甦生業

藁ぶき古民家の甦生もまもなく最終段階に入ってきていて家の徳が引き出されてきています。ご近所の方や通りすがりの車が止まり声をかけてくださいます。その声は、一様に「だんだんと家が善くなってきていますね、楽しみです」というものです。

それは動画で配信しているサイトのコメントでもたくさんいただき、身内や仲間からも喜びの声をいただきます。その言葉に励まされ、信念を強くして真摯に家に向き合って修繕を続けています。

考えてみると、人はみんな何かが甦っていくことに希望を感じるように思います。

もう御終いだと思っていたものが復活して、それがさらに以前よりも元氣になって美しく生命を輝かせていく姿に偉大な何かの存在を感じるように思うのです。

それは病気からの恢復、あるいは壊れた機械の修理、よくお手入れされた道具、これらのものに触れると人は善かったねと喜んでくれるのです。徳を積むということは、この甦えらせていくことに似ているのです。

今まで荒れ地で捨て去っていたものを甦らせてそこで作物を育て農地を役立てること、経験豊富な高齢者や職人たちが後世の若い人に技術を伝承していくこと、他にも古井戸や古民家を甦生して新しい役目を与えて人々を潤してもらうこと、こういうこともまた徳になるのです。

徳は事業ではなく、お金儲けではありません。なので無理にお金のためにするものではなく、みんなが喜び、自分も喜ぶことを真摯に取り組んでいくことに似ています。自他一体に全体が幸福になるというのは、自然循環の摂理であり自然の徳の仕組みでもあります。

この徳循環を支えるもの、それが「甦生」なのです。

甦生業が私の取り組みですから、甦生したものが役に立てるように場を創造していくこともまた使命です。挑戦すれば喜びも多いですが苦しみもまた同時に発生します。それを味わいながら、今、できることに真摯に挑戦を本気のままに続けていきたいと思います。

 

運気を磨く

昨日、久しぶりに田坂広志先生の講演を拝聴する機会がありました。新著「運気を引き寄せりリーダーの7つの心得」のお話が中心でしたが共感するものが多く学ばせていただきました。

想えば20年以上前に東京で田坂塾でお会いしたのがはじめてでしたが、ほとんどお変わりなく一期一会に真摯に講義されるお姿に生き方を垣間見させていただき刺激もいただきました。

あの頃は、「メメント・モリ」という死を想うという生き様を実践する大切さを語られていました。今日が人生最期の日と定めて生きていくことの大切さ、当たり前ではない時間に気づいているかという問いを発して一期一会に生きることを伝えておられました。

そして今回は「運気」ということでしたが、運は決して宗教的技法の祈りではなく、科学的技法としての祈りであると定義しています。つまり単なる神秘的なものではなく、これは実証されているという事実であると。現代、量子論を含め科学がその神秘の世界を可視化してきています。その時、これは単なる偶然ではないということがわかってきているのです。

それをあらゆる角度から分析し、リーダーというものの真の役割について語れています。古今、リーダーはすべて「運がいい」ということが絶対条件だといいます。その理由は、リーダーを含めた組織全体を導いていく使命があるからです。運がよくないリーダーについていけばいくらその人が良い人でも組織は運を逃して悲惨なことになることもあります。

運のよさというのは、その人だけではなくその周囲も幸運に導いていきますのでリーダーはその運気というものへの心得を持つ必要があるということでしょう。

田坂先生のいう心得の詳細は、GROBISのサイトで拝見できます。

私もいつまでも実践と改善を積み重ねて、運気を高めて子どもたちを導いていけるよう徳を磨いていきたいと思います。

腸活を楽しむ~智慧食~

私たちの郷土料理の中の一つに「ぬか炊き」というものがあります。ぬか漬けの漬物を知っている人は多いと思いますが、そのぬかを使って料理して味付けをし煮込んだものがぬか炊きといいます。

そもそもこの「ぬか」は、玄米を精白する時に出る、胚芽(はいが)と種皮とが混ざった粉のことをいいます。それを壺や木桶などに入れて、塩水を加えて練れば「床」ができます。そのぬかの床ができるから「ぬか床」(ぬかみそ)とも呼びます。このぬか床は人間に有益な微生物や乳酸菌などの棲家になりそこでの発酵の循環で産み出されたものを摂取することで人間にとっても豊富なビタミンやミネラル、栄養価を得られます。

この微生物と人間との調和、そのものを「発酵」と呼び、私たちは伝統文化として暮らしの中に取り入れてきました。野菜等の保存食としても最適でもあるためこの智慧を伝承されてきたのです。今では冷蔵庫=保存するものになっていますが、自然界にはそんなものはなく微生物と共生することで私たちは生き残るための智慧を獲得してきたのです。この時の保存は単に傷まない腐らないための仕組みではなく、「永続的に健康でいられる仕組み」まで入っていたのです。

以前、確かこのブログでも書きましたがぬか漬けの歴史は奈良時代の「須須保利(すずほり)」という漬物がルーツだともいわれます。米糠のことも734年(天平6年)の正倉院文書の尾張国正税帳にあるといわれています。それだけぬかを使った暮らしには歴史があります。

その「ぬか」を使った「ぬか炊き」は一般的なぬか床のような漬物として使わずにぬか床を調味料にして青魚のサバやイワシをぬか床で長時間炊くのに使います。つまり「ぬか+炊く」から「ぬか炊き」ということなのです。このぬか床を長時間炊くことで保存期間が延びさらに青魚特有の臭みも消えぬか床のうま味が魚に入り絶妙な味わいが得られます。健康になる上に、寿命が伸びるという発明食です。福岡での伝統郷土料理としてのはじまりは小倉藩主の小笠原忠政公が前任の信濃国から保存食用としてぬか床を持ち込んだのがはじまりです。

今の時代、添加物をはじめいのちの入っていない便利なサプリや加工食品ばかりが広がっている中で腸内環境を整えるといった「腸活」が流行ってきていますが現代社会でも心身の健康恢復の救いになるのがこの「ぬか漬け」と「ぬか炊き」であることは間違いありません。日々の暮らしの中で如何に腸内フローラを活き活きさせていくか、それは暮らしの中の日々の食の智慧と工夫にこそあります。

つまり伝統保存食は単なる長期間腐らないものではないのです。本来の伝統保存食とは、健康な暮らしを維持継続させるための智慧食のことです。私たちは日々に心身が整っていけば、それだけで仕合せを感じます。日々の暮らしは、私たちの人生を美しく彩り、明るくしていきます。

「食」という字が、なぜ「人が良くなる」と書くのか。それは食によって人間が磨かれていくからです。そしてそれは「腸内環境」からというのはまさに的を得ていると感じます。

コロナウイルスのことで、暗く辛い報道も増えていますが、いつまでも子どもたちが安心して元氣で健康で幸せになれるように私も腸活を楽しんでいきたいと思います。

 

助け合いの精神

現在の世界の政治の運営の仕組みは、成熟して限界値を超えてきています。それぞれの国が国家財政がひっ迫するなか、今までの仕組みでは社会制度を保つことが難しくなっています。

人類はこれまでいろいろな方法をつかって社会を維持してきました。グローバリゼーションによって一斉に似たような社会を築きましたが、少子高齢化をはじめ今までになかったような問題に取り組むことになっています。

こういう時こそ、私たちは歴史に学び、智慧を磨いていく必要があります。

かつて米沢藩主上杉鷹山という名君がいました。この方は「民の父母」として慕われました。財政難に陥っていた米沢藩を倹約や民政事業による財政の立て直しを行いました。その具体的な藩主の根本方針を次の「三助」と表現して政治を執り行いました。

それは、「自助・互助・扶助」の3つです。これは自ら助けること、そして近隣社会が互いに助け合うこと、最後は藩政府が手を貸すこととしました。

「自助」実現のために米作以外の殖産興業を積極的に進め、「互助」の実践として農民には「五人組、十人組、一村」の単位で組合を作り互いに助け合わせました。また孤児、孤老、障がい者がいた場合は五人組、十人組の中で、養うようにしました。また一村が火事や水害など大きな災害にあった時には近隣の四か村が救援するようにしました。

それを超えるような災害、天明の大飢饉では藩政府の「扶助」が必要とし、藩士、領民の区別なく一日あたり男、米3合、女2合5勺の割合で支給して粥として食べさせ乗り越えました。その際は鷹山のいる上杉家も全員で領民と同様に三度の食事は粥としそれを見習って富裕な者たちも貧しい者を競って助けたと記録にあります。

これは実は、時代を超えても大切な三要素であることがわかります。そしてこの仕組みは、国家経営だけではなく会社経営、人類の社会存続の智慧であることもわかります。

つまり「助け合い」がしやすい環境を創造したということです。

常に有事に備えるとは、日々の助け合いの機会や場が整っている状態をつくるということです。現代は、個人主義でプライベート重視ですから助け合うよりもあまり深く関わらないように距離をとって生活しているものです。特になんでもお金を使えば、その助け合う要素が必要がなくなりますから何でもお金で解決しようとするものです。

そうやって社会全体が、助け合い難い環境が仕上がっていきました。すると次第に、財政がひっ迫していきます。その状態になったら余計に人々は助け合わず、さらに悪循環に陥り財政難はさらにスピードアップしていくものです。

日本の国家運営をみても、助け合う環境がますます減っていき膠着してきています。災害というものは、天災、人災がありますがいつこの先どのような災害に見舞われるかわかりません。現在は、コロナという人災の災害ですがこれが他に天災が加わってしまえば私たちは上杉鷹山が体験したような大変な状態が訪れるかもしれません。

あの当時ですら、気候変動から天保・天命の疫病と飢饉で100万人以上が亡くなっています。気候変動はこの先もずっと避けては通れない自然の摂理ですから私たちは常に災害に備える必要があります。世界でもっとも危険で、自然災害が多い国に生まれた以上、私たちは世界に対して災害を乗り越える智慧を発信して世界の人類の一つの希望にならなくてはなりません。

日本人として、これから何が必要なのか。それをどう示していくか、そこにこの上杉鷹山の言う「自助・互助・扶助」の助け合いの精神は要になっていくと私は思います。

これは日ごろからどのような暮らしをしていくかという生き方の問いでもあります。暮らしフルネス™の中に、この智慧を取り入れていきたいと思います。

渋い生き方

昨日、藁ぶきの古民家の壁に伝統的な渋墨の塗料を使い塗装していきました。松煙を使った黒い塗料ですが、塗った後の板の木目がまさに「渋い」感じてうっとりとしました。

この渋いという言葉は、室町時代の「渋し」が起源であるといわれ未熟な柿のような酸味、苦味の事を元来は意味していたといいます。

そこから「渋い」、現代でも「落ち着きがある」「趣がある」といった意味とし使用され、現代でも渋いことは格好良いものの一つとして使われています。

この渋さは、ただ見た目だけのカッコよさをいうのではないのは古民家甦生に手掛けてわかるようになりました。聴福庵では5年前に施した渋墨の板壁が今では本当に黒光りして磨き上げられた壁のように艶があります。

これは長年をかけて熟成されてさらに雰囲気があり格好よくなっています。渋いことに似た言葉に「いぶし銀」というものもあります。時間をかけて磨き上げられた美の魅力を表現する言葉です。

この「いぶし銀」は「銀」の持つ性質のことをいいます。一般的に金属の中には錆びていきますが「銀」の場合は、化学反応によって硫化し表面が硫黄銀で覆われていきます。すると黄味がかった色が黒へと時間をかけて色合い・風合いが出て魅力が上がっていきます。いぶし銀は、ピカピカするような輝きは失せまずがその分、「渋い」感じが出てくるのです。

この「いぶし銀」の持つ渋さや奥行きになぞらえて、「いぶし銀の活躍」などという言葉のように「魅力的な人」の代名詞になっています。

このいぶし銀の持つ、渋さは本物の実力を兼ね備えた人ということです。渋い人というのは、真の魅力を持っているということの意味でもあるのでしょう。私は、古民家甦生をするときによくこの渋い黒を用います。黒が好きということもありますが、私は正確にいうと熟成されていくのが好きなのです。なので発酵も大好きですし、時間をかけて醸成させていくのにもっとも興味があります。

9年物の高菜漬けを漬け続けるのもまた熟成されたものでしかでない芳醇な香りと品のある味を学ぶためでもあります。

「渋い」というのは、一つの生き方でもあります。

渋い生き方ができるように、伝統や日本人の美意識から学び、子どもたちに伝承していきたいと思います。

 

尊重する世界

世界にはまだ100以上の外界と接触していない民族や部族があるといわれます。アマゾンの奥地であったり、山の高地であったり、あるいは孤島の中であったりします。そこには独自のユニークな文化や生活様式を発展させ、少数ながらもその風土に適した暮らしを実現しています。

グローバリゼーションの中で、世界はあらゆるところに行けるようになりあらゆる文化や生活様式を一変させてしまいました。工業製品などは、安くて便利なものがあらゆるところに行き渡りその土地の生活様式を変えてしまいます。

今までよりも便利なものが外から入ってくればそれが今まで風土に合った手間暇かかるものよりも価値があると欲を優先してしまうのでしょう。そうやって日本も江戸時代から明治にかけて西洋文化や工業製品などが膨大に流入してそれまでの文化を手放していきました。

特に若い人たちは携帯電話をはじめ、目新しい道具を使って力を手に入れることに敏感ですからあっという間に広がっていきます。そうやって世界はどこにいっても、同じような価値観の社会を広げてきたのです。

しかし同時に、外界と関係を断っていた民族は外からやってくる病気やウイルスに対する抵抗力もありません。なので、あっという間に蔓延して絶滅したところもたくさんあります。またその反対に、今まで関係を持たなかった地域の危険な風土病が世界に広がっていくということも発生します。

お互いを尊重してそっとしておくような関係が維持できれば、その場での平和は保たれるのでしょうが現代のグローバリゼーションはそこに資源を取りにいき、経済成長のために浸食していく仕組みですからそっとすることは不可能です。このまま最後は、世界のあらゆるところに隙間がないほどに入り込んでいきます。

そのうち、宇宙人というものを地球外に見つけそこに向かって移動していこうとするでしょう。そして現在の少数民族とのやり取りのように病気を持ち込み資源を奪い、また経済成長のためという大義をもって浸食していくということは簡単に予想ができます。

よく考えてみると多様性というものは、尊重されることで維持されるものです。尊重せずに浸食すれば多様性というものはありません。その尊重は、無理やり折り合いをつけるのではなくお互いの最適な距離感の中で見守りあっていくことであろうとも思います。これは自然界の仕組みそのものでもあります。

世界は、何で一つになるのか。それがいよいよ人類に問われている時代だと私は思います。

後悔しないように子どもたちの憧れるような生き方を譲り遺していきたいと思います。

結友の仕合せ

昨日は、また藁ぶきの古民家で結友の仲間たちと掃除やべんがら塗を行いました。大変な作業もみんなで助け合って取り組めば心地よく、家も人もみんなが元氣になっていく感覚があるものです。

また人は一緒に何かをすると、その人の個性や人間性が観えてきます。対面で相手の様子を伺うよりも、一緒になって作業することでお互いの特徴や人柄、そのほかの得意不得意などを知り、心が通じ合っていきます。

掃除の効能は、一緒に取り組むことでお互いを尊敬しあうことができることです。一般的には現在はすぐに比較や競争、評価ばかりが重んじられていてなかなかお互いを尊重して認め合うことができません。一緒にやるよりも、個々の専門分野の人の役割のように配置されているものです。しかし実際には、自分にはない多様な能力や個性がありますから力を合わせた方がいい仕事をすることができます。

ここでのいい仕事は、決して完璧に仕上げることではありません。豊かさやつながり、また楽しみや喜びを感じることができるいい仕事になるということです。一緒に取り組むというのは、それをたくさん味わう時間が持てるということです。

私は、結果よりもプロセスのタイプでみんなで一緒に取り組んだり、味わったり、振り返ったりする方が楽しいと感じるタイプです。終わらせることや目標を達成することだけがいいのではなく、そのプロセスが如何に豊かであったか、仕合せであったかを確認するものです。そのためには、お互いを認め合い、一緒に取り組むという体験を増やす必要があるのです。

それは別に能力があるかないかだけではなくです。昨日は、小学生や大学生が来ていたり、シェフや主婦の方などがそれぞれで一緒に作業しました。みんなで取り組むことで、その人の仕事ぶりが観えてうれしくなります。それはその人がここがダメだとか、ここは直さないととか評価は全く入りません。むしろ、下手でもその人が主体的に取り組んでいることが楽しいのです。子どもたちも最初はみんな上手い人はいません。みんな下手です。そのみんなが協力し合って取り組んだものは下手でもそこには楽しみや喜びがあります。それはみんなの心を通じ合わせて取り組んだからです。

本来の価値とは何か、それは人が仕合せになることです。その仕合せになるために、結果があるのだからあまり上手いとか能力があるかとかにこだわる必要は私はないと思っています。

なぜなら、それが認め合い尊重することになり慢心を戒め、人が謙虚に感謝しあい助け合うための基礎になっていくからです。本来の教育とは何を教えるものか、それは評価や比較ではないと私は思います。なぜならそれで幸福を感じにくいからです。幸福を感じるためには、みんなで下手でもお互いで教え合い知恵を出し合い許しあい、認め合い、助け合うことです。

結友の集まりはいつもそれを実感させてくれます。

こういうプロセスを経て仕上がっていく藁ぶきの古民家は心のふるさとです。子どもたちのためにも憧れるような生き方を増やしていきたいと思います。

ご縁を実践すること

昨日、35年前に近所に住んでいた先輩と久しぶりに再会するご縁がありました。小さいころにソフトボールやラジオ体操などを一緒にやったことを覚えています。思い返すと、小さいときは3つ歳が離れていたら大きなお兄さんです。

後輩や子どもたちの面倒見がよかった先輩のことは心のどこかで覚えているものです。35年も経ちなんとなく面影が残っていると、安心するものもあります。歳をとっていくと3つの歳の差などほとんど気にならなくなってきます。

縁あって再会し、同じテーマで話ができたり、それぞれに困難に挑戦している共通点を感じると不思議な時のつながりを感じるものです。

人間には、ご縁というものがあります。

どのようなご縁で結ばれていくかで、日々は変化していきます。ご縁には場所とのご縁もありますが、時機とのご縁があります、そして人とのご縁です。

最初からその場所、その時、その人と出会う運命であったのではないかと振り返ると思うことばかりです。私は、日々に様々な方々とのご縁がありその時々でそのご縁に対処していきます。時として、あれは夢ではなかったかなと思うようなご縁もたくさんあります。

心の余韻にいつまでも残るような仕合せなご縁もたくさんありました。また同時に、傷つけあって一つの絆になったご縁もたくさんありました。あの人たちたちは今、一体どうしているのだろうかと思っても今は連絡も取りようもありません。ただ、未熟者同士で磨き合った思い出が遺っているだけです。

そういうご縁は、その後の人生でさらに深くし輝かせていくことができるものです。それはご縁を大切にするということに尽きるように思います。人のご縁は意味あって存在し、自分が如何にそれに執着しても思い通りにはならないものです。思い切って諦めてみることで、自分に相応しいご縁が訪れていることを自覚するものです。

それもまたご縁を大切にする一つの実践ということでしょう。ご縁を如何に大事に過ごしていくか、それは日々の内省によります。一期一会に生きるというのは、先人の遺してくださった大切な文化であり生き方です。

子どもたちのためにも、日々のご縁を内省により紡いでいきたいと思います。

 

子どもが憧れる社会

人は信頼する仲間がいることで強くなれるものです。一昔前の教育では、強くなることは誰にも頼らずに自分で全部できる人になることでした。一人でなんでもできるようにならないといけないと、学校では指導されたものです。

実際には、今でも宿題は自分一人、学校でも教え合わないでと指導している教育をしているところばかりです。先生が一方的に一人で教壇にたって生徒に指導する。生徒は自分で正解を探して答えを出す。この正解があるところでの勉強というものは、一人で全部できないといけないのでしょう。

しかし世の中に出てみたら、ほとんどのすべてが正解などありません。正解があるような勉強もありません、なので正解を持っている人ばかりを探している人は裏切られる毎日を送るものです。正解などはないと開き直っている人から、試行錯誤することや意味を深め学べるということをはじめていくものです。

そこで正解がないとわかってしまうと、一人でできないことがわかってきます。言い換えれば正解がないというのは、やっていくことがすべて答えになるということです。その答えを生きるなかで協力し改善し、よりよくしていくことが人生ということになってきます。

その時、信頼できる仲間がいるかどうかは何よりも重要になってきます。そして信頼というのは、頼れる人がいるかということです。心を開いて素のままで弱音が話せ、助けてもらえる人がいるということは信じる姿の一つです。

信念でやり遂げようと必死に取り組んでいるからこそ弱音が出せない人もいるでしょう。それを共感し察知し理解して手を指しのべる人もまた信頼し合っているともいえます。お互いの弱音や本音を言いえるほどの信頼関係があるというのは、心を安んじることができるものです。

安心できる関係があること、それが信頼関係です。お互いが安心して本音本気で一緒に取り組める場には、居心地のよさと共に不思議な力が宿るものです。

これからも未来のふるさとの甦生のために子どもたちの憧れるような社会づくりをしていきたいと思います。

変化は生き方

人はそれぞれ何のためにそれをやるのかという初心をたずねていくと自ずから生き方に出会います。その生き方を知れば、その人の目的を確認することができます。一般的に人は人を理解するのにその人の目的への手段ばかりを見ては、「きっとこんなことをやりたいのだろう」と勝手に推察されますがその途中がどうなっているのかはその目的が非常に困難で偉大なものであれば目先に出ている手段だけをみてもその全体もしくは初心を把握することはほとんど不可能です。

例えば、エベレストに登頂するという目標を掲げているからとその人が単に山が好きなんだろうとだけ思ってもそうとは限りません。その人の目的を知ってはじめて、その手段に何を選択したのかの意味を理解することができるのです。

人は手段を目的だと勘違いして、手段をしたいのだろうと親切にお世話してくれますが本来はその人の生き方を観てその目的を共有することの方が真の意味で親切になることもあるように私は思います。

老子に、魚を与えずに釣り方を教えよという言葉があります。これも手段に対して与えるのではなくまさに生き方を与えよという意味でも受け取れます。

私は釣り方が今でいう、「暮らし方」であり、それが根本的に変化しなければ実際には何も変わっていないということにもなると思っています。なぜなら現代人は真の暮らしというものが喪失してしまっているからです。

特に今はコロナ禍で一時的に困ったからと補助金や助成金を出しては食べれないからと魚を与えているのでしょうが果たしてこれがいつまで続くのか、そしてそれでこの先に訪れる世界の困難や災難に対して一緒に乗り越える力を与えられたのか。少し先の未来が予想できて心配になります。

私が言うのは、このコロナ禍を福に転じてこの目先のことだけ乗り切ればいいという場当たり的な対処ではなく根源的にどうあらなければならないのかを学び直す必要があるのではないかと提言しているということです。

どのみち人類は今の方向のままでは、確実に資源が枯渇し競争原理の中で心の貧困はますます進み、愛に飢えた人たちが増えていくのは見てのとおりです。戦争もまた近づいてきています。本来、地球には真の豊かさがあり十分に足りている暮らしがすべての生きものに行き届くほどの無尽蔵を持っています。それをまだ足りぬとこれでもかと消費して成長ばかりを追い求めている方向を転換できるチャンスが今であるのは歴史をみればすぐにわかります。

このチャンスを活かして変化するのか、それともこのチャンスを逃してまた元に戻すのか。一人ひとり選択が与えられています。その時、中心になる大切なものは「生き方」であるのは明白です。

生き方は、現代では暮らし方に出てきます。働き方というのは本来は生き方であり暮らし方ですが、現在は単なる働く手段の一つにしかなっていません。テレワークも時短も、複業も手段の一つにすぎません。しかしそれでもそれが働き方改革と言ってしまえるのは、生き方を変えてまでやろうとはみんな思ってはいないからでしょう。それは大変なことだからです。全体の空気に任せていた方が楽だからでもあります。

実際に生き方を変えるというのは、日々の覚悟が迫られます。覚悟はいいのかと常に自分に問い続けることでもあります。そこまでするほど切羽詰まっていないというのが事実なのでしょう。

しかしこの先、コロナに加えてもしも未曽有の災害や危機が訪れたとき外圧によって本当の試練がきたら耐えられるのでしょうか。私は臆病で小心者だからそれが来てから選択というのが怖いからか、その前に変化したいと思うタイプのようです。大切なものを守りたいのです。

子どもたちを愛するがゆえに、暮らしフルネス™に取り組み葛藤の日々ですがこの取り組みが子どものためとは思われないことの方が多いです。何のためにこれをやるのか、それが多くの人に理解されるには真の暮らしの実践を共にし続けるしかないのかもしれません。

引き続き、子どもたちのために日々の暮らしを味わい楽しんでいきたいと思います。