何のため

何かに関わるときや、大切なことを決めるときにそれが何のためかという自問自答は何よりも大切なことです。方法論ではなく目的の確認というのは、御互いに必要なことで方法論に終始してしまうと目的から離れていくものです。

そもそも目的というのは、その初心や動機でもあります。そういうものを知ることをやめてしまい、それぞれの専門分野で好き勝手話していたとしても本来何のためにそれをやるのかを議論していなければ単なるそれは方法論ということになります。

例えば、やり方や方法というものはこの世には無数にあります。それは宗教から科学、または研究などありとあらゆる分野でそのものの真理に辿りつこうとするものです。しかし真理を知ったからといってだからどうなることではなく、その真理を知るのは何のためかというのが何よりも大切なことのように思います。

現在、知識社会ともいえる知識によって優劣をつけている時代ともいえます。大学をはじめ知識の長ともいえるそういう学術機関には知識が溢れるばかりに満ちています。そしてその方法論についても満ちています。人は知ることで方法論を使い便利になったとしてもそれを活かすとなると目的が何よりも重要になるのです。

以前、ある方が「知識を必死に蓄えていたのは楽をしたかったから」という話を聴いたことがあります。体験をせずに済み、体験をしたことを知れるから学んでいたと言います。これこそ何のために学ぶのかということがなくなっていることに気づきます。

知識を詰め込まれて知識があるから分かると錯覚してしまうと、体験よりも知識ばかりを持とうとするものです。そして知識は方法論ばかりを求めては膨大な量のノウハウや事例を体験もしていないのに知っています。食べたことがないことを食べる前に知っているから食べないといい、やってみたことがないのにやったらどうなるかについて議論します。おかしな話で、知識をもっていない幼児の子ども達の方がどんどん楽しそうに取り組んでいきます。楽をしたいから知識で済ませようとはしないものです。

何のためにというのは、物事の根幹です。

学ぶ理由も今では反転して学ぶことが本来の学ぶとは異なっていることが常識になっています。人がやったことがないことでも果敢に挑めるのは、そこに目的がはっきりするからです。何のためには生き方と通じているし、道と繋がっています。

引き続き、本来の目的意識を忘れずに日々に本質を自問自答し子どもたちのために活かしていきたいと思います。

ゼロベース

人は話を素直に聴くことができれば物事の実相が観えるものです。しかし素直に聴けないのはそこに自分の先入観や価値観、知識が邪魔をして聴く前に決めつけてしまったり、もしくは自分が知っているところまでで聴くのをやめてしまうことで素直さが出てこなくなるように思います。

この素直さというのは、物事をゼロベースで感じることができるということです。ゼロベースになるというのは、例えば自然を観るとき自然のままで観る人と知識で自然を分別する人がいます。前者はゼロベースですが、後者はもうゼロではありません。このゼロで観るというのは、素直になるうえで私は何よりも大切だと思うのです。

人は自分の生きてきた経験で、きっとこうだろうと判別します。そうやって決めつけて思い込んだ方が相手を知らずに相手を知った気になれるので楽なのです。多くの人たちと人間関係をつくるうえでいちいち一人ひとりに共感して心を通じ合わせていくよりも、安易に知った気になって分別していく方が楽だということもあるのでしょう。

しかし実際は、人間という複雑なものをそんな簡単に判別し分別できるようなものはなく御互いに関わり合い心を通じ合わせて対話をしていくことでようやくその人のことが直観できるのです。これらの対人関係というのは、知識や頭でできるものではなく本来はゼロベースで御互いに素直に聴き合うことで御互いのことを深く理解していくことがあってはじめて人間関係が築かれていくように思います。

きっとこうだろうといった先入観がある故に、思い込まれて苦しんでいる人、思い込まされる人、思い違いをしている人、世の中にはそんなことばかりです。本心や本音が話せる社會というのは、そういう思い込みや知識で分別される社會ではなく御互いにゼロベースで関わり合える温かい社會です。

そのためには、自分が思い込まないという工夫が必要です。それが素直に聴いてみることであり、ゼロベースで観ることのように思います。分別知で物事を分かることはゼロベースで観ることと関係がありません。まずゼロベースで感覚を使い、その上で知識を活かすのはいいのですが感覚を使わずに決めつけてしまったら本質が遠ざかってしまうばかりです。

