整うとは何か

先日からサウナのことを深めていますが、その中で「整う」という言葉がよく用いられていることを知りました。この整うというものは、美しく和を保ち清浄であろうとする日本の生き方に共鳴するものがあるように思います。

この「整」うという字の成り立ちは、分けたり束ねたりしてそれを正しくするという意味の字です。そこから、乱れたものをもとの状態にするという意味で使われます。そこから整理、整備、整合性や理路整然、他にも整骨や整腸など身近で使われる整の字から印象が理解できるように思います。

この「整う」というのは、和の家に住めば自然に意識しているものです。例えば、和の家はシンプルに空間がある中で適材適所に道具や装飾が配置されていきます。よく床の間に色々なものを置きすぎてかえって見苦しくなっているところを見かけますがそれも整えば美しい景色を発揮していくものです。

他にも物が溢れてあちこちが散らかっているところにいると、なぜか気持ちもざわついてしまいます。いつも整理整頓されたシンプルな空間には、心が落ち着き、気持ちも安らぎ、自分の状態も穏やかになっていくものです。

私も日常の暮らしの中で、古民家や和の民家の手入れを行いますからこの「整う」というのは非常に大切な実践項目になっています。まず、シンプルに最初の形を決める。その形は、そのものがあるように、そのものが喜ぶように自然に配置していきます。

そうやって配置したものの中に外からたくさんの物が入ってきますが、それを適切に配置するか仕舞い、出番などの準備を決めて片付けます。この片付けるというのは、形を整えるという意味でもあります。

つまり形が整っていくことで、心も整い、精神も整い、感情も整い、自然あるがままの自分が整っていくのです。本来の自分をとり戻すといってもいいのかもしれません。これを平常心ともいい、平静心ともいい、動じずに落ち着いて不動の境地を得ているという状態でもあります。

自然や天候が乱れても、そのうち整い穏やかないつもの天候になっていくように私たちはハレとケという使い方をして日常と非日常のバランスを整わせて暮らしを行います。

暮らしが失われてきた昨今において、整うということはとても大切なことのように思います。今は、乱れやすい環境にありますからそれをどのように整えるかはそれぞれの工夫がより必要になるものです。

せっかく湯屋を甦生しますから、「整うとは何か」ということを探求しそれを形にして子どもたちやご縁ある人々の心の安らぎを提供していきたいと思います。

徳の場づくり

先日から湯屋のことを深めていると、東大寺大勧進職として源平の争乱で焼失した東大寺の復興を果たした重源上人に何度も出会います。この方は平安時代から鎌倉時代にかけての日本の僧侶であり俊乗坊といいました。

この人物のすごさはその東大寺大勧進職を引き受けたのが当時で61歳の時、さらには東大寺の再建には財政的・技術的に多大な困難があったのをすべて寄付などによって自ら工事の陣頭指揮を執り復興を果たしたことです。

この人物は、浄土宗の開祖法然に師事し中国の宋へ3回も渡航し数々の知識や智慧を習得して帰国されました。造営と信仰を融合し、場によって人々の心を癒し安らげる仕組みで数々の功績を遺しています。

