経営視線~一緒に働くということ~

人にはそれぞれに自分の見ている視野というものがあります。その視野の広さによって、どこまで物事が観えているかがはっきりしてきます。そういう人たちが集まって集団や組織をつくるのだから、その視野がどのように共通理解されているかで協力の仕方もまた変わってくるものです。

例えば、会社組織でいえばよくバラバラになっている感じがする組織は個々が自分勝手の視野や視点で自分の仕事のところだけをみて働こうとします。目の前の作業ばかりに追われ視野が狭くなってくると余計に会社全体の目的や目標を見失い、自分だけの仕事に没頭しているうちに他を邪魔し自分だけの仕事で良し悪しを判断して非協力的な雰囲気を出していきます。

本人はちゃんと仕事をしていると思っていても、それは自分の小さな狭い視野でのことですから笑えない話ですがひょっとすると仕事はできても会社が潰れたということにもなるかもしれません。

人は自分だけの視野に閉じこもったり、何のためにということを思わずに部分最適ばかりに目を奪われると視野が狭くなっていくばかりです。

そうならないためには日ごろから視野が狭くならないような仕事の仕方、働き方が必要です。言い換えれば視野を広く働く仕組みや訓練が必要だと思います。例えば、全体最適を目指し、なぜ会社にこの仕事が必要なのか、全体的に何を目指しているのか、常に今の自分が取り組んでいることを、長い目で考えたり、さらには広い視点で本質と対峙したりしながらみんなと協力し合って全体最適になっているかと常に視野を広げるフィードバックを求め続ける必要があります。

バラバラではないというのは、個々の勝手な視野で部分最適に行うのではなくみんなで一緒に広い視野を持ち合って一緒に取り組んでいくということです。別にみんなで同じことを一斉にやることが一緒にやることではなく、みんなが同じ目的を共有し同じ視野で一緒に取り組んでいくということがバラバラではないということです。

視野が狭くなるのは、自分自身に囚われたり評価を気にしたり、保身やプライドや我が邪魔していることが大いに影響があると思います。自分の心配をして全体を意識しなくなればそれは視野が狭くなります。協力しやすい風土や、助け合いの風土が自分の視野の狭さによって作業に没頭し閉じこもったことでぶち壊されていることを自覚する必要があります。先ほどの自分の仕事はできたけど会社が潰れたは、言い換えれば自分の作業はできたけどみんなの働きには貢献しなかったということになりかねません。会社やトップが求めているのは部分最適ではないことは明白です。そうならないように「一緒に働くときの働き方」を新たに身に着けなければなりません。

ここで最も大事なことは「常に視野を広げるような働き方をすること」でありそれは自分の心配よりもみんなの心配をすることや、会社が目指している大きな目的や理念の方をみて、本当は何をすることが本来の仕事なのかと常に周囲と一緒に思いやりをもって取り組むこと。つまり常に視野が狭くならないような働き方をすることではないかと私は思います。

目的も本質も知らずに作業をするのは、効率優先結果優先、評価優先で刷り込まれてきた歪んだ個人主義の影響を受けたのでしょうがその刷り込みを打破するためには視野を広げ、視点を合わせみんなで一緒に取り組む新たな習慣を身に着けてみんなが経営者のようになって働いていくことだと私は思います。それをみんなが経営視線になるともいうのでしょう。

引き続き、課題も明確になっていますからどうあるべきか深めていこうと思います。

信じる力

人生には苦しい時というものが何回もあります。その時、私たちは信じる力が減退し弱ってくるものです。その時、自分以外の何かの「信」に頼って自分を信じる力を甦生させていきます。

人は一人ではないと思うとき、このままでいいと思えるとき、信じる力によって救われていくものです。

この信じる力というものは、希望でもあり生きていくうえで自立していくためにとても大切ないのちの原動力でもあります。人間は信じあうことで不可能を可能にし、信じることができてはじめて感謝の意味を実感することができるように思います。

信頼というものは、その信じる力を伸ばすとき、また信じる力を回復するときに欠かせないものです。信頼関係が持てる人との心の安心基地がある人は、どんなに困難が降りかかって信じる力が失われてもその安心基地に頼ることで自分を信じる力を増幅させます。

この安心基地は、一緒に信じてくれる仲間の存在であったり同志やパートナーの存在であったり、どんな時も片時も離れずに自分を信じてくれる内在する自分の魂であったりします。

人はこの安心基地を築き上げるために、それぞれに信じるものへ向かって一緒に力を合わせて取り組んでいきます。人が協力するのは、この信じる力を合わせるためでもあり、安心基地を共に築いていくためでもあります。

誰かと一緒に関わり何かを行う理由は、この信じる力を身に着けてその「信」によって互いの人生を共存共栄していくためでもあります。人は「信」で繋がるからこそ人生の歓びや楽しみ、仕合せを感じられるのです。

