発展経過の体験

久しぶりに以前見たものを思い出し、その差を実感するのに「発展」というものがあります。この発展の「展」という字は伸びるや開くという意味があり、以前にも増して広がっていき高まっていくという言葉です。

例えば、中国の訪問でも気づくのですが以前私が留学していた18年前と比べてその量が変わったことはすぐに分かりますがその質も高まっています。それは建物だけではなく、文化、人間性、全てにおいて成長しているのです。

以前と比べて建物が建設ラッシュで創りつづけているのは同じです、しかしその質を観れば明らかに技術は進歩し、センスも高まっています。他にも、洋服から生活、文化、思想にいたるまで質が高まっていくのです。

この場合の質とは、洗練されていくというもので発展するということは同時に全てのことが磨かれてより高度なものを生み出していくという意味です。

人間の成長というものは、より質を高めていこうとするところに発展があるように思います。発展しているかどうかを観察するのは、量の方ではなく質を視るということです。

質が高まるというのは、どれだけ洗練されたか、どれだけ高尚になったか、時代の中でその人が磨かれ技術が磨かれ心が磨かれるというように確かな変化になった証なのです。

成長とは何回も同じことをしているようでも、以前よりもどれだけ質を高めたか、それは揉まれて練られて洗われるように一つ一つを開いていくことに似ています。

発達を実践するのに私たちもよく「DOSEEPLAN」でと言いますが、この発達の本質とは一つ一つの物事をよく観てそれをどう発展させたかということに尽きるように思います。そしてそれを促すには、「遣り切ったこと(DO)をよく反省(SEE)し改善(PLAN)する」ということで実現できるように思います。

何でもあの当時は無理だと思っていたことが、この国に来て実現しているのを観てやはり遣り切った後に確認することが大切であることを改めて実感しました。常に発達は「今は無理「と思えることが後で「実現可能」になっていることの連続なのです。今だけを見てすぐに諦めるというのは、発達を自ら先に否定してしまうということになるのです。如何に自分を信じ切るか、今が不可能でも今を念じて質を高めていこうとするのが、発達をし続けていく根本姿勢なのでしょう。

来ているものをどのような道に開いていくか、そしてそれをどう展じていくかは常に質を高める創意工夫こそによるように思います。量を与えてもらえる機会に感謝し、その全てを質に転じて生長を楽しんで見守っていこうと思います。

選ばない意味~人生の仕事~

選ばないということの考え方がどういうものなのかを書いてみます。

人はみんな自分勝手で自分が受け取りたいものとそうではないものを選り好みするものです。その時々の気分や状態で目の前にある出来事を裁いたり仕分けたりしてしまうものです。そうすると、本来、大切な意味があった出来事を自分の捉えた小さな範囲や自分の視ている世界にしてしまえば本質的に学ぶことが少なくなるのです。

カグヤでは理念ブックの最初の1ページ目に、こう書いています。

「浅き河も深く渡れ、低き山も高く登れ、本質を深め、独立自尊せよ」

これはカグヤの信条としてもっとも大切な徳目で、これがなければ学べないから何よりも尊ぶようにという戒めの意味を籠めて記されています。

学ぶということは、そもそも自分のレベルや自分の範囲で知ったことを言うのではなく、その学びとは何かということを実践の中に気づき自らをより高めて常に変化刷新していくことを言います。それは来ているものを選ばずにどれだけ謙虚に受け止めてその全てを感謝に転じたかという実践をすることになっているのです。

そもそも受け止めるというのは、来たものをあるがままの意味で捉えるということです。それは自分がどうかではなく、来たものは全部自分に必要なことが起きているとその全ての出来事や物事、そのご縁に深く感謝して自然のままに有難くお受けしていくことが本来の姿です。

例えば、病気になったとしてもそこに何かの意味がある。嫌な出来事が続いてもそこに何かの意味がある。そう思う人は、どんな出来事からも学びその教えが入ったことに感謝し、素直に成長し、正直に受け止めてその機縁を活かしていくことができるのです。一期一会の境地も同じく、人生の中で二度とない一度きり一瞬だけの掛け替えのない出会いだからこそ、自分の全てを出し切って清々しくしていこうというものも似たようなものです。