今回、改めて重源上人を知ったのは周防国の阿弥陀寺の湯屋の施浴でしたがこの人物が如何に徳を積み、徳を弘めたのかが伝わってきます。勧進帳にはこう記されています。

「東大寺勧進上人重源敬って白す。

特に十方檀那の助成を蒙り、絲綸の旨に任せ、土木の功を終へ、仏像を修補し、堂宇を営作せんと請う状

右当伽藍は風雨を天半に軼べ、棟甍の竦櫂を有ち、仏法恢弘の精舎、神明保護の霊地なり。原夫れ聖武天皇作治の叡願を発し、行基菩薩知識の懇誠を表す。加之、天照大神両国の黄金を出し、之を採りて尊像に塗り奉る。菩提僧正万里の滄海を渡り、これを崛して仏眼を開かしむ。彼の北天竺八十尺弥勒菩薩は光明を毎月の斎日に現じ、此の東大寺の十六丈盧舎那仏は利益を数代の聖朝に施す。彼を以って此に比するに、此猶卓然たり。是を以って代々の国王尊崇他無し。蠢々たる土俗帰敬懈るに匪ず。然る間、去年窮冬下旬八日、図らざるに火あり。延て此寺に及び、堂宇灰と成り、仏像煙と化し、跋提河の春の浪哀声再び聞え、沙羅林の朝の雲憂色重て聳え、眼を戴いて天を迎げば、則ち白霧胸に塞りて散せず。首を傾けて地に俯すれば、亦紅塵面に満ちて忽ち昏く、天下誰か之を歔欷せざらん。海内誰か之を悲歎せざらん。底露を摧かんより、成風を企つるに若かず。玆に因って、遠く貞観延喜の奮規を訪び、近く今上宣下の勅命に任せ、須らく都鄙をして、以って営作を遂げしむ可し、伏して乞う、十方一切同心合力、家々の清虚を謂ふこと莫れ、只力の能ふ所に任す可し。尺布寸鉄と雖も一木半銭と雖も、必ず勧進の詞に答え、各奉加の志を抽んでよ。然らば、即ち与善の輩結縁の人、現世には松柏の樹を指して比算し、当来に芙蕖の華に坐して結跏せん。其福無量得て記す加からざるもの乎。敬うて白す。

養和元年八月 日 勧進上人重源 敬白 別当法務大僧正大和尚(在判)」

どんなに少ない鉄くずでもいいし、どんなに短い布切れでもいい、みんなでこの東大寺を復興するために協力してほしいと依頼していくのです。これは東大寺建立の初心でもある聖武天皇の『大仏造立の詔』にある「万代の福業を修して動植咸く栄えんことを欲す、もし更に人の、一枝の草、一把の土を持ちて像を助け造らんと情願する者有らば、、」というところを伝承して記されています。

復興を祈願するのに、そのはじまりの目的を甦生させそれを実現させるこの重源上人に深い尊敬の念を感じます。私が現在、取り組んでいる徳の甦生もまたまったくこの人物の取り組んできたことと同じです。古い民家や、日本の民族伝承、それらを復活復興させるために私も建築技術や教育などのコンサルティング、場づくりなどによってその徳を顕現させるように努めています。

私が今度、取り組もうとする湯屋にもこの重源上人の技術を参考にしようと決めました。また各地で取り組み始めた古民家甦生もまたこの東大寺の勧進に倣い、志を立てていきたいと思います。

先人の生き方は、私たちに未来をどうあるべきかを告げてくれます。引き続き、子どもたちのためにも徳のご縁を結び合う場を創造していきたいと思います。

世界のお風呂

昨日までは日本のお風呂の歴史を書きましたが、今日は海外のお風呂のことを深めてみようと思います。

現在、スーパー銭湯やスパ施設に本格的なサウナ室が続々と設置されています。私も出張の時には、たまにサウナを利用していました。温度計だけの狭い空間の中でみんな黙っていつ誰が先に出るのかなどでサウナ常連感を楽しんでいたものです。

しかし今では、サウナや冷水の「温冷交代浴」も流行り、そのサウナを通したリラックス状態のことを「ととのう」といい、サウナ道などというものも出てきてブームが来ています。

このサウナは、現在の情報化社会で運動不足で神経過敏過剰になる今の世の中に適応しているとも言えます。

そもそもサウナ(sauna)という言葉は、フィンランド語です。意味は「蒸し風呂」となります。今から6000年から7000年前にフィンランドのフィン族が開発したといわれます。しかしもっと以前からユーラシア大陸には風呂は存在したことが知られています。サウナの原型や基礎ができたのは今から2000年以上前のフィンランドのガレリア地方だといいます。最初は食料を貯蔵したり、スモークするための小屋が、沐浴をする場所へと変わっていったそうです。

フィンランドでは、サウナは神聖な場所と定義されています。フィンランドの伝統に根付いたサウナは神話にも登場しますし、お産などでも用いられます。人口543万人に対してサウナの数が300万台以上あるといいます。国会議事堂にもサウナがあり、基本は一家に一つは必ずあるような感じです。日本のお風呂に似ています。

フィンランドのサウナ推進組織は、サウナが提供する5つの特長を定義しています。その特長は、①五感で感じること②自分自身に意識を向けること③リラックスすること④身体を清潔にすること⑤心身を健康にすることです。そして伝統的なものであることが言われているそうです。

これは日本のサウナに共通するものがありますが、入り方やそのメソッドまで定義されておりサウナがどのような場であるのかをはっきりしているように思います。

日本との共通点も多く、水着が多いヨーロッパでも裸で入る事、裸の付き合いで親睦を深めること、神聖で清浄な場であること、自然物を用いる事、自分を整える場所であることなどです。

改めて世界との共通点も観え、サウナの魅力を学び直しました。子どもたちが、古来からのお風呂の意味がどのようなものであったのかを伝承し、さらにお風呂のこれからの未来の発展と人類の場として大切な役割を果たしていけるように温故知新したものに挑戦してみたいと思います。

徳経済

21世紀の経済システムは、競争の中で個々の利益(得)を優先して欲望を消費することによって発展してきました。資本主義経済やグローバリズムというものは、この損得というものを基準に如何に得をするかということをそれぞれの国家でしのぎを削ってきたとも言えます。

しかし、現在は米中貿易戦争やEUのバラバラな姿を観ていたらこのそれぞれにお互いの国家の損得だけで競争していたらもう世界は成り立たないことを実感します。一つの地球に住み、みんなで大切に資源を分け合っていた太古の時代を懐かしめば、如何に今の時代がそれぞれの国益を優先し奪い合っているのかがわかります。

日本には古来から「知足」という概念があり、奪い合うのではなくお互いが分け合うことで豊かな発展を続けてきた歴史があります。経済の本質は、損得だけではなく「尊徳」であり、その「徳」そのものを大切にすることでお互いに利益を享受し合う関係を豊かにしていくことができるように私は思います。

この「徳」が循環する仕組みが前提にあるからこそ、通貨や貨幣が人々の心を結び、信頼し合い助け合うための信の道具として活用されてきました。今の時代は、目先の損得ばかりが議論の中心になり長期的な視座における尊徳の方は議論にあがることもありません。

それは競争するということが大前提になっており、その中でその競争から離れて降りていくことはその世界から観れば負けを意味するからです。確かに勝敗の世界での一喜一憂は切磋琢磨していく上では大切なものです。しかしその勝敗に固執するばかりに、人類の幸福や本来の目的まで忘れてしまうというのは本末転倒しています。

協力が大前提になっている世界においては、お互いに大切にしていることが「徳」になりますから一人ひとりがみんなで徳を積んでいこうと行動していくことになります。この徳が、実際に経済を活性化させそのプロセスが人々のご縁や結びつきを強くし、関係し合う絆を強くしていたのです。

徳と経済を分けて考えるのではなく、徳経済という日本の伝統の思想を甦生させ今の時代のシステムを見直すことが未来へ生きる子どもたちへの私たち世代の引継ぎであってほしいと願います。

果たして少し損をすることは貧しいことなのか、本当は少し損をすることをみんなが行うことは何をすることになっていたのか。損をしないことばかりに躍起になるのではなく、みんなが損をしてでも大切なものを守りたいというものの中に本当の徳があるのではないか。

そして今の時代に私たちが住む家や食料や、衣服、様々な伝統や思想や文化があるようにそれを残し譲ってくださった方々がいたからなのは自明の理です。だからこそ、損することは長期的には偉大な得になることを大きな個人(公人)としてみんなが見守り育て譲っていくことが本来の個々人に求められていくように私は感じます。

個人個人と自分自分と、我が我がといがみ合うのではなく、みんなで一緒に生きていくことの仕合せや喜び、感謝や共感、共鳴や恩徳を味わい笑い合う世界を自分のできるところから発信していきたいと思います。

自己観照

人は外ばかりを見ては自分というものをなかなか見つめないものです。自分が一体、どういう人間か、そしてどのような人格を持っているのか、自分が求めて望んでいるものが何か、そういうものを自覚していないものです。

その理由は、自分という存在があまりにも身近でありあまりにも傍にいるからです。自分の目を自分で見ることができないように、心臓の鼓動が聞こえてこないようにあまりにも一体化していて自分に意識を集中しない限りなかなか自分というものを自覚しないように思います。

例えば、目を見るときは鏡を見たら目は見えます。鏡は自分というものを映しだして自分の姿かたちをとらえることができます。そして心臓の音を聞くときは、聴診器をあてれば聞こえることもできます。脈をはかれば、心臓の鼓動から自分の体の状態に気づくことができます。

私たちは敢えて自分を観ようとしたとき、聴こうとしたときにはじめて自分というものを掘り下げて自覚することができるということでしょう。

そして自分というものの理解には、周囲の友人や家族、身近な存在によって自覚することもできます。どのような人たちが自分の周りで共に生きているか、どのような志を持つ仲間や友、そして愛し合う人たちと一緒に生きているか。それによってまた自分というものを掘り下げて自覚することができるのです。

