自然の篩

私たちは無意識に様々な出来事の中から選択してきたことで今につながっています。それは諺にもある「篩にかける」ということを行っているように思います。この篩というものは粉・砂などの細かいものを網目を通して落とし、より分ける道具のことです。

この篩(ふるい)というものは、古いと同じ韻ですが「ふる」は「経る」からきているものです。経年していくなかで、朽ちず残るものが篩にかけられたものともいえます。そしてこの篩は民具の中でもとくに重宝され、長く人間に用いられてきたことが分かります。

篩にかけるというとき、本当に遺るものだけを選別するという意味になりますが篩にかけられるとなると、本当に遺るもの以外は選別されるということになります。

自然や時間というものは、自然に適っていないもの、真理や道理、法理に合わないものは自然淘汰していくものです。この自然淘汰とは、篩にかけられることであり理に適っていないものは消えていくということになります。

その篩は、人生においては死して名を残すものであったり、徳であったり義であったりと、それまでの体躯はたとえ寿命で失われても篩にかけられて遺ったものがカタチとなって顕れるのです。

長い目で物事を観るとき、現代まで古から遺ったものは自然淘汰の篩にかけられても消えなかったものです。それは人間も同様に絶滅していないのだから篩にかけられて遺った存在だともいえます。

しかし短期的に物事を観るのなら現代にあるものは自然淘汰されるものばかりであり、遺らないとわかっていてもそこにしがみ付いてしまうのはこの篩にかけることをしなくなっていくからではないかと私は思います。

身のまわりをよく見つめ、何百年も続くものは何があるのか、そしてすぐに消えてなくなっていくものは何なのかと、自然淘汰の理をみつめていけば自ずから自分が篩にかけられないように自らの篩を身に着けていく必要があると私は思います。

私が取り組んでいる自然農の古民家甦生も初心伝承も、私にとっては自然の篩です。

引き続き、信念をもって時代のなかで篩に残るようなものを子どもたちに譲り遺していきたいと思います。

 

努力の楽しさ~道楽の仕合せ~

聴福庵の離れのお風呂がほぼ完成し、一緒に井戸を掘った仲間たちにも体験してもらいました。苦労が報われる瞬間というか、努力してきたことが実る仕合せを感じながら皆と味わい深い時間を過ごすことができました。

振り返ってみると、長い時間をかけて手間暇をかけて一つ一つを丁寧に丹誠を籠めて取り組んできたことは努力だったように思います。その努力は、決して報われようとして取り組んでいた打算的な努力ではなく、本心から家が喜び、子どもたちが日本の伝統文化に触れる仕合せのためになるようにと祈りながら取り組んできた努力です。

寝ても覚めても、ああしたらいいのではないか、こうしたらいいのではないかと工夫して失敗しても上手くいってもいかなくてもそうか、次はこうしたらいいのかと葛藤しながらも楽しかったように思います。

この時の楽しいは、決して感情が楽しいというものではありませんでした。どちらかというと没頭していくというか、そのことだけに集中して苦労を厭わないというかんじでしょうか。

つまりは苦労の中にある楽しみとは、単なる嬉しい楽しいなどいう日ごろに感じているものとは異なり奥深いものです。つまりは苦しみそのものの中にいる仕合せというか、試行錯誤しながら寝ても覚めても取り組んでいる努力のことをいうのではないかと感じるのです。

努力といえば、王貞治さんのことを思い浮かべます。一本足打法の猛練習の努力のことは有名ですがこういう言葉を残しています。

「努力しても報われないことがあるだろうか。たとえ結果に結びつかなくても、努力したということが必ずや生きてくるのではないだろうか。それでも報われないとしたら、それはまだ、努力とはいえないのではないだろうか」

というものがあります。後半の「それはまだ、努力とはいえないのではないか」という言葉は、努力の本質を語っていることが分かります。

努力とは血がにじむようなものであり、また自分自身を削り取るようなものであることがわかります。しかしそれを頭で理解すると、ただ苦しく辛いだけのように感じますが実際はその苦しみの中にこそ真の楽があり、それが「努力の楽しさ」というものです。

