卒業とは

この時期は、全国各地で卒業式が行われています。この卒業式を調べてみると日本での歴史は1872年の学制の施行に伴い各学年ごとに試験修了者に対して卒業証書を授与したことがはじまりだとされています。明治10年頃になると現在のような形の儀式として定着したといいます。

卒業式は教育課程を修了したという認定の証であり、そのお祝いをする式典です。 式典で卒業証書を授与することを卒業証書授与式と呼ばれ、それが短縮されて卒業式になったといいます。それに「業」は「学問、技芸」を意味し、「卒(そつ)」とは、「おわる、おえる」という意味になるといいこの二つを合わせ学問をおえるになるそうです。

その一つの学びの期間が終わる、それは学びの期間を経て次のステージにアップすること、今の自分の学びをブラッシュアップすること、つまりは今までの自分の意識を換えて新しい自分に挑戦することもまた卒業とも言えるのではないかと思うのです。学校であれば、その体験の期間の卒業でありこれは人生においても同様に時季時機においての卒業があるように思います。

それまでの学び方を変えて、新しい学び方をするということは自分をさらに磨き上げ、柔軟性を持ち平常心を高め自由自在に自立していくためにも学び続ける必要があります。

敢えて卒業があるのは、その期間、その体験を経て次に向かう必要があるからのようにも思えます。出会った仲間たちによって得た学びを、また次の場所で活かしていく。そのように人は前進していくことで自分というものに向き合い、自分と出会い、自分の人生を自分の足で歩んでいき、自分の人生を自分の生き方で創造していきます。まさに体験こそが価値であり、その期間に何をどこで誰と学んだかということこそが最大の価値であるということの証明です。

人生はよく列車の旅に例えられ、学校はよくプラットホーム(歩廊)に例えられます。私たちの会社は、旅の心の持ち方を換えるターンテーブル(転車台)になろうとよく話をしていますが旅は終わることはありませんから常に人生も何度も卒業を続けているということです。卒業のたびに何度も新しい自分に出会えると思えば卒業は大切な振り返りの機会であり、次学への希望そのものです。

何度も何度も卒業を通して新しい自分に出会い成長していく子どもたちを見守りながら、自分自身も自分を毀し続けて新たな学びを楽しんでいきたいと思います。

 

自信への道~心の転じ方を与える~

ありのままの自分を認めるということは、現実を受け容れることにおいてとても重要であるように思います。自分の認める場所を限定し、ここは認めここは認めないと自分のことを歪めていたら本当の自分のことが分からなくなるように思います。

人間は誰しも本当の自分のことを自分自身で知ることで、現実を受け容れ、現実に生きることができるように思います。現実から乖離すればするほどに様々な問題が出てきてしまいます。例えば自分のことを誰も言ってもらえなくなったり、思い込みばかりが強くなったり、周囲の人と上手にコミュニケーションが取れなくなったりもします。

つまりはこのままではダメだとか、これでは認められないとか、こんなはずではないとか、理想の自分と比べて今の自分を自己嫌悪し全否定してしまうとその自分をそこから見つめることができなくなります。そうなるとさらに自信を失い他に依存してしまいます。他人に認められないことを気に病み自分のことをさらに嫌いになって現実逃避に走ってしまうように思います。過去のどこかの時点で自分を嫌いになって自己否定したことは今でもそれが色濃く残っています。それが何らかの場面で出てきては心の恐れになりますから過去をずっと今でも引きずってしまいます。

私もかつてこうありたいと思うばかりに自分の理想以外の自分はすべて否定する時期もありました。しかしそうやって自分を否定すると他人に評価される自分にばかり目がいってしまい「本当の自分の価値」も次第に観えなくなりました。本当の自分の価値を自分が知ることが本物の自信になりますから現実の自分をみてこれも自分の一部と認め、さらに過去に自分のしてきた自己嫌悪をゆるしてあげることもまた自信への道になります。