私たちは自覚するにおいて大切なのはこの身近な存在を意識することにより自己観照をしていくことができるのです。

自己観照ができると、本当の自分に出会えます。それは色々な言い方がありますが、魂の自分と呼んでもいいし、心の姿と呼ぶ人もいます。自己というのは、私にとっては混然一体の自己の顕現する姿であり万物一体全の一部として存在する自分というものです。

与えられた自分の天命が何に気づき、何処に向かい、何を味わいたがっているか。日々に内省し、反復し、慎独するのは自分という無二の存在を大切にしていくための道の実践であるように私は思います。

出会いやご縁は、自分というものを磨き上げ、自分というものを確かにしていきます。一期一会の出会いに感謝しながら、大切な日々を生きていきたいと思います。

運と風~風土のチカラ~

世の中には運というものがあります。よく運がよかったとか悪かったとか、何かの結果が出た時にそれを人はつぶやきます。自分にとって運がいい悪いは時として周囲にとってはそれが逆になることもあります。

つまりは運とは、その人の心の持ち方に影響を受けていることに気づきます。

幸田露伴にこういう言葉があります。

「順風として喜んでいる人が遇っている風は、逆風として嘆いている人が遇っている風とまったく同じ風なのである。”努力して努力する”―これは真によいものとはいえない。“努力を忘れて努力する”―これこそが真によいものである」と。

運とは、その人の風の感じ方そのものでありその風に乗っていく人と、それに逆らう人がいるだけであるとも言えます。風任せの生き方ができる人は、雲のように融通無碍に運に従います。しかし、人間は我がありますから無理をしてでも風を無視して前に進みたくなるものです。

世の中の潮流、いわばその風は時代と共に変化していきます。日々に窓を開けて外の風を感じれば、色々な風が吹いているのがわかります。今日の風はどうだろうかと、風を感じて風を活かす人は運を味方につけているとも言えます。

運とは、自然あるがままを活かす智慧のことでありその運を引き寄せる人は自分を自然に対して変化させ続けることができる努力の人であるということです。

努力とは、自然と一体になっている状態の事です。それは四季の花々が真摯に生きて花を咲かせているように、魚や鳥たちが自由闊達に泳ぎ歌うのと同じようにです。

変化し続ける力は、まさに運を味方につけていきます。運を高めるためには、変化する力を磨き上げる必要があります。風に合わせて自分自身の境遇や環境をブラッシュアップしていくのは、足るを知り、来た風に逆らわずその風を活かすときにこそ実現していきます。

風土というものは、運の根本を司っています。

引き続き、今の子どもたちのために風土を醸成し自然かんながらの道を踏みしめていきたいと思います。

持続可能の基礎

物事には短期的なものと長期的なものがあります。現在の世の中はスピード重視、便利さ重視、結果重視で個人重視ですからどうしても短期的なものが増えていきます。すぐにリターンがあったり、すぐに成果につながらないものは効果がないとみなされたり失敗だとも評価されます。

しかし遠くにいこうとすればするほどに身近な失敗は成功の糧にもなります。また成長しようとするのなら、数々の失敗や挑戦を繰り返さなければ長期的に見てそれは成功ではないように思います。

むかしは、7代先を観て物事に取り組んでいくという視点があったといいます。常に300年先を見据えて何をすべきかということを話し合いそれぞれが実践に努めたのです。

持続可能な社會を掲げていてもそれが一向に進まないのは、それは短期的なもので持続可能を観ているからです。本来、持続可能や循環型、そういったものは長い歳月と一人一人の真摯な努力によってはじめて実現するものです。

二宮尊徳にこういう言葉が残っています。

「樹木を植うるや、三十年を経ざれば、則ち材を成さず。宜しく後世のためにこれを植うべし。今日用うるところの材木は則ち前人の植うる所。然らばなんぞ後人のために之を植えざると得ん。」

樹木を植えても三十年は待たないと材量にはならない。だからこそ後で使う人のために今、樹木を植えるのです。今、用いている材料はすべて先人たちが私たちのことを慮り植えてくれたから私たちはそれを使うことができています。その恩恵に感謝する心があるのならなぜ子孫のために植えようとしないのかという解釈です。

私たちは自分のメリットや今さえよければいいと、物事の判断を自分軸のみの物差しで計算して行動しています。しかしこれがもしも後世の人たちや子孫の人たち、先祖への感謝の報恩であればどういう物差しになるでしょうか。

長期的な物差しとは本来、これらの長い時間をかけて持続可能としていた社會の存在を感じて判断していくものなのです。何を計画するにも、その土台や基礎になっている初心や哲学、基本にその思想が入っていなければ決して持続可能の実践にはつながっていかないように私は思います。

二宮尊徳はこうも言います。

「遠くをはかる者は富み近くをはかる者は貧す。それ遠くをはかる者は百年のために杉苗を植う。まして春まきて秋実る物においてをや。ゆえに富有なり。近くをはかる者は春植えて秋実る物をも尚遠しとして植えず。唯眼前の利に迷うてまかずして取りえずして刈り取る事のみ目につく。故に貧窮す」

何が本来の豊かさであるのか、豊かさや富の本質を持続可能の社會ではまったく視座が異なることを私たちは先人の実践から気づく必要があります。

育てるという仕事も本来、長い時間をかけてじっくりと育てるものです。それは土づくり似ていて、何十年もかけて育ててきた土だからこそその中で立派な作物ができてくるのです。人づくりも然り、まちづくりも然りなのです。

自分の代で見返りがなくても、すぐに自分の代で結果がでなくても、本当の意味の子々孫々への思いやりや真心での持続可能に取り組む人たちが未来を変えていくのでしょう。

子どもたちのためにも、周囲の理解が得られなくても覚悟を据えて子どもに必要な伝統や風土、文化を伝承していきたいと思います。

快適な住環境

昨日は、自然農で育てた高菜漬けの漬け換え作業を行いました。8年目になる高菜や杉樽からはまるで熟成されたウィスキーのような薫りがしてきます。手塩にかけて育てて8年、まったく腐敗することなくいつもの姿がいつもの薫りと共に感じられることは仕合せです。

この手塩にかけるというのは、本来は昔の食膳に添えられた少量の塩のことを指しました。もともとは、不浄なものを祓うために添えられたものですが自分の好みに合わせて料理の塩加減を調節するというためにあったそうです。その意味から他人任せにしないで自ら面倒を見ることを「手塩にかける」と言うようになったそうです。

一般的には、「手塩にかけて育てた子」のように手間暇を惜しみなく愛情を注ぎこみ自らで世話をして大切に育てるという使い方をされますがこれは漬物も同じことです。

定期的に塩を入れてあげなければ発酵の乳酸菌が腐敗菌に入れ替わり漬物は私たち人間が食べれないものになってしまいます。これは万物は、消滅するために腐敗する自然の仕組みを発酵という自然の智慧を用いて乳酸菌を育て樽や食べ物を丸ごと住まいにしてしまうという発想からきています。

つまり樽は、乳酸菌の大切な家でありその家の居心地が乳酸菌にとって快適にしてあげればいつまでもそこで乳酸菌は活動を続けてくれます。乳酸菌が住んでいるからそこに腐敗菌は入ってこれないのです。乳酸菌にとって快適な環境は腐敗菌にとっては不快な環境です。腐敗菌にとって快適な環境は当然、乳酸菌とっては不快になります。

このようにどのような住まいを創るかで、私たちは健康を管理してきたのです。この自然の智慧と技術こそが自然の叡智の根本原理でもあります。私が古民家甦生でイヤシロチを創造するのは、この発酵の智慧を活用しています。

人間の住まいにとって快適なものとは本当は何か、それは単に便利かどうかではなく健康を末永く維持できるということです。その健康が維持される住宅だからこそ、私たちは先ほどの乳酸菌のように活動し腐敗菌を寄せ付けません。同時に不健康を寄せ付けなくなるのです。

日本の家屋というものは本来、この乳酸菌の樽のように健康を維持するための快適な環境を用意していたのです。それが不健康になってきたから、病気が増え、感覚が鈍り、居心地が悪くなってきているのです。

漬物も住まいも、他人任せにしてはいけません。自らで手塩にかけて育ててこそ本物の住まい、本物の場が醸成されるのです。

引き続き、場を学び直しながら改めて大切な智慧を子どもたちに伝承していきたいと思います。

勇気の源

人は誰かが成長している姿を見ると勇氣が湧いてくるものです。この湧いてくるものは一体どこからやってくるのか、なぜ自分の中にその勇気が湧き出てくるのか。不思議ですが誰かの勇気を出す行動を観ていると、自分自身も奮い立たせてくれるのは事実です。