つまり努力が楽しいと思えてこそ、本当の努力になっているということ。

努力そのものや努力することが楽しいとなっているのなら、先ほどのように寝ても覚めてもになるのです。この寝ても覚めてもこそが、楽しいのであり感情的には葛藤や苦しみがあったとしてもまた寝ては朝起きたらあの手があるやこの手があるなど、考えるのを已めずにまた挑戦しているということです。

人生は、この努力の価値を知る者だけが本当の成功を知るのかもしれません。成功者になりたいのではなく、努力することの仕合せを知ることが努力の跡に顕れる奇跡に出会う方法かもしれません。

苦労が報われるのは、それによって努力できた価値を再確認するからです。努力を振り返ることは仕合せを感じ直すこと。真苦楽こそが道楽のことです。引き続き、子どもたちのその努力の価値を伝道していきたいと思います。

壁の定義

人は挑戦すれば何度でも壁にぶちあたります。壁があるから生き方が決めり、壁によって自分を磨き鍛えてもらうことができます。しかしその壁といっても壁にはその人の生き方が関係しますから壁という同じ言葉を使っても壁の定義が異なるのです。

例えば最初から諦めて何もしようとせずにいればそれが自分の限界として壁ができます。その壁はやろうともしないことで、どんなに小さなものでもできなくなってきます。またできることだけをやっていて新しいことに挑戦しなければその壁はいつまでも乗り越えられない壁として自分に立ちはだかってきます。失敗を恐れ、評価を気にしては、最初から挑戦すること自体を諦めればその壁は停滞の壁になります。

しかし挑戦する壁は、先ほどの停滞の壁とは異なります。メジャーリーグで現役で挑戦を続けるイチロー選手はこのような言葉を語っています。

「壁というのは、できる人にしかやってこない。越えられる可能性がある人にしかやってこない。だから、壁があるときはチャンスだと思っている」

ここでは壁という認識が諦めからきている壁ではなく、壁は乗り越えられるからあると挑戦を諦めないことから実感しているチャンスという表現を使います。つまりは、前提として挑戦しようとして感じている壁は必ず乗り越えられる壁であるという自覚があるということです。

事物に受け身になっている人は、先ほどの停滞の壁に苦しみます。しかし主体的に事物に挑戦する人は挑戦の壁に苦労します。どちらがいいとは言いませんが、明らかに壁を善いものとして捉えているか、壁を消極的に捉えているか、そこに生き方の差が出るのです。

この生き方の差というものが、どのような壁をつくっているか。一度、立ち止まって見て壁という言葉の定義が自分がどのように捉えているかで自覚を持つことが大切なことのように思います。できることしかしないという言葉も、前提に挑戦しようと取り組めば壁はその人を磨いてくれる重要な砥石になります。

壁を乗り越えるために、できることをやるのは挑戦を続けるということです。引き続き、壁を味わい壁を楽しみながら、その壁の向こうがどうなっているのか好奇心にワクワクドキドキしながら子ども心でピンチをチャンスに換えていきたいと思います。

徳の甦生

今年の一年もまた、温故知新や復古創新に取り組んだ一年になりました。一般的に古くなったものを新しくしていくのは当たり前のことですが新しいものをわざわざ古くしていくというのは当たり前ではありません。

時代的には、技術は進歩していきますからどんどん新しい素材や仕組みが席巻していきます。そうなると古い素材や仕組みが対応できませんから、新しいものに換えざるを得ません。

例えば、昔使っていたポケベルやPHSに戻そうなどといってももう環境がなくなっているのだから使うことができません。それに今更昔の技術に回帰してもメリットもなくなっています。

特にIT技術の革新は早く、ほんのちょっと前まで主流だった技術があっという間に古くなっていきますからこちらの柔軟性や順応力が重要になります。人工知能になればさらに発展の速度は加速するはずです。