まず御互いに素直になるには、素直になる風土や素直になる環境が必要です。それは言い換えれば、御互いに分からないことを何でも訊き合える関係を築くことのように思います。常に御互いがゼロベースでいる工夫をしていくことで、刷り込みが入りにくくなっていきます。私たちの仕事はその先入観を取り除くことがとても大切な要素になっています。

引き続き子どもが安心して様々なことを体験して学びを活かしていけるよう、子どものゼロベースの姿から学び直し、子どもの素直に聴く力、そのゼロベースの引き出しをより環境を育て見守っていきたいと思います。

偏りは持ち味

私たちの会社で取り扱っている商品にミマモリングプラスというものがあります。これは気になる子と呼ばれる一般的には軽度発達障害という偏った子どもをどのように見守るかということで開発されたものです。

そもそも軽度発達障害というのは、アスペルガー症候群や高機能自閉症、ADHDなどアメリカで名づけられた障碍の一つです。アメリカではラーニング・ディスアビリティ(learning disability通称LD)と呼び、日本ではそれを学習障害(LD)といいます。このディスアビリティという言葉は海をわたって日本に来ると障害になります。海外では個性というのは当たりに尊重していますが、どこか私たち多くの日本人の一般常識の中には個性が受け容れてられておらず何か悪いことのような響きでイメージする人も多く、障害というとよくないから隠そうとさえします。

本来、私としてはディスアビリティとは単なる「偏り」のことでそれは一つの個性という認識です。障害は個性ですと言い直してみてもピンと来ていない人が多い様に思います。みんなと違うことは駄目で間違っているという刷り込みや思い込みが邪魔しているのかもしれません。それに障害は「害」の字が入っているからと今では障「碍」にしていますが言葉の響きが「ショウガイ」ではなく、個性の偏りとしそれは一つのその人の大切な「持ち味」と思っている人は少ないように思います。

皆と違うことがダメだという刷り込みで、みんな誰しもが自分が普通であるということを気にします。言い換えれば自分はフツウの人であるとし周りと同じであることをアピールします。先日もある人から「自分はもっともフツウであって周りが変だ」と言われましたが人間は何も偏りがない方がよっぽど変ですからそもそもおかしなことを言っていることに気づきます。この偏りというのは個性です。個性を排除するような一斉画一の金太郎飴のような育て方をされてきたから偏りもまた良くないことだと思い込んでいるのかもしれません。

昨日の遠山啓氏の言葉で、

「偏るのがなぜ悪いのでしょう。過去において「何か」をやった人はたいてい何かひとつの事で優れて偏った人です」

があります。そもそも偏るというのは、その力でお役に立ちたいと自分が選んで来たチカラのことです。人は赤ちゃんのときから、無限の力を持っています。それを周囲を見ながら何を削ろうか、何を残しておこうかと選択していきます。そして残してきた力を将来社會に出た時に役に立てようとします。それは社會の中で必要とされるために役割を持とうとするのが人の幸せだからです。

偏りがあるというのは、それだけ社会で御役に立ちたいと信じてその力を遺した人です。そういう力を発揮してもらってこそ人類の発展があり、そういうチカラによって私たちは進化成長してきたとも言えます。皆が個性を認めて持ち味だと認識すれば誰も偏ることは怖いことや悪いことではないと思えるようになります。

今のようにみんな同じものにしようというのはどこか大量生産大量消費の思想に似ている気がしてなりません。序列主義に置いても同じく、便利な機械のように同じロボットを増やしておいて誰かの利益のために役に立たせようとする便利主義も見え隠れします。

しかし実際に私たちの先祖や人類はどのように生きてきたかの歴史をみればすぐに持ち味を組み合わせ協力・協働してきたのが分かります。それぞれが異なる個性があるからこそ、それぞれにその時々にお役に立つことが出来る。ある人はそれを「皆働社會」とも呼びました、一つのムダもない社會のことです。ある特定の人間の基準でこれは役に立つや立たないという分別や差別で人を裁く社会ではなく、誰一人役に立たない人はいないという社會が本来は存在しているのです。後者の社会は、産まれてきているだけで幸福な自然の世界です。

偏りを悪いと思っている刷り込みは、保育の書類や様々な仕組みの中に随所に入り込んでいます。その刷り込みを一つ一つ取り払い、本来の姿に戻すことが出来るならその組織や社會も肯定に満ち、その場においてみんなが持ち味を活かす最幸の現場が出てきます。