今の日本の社会環境は、歪んだ個人主義が蔓延し、比較や競争、個性を画一化することにより誰かの評価結果に対しての自信であったり、能力の優劣に対しての自信であったりが自信だと刷り込まれ、本当の自信を失う人が増えて圧迫感のある社会を生んでいるように思います。そのままでもいい、あるがままでもいい、その丸ごと認めている自分自身をさらけ出すことで周りが安心する社会をみんなで築いていけば無理をして頑張り過ぎて苦しむ人も減っていくようにも思います。人権尊重や個性尊重など当たり前のことがなくなってくると、ますます自己否定する人が増えていく気もします。

私たちの子ども第一義の理念の実践は、子ども心を守るための実践でもあります。私たちの会社がこういうことを向き合い続けるのは、子どもの心に寄り添い希望に生きる力を育めるように心の転じ方を与えていきたいと思うからです。

自信を持つ社会は自由であり、みんなが豊かにそれぞれの持ち味を活かし合える世界です。社会全体の閉塞感はそれぞれの自信のなさがつくっていきますから一人で抱え込んだりしなくてもいいように安心した社会を築いていくためにも本当の自分を見つめるものの見方や心の持ち方や転じ方を、一円対話や聴福人を通して伝道していきたいと思います。

 

ゼロベースで生きる

人間の思考には過去から考えて判断をするという習慣があります。過去の経験というものは時にはそれが自信になったり知恵になることもありますが、時としてはその過去の経験が枠や囚われになってしまい自分の考えを制限する材料になってしまいます。

その時の状況や環境は今とは異なっているのにも関わらず、過去にこうだったからと決めつけては先に答えを出してしまっています。そうなると未来への挑戦をするにしても、自分で決めた枠組みや先入観からのどうせ無理だろうに先に負けてしまい過去にしばられて未来を自由に創造することができなくなります。成功体験は自分の成功パターンとしての過去の栄光にしがみつきその同じパターンでしか成功しないと思い込んだり、失敗体験は自分の失敗パターンとしてそこを避けて行動することで視野が狭くなり行動も縮こまってしまいます。

そうならないようにするにはゼロベースで考える訓練が必要です。これは過去のことに囚われず、今までの先入観や枠を一度すべてご破算にしてもしも今からやるとしたらどうするか、もしも何もないところから挑戦するのであれば何を目的にしてどこまでいくかという目標を自由に考えるところから始める訓練です。過去や柵に囚われている姿はもっとも目的から離れた姿なのです。

自分はきっとこうだと勝手に思い込んでは、自分の収まりのいいところに甘んじていても未来が変わることはありません。そうではなく、真っ新の状態、ゼロベースで過去から考えず、初心や目的、理念から自由に発想して取り組んでいく中で過去が刷新されていきます。

畢竟、人生を変えるというのは過去を刷新するということです。過去がどうだったかが問題ではなく、今ここがすべてだと思い新しい自分になっていくことです。それは自分の中で良し悪しを決めないことであり、如何に目的に対して自分の方を変化させていくかということです。言い換えるのなら人生の挑戦者であり続ける訓練なのです。

本来やりたかったことをやったり、本当に願うことに取り組むためには無条件で自分がやりたいことを自分の中から見出す必要があります。そのためには、自分をゼロにする努力、つまりは自分の先入観や過去や偏見をまずは捨ててて目的達成のためだけに集中してみることです。

それは決して今流行りのリセット願望のように自分にとって都合の悪い過去をなかったことにしたり、自分の理想の状態以外は認めずに消し去ってしまおうとしたりするのではなく、自分というものに固執せずに目的のために自分を変えていこうとする挑戦によって新しい自分に出会い続けることが人生を本当の意味で変えていくということです。

ゼロベースで生きるというのは、常に目的や初心や理念に合わせて新しい自分に出会い続ける挑戦者であるということです。子どもたちにも諦めずに自分を大切に生きていく手本が示していけるように挑戦を続けていきたいと思います。

最高の宝、天性の持ち味~自分を見つめてみよう~

人は本当の自分になることで真実が観えて現実が変わります。その価値観の殻を毀すのは自分自身ですがそれは自分を自分で創り上げていくという人生の使命です。その自分を自分で知るには、自分の体験や経験を通して学んでいくしかありません。その学んだことを通して自分が何を感じて何が変わったか、その変わっていく過程を知ることが人生の本の一ページをめくることのように思います。

私の恩師がよくリジリエンシーの話をします。これは立ち直る力とも言われ、素直に起き上がるために何が必要かという力のことです。私の解釈ですがそこには三つ大切な要素があるといいます。

一つ目は、無条件で愛し愛されること。二つ目は、楽観的であること、ポジティブであること。言い換えれば禍を福に転じたり、ピンチをチャンスにしたり、短所を長所に転換できるということ。三つめは、自分が好きなことです。この自分が好きなことは自己肯定感とも言われ、自分の弱さも含め丸ごとそれが自分であると受け容れて自分自身を信じてあげることだと私は思います。

自分と向き合うためには、自分を見つめられるようにならなければなりません。その時に、自己嫌悪して自己否定ばかりしてきた自分を見つめたくない思いから人はなかなか自分と向き合うことができません。自分と向き合うには、自分のいいところを探したり、自分の信じているところや、自分自身のことをもっと深く掘り下げて本当の自分の良さを自分で見つけることが大事になります。

自分と向き合い、自分を見つめてみれば外側の世界が問題なのではなく自分自身の問題で外側の世界や現実が歪められていることに気づきます。感情もまた向き合いたくない、見つめたくないから自分を防御するために出てくるのです。感情に呑まれるのも向き合いたくないから、見つめたくないからでもあります。

その現実を受け止めてそれでも自分が変わりたいと素直に思えるのなら、その素直に変わりたいと思う自分を信じて認めてあげることで諦めない自分を好きになれると思います。本心や自分の声を大事にするというのは、現実よりも自分の声を信じてあげることで大切にできるからです。

幼いころから閉塞的で画一的な社会の抑圧の中で自分ではいられない、自分を無理やり周りに合わせたり、自分を否定されたりすれば自分が歪みます。その歪みから自然体でいられなくなり、自分がわからなくなり苦しんでいることもあります。しかしそれも必ず殻を毀し抜けていくことができるのです。

そのためには自分の良いところや周りの良いところ、長所や持ち味を活かして自分自身も周りのことを信じてあげるところからはじめることです。みんないいのはみんなが違うときで、人と違うことはすべてその人にしかない天性の持ち味だからです。

もう一度、自分を見つめてみてください。

きっと天が与えてくれた最高の宝が、天性の持ち味が発見でき世界に一人しかない自分の個性を発掘できる仕合せに出会えると思います。子どもたちの心を信じきれるような大人になっていきたいと思います。

向き合う

人は弱さを受け容れることで本当の強さを手に入れることができるように思います。そのためには弱さと向き合い、弱いことを素直に自覚し、それを直視して改善を続けていくことで強くなっていくものです。

最初から強い人などはなく、みんなはじめは弱さからはじまりそれを向き合い鍛錬することで強くなるように思います。

しかしこの自分の弱さというものを否定して、向き合わなければこんなはずではないと勝手に思い込んだ自分のプライドばかりを高めてしまいいつまでも改善が進みません。自分が弱さから向き合うことを逃げてしまえば、その弱いことはますます悪いことになります。

弱いことが悪いことになり、その悪いことは避けようとすれば自分の弱さと向き合えることができなくなり本当の自分自身のことがいつまでもわからなくなります。

テニスで有名な松岡修造さんの著書に「挫折を愛する」(角川oneテーマ21)があります。あの情熱が溢れ熱血な姿で周りに勇気を与えている松岡さんは実は常に自分の弱さと向き合っているということでその本当の強い姿に共感を持ちました。特に印象深い言葉には、

「自分の弱さときちんと向き合い、自分を変えていこうと行動してきたから、焦り、落ち込み、挫折感、絶望感を乗り越えて、心が強くなったのです。」

自分を変えるためには、自分の弱さと向き合うことからはじまります。その感情は挫折感や絶望感、そういうネガティブな感情ですが変わるためには受け止めようとしたということです。

よく弱いからダメだと思い込めば、弱いことを否定し鞭を打ったり、他の人に弱いことを隠し弱さをさらけ出して人に頼ることができなくなります。本当は自分ではできもしないことを無理をして進めてかえって周りに迷惑をかけることばかりです。自分でできないことを知ることは悪いことではなく、できないからこそ周囲と一緒になってその問題に対処していく必要があります。こうでなければならないと決めつけて弱さを否定すれば、すべて一人で抱え込んでしまうことになるのです。その理由はすべてこの弱さと向き合えないことから起こります。さらに弱さと向き合い松岡さんはこういいます。

「諦めない自分を発見し、「本当の自分は強いんだ」と思えるようになるためには、何かで自分を追い詰めることも必要です。「もし諦めなかったら、どういうことが起きるか」を実際に体験すれば、心は確実に変わっていきます。」

本当の自分を弱いダメな自分と思い込み信じてあげられず、本当の自分と向き合うのが怖くなるのは誰もが同じです。自分がもっとも身近にいる本当の自分のことを信じてあげられず、自分というものへの不信感からいつまでも自分を偽る術ばかりを身に着けて誤魔化していたら大事な場面で本当の自分を裏切ってしまいます。

そうではなく、弱さに向き合って弱さを受け止めて弱いままでもそれと付き合っていこうと弱さを否定せずに受け容れていく努力を続けていたら「諦めない自分がある」ことに気づくといいます。自分のことを誰よりも先に諦めてしまうのではなくその弱さもあるのが自分自身なんだと諦めずに信じ続けていくことが「向き合う」ということです。

完璧でなければならないと完璧人間になってプライドばかりを肥大化するよりも、不完全な人間だからこそ助け合い協力してお互いを信頼する力が備わっていると信じることが自分を諦めないということかもしれません。

弱さと一緒に向き合う中で本当の仲間ができたり同志があったりパートナーができたりと絆ができますから諦めずにじっくりと見守り心を寄り添っていきたいと思います。

内省こそ本物の人生

内省という言葉があります。内観ともいい、英語ではリフレクションとも呼ばれます。一般的には、自分の考えや行動などを深くかえりみることとだとされていますがこれは人生において何よりも重要で優先するものなのは間違いないことです。

なぜ内省が必要なのかを少し書いてみたいと思います。

内省といえば、論語に「子曰。君子不憂不懼。曰。不憂不懼。斯謂之君子已乎。子曰。内省不疚。夫何憂何懼。 」があります。これは孔子が君子は憂えず恐れることはないといったとき、弟子が憂えず恐れなければ、君子と言えるのでしょうかと尋ねた時、自分自身の心に疾しいところがなければ何を憂え何を恐れるものがあるかと言いました。

この時の内省をする相手は誰か、それは自分自身の本心、本物の自分ということです。しかしもしもこの本物の自分自身が何処にいるのか誰なのかもわからず、そしてどんな人なのかを知ろうともせず、自分勝手にきっとこんな自分だろうと勝手に自分の仮定した都合のよい自分を自分だと思い込んでいたらこの内省は決してできません。

内省がとても難しいのは、本物の自分が観えず自分の初心や本心を自分が知ることができないからなのです。

人間は本来、自分の本心、つまりは何のために生まれてきて何のために自分を使っていきたいかということを知っています。しかしそれが様々な我欲や願望、周囲の環境や刷り込みによって自分というものの本心が隠れて別の自分としてこの世の中で立ち振る舞っているうちに自分というものが分からなくなっていくものです。

松下幸之助さんが素直の百段を目指していたのも、そうした本当の自分自身というものの声を聴くために内省を続け、素直であったかと自分を戒め天命に従い使命を全うされていたように私は思います。

論語には、もう一つ「三省」という有名な言葉があります。ここには「曾子曰。吾日三省吾身。為人謀而不忠乎。與朋友交而不信乎。傳不習乎」とあります。これは私は常日頃から自らのあり方を省みる。人の為に心を動かされて忠ならざる事はなかったであろうか。 志を同じくする友の意に従うばかりで信ならざる事はなかったか。己の身にもなっておらぬ事を妄りに発して、人を惑わせていなかったと。つまりは真心のままであったか、本心のままであったかと常に自分を確かめながら歩んだのです。

本心や真心を初心とも言いますが、この初心のままの自分であるかどうかがもっとも大切なことでありそれは自分の行動や発言、経験したことを常にその場で振り返り初心に照らして本当にそのような自分でいられたかと確かめ続けるということです。

人間は本当の自分になることや、本来の自分自身になることが答えを生きることであり、いつまでも自分を探していても答えがあるわけではないのです。だからこそ内省が何よりも重要であり、内省なくしては本物の人生もまたないのです。

自分自身になることが本来の自立の本質であり、独立不羈、唯我独尊もまたその自分になっていくことです。心をかき乱されないように内省を続け、平常心のままに自分自身を自分自身で生きていく、そういう一生懸命な生き方の中で心を開き心豊かに自分の生を全うしていくことが自然の大道でもあり、人間本来の生きる道を叶うことだと私は思います。

自分に出会える仕合せと、自分でいられる仕合せ、まさに自分との邂逅が内省によって行われるとき人は本当の意味で世界を知り全体を知り、そして自分になります。

引き続き、子どもたちには内省の場の大切さを説きつつ内省の価値を伝承していきたいと思います。

自分に矢印

私たちの会社には「自分に矢印」という言葉があります。これは矢印を相手ではなく自分に向けろという意味ではなく、「誰にも矢印を向けないこと」を「自分に矢印」という言い方で表現しています。

つまりは誰のせいにもしない、誰も責めないときこそが本当の意味で「自分に矢印」になっているということです。

この国にいると、幼いころから責任を常に誰かに押し付けられ、いつもどこか不安で責任から逃れることばかりを考えてしまう空気感があります。一人でできること、自分ですべてできることを最良のように教えこみ、誰の力も借りずにできた人のことを優秀だとさえ評価したりもします。

先日もオリンピックのニュースで日本人はメダルがとれなかったり周りの期待に応えられないとすぐにみんな泣きながら謝罪している人が多いとありましたが、責の重圧の中で押しつぶされてしまっているような人たちも多く見かけます。生前アインシュタインはこうも言っています。「どうして自分を責めるんですか?他人がちゃんと必要な時に責めてくれるんだからいいじゃないですか。」と、すぐに自分を責めて先に謝りますが別に誰もその人を責めてはいないのになぜ自分から先に責めるのか。自分で先に責めれば他人からのアドバイスや助言もすべて責められていることになってしまいます。本来は、それは助言や成長するための知恵であるのにそれを自分への責めにしてしまうことで責任意識ばかりが強くなっていきます。

日本人はマジメな国民と自評もしていますが実はこのマジメは、自分を責める人が多いという意味で使われている気もします。人間はそんなに強くありませんから自分をこれ以上責められないところまで来ると今度は他人のことを責めようとする。この責めるということの負の連鎖は、さらなる不安で孤独な人を生み出しより一層孤立を深めてしまいます。

だからこそ何よりも重要なのは、不安な人が余裕を持てる環境をつくること。そして自分が誰も責めなくてもいい環境にしていくことです。見守りや安心基地というのは、責めない場所でもあるのです。

まずは自分で責めるのをやめること、そして誰かを責めるのをやめること。誰も責めないというのは、「そこから学んで次に活かそう」という前進し成長するあるがままの素直な姿になるということです。

責めることでいつまでも感情の渦の中に引きこもって停滞してしまったらせっかくの機会も無駄にしてしまいます。責められることで自分を他から罰されて楽になったり、責めることで自分を守り楽になることは自他ともに幸せになることはありません。それは単に一時的に責めたり責められることで自分がバリアを張って自分を守っているだけでバリアが強く厚くなっていくだけです。ピンチはチャンスだと、責める前にその機会に食らいつき活かそうとしたり、誰も責めずにそこからどう福に転じるかと一瞬の間を与えずに取り組んでいくことで解放していく方法もあります。

どちらにしても、「マジメじめじめ」ともいいますがすぐに誰かを責めてしまう癖を捨てていくことがこの閉塞感から抜け出せ、好奇心を呼び覚まし挑戦を味わい楽しんでいくための知恵になります。

誰かを追い込むか、自殺をするかしかないような閉塞感があるこの社會を変えていくのは自分が責めるのをやめることからはじめるしかありません。「自分に矢印」の実践を積み重ねていくことこそが、社會を変えていくということです。この刷り込みが根深いからこそ、今の大人たちがそれに気づき解放していく必要性を感じます。

子どもたちに同じような不安で苦しい思いをさせないように、自他を責める生き方をやめ自他をゆるす生き方のお手本を示していきたいと思います。

歩く速度

古街道の町家に住んでみると、かつてはその通りにたくさんの人が往来しそこで商人や職人たちが仕事をして賑わっていたのが形跡からわかります。今ではインターネットを使ってどこでも簡単便利に品物も手に入り、物流も発達していますから修理なども郵送して行うことができます。さらに大型店舗ができることで、みんなそこに車で移動しその中で買い物しますし、大きな道に店舗はあっても車で立ち寄るようになっていますからそこに入ればまたすぐに他の場所へとさっさと移動してしまいます。

かつては、歩く速度で往来していた場所はほとんど廃れ、一部の観光地だけが残っていますがそこはほとんど土産物店です。本来の懐かしい商家や町家は、そこでの暮らしがあってその生活のために必要なものを販売されていました。数々の職人たちが住み、商人たちが人々が暮らしで必要なものを販売したり、または道具を修理したり、さらには休憩して情報交換する場所なども用意されていました。

この人が歩く速度というのが、もっとも人間には合っていてその歩く速度で物事を考えられたり、出来事を深く味わったりすることで私たちは仕合せや豊かさを感じるものです。

聴福庵のある場所も旧長崎街道ですが実際は観光地の場所だけ大型バスで乗り入れてそれが終わればまた大型バスで違う場所に移動というように歩くことなく去っていきます。本来は、じっくりと歩いてゆったりと観ていく場所ですが、かつてのような商家も職人もいませんから仕方がないことかもしれません。

京都に行けば、まだそのようなところは残っておりかつてのような佇まいを体験できるところもあります。日本にあったかつての民家がなくなっていくというのは寂しいものです。

民家の甦生は暮らしを実践することからはじまります。この旧街道に人々がまた往来するかどうかはわかりませんが、試してみたいことがまだたくさんあります。子どもたちに新しい生き方や世界が手本とするような働き方を遺し譲るために一つ一つを歩く速度で丁寧に甦生を続けていきたいと思います。

美しい生き方

「お手入れ」という言葉があります。これは「手入れ」に「お」がついて、より丁寧にしたものですが辞書をひくと「よい状態を保つために、整備・補修などをすること。」(goo辞書)と書かれます。具体的には「手入れが行き届く」「よく手入れされた庭木」など、自らの心配りや心がけで修繕しているときに用いられる言葉です。

このお手入れは、何かを整えたり美しく保つために修理や修繕を続けて長持ちさせていくための智慧の一つとも言えます。掃除や片付け、修理やメンテナンスはそのものへの愛情を注ぎ込むことができ愛着の関係性が醸成されていきます。

大事にされているものは、大事にされている雰囲気が出てきます。これも一つの愛着というか、愛され愛し合う関係の調和が周りにそういう雰囲気を醸し出すのでしょう。お手入れはお互いに大切にし、大切にされた関係の歴史であり記憶です。

今の時代は、お手入れ不要の便利なものが増えてきています。例えば、お花では枯れない花や研ぐ必要のない包丁や、そのほか掃除やメンテナンスをしなくていい機械や便利な道具が溢れています。これらは使い捨てすることが前提ですから、使い切るまで一切のお手入れは不要です。

そもそも本来の言葉の使い切るというのは、「もったなく使う」ことで捨てないことから用いられたことばです。つまり捨てないでどこまで使い切ることができるかという意味でお手入れは絶対に必要です。

しかしこの意識の前提が「捨てることになっているか・捨てないことになっているか」でお手入れをするかどうかを分かつのです。捨てないことになっているからこそ勿体無く感じてお手入れが実践されるのです。

現代はグローバリゼーションのもと消費を優先して大量に生産し、そして捨てていく世の中ですがそのことで失われたのは美しい生き方ではないかと私は思います。この美しさとは心の美しさであり、修繕し勿体無くものを大切にし大切にされて生きていく愛情深い優しい所作、思いやりのある生き様のことです。

引き続き、修繕を楽しみ味わいながら子どもたちに大切な智慧を伝承していきたいと思います。

暮らしの醍醐味

昨日は聴福庵の甦生で大変お世話になっている大工棟梁とそのご家族に来ていただき、聴福庵での暮らしとおもてなしを体験していただきました。もう一年半以上も一緒に古民家の修理や修繕を行ってきましたが、いつも作業やお仕事ばかりではじめて一緒にゆったりとこれまでのプロセスを振り返る時間を取ることができました。

和ろうそくの灯りの中、二人で盃を交わしながら深夜までお酒を吞みましたが棟梁からは改めて「このような家を手懸けることができ大工冥利に尽きる」と仕合せな言葉もいただきました。まだまだ完成したわけではなく、修理や修繕は暮らしと共に継続しますからこのように家を中心に素晴らしい出会いやご縁があったことに感謝しきれないほどです。

人生はいつ誰と出会うか、それによって運命が変わっていきます。年齢も人生も離れていた人が何かの機縁によって出会い助け合う。そしてそのご縁によって豊かで仕合せな記憶を紡ぐことができる。志を共にする仲間が出会えるということが奇跡そのものであり、その数奇な組み合わせにより新しい物語が生まれます。

聴福庵の道具たちはすべて時代的に古いものを甦生して新しく活かしているものばかりですがその道具たちには職人さんたちの魂が宿っています。みんな人は何かを創りカタチを遺すとき、そこに自分の魂を削りそして籠めます。それは時代を超えていつまでも生き続けているものであり、その物語は終わったわけではありません。

その物語の続きを創るものがいる、魂を受け継ぐものがいる。そうやって今でもこの世に存在し続けて私たちと一緒に記憶の一遍を豊かに広げていくのです。またその魂は、同様に同じ志や思いをもっているものたちと引き合い弾き合わせてご縁を奏で波長を響かせていきます。その空間にはいつまでも楽しく豊かな記憶が、志を通じて甦るのです。それが暮らしの醍醐味なのです。

子どもたちに譲り遺していきたい暮らしとは、このように昔から続いている魂を大切に受け継いでいく勿体無い存在に対する尊敬の念です。ご先祖様たちの重ねてきた人生の延長線上に今の私たちがあるということ。それを決して忘れないでほしいと願うのです。

そのためには、それを実感できる場や存在、生き方や生き様などを与えてくれる大人たちの背中が必要なのです。今、私がここで感じている仕合せをどのように今の時代の子どもたちに伝承していくか、まだまだ未熟で途上ですがここで満足せずさらに一歩前に踏み出していきたいと思います。