主体性の本質~お手伝い~

「お手伝い」という言葉があります。これは「手伝う」に「お」の接頭語が入ったものですが当たり前に使っている言葉ですが大変な意味があるように思います。この手に伝えるという合わせた言葉、とても深く味わい深いものがあります。現在では、チームだとか協力とか主体性とか色々な言葉が組織運営について出てきますがこの当たり前の「お手伝い」が何よりも仕事の本質であるようにも思います。

幼いころから、家のお手伝いをして育ってきますが人間は当たり前に協力して働くためにはその働くための智慧を自然に身に着けていきました。その代表的なものが、農業であり里山での暮らしの中で集団を通して助け合い生きる力を育んできたのです。たとえば、みんなで助け合い屋根をふきかえたり、堤防の修理や、家々の柿の実を収穫したり、子どももみんなで見守り、お年寄りもみんなでお世話をする。

これは自分のもののようで自分のものではなく、みんなのものであって自分のものでもある。つまりは生活共同体、共存関係を結んでいたのです。沖縄ではその関係を「ゆいまーる」ともいい相互扶助の関係を築き上げていました。

現在では、自分は自分、他人は他人となってしまってみんなのものという意識は消失してきているように思います。そのことから本来のお手伝いということも意味が異なり単なる役割分担や担当制のように変わってきているように思うのです。つまりは歪んだ個人主義が蔓延しつながりが切られたことで「一緒に生きている」という実感がますますなくなってきているように感じます。

本来の「お手伝い」とは、この「一緒に」という気持ちをお互いが持っていることのことを言います。本当の主体性とは、「自分はみんなと一緒に生きている」という共存意識を持っている人たちのみに発揮されるものだからです。

だからこそ他人事にせず、自分のことだという当事者意識が生まれます。そして会社も同様に、自分の会社であって自分だけのものではなくみんなのものである。みんなのものだからこそ自分も手伝うことができて有難いと感じながら働くことが相互扶助でお互いを活かしあい助け合うことができるということでしょう。

自分というものと全体とのつながりが消えてしまうと主体性は消失します。すると、孤立感や孤独感、そしてやらされ感やさせられ感に変わってしまうのです。結局、何か自分に何かの出来事があったときに気づくのが自分が助けてもらえ所属する会社、仲間や友人、家族など周囲のコミュニティの中があることに気づき直すのです。

だからこそそのコミュニティを守ろうと「お手伝い」をすることは当然のことであり、それが「自分もみんなも守る=お手伝い」ということなのです。手伝っているようで手伝ってもらっているのは自分、見守っているようで見守られているのは自分自身であるという真実に気づくことが共存共栄していくという人間の智慧の本質なのです。

チームかどうか役割とか担当とか議論する前に、そもそもは果たして自分とは自分だけのものなのか、そんなことは一人では生きていけないからすぐにわかるはずです。いくらお金があったとしても、助けてくれる人たちがいなければそのお金を使うこともありません。つまり人間は自分であって自分ではないものの存在に気づけるかどうかが何よりも先なのでしょう。

みんなで一緒に生きていく、その一緒になっている組織を守っていくということにどれだけ真剣に関わり本気で取り組むかが主体性の本質です。引き続き、課題をチャンスにして本当の問題に向き合っていきたいと思います。

 

煤祓い

昨日は、12月13日の正月事始めとして聴福庵の煤払いを行いました。むかしは囲炉裏や竈、七輪や薪のお風呂など火を使うものが多かったことから大量の煤が生活道具や家具についていました。その煤汚れなどを掃除し、間もなく訪れる正月に合わせて歳神様やご先祖様が清浄な家に帰ってこられるのを待つ心で洗い清めるためのお掃除です。今では家電製品が中心ですから大掃除くらいのイメージですが、この煤払いは単なる大掃除という意味ではなく大切な日本の伝統的な暮らしの年中行事の一つです。

この煤払いを調べると平安時代にはすでに行われていたとあります。もう1000年以上前から行われている習慣だと思うと、身体は知らず知らずにそれを覚えているのかもしれません。この12月13日に行うようになったのは江戸時代からだといい、江戸城に合わせて町人たちも13日を煤払いの日にしていたといいます。