この湧くの同義語には、・込み上げる・芽生える・湧き立つ・あふれ出る・湧き起こるなどがあります。やはり成長には、何か不思議な力がありその力は多くのいのちに多大な影響を与えているように思います。

私はたんぽぽがとても好きなのですが、道端でたんぽぽが咲いている姿に真摯さを感じて勇気づけられることもあります。一生懸命にいのちを輝かせて活きている姿はそれだけで他のいのちを感動させるのです。

ではこの湧いてくるものは、一体どこから出てくるのかということです。これは自分を信じることで湧いて出てきます。自分を信じるというのは、何を信じるのか。それは私の直観では今までこの世に生きてきた永遠の連鎖、そしていのちの深い生命の源を感じているのではないかと感じます。

人はいのちの源泉というものを持っており、その源泉に触れることでいのちの泉が湧いて出てくるものです。それは地中から水や溶岩が湧いて出てくるように源泉にはいのちそのものの元氣が満ち溢れています。

日ごろはそこに触れることもありませんが、何かしらのいのちの源泉を身近に感じるとき私たちは汗が出てくるようにそのいのちの元氣が湧いて出てくるのです。これが勇気の源ではないかと私は感じます。

自分の勇気が誰かの元氣になり、自分の勇気ある行動が誰かの勇気を引き出すことになる。そう思えるだけで人は、元氣を周囲のいのちに分け合い共生し貢献し合うつながりや絆を享受し合えるのです。まさにこの世が楽園になっていく道理は、このいのちの元氣の連鎖で起こります。

勇気の源は、みんなの元氣の源です。

自分の勇気をさらに発揮して、子どもたちのためにも挑戦を続けていきたいと思います。

場数の価値

「場数」を踏むというものがあります。これはその場の経験を体験し積み重ねることを言います。この場数というものは、生き物が産み出した偉大な智慧の一つであり人間が発達し成長するための最大の糧になります。

先日から、農業関連の方や建築関係の方、そしてまちづくりや教育の方とお話する機会がありましたが以前には考えられなかったほどに様々なことを理解できそれを実現できる力が自分に備わっていることに気づきました。

なぜだろうと思い返すと農業においては19年の自然農の経験が活き、建築では古民家再生での経験が活き、まちづくりでは見守る保育の経験が活きています。それは知識を単に持っているからではなく、自分のこれまで積んできた場数の実体験がある一定量を超えて質に転換されていることに気づいたのです。

人間は最初からなんでも一流のようにできる人はほとんどいません。特に、職人の仕事をはじめ一定以上のプロの業を会得するにはそれなりの時間がかかります。

その時間とは、何回も何回も場数を体験することでありその場数の中で量を積み重ねているうちにある時突然に質に転換されていくのです。

これは以前、行った「貝磨きの体験」に似ています。

貝を磨き続けていると、ある時ふと突然に貝が光りはじめます。最初はざらざらで、光らなかった貝が紙やすりにを何度も往復させていくことでパッと光り輝くのです。まさにこれが量が質に転換された瞬間なのです。この貝磨きの体験の素晴らしさはこの「場数を踏む」ことの大切さを子どもたちに体験させていることです。

最近は、あまり経験することを尊ばず経験しなくても簡単にできる便利な方法ばかりを選択する若い人が増えているといわれます。便利なものを知ってしまうと、自分を磨いたり、場数を踏んだりすることを嫌がる傾向があるといいます。努力の価値や、精進の素晴らしさを体験する機会が少なくそのために質もまた低下しているというのです。

この質の低下は、「積み重ねる」ということの価値が下がっていることをものがたります。そして「磨き上げる」という努力の評価が下がってきていることも意味しています。

しかし「技術を自分のものにする」というのはつまり「自分を磨き上げる」ということに他なりません。努力を積み重ねて挑戦し続けて体験を智慧まで高め、如何に熟練の粋に達していくかが場数の価値なのです。

場数を馬鹿にすることなかれ、場数こそ本物になる要なのです。

そしてその場数の質を劇的に高める方法が、初心を忘れないことなのです。人間は初心という物差しで振り返り続けていけば必ず自らの高みに達することができるからです。大切なのは、何のために生まれてきたのか、人生とは何か、その意味もまたこの場数を踏むことによって得られると私は思います。場数の価値とは、いのちの価値です。

引き続き、自ら時間を惜しんで何回も挑戦する機会を楽しみ、場数を踏んで自分自身の質を高めていきたいと思います。