引き続き、みんなが倖せになる職場や現場、子ども達が安心して愉しく豊かに過ごせる場をつくるため一つでも多くの園にミマモリングプラスの仕組みを広げていきたいと思います。

 

まちがった教育~刷り込みからの脱却~

熊本県下益城郡出身の日本の数学者に遠山啓氏がいます。この遠山啓氏の競争原理を超えるという理念を支柱にできたのが埼玉にある自由の森学園です。ここの子ども達の活動を見ていると随所にその理念が浸透し反映されている部分を知り、その根底には私にも同じ気持ちがあるのを実感します。

そもそも日本の教育は、だいぶ昔から変わっておらず時代の変化があっていてもまるでどこふく風のように「学校」という形にこだわっています。外から学校に入り不思議に思うのは学び方が知識偏重型の詰め込み教育スタイルをいつまでも維持していることです。

世界をはじめ、IT化が進み情報などはもう学校以外でほとんど入手する時代です。何のために学校にいくのかを再定義しなければそもそも子ども達も学校にいく意味を感じなくなるのは自明の理です。特に本質的であればあるほどに子どもたちは直感で学校学ぶことの価値に「?」を持つことだと思います。

この遠山啓氏は、だいぶ前にこのことを言及している言葉があります。

「学校教育そのものが、いま、絶対視されていて、唯一の教育機関みたいになっているけれども、客観的にみても、情報社会になってきて、学校以外からえられる情報がかくだんに多くなっている。だから学校の相対的な価値はもっとさがるべきではないでしょうか。」

私も同感で、学校だけが教育する場所ではなく人は学校以外のところで学ぶために学校があると私は思います。あくまで学校は、「場」を超えないのであってその場をどう活かすかは子どもたち自身だからです。世界では様々な新しい学校が産まれています、以前見学したシンガポールの学校やインドネシアのグリーンスクールなどもそうです。何のために学ぶのかという原点をはっきりしている学校が、新しい場を創造していくのです。

遠山氏はこう言います。

「創造ということは、がんらい、なみたいていのことではない。そのためには絶対に必要な条件がある。それは自由ということである。」(子どもの側にたつ)より

ここでの自由というものは、今の時代では多様性と言い換えてもいいかもしれません。つまり多様性を持つものだけが自由を手にしますから、自由を手にするためにも自分自身が主体的に世界を知り、歴史を知り、自然を学び、原点を掴み、いのちを生き切ることを遣り切る必要があるのです。自由というのは自然あるがまま(由)の合体した言葉です。如何に自然であるか、自然の中には無があり無の中には無限の創造性があります。そういうものを引き出すためにも自然一体の境地を学問によって学んでいく、その場を提供するのが学校本来の役割ではないかと私は思います。

それを壊すのにもっとも大きな影響を与えるのは「刷り込み」です。私たちは競争原理や序列主義の中で、差別され様々な自由を奪われてきたとも言えます。本来、いのちに序列や差別はありませんがそれをされることで深く心が傷ついてきたのです。すぐに他人のことを馬鹿にしたり出し抜いたり、それを見ているととても心が痛みます。かつての教育によって傷んだ気持ちをどう開放するか、私たちの取り組んでいる本業もその辺が深く関わっています。

そして遠山氏はこう言います。

「序列主義で骨がらみとなった教師は、いきづまると、いわゆる能力別指導に救いを求める。つまり、それは劣等生が優等生の邪魔をする、という考えになってくる」

能力主義というのは、序列主義から発生してくるものです。人を分別し、知識の有無と正確さで優劣をつける。しかしこれでは上下の縦の関係が強くなるばかりでいよいよ横同士の関係のない堅苦しい集団になります。今の時代はかつての上からの一方的な価値観では乗り越えられない時代です。多様な価値観が存在する社會があるのですから、そこは御互いに協力し合って衆知を集めて乗り越える時代です。しかしそれを超える方法も遠山氏は示しています。

「いまの教育というのは、テストの点数で子どもを優劣の順に序列化して一列縦隊になってしまっている。その序列の向きを90度変えれば、一列横隊になる」

如何に発想を転換するか、そこに自由の森の子ども達の活動の妙味があるように思います。子ども達の姿をみていたら、私が今、取り組んでいる子ども第一義の理念と同一であることに気づきます。如何に協働し、如何に自由であるか、その中には個々の尊重と持ち味を活かす仲間づくりをしていく場、衆智の活かし合いを重んじている感じがします。個々の自立は、仲間があってはじめて成り立つものですからその仲間づくりをどう体験するか、そこに自由を学ぶ意味があるように私は思います。