正月を迎える物忌みの始まるのが13日で、28日までに掃き清めを行い歳神様の正月を迎えるための信仰の一環としてこの日を煤払いにしたといいます。むかしの人たちは一気に大掃除ではなく、時間をかけてじっくりと丁寧に掃き清めながら一年の煤を払ったのです。

掃除に使われた道具も、むかしはお焚きあげをして一緒に供養したとあります。ここには一年、生活の中で出た穢れを払いながらもその働きやいのちに感謝の心で供養していくという生き方があります。そして一年一年と積み重ねていくいのちの暮らしがあって、その一年の節目を大切に振り返りながら翌年を迎えていこうとする慎む心が観えてきます。

そう考えてみると、この一年もまたいろいろな煤が出た一年だったなと思います。

その煤を思い返しながら、暮らしを見つめ暮らしを味わう。その中で出てくる錆のようなものを綺麗に拭きとりまた美しい本体を顕していこうとする。祓うことで観えてくるといったまさに魂を磨く一つの生き方伝承行事なのです。

日本ではこの「お祓い」を暮らしの中で大切に位置づけていたように思います。穢れは歳月の中で次第に出てくるものだからこそ、それを日々に手入れをして美しく磨いていこうとしたのでしょう。歳神様というものは、清浄なところにお越しになるというのはこの初心をもっている方だからかもしれません。

一年で一つの四季が巡ります。

また新しい四季が巡るときに、初心に帰り初心を忘れないで歩んでこれたかと思い返し一生を磨き続けていきます。日本人の清々しさ、根の明るさはこの年中行事が助けてくれていたのかもしれません。

暮らしを甦生しながら、子どもたちに伝承していきたいものを譲り渡していきたいと思います。

 

 

言葉の定義

言葉というものは時代の価値観と共に変化するものです。それは時代の価値観が反映されて言葉を使う人たちの間で変わっていくからです。つまりは言葉というものは、そもそもそうやって人間の間で不確かに生き続けて形を変え続けるものだからです。だから言葉のことを言霊とも言うように思います。

たとえば、孔子の時代に孔子が弟子と問答した論語もまた時代の流れと共に変化してきます。春秋戦国時代に使われていた仁義などの言葉も、平和な時代に入るとその意味が少し変わっていきます。それを今度は、孟子という人物が本来孔子の言うのはこういう意味であると言葉をその時代の人たちに真実が分かるように翻訳していくのです。

日本でも朱子学や陽明学をはじめ孔子の教えが本質を維持するように、その時代の翻訳者たちがそれぞれに時代背景に合わせて言葉の定義をしてきました。時代と共に言葉が分化していくのは、それだけの時代を経てきた証拠でもあるのです。

この儒教だけではなく、当然仏教も、神道もまた時代が変わるたびに少しずつその言葉の意味が変わり真実が分かれていきます。その真実を見極める人たちによって、できる限り最初の意味や本来の定義が変わらないように伝承されていくことでそのものが時代に受け継がれていきます。

人間を教育するというのは、この言葉の定義や意味を本来のままに使えるような人々を増やしていくことです。そのうえで、同じ定義を用いてお互いに学び続けて人格を高めていくことが必要になります。

人間は社会を育てていく生き物ですから、社会の一員として言葉を用いて平和な社會を築いていく必要があるからです。

今の時代は多様化が進み、言葉も乱雑化してきています。ありとあらゆる言葉の使い方をする人たちも増えてきて、本来の意味も湾曲して自己解釈が自由勝手に行われている時代でもあります。言葉が氾濫しているといってもいいかもしれません。本来の意味ももう違う意味で刷り込まれてあまりにも反対の意味になっているものが、そのまま使われていたりもします。

学問をする人たちが、それぞれの場所でそれぞれの道で本来の言葉の意味を真実のままに伝えるしか正統を維持していくことはできません。大事なのは古今の聖賢たちが観ているものを一緒に観続けて精進していくことかもしれません。