一昔前は実践が追い付いておらず、意味を感じきれずに色々と悩んでは選り好みしていたものです。しかし、選ばないという選択をしてからは日々に来たものを受け止めて自問自答し取捨選択して削り取っていくことで最期に残ったものが何かというものを待つ心境に入っています。

それは全てをチャンスだと思えるか、ピンチをチャンスに換えているか、自分が丸ごと信じているかを優先しているかが問われるからです。実は選ばないというのは、傲慢なのではなく選ばないほどに全てのことを意味があるとして素直に受け取ったのかと自問自答をすることで自らを玉にしていこうという覚悟のことです。

これには実は大変な積極的な力が必要になります。

なぜなら全てを直視し、その全てに手を抜かない、自分を出し切ったかということがモノサシになるからです。できそうなことをやるのではなく、常に一歩先、届かないところまで高めようと精進したか、日々挑戦したかと自分に問い続ける、そして自分が答え続けた結果をチェックしていく必要があるからです。

しかしそうやって人は自分を自分で育てていかなければ、独立自尊していくことはありません。それは環境に左右されるのではなく、自らが環境に流されずに言い訳を断ち続けて自らを磨き続けるということに他なりません。それはどんな日々も流さないようにしていくこと、言い換えればどんな出来事も先生であるということ、つまりは自然の先生が教えてくださったご縁を活かそうとする積極的な姿勢が自らの道を切り開き常に本筋から離れまいと自らに打ち克ち続ける真剣勝負をすることなのです。

出来事全てを自然の大先生からの有難いご指導だと受け取るならば、それにいちいち歯向かったり無関心でいることはあまりにも勿体ないように思います。自分に必要な学びは必ず自分に必要なものを全部今、この瞬間に足元に用意されているというのが私の持論です。

人生は自分のことを信じる事から、そして自分を信じるとは選択した今までを疑わないことから、そして自分の覚悟とはかつて決心したことの集積であることを自覚し最期まで諦めないことを言うように思います。信念とは最期まで守り切ったか、失くさなかったかというものだからです。

まとめると今を遣り切る、今に生き切ることこそが、選ばないということの大切な意味でしょう。日々、学ぶことだらけであること、日々、有難い教えを沢山いただくこと、その来ているご縁に心から感謝して、全身全霊で真心で取り組むことが御蔭様を有難うに換える大和魂です。

須らく、善き人生とは仕合った質のことを言うように思います。生まれてきて今日で13642日目です。残された人生も手を合わせて姿勢を正して、真剣に自分との仕合をしていきたいと思います。

そういう毎日こそが人生の仕事そのものであり、子どもたちに譲り見せられるような背中なると信じています。せめてもの感謝の現れとしての「選ばない」を今後も持続できる自分を育てていこうと思います。

芯の強さ~ミマモリングの芯~

人は逆境をたくさん体験することで強くなっていきます。この強くなるというのは、優しくなるということです。真の優しさというのは強くなければ発揮されないからです。

男の生きざまとして、強い男に憧れるものです。その憧れは強さへの憧れですが、単に喧嘩に強いとか権力があるとかが決して強いと定義しているのではありません。ここでの強さとは、どんな時でも優しくいれる強さ、相手のことを思いやれる強さのことを言うのです。

ラグビーの伏見工業の教育者で有名な山口良治さんの「信は力なり~可能性の限界に挑む」(旬報社)にこういう一文があります。

「『もう嫌だ。好きなことして、好きなこと言って、何もかもどうでもいい』そんな風に思う時というのは、自分のことしか思っていない。人間というのは、自分ひとりだけのことしか見えず、自分の外への回路を閉ざしてしまうと小さな弱い存在になってしまう。他人のことを自分のことと同じように考えられる、そういう優しさが人間を成長させ、困難な局面に立ったときにそれを乗り越えられる強さになるのだ。」

自他一体にいるというのは、その人のことを自分のことと同じように考えられるかどうかによります。つい人は自他を分けて、自分のことばかりに囚われてしまいます。私も忙しくなる時こそ、大変な時こそ、自分の身の上のことばかりを心配して初心や大義を見失いそうになってしまうものです。

そういう心のブレを芯の強さに換えるには思いやりや優しさで抜けるしかありません。

また信じるということは、言葉で書くほどに簡単ではなく意味を感じる力に比例しますから内省し自らを高めていき日々の道場で鍛えていくのみです。どんなに高望みしても、その日一日の真剣勝負の中で強く優しくありたいと実践していくしかないからです。しかしその有難い日々の機会に感謝しながら自学自習することや、前進できることが生きている歓びにもつながっているように思います。

山口良治さんの指導者としての姿勢は、本当に学ぶことばかりです。私達の掲げたミマモリングにも通じているもので、このようになりたいと思うばかりです。さらに本ではこう続きます。

「99%信じても、1%の不安があったらその通りになる。100%信じる事が大切」

丸ごと信じるということに生きざまを懸ける、そこに感動を共にする自他一体があるように思います。

通称「泣き虫先生」と呼ばれ、いつも感動しながら生徒と共に泣いて笑って感激していくことで強さも優しさもまた味わい深いものにしていくことが大切だと教えてくださっているようです。

「僕は涙というのは素晴らしいと思うんです。 みんな子供達に「負」をつける前に、涙が込み上げてくるぐらいの気持ちを出してやることによって、自分の思いが涙に変わっていくくらいの気持ちになってくれれば、もっと違ったものが生まれてくるんじゃないかな、伝わって来るんじゃないかと思うんです。  僕に涙がたくさんあって良かったなと思います。」

耐えて信じるものだけが持つ美しい涙を私も学び直したいと思います。自分の刷り込みに気づいたなら、迷わずに自分の方を変えるチャンスだと感謝を信に換えて心の芯を強くしていきたいと思います。

芯の強さこそが優しさであることを忘れないようにいたいと思います。
子どもたちを見守る信を育てていくのが私たちカグヤの強さの源にしていこうと思います。

烏骨鶏の育児~自然から学ぶ~

自然養鶏を実践しつつ、烏骨鶏の育児を観察して色々なことに気づきました。

もともと烏骨鶏は原種で改良をされていない鶏で、子育ての方法なども昔から変わらずにそのままです。誰が教えたわけでもなく、自然に子育てをしていく姿に本来の自然に沿って生きていくことの尊さを感じました。

観察したことを書くと、烏骨鶏は繁殖期に入る2月、3月の春先に卵を温めだします。夏の餌が豊富な時期にあわせて、また子どもは体温を維持できないので暖かい時期に成長するように季節に合わせて孵します。

卵は雌鳥たちが、数羽で身体を寄せ合って協力して温めます。うちでは5羽の雌がいるので数個の卵を絶妙に転がして交換しあったりして温めていきます。約21日前後の間は何も食べず、何も飲まずに少しも卵から離れずに抱卵し続けます。

外敵から襲われようと身動きせず、危険が自分の身に迫ろうとも命懸けて子どもを育てます。またその子どもを守るために、雄も雌も一致協力して守りつづけます。

そして卵から雛が孵り、小さな烏骨鶏が出てくればその子の世話をする雌鳥が担当します。子どももお母さんが誰かというのを認識していて、いつもぴったりお母さん鶏から離れません。

しかし雛には過酷で、生まれてすぐに死ぬのがほとんどで生き残れるものはそんなに多くありません。今年も5羽孵りましたが、結局は3か月で1羽しか生き残れませんでした。必死に生きているものだけを、本気で生きたものだけを遺そうとする自然の本筋には身を引き締める思いがしました。

そしてその1羽がだいぶ大きくなり、今では親鳥の半分くらいの大きさになりましたが親の後ろをついてまわって見て真似ている姿には微笑ましく感じます。先日も、止まり木に上っているお母さんを追って一生懸命に飛びますが高くて乗れず泣いていたらまたお母さんが降りてくるというように、子どもにあわせて自立できるように少しずつ子どもにあわせながらも自分たち大人の生活に合わせられるように見守っています。

自然界の子育てに、本来の子育てを学ぶことが多く、私達人間もきっとそうやって数々の動物から育児を習ったのではないかと思うのです。自然の中で生きていくということは、教えてもらわなくても活きる方法を知るということなのでしょう。