最後に、この遠山氏のこの言葉に私はとても共感します。

「おとなにはあまり期待がかけられない。まちがった教育でだめにされてしまっているからだ。しかし子どもにはまだ希望がつなげる。そのためには、いまのまちがった教育を変えて行かなければならない」

私はこの「まちがった教育」のことを「刷り込み」からの脱却であると定義しています。今まで教えられてきたことを一度疑ってみる、今まで常識だと思っていたことをいちど見直してみる、そういう中に刷り込みの脱却があります。

教育がまちがうというのは、本来の学びの価値が失われていくことです。自分で考えて自分で学ぶ、ゼロベースで考えることが出来る人こそが本物の教育者であると私は思います。

引き続き、御縁をいただける学びをすべて子どもたちのために活かし切っていけるよう精進して全てものから学びきっていきたいと思います。

歴史を学ぶとは何か

昨日、福岡県八女市で有名な町家再生の設計士の方とお会いしてお話をお伺いするご縁を頂きました。その方は、もうすでに八十以上の古民家の再生を手がけており町並み保存や文化財の調査、人財育成等々にいたるまでありとあらゆる活動を志で取り組まれている方です。

古民家の修景ではなく修理をすることを本筋とし、如何に後世に「本物を遺すか」ということを重んじられていました。現在は、ほとんどが予算の関係から町の景観だけをよくするために外見の見た目はそれ風にしますが本質的に古いものを修理修繕するわけではありません。そうではなく、丸ごと直すという観点で人、場、ものにいたるまでに全てに総合的に修理を手掛けておられました。

昨日は福岡の聴福庵を見ていただき、傾きをどのように修理すればいいかだけではなくまたこの古民家がかつてどのように使われていたか、そしてどのような修理を今まで行ってきたか、その歴史について色々と教えていただきました。

お話の中でもっとも印象に残ったのは、阪神淡路震災の御話でした。実際に文化財や古民家など震災後に壊れてしまい実際に調査をしたそうです。すると9割が壊されいたそうです。その実態を調べると、古いものには価値がないと業者が新築を勧めて壊していったものがほとんどだったそうです。古いものの修理修繕は無理だからと、文化財や古民家への理解がない人たちがそれまで大切にされてきた歴史を考えずに安易に取り壊してなくなってしまったそうです。

その方の『これは古いものを単に捨てて新しいものにしたのではなく、それは歴史を捨てたのだということに気づいていない』という言葉がとても深く心に印象に残りました。

よくよく考えてみると、家が何百年も続くというのはそれまでの先祖たちの暮らしや生き方、生き様、そういうもの遺っているということです。家では柱の傷などもそうですが、かつて子ども達がせいくらべした傷や落書きの傷、その他大切されてきたさまざまなものが「思い出」として間に宿っています。そういう観点で見れば文化財とは何か、それは歴史の宝そのものなのです。

そういう歴史を安易に捨てるということは、思い出を安易に捨てるということです。本来人は何のためにこの世に生まれてきたか、それは思い出を残すためではないかと私は思います。生き様を遺すと言い換えてもいかもしれません。一生一度、一期一会にこの地上の楽園に生まれ出てきたいのちに神様が平等に与えてくださっているものは「思い出」をつくれるということです。

このことから洞察すると今の時代は決して新しいものばかりが価値があると人々が信じている時代というわけではなく、歴史を大切にしなくなった人々が増えている時代に入っているということです。歴史というのは、先祖との対話です。先祖の生き方との対話を歴史を通して学ぶのです。古民家を通してその方がじっくりと先祖と対話しているのをみて、私は魂が揺さぶられました。

私自身、もっと先祖たちを尊敬し先祖たちの偉業と真摯に対話ができるよう歴史と正対していこうと改めて決心する有り難い機会になりました。新しい御縁はすべて学び直し、生き直しの大切な時機、このまま古民家から色々と教えていただけることに感謝して自他一体の自己修理を進めていきたいと思います。