引き続き、何が真実であるかを求めて日々に言葉の定義を深めていきたいと思います。

坦蕩々

生きていると日々に大変なことが発生します。理想が高ければ高いほど、また純粋であればあるほどに思い通りにはならないような出来事が波のように押し寄せてくるものです。

その都度、心や感情はざわつきますが生き方を訓練する機会として日々の初心に立ち返り自分を大切にしていけば波風は収まってくるものです。

以前、ある方に「波がたっても風を立てるな」と教えていただいたことがあります。その方も、心を澄ませていく実践を日々に取り組んでおられる方で生き方の訓練によって安心の境地を会得しておられました。

人間には偽りの自分と本来の自分というものが誰にしろあり、日々の暮らしの中でその自分自身をしっかりと見つめているからこそ本当の自分を磨いていくことができるように思います。

そのために学問はあり、学問は自己を修養するために存在するのです。孔子が  「古の学者は己の為にし、今の学者は人の為にす」と言いましたが、周りの目を気にして評判や評価のために勉強しているだけでは自分のことをさらに誤魔化していくばかりです。

何のために学ぶのかということを、腹に据えて人間学に取り組む人たちは真摯に自己と向き合い自分の与えられた使命に粛々と楽しんで取り組んでいけるように思います。これが楽しくなくなるのは、まだまだ学問が本当の意味で自分のためのものになっていないからかもしれません。

中江藤樹はこう言います。

「順境にいても安んじ 逆境にいても安んじ 常に坦蕩々として苦しめるところなし これを真楽というなり 萬の苦を逃れ 真楽を得るを学問のめあてとす」

意訳ですが、順調であろうが逆境であろうが、上手くいこうがいかまいが、自分にとって最高の状態でも、もしくは酷く悪い状況の時ですら、傲慢にならず慢心せず謙虚に心は静かに落ち着いたままで同じ処に居て安定し安心している。常に心は「平のまま」で波風を立てることもなく日常のように実践を続けて煩悶とすることがない。これらの安心立命の境地こそ「真楽」というのである。すべての自我妄執の苦難を切り抜け、この真楽を会得することが学問の本懐であると。この真楽とはまさに、もっとも深い感謝であり仕合せの学びの境地です。学問が楽しくて仕方がないのでしょう。人生をもっとも有意義に活かしきった姿です。

孔子はこうも言います。

「子曰わく、君子は坦(たいら)かに蕩蕩(とうとう)たり。小人は長(とこしな)えに戚戚(せきせき)たり。」

これも意訳ですが、自分を磨いていく人物は順逆の状況でも常に初心を保ち波風立てずに穏やかでゆとりがある。この逆に日々に磨かない人はつまらないことにいちいち波風立てて迷走し不安になり、落ち着きが無く自分や未来の心配ばかりをしている。そうならないように学問があり、人は人間を磨く学問がある御蔭で時々の状況で大きく崩れなくなるのかもしれません。

この孔子の言う「坦蕩蕩」、まさに平らで大らか、いい言葉です。もしも一人一人が、この「坦蕩蕩制」をやったらこの世の中は君子が増えて人々がみんな安心立命しながら笑い合い助け合い真楽の世の中を築けるかもしれません。

日々の実践は、大変な時にも生き方を貫けるかどうかで試されます。順境も逆境も人生を磨くための試金石です。時間という手助けもありますから、また原点回帰して根さえ残っていればそこから新たな芽が生えだしてきます。甦生や新生はいのちの常です。

日々に気楽に極楽に頑張らずに無理をせずに坦蕩蕩と、そうやって真楽の境地を得て子どもたちに安心立命することの価値や意味を伝承していきたいと思います。

見守る側としての心構えと心がけを楽しんでいきたいと思います。

 

自分を大切にするということ

中江藤樹の「致良知」という言葉があります。これは今の時代は素直になり切ること、真心のままになること、人徳を究めることなどと定義してもいいかもしれません。中江藤樹は人間には誰にしろ「良知」という美しい心を持って生まれているといいました。これは虚心赤心でもあります。まるで生まれたての赤ちゃんがはじめから周囲を信頼仕切らないと生きていけないように生まれながらにしてすべてのいのちと仲よく親しみ睦み合い尊敬し合い認め合う心が備わっているということです。

私の日ごろからの言い方では、これを「初心を大切にする」とも言います。しかし人間は日々の私欲が我欲、また感謝を忘れて足るを知らなくなってくるとその初心が曇っていき本来の備わっていた真心を見失ってしまいます。そうならないためにも、日々に内省し自分の心にだぶついてくるその欲を洗い清めていく必要があります。

