出愛~遊び心~

縁を辿っていくというのは法を求める信仰に似ています。

例えば、何かしらの出来事からそれが根本は何につながっているのかということを辿っていくのが縁でもあります。日々の誰かの一言や、ふとしたところで足を運んだ場所で、その意味やその理由を奇跡の感激のままに辿っていくことが縁でもあります。

先日も、中国で偶然に訪問した赤山禅院での邂逅から様々なことを学び直しています。出会いというものは、よく聴き耳を立てては聞えないはずの声を聴くことであり、よく目を凝らしては心でしか観えないものを観ることであり、感覚を研ぎ澄ませては一言一句忘れまいとその意味を深めて直観することを言うのかもしれません。

毎日というものは、様々な出会いに満ちています。
しかし実際は満ちているとしても出会いを出会いにしていないことが多いように思うのです。

自分の出会いたいものとしか出会わないでは、一期一会とは言わないように思うのです。自分の出会いたいと思ったものを優先するのではなく、この出会いは何か、またその出会いは何とつながっているか、まるで計画していない雲水のような旅の妙味を楽しむことで人生の醍醐味と面白さを実感し続けていくようにも思います。

それは如何に謙虚に出来事を深めているか、そして素直に人の話を聴いているかに尽きるようにも思います。そう考えてみると、出会いが人を成長させていくということの本意が理解できるように思います。

つまり人が出会っても出会わないのは学んでいないから、出会っても活かせないのは習っていないから。そうであるならば、ここでの学び習うということは全てのことを感得し敬い承る信仰のように全てのご縁を自らが尊び、それをよくよく内省して気づいた機会を忘れず、さらに自明を掘り出し、前へ前へとご縁を辿る新たな発見の旅を鮮やかに歩んでいくことのように思います。

ご縁に気づくということは、自分に気づくということです。自分に気づくということは出会い気づくということであろうと思います。

出会うことで人は人になっていきます。

出会いは人を人にするだけではなく、人は出会いによって人であるのです。
人であるときが愛そのものであるのです。

だから人はこの世の楽園を楽しみたい、愛したいと願うのでしょう。

出会いの尊さを実感しつつ、また新たな発見を遊び心で楽しんでいきたいと思います。
出愛ある日々に感謝しています。

 

心身の健やかな成長

人は身体が発達していくように、心というものも発達していくものです。

人が発達するということは、自然の法理の中で発展していくということですから自然と同じように根から養分を吸収し成長し開花し実をつけ種になるという経過の中で何に気づくか、何を生きるか、どう生きたかということを学びつつ調和していくのです。

調和というのはバランスのことですが、様々なことの中でどこが一番バランスの善いところなのかのコツを掴んでいくことで自然体に近づいていくのです。自然体というのは、身体と心の発達が健やかであるということです。

心身が健やかでいるということは、そうやって今という時事の中で自分らしく生きていけること。つまりは自分の生命を全うしていけるような生き方ができることのように思うのです。

みんな生まれてきたからには、初心があるものです。初心とは動機のことで、その動機がどのようになっているのか、どのようになっていくのか、それをどう成長させていくのは自分次第です。

有名な言葉に、京セラの稲盛和夫さんの言葉に「動機善なりか、私心なかりしか」がありますがあれは私になりに解釈すると常に初心を忘れていないか、初心を善に向けて育成しているかという自戒の念のように思えるのです。

動機というものは、物事を行うときの心のことです。

その動機をいつも今に対して正しくしていこうとすること、心を正して素直に取り組んでいこうとする誠の姿勢、そういうものが心を育てていくのです。心を育てていけば、自ずから身体もまた育ちます。そして身体も澄ませていこう、正していこうと生活を改めていくことでまた自ずから心も育とうとするのです。

決心という言葉があります。

あれは、心がどうしたいのか、自分の動機はどうしたいのかを常に今に正対し向き合い、その向き合った気持ちをやり遂げてあげることのように思うのです。心の動機に対して、身体が動いてくれればそこに健やかな生き方、清々しい足跡が残るのです。

人は生きていることで出逢います。

出会いは、心を育ててくれる素晴らしいご縁です。
心が日々に成長していくのを、初心伝承を忘れないことで見守っていきたいと思います。

始祖への糸を辿る

私たちは今を生きていますが、元々どのような由来で今があるのかということにあまり意識を継続することはありません。例えば、今までどのような生きものと生きてきたのか、今まで何を食べてきたのか、今まで何をしようとしてきたのか、そういうことも突き詰めずに生きていることがほとんどです。

