窮屈と抑圧~社會の在り方~

何かを自由にしようとするとすぐにその自由に対して批判やルールを押し付けられることがあります。本来の自由は、そういう壁や枠を乗り越えて自在に自分を展開していくことですが周囲からの評価や空気を読めといった押し付けられるものに負けてしまえば自分を社会の型に嵌められ押し殺されてしまいます。

この窮屈や抑圧から連想される言葉は他には、マニュアル的や規格的、官僚主義的、制限つき、呪縛される、 自由がきかない、融通が利かない、ガチガチ、こり固まる、役所仕事など、いわゆる息が詰まるような圧迫したマジメさというか狭苦しい不寛容な雰囲気を感じます。

以前、オランダにいったとき教育の自由が保たれ、どんな人でも教育を語ってもよく民間企業であっても官学連携も普通に行われ豊かにその教育の質を議論し合える寛容な環境があったことに感動したことがあります。そのオランダでは私のような人間をユニークだと褒めてくれて、日本にこのようなユニークな会社があることが素晴らしいと認めてくれたことに感動したことがあります。

しかし日本ではすぐに何かをしようとすると、大多数の古い価値観から否定され「こうであらねばらない」というすぐに誰かが決めた社会の固定概念というか封建主義的な風習から語られ、本質的な議論もなされず余計な時間を浪費してしまう傾向があります。

真面目にやりなさいと言われ続けて型に嵌められることが当たり前になると型破りであることはそのまま不真面目であると認識されます。しかしこの型破りというのは決して不真面目にやっているのではなく本質を守ろうとするがゆえに型を破っているのに過ぎないこともあるのです。

なんでもすぐにマジメはいいこと、フマジメは悪いことと認識してその常識を信じ込まされていることこそが自分も窮屈で不寛容な社会の助長をしていることになるように私は思います。

マジメかフマジメかではなく、本質的にどうなのかと質の話に議論がいかないことが成熟を阻害し、民度を下げているようにも感じます。なんでも同じ型に嵌められるほど画一的なものではないのが実際の社會です。

この画一的で規格品ばかりができたことによる窮屈で抑圧された状態で凝り固まっていたら世界に取り残されてしまうのは自明の理です。

もっと純粋な人や、志のある人、本質的な人を助けて応援する気風を国家全体で醸成していくことが本来の国家の品格ではないかとも思います。どこぞの大量生産の規格品ばかりをつくるロボットの工場のような国が果たしてこれからの多様化された自由な世界で一体何をすることができるのでしょうか。子どもが減っているのも子どもの元氣が減退しているのもそれは今の大人たちが作り上げて押し付けてきた社会がいつまでも変わらないままであるからでしょう。

社會は本来寛容です、そして寛容さは広く明るい伸び伸びした自然の環境と心です。

もっと心豊かに生きられる国にしていけるように、子どもたちにはいろいろな生き方があり自分らしく生きていいというロールモデルになるようにどんな窮屈で抑圧された社會であってもそれを乗り越えて新しい今を今を生きる大人たちの選択として創造していきたいと思います。

子どもたちの元氣に貢献できるよう、自分らしく明るく伸び伸びとした活気を放って挑戦していきたいと思います。

価値観を毀す

人間は知らず知らずのうちに、自分の生まれ育った環境の中で価値観が固定されていくものです。特に国家や社会の中で、これは正しいこれは間違っていると一つ一つがインプットされればその固定概念によってできないことやできることが身に着いていきます。

時に外国に行き、別の国家や社会の価値観に触れれば日本では常識的にあり得ないことでもその国では当たり前に行われたり、世界で非常識だと思われることでも日本では常識だと認識されていることもあります。

通常であれば、大多数の方の価値観に無意識に従って判断していますが価値観が異なる環境の方に身を置けばそれまでの自分の価値観を維持することが難しく価値観が揺さぶられ毀れていくものです。

この価値観を毀すというものが、自分を変えていくということかもしれません。

自分の価値観を揺さぶり、自分の価値観を毀すことは自分を毀していくということです。古くなり鈍ってしまっている自分の感覚を磨き上げて新鮮に鋭敏にしていくという感覚のことです。

人間は環境の中で無意識に影響を受けて、次第にそれが癖づいていきます。習慣になれば価値観は固定され、その価値観によって常識や限界が生まれていきます。本来はできることも、その大前提になっている価値観が邪魔して動くこともできません。先に諦めてしまうのは、その価値観がガチガチに固定されてしまっているからでもあります。

自分を毀し続ける挑戦というものは、価値観に囚われず本質を磨き続けていく挑戦です。環境がどうであれ、自分が目指しているもののために敢えて常識を毀していくという挑戦のことです。

周囲からは馬鹿だと呼ばれたり、狂っていると中傷されたりしても、本人が目指す理想に向かって真摯に挑戦し価値観を毀し続けることでそれまでの人々の価値観があるときある瞬間に音を立てて毀れて新しくなります。時代の価値観の移り変わりというものは、そういう維新の志士たちによって行われてきたのです。

生きているだけでその国や常識や社会の価値観の圧力を受け続けて自分が抑えこまれていきますからそれを日々に壊すために自分の鈍る感性を鋭敏に磨き上げていく必要があります。

価値観を揺さぶられるような体験は、主体的に自らが挑戦することで得られますから自分の中で考えられないようなことへも面白がって楽しく勇んで挑んでいくことが新しい自分と出会うきっかけになります。いろいろな人に出会うのも、いろいろな分野を深めるのも、いろいろなところに行くのも、いろいろな本や智慧に導かれるのも価値観を毀し自分を磨くためです。

引き続き、子どもたちに固定概念を押し付けず子どもたちがあるがままに活きられる世の中を見守るために自分の価値観を揺さぶり続けたいと思います。

 

 

一緒に考える人

一緒に考える人というのは、当事者意識が強くあります。自分が相手ならと考え、相手が自分ならと考えているうちに自分がまるで相手のことになり相手が自分のことになってしまいます。これを当事者意識といいます。

どこか自分事ではなく、相手の問題だとみている人は当事者になることができません。当事者ではないのだから思いやりも発揮されず、まるで他人事のように自分には関係ないものだと処理したりするものです。他人事になれば巻き込まれたくないや、責任を取りたくない、関係したくないと思い余計に関わらなくなっていきます。自分の問題だと物事を常に受け止める人は、それを自分事にして取り組みますから体験も2倍、経験も2倍、いやそれ以上に他人の人生まで介入して悩んで協力して手助けするのだから偉大な成長があります。さらには、自分を守るのではなく誰かを守ろうとするのだから自分に囚われず大きな目線で大胆に行動することもできます。つまりは自分の想像を超えた成長があるのです。

仕事ができる人や、みんなに必要とされる人はこういう人が多くいつも自分を誰かのために活かしています。その逆は、いつも自分のために誰かを使おうとします。前者はいつも周りには協力者が現れ、後者はいつも独りぼっちです。

信頼関係を築くというのは、言い換えればいつも協力しやすい関係になれるように努力しているということです。それは自己防衛ではなく利他防衛、お互いを思いやり一緒に考え続けてお互いにどうしたらいいかとお互いに誰かのために自分を活かし続けていくということです。また自分の心配をしなくていいようにみんなの安心のために働き、できうる協力を惜しまず自分に起きたことは周りにも一緒に考えてもらえるようにいつもオープンな情報共有を怠らないようにすることです。それは周りに申し訳ないという遠慮をするのではなく、みんなもきっと自分と同様に役に立ちたいと思っているという配慮です。

それに自分の心配や保身から身構えて壁をつくって相談にいくのは相談ではありません。「一緒に考えよう」と自ら心を開き、仲間に意見を委ね、取り組みに手伝ってもらえるように信頼し合っていく、こういう日々の積み重ねの連続が自他一体の境地で生きていくことのように思います。

人間は不思議ですが、自分が助けたように見えて自分が助けられているものですし、相手を助けたいと思って真心で行動したことによって自分が助けられていたということばかりです。