自然の学問~大局観~

現在、知識という便利なものを使ってから体験をすることよりも知識を持つことが価値があるかのような世の中になっています。大学をはじめ研究というものも本来は実践があっての研究であるのに、研究のために実践になっているのなら何の意味もありません。

本来は研究すること目的ではなく、現場が困っているから具体的な解決方法を研究する必要があるのです。そして本来の研究とは、実践ののちの研究のことであり体験したことが何だったか、そこから何に気づき直していけばいいかの改善の集積なのです。

そしてこの改善には、知識ではなく「感覚」を用います。感覚というものを身に着けるには失敗が要ります、失敗を通して様々なものを学び感覚を研ぎ澄ませていくのです。知識が多い人は失敗を過度に怖がります、それは知識は失敗では研ぎ澄ませず修正するだけだからです。習得するのなら、本来の学び方である失敗を通して感覚を身に着ける、古来の言い方では「コツを掴む」ことで学習は成立していきます。

民藝という言葉を起こした思想家に、柳宗悦がいます。その遺した有名な言葉に『見て知りそ 知りてな見そ』があります。これは「なんでも見てから知れ、知ってから見るんじゃない。」ということです。

言い換えれば知識から入ってものを知ってはならぬ、分かった気になってはならぬ、まずは見てから、やってみてからのちに知ればいいし分かればいいと言うことでしょう。

知識を持ったからといってその本質が理解できるわけではありません、具体的な実践を通して本質を知り本物になります。つまり体験の質量こそが、その人の感覚を研ぎ澄まし本来のその人の持つ全身全霊の力を引き出していくということなのです。

現在はすぐに何かをやろうとすると知識から入るものです。私の場合は知識がないけれど好奇心があるからすぐにそのものに触れます。自然農をすればすぐに虫刺されや怪我をします、古民家を再生しようとすればすぐに弱いものを毀してしまいます。痛い思いをして失敗ばかりをしては、なぜこうなったのだろうと反省内省してそこからもう一度すぐにやり直してみます。

その繰り返しを何度も何度もしているうちに、自分のカラダの中にある「感覚」が呼応してきます。そうしているうちに身に着けたのは「大局観」です。つまり事物の大局を理解するチカラ、そのものに触れるチカラ、邂逅の力のことです。

人は触れていくことで次第にそのものが”自分に馴染んで”きます。この馴染んでくるというのは場数とフィードバックが欠かせません。そうやって何度も失敗して経験して学び直していくことが成長することであり、成功よりも大切な学問の醍醐味、そして連綿と続いてから太古からの道と大義が感じられるものです。

どんなことも「見て知りそ、知りてな見そ」で、接していく姿勢こそが自然の学問ということでしょう。引き続き、挑戦を愉しみ与えていただいている失敗に感謝して歩んでいきたいと思います。

 

素直は聴くこと

昨日、ある高校で一円対話を行いましたが高校生たちの話す言葉に改めて素直であることの素晴らしさを感じました。素直さというのは、物事の実相が観える心のことです。本来人は自分の思い込みといった価値観のフィルターを通さずに澄んだ眼で観通すことができるのなら心の美しさを知り有り難い感謝の心に満たされるものです。

しかし実際は、感謝の心を忘れ自分の思いばかりに固執するとそのうち感情の呑まれ価値観の色眼鏡で相手や周りのことをみて自分の心配に終始していくものです。日頃からそうならないように常に「聴く」という訓練を行うことで修養していくことも自分との付き合いの中では大切なことだと思います。

思い込みの強さというのはこだわりの強さとも言えます。それは確かに何かを信じて思い込み行動するという創造性という意味では長所になりますが、逆に短所だと自分勝手に思い込み相手のことを考えずに猪突猛進してしまうといった欠点にもなります。

長所と短所は表裏一体ですから、長所を伸ばし短所はカバーすることで人は素直さを取り戻すことができるように思います。一つは周りの人を信頼して自分の弱みをカバーして強みに特化して貢献していくことです。それは共生と貢献といった互生関係を持つ植物たちのように御互いの持ち味を仲間の中で活かせば何も悪いことは起きません。自分の持ち味を知り、そして仲間の持ち味を知り、その御互いの持ち味を知る人たちは長所を活かし強みを伸ばします。

そして個々人としてはやはり素直の修養が必要だと思います。言い換えるのならば、感謝の心を忘れずに謙虚になること。まずは感謝をし自分が思い込んでいないか、自分が何か間違っているのではないかと周囲の声に素直に耳を傾けているか、そうやって自分が頑固に固執しないよう、柔軟に素直になるようにと日々に訓練を怠らないようにするのです。