これらは古いものを壊して新しくすることです。

しかし先ほどの新しいものを壊してわざわざ古くするとはどういうことか、それは見直しや見立て直しをすることで本来の智慧を甦生することです。そしてそこには職人の技術が必要になります。

つまりは先ほどのIT技術とは異なり、新しいものを改善し見直すにはそれ相応の智慧を持つ人たちの技術が求められるのです。

これは仕事でも同じく、新しいプロジェクトを創るのは簡単ですが過去のプロジェクトを新しくするためには経験や智慧や改善できる技術が必要になります。それは敢えて新しくしない技術といってもいいかもしれません。

昔の智慧を現代に復活し甦生させていくにはどう見直すか、どう見立てるかといった改善の目利きが必要です。そこには思想や哲学、さらには自然観や歴史観、死生観など様々な生き方や生き様、もっと言えば文化に精通していなければできないからです。古民家甦生でいえば、数々の伝統の職人さんたちと意見を合わせながら最適な技術をそこに施していくことで新しいものが古くなっていくのです。そこには職人技術いった伝統の智慧が凝縮されます。

技術といっても、この職人の技術は英語でひとくくりに語られるただのテクノロジーではなく心技体の合一した人格が備わっている叡智の伝統技術です。つまり新しいものを古くするには、人格に伴った伝統技術が必要になるからです。

そしてその伝統技術もっと別の言い方にすればそれを「徳」ともいうのかもしれません。

「徳」が備わってこそ本物の技術を持ち新しいものを古くすることができると私は思います。それは様々なものをモッタイナイと感じる心、ご縁を繋ぎムスブ心、子孫のことをミマモル心、清らかに澄まされたマゴコロ、など、日本の文化を体現する徳が智慧として技術に還元されるということです。

今回の聴福庵の離れの復古創新は、新しいものを古くした一つのロールモデルです。引き続き、子どもたちのためになるような徳の甦生を実践していきたいと思います。

いのちの物語

古民家甦生を通して古いものに触れる機会が増えています。この古いものというのは、いろいろな定義があります。時間的に経過したものや、経年で変化したもの、単に新品に対して中古という言い方もします。

しかしこの古いものは、ただ古いと見えるのは見た目のところを見ているだけでその古さは使い込まれてきた古さというものがあります。これは暮らしの古さであり、共に暮らした思い出を持っているという懐かしさのことです。

この懐かしさとは何か、私が古いものに触れて直観するのはその古いものが生きてきたいのちの体験を感じることです。どのような体験をしてきたか、そのものに触れてじっと五感を研ぎ澄ませていると語り掛けてきます。

語り掛ける声に従って、そのものを使ってみると懐かしい思い出を私に見せてくれます。どのような主人がいて、どのような道具であったか、また今までどのようなことがあって何を感じてきたか、語り掛けてくるのです。

私たちのいのちは、有機物無機物に関係なくすべてものには記憶があります。その記憶は思い出として、魂を分け与えてこの世に残り続けています。時として、それが目には見えない抜け殻のようになった存在であっても、あるいは空間や場で何も見えない空気のような存在になっていたとしてもそれが遺り続けます。

それを私は「いのちの物語」であると感じます。

私たちが触れる古く懐かしいものは、このいのちの物語のことです。

どんないのちの物語を持っていて、そしてこれからどんな新たないのちの物語を一緒に築き上げていくか。共にいのちを分かち合い生きるものとして、私たちはお互いの絆を結び、一緒に苦楽を味わい思い出を創造していくのです。

善い物語を創りたい、善いいいのちを咲かせたい、すべてのいのちを活かし合って一緒に暮らしていきたいというのがいのちの記憶の本命です。

引き続き、物語を紡ぎながら一期一会のいのちの旅を仲間たちと一緒に歩んでいきたいと思います。

経営視線~一緒に働くということ~

人にはそれぞれに自分の見ている視野というものがあります。その視野の広さによって、どこまで物事が観えているかがはっきりしてきます。そういう人たちが集まって集団や組織をつくるのだから、その視野がどのように共通理解されているかで協力の仕方もまた変わってくるものです。