お互いに助け合うことで人間社会が成り立っているとするのなら、私たちの本来の仕事は自分のためにすることではなくすべては周りの人たちのためにあるのです。

同じ目的のために力を合わせるということが、人間の元来もっている協働や協力の徳です。それが発揮されないような環境や、邪魔するような刷り込みを如何に取り払い仕組みにしていくかは社會を創造していく上で大事なことです。

引き続き社業の実体験に基づいた経験を深堀し、そこから得られた智慧によって子どもたちが安心できる社會に一燈をささげていきたいと思います。

運命の模様替え

世の中には不平不満ばかりを述べては言い訳ばかりして何もしない人もいます。そうかといえば、言い訳をせずにどんなことも勇んで遣りきっている人もいます。自分から進んで取り組むことは勇気がいることですが、他人が嫌がることや大変なことを自ら引き受けて取り組んでいる人は運命が明るく伸びているように思います。

そういう人は徳が積まれ、その徳によって運命が好転していくように思います。

常岡一郎さんにこのような言葉があります。

「徳と毒はよく似ている。徳は毒のにごりを取ったものだ。毒になることでも、そのにごりを取れば徳になるのである。どんないやなことでも、心のにごりを捨てて勇んで引き受ける心が徳の心だ。いやなことでも、辛いとかいやとか思わないでやる、喜んで勇みきって引き受ける、働きつとめぬく、それが徳のできてゆく土台だ。ばからしいとか、いやだなあというにごった心をすっかり取って、感謝と歓喜で引き受けるなら辛いことほど徳になる」

常岡一郎さんは、自分のことは後回しにしてでも誰かのために自分を絞りきる実践をなさっていた方だったといいます。朝顔を洗おうと思いながらも、みんなのために朝起きてすぐに自分を盡していたら結局は夕方になって顔を洗うことになっていたといいます。しかしそうやって、みんなのためにと生きるからこそ勇心や勇気がでていたともいいます。自分のことを先にすれば毒になり、自分のことを後回しにすれば徳になる。毒と徳は紙一重の生き方の差にあるように感じます。

また常岡一郎さんは「運命の模様替え」という言い方をします。

「常に勇んで生きる人に天の心が動く。天の心が変わって後に、天命も天の恵みも変えられるのである。粗末な汚れた今日の運命の着物を着せられていても、燃えるような勇んだ心の持主には明日の美しい着物と模様替えされる。人の運命の着物は親なる神にまかせねばならぬ。泣いても、わめいても自分の運命は自分で頂かねばならない。逃れる道はない、明るいお礼心で迎え勇ましく働いて、模様替えの始まるまでつとめきるより他はない。」

どんな運命であってもいくらでも人は必ずそれを好転させていくことができる。それには燃えるような勇んだ心、つまり「勇気」だといいます。私も人生を省みると、痛くても前に踏み出す勇気、怖くても一歩を踏み込む勇気、その勇気があるから運命を受け容れることができその運命に従い自分を成長させてこれたように思います。

この勇気は決して、ただ闇雲に無鉄砲に突っ込めというような野蛮なものではありません。自分を後回しにしてでも、勇気を出して信念に従ったり、今まで頑固に執着している自分のことを手放して新しいことに挑戦したりするときの勇気だと思います。

私も先日から足を痛め、ずっと右足が前にでず階段が怖くて登れませんでした。あまりの激痛と、階段を踏み外したことへの心理的ショックが大きすぎて足が前に出ないのです。しかし、お客様の理念研修を実施するにおいて私が勇気を出さなくてはと前に足を踏み込んだとき勇気が出てすべてのことが打破されていきました。

人が変わるということは、勇気を出して行動するということです。

運命は勇気を出して足を前に出すからこそそこから景色が動き始めます。自分の保身や心配ばかりをしていて怖がっていても人生は好転せず、誰かのためにと自分を後回しにしてでも取り組もうとする勇気の時にだけ、福に転じていきます。

「思い切ったことをやる。すばらしい困難と取り組む。そこに自らの未熟さがわかる。力の不足がわかる。不徳がわかる。しみじみと自分の本体がさらけ出される。そこで反省も出来る。鍛錬に力がはいる。修養が真剣さをもって来る。何もしないで考えているのは人生のむだ遣いである。」