そのために中江藤樹が実践したのは「五事を正す」というものです。これは「貌、言、視、聴、思」を常に意識するということです。つまり和やかな顔つきをし、思いやりのあることばで話しかけ、澄んだ目でものごとを見つめ、耳を傾けて人の話を聴き、真心をこめて相手のことを思いやるということです。

この平易な言葉で説明できる五事は、実際に自己観察してみるとすぐに我が入りこみ以上のような心のままでいることは難しい状態です。だからこそ、普段から自分の心と向き合い、自分の心を大切にし、心の命じるままに心を実践していく必要があります。

その心の実践で今の時代で大切にした方がいいと私が感じるのは「自分を大切にすること」のように思います。これは自分を優先すればいい、自分勝手にすればいい、我儘を聞いてあげればいいという意味ではありません。それに、単に自分を守ればいいということでもありません。

これは自分に孝行するということです。言い換えれば自分を敬うのです。

中江藤樹はこう言います、「私たちの心や体は、父母からうけたものであり、父母の心や体は、先祖からうけつがれたものであります。それはもともと、大自然から授かったものです。孝行とは、父母を大切にし、先祖を尊び、大自然をうやまうことです。そのためには自らの良知をみがき、体をすこやかにし、行いを正しくし、家族やまわりの人々と仲よく親しみ合うことが大切です。さらに、子どもをあたたかい心でしっかりと育てることも孝行です。」

自分を大切にするというのは、ご先祖様からいただいたこの借り物の自分を大切にしていくということです。そのためにはご先祖様を敬い、今の自分を育ててくださった父母や周囲の環境を敬い、日々に自他を愛して優しく思いやりの日常を過ごしていくということです。同様に子孫たちにも、その孝行を盡していくことが「自分を大切にする」ということなのです。

自分を大切にする人は、致良知が磨かれていきます。そして噓偽りない真心の人になっていきます。「自分を大切にする」とはつまり自分に嘘をつかず自分を誤魔化さず自分を責めず、自分に奢らず、自分を粗末にせず、親孝行や子どもたちをあたたかい心で見守るときのように自分自身に接していくということなのです。

時代を超えて、中江藤樹が大切にした生き方は今の時代の人々の生きる指南になっていきます。先人を敬い、本来の学問を子どもたちに伝承していきたいと思います。

思いの手入れ

人間は自分の前提になっている「思い」に気づいているかどうかはとても重要であるように思います。この「思い」が、現実を変える唯一のものであるからです。

そもそも現実とは自然と同じく中立で中庸です。それはこちらの都合で変えられるものではありません。しかし現実は変わらないからこそ、自分が現実に対する思い込みや刷り込みを変えることができるのなら現実は変わって見えるものです。

ある人は、毎日仕事をするのが楽しいと感じ、またある人は毎日仕事をするのが苦痛だと感じる。同じ現実であったとしても、その前提になっている「思い」次第でまったくその人生が変わっていくのです。

ある人はせっかく奇跡のように生まれてきたのだから仕合せに楽しく生きようという「思い」がある人は現実は歓びの連続です。その逆に、何でも当たり前になって不平不満ばかりの「思い」がある人は苦痛の連続です。しかしそれもまた「思い」によって感じ方が異なるのです。

この「思い」をどのように手入れし続けるか、ここに人生を左右する鍵があるように思います。ないものねだりをするとすぐにこの「思い」はネガティブになります。あるものに感謝してすべてが善いことになると信じて生きている人は「思い」が楽観的になり幸福を感じています。

つまり人間は、生き方によってしか現実を変えていけず素直になることでそれを維持していくことができるということになります。では素直にならないのはなぜか、それがエゴや私心、自分の思い通りにならない不満や不安から発生するのは明白です。

素直になるというのは、本来の生まれてきた歓び、人生の仕合せをあるがままに嬉しい楽しい仕合せと感じることです。これを天国言葉と言った人もいましたが、松下幸之助さんは「自分は運がいい」という言い方もしました。

運が善い人はどんな時も「思い」が素直なままです。言い換えれば、素直だからこそ運がいいのです。自分がここまで生きてこれたことへの感謝や、多くのご先祖様たちが助けてくださったことへの感謝、今の人生が丸ごとで素晴らしいことになっているということへの感謝など、有り余る感謝の「思い」で満たされているからです。

感謝で「思い」を満たしている人は、邪念や刷り込みを受け難いように思います。「思い」をネガティブの方へ向けるか、その「思い」を感謝に向けるか。「思い」の手入れこそが省我の実践なのかもしれません。

日々我が身を省みる・・・子どもたちの一度しかない人生の思いを大切に守り続けていきたいと思います。

いのちの根源

火鉢で炭を使い何度もお湯を沸かしていると、炭の個性や特徴によって火の扱い方が変わってきます。そもそも火を扱うということは、水を扱うことと同じように人間が自然の持つ力を調節して利用するということです。

むかしはこの火や水や土などを精霊と呼び、生きている存在として接し崇めていました。現代では一般的にはガスや水道など簡単便利に火や水を利用できるようになりあまり精霊という意識を持つことがなくなりましたが神社や信仰の山などでは今でも神様として大切に祀られています。

古代日本ではこの精霊をどのように定義していたかウィキペディアには下記のように紹介されています。(原文まま)

『古代日本では自然物には生物も無生物も精霊(spirit) が宿っていると信じ、それを「チ」と呼んで名称の語尾につけた[2]。古事記や風土記などの古代文献には葉の精を「ハツチ(葉槌)」、岩の精を「イワツチ(磐土)」、野の精を「ノツチ(野椎)」、木の精を「ククノチ(久久能智)」、水の精を「ミツチ(水虬)」、火の精「カグツチ(軻遇突智)」、潮の精を「シオツチ(塩椎)」などと呼んでいたことが知られている。また、自然界の力の発現はその精霊の働きと信じ、雷を「イカツヂ」、蛇を「オロチ」などと呼んだ。こうした精霊の働きは人工物や人間の操作にも及び、刀の力は「タチ」、手の力は「テナツチ(手那豆智)」足の力は「アシナツチ(足那豆智)」、幸福をもたらす力は「サチ(狭知)」などと呼ばれていた。人間の生命や力の源が、血液の「血」にあると信じられたところに、「チ」が起源しているとも言われている。土(ツチ)、道(ミチ)、父(チチ)も同じ考えが表現されたものと見ることができる。また神話や古代氏族、とりわけ国津神系の氏族の祖先には「チ」を名称の語尾につけているものが見出される。神話では「オオナムチ(意富阿那母知)」や「オオヒルメムチ(大日霎貴)」、氏族では物部氏の「ウマシマチ(宇摩志麻治)」や小椋氏の「トヨハチ(止与波知)」などである。神名や人名の語尾(正確には「〜神」、「〜命』の前の語)に「チ」がつく名前は最も古い名前のタイプで、草木が喋ると信じられていた自然主義的観念の時代を反映しているものと考えられている』

もともと古代の日本語では「チ」や「ヒ」、「ミ」などといった一文字の中に根源的な精霊を定義して言語化したといいます。「チ」はその伝承されているいのちの原点のことを顕しているように「ヒ」は、太陽や光などのいのちの熱光源を顕していました。「ミ」などは、変化や受容するものなどを顕しました。

つまりは古代の人は、言葉でそのものを認識するのではなく精霊そのものの力をそのまま受け取りその姿をそのまま感じ取りそれをそのまま丸ごと活かすことができたのです。

現代は文明が発展し、科学の力によって分析力を高め誰でもその精霊をコントロールできるように便利にしていきました。しかし大きな災害や、地球規模の自然変動を観ると私たちがコントロールしたのはほんのたった少しの一部分でしかないことが分かります。

実際には活かしていると思っている精霊の力も、それは傲慢に使いこなせていると思い違いをしているだけで本当はもっと偉大な力だったものを受け取ることができなくなっているかもしれません。自分たちの進化は実際は進歩ではないかもしれないと疑う必要があるように私は思います。

科学では証明されないことを宗教だインチキだとすぐに価値観で裁く前に、古代の人たちが何を観て何を活かしてきたか謙虚に学び直す必要を感じます。そういう意味では、火に触れ、水に触れ、土に触れ、そして様々ないのちの根源に触れていくことは進化を高めていきます。