その信で繋がることができるのなら、お互いの信を分け合って助け合い自分の使命を全うしていくことができます。人間は時として、自分を信じられなくなる時が必ずあります。夢を諦めそうなとき、孤独を感じるとき、それは自分を強く逞しくしてくださっているのですが信じあえる存在がいることで夢に救われ、孤独よりも愛の大きさを知るのです。

私のメンターが見守るとき『本当の自立とは自分でできるようになることではなく、人に頼ることができるようになること』といつも仰っていますが、これは「信頼」を深めれば深めるほどにその意味の奥深さが分かります。

勘違いした価値観や、刷り込みや常識に囚われればこの自立の意味もはき違えて信じる力を減退するための環境を自らが子どもたちに広げてしまうかもしれません。もう一度、信じるとは何か、なぜ信じるのかと確認しながら本来のあるべき姿に回帰し、信で繋がり、信で頼り合う関係を構築していきたいと思います。

 

信頼の仕組み

一緒に何かを誰かとやるとき、私たちは信頼というものを使います。一緒に仕事をする人のことが信頼できるか、これはチームにおいてはとても重要です。人は何をもって相手を信頼するのか、能力とか、性格とか、気が合うとか、目的が同じとかいろいろとありますが、ひとつは自分自身との付き合い方、言い換えればその生き方、そして共に一緒に生きていく中では頼り頼られる場数によって積み上げられるものだと思います。

そもそも会社や組織では一人でできることはほとんどありません。特に大きな目的があれば、一人ではできないから周りの協力を借りるのです。というよりも、一人でやる人は一人でやることしかやっていないのだから組織の意味が分かっていないのかもしれません。

一人で評価を意識して信頼関係をつくろうとせずに仕事をする人は、仕事がタコツボかしたりブラックボックス化していきます。仕事は効率的になり、自分の思い通りに進めることはできますが信頼関係を築くことが後回しになっていき誰かと一緒に仕事をすることが苦手になることがあるようです。

一緒にしていくなかで、その人の裏も表もみんな観えてきてその人のことを丸ごと理解していく中で人はお互いの弱みを知り合い頼り合うことができます。能力だけで結果だけで信用はし合っても、お互いに信頼できないのでは未来に対して大きな目的を共にするときに本来の成果はでてきません。

お互いに信頼し合うからこそ、共に助け合いそのプロセスも楽しくなり互いに大きな安心の中で未来を築いていくことができるからです。信頼できない人と一緒では、どんなことも心配ですしお互いを丸ごと理解し合って頼り合おうとしない人とは一緒に何かをやろうとも思いません。

一人で仕事をする癖を持っている人は、信頼関係が築けませんし一緒にやろうと思われることもありません。わざわざ失敗するかもしれない人と組みたくないとか、自分ができないと思われたくないとか、誰かとやるのはめんどくさいとか、理由はいっぱいありますが本当は信頼を築くことを怠っているということになります。

信頼し合うために一緒に仕事をするといっても過言ではなく、一緒に何かをやることで日々に信頼関係を築き上げていくのが共に働く仲間である証明でもあります。共に一緒に頼り合っているからこそ、何かあったときに心を許し合って働くことができる。大事な局面において、何を拠所にみんなで協力して力を合わせるか、それが信頼関係を持つということなのです。

今は歪んだ個人主義と責任ばかり押し付けられた過去の組織体験において信頼を築くことが優先順位からかなり低いところにおちています。誰かと何かを一緒にやるという力はこれからの未来において何よりも優先する力になるのは間違いありません。信頼は、つながりをもって人が助け合い思いやり生きていくための最大の仕組みなのです。

子どもたちに、信頼の大切さを譲り遺せる背中を見せられるように、信頼を優先する仕組みをつくりあげていきたいと思います。

聴福力

「読み」と「聴く」という言葉があります。

この読みとは、物事の筋道を読むことで言い換えれば読み解く力であるとも言えます。よく「読みが深い」や「読みが当たる」、「読みが鋭い」という言葉もありますがこの読み解く力は全体を観通す力のことで、過去の経験の洞察や事物をよく観察するときに読みを使います。

しかしこの読みは、時として将棋や囲碁で使われる「勝手読み」のように相手の応手をしっかり考えずに、自分に都合のいい手順を読むことになり独善的に陥ることもあります。これは深読みし過ぎていることで、うがちすぎたということです。このうがちすぎるというのは、辞書で意味を引くと「物事の本質や人情の機微をとらえようと執着するあまり、逆に真実からかけ離れてしまうこと。」と記されます。

つまりは、読みだけで全部を解決しようとすると深読みし過ぎたりうがちすぎたりするということです。読みが外れるのはこういう心の態度が原因になