれません。私自身の中に流れるその大和魂との邂逅も、道縁によって顕現してきます。

昨日は、ワークショップについてや様々な西洋からの教育手法についてのお話を拝聴することができました。この方の素晴らしいのは西洋から来たものを自分で美事にアレンジし、自ら風土に合うように仕上げていくところです。それはまるで海外の料理を、日本人が日本に合うようにアレンジしまた世界に返り咲かせるかかのように日本の和の精神を存分に取り入れたものに調理していきます。

私が目指した味付けをもう随分と先に現場で実現されており、ただ感動するばかりでした。なぜそうなるのかと内省するとき私が直観したのは、そこに「師弟一体心の境地」を感じました。

これは、日本の職人文化に似ています。師が全身全霊で弟子のことを思い、弟子も命がけで師を思う、その間、まるで自他一体の真心で智慧を受け継ぎます。そのようにして様々なことを結和させたのではないかと、これは智慧の感得力です。

そういうそもそも別であるものを自分のものにしていくチカラというのは、風土の魂や和の心が存分に発揮されたものではないかと私には感じます。そしてそういう人だけが「本元の味」を知っているのでしょう。本元の味を知るからこそ、様々な文化を含有でき異質なものを融和させていくことができるように思います。

本元の味が分かる人物に出会えるというのは、本当に仕合せなことです。
御蔭様の御引き合わせと、めぐり会いに心から感謝しております。

子ども達の未来のためにも引き続きこの縁起と学問を味わい楽しんでいきたいと思います。

本来の自分を知る道

人間は自分のことが分からなくなるのは、自分のことを気にしているからです。いくら気にしていないと思い込んでいても、自他を分けている時点で自分のことが気になってしまっているものです。

それはまるで空気のように当たり前のものであるし、お腹がすくように当たり前に自分たちの意識に入り込んでいます。この自分というものを間違えることで、人は自分のことが分からなくなるのです。

もっとも身近な自分を気にせずに思いやりの実践ができることが真心です。しかし自分を気にするから真心が発信できずまた自分を気にしてしまったと保身に悩むことがあるものです。

相手を気にするというのは、鏡にして自分が気になっているという事でもあります。自分を気にせずに相手を思いやるのは、自分が相手の立場になって心を寄せて共感している状態になっているものです。

これらの境地に入るには、場数を踏んで自分の真心からの行動を積み重ねていくことで自分を気にしなくてもよくなるようにも思います。このことを思う時、私は宮沢賢治の自戒の文章「雨ニモマケズ」を思い出します。

アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
・・・
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

目指している自分の姿が、自分を超越しているところにあることは行間から感じます。私がなりたいものも、真心の自分です。しかし簡単にはいかず、優しさと強さを発揮できる至誠を盡したかどうかはいつも天に尋ねて内省する日々です。

真心の生き方というのは、自分を気にしなくてもよくなるということなのでしょう。世間では自分を知るために自分探しとか、自己実現とか言葉だけが先行して流行っているようですが人間ですから実際に誰かの役に立つ幸せや働き成長できる仕合せが生きる歓びであり自分という意味を自覚できる道なのでしょう。

もしも誰もが常に真心を盡すことができるのならば自ずから自分のことを自明し、世界では自分の御役目を自覚できてきて世界の中に一人自分が在る倖せに感謝することができるように思います。自分を磨くということは、自分を忘れてしまうということです。無我ともいうし没頭ともいいますが、その境地までいってはじめて真心や見守り合いもまた顕現してくるように私は思います。どう身近な自然の持ち味を活かしていくか、私たちの挑戦はそこに集約されています。

道は無窮、縁ある限り自分磨きは一生涯続いていきます。

雨も風をも丸ごと福にして自然の通り道を愉快痛快に歩んでいきたいと思います。

気分転換~福楽~

人はストレスというものを抱え込むといいます。このストレスは悪いものだと決めつけている人もいますが、ストレスは良いこともあります。実際のストレスには良し悪しはなく、そのストレスの御蔭で私たちは自己変革に向き合っていくこともできるとも言えます。

過度にストレスをかけてしまうのは、かえって柔軟性を失わせて変化を止めてしまいます。問題はストレスがあるかないかではなく、変化しているかどうかということになるのです。

変化というのは、柔らかな感性が必要です。老子の言う、「柔弱の徳」のように柔らかく嫋やか、しなやかであるものがもっとも変化できるということなのでしょう。それだけ柳に風のように変化を楽しめる境地に入ればストレスもまた感謝になっていくように思います。

そのストレスに対する感覚は、現代ではリジリエンスといって立ち直る力としても注目されています。一流のビジネスマンやリーダーは、ストレスに対するメンタルの持ち様が磨かれているから失敗を恐れず挑戦し、仕事もまたできるようになるというような感じに世間では語られ研修なども増えています。

ストレスの発見者ハンス・セリエ博士は、ストレスとの付き合いのために「気分転換」を大事にしたといいます。

如何に気分転換するか、気持ちを入替えるかで視野が広がり心の余裕をつくることを言いました。よく考えてみると、脳ばかりを働かせ、意識ばかりを一つのことに囚われ、目ばかりで物事を見ていたら次第に息をしなくなってきます。つまり空気を吸わず呼吸をしなくなってきます。

そういう時は、外に出て新鮮な空気を吸うことが大事だということなのでしょう。

正解ばかりを探しては真面目に正しいことをやろうとして常識に囚われ脳みそばかりを使うと、人は呼吸を忘れてしまうかもしれません。呼吸が止まるというのは、脳と心のバランスが取れなくなっているという状態なのでしょう。

ストレスがあるということは、そのストレスをどう転じて福にしていくかということです。様々なストレスは変化の兆しですから、その変化を見逃さずストレスを味わいそれをどう転じて面白くしていくかで呼吸法もまた身に着けていけるように思います。

楽を選ばず、真楽は苦しみの中にありますからストレスの中にこそ本当の楽しみがあると言えます。それは変化の歓びであり、変化の仕合せです。気分転換は、嫌なことを我慢して嫌なことを嫌々やるのではなく、気分転換に初心や本心を優先してあげる心の福筋を如何に鍛錬するかによるのでしょう。

遊び心も笑いも気分転換もまた福筋を鍛錬するための方法論です。

日々を味わい次々にやってくる楽問を選ばず遊び、福を楽しんでいきたいと思います。

深さ~道に入る~

昨日、朝の一円対話の中であるクルーの内省の中で「自分の考えですぐに分かったと言わず、聴いてみること」というのがありました。

これは本当に大切なことで、自分の刷り込みを取り払うために必須な実践であろうと思います。では、なぜ人はすぐに分かったとなるのかそれを少し深めてみようと思います。

そもそも人は自分が正しいと思い込んでいるものです。自分の知識や経験から物事を考えますから、自分の知らないことや体験したことがないことは分かりません。何かの物事を判断するとき、理解しようとするのは自分の知識と体験の質量の中から選び出し、きっとこうだろうと”思い込んで”いるものです。この思い込みは、先入観ともいい、自分の知っている範囲で理解できることを言います。

例えば、物事には”深さ”というものがあります。

ある人が、死ぬ気でやりましたといっても、本当に死ぬ目にあった人がその死ぬ目を乗り越えて話した死ぬ気という言葉と、死ぬ目にあったことがない人が知識で知っていて自分の中でこんな感じだろうと自分の中で想定した死ぬ気では同じ言葉を語っても同じことにはなりません。

結局は本当に理解するというのは、その質量が同じであるときにはじめて自分のものになるのです。だからこそ「分かった気になる」というのは大変危険なことなのです。

道を歩む人や、達人といわれる実践者はその質量が自分の想像を超えているものです。なぜならそれは長い年月をかけて実践をし、単なる知識を得ただけではなく体験を積み重ねた智慧を語るからです。この智慧というものは、やった分の量と、本気と決心、覚悟による質によって得られます。

分かったとなってしまうのは単なる知識であり、分からないとして聴くという姿勢は智慧を学ぼうとするからです。本来、実力をつけるというのは知識を持つことではなく智慧を働かせることができるということです。智慧の中に、知識が入ることではじめてその知識は役に立つものになりますから分かっていないことに気づけることが智慧の入口のように思います。

分かった気になっている人は、自分の分かった分で学びが止まってしまいます。分かった気にならないようにと戒めるのは、実践することが前提になっていて智慧を学ぼうとする人です。そうならないように「分かりましたと言わず、やってみます」と常に自戒するのです。その上で近づいたかどうかをその人に実践で得た智慧を語り確かめて掴み取っていくのです。

話を整理すると、「深さ」があるということがあってはじめて分かりましたが言えるようになるように思います。つまり深さが分かりましたと言えるには、自分の浅はかな知識で補おうとするのではなく、それを語る人の経験や体験と同質ものを自分が味わいその智慧を自分のものにしようと自分が貪欲に実践で近づいていくことではじめて真の深さが理解できるように思います。

深さがあることが分かることは、道を歩んでいる証拠です。道に入って道を歩まずということにならないように、常に分かった気になろうとする楽を選ぶ姿勢に気づきその時の自分の心を静かに見つめることが内省の真価のように思います。どれくらい覚者や先達に近づいているか、それを確かめることが愉しくなればもうそれは道楽の深さを味わっている人です。

道を歩んでいる仲間の姿を見守れることは仕合せです。一緒に無二の体験を一期一会に結んでいきたいと思います。

地球人財2~徳才の責任者(リーダー)~

今回の視察の中で特に印象深かったのはカンボジアの通訳の人物です。この方は、日本に来たことはないのですが日本語は流暢に使いこなし、日本の人たちがどのような気持ちを持つのか、何に共感するのか、自分自身の持ち味を存分に活かし周りを楽しませ、周りを笑顔にし、一回のご縁で私たちの心に深く遺るような仕事をしてくださいました。

この人は言語ができるだけではなく、人間力がありました。そしてその上で役立つものはなんでも誰かのために使える人物でした。人財と人材と書いていいかもしれませんが、人は財であり、そしてはじめて人は材になる。才能だけを集めて天才集団をつくっても、その材が活かせるかどうかは人財にかかっています。

実際は道具であっても道と具によってはじめて互いに活かしあうことができます。常に目的が善であってはじめて手段は適切になるものです。手段をいくら磨いてもそれがグローバルとは言わないと私は思います。その目的の高さに応じて手段もまた磨かれ活躍の場が世界の現場に拡がっていくのです。しかしその最初はいつも自分の身近な身の周りの実践の積み重ねからはじまります。

そもそも地球人財というものについて考えるとき、一つのある問いを思います。それは如何に自分を世界に役立てることができるかという問いです。役立てるというのは、本人からすれば役に立ちたいという人間本来のお役に立てる仕合せの実現です。

よく考えてみると、私たち地球上に生きる生き物は一つとして無駄なものがありません。どの生き物もそれぞれに大切でそれぞれに天から唯一無二のお役目を与えていただき、共に有機的に繋がり合って一緒に生きていきます。それは偉大な循環の中で、決して切れることがないご縁の世界のように互いに役割を全うしています。その多くを丸ごと活かす存在こそ徳の高い人であろうと思うのです。

これらの徳が高い人(存在)は、地球上のどんな場所であれ、どんな多様な生物のなかであれ、どんな条件下であったとしても地球全体を喜ばすことができるように思うのです。つまり自分の存在を自分が喜ばせ、同時に周りに役立てる地球が喜ぶ人財なのです。まさに孔子の言う「己達せんと欲して人を達せしむ」の境地です。孔子もまたグローバル人財だったからこそ今も多くの人たちの役に立っています。

この徳というものを磨くことなしにグローバルに活躍する真の人材は存在しないのではないかと私は思います。技能は手段ですからその方法を活かすのは徳のちからに由るからです。

地球人財は常に自分の徳才を世界の中で活かすための責任者(リーダー)であり、その道を誰よりも極めたプロフェッショナルです。一人ひとりの徳の宝をどう発見し発掘し発明していくか、それが原点となり人類の発達と発展の未来の可能性を広げていきます。

引き続き、今回の学びを綴ってみたいと思います。

 

対話の意味

これからの時代は人の心と心を如何に結び人間らしさを磨いていくかが求められるように思います。ロボットや機械の発明も進み、ますます人間とは何かとうことがはっきりと浮き出てくると思います。人間力を高めていくことで、将来、人間にしかできないことが分かり、人間はその時、本来の人間としての生活や暮らしの本質にもう一度原点回帰する日が来るように思います。

その日が来るまでに如何に自分の心を高めていくかは、人々との対話やつながりをどう結び一緒に暮らしていくかにかかっているように思います。対話というものを人々がやめるとき、そこには孤立が待っています。孤立とは不幸な姿です。如何に孤立せずに仲間をつくっていくか、古代から今に至るまで私たちは仕合せな暮らしを地球上で行ってきました。そこには常に対話があったように思います。対話の重要性とは、人と人との間で生きる私たちの智慧そのものです。

対話といえば、先日社内のクルーから「聴き合うこと」という言葉がありました。傾聴共感受容が感謝の高みまで昇華されると、聴き合いたいと心が感じるように思います。結論を急ぎ結果を焦るよりも、仲間がどのように考えているのかを聴きたくなるからです。聴きたいと思う人は、自分を変えたいと思っている人です。自分で変えたいと思わない人は、対話をしたくはありません。むしろ自分の考えや自分の能力を頼りにして、対話を避けたいと思うようになるからです。対話は心を開かなければできませんし、対話は心を伝えないとできません。対話しようとする心構えというものは、いつも心から信じているという証になるのです。

そして対話について江戸時代の肥前国平戸藩の第9代藩主の松浦清が戦国時代の武将のやり方を「ホトトギス」を使って比喩している言葉が遺っています。有名なのは織田信長と豊臣秀吉、そして徳川家康ですが私がもっとも好きなのは加藤清正の在り方です。

「なかぬなら殺してしまへ時鳥 織田右府」(織田信長)
「鳴かずともなかして見せふ杜鵑 豊太閤」(豊臣秀吉)
「なかぬなら鳴まで待よ郭公 大權現様」(徳川家康)

これらは有名でホトトギスが鳴かなかったならこの3人ならどうするかということを比喩します。それぞれのやり方があって天下統一しましたが、自分ならどうするかと考えるものです。

そして加藤清正の方にはこうあります。

「鳴け聞こう わが領分の ほととぎす」 加藤清正

これは意訳ですが「仲間たちの声を聴いて各々が自分の力の及ぶ範囲で尽力していこう」という意味です。加藤清正という人物が如何に衆知を集めてそれを発展と繁栄に活かしたかが分かります。

自分の姿勢が後々にどのようになるか、歴史はそのままに教訓でもあります。清正の姿勢で学ぶ中に「上一人の気持ちは、下万人に通ずる。」があります。自分の心構えや姿勢が周りに与える影響は大きいからこそ、どんなときも油断大敵と備えることに抜かりがない透徹ぶりが、忠義の誠を育んだのかもしれません。

対話の意味について、これからもう少しまとめてみたいと思います。

 

まさかの坂道~御蔭様で歩む~

生きていると様々なことが発生します。以前、人生には三つの坂があるという話を聴いたことがあります。一つ目は登り坂、二つ目は下り坂、そして三つ目がまさかの坂という坂があるそうです。人生は登り下りだけではなく、まさかといった予想していなかった出来事に遭遇するという話です。

よくよく振り返ってみると、計画通りにいくことなどはほとんどなく、いつもまさかこんなことがという出来事に出会います。それは人の出会いでも、学びの出会いでも、仕合せとの出会いなどもそうです。

私たちは気づいていないだけで、人知れず多くの御蔭様の助けによって日々を生き抜いていくことができます。御蔭様御蔭様でと御蔭様を唱えて生きる人には、どんな時も見守ってくださっている存在に気づき自然とそのまさかの有難さに気づけて感謝を忘れません。しかし自分の思い通りに行くことばかりをのぞんで得手勝手にふるまってしまう人にはそのまさかは予想外の出来事に映るのかもしれません。