・・何もしないで考えているのは人生のむだ遣いである・・

生き方の指南として、「自分をふり絞れ=勇気を振り絞れ」という意味、「運命の模様替え」はいつも大事な局面で背中を押してくれるかもしれません。勇気を出していのちを遣りきるという今を生き切る姿勢を保ち続けるためにも、好奇心と創造力を信じて挑戦していきたいと思います。

 

 

生き甲斐と働き甲斐

人生は、「生き甲斐」を持つことで希望が現れ楽しくなります。この生き甲斐は、世界では「mottainai」や「kawaii」などと同様に「ikigai」として注目されているともいいます。

この生き甲斐は、生きるに値するもの、生きていくはりあいや喜びと辞書では訳されますが私の意訳では「暮らしの仕合せ」です。一日一生として、毎日を人生の大切な日であるとして初心を忘れずに丁寧に暮らしを営むことで生きる意味を感じる生き方のことです。

人は何のために生きるのかと突き詰めれば、どう生きていきたいかに出会います。どのような生き方をするかと決めれば、毎日はその生き方を挑戦できる尊い一日になります。それを初心ともいいますが、その初心を忘れずに生きれるのなら毎日は生き甲斐のあるはりのある一日を過ごすことができます。その日々の暮らしこそが幸福の源流であり、その中にある最中こそが本当の仕合せなのです。

そしてこの生き甲斐は、そのまま働き方に転換されていきます。働き方改革など世の中でいわれているもののほとんどは、働く手段や方法のことばかりを変えることをいいますが本来は生き方を変えることが働き方を変えることです。そして生き甲斐があれば働き甲斐が出てきます。

この働き甲斐は、日々の仕事の中にあります。

どのような初心を持ち、日々働きそして内省するか、それを繰り返すことで次第に働き甲斐が高まり豊かになっていきます。その豊かさは暮らしの豊かさであり、日々の仕事の中に自分の価値や意味、その大いなる目的を共に体験することで天職に気づいていくことです。

与えられたご縁はすべて意味があるものとして生き方を磨き、与えられた仕事もすべて天職として意味があるものにしていくことで働き方を磨く。そこで得られる生き甲斐と働き甲斐は自分が生きている、活かされている充実感を味わうことです。

「ikigai」「hatarakigai」は、日本人の持つ尊い文化です。

日本人の文化に支えられながら、暮らしを甦生させ日々を充実するよう初心と実践と内省を伝道していきたいと思います。

日本の文化

私たちは目には見えないけれど確かに文化というものを持っています。その文化は表層にはあまり現れていなくても、深層には確かに存在していて何かがあると顕現してくるものです。

例えば先日、都内で大雪が降ったとき多くの人たちがみんなで協力し助け合い雪かきをしたり道を誘導したり、声掛けをし合ったりといった光景を観ることができました。他にも大震災のときなど、みんなが自粛して行動したりみんなのために分け合ったりしながら助け合い思いやりの光景が観られます。

世界は報道などで、日本人のこれらの助け合い譲り合いの精神を垣間見ると大きな尊敬の念を抱いてくれます。その時、外国の人たちが観ているのはその国にその国民に流れる文化を観ているのであり、その文化の素晴らしさに感動されているのです。

この文化というものは、一朝一夕にできたものではなく長い時間をかけて繰り返し繰り返し、自分たちが大切にしてきていることを忘れないで生きてきた集積によって定着していきます。

言い換えるのなら生き方とも言えますが、先祖が何を大切にして生きてきたか、そして子孫へは何を大切にして生きてほしいか、さらには自分は何を大切に生きていくかということを自覚して人生を伝承していく中で伝統となってつながっていくからです。

私たちが災害時や有事のときに自然に体が動くのはなぜか、自分の中から優しい心や思いやりの精神が湧いて出てくるのはなぜか、それはひとえに先祖がそういう生き方をなさってこられたからです。それが文化として脈々と自分の中に備わって受け継がれていることに気づいたのです。

初心に気づくというものもまた同様に、自分がどのような生き方をしていくかはその伝統とのつながりの上に折り重なっていきます。人間の性が本来、惻隠の情や真心があるのもまた親祖の初心が自分に備わっているということなのです。