人は思い込みが入れば、話を聴くのが嫌になります。そうやって感情的になって好悪感情が入り込んでくればくるほどに思い込みはより激しく荒ぶってきます。感情は思い込みという火に薪をくべていくようなものですから落ち着くまでは火が消えることはありません。

しかし一円対話のように改めて周りの人たちが本心から何を思っているのかをみんなで傾聴し共感し受容するのなら自ずから感謝が発生してきます。そして感謝までたどり着けば、それぞれに自らの自分のことを反省し謙虚に素直に改善していこうという気持ちになり御互いの心と感情が洗い清められ素直になっていくのです。

もっとも人間関係において気を付けるべきは「思い込みで見ない」ということでしょう。

コミュニケーションの本質は、自分が思い込まないために行うものでもあります。思い込みは御互いの不幸を呼び込みます。思い込まないためにも本心本音が語り合える距離感、錆びない関係、御互いに手入れをし続ける努力を怠らないことのように思います。それは常に素直になるために「聴く」ことが先であると私は思います。そういう意味では私はまだまだ本当に反省することばかりで改めて自戒をして精進したいと思います。

社會に入るというのは決して一人では生きてはいけないことを自覚することですから、常に社會の尊い一員であることを忘れず感謝の基盤に素直で謙虚な日々を一円対話の実践を通じて私も磨いていきたいと思います。子ども達には仕合わせに生きる素直な感性、謙虚な真心に触れて人々が安心して生きていける社會を譲っていきたいと思います。

福とは何か?

幸田露伴に幸福の三説というものがあります。運が善いと言われる人にはなぜか運が善くなる生き方があり、それらが運を高め運を好転させ続けているということです。この運が善いというのは、実際には何よりも大事なことで物事は自分以外の周りが動くことで自分の布置が決まっていきますから運を敵にしない人はみんな運が善い人だとも言えます。

では運を敵にする人とはどういう人でしょうか、運を敵にまわす人は幸福を私物化する人のことかもしれません。言い換えるのなら、業を重ね業に沈む人といってもいいかもしれません。自分の徳性に気づかず、無駄使いをし疲弊していく感じです。せっかく天から与えられたものがあったとしても、それを何に使うのかということです。

自然は自分の徳性を活かすとき、そこに運を与えるように思います。それは何のため自分が産まれてきたのか、そして何のために人生があるのかと真摯に向き合うとき自分の中に具わっている徳の存在に気づきます。その徳を磨き、その徳を育て、その徳を高めるとき運が好転していくように思います。

しかしその徳に気づかず、もしくはその徳を私物化し自分の欲望や自分ばかりのために使ってしまえば福はすり減っていきます。福がすり減れば次第に運が悪くなっていきます。運が悪くなってしまえば、どこかで徳に気づくまでなんども同じ生き方をしてしまうものです。

この世の中は気が付けば自分中心、自分勝手に私物化してしまうような機会ばかりが多くあります。そういう機会や知識に打ち克って、自分の初心や理念、理念を貫くために徳業を重ねるとき人は運がさらに開けて好くなっていくように私は思います。

幸田露伴の幸福三説は、一つ目は惜福。自分に与えられた福を大切に惜しむこと。二つ目は分福。自分に与えられた福をみんなと分け合う事。そして三つ目が植福。長い目でみて福を育てて続けていくこと。これらが幸福の人たちが実践している福の徳目であると言います。

これらを鑑みるとやはり福を私物化していません。福とは天地自然の恩恵ですからないものねだりをしてないものばかりを求める心に福を感じるチカラはありません。むしろ足るを知り、あるものを活かそうとするときにこそ福は感じられるように私は思います。

そういった前向きな考え、物事の善い方をみる肯定的な捉え方、ポジティブ思考、自然と一体になった信じる心が幸福に気付く感性を磨いていくのでしょう。

福とは、自然に具わった徳のことです。

自分も自然の一部ですから徳を持っていますし、この世の中に徳がない人は誰一人として存在しません。だからこそその徳を見出すことが教育の醍醐味であり、その徳を伸ばしていけるように見守ることが保育の本質のようにも私は思います。