それに自分の身の周りのことに囚われやすく、両親から祖父母、その先の先祖までは思ってもそのずっと以前がどうであったかということはあまり考えないものです。

しかし恵まれていることに私たち日本人には神話というものが残っており、自分たちの始祖がどのような目的で私たちを導こうとしたかということが今でも伝承されています。

これを創始理念とも言いますが、「はじめが何か」ということを大切にするということです。言い換えればそれを根ともいい、根は今でも創始理念に結びついて今の私達といった枝葉が出ているとも言えるのです。

根はどこで枝葉がどこかを知るということは、根を枝葉だと間違えないためにも重要なことです。自分一代のことのために自分を使う人と、身を捨てても根の養分を枝葉の繁栄のためにいきようとするのではその滾滾と湧き上がる根の養分を自分へ吸収していくことができません。

私達の民族の血の中には、始祖が決心した弥栄の理念があるのです。それを実現するために私たちは今でも発展と繁栄を願い日々に素直に尽力しているのです。穢れを祓い、禊し清め、いや栄えようと定めた真心があるのです。

私の思うかんながらの道ではこの始祖の理念を、清き明き直き心で実践することが何よりも理念を顕現していくことだろうと思っています。

人は考えませんが、なぜ今の自分が生まれていて今、なぜここで生きているのかを遡り、その理由を突き詰めればそこに理由というものがあることに気づけるものです。

その理由に気づけば、どうあればいいかは自ずと明らかになるように思います。

現在、日本のことを深めていますがなぜ世界に日本文化が必要なのか、私達日本人が世界で果たすお役目が何か、それをもう一度神話から見つめ直してみたいと思います。

始祖の動機が何だったのか、そして何を私たちが生成しているのか、つながっている糸を辿りその真意を確認しようと思います。

世界のはじまりは世界のおわりを意味します。世界が今もあるということは、必ず始祖があったということです。ここから世界共通の創始理念を紡ぎだして、世界へ正しく伝承できるものを掴みとりたいと思います。

日本を見直すためにも、まずは世界の発祥から考えてみたいと思います。

「話せる」ということ

アニマルコミュニケーターという職業があります。有名なのが、アメリカのハイジさんという女性です。この方は、小さい頃から動物と対話ができる力が備わっていましたが警察官を経て体調を崩したことから退職し、田舎で静かに暮らしていましたが何か自分が御役に立てることはないかとはじめたのがこの仕事だったそうです。

私も幼い頃から犬と生活したり、様々な動物と暮らしていましたから動物のことが大好きです。幼い頃の夢は動物園の飼育係であったのも、動物と意志疎通をとることが楽しかったからのように思います。今も身のまわりには常に動物や虫たち、植物がいますからそれだけで幸せを感じます。

先日、GTセミナーで講師をしてくださった赤ちゃん学会の麦谷綾子先生のお話の中で言語発達も日本語を学んでいく過程で日本語の母音や子音を身に着けていくことで最適化していくということがありました。つまりこれは人はもともと持っている能力を、次第に今の社会に適応するために力をそぎ落として最適化するという考え方です。赤ちゃん学会の講師のお話をお聴きすると、いつも次第に大人になるということは赤ちゃんの時の能力が最高で後は、次第に必要な力だけに削られていくということを仰っています。

しかし本来、人には様々な特殊な能力が赤ちゃんのときあって、それをそのまま残している人がいるというのも事実です。

このハイジとさんいう女性もきっとそういう持って生まれた力を残したように思います。人は何でも特殊な力を持っていてもそれをどう社会に活かすか、世の中の役に立てていくかということが大切であろうと思います。

そのハイジさんの著書「動物とはなせる女性ハイジ」には私の日頃考えて居る事との共通点が多くとても共感しました。一部を紹介するとこうあります。

「人間でも動物でも、相手の声を真摯に”聴く”には、こちら側の心が少しでも閉じていてはなりません。そのことを、いま一度、自覚しました。科学者たちは、脳内に言語と理解を司る前頭葉がないため、虫たちは考えることも理解もしないといいますが、決してそうではないと、私は思います。」

動物や虫たちにも複雑な感情があり、言葉は喋らなくても心はあります。八百万の神々という見方から物事を鑑みればすべてのカタチ在る無しに関わらず心はつながりの中で感じられるのです。