日本の文化を大切にするのは、自分自身の初心を大切にしていくことで守り続けることができます。決して伝統工芸や食文化だけが日本の文化ではなく自分自身が日本人である生き方を思い出し、それを伝承していくことが日本文化を守ることになります。

引き続き、子どもたちに日本人の生き方を伝承しながら誇りをもって日本の文化を伝道できるように精進していきたいと思います。

挑戦し続けること~オリジナルの維持~

人間は誰しも同じ人がいないオリジナルの存在です。しかし気が付くと、他の誰かになるように刷り込まれオリジナルの存在であることが消えていくものです。自分らしく生きたいと思う反面、それをする勇気がなく主体性を失ってしまっている人も多いように思います。

他人と違うことをすることを恐れるのは、勇気を出してオリジナルの自分を前面に出すことができないからです。そこには目には見えない、みんな同じでなければならないや、周りに合わせて従順でいなければならない、自分勝手なことは許されないなどのプレッシャーをいつも心身に浴びていることでできなくなります。

個性の発揮と自立や、主体性などのことで悩む人はみんなこの自分らしさというものを押し殺してきたことで悩んでいます。自分らしく生きていくというのは、他の人と異なることを恐れずオリジナルの自分の志望動機のままに生き方を貫いていくことができるということです。

アメリカ合衆国の詩人、画家、随筆家、劇作家のE・E・カミングスはこのような言葉を遺しています。

「朝から晩まで絶え間なく、とてつもない勢いであなたに他人と同じであることを強要するこの世界の中で自分らしくあろうということは、要するに人間が直面し得る最も苛烈な戦いを、休みなく続けるということなのだ」

受け身でいることに慣れてしまい少しでも油断すると、形状記憶合金のようにあっという間に気が付くと周囲と同じ形に作られた姿に自分を合わせていきます。周囲と異なる自分に不安を感じ、周りに合わせた優等生のような姿になることで安心してしまいます。そのように自分を信じず、他人に合わせた生き方ばかりをやっていたら、そのうち自分の本当の生き方が別のものにすげ換り分からなくなっていきます。そして生き方が分からくなれば、すぐに言い訳をして誰かのせいにしてそのうち自分が人生の主人公であることも手放してしまいます。

受け身であることはその時は安心で楽ですが、その後にやってくるのは中途半端な覚悟でやってしまったことによる後悔や悩みです。主体性というのは、誰かに従って指示されていわれてやるものではなく、言われなくても前に出て自分から自分らしくやってみたいと発信して勇気で行動していくことで磨かれていきます。

今の時代はそれだけ自分らしくいることを貫くことに勇気がいる時代ですが、よく周囲を見渡せばベンチャーの経営者や、アーティストや歌手、みんな自分らしく生きることをテーマに苛烈な戦いを休みなく続けていくチャレンジャーはまだまだたくさんこの世に存在します。

そういう私たちもまた、子どもたちの個性を見守り、子どもそれぞれのオリジナルの生き方を尊重して信じきることを理念にしていますから負けるわけにはいきません。だからこそ、この主体性を発揮するために日々に挑戦をして勇気を出して行動することは私たちの理念のテーマであり、実践もまたそこに根差しているのです。

最後に、オリジナルを貫き大きな勇気を世界に与えたココシャネルの信条を紹介し仲間に勇気を振り絞るエールになればと思います。

「今も昔も、最も勇気のいる行動といえば、自分の力だけで考えること。考えたら声を張り上げて伝えることよ。」

何のためにやるのか、本当は何かと考え抜いたなら、その自分の出した答えを最期まで信じ抜くのは自分の覚悟です。それが周りに流されず周りに合せず、本当の自分を大切にする生き方です。

引き続き、子どもたちの個性を守るためにも弛まずに怠けず叱咤激励して誰でもない自分自身と向き合いながら今に挑み続けていきたいと思います。

ニーズと真の豊かさ

時代の変化とともに人々のニーズも変わっていきます。それは仕事でも同様にかつてはお客様のニーズだったものが時代が少し変われば環境も変わりますからニーズもそれによってすぐに変わっていきます。