そもそも当たり前ですが坂道というものを登ることも下ることができるのも自分の”からだ”があってのことです。その”からだ”は、数々の恩恵をもって与えてくださった唯一無二のものです。その自分が恩恵に活かされているからこそ体験もでき、死んでしまってはその体験すらもできません。この生きている、活かされているという存在そのものへの感謝があってこの世で様々な体験をさせていただけることが御蔭様のちからの一つであろうと思います。

そして人はその体験をしたいからこそ坂道を歩みます。いくら大切な人であっても、その人が体験したいものを代わってあげられることもなく、その人が乗り越えようと必死にしているものをやってあげられることもなく、ただ自分にできるのはその人のことを丸ごと信じて見守ることだけです。

この「見守ることだけ」という心境は、御蔭様の存在の心に似ている気がするのです。

私たちはこの世で好きな体験を自由にさせていただけます。その自由にさせていただける私たちは地球にとっては子どもたちのようなものです。その子どもたちはいかに生きて体験していくのかは母なる地球が見守ってくださっています。地球がなくなれば私たちも好きなことができず、父なる宇宙の見守りがなければ私たちは存在すらできません。まさに「父母の恩徳は天よりもたかく、海よりもふかし」です。

如何なる坂道であったとしても、天から与えていただいている尊い坂道。御蔭様御蔭様と唱えながら歩んでいきたいと思います。当たり前ではない環境があって、悩むこともできるという有難さ、思い通りではない有難い御蔭様に感謝してもったいない学びを味わっていきたいと思います。

全ての出来事には確かな意味がありますから、その御蔭様と人と人との出会いと別れにある御互い様を忘れずに初心を守っていきたいと思います。

自然の理想

人間には苦しみというものが付きまといます。あまりにも苦しいとき、人は逃げたくなるものです。そして苦しみのことを悪いことのように思うことがあります。しかし苦しみには種類があるように思うのです。その苦しみの本質について少し深めてみたいと思います。

苦しみとはどこからくるか、それは現実が自分の思い通りではない時に人は苦しくなります。自分の思いがあり、自分の思い通りではない現実があればそれが思い通りにいかないことで苦しみが発生します。人間には自我欲があり、誰でも自分の思い通りになることを願うものです。それを執着ともいい、自分の思いに縛られているというものでもあります。

しかしよく考えてみると、その人になんらかの理想があり、それに向かって頑張っている中で現実がなかなかそれについてこない苦しみは果たして悪いことなのかということです。理想があるから苦しむ、その苦しみは現実が思い通りにならない苦しみです。その現実から逃げたくなったからと逃げてしまえば理想に近づいていくことはありません。現実が思い通りではなく苦しくても、理想に向かっているならばそれはどこか楽しい境地を得るように思うのです。なぜならその苦しみは理想に向かっている苦しみだと実感できるからです。

なぜ夢が必要なのかは、どうせならその思いを夢に昇華してその夢に向かう苦しみに転じて福にしていこうという意味もあるように思います。思い通りではない現実が、単なる自分の欲望だけになるのならその苦しみはとても気の毒なものです。しかしこうありたい、こう生きたいといった、あり方や生き方の方で苦しみを感じるのなら自分は理想に向かっているのだから苦しみもまた味わっていこう、苦しみもまた善いものにしていこう、苦しみに挑んで楽しもうという気持ちになっていくようにも思うのです。

人は理想の高さゆえに現実とのギャップにもがき苦しみますが、その苦しみは思い通りにいかない苦しみだからこそ、それに耐え忍んで思い通りではないことも受け容れて苦しみに向かって挑戦していけば、反対に自分の理想には確実に近づいていっていると感じるのです。そう考えてみると、苦しみが多ければ多いほどに理想に近づいていると思っていいのではないかと私には思えます。その時、苦しみは悪いものではないと感じられるように思います。

人に苦しみがあるのはきっとその心に思いやる優しい心、平和を願う助け合いの心が産まれながらに備わっているからのように思います。幸せというものは、苦しみの中にある楽しみに出会うことかもしれません。私たちはどこまでいっても自然の一部でしかないのだから、それぞれが自然の理想にむかって精進していくのが宿命のようにも思います。

自然の理想に向かって苦しむことを楽しみながらいのちを輝かせて子どもに未来を譲っていきたいと思います。