子どもたちには、進化に相応しい環境を用意し古代から謙虚に受け継がれてきたいのちの本質のままに伝承していきたいと思います。

七輪

聴福庵では、よく「七輪」を使って料理をします。この七輪とは、土製のコンロのことで炭火を熾したり煮炊きをしたり、焼き物をするときに用いるものです。暮らしの中でこの七輪があることで、炭火を用いた料理はとても幅が広がります。現在ではスローフードの道具として有名になっていますが、本来は日本人には欠かせない調理道具として永い時間暮らしを支えてくれたパートナーの一つです。

歴史としては古代は土師製の炉として宗教用道具として祭祀などにも用いられ平安時代になると室内において置き炉となりこれがのちに手あぶりになり、屋内での簡単な炊事や酒燗などに利用転用されたものだという説があります。能登製の珪藻土が有名ですがむかしは土師製粘土のものが多かったといいます。

この珪藻土というものは、植物プランクトンの遺骸が集積したものです。この天然珪藻土には無数のミクロの空胞がそのまま残っており、保温性・蓄熱性が高く熱効率が良くしかも丈夫でまさに炭火を熾し調理するための最高の材料だったのです。粘土から珪藻土になるのは珪藻土の産地の能登半島を除き明治時代になってからと言います。

現代では七輪の三大産地は土質の良好な愛知三河、石川珠洲・和倉、四国香川があり、かつてはこの三大生産地で日本全体の需要を賄っていたといいます。しかし七輪の需要の急激な減少から廃業が続き三河で3社、石川和倉で1社、石川珠洲で4社ほどになっているといいます。

聴福庵で活躍する七輪たちは、三河七輪と石川珠洲七輪です。まず三河は、江戸時代から続く三州瓦の産地で有名です。この地域は焼き物に適した粘土が多く、瓦以外の焼き物も盛んでした。三河土は熱との相性がよく保湿能力に長けています。これを珪藻土と組み合わせているので丈夫なのです。また黒七輪として有名なのは三河土に炭を塗って乾かし那智黒石で磨き上げているからです。手作りの黒七輪は味があり、うっとりします。

また能登半島は土の三分の二が珪藻土でできているすごい場所です。この豊富に産出する珪藻土鉱床から掘り出された珪藻土ブロックを、崩す事無くそのまま七輪コンロの形状へ切り出して焼成しています。これを「切り出し七輪」といいます。まさに珪藻土のままで形成された七輪は姿かたちそのものが美しく、卓上においても芸術品です。

これらを備長炭や様々な料理の種類に合わせた炭で調理するとき、素材の味は深く引き出されていきます。天然の材料を、天然自然の道具で調理する。現代のように、電磁調理器やプロパンガスなどでは決して出ない味が出てくるのです。

なんでも文明や技術は簡単便利になって効率があがり、人がラクをしてできるようになればいいという価値観ですがそれと共に失っていくものがあるのを決して忘れてはなりません。ラクになることが仕合せなのか、そうではないでしょう。ラクをすることではなく、仕合せのためにラクをしないこともまた選択すべきです。

これらの七輪などの道具は私たち日本人の仕合せを守り続けてきた文化そのものであり、人間が人間らしくゆったりと暮らしを味わい仕合せに生きていくために必要なものなのです。

子どもたちの未来に、大切なものまで奪ってしまわないように使命感を持って暮らしを甦生していきたいと思います。

聴福人の習慣

人の話を聴くのにおいて、「信じて聴く」ということは大切なことです。これはきっと善いことになっていくという信念で聴いているとも言えます。さらに話を聴くことの前提に、相手のことを丸ごと信じている状態になっている必要があります。

つまりは自分自身が聴ける状態であるか、それは自分自身が何を信じて話を聴いているか、自分の信じるということへの哲学や信念が聴くことに現れているのです。

よく話を聞くとき、正しいや間違いなどを指摘しようとするものです。それは信じて聴くこととはあまり関係がなく正しい答えを教えているだけです。正しい答えを聞くことはその人にとっては正解ではなく、その人たちが本当に欲しているのは信じてほしいということがほとんどです。