例えば、会社組織でいえばよくバラバラになっている感じがする組織は個々が自分勝手の視野や視点で自分の仕事のところだけをみて働こうとします。目の前の作業ばかりに追われ視野が狭くなってくると余計に会社全体の目的や目標を見失い、自分だけの仕事に没頭しているうちに他を邪魔し自分だけの仕事で良し悪しを判断して非協力的な雰囲気を出していきます。

本人はちゃんと仕事をしていると思っていても、それは自分の小さな狭い視野でのことですから笑えない話ですがひょっとすると仕事はできても会社が潰れたということにもなるかもしれません。

人は自分だけの視野に閉じこもったり、何のためにということを思わずに部分最適ばかりに目を奪われると視野が狭くなっていくばかりです。

そうならないためには日ごろから視野が狭くならないような仕事の仕方、働き方が必要です。言い換えれば視野を広く働く仕組みや訓練が必要だと思います。例えば、全体最適を目指し、なぜ会社にこの仕事が必要なのか、全体的に何を目指しているのか、常に今の自分が取り組んでいることを、長い目で考えたり、さらには広い視点で本質と対峙したりしながらみんなと協力し合って全体最適になっているかと常に視野を広げるフィードバックを求め続ける必要があります。

バラバラではないというのは、個々の勝手な視野で部分最適に行うのではなくみんなで一緒に広い視野を持ち合って一緒に取り組んでいくということです。別にみんなで同じことを一斉にやることが一緒にやることではなく、みんなが同じ目的を共有し同じ視野で一緒に取り組んでいくということがバラバラではないということです。

視野が狭くなるのは、自分自身に囚われたり評価を気にしたり、保身やプライドや我が邪魔していることが大いに影響があると思います。自分の心配をして全体を意識しなくなればそれは視野が狭くなります。協力しやすい風土や、助け合いの風土が自分の視野の狭さによって作業に没頭し閉じこもったことでぶち壊されていることを自覚する必要があります。先ほどの自分の仕事はできたけど会社が潰れたは、言い換えれば自分の作業はできたけどみんなの働きには貢献しなかったということになりかねません。会社やトップが求めているのは部分最適ではないことは明白です。そうならないように「一緒に働くときの働き方」を新たに身に着けなければなりません。

ここで最も大事なことは「常に視野を広げるような働き方をすること」でありそれは自分の心配よりもみんなの心配をすることや、会社が目指している大きな目的や理念の方をみて、本当は何をすることが本来の仕事なのかと常に周囲と一緒に思いやりをもって取り組むこと。つまり常に視野が狭くならないような働き方をすることではないかと私は思います。

目的も本質も知らずに作業をするのは、効率優先結果優先、評価優先で刷り込まれてきた歪んだ個人主義の影響を受けたのでしょうがその刷り込みを打破するためには視野を広げ、視点を合わせみんなで一緒に取り組む新たな習慣を身に着けてみんなが経営者のようになって働いていくことだと私は思います。それをみんなが経営視線になるともいうのでしょう。

引き続き、課題も明確になっていますからどうあるべきか深めていこうと思います。

信じる力

人生には苦しい時というものが何回もあります。その時、私たちは信じる力が減退し弱ってくるものです。その時、自分以外の何かの「信」に頼って自分を信じる力を甦生させていきます。

人は一人ではないと思うとき、このままでいいと思えるとき、信じる力によって救われていくものです。

この信じる力というものは、希望でもあり生きていくうえで自立していくためにとても大切ないのちの原動力でもあります。人間は信じあうことで不可能を可能にし、信じることができてはじめて感謝の意味を実感することができるように思います。

信頼というものは、その信じる力を伸ばすとき、また信じる力を回復するときに欠かせないものです。信頼関係が持てる人との心の安心基地がある人は、どんなに困難が降りかかって信じる力が失われてもその安心基地に頼ることで自分を信じる力を増幅させます。