今の烏骨鶏の子どもの姿に、一生懸命に生き切ること、本気で真摯に試練に立ち向かうこと、そこに自然界の摂理を学べます。自然界の弱肉強食とは力が弱いから死に強いから生き残るのではなく、自然は常に本気でいのちを遣い切るものだけを長くこの世に遺そうとしているように私には観えます。

自然養鶏を実践しながら、観察して気づくのは自然の中の教えそのものでした。

烏骨鶏の育児の方法は、本当に現代の私たちに大切なことを教えてくれます。この体験を、世の中に還元していきたいと思います。

 

天才児

障害児という言葉があります。今では障害の害の字が合わないからと障碍児としています。

私は前から何を持って障害かということについては色々と自分で調べてきました。誰が言いだしたのか、そして本当にそういう意味かということをです。

かつては「障礙」とか「障碍」と書いていたものが戦後の漢字制限で「礙」「碍」の漢字が表外漢字になってしまったため、「害」という漢字を宛てて「障害」と書くことが広まったということや、また保育施設などに補助金を出すためには特別な子どものための費用とはできず、障害児だと出せるからという理由で省庁の担当者が名目をそうしたこと、ほとんど本質的ではない安易な理由でその言葉の定義が書き換えられたことに憤りを覚えたものです。

その後はヨーロッパへ視察し、保育現場で問答したときも日本で使われる障害という意味と世界で使われる障害という意味が異なることも知りました。大前提で使われる人間の尊厳や人権という言葉の意味も日本とヨーロッパでは使われ方が異なります。子どものためにという言葉も、大人主体で使うか子ども主体で使うかで異なります。

先日のドイツ視察でも、向こうでは障碍児のことを天才児であると定義していました。例えばIQが高い子どもも障碍児ですし、アスペルガーやLD児と呼ばれる子どもたちも障碍児、もしくは非常に何かに突出した能力を持つ子どもも障碍児ということで天才をつぶさないようにと丁寧に配慮します。

しかし海を渡って日本の現場を見ての認識は、普通のことができない子ども、何か病的なものを生まれながらに持つ子、気になる子というような何かネガティブな意識を持っている人が多いように思います。天才から問題に換わるのです。

だから配慮の仕方も、天才を扱うのだから天才に接するためにどうするかという配慮の考え方と、問題を扱うのだから問題に接するためにどうするかという配慮の考え方という配慮する側の考え方に相違があるのです。

そもそも動物と話ができるとか、直観的にイメージで理解するとか、透明なセンスを持っているとか、心の世界を映せるとかいったことは、その人の役割や天命から生まれながらに必要だと自分に持たせている能力です。それはその人の徳が、世の中の役に立てるようにと自らが選んで発達しようとしているものです。

それを阻害するのは何かといえば、周りの人たちの刷り込みではないかと私は思うのです。矢印を相手へではなく自分へと向けてみれば、平均的ではないものを普通ではないとし、それをネガティブに捉えるか、それをポジティブに捉えるかは、社会を形成していこうとする私達大人たちの生き方、あり方、工夫が常に問われているだけです。

思いやりのある社会を創ろうとしたら、そういう多様な能力を持った人たちがそのままでもいい環境を創りだそうとすることが本当の豊かさにつながっているはずです。

障害になっているのは、子どもの方ではなく、自分自身の先入観や固定概念が障害になっていないかと内省することこそが配慮の本質ではないかと私は思います。異なっている能力そのものを引き出し、認め、活かそうとすることに社会の真の価値があるように思います。

障碍児については全ての子どもが天才だと配慮していくことが、私たち大人の固定概念を取り払うことになるのでしょう。気になる子がたくさんいるということは、それだけ天才児がたくさんいるということです。そして天才が良い悪いではなく、普通が良い悪いではなく、ただその天が与えた才がある、そして人にはそれぞれお役目という差異があるのだと認め、大切にしていくのが自然の見守りと同じような視点の姿勢に立ち返ることです。

多様な自然がイキイキするように、それぞれの役目という持ち味を活かすためにこの障害という先入観と言葉の定義そのものを発達を通じてひっくり返していこうと思います。ミマモリングプラスの、差異分析も、天才児の意味もそこに籠められています。

自発

自発というのは誰かのために自ら進んで何かを考動することと言います。

これは自分の中で何をすることが役に立つのかを自覚するから芽生えていく生長のことであろうとも思います。全ての生きものは、この自発性を備えているもので自然の中を見渡していても自らが何をすることが善いのかを知らない生きものはいません。

