暮らしの甦生~想いを大切にする文化~

むかしのものづくりは、ずっと末永く大事にする心をもって取り組んできました。その証拠に、むかしのあらゆるものは再生可能でありお手入れができるものでできています。これは現代でいう担なる物体としてのモノではなく、まさに想いの入った「ものがたり」の「もの」だったように私は思います。

その「ものがたり」を扱うから、職人さんたちはその想いを手から汲み取りそのお想いに相応しい甦生をみんなで力をあわせて手掛けてきました。私が取り組む「暮らしの甦生」は、このいのちや想いのこもったものがたりを甦らせ続けていく語り部たちとしていつまでもこの世で一緒に生きていけるように再生していくような取り組みのことなのです。

私の身の回りには、いつも甦生し再生されたものばかりに囲まれています。言い換えれば、想いが入ったものがたりの中を暮らしているともいえます。例えば、亡くなった友人の幼いころの産着のお着物をお母さんがコースターに甦生させたもの、他には、長年使われていた樽がお風呂の桶になったり、古い納戸をガラステーブルになっていたり、それまで大事なお役目と使ってきた人たちの想いがさらに新しい時代に活かされるようにと変化を遂げています。

この末永く使えるようにしようとするのは、そこに大切な想いやものがたりがあるからです。それを受け継いでいくことが想いを活かすことであり、ものがたりをその先にまでつないでいくことになります。私はこの想いのあるものがたりたちの御蔭でとても豊かな暮らしを深く味わうことができています。私たちはモノが増えて心が貧しくなっている原因は、まさにこの暮らしの真の豊かさを忘れてしまったところにあると確信しているのです。それが私が「暮らしフルネス」を提唱し実践している理由でもあるのです。

現代は、本来は想いがあるものであったものが想いがないものになりなんでも古くなればすぐに新しいものに買い替えます。想いやがあるものや古いものを修繕してお手入れしようとすると膨大な費用がかかります。それにものづくりをする際に、それだけ長く使おうとは思ってもいない素材で安易にものづくりをしてしまっています。なので、以前のようにものづくりに携わる職人たちが想いを再生させることも難しくなっているのです。経済を発展させることを優先しすぎて、大量生産大量消費を繰り返すなかで想いが粗末にされていきました。想いはいのちそのものですから、いのちもまた粗末になっていきました。その結果、クローン技術や遺伝子組み換え、3Dプリンターなども生まれてきました。別に想いがなくても「もの」はすぐにつくれてしまうのです。

それにいくら末永く大切に使おうとしても、すぐに交換でき買い替えることが前提でつくっていますからそれを長く使おうにもすでに再生ができない素材や状態のものになっていて結局はメンテナンスができず壊れるから全部新しくするしかなくなるのです。もしもその素材を末永くずっと使おうするのなら、もっと不便でお手入れがいるもの、自然物にしないといけませんが購入する側もそれが手間暇と技術と費用が掛かり大変だからと次第に選ばなくなっていき今の状態になっています。

しかし現実はものを使っているとそのものとの関係性からものがたりと想いがそこに詰まっていきますから簡単には捨てることはできません。その想いをつなぎながら新しくするのは甦生ですが、現在は想いもなくただ捨てるだけになってモノ化しているのです。そういう意味では、現代は甦生できる人が以上に少ない世の中になったものです。古民家なども、親がなくなってしまえば空き家になって朽ちるまでそのままにして解体するまで甦生する機会すら得られません。

私が深く印象に残っている甦生の機会は、もう100年以上前の先祖代々の産湯の桶をずっと孫が生まれるたびに使っている桶を職人さんが修繕しているときです。その甦生の機会を得た桶も、また持ち主も、そして職人もみんなが甦生したのです。そこには確かな「想い」をみんなで大切に守ろうという深い意志を感じました。

すべてのものづくりには、そこに「想い」があります。

日本は本当は想いを大切にする国だったからこそ、日本は世界一のものづくりの国なったように私は思います。それはすべてのものにはいのちが宿る、つまり想いが宿っているのです。八百万の神々というのはそういうことなのでしょう。そのものをいのちとして、想いを甦生させ続けて永遠を共に生きる民族だからこそ世界一のものづくりを実現したのではないかと私は思います。暮らしフルネスの中で、この「お手入れ」や「修繕」はまさに家に例えれば暮らしの大黒柱なのです、

引き続き、子どもたちのためにも日本文化のゆりかごになるであろうこの「お手入れ」を伝承していきたいと思います。

暮らしフルネスのごあいさつ

「お手入れ」という言葉があります。これは「手入れ」により丁寧な「お」が入ったものです。この手入れの意味はは「手入れよい状態で保存するための、つくろいや世話のこと」をいいます。さらにここに「お」がつくと「いのち」を伸ばすために、いのちを大切に扱うために思いやりやおもてなしになっていくと私は思います。

この「お手入れ」というのは、存在そのものを大切にするときにも使います。私はこのお手入れこそが今の時代にはもっとも必要な価値観であろうと思うのです。

大量消費の時代、お手入れをするというのはもう死語かもしれません。お手入れをするよりも新しいものを買うという具合にすぐに新しいものを購入します。モノがあふれているからこそ、古くなればすぐに捨てるのです。この捨てるように使うというのが文明のことで、文化は捨てずに修繕するのです。

つまり修繕というものを学ぶことこそが、文化を甦生させることでありますから幼いころから「お手入れ」を学ばせることが大切なのです。これが永遠に文化を大切にすることを忘れさせない人の生きる道につながるのです。

このお手入れは、本来は単なるモノにだけ行うものではありません。自分自身に対するお手入れもあります。それは体のお手入れ、心のお手入れ、精神おお手入れ、そして魂のお手入れなども必要です。

このお手入れは、磨くことと直すこと、そしていのちを大切にするということです。これを今はどれを使って教えるか、それは私は「暮らし」を使って教えることだと思っています。

先人たちはその真理を悟り、持続可能ではなく「永遠」であるものを伝承してきました。私たちはまだ目新しい持続可能という延命治療を知る前に、もともと永遠を生きるという根源治療をやっていたのです。

私はSDGsという言葉を会社の取り組みから外したのは、暮らしこそが本物の文化伝承の仕組みだと気づいたからです。

これが私が暮らしフルネスを提唱した根本的な理由です。

これから一緒に私と「お手入れ」に生きる同志を集めます。

ぜひ一緒に、暮らしフルネスの世界に変えていきましょう。

聴くことを磨く

人はそれぞれに視点というものを持っています。この視点はその人の生き方が大きく影響をしているように思います。人それぞれに視点が異なりますから、視点を合わせていくと360度全体から事実を観察することもできます。

よく意見を対立させていく人もいますが、本来はどちらかではなく、どちらもいいねと相手の声に一理あると理解できる寛容さがある人がアイデアを形にしていけるように思います。

そして視点を磨いていくには、よく話を聴いていく力を身に着ける必要があるように思います。視点は目を使う機能ですが、実際にはよく傾聴できる人の方が視点を持っているのです。

話を聴くというのは、そういう考えもあると共感し受け容れる力が必要です。そしてその意見をどうとらえるか、そこに感謝する力も必要です。いただいた言葉をそれは正しいとか間違っているとか裁かずに、ありがたい意見ではないかと聴き入れていれて参考にできること。それを繰り返す人は、自然に意見が集まってきて新たな視点を持つことができるように思います。

一方的に間違っていると否定されたり、考えを押し付けられたりすることはみんな嫌うものです。それは自分の考えが尊重されていないと感じるからですし、考えに服従しなければならないなどと不満に思うからです。

しかし実際に話をよく聴いている人は、それを採用しなくても聴いてもらったという実感があればその問題は解決します。つまり人は、尊重されることに納得しているのです。

この尊重しあう関係とは、お互いが謙虚である必要があります。それは誰かだけが偉いのではなく、お互いに善いところがあると認め合い、それぞれの魅力や力があることを信じるという生き方が必要です。

苦労をしてきた人や多くの人に助けてもらってきた人ほど、生き方が謙虚です。それはその存在にいつも感謝でき、自分一人ではなく多くの方々の見守りの御蔭で今があることを信じているからです。

いつも人の手助けが入る人は、多くの手助けをいただいてきたと実感してそれに感謝して報いようと生きる人です。私自身も振り返れば本当に多くの人たちの支援や協力、手助けを得てここまでこの世を渡ってこれました。

奢らず謙虚に素直に聴くことを磨いていきたいと思います。

SDGs、本物の持続可能とは~永遠の暮らし~

世界ではSDGsなど、西洋の定めた新しいルールが席巻しています。持続可能というテーマでそれぞれが取り組んでいくことで、人類がもっと自分たちの将来のために行動を移そうということです。

これはよく考えてみたら、今の行動がおかしいから変えていこうとする投げかけです。もともと縄文人を含め、江戸時代までの日本は自然への畏敬を忘れないで適度に人類のあるべき姿とバランスをとっていました。

戦国時代などは材木を取りすぎて森が壊れ、木がなくなり自然環境が壊れ水害にあいと苦労したと歴史にあります。ほかにも江戸のように人口密集によって疫病や大火などがあり大変な目にあったことも歴史にあります。

人類はやりすぎてしまうと、自然からのしっぺ返しにあい気づかされるものです。

現在、世界は自然を無視して自然資源を地下から採掘していきました。そして温暖化やごみ問題のように、エネルギーを燃やし続けて経済だけを優先し、分解もできないようなゴミになるものづくりを続けてきました。

それが限界値に達してきており、このままでは人類は自然の大きなしっぺ返しにあうのではないかということを予感する人も増えてきたのです。しかし、今更変えられないと思っている人と、なんとかしなければならないという間でこのSDGsが誕生してきたように思います。

しかし私は、歴史を振り返ると根本的なものが解決しないと難しいと思うのです。それは人間の謙虚さのことです。いくら自然環境にやさしくといっても人間が謙虚でなければそれはただのお題目であり中身は薄いものです。自然は人間の思っている通りの存在ではなく、まさに神様のように偉大なものです。人間に空気もいのちも作り出すことはできません。それだけの偉大な存在、そして循環を司り全体最適をこの地球に及ぼしてくれるまさに両親のような存在で徳そのものです。

その地球の中に住んでいる私たちは、本来は何が持続可能ということなのかを再定義する必要があります。つまり、持続可能の本質とは何かということをちゃんと向き合う必要があると思うのです。

私が尊敬する日本人の先人たちは、それを早くから見抜き「暮らし」の中でそれを実践してきました。このそれとは、自然との共生や貢献を生きることです。里山循環も同様に、また伝統的な文化などもそれを証明しています。

人類の真の豊かさとは、真の暮らしの豊かさを持つことです。これを私は「暮らしフルネス」と名付け、先人の知恵や叡智に感謝してそれをこの時代に甦生させようとしているのです。

本物の持続可能性は、この暮らしフルネスの甦生にこそあると確信しています。子供たちのために、暮らしを実践し「永遠の暮らし」を譲っていきたいと思います。

中興の祖

種を蒔けばそれが自然に保育されやがて花を咲かせ実をつけます。これは自然の摂理であり、揺るがない一つの真理でもあります。そしてこの摂理は、いのちの循環を示してもいます。

どんないのちも、この循環を繰り返しこの世に出ては実を結びまた種になります。これは形のあるものの姿ですが、実際には形のない「想い」というものにも同じ摂理がはたらきます。

例えば、一つの「想い」という種を蒔きその想いが保育され、その想いに花が咲き、その想いが実をつけます。そしてまた次の想いの種になっていくのです。

私たちは想いというものを持ちます。

どんな想いを持つのか、そしてその想いをどのように育てるのか、この想いこそが時代を超えて時空を超えて存在しているのです。歴史のある場所の想いであれば、その想いはその風土にいつまでも残っています。その想いの力は、ずっとその場に留まり続けます。

その想いを受け継ぐ人が現れれば、その想いはその時代の人の想いと融和してさらに偉大な想いへと発展していきます。そしてまたその想いの循環は繰り返されてまたいのちを吹き返して甦生していくのです。

よく歴史の中では中興の祖と呼ばれる人たちがいます。これは辞書では「過去に衰退して危機的状況に陥った時に回復させて再び盛んにさせる事ができた先人」という意味だといいます。

私はこの「想い」はすべて、想いを受け継ぐ人が中興の祖であると思うのです。想いはそのままにしていると次第に朽ちていきます。それは自然の摂理と同様です。しかし、そこには朽ちても小さくても廃れていても物語としていつまでもいのちが生き続けています。

そのいのちを誰かが受け継ぐとき、その想いを受け取り引き受けるとき、その物語はさらに偉大なものとつながりそのいのちに天命を与えるのです。つまり、いのちが甦生するのです。

私は甦生業が生業ですから、物語を生きているともいえます。その物語に新しい章が加わるたびに、あらゆる想いは融和して発展生成を繰り返してさらに磨かれていきます。

想いをどのように見守っていくのか、それは先人の想いとつながり、子孫へと想いを伝承するなかで感じられます。歴史の語りべが語るのは、その想いの物語であり、それは魂やいのちにおいて何よりも大切な仕事でありかけがえのないものなのです。

想いを見つめて、想いを歩んでいきたいと思います。

スタートアップキャンプの場

人は自分らしさを磨いていくことでより自分というものを確立していけるように思います。もともとやりたいことが人それぞれに異なっているのですから、本来なら自分のやりたいことを突き詰めていけばそれが自分らしさになっていきます。

しかし、現代では教育がそうなっていませんから自分のやりたいことをやるよりも周りをみながらやりたいことをそこに合わせるという具合に自分らしさを後回しにする傾向がありそれによってやりたくないことをやりたいことだと言い聞かせている人も多いように思います。

もしくは本当にやりたいことがわからなくなってしまい、やらないといけないことばかりでやりたいことがなくなってしまう状態にもなっています。心からやりたいことは、自分の本心でありそれが歪にならないようにするには魂を磨き、本当の自分とつながるような体験を積み重ねて自分と出会い続ける必要があります。

内省や内観というものは、自分との対話でもあります。本当はどうしたかったのか、本当の自分は何を感じていたのかと、自分自身と対話することで初心に出会います。人は初心に出会うことで、自分自身の本心を確認して自分軸を確立していきます。その自分軸の確立こそが自分らしさの正体です。

この自分軸を磨くために、「問い」を持つ必要があるように思います。その問いとは、根源的なもの、原点回帰的なもの、そもそものはじまりの問いです。途中からではなく、はじまりのことです。

このはじまりが大切で、そのはじまりを持つ人はブレずに自分軸で自分らしさを貫き社会に新しいその人らしさを表現し周囲に好影響をもたらします。それは業種関係なく、経済であろうが、アーティイストであろうが、宗教関係であろうが、唯一無二につながるのです。

スタートアップの最初に、その人の何を応援するのかというものがあります。人が人を応援したいのは、自分らしく生きようとする人、そして自分軸を磨いて生きようとしている人です。自分を大切にできる人がこの世の中に増えていけば、まさにそれが社会全体を善くしていくだろうと私も思います。

応援する人はもっとも人の応援を受ける人であり、見守る人はもっとも人に見守られえる人です。情けは人のためならずであり、常に応援の輪は、自分軸で循環していくように私は思います。

どのようなスタートアップキャンプになるのか、今から思案を楽しみたいと思います。

日本人としての観光

現在、コロナウイルスで海外からの観光客が減っていますが日本は観光立国を目指して取り組みは進んでいます。この観光立国とは、「国内の特色ある自然環境、都市光景、美術館・博物館等を整備して国内外の観光客を誘い込み、人々の落とす金を国の経済を支える基盤の一つにすること」を言います。

日本が観光立国を目指す理由は、景気の低迷や少子高齢化、国内消費の拡大が難しくなっているといいます。そこでインバウンド客を呼び込んで消費を促そうという具合です。それにより多くの雇用が生まれ納税者が増えれば国の財政が潤うからだといいます。

具体的には、「明日の日本を支える観光ビジョン構想会議」が定期的に開催され、2016年には会議の中で「明日の日本を支える観光ビジョン」が策定され2020年までに4,000万人(経済効果8兆円)、2030年に6,000万人(経済効果15兆円)の訪日観光客の誘致が目標として定めています。

2019年の世界観光ランキングは、1 フランス 2 スペイン3 米国 4 中国 5 イタリア 6 トルコ 7 メキシコ 8 タイ 9 ドイツ 10 イギリス 11 オーストリア 12 日本と、日本は12位につけています。2020年はコロナウイルスでどうなっているのかわかりませんが、世界で12番目に日本は世界から観光客が来ていることになっています。

古代から続いている文化を今でも美しいままに磨き残すフランスが1位なのは納得ですが、それぞれ自分たちの文化を掘り起こしては観光を実践しているということでしょう。消費動向は経済の話ですが、人々が歴史や文化、その風土から学び、自分たちの国のことを考えるのに人が旅をすることはとても大切なことだと思います。

日本では、アグリツーリズムというものを参考にして農泊というものがあります。これはヨーロッパが発祥地でイタリアではアグリツーリズモ、イギリスではルーラルツーリズムともいいます。ロマン主義の影響を受けた民俗学の影響で、農村や地方で残っているとされた民俗資料を大切にし、近代化によって失われつつあった自然調和の暮らしを見直そうという活動です。このアグリツーリズムとは、都市居住者などが農場や農村で休暇・余暇を過ごしてそれを体験します。日本の地域行政はこのアグリツーリズムによって都市と農村が交流するように様々な取り組みが行われています。

以前、私もイギリスに留学していたとき、イタリアやフランスの友人宅や農家民泊を体験したことがあります。フランスの田舎でのゆったりした時間と、そこで手間暇かけてつくってもらった料理をゆっくりと楽しみました。特にヨーロッパは長期のバカンスを取りますから、ゆったりと長く滞在できるところが人気があります。日本では、なかなか長期休暇はありませんからみんな短期の滞在でたくさん体験できるところが人気があります。どちらにしても、地方は、旅行者を迎えることで活性化し、過疎化の防止につなげています。

それに最近の外国人旅行者のニーズは買物の“モノ消費”から体験の“コト消費”へとシフトしており、日本の農泊も人気が出てきているといいます。日本人でも体験したことがないようなことを外国人が体験している時代でもあります。

私は本来、日本人の暮らしの中にこそ本物の文化があると思っています。現代では、その日本人の暮らしが消失してきてまるで西洋人のような生活が日本人の暮らしにとってかわっています。西洋建築で西洋的な食材、西洋的な思想や価値観、その中に西洋人が来ても特に面白いものはないように思います。

日本人を教育するというのがあって私は日本が真の意味で観光立国化するのではないかと思います。私たちの取り組む、暮らしフルネスはその可能性を秘めています。今、来ているご縁を直観しながら子どもたちに日本人を伝承していく機会にしていきたいと思います。

心の居場所

聖地巡礼という言葉があります。もともとはイスラム教徒の信者が使っている言葉だったそうです。これはイスラム教のマッカにあるアル・ハラーム礼拝堂を聖地にし、その神殿を巡ることを巡礼と言いました。一生に一度は、聖地巡礼を行うことは信者にとってはとても大切なことでした。現在はこの言葉は、日本ではアニメや漫画の熱心なファンがそのアニメの舞台になったところを訪れることを聖地巡礼を呼ぶようになっています。

このこの聖地巡礼は、時代を超えて大昔から人々の心の文化の一つだったように思います。お伊勢参り、四国八十八か所巡りなども同じように聖地巡礼が美徳とされ今に受け継がれているように思います。

その聖地にいけば、何か自分の中にある信仰に触れるということでしょう。教えを肌で感じ取ったり、そのものが悟った場所に自分を運べば文字では得られない感覚をあらゆる場の力を感じて直観することもあったように思います。

以前、私も33か所観音霊場巡りをしたときにその聖地巡りにおいてその価値を実感したことがあります。最後まで巡り終えたとき、その最後の寺院に詩が読まれていてその詩には「この33か所巡りをしているうちにあなたはどの観音様と巡り会いましたか?」と尋ねるようなものが書かれていました。その時、思い返してみると道すがらに声を掛けてくださった人、挨拶してくださった人、猛暑厳しい中で冷たい飲み物を差し出してくださった人、みんな観音様ではなかったかと実感したのです。

つまり、私たちは心のありよう一つで観音様に出会ったり出会わなかったりしているということを聖地巡礼で学び直したことを思い出します。この聖地巡礼の仕組みは、自分自身と向き合い、自分自身とつながるという体験を持たせているように思います。

その場において、何をすることで自分自身とつながるのか。

ここにこれからの時代の心を癒し、自分を取り戻すためのキーワードがあるように思います。これから場の道場をはじめ、私は暮らしフルネス™を提供していきますがこの聖地巡礼の仕組みは時代を超えて参考になります。

子どもたちに、心の居場所を譲り遺していきたいと思います。

 

天人道

天道と人道というものがあります。天の道は、自然のままであり人為のないもののことをいいます。それに対し、人の道はその自然の中に人為が入ることをいいます。つまり、天道と人道とは分かれているようですが実際には天人道ということになります。

人もまた自然の一部ですから、人がどうあれば自然にかなうのか。それを語る言葉です。例えば、自然界ではそれぞれの生き物がそれぞれの役割を果たします。それは小さなバクテリア一つ、分解者となりて自然界の調和の役目を果たします。本来、私たち人間もまた自然界の一部ですからなんらかの調和の役目をもらっています。

そうやって生き物たちは、共生し貢献しあいながら自然の中でそのいのちを謳歌させていただける存在であるのです。そして天人道とはまさに、その天の道に沿いながらも人の道を盡していくことによるのです。

つまり天に対して人としてどう生きるかということを原点を確認するものです。

二宮尊徳にこういう言葉が残っています。

『夫れ元一円の原    国民衣食に乏し
天に従って地理を量り  天に逆って田畑を開く
天に従うを自然となす  之を名づけて天道といふ
人を以て作事を為す   之を名づけて人道といふ
人道は田畑を開き    天道は田畑を廃す
人道は五穀を植ゑ    天道は生育を為す
天道人道に和して    百穀実法(みのり)を結ぶ
原一変して田となる   田一変して稲となる
稲一変して米となる   米一変して人となる』

これはお米づくりで例えていますがとても分かりやすく真理を語ります。本来、田んぼをそのままにしていたらそのうち荒れ地になっていくのは自然が荒れ地にしようとするからです。しかしそこに人が手を入れれば田んぼは人の暮らしの一部となります。そして人が種を植えるのなら、自然はそれを生育させます。これが和合してたくさんの食料を産み出します。

つまり何もなかったところに人が入り田んぼになり、それが変化して稲となり、またそれがお米(食料)になり、それが人という存在をつくっている。

天人道はこの天と人の和合にこそなるということを、二宮尊徳は説いたように思います。

これからどのような生き方を選んでいくか、それは一人一人が今と見つめなければなりません。私はこの天人道こそ、徳そのものであり、こうあることが自然と人間の喜びになるように確信しています。

子どもたちに、天人道を示していきたいと思います。

修繕こそ人の道なり

BAの干し柿を鳥が毎日啄みにくるようになり、干し柿が食べころになったことを知らせます。見た目にはあまり変化がなくても、動物たちはもっとも美味しい時を知らせてくれます。

庭の野菜も、キャベツや白菜、ブロッコリーの葉っぱが虫に食べられています。まさに今が旬で、もっとも美味しい時期なのを虫もわかっています。見た目には、あまりわからなくても動植物たちは自然共生の中でお互いの活かしあう時機を悟っているともいえます。

私たちは、その時機を頭でわからなくても尊敬の念をもって動植物や昆虫を観察することで自分たちにとって何が最善で今かを知るのです。

人間の本能は、自然という天の理を周囲の生き物たちによって学び続けてきたとも言えます。しかし、これを人間が待てずに自分たちの都合で好き勝手にすれば動植物や昆虫に迷惑をかけていきます。そしてより自然の理がわからなくなり、人の都合ばかりで欲にまかせてやっているうちに時機を見失いバランスを崩しそれを改善するために余計なエネルギーばかりをつかって本質を見失うのです。

天の道に従うのは、自然な流れに沿うことですがこれは欲を諦めて素直に学ぶという具合です。そして人の道に従うのは、欲を制して謙虚に学ぶという具合です。人間は、学問をする理由は天道地理、義理人情を悟ることともいえます。

人の道を説いた、二宮尊徳はやはり私たちの模範になる先達であったといえるように思います。私が、古民家甦生でもっとも示したいことはこの心田を開発することであり心の荒蕪を耕し、心の豊かにして人道を栄えさせることです。だからこそ、「修繕」という実践を通して道を歩んでいるように思います。

『人道は物を修繕するの途(みち)なり。之を怠れば法の無き昔に帰る。是即ち禽獣なり。』

意訳ですが、人間がもっとも大切にしなければならない最優先ことは、修繕、つまり人の道から外れないようにすることです。もしこれをやめたら人の世はなくなり無法に戻る、これはただの野生動物になることなのだと。

動物が悪いというわけではなく、人が人の世をこの地球で末永く心豊かに存在していくためにも人は自然と調和し、自然の中でも人の道を大切に社会を耕していかなければ今の幸福は失われてしまうということでしょう。

子どもたちのためにも、この時代の新しい幸福論を暮らしフルネス™を通して実践していきたいと思います。