またこの一節も大変共感できます。

「動物と”会話”をするということは、人間をとても謙虚にしてくれます。動物たちは素晴らしい先生です。すべての動物~馬、鷹、犬、イルカ、アレチネズミからガチョウに至るまでの、ありとあらゆる動物たちが、考え、感じ、感情をもつ生き物だということを、すべての人間にわかってもらえること、それが私の希望であり夢です。人間たちが動物をより良く理解することを助けること、それが私の使命です。」

人は謙虚でなければ人間とも対話できません。自分の中に驕りが合ってどこか相手を分かった気になっていたり、何でも知った気でいたらそれが意固地になり傲慢な自分をつくりだしてしまうのです。

現代の社会で人間関係が世知辛く貧しくなったと言われたりするのは、このつながりの中にあるものに気づきにくくなってきているからです。謙虚さというものは、相手に心を開いていくこととです。

一円対話の中のオープンでいるというのも、平等でいるというのも、そこには自分がまず謙虚にならなければ相手を共感していくことはできないのです。きっと何かあると思えるかというのは、自分の中の謙虚さと向き合っているということです。

動物や植物などと対話するなどというと馬鹿にされることの方が多いのですが、何のために行うかということです。よりよく自然を理解していくことが、心を学び素直を研鑽し謙虚の実践になるということです。

発達障がいというのは、昔の力を遺しているということでしょう。

見守っていきたいと思います。

人の間の絆

昨日はある園で理念の確認をひとつひとつ行う中で、目指す子ども像についての話をしました。

子ども像というものは、未来の大人像のことであり、それは今の大人たちの課題になっていることや自分が生きてきた社会の中でとても大切だというものを子どもの時にできる限り体験させてあげたいと願う項目です。

そこには、思いやることができる子どもや、自分を大切にできる子ども、心身共に健康な子ども、豊かな心を持てるや自信を持てる子どもなどがありました。

その一つ一つをよく観てみたら、子どもを人に換えればいいだけで今の私達が人生で学んでいることと同じです。人はいくつになっても、社会を学び続けます。事件を起こしては、それをどうすればいいのかを共に考えて共に反省し、共に気づき共に乗り越えていこうとします。

いつの時代も、人は社会を学ぶ事に余念なく常に社会で学び続けているから存続しているのです。

人間は一人の大人として成長していくのに一つ一つ大切なことを学んでいきます。それは幼い頃から齢をとるまで何回もその機会に恵まれます。そうやって少しづつ出来事という尊い経験を通じていつまでも社会で生きていく力を身に着けようと学び続けるともいえるのです。

そしてその尊い体験とは、体験の周りにいる人たちの関わりによって変わっていきます。例えば親がいれば、体験したときに何をどうみてくれたかを実感し子どもは安心します。それを沢山持てばもつほど大人になったら社会を信頼し、安心していく中で自他を役立てる有効な人に育っていきます。

そうやって社会を実感することが人の幸せとも言えるように思います。

親はいつも子どもに体験をさせてあげながらそれを天と同じように見守り信じて学ばせるのです。

その子は見守られた体験を実感しながら巣立っていきます。子どもが巣立つとは、自分が一人で社会に出ても常に周りが見守ってくださっているのだからそのような見守りの社会を自分も独り立ちして共生していこうということを自分が実践していくということです。

体験し合う中で、その間に流れている大切な道理を学び、自然の理法を習得し、そうして人間という社会を生きる、宇宙の偉大な循環の一つになっていくのです。だからこそ私たちは常に体験を尊び、体験から学び、その体験を伝えていくことを怠ってはならないと思います。

そしてこれからも先も子どもたちが安心して社会で生きていけばいいかを学ぶためにも、先人と後人の間にある絆を結んでいくことだと思います。

このように社会を学ぶということは、共生や協力、生き残ること、親心や自然を学ぶということだからです。畢竟、保育や教育に観られる「育」という字は、活きることを行うということだからです。

その絆がいつも清らかであるように、愛があるようにと自らの実践を高めていきたいと思います。社会を見守る人たちを一人でも多く育てていくことが、人間愛の本質かもしれません。これからも絆を忘れないでいようと思います。

御蔭様の実践

私たちは様々なものを伝承してきたことで今の自分たちが生きています。今の私たちが日本人であることも、それは先祖から代々受け継いできたものが今でも存在していることの証明です。

例えば、神社でも里山でも民芸品であってもそこには形もありますが大切な心があります。自然と調和していこうとする心や、自然と共に暮らしてきた私たちの生き方が遺されているのです。そういうもの一つ一つの中に由来があり、その由来を辿ることで心は顕われます。

そもそも伝承という字は、「伝える」ということと「承る」という字で構成されています。これは伝える側とそれを受け取る側という字です。何を伝えて何を受け賜るのかは常に受け賜ると感じた側が将来、子々孫々へ伝えていこうとするはずです。

生きていく中で、自分の時代を生き切ろうとするときそこに後の人達へ託していこうとするのが人間です。その根本には感謝があり、今まで自分がたくさんの人達の御蔭で育ててくださったこと、多くのご縁の中で大切な心を戴いたこと、そういうことを恩返ししたいという気持ちからきているものです。

この恩返しをしたいという心は、常に私たちはつながりや絆の中に見出しているものです。

自分の体験したことは、体験させてくださった偉大な天や自然の見守りがあったことに感謝するのです。この世の全ての生きものや自分がその生そのものを体験できるのは、いつもそこにやっていいんだよという温かな優しい自然の親心があるのです。

そういう親心をいつまでも忘れないでいたいという気持ちが、伝承に籠められるのです。

やってきたことを伝えていくというのは、御蔭様の実践であるのです。日本の心に御蔭様の実践があることは素晴らしいことで、その御蔭様こそが理念そのものに転じているのです。

有難い日本の心に触れられるとき、そこに伝承していくものの価値に触れます。

私の仕事の使命をまた一つ発見しました。
有難うございます。

勧善懲悪の理法

昔から勧善懲悪の考え方というものがあります。

二宮尊徳の報徳仕法もそうですが、他にも孔子や仏陀も様々な聖人がその理法を説いています。如何に敵を持って敵を制すか、水を持って水を制すか、己に打ち克っていくための仕法を生み出しているのです。

人間というものは、頭があります。これは頭でっかちの方の頭のことで、頭は現実に起きることを起きていないうちに考えてどうにかしようか、こうにかしようかと走り回るものです。それと同時に心というものがあります。これは、真心からこうしてあげたいとかこうしようとか具体的な行動により実践していこうとするものです。

これらは昔から学ぶ方法として、王陽明の「知行合一」などでも語られ、知ることと行うことを一致させていくこと、一体の中で行うことこそが学問であることですでに説かれています。

とかく現代人は、起きている現実のことよりも先回りして知識を得るあまり行動の量がついてこない傾向があります。学校でも先に教えられてばかりいると、体験するよりも先に教えてもらったことで分かった気になってしまうと本当に学ぶ機会を逃してしまうものです。

今、来ているものを全て受け取るということは全てを本当に学びにしているかというその心がけが問われてきます。自問自答という言葉も、本来は今というものへの正対の如何によるものですから常に今を大切に心を遣った後に頭を使うように心がけたいものです。

話を戻せば、人は必ずその中に自我や私ともいう欲が存在しています。その欲をどのように制するのかに二宮尊徳は夜話でこう語ります。 「世の中の人はだれでも、聖人というのは無欲だと思っている。しかし実際のところ、聖人は大欲なんだよ。もっともその大は『正大』ということだ。賢人の欲がこれに次いで大きく、君子がこれに次ぐ。しかし、凡人の欲は、小欲のなかでもっとも小さな近欲にすぎんのだよ。学問はこの小欲を正大な欲に導く方法なのさ。 では大欲とは何かといえば、万人の衣食住を充足し、大きな幸福をもたらそうと望むことだ」と。

欲を否定して抑圧するのではなく、その欲によってその欲を制御するという考え方です。つまり私に言わせれば、その欲はやる気にもなり情熱そのものであるのだからそれ以上のことを優先していけばいいというものです。

私が行う理念構築は、二宮尊徳の報徳仕法に習って産み出したものです。これは等しく、自分のことで困窮する時こそ、より理念の方を確かに行うことで自らを常に正大にしていこうとする思想なのです。

人は、大変な時こそ、困窮するときこそ、勤めて理念を行うことではじめて私心から離れ己に克つことができるものです。理念とは、形式的なものではなく道そのものであろうと私には思えます。

礼記に「道(みち)を以(もっ)て欲を制すれば則(すなわ)ち楽しみて乱れず」とあります。

「道が観えるか?」常にその問いは、理念を行っている最中にこそ存在するものです。人はみなこの理念道を尊べはそこに真我との出会いもまたあるように思います。

ちょうど、もう一度今の仕事を整理している中で善悪一体、自他一如、その大自然の勧善懲悪の理法を直観しています。

 

道義

世の中には、筋道というものがあります。それを道義といいます。

例えば、天に照らせば感謝することや人に照らせば恩に報いること、そういう生きていく上で大切なことを学のが道義です。

一般的には、今の時代はあまり誰も叱らなくなったといいます。この叱るというものは何かと言えば、道義に反することをするから叱るわけであって意味もなく叱るのではありません。

昔は、親や先人たちが親身になって自分の将来のことを長い目で観てくれてよく叱ってくれました。私にも人生の岐路や大事な場面は、必ず善い師や先生、友たちが自分を間違った方向へと歩まないように叱り飛ばしてくれたものです。

そして今があるから、その感謝に報いたいと真摯に道義を重んじて生きたいと願うようになったように思います。

叱る方も叱られる方も、どちらもとてもそこに深い信頼関係があることに気づきます。叱られるということは、相手から叱られる自分でなければ叱られることもないからです。

自分がそれだけ叱られる自分をさらけ出して頼り甘えることができているということが一つ。そして甘えないで必ず学びモノにしていこうとする真摯な信じる姿勢があることが一つ。

つまりは、自立ということと自律ということを体現しているからこそ人との間に尊い信頼関係というものを一期一会の人生の中で邂逅していくことができるように思います。

長い目で観た時や経験から感じた時、そして誰よりも相手のことを思う時はその道義を説かなければなりません。しかしそれはとても難しいことであり、自我感情などを超えてその人そのものが自分であったらと思う必要があるからです。

もしも自分がその人だったらと思うなら、気持ちは分かるけれどならぬものはならぬとその筋道を正しく伝える技術もいるからです。

いくらコンサルティングをして経験を積んだとしても、その一つ一つの正対というものは常に真剣勝負ですから試行錯誤、錬磨研鑽していくしかありません。

自分が今、学ぶ必要があるのは何か、筋道に従って全て実践により掴んでいこうと思います。

たくさんの愛をいただいて育ててくださった方々のことを心に刻みその恩義に感謝と実践で報いていきたいと思います。

自分を知る旅

人は自分のことが分からなくなるとスランプになるものです。このスランプというものは、自分以外の周囲のせいにしているときに起こります。問題を自分のせいだと気づく時、はじめて人はスランプから抜け出すからです。

矢印を自分に向けきるというのは、逃げないと覚悟を決めることとイコールですから実際は口でいくら矢印は自分と言っていても実践するということはとても厳しいことなのです。

人は皆、一体自分がどういうものなのかというのは自分が一番よく分かっていないものです。いくら客観的に自分の感情や周りのことを冷静に分析し理解できるとしても、一番身近な自分の弱さがどのようなものか、そして強みがどのようなものかはそこに自分の我が入っているから分からなくなるのです。

スランプに入る時に感情に呑まれるのも、本来の自分が観えなくなっているからなのです。

本来は、信頼できる人に委ねて自分の強みと弱みを発見してそれを転じていくことでその両方を活かすこともできるのですが、本当の自分に向き合うのはいくら師や友がいても自分の問題ですからその正対も自分でやることになるのだから苦しいものなのです。

特に変化するときや、チャレンジするときは、今までの自分の認識をひとつひとつ削ぎ落としていく必要があるからどんな人でも必ずその時はスランプに陥ります。そうやって乗り越えていくことで自分の確固とした人生を生き抜く土台を築くのです。特に若さとはそういうものでしょうし、その時にどのような「心がけ」があるかで道筋が決まるのです。

話を戻しますが本当の自分がどういうものなかということを知るということは本来の自分の中に深く入っていき、そして強く探りとっていくものです。

人は環境の中で自分というものを理解します。現代であれば現代の中の自分であるし、古代であれば古代の環境の中での自分が存在するようにです。つまり本来の自分というものは、周りとのつながりの中でできている自分というものがあるということです。

しかしそれは単に外側の環境に影響を受けている自分であって本来の何からも影響を受けない根幹の自分、無中の有というものはまた別に存在しています。言い換えれば、環境に左右されることのない命としての自分のことです。

その命の元である自分がどのようなものなのか、それを向き合い認めるには限りなく素直にならなければなりません。しかし人は素直には簡単になれず、何かが自分の思い通りになると思っているうちは自分に気づくことはないようにも思うのです。