しかし人間は何かを教え込まれ刷り込まれることで我慢を氏そして我儘になることでこの自発性というものが失われていくように思うのです。

そもそもこの自発の発とは何かと定義すると、私の中では本当の自分の心の奥底から発することをいいます。それは呼吸をするように、また血液を循環させるように、または昨日書いたような感謝の本体から発信されてくる発動のことです。

難しい言い方になると、無や空から突然起こってくるようなイメージのものですがこれが自発したということになるのです。直観などという言い方も近いかもしれませんが、言葉で説明するには限界があるのもこの自発という真意です。

自発性というものは、見守ると常に同居しているもので子どもを丸ごと信じてそれをどのようにすれば役に立つかを考える事です。その人がどうしたいのかをよく観て、それを実現するにはどうすればいいかを具体的な仕事で活かすことのように思います。

私達の会社でも発酵というテーマで取り組んだり、日々の記憶や記録を誰かのために発信したりするニュースに取り組み実践するクルーがいますが、すでにその取り組みの実力は群を抜いて発揮しています。最初は分からないままに他動によって始めたにせよ、それを信じて積み上げ取り組む中で自発性というものは引き出されていくものです。

自発性というものは、互いに信じて合っている中で育まれるものなのかもしれません。自発性を持つもの同士は信じ合っているものだから、その信が顕われることが実力というのでしょう。将来のことを信じ、その人が最終的にどのようになりたいかをよく観て、その人に今、必要なことを見守りながら一緒に取り組んでいくということ。その学びの尊さを感じます。

何よりも今の集積を通して、自分が御役に立てていることを日々に自覚するまで遣り切ることが、自発の種に息吹を与えることなのでしょう。そうしてそれが共生の原理であり、人間の社会が持つ「つながり」を味わえる極楽の境地かもしれません。

集団で生きることで発展してきた私たちの祖先は、何を大切にしてきたのか。今回の連休のテーマにしています。

何を与えていくことができるのか、与えられたものが何か、常に自問自答して自発に気づいていこうと思います。

新たな挑戦~原種の旅~

昨年は、稲が穂イモチ病にかかり収穫がうまくいきませんでした。今年は古代米(紫米)に挑戦しています。この古代米とは、稲の原種である野生稲の特徴を受け継いでいる米のことです。

もともと野生型の稲の種子は褐色や黒紫などの色がついているものが多いのですが、人が栽培することによって無色(白色)の種子へと変化していったと言われています。

このことを「栽培化」といって現在の稲は、この栽培化によって白く粒そろいで栽培しやすい性質になってきたとのことです。野生化と栽培化の差とは、どのようなものでしょうか。その差を看取る予定ですが違いを視るより同じものを探したいと思います。

以前から野生種をそのままに育ててみたいという気持ちもあり、今回は野生種を野生種のままに育てていくための挑戦を自然農の畑で行う予定にしています。

畑の一部に、水が溜まっている場所があり、その場所をうまく活用してそのまま野生で育ててみるときと、庭のビオトープで栽培しているものと比べてどうなるかも見ものです。

昨年の失敗を、今年のテーマに換えて学んでいくということは楽しいことです。ちょっとやそっとではへこたれないというものは、稲や米、その他の野菜と同じで、曲がりくねっていても最終的には天に伸び、実をつけ、種になるのが自然です。

自然農では、曲がっていた方がより生命力が強いと言います。曲がりくねるのは、思った通りではなく順応してでもへこたれないで諦めないで遣り切ったいのちがそこにあるからでしょう。

今年の古代米は、原種と栽培種というものを考える上で興味深い時間を過ごせそうです。

古代米は、一般に、生命カが極めて強く、荒れ地で無肥料・無農薬でも丈夫に育ち、干ばつ・冷水などにも強い性質を持つと言います。

そもそもの姿から、現代の姿を学ぶことは、種のグレートジャーニーを味わうことです。久高島に訪問してルーツを辿った旅も、今年の挑戦で実になっていきます。人生にはまったくの無駄がない。それを感じつつ、新たな挑戦を楽しみたいと思います。

 

知ると分かるとは

物事を知るということは大変難しいことです。そしてそれを分かるようになるのはさらに難しいことです。

例えば、物事を知るというのは簡単に分かったから知ったというわけではないことがわかります。表面上のところだけを頭で理解していることと、それをどれだけの深さで受け止め受け容れ自分の体験や経験で知るというのは一緒の意味ではありません。

情報化社会の中で、頭の中で別の世界を持っている人たちが増えています。バーチャルとリアルがごっちゃになり、この知るということができない人たちも増えているのです。

知るということは、「経験を積む」ということです。その経験を積むというのは、こういうことだろうと単に知ればいいわけではありません。本来の知るというのは、そこから全世界の問題を見抜いたり、物事の本質を掴み取ったり、その知ったことから自分の世界での真の役割を見出していくことや、世界の苦しみを共感し自分を磨いていくこと等々、知るというのは自分の中で真実を知るということなのです。

そして分かるというものが何かといえば、これらを「受け止め・受け容れる」ということなのです。ちょっと知っただけで分かったとなるのは、真に経験を積んで実践をしているのではありません。それは単に知ったことを分かった気になっただけなのです。

分かるという行為は、大変難しいもので分かるというのはそのものの問題をありのままに受け止め、自分の我をも捨てて受け容れたときに分かったと言えるからです。分かった気になっているのではいつまでもバーチャルの世界から抜け出せません。現実を受け容れるというものは、全ての問題に逃げずに直視する必要がありそれをしてはじめて分かることができるからです。

ひとたび、真なる知ると分かるができればその人はそこから自他一体の共感、そして理念の実践、伝道していくことの3つのことが開始するのです。

世の中を変えたいと願う心は、以上の3つの実践に必ず辿りつくように今では思います。物事を知り分かるためにも、本当のことを知るための真摯な精進、本当のことが分かるための本気の内省を継続していきたいと思います。

自然の法理 ~生長の本質 じっと待つ~

植物や木々、身近な小さな虫たちから驚き、学ぶことが沢山あります。なぜだろうと観察を続けていると、いつまでも学ぶことがあります。子ども心はいつも不思議さと好奇な学びを自分に与えてくれます。

大人になると知識で分かった気になり頭でっかちになって何でも知っている人が増えていますが、本当は頭でっかちというのは日々を新しくしていくよりも過去のことを組み合わせてやりくりしやり過ごすことになるのかもしれません。昔どうであったかよりも、勇気を出して今、どうであるかの方が人生は豊かで楽しく感動で変化を味わい過ごしていけるように思います。

例えば、植物たちは時機というものに適応していつまでも準備しています。このいつまでも準備というものは、一見、あまり動きがなく、何もしていないように見えますがその実、如何なる時も着実に力を蓄えてそのタイミングを待つのです。

庭のベランダの植物や野菜たちも、誰が教えなくてもそのタイミングを知っていてじっと養分を蓄え今という時に合せて自然に伸びていきます。それは実をつけるときも、種になるときもじっと待ち続けていることは共通しています。

そしてこのじっと待つというのは何もしていないわけではありません。
一瞬一瞬の今を全身全霊で代謝しているのです。

人間は止まっているときは休んでいると思ってしまう刷り込みを持っていますが、植物には止まっていることなどはありません。常に止まっていると思っている冬枯れの時でも、根しか残っておらず土の中にいるときでも、そして種となって春を待つときでも、命懸けで生きて、捨て身の覚悟でいのちを放ち、そして全身全霊全て出し切って日々を新たに今を生き切るのです。

人間は強欲ですからじっとするということが分からなくなったのかもしれません。植物たちのようにあるがままでいれば何もしていないように外から見えたとしても、その実、どれだけ真剣に今を生き切るかということでそれは時機を待つという考えもあるように思います。

人生を自然で捉えるならば、種から芽が出て、花が咲き、実をつけ、そして他の養分になりまた次世代の種になる。その生きるプロセスそのものにいのちの循環を怠るという意味が分からないほどにどの瞬間もじっと行い尽くし精一杯遂げるのです。