引き続き、幸福の三説の実践を味わいながら子ども第一義の理想に近づけるために精進していきたいと思います。

 

共生の居心地

古民家の修理と清掃を引き続き行っている中で気づくことがたくさんあります。そもそもこの町家というものは、職住一体型になった施設で昔は店屋と書いて「まちや」とも呼ばれていました。入口に店舗があり、その奥で住まうのです。

今では店と住まいが別々のところで行うことが増えていますが一昔前まではどの家でも職住一体で行われていたように思います。私たちは生き方と働き方の一致とありますが、本来はそもそも仕事と暮らしは別物ではなく一体であったと思います。そのことから、これはプライベートだからやこれはビジネスだからやそんな言葉は出なかったのです。

そしてこの町家に住んでみると分かりますが、ここはプライベートがないことに気づきます。外の音は人の小声でもほとんど入ってくる、そして中の音も外に漏れています。夜中など少しでも大きな声を出せば、近所に響きます。さらに窓はすべて紅殻格子などで隙間がありますから夜中にはほとんど中が見渡せるのです。

このほとんどプライベートがない中で不便だと今の人たちは町家を捨てて各部屋が個室のようになり外から遮断された密封建築に住んでいます。現在では防音設備から窓も外からは見えない仕組みになっていたり、光も電気で明々としています。そこに誰か住んでいるのかわからないほどにプライベートは確保されています。

本来、そうやって個人ばかりが確保され好き勝手できるような暮らしはなく周りの人たちのことを思いやり自分を少し抑制するという謙虚な生き方があったように思います。自分さえよければいいという世の中は、言い換えるのなら周りの人たちのことよりも自分のことだけを考えるという我儘な世の中です。しかし私たちの先祖は、どこにも共生をする仕組みを取り容れ自然を壊さず関係を壊さず、御互いに歩みよって寄り添い生きてきました。それは言い換えるのならば、思いやりを優先してきたということです。

今の時代は自分だけが快適であればいいという個人主義が蔓延していますが、この町家には御互いの距離に居心地がいい配慮があります。それは心を開いている居心地のよさでもあります。ほとんどプライベートのない中でも、自分を正しくコントロールすることができる。相手を変えようとするのではなく、自分の方を変えて調整をとるバランスのある暮らし、そういうものを実現していたように私は思います。

これは自然農の実践でも気づくことですが、周りの生き物と一緒に生きていくのだから、自分さえよければいいと考えずに周りの生き物と一緒に暮らしていこうという発想の姿勢と同じです。これは自己抑制で欲をコントロールするという考え方でもありますが、その本質は先に周りのことを思いやるという精神があるということです。日本人が町家を建て、これだけ隣同士で接近して暮らしたのはそれぞれにそういう精神を持ち合わせていこうといった寄合の意識があったからのように思います。

今では近所などがなくなり、東京ではマンションに住んでみると何年もいるのに会ったこともない話したこともない知らない人ばかりです。それぞれにプライベートを尊重するあまり挨拶すらもなく、何をしてどのような人たちが住んでいるのかは管理人すらも把握することができません。

御互いの居場所があるというのは、思いやりの場があるということです。居場所がなくなった世界というのは共生と共感のない孤独で辛い場所だけが残るのかもしれません。そういうところにいくのは目先の個人の損得で考えるからであり、思いやりや徳を重んじるのなら居場所を広げていくことが価値があるのはすぐにわかります。本当の居心地のよさとは「思いやりを優先し自分は少し不便でもいい暮らし」のことかもしれません。そしてそれこそが「共生の居心地」なのです。

引き続き、子ども達のためにも先人の暮らし、古民家の教えから学び直し聴福人の実践を深めていきたいと思います。

直観力とは何か

古いものに触れていると様々な価値観に出会い、そして新しい直感が滾々と湧いてきます。一昨年より磨くことを深めていると、磨くというのは直感と似ていることに気づきます。ひょっとするとこれは「直感を磨く」という言い方をしてもいいのかもしれませんが、磨くから直観が冴え、直感が冴えるから磨かれるのです。つまり直感は本質が磨かれていくということなのでしょう。

例えば、冒頭の古いものでいえば古いもの、経年変化したものに触れて手入れをして磨いていると磨いているうちに次第にそのものの持っている本当の価値に出会います。その価値を知り自分がもう一度再定義し直し、それを今の時代に活かしたならそこに直感的に色々な感性に出会います。それが作り手の思想であったり、またその素材の持つ特性であったり、経年変化して生き残ってきた徳性であったりと様々です。これも一つの多様な価値に触れて自分の価値を磨くことになり直観を育てていくのです。