自分自身が生きていく上で、自分を信じられなくなる時、丸ごと信じて聴いてくださる存在に人は救われるからです。私もそれを幾度も体験しています。

今の自分があるのは、自分が信じることができなくなるような出来事で葛藤するときそれをじっと丸ごと信じてただ聴いてくださった方があったからです。

単に聞いて正論を教えてくれたことがあっても、それは長続きせずその場はわかった気になってもまたすぐに不安や心配になります。しかし丸ごと信じてくれた存在が見守ってくれていると思えると安心して不安も払拭していけます。

つまり心で聴くというのは、相手の心を信じるということと同義なのです。

聴くことができる人は、どんなことがあっても天の声だと素直にメッセージを受け取ることができます。そのメッセージは、「必ず天は最善にしてくださっている」といった全体善に原点回帰していくことを自覚するものばかりだからです。

だからこそ自分の心がどうなっているか、他人の話を聴く前に整えておくのが聴福人の実践なのです。そして聴福人であり続けるためには、日ごろの過ごし方に心を整える内省という習慣が必要になります。

丸ごと善で聴く、丸ごと信じて聴くというのは、日々の御縁を信じて前向きに明るく生き、生涯学習を続けて自己を修めていくという習慣を維持していくということです。私のこのブログもまた、聴福人の実践の一つです。

引き続き、子どもたちが安心して育ち、見守りを感じ続けられるように怠らず努めていきたいと思います。

自然から離れない

今年も自然農に取り組む中で思い通りにならないことばかりを経験しました。お米はイノシシに荒らされ収穫直前に全滅。高菜は3回種まきをし直しましたが1回目は育たず雑草にすべて負け、2回目は虫に食いつくされ、3回目はモグラに土の中を穴だらけにされ育苗が失敗しました。

今年は特に自然の厳しい状況を受けており、今まで以上に葛藤と挫折の中で心を何回もへし折られました。その都度、なんでこんなことにとイライラしては畑に怒りをぶつけます。しかし畑にぶつけても何の解決にもならず、どうしたらと次を考えてまた取り組むのみです。

自然はいつも自分の思い通りになることはありません。

自分が思い通りにしようとする傲慢さは何処から来るのか。それは頭で考えて計画を立てているところにあるように思います。人間は自分の思っている通りにする過程で、自分の考えた通りにしようとします。しかしその考えは自分の都合の良い考え方であり無理やり周りの方を変えようとしてしまいます。自分が周りを変えることで上手くやろうとする、ここに傲慢さが潜みます。

本来は自然に対してそれができるかといえば全くの不可能であり、自然に対しては自分が変わるしかありません。しかし自分が変わるというのは、自分にとっては不都合なことばかりが押し寄せてくるものです。

たとえば、時機を待つこと、寄り添うこと、よく観察すること、声を聴くこと、試行錯誤すること、自分勝手にはいかずどれも「自分から」主体的に関心をもって深くかかわり続ける必要があります。自分のペースを優先すれば自然のペースから乖離していきますから、自然のペースをまず理解する必要があります。

それは「焦らない」ということでもあります、言い換えれば天にお任せして信じるという心境です。

自然はちゃんと自然のスピードで物事を動かしていきます、間違っているのは自分のスピードの方と気づかなければならないのです。大きな成功も成長も、大きければ大きいほどに時間がかかります。高い山であればあるほどに登頂が困難を極めるようにそれだけ達成感も充実感もあるのと同じです。

自分が一体、何の目的に対して挑んでいるのか。それによって進む速度も歩む困難さも異なってくるのです。簡単に誰でもすぐに達成できるような目的ならそんなに苦労はありません。苦労が多いのは難しいことに挑んでいるからであり、それだけ偉大なものを動かそうと頑張っているからなのです。

自然農を通して何回も頭を叩かれて反省を繰り返すばかりですが、私の都合で何回失敗しても自然は丸ごと清濁全て受け容れて何度も挑戦をさせてくださいます。この大きな見守りの中で、自分を磨き謙虚さを学び直すことは自然がある故に実現できることかもしれません。

自然から離れないことこそ人類の真の発展と永続を約束するものかもしれません。

自然から学び直しながら、現代の人たちの苦しみに寄り添い共に子どもたちの憧れる生き方ができるように取り組んでいきたいと思います。