相手のニーズは何かと感じる力は、変化への順応性でもあります。そのためには相手の話を聴いて相手の立場にたって物事を考える訓練が必要になります。人は我が強すぎると、自分の視点や観点だけを相手に押し付けるばかりでニーズを考えなくなってしまいます。

もしも相手が自分だったらと考えてみれば、自分にどのようなことを求めているかが共感できるからです。それを相手と話し合っていくうちに、お互いの協働が合わせやすくなります。

昔のように物がなくサービスもなく、ニーズが分かりやすかったころにくらべ物が溢れほとんどのことがお金で手に入るようになった世の中においては複雑になっていますからより潜在的なニーズをつかむ必要があります。

それは表面上のニーズではなく、万物根元に共通するニーズのようなものです。たとえるのならば心や魂から求めているニーズのようなものともいえます。

それは初心であったり生き方であったり、何のために生まれてきて、どんな人生を送りたいかのような万人に共通するニーズのことです。日常の生活で出てくる不満や障害からのニーズで満たされやすいものですが実際はそういうものが消えれば潜在的ニーズが出てきます。

これは怪我や痛みがもっとも痛いところが治ってくると他の個所の怪我の痛みが出てくるように深いところの痛みは気づかないだけで誰しもが抱えているものです。

初心や理念といったものも同様に、生き方ですから本当にその人が心から願い魂から渇くようなニーズは真の豊かさに直結しているように私は思います。

引き続き、理念や初心伝承の仕事を通してその人の自己実現から周囲の子どもたちへのお手本になる生き方を伝道していきたいと思います。

自分の人生

人間は「わかる」というものと「きづく」というものとで自己との対話をしていきます。わかるというのは、理解することですがきづくというのは覚めるということです。

先日ある人が、主体性のない部下に対して「あなたは一体どうしたいのか?」と聞いても本人がどうしたいかわからないという返答で困っているという相談がありました。主体的に自分で決めたことをやった方が楽しいし本当の人生だからと善意で話をしても本人は、「考えれば考えるほど自分のことが分からない」とより一層悩みが深まって困ってしまうという話です。

本当の自分のことを抑え込んで世間体や周りの空気を読んで周囲にとっていい人でいようと自我を無視して誰かのいう正しいを正しいことと盲目に信じてその場しのぎで楽をしてきたことでわかりのいい人になりきづくことができなくなってしまったのかもしれません。すぐにわかるわりに、気づくことがないのはわかりのいい人が長かったからかもしれません。

この場合のわかるとは、周りをみてわかることです。自分がどうしたいかを常に周りをみながら決めてきた人生を送れば、周りを関係なく自分はどうしたいかという選択肢はなくなってしまうものです。そうなると、自分は世間体や評価、周囲の期待に応える自分を自分と思い込んでしまい自分がしたいことが何かと聞かれても周りがどう思っているかということや周りはどうしてほしいのかがわからないという具合で本当の自己のことはもう見失ってしまっていることが多いように思います。周りの中でつくりあげてきた自分のことを自分だと思い込んでしまうことをやめないかぎり自分のことには気づけないのです。

本来、自分がどうしたいのかというのは自分はどういう生き方をするかという自分自身を貫いていく人生のことでもあります。人生は何のために生きるのかからはじまり、そのためにどう生きるかを決めます。その決めたものが生き方ですから、常に自分は何がしたいのかというのは常日頃から自己との対話によって覚悟を磨いていくものです。

もしも今まで自分の心の声に従うのではなく、周りをみて空気を読んで従っている癖があれば周りの声のことを自分の声だと勘違いしてしまうかもしれません。周りの評価を気にしては自分をさらけ出すこともできず、あるがままの自分を隠しては周りの期待する人に近づこうと頑張ってしまいます。本当の自分ではない付き合いをする人は、その後の人生でも無理をして本当の自分を偽りますから真実の信頼関係がもたなかったり、自分自身も本来のつながりや絆を結ぶことができずに孤立してしまうものです。

大事なことは、周りとか空気とか世間体とかを一時忘れて、本当はどうしたいのかと自分の初心を確認することだと思います。そしてひとたび初心を思い出したのなら、その初心を忘れないようにしていくことが自分の声に従い自己との対話を通して覚悟を定める生き方になっていくように思います。

