手放す

人生は色々な体験をすることで知恵が増えていきます。知識は本を読んだり教養ある人の話を聞けば増えていきますが知恵は体験しなければ増えていきません。矛盾がありますが知恵が増えるというのは、体験によって手放したり削られたり磨かれたりと捨てることによって増えていくように思います。

例えば、何かを得れば何かを失います。知識であれば新しい知識が入ってくると、古い知識は捨てていきます。体験も上書きしていくと過去の体験は失われていきます。痛みもまた新たな痛みが出れば古い痛みは消えていきます。そんなに全部を同時に持つことは人間にはできないということかもしれません。

シンプルにしていくというのは、同時にもてないということを知り手放すことを実践するということです。あれもこれもと執着していたら、結局、すべてが中途半端になるものです。

この中途半端とは、どっちつかずということで徹底されないということです。これでは力も集中しませんし、最後までやり遂げることもできません。

中途半端にならないようにするには、取捨選択し、目的に集中し、何をすることが最も目的に適っているのかを吟味し心意体行動をシンプルにしていくことです。

シンプルさというのは、手放した先にあるものです。

人は自然体であるとき、行動が素朴になっていきます。色々なしがらみや関係性から人は複雑になっていくものです。右足を出しながら左足を出したり、押しながら引っ張ったりなどでは実際にはできないものです。

順序分けて整理して、今はこれ、今はこれと取り組んでいくことで調和していくものだったりもします。執着が強くなればなるほど、がんじがらめになって身動き取れなくなっていくこともあります。

身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれという格言もあります。水のように流されるままに流れてみるのもまた手放すことの一つかもしれません。

学を深めていきたいと思います。

老舗をつくるとは何か

ブランドというものは、何かと考えてみるとそれは「信頼」であることがわかります。信頼は商売のすべての根源であり根本です。老舗と呼ばれるすべての会社が、長い期間を経て得ているもの、それが信頼であるのは間違いありません。

その信頼をブランドと私は定義しています。この信頼を育てるというのは、生き方を磨いて生き方を貫くということです。生き方を貫いているから、周囲はその人を信頼します。そしてその目指す目的を絞り、その絞った目的に向かって全社員で取り組んでいるからこそ会社もまた信頼されます。

つまりブランドというものは、長い期間をかけてお客様をはじめ社員、および周辺の人々と自分たちの取り組む生き方を通して感情的なつながりを築き形成されるものです。

そしてブランドが失墜する時というものは、その信頼が壊れる時です。どのような時に壊れるかといえば、一つは短期的なものばかりに囚われ長期的な目的を蔑ろにする時。または目先の利益ばかりを追いかけて、本来の目的を忘れる時です。老舗で信頼がある企業は、不易流行をよく判断し、何を変えていけなくて何を変えていいかがよくわかります。さらに言えば、不易というのは長期的な理念であり流行は世の中のニーズやシーズに合わせて自分たちの持ち味を活かし、全体が喜ぶような仕事にしていくということです。

私はよく法人を人格として観て、理念のある会社を一人の人間として捉えその会社が喜ぶかということを純粋に取り組みます。これは、理念が喜んでいるかともいえます。理念が喜ぶために何をすることが最も効果があるのか、そして長期的に観て何を取り組むことがその理念を最も喜ばせることができるのかを考えます。それに気づいた人たちやその仕事に携わる人たちが近い将来、必要とするであろう長期的で必要な目的に取り組むのです。

それを世の中ではブランディング戦略とも呼ばれたりします。つまりブランドは、目先の短期的なものに左右されず長期的な目的に従っている時にこそ醸成され周囲に認知されるということでしょう。

ブランドを持っているものと持っていないものの違い、信頼されるものと信頼されないものの違い、長く積み上げていくこと、積み重ねていくこと、研ぎ澄まされていくこと、盤石な基礎を固めていくこと、それがブランドを創るということでしょう。

一見、利益にもならない、儲からない、あるいは手間暇もかかり面倒で趣味や道楽だといわれるようなものでもよくよく洞察するとこれが長期的な信頼であると御旗を掲げて歩んでいることがわかります。

長いからこそ理解できず、純粋性で高い理想や理念に対して思いが透徹しているからこそ老舗としての初心が育ち、それが養分となり大樹になっていく土が醸成されるのでしょう。

ブランドは土づくりととても似ています。収穫を考えず、ただ只管に土をよくするためにいのちを懸ける。しかしその懸けた土があれば、その後にどのような作物の種を蒔こうとよく育ちます。それを私は「場」とも言います。場を育てるというのは、土をつくるということです。

農の本質は、国造りであり人づくり、そして未来のための土づくりです。

そろそろ集大成、遺言のようにこの文章を刻んでいきますが後を託す人たちのために自分にしかできないことを遣りきっていきたいと思います。

暮らしフルネスの体験

久しぶりに聴福庵で暮らしフルネスの一日体験の機会がありました。福岡の女性経営者の方々をお迎えしてでしたが、素敵な方々でお互いに時間を忘れて場を味わいました。

もともと私の取り組んでいる暮らしフルネスは、様々な暮らしの実践に彩られています。暮らしの中に入ってもらい、一緒に体験することで何を感じているのか、どのような意識でいるのか、そして何を大切にしているのかを感じていただけます。

暮らしの一端を感じていただくだけでも、大きな気づきがあり人生に影響を与えます。私はもともと教育に携わってきた経験がありますから、体験の価値の偉大さを自覚しています。

一つの体験が、それまで得た知識を丸ごと凌駕することがある。人間は一人が目覚めれば、世界を変革するほどの影響を与えるということ。

この世の中の仕組みは、集合意識ですから一人の意識の変容が同時に世界に深く関係するのです。理解するのではなく、直観するだけでも目覚めは厚く深くなるものです。

昨日は、親友の禅僧にも参加いただきお昼前に座禅をして食事を共にしました。食べること、眠る事、息をすること、あらゆる動作を丁寧に調える暮らし。暮らしフルネスは場でも感じられますが、同時に禅と合わせると相乗効果があるものです。

いつもは英彦山の守静坊で体験しているものを今回は聴福庵で行いましたが、お庭の紅葉の風情が重なりとても穏やかで静かな心落ち着く一日になりました。

子どもたちに遺して、ゆずっていきたい未来はどのようなものか。

引き続き、暮らしフルネスの実践をし身近なご縁の方々から伝道していきたいと思います。

階段箪笥

昨日は煤払いをしている最中に隣家の寺院の庫裏で使っていた階段箪笥を譲り受ける機会がありました。この階段箪笥は江戸時代頃から存在していて、狭い町家の中で利便性と機能性、そしてデザインや意匠に優れた伝統家具です。

現代の住宅事情の中ではあまり見かけなくなりましたが、むかしはとても重宝されたものです。飴色に変化して、見事な色を放つ木材は時代が変わっても色褪せることはありません。

むかしの家は狭い中で二階にいきましたからどの階段も急こう配になっています。現代は、西洋建築になり階段もゆとりがありますがむかしは2階にいくのも一苦労でした。梯子を使ったり、狭いところを天井の合間をぬったりと色々です。

二階は狭く暗いというイメージがあり、屋根裏部屋などもその一つです。しかし、この階段箪笥があるところは2階もしっかりしているところが多く、隅々まで工夫をしている町家大工の粋を感じるものです。

私はよくこの階段箪笥を活かすように工夫しますが、階段箪笥はお花を活けたり照明の当て方では大変美しく風情があります。

箪笥というものは、ただの収納ではなくそれぞれの家の大切なものを仕舞う場所です。階段箪笥を入れることで、その隙間のスペースが活き活きしますし階段を上り下りすることでその階段箪笥も喜んでいるような音がします。

人の役に立つ、あるいは全体のお役に立てる喜びというのは人も物も同じです。一緒に生きている家の中の仲間として、何らかのお役にたっていると感じられる相関関係の中に善い場は生まれます。

善い場を保つには、それぞれの持ち味を活かす工夫からはじまります。

丁寧に場を調え、新しい仲間を迎えていきたいと思います。

自然塗料の徳

現在、浮羽の古民家甦生では亜麻仁油を天井の塗料として活用しています。この亜麻仁油というのは、亜麻仁油は亜麻という植物の実から採取した植物油で艶のある丈夫な塗膜をつくる塗料として使われています。

よく古民家では蜜蝋をはじめ米油なども使いますが、この亜麻仁油は特にカビや腐敗に強く水をはじく効果が強くあります。また「乾性油」といって自然乾燥する作用があり、日本では古くから船底や番傘の防水素材でも活かされてきました。

もともと天然塗料のメリットは、人体に害がないことです。ほとんど便利なすべての合成化学塗料は人体に悪影響があります。シックハウス症候群といって、その空間にいるだけで具合がわるくなったり病気の温床になります。また素材や木材をメンテナンスするのにとても不便です。

そもそもメンテナンスや維持管理は、お手入れすることが第一です。面倒だからと便利なものを使いますが、そのせいで別の不便な問題を発生させるものです。必要な不便さというものがあるからこそ、その不便さの持つ大切な意味もあるのです。

例えば、亜麻仁油を木材の仕上げ材として使えば木の呼吸機能を妨げず、木が本来持つ調湿機能や空気清浄機能に効果を発揮します。木材はもともと呼吸しますから、通常の化学塗料はそれを防いでしまいます。これは合成漆喰などもですが、本来の自然の持つ力を無視して便利さを追求することで自然物の徳性を滅してしまうのです。

自然塗料の最大の特徴は、人体にも自然も活かす相乗効果があることです。自然塗料は、木も人も長生きさせます。そしてお手入れを通して、その長生きしたものがもっと長生きできるようにと祈り触ります。

古民家甦生と古民家再生風とは実践はまったく異なります。私は前者ですから自然塗料には本当にお世話になっています。

生き方は、妥協できませんからこれからも法律や環境などあっても創意工夫して自然物と共生していきたいと思います。

見守り合える場

「強み」というものがあります。これを一般的な定義では、「自分が自然に発揮できて、成果につながりやすい能力や資質」ともいいます。このポイントは「無理をせずにいて自然体でいるときもっとも力を発揮するものである」ということ、これを私は別の言い方で「徳」とも呼びます。

この「徳が引き出されるようにしていくこと」、それが私が考える「強みを活かす」ことです。

それぞれ人には必ず何らかの持ち味というものがあります。同時に会社にも持ち味があります。その持ち味がそれぞれに最大限発揮されるにはどうすればいいか。みんなで足るを知り、その持ち味の価値に氣づき、その持ち味を活かすことに行動を絞るとき、唯一無二のブランド価値を高めることにもなるのです。

例えば、私の場合はご縁に従うという生き方があります。ご縁で到来したものは選ばないと決めてから、すべてをご縁として承ります。時には自分に都合のよくないことばかりですが、そのどれもがご縁として受け取り真心で意味付けしていきます。これは私は生き方として自然に行っているものです。

そしてその中で得られた様々な能力や資質がどのように活かされ、何のために与えられたのかを整理すると自分の「徳」が次第に観えてくるのです。孔子は、論語の中で「五十にして天命を知る」ともいいました。

万象具徳というように、この世のあらゆるものには必ず強みがあります。強みがないものなど存在しません。それは持ち味がないものがないということです。小さな植物であろうが大きな動物であろうが、無機質であろうが微生物などの存在であろうが持ち味があるものです。これは持ち味が観える人と見えない人がいるだけです。

大事なのはお互いがその強みを活かすために、お互いの持ち味を心から尊敬できるかということが重要になります。そしてそれは日々の暮らしで徳を積むという実践によって磨かれていくものであろうと私は思います。その一つに私たちが大切にしている「一円対話」があります。これも徳を積むことの一つです。

徳を積むというのは、強みを活かし続ける精進と似ています。自然体でみんなが活き活きと働き助け合える場を育てていくことで同時に徳もまたその場に醸成されていくものです。

引き続き、子ども第一義の社業の実践を通して見守り合える場を子どもたちのいる現場に伝承していきたいと思います。

磨き合いの場

場の道場にはたくさんの来客があります。その中でもご縁の深い方々は、なぜかお水を大切にされている方が多くあります。もしかすると敷地内に神社があるからか、とてもよいお水が湧き出ているからか、お水は人を集めます。

そもそもいのちを活かす最もこの世で大切なものはお水です。

お水がなければ生きていくことは不可能です。そのいのちと同じくらい大切なお水が今はどうなっているでしょうか。塩素で害され、水脈も破壊され、お水を育む山も人工的にされ、海も汚染されています。

お水が安心して循環できるようになっておらず、世界では豪雨や洪水の被害は増える一方です。

不思議なことですが、高尚なことを勉強して知識だけは豊富になっても結局、何も変わりません。理屈や理論では注目され、頭の良い人たちが世界を変える方法を声高々に最先端技術やAIなどを用いて解決できると豪語したりします。しかしよく考えてみると、それもマッチポンプ商法のようにしか見えません。こんなことを言うと、怒られるかもしれませんがそもそも大切なことを守ることは地味で質素、本質的で静かなものです。

運動論ではなく、実践ありきでそれはどのように守り、どのように暮らすかといった生き方を磨くことです。

もちろん、人間はたくさん集まれば大きなことはできます。しかし本当は自律分散といって、それぞれの場でそれぞれに実践をし、大切なものを守り続けることを信念をもってやりきるところに存在するものです。

私が尊敬する生き方の方々は、みんなそのような人物でした。

自分の居る場所で自分の答えを生きる。

答を生きることは、自己との調和であり自己練磨の継続です。それは真に豊かなことで、感謝に包まれている凛とした道の実践です。

流されることなく、引き続きご縁のある方々と共に磨き合いの場を醸成していきたいと思います。

場の推譲

英彦山の宿坊の池には岩魚(イワナ)を飼育しています。この岩魚」の語源は、主に渓谷の岩陰や岩のある淵に生息する特性からで「岩の間にすむ魚」という意味で名付けられています。語尾の「ナ」は他の魚の名前でも見られるように、魚を意味する古語だといいます。また別の漢字で「嘉魚」とされます。嘉は「よい」とされ、私の故郷も元は嘉穂郡といって、この嘉は吉祥とされ、その魚ということになります。

ヤマメよりも上流に棲み、水温も15度以下を好むといいます。20度を超えると衰弱するということから、もともと水の綺麗な高山に棲んでいるともいえます。

英彦山の宿坊も標高が高いところにあり、水温がとても低く冬は凍てつく寒さです。岩魚は、渓流の王様ともいわれる魚です。雑食性で虫や魚などなんでも食べます。

ただ日頃はすぐに岩場に隠れるので宿坊の池をみてもそんなに泳いでいる姿をみることはほとんどありません。人が来るとすぐに急いでいわばに隠れるので、あっという間に見失います。

小さいころ、メダカをはじめ、金魚や鮒、鯉、熱帯魚などを飼育したことがあります。水槽で飼育しましたが魚を飼うは思ったよりも大変でした。今は池で岩魚を飼育するようになって、人生の変化を感じています。

お山の魚はどれも美味で、ヤマメも岩魚も塩焼きでじっくりと炭火で焼くとどんな食べ物よりも美味しく感じます。最近は、柚子胡椒やきくらげ、他にもお山の野草などを調理することもふえて山暮らしの知恵を学び直してもいます。

自然が厳しいというのは、それだけ自然が美しいということで山はいつも澄み切った空気に包まれます。本能でその美しさに惹かれるのは、懐かしい暮らしの中の幸福感を覚えているからでしょう。

太古のむかしからある様々な生き物たちと共に、いのちを分け合い循環して生き延びてきた何かに触れると懐かしさは耀くものです。

引き続き、暮らしの伝承を通して子どもたちに場を推譲していきたいと思います。

納豆の伝承

昨日は、藁ぶき古民家和樂で仲間たちと一緒に納豆づくりをしました。今年の藁から納豆をしあげていきますが、竈ごはんとやお味噌との相性もぴったりでみんなで座禅後のような多幸感を感じることができました。

この納豆の発祥は、いつからかよくわかっていません。稲作と共に入ってきたという説、秋田県が発祥などもいわれます。もともと納豆の中にいる微生物は、枯草菌の一種で菌類最強ともいわれます。宇宙空間でも生きられるとし、酸やアルカリ、乾燥、熱などあらゆるものに強いといいます。少し菌糸が洋服などについてもそこから繁殖できるともいいます。

なので酒造りや醤油、味噌など麹菌を扱う場所では納豆はご法度になっていたりするものです。しかしこれが長所でもあり、私の居る宿坊は水気が大変多く、夏場の湿気であちこちにカビが繁殖します。それを納豆菌をスプレーで布につけて吹き掃除をしたり、箪笥の中や厨房などに置いておくと納豆菌が抗菌性のペプチドを生成しこれによりカビや他の有害な菌を駆逐してくれます。納豆菌が自身の生息空間を確保する仕組みをつかって他の微生物を寄せ付けないという仕組みです。

納豆の真のすごさは天然で副作用のない抗生物質とも呼ばれることです。腸内の悪玉菌や腐敗菌などを退治してくれます。善玉菌を守りつつ腸内フローラを活性化する。 納豆1グラム中におよそ10億個といわれる納豆菌が存在していてその納豆菌が生産するさまざまな酵素も出てきます。

このような智慧の存在を先人たちは随分早くから知っていたことになります。

時代が変わって科学がいくら発展しても、ここまでの存在を見つけることはなかなかできないはずです。納豆菌の素晴らしさは、藁の存在から感じます。藁の薫りや稲のすごさ、田んぼの力の根源などにこの納豆菌の持つ素晴らしさを再実感しました。

これからも子どもたちへ知恵を伝承していきたいと思います。

心の豊かさ

心の豊かさをよくお話する機会がありますが、その逆に心の貧しさということはほとんど話すことがありません。しかし豊かさがあるように、貧しさというものも同時にあります。

例えば、心の豊かさといえば私は徳のことをお伝えします。徳には心の豊かさで溢れています。物事の善い面を観ては、短所も長所として活かす。すべてのものに具わっている徳に光を当てて甦生し続ける中に私は真の豊かさを感じます。

しかしでは貧しさというのは何かといえば、この逆のことです。物事の悪いことばかりを見ては長所も短所として扱う、そして人を軽んじるのです。つまり徳を無視するということです。

ではなぜ軽んじるのか、それは心の貧しさからきます。相手をバカにしたり、上下をつけては蔑んだりする、勝手な評価基準をもっては人を裁いていく、ここには心の貧しさがあります。

この心の貧しさはなぜ発生するのか、それはあるがままのものを本来のあるがままの心で観れないということに原因があります。つまり何かの思い込みや刷り込み、あるいは常識や環境の影響を受けて本来の澄み切った眼を曇らせているからです。

なので私は古民家などでも磨きをはじめ、浄化や澄ます体験を通して心の豊かさを伝道しているのです。

心が豊かになれば、物事の実相がはっきりと明瞭に確認できます。すると人は、心の豊かさを取り戻すのです。

その時、人は思い込みから開放され様々な執着に縛られていることを手放すことができます。それが私が実践する暮らしフルネスの本質です。だからこそ、初心を忘れず伝承を砥石にしてお互いに一緒に心を磨いていきましょうと話します。

一緒に磨き合う関係の中にこそ、心の豊かさの根源が存在するからです。

ちょうど、英彦山の守静坊の古木の柚子を収穫し聴福庵に集まってみんなで柚子胡椒をつくりました。柚子の澄んだ香りは心も澄ませてくれます。また懐かしい伝統保存食の智慧をみんなで伝承する場は豊かさで溢れていました。

心の豊かさは、自然の恵みや循環と共に過ごす暮らしの中で彩られます。今日は、これから古民家和樂で納豆づくりをみんなでやります。納豆の藁も、無肥料無農薬の稲架かけした藁で大豆も同じ田んぼのものです。

自然の恵みに感謝して、心豊かな日々を歩んでいきたいと思います。