将棋の羽生善治さんの「直観力」(PHP)に直感に関することが書かれています。その帯には、「自分を信じる力。無理をしない、囚われない、自己否定しない。経験を積むほど直観力は磨かれていく」とあります。

そして『直感を磨くということは、日々の生活のうちにさまざまのことを経験しながら、多様な価値観をもち、幅広い選択を現実的に可能にするということ』といいます。そのためには『考えや価値観の幅が狭いと、直感の判断根拠が乏しいかもしれません。普段から「こうに決まってる」「ふつうこうだ」などと考えていては、鋭い直感は得られない』といいます。

自分の中の小さな常識に縛られきっとこうであるはずだと思い込むことやふつうはこうだなどと囚われることで直感は失われていくということです。マジメで常識的であればあるほどに発想を転換することができないように思います。私はこの発想の転換こそが直観力の醍醐味だと思っています。ではこの直観力をどのように磨くのか、羽生善治さんはそのために気を付けていることがあると言います。

『いつも、「自分の得意な形に逃げない」ことを心がけている。戦型や定跡の重んじられる将棋という勝負の世界。自分の得意な形にもっていけば当然ラクであるし、私にもラクをしたいという気持ちはある。しかし、それを続けてばかりいると飽きがきて、息苦しくなってしまう。アイデアも限られ、世界が狭くなってしまうのだ。人は慣性の法則に従いやすい。新しいことなどしないでいたほうがラクだから、放っておくと、ついそのまま何もしないほうへと流れてしまう。意識的に、新しいことを試みていかないといけないと思う。』

人は誰しも自分の価値観のメガネをかけてこの世の中をみています。その人の価値観が狭ければそれ相応の狭い世界、その人の価値観が融通無碍であり無限で自由あればあるほどに観えている世界は多様で広大です。私があらゆることに興味を持ち深めるのも、自分の価値観を常に壊して常識に縛られないように工夫するためでもあります。新しい世界、たとえば今までかかわることがないような文化に触れることもまた挑戦ですし、今までにやったことがない方を選んだり苦しい方を選ぶこともまた新しい試みなのです。アイデアが停滞するとき、私は敢えてやってみたことがない世界に入っていきます。回り道や寄り道をしているように見えてかえってそのことで直感が磨かれ本業の志を助けてくれるのです。

そして直感を磨くには、日頃から「アウトプット(捨てる)」する必要を説いています。そこにはこうあります。

『過去の知識や情報は、すべて素材だ。それらは、次の新しいものを想像する素材として利用されるためにある。過去の素材であっても、適切に組み合わせれば、新しい料理をつくることができるのだ。しかし、情報をいくら分類、整理しても、どこが問題かをしっかり捉えないと正しく分析できない。さらにいうなら、山ほどある情報から自分に必要な情報を得るには、「選ぶ」より「いかに捨てるか」、そして「出すか」のほうが重要なのである。情報メタボにならないためにも、意識的に出力の割合を上げていくことが重要になる。』

直観力というのは集中力ですから、ひとたび信じて動きだせばすぐに膨大な情報を取り込んでいきます。そして直感のアンテナが立ったなら世界のあらゆるところから情報が集まってきます。それを取捨選択するチカラ、つまりは捨てるチカラが求められます。言い換えるのなら、思い込みを捨てるチカラです。そのために自分の中にある常識を一つずつ壊していく、そういう日々の研磨と練磨、「磨きあげる」ことが何よりも必要だと私は思うのです。

磨きあげるのは、単に掃除や手入れをすればいいのではなく本質的な試練や苦難といった自らを研鑽する機会と経験という砥石によって自らを磨かなければなりません。そのために志を高く持ち、そこから訪れるその一つひとつの御縁を選ばずに引き受けていく人生、もしくは来たものをすべて受け取りそれを福に転じていく人生、それが直観を磨き本来の生きるチカラを高めていくように私は思います。

何をしていてもすべては本懐を遂げる一点に集中する。

直観はいつも陰ひなたから自分を助けてくれる大切なパートナーです。自分の思い込みを信じず、自分を信じて引き続き様々な実践を愉しみ味わっていこうと思います。