この安心基地は、一緒に信じてくれる仲間の存在であったり同志やパートナーの存在であったり、どんな時も片時も離れずに自分を信じてくれる内在する自分の魂であったりします。

人はこの安心基地を築き上げるために、それぞれに信じるものへ向かって一緒に力を合わせて取り組んでいきます。人が協力するのは、この信じる力を合わせるためでもあり、安心基地を共に築いていくためでもあります。

誰かと一緒に関わり何かを行う理由は、この信じる力を身に着けてその「信」によって互いの人生を共存共栄していくためでもあります。人は「信」で繋がるからこそ人生の歓びや楽しみ、仕合せを感じられるのです。

その信で繋がることができるのなら、お互いの信を分け合って助け合い自分の使命を全うしていくことができます。人間は時として、自分を信じられなくなる時が必ずあります。夢を諦めそうなとき、孤独を感じるとき、それは自分を強く逞しくしてくださっているのですが信じあえる存在がいることで夢に救われ、孤独よりも愛の大きさを知るのです。

私のメンターが見守るとき『本当の自立とは自分でできるようになることではなく、人に頼ることができるようになること』といつも仰っていますが、これは「信頼」を深めれば深めるほどにその意味の奥深さが分かります。

勘違いした価値観や、刷り込みや常識に囚われればこの自立の意味もはき違えて信じる力を減退するための環境を自らが子どもたちに広げてしまうかもしれません。もう一度、信じるとは何か、なぜ信じるのかと確認しながら本来のあるべき姿に回帰し、信で繋がり、信で頼り合う関係を構築していきたいと思います。

 

新しい発明、新しい自分

私たちは可能性というものを思うとき、できることやできないことから考えていきます。例えば、あれもできるこれもできるとやってもいないものでもある程度は今の自分の能力や状況から判断していく可能性というものがあります。同時に、今の自分にはできないという現実を受け容れるとき、今までにはなかった選択肢が新しい可能性として出てくるものです。

つまりは、できようができまいがそれがすべて可能性としてあらゆる選択肢を考えることができる。人間に可能性がなくなるときは、自分が先に可能性を見失うほどマイナス思考に陥っているだけで決して選択肢がなくなったことではないのです。つまりは人間はどんな状況においても可能性はなくならないということになります。

ではこのように可能性を持ち続けるためにどうすればいいか、そこには心も持ち方や発想の転換の訓練が必要であるように思います。何か行き詰ったとき、「だったらこうしてみよう」や「逆転の発想だとどうなるか」など、人間塞翁が馬であるとしたり、禍転じて福にするというように心の持ち方を鍛えていくのです。

発明という言葉があります。

これは「今までなかったものを新たに考え出すこと。」と辞書にはあります。つまりは心の持ち方を健全に鍛えて逞しくしていれば常に逆境や苦難は発明の糧になります。

この糧とは、これは本当は何の意味があるのかと深く自問したり、天からの何かしらの手紙ではないかと受け止めたり、ひょっとしたら自分は何か大切なことを見落としているのではないかと見直したりというアイデアの原点に出会うのです。

人は何もなければ今までやってきたことのままでいいや、延長線上に物事があると思い込んだり、階段のように上がっていけばたどり着くと思ったりします。しかし実際は、変化とはブラッシュアップのように温故知新し続け「今までになかった新しい自分になる」ことが求められます。

新しい自分とは、今までではなかった自分ということ。それは発想が変わることであり、今までの価値観ががらりと入れ替わることです。変化は常に自分の心の側で行われ、可能性もまた自分の心の側で変わります。人は日々に自分自身の新しい可能性に挑戦するなかで得られるその発明の糧の御蔭で自分自身の可能性を引き出し広げていきます。

難しい相手や困難であればあるほど、新しい発明と新しい自分を発掘していけるのです。引き続き、困難や苦難の意味を味わいながら新しい発明を楽しみたいと思います

前向きに諦める

人生には自分の思っていた通りになるものと思い通りにならないこと、思いもつかなかったことがあったりするものです。生きていく中で、色々と願望が固着し思いが重たくなってくるとその願望に執着して諦めることができなくなることもあります。