よくこの時のことを感じれば、人は思い通りにいかない中に、必ず思い通りにいかせたくないものがあるのではないかと私には思えます。つまり私には、思い通りにいかないときに思いどおりにいくのを邪魔している存在があることに気づきます。その存在というものは、本来の自分とのバランスによってそれが執り行われるからです。

自分を知るというのは、耐え忍び信じ念じる中に顕われてくるものです。長い時間をかけてじっくりとゆっくりと沁み渡るように自分のことを理解していくもの人生なのです。思い通りにいかないときの方が、自分のことをよく知れ自分のことを理解し、本来の自分と向き合っているともいえるのではないかと私には思います。

自分を知るのは苦楽がつきもので、この苦しみの中にこそ楽しみの中にあり自分がそれを望んでいるという。ここに自我一体、自我一如、正しい自己の認識を掴んでいく鍵があるように思います。

すべてにおいて楽も苦も無も有もすべて自分との正しい向き合いという実践を通じて味わっていくことでそれを学ぶように思います。

いつまでも永遠に流れる自分を知る旅は、果しない彼方の先にまで続きます。一つの旅の中でまた新たに出会った自分の中のすべてを受け容れ、その強みも弱みも日常の中でつながりに活かしていこうと思います。

学志一如~独りでになる~

昨日、不思議なことに自分の人生に大きな影響を与えるお寺に参拝することができました。このお寺は、赤山法華院といい円仁と非常に深い所縁があるお寺です。この円仁は日本人最後の遣唐使と言われていますが、世界でも有名なのはその旅行記です。

この円仁の記した「入唐求法巡礼行記」は、玄奘の「大唐西域記」、マルコ・ポーロの「東方見聞録」とともに、三大旅行記のひとつとされ、唐の国や仏教中心地の様子が鮮明に窺える古代史の第一級資料となっています。

特に他の2つのものは誰かに口述したものを記入させたのに対し、円仁のものは自筆で記したものです。その内容は、9年半の中国での滞在記ですが全てのことが思うようにいかない中で、それでも真理を求めて已まず命を懸けて人々のために学ぼうとする姿勢が感じられ、少し読んだだけでも心が震え魂が揺さぶられる思いがします。

帰国後は、円仁は天台宗の指導者として、比叡山において教えを伝授するだけでなく、当時文化の遅れた東北の人々の苦しみ悲しみを救おうとして、寺院の建立、土地の開発、産業の振興に力を尽くしました。青森県にある恐山菩提寺なども円仁が開基したものです。

訪問した赤山法華院はこの円仁を大切にしてくださった新羅人たちの建立した寺院です。中国で仏教が弾圧され、旅券も発行されず、帰国できない、すべてないもの尽くしの中で円仁にインスピレーションを与え、具体的な方法までを与え、そしてその道を諦めさせないで見守りその求める道を陰ひなたから助けてくださった所縁の場所です。

天啓というものは、いつもピンチの時こそその周囲に必ず有難い見守りがあるものです。すべてのものは一人でなるものではなく、独りでになるものです。その独りでになるものは必ずそれを助け導く周囲の存在があるということです。

同じように円仁もここで仏様に出逢い、その道を示されたのではないかと現地で改めて直観しました。この時の助ける方も助けられる方も、その人間の間にある思いやりや真心が共に天に通じたことを忘れまいと今でもその赤山禅院では大切に語り継がれていました。

この新羅人とは、韓国人の先祖であり言語のルーツを辿ればそこに至ります。その当時からずっと私達日本人と韓国人、中国人が交易をし、共に助け合ってきた歴史に改めに感無量の思いがしました。1200年前のこの三国間の関係と、今回、韓国の友人とのご縁で中国の方に導かれて訪問したこの機縁に不思議な感謝と感動を覚えました。

時代が変わろうとも、私たちが大切にしているものは何かを見失っていけません。

真理を求めて旅をすることも、その旅の中で大切に受け継がれたことも、如何に世界が変わろうとも変わらないものがあるのです。その変わらないものを大切に暮らしていくことが、真理を体現することになり、その脈々と受け継がれた血縁と記憶をこの時代にも復興させていくことが私達子孫の使命の一つではないかと思うのです。

今回の仏縁は本当に意義深いものになりました。

東北の巡礼から、縁を辿り、気が付けば赤山での教えに至りました。帰国後もまた辿りたいところが大いに増えました。まだまだ所縁を楽しんで、直観の赴くままに学び続けていこうと思います。

学志一如、実践を貫いていきたいと思います。