どんな花をつけようとするかを想うことも大事なことですが、今がどれだけ全身全霊でいるのかということが自然なのでしょう。自分がどんな種で生まれてきたのか、それはいのちが知っているのだから天に委ねて真摯に生き切ることで自分がどのような花になり実をつけるかもどうせ次第に明らかになってきます。育てる楽しみもまたそこにあり、自分もどんな花が咲くのか、そして実になるのかをワクワクドキドキしながら今を遣り切っていくのが自分らしく生きることでしょう。

誰かの花を求めたって誰かの実のようになりたいと思っていたって、それはそうなるわけではないのです。松の木は梅の木にはなれないように、自分の持って生まれた天命はどのようなものであるのかは今を生き切る先に存在しているからです。論語の五十にして天命を知るとあるようなものも植物の一生と照らして考えれば自明の理が存在します。

つまりじっと根気を据えて今を全身全霊で遣り切るというのは、どの瞬間を切り取っても全身全霊であることを自分が自分で尽くしている状態です。言い換えれば、「日々を新たに自己を改善し、今までの刷り込みを取り払うために実践をし、誠実に真心を籠めて周囲に尽くし、感謝で自分を生き切る」ようなものがじっと待つです。

いつも感動するのは植物たちは、それを自然にできています。

一見、変わらないと思ってしまうのは何か焦ってしまう気持ちがあり種なのに種の時に種をせず、早く早くと花を求めてしまう刷り込みが自分の中に存在するからかもしれません。自分を含めた誰かの評価が気になるのは、こうなってほしいといった欲望に自分の志や芯が揺らいだからかもしれません。

じっと待つ植物たちの生きる姿勢に、自分自身が恥ずかしい思いがします。早くそのものをそうしようと思う自分の焦りは、無理を通すばかりで子どもたちに不安を与えて生長を抑制してしまうように思います。どんな時でも子どもを見守る真心に曇りを持ちたくないと改めて自分を厳しく戒めたいと思います。

生長していくことの本質は、時機に備えて素直に謙虚であることなのは自然が教えてくださいます。植物たちとともに、同じ太陽の下、素直に明るく清々しく今を大切に日々を新たに生きていきたいと思います。

 

自然法則の発見

自然農に取り組む中で、ある不思議な法則を発見しました。

もともと自然はそのままにするのですが、人が蒔いたものや人に触れたもの、人が必要としたものにはその人の絶えない関心と応援が必要となるということです。

自然界に育つ作物は、人との関わりがあろうがなかろうが自由に野生化した中で生きています。野生化した中でそのまま育っているものは人間が関わらなくても自然の愛を享受し生きているのです。

しかし人間がひとたび関わってしまうと、そこに本来のそのもののいのちの循環の中に人間が入り込んでしまうのです。もともと人間との関わりがなかったものが、人間と関われば、人間との関わりを通して強くも、また弱くもなってしまうのです。

例えば、野生の花を切り、生けたとしてもそこには小まめな水替えや関心がなければあっという間に腐ってしまいます。また、作物も蒔いたり植えたりしたとしてもそこに見に行き負けないように支えなければ同じく天候や虫、雑草に負けて枯れてしまいます。また、野生の子猫を拾ってきても、人とのつながりができたらいつも気にかけ育てていかないと弱って病気になってしまいます。

このように人間と関わるということは、人間との関係が必要になるということです。

つまり関係を結びということは愛を結びことであり、ひとたび愛を結んでしまえばそのものはその愛の影響をとても大きく受けてしまうということです。

この時の愛の定義とは、関係のことであり、ひとたび関係を持てばその関係の中で愛が強くもなり弱くもなるということです。愛が弱くなればそのものの生きる力も弱くなり、愛が強くなればそのものの生きる力も強くなるのです。揺るがないほどになれば、そこに愛を疑わない境地に入るのかもしれません。

そのために絶えず見守るということは、常にそのものの持つ完全体を信じることと同時にそのものを丸ごと自分を捧げて応援するという関係を結ぶのです。

言い換えれば、愛を循環させていかなければ育ち合えないのです。

気づきませんでしたが、全ての関わりあうものたちはお互いを常に見続けると同時に応援し合っていたのです。それが関係を結ぶということであることに、人生ではじめてはっきりと気づくことができました。

ただ分かったからといってここから技術に昇華したわけではありません。
揺るがない愛とはどういうものは、身近な自然から学び直したいと思います。