しかし本来は、目的を失うわけではないのだから手段は無数にあっていいわけで私たちはその手段を変えていくときに葛藤があるのかもしれません。言い換えれば、今までできたことができなくなることへの不安感であったり、今までその手段でやってきたことができなくなることへの心配が手放す勇気を減退させてしまうのかもしれません。

前に進んでいくためには、いろいろなことを手放していかなければなりません。それまでできたことが、新しいことをやろうとするとできなくなる。新しいことをやるために過去の手段を変えていこうと冷静になればいいのですがこれまでやってきたことはなかなか簡単に捨てることができないのです。

例えば、健康などもそうですが怪我をしてみて今までできたことができなくなるとそれまでできていたことがなかなか諦めることができません。なんとか元に戻ろうとしますが、元通りにはなりません。リハビリをしながら、新しいやり方を身に着けていく必要があります。ひょっとすると、元にやっていた時よりももっと上手にできるようになるかもしれません。しかし元通りになることに執着すればするほどに過去の習慣が手放せず変わることができなくなるのです。

人生の中で前向きに諦めるときは、目的を達するために他の手段を考えようと諦めないと気です。ある部分は諦め、ある部分は決して諦めない。この諦めると諦めないの間にこそ諦観があります。

この諦観とは、辞書には「 本質を明らかに見て取ること。」「 悟りの境地にあって物事をみること。」と書かれます。

思い通りにいくことが目的を達する道ではなく、どんなに思い通りにいかないことがあったとしても目的を最期まで失わないこと。人生はどんなことが起きるかわかりませんから、その中でも目的を失わなければ色々なやり方があるという中に本当の可能性が隠れているかもしれません。

なんでもできるという可能性と、できなくなって明らかになる可能性。

前向きに諦めることの本質は、流れに逆らわずに我を手放し来たご縁をすべて活かしていこうとすることのように私は思います。

気づく感性を高め、何かを見落としいなかったか、無理をしていなかったかと、内省を深め、さらに一歩一歩前進していきたいと思います。

 

音楽の仕組み

先日、自由の森学園の音楽祭を見学する機会がありました。2日間に渡る音楽祭は、初日は生徒たちの有志によってそれぞれに自己表現を楽しんでいました。2日目はクラスや学年別、全校生徒による合唱が行われています。

生徒たちがそれぞれに楽しそうに音楽を奏でる姿に、学校の雰囲気や子どもたちの成長の様子なども表現されていました。音楽を奏でるというのは、それぞれの自己表現を楽しむということでもあります。自分らしく主体的に楽しく取り組んでいる姿がそれぞれの音として顕れ、その音楽に乗っかることでさらに主体性が引き出されていく。音楽は子どもたちの主体性を揺さぶるひとつの仕組みかもしれません。

人間はそれぞれに自分の人生があります。それは誰かと比較したり、誰かのようになろうとしたりしても意味がなく、それぞれに与えられた自分の人生があります。それがどのようなものであれ自分の人生なのだからその人生を謳歌することが仕合せであり、その謳歌したものが音楽として全体に響き渡ります。

ひょっとすればその人生は成功かもしれないし失敗かもしれません。しかしそれは他人が勝手に評価するもので自分自身がどう思うかとは別の話でもあります。

音楽というものは、どのようなものであっても楽しむということやどんなことも善いことへ転じるという人生への逞しい意志を感じます。歌を歌う人は、その背景に人生を力強く生き、その転じられたものを表現するときそれぞれが実感した人生の音を奏でていきます。

どのような音を奏でるか、どのような声を発するか、その人の人生が丸ごと歌になっていることを思えばその人生を如何に楽しむかが何よりも重要だと私は思います。

人生の大切な時期に、学校に入り、仲間と語らい、人生の大切な意味を知る。

音楽もまた自由を学ぶための大切な仕組みの一つです。深めたものを実践に活かすためにも、新たな仕組みを創造していきたいと思います。