自分自身に素直になる人は、他人にも素直になれますし、自分自身を信頼できる人は、他人のことも信頼できる人になります。まずは自己というものを自覚すること、つまりはわかろうとするよりもきづくことを優先することのように思います。

きづくとは、「本当は何か」と自問自答することです。

引き続き、その人らしいその人の個性をみんなが喜び活かせるように自分の人生や生き方を思い出し主人公と自覚できるような環境を子どもたちに用意していきたいと思います。

日本の心と自己錬磨

私が尊敬する方の一人に日本の将棋棋士で永世七冠の羽生善治氏がいます。いくつかの著書を拝見していますが、そのどれも自己との対話や感情との折り合い、調和への心の姿勢などどれもとても参考になります。実戦により鍛錬されたその思想や感情、どのように向き合って自己錬磨されているか、それは事物に挑むときの指針になります。例えば、自己との勝敗を決める岐路について磨かれている言葉には下記のようなものがあります。

「自分から踏み込むことは勝負を決める大きな要素である。」

「基本的に人間というのは怠け者です。何も意識しないでいると、つい楽な方向や平均点をとる方向にいってしまいます。だから相当意志を強く持って、志を高く揚げ核となっている大きな支えを持たないと、一生懸命にやっているつもりでも、無意識のうちに楽な方へ楽な方へと流されていくことがあると思います。自分自身の目標に向かって、ちょっと無理するくらいの気持ちで踏みとどまらないといけません。」

「どんな場面でも、今の自分をさらけ出すことが大事なのだ。」

「「自分の得意な形に逃げない」ということを心がけている。」

「勝負に一番影響するのは「怒」の感情だ。」

「平常心をどれだけ維持できるかで、勝負は決まる。」

自分との戦いを続け、如何に自分を磨いていくか、荘子(達生篇)に収められている故事に由来する言葉に木彫りの鶏のように全く動じない闘鶏における最強の状態をさす「木鶏」という言葉がありますがまさに羽生善治氏はその木鶏そのもののモデルように私は感じています。この境地を体得するために、私たちは自己錬磨を続けていくように思います。

「ビジネスや会社経営でも同じでしょうが、一回でも実践してみると、
頭の中だけで考えていたことの何倍もの「学び」がある。」

「人間には二通りあると思っている。不利な状況を喜べる人間と、喜べない人間だ。」

「私は、対局が終わったら、その日のうちに勝因、敗因の結論を出す。」

「私は才能は一瞬のひらめきだと思っていた。しかし今は、10年とか20年、30年を同じ姿勢で、同じ情熱を傾けられることが才能だと思っている。」

「ひらめきやセンスも大切ですが、苦しまないで努力を続けられるということが、何より大事な才能だと思います。」

「何かに挑戦したら確実に報われるのであれば、誰でも必ず挑戦するだろう。報われないかもしれないところで、同じ情熱、気力、モチベーションをもって継続しているのは非常に大変なことであり、私は、それこそが才能だと思っている。」

自己錬磨の価値を教えてくれる存在が、同じ時代に生きていてその姿勢を見せてくれることがどれだけ有難いことか。日本の伝統文化である将棋には、日本の心があります。その日本の精神性や心を体現している存在があって、私たちは勝敗とは何を学ぶものか、そして自己錬磨とは何かということを先祖の生き方を学び直します。

尊敬し憧れるのは、単に強いからではなく日本人として磨かれた精神を将棋に感じ、その自己錬磨の生き方に感動するからかもしれません。

最後にいま、特に心に響く言葉です。

「山ほどある情報から自分に必要な情報を得るには、「選ぶ」より「いかに捨てるか」の方が、重要なことだと思います。」

「 今の情報化社会では知識や計算は簡単に手に入る、出来る物。だからもうあまりそれらに意味はない。これからの時代の人間にとって大事なのは決断する事だと思います。」

どのような決断をするか、そして何を捨てるか、常に自己との対局を楽しんでいくことで自己錬磨の面白さも味わいも豊かになります。引き続き、日本の心と自己錬磨を学び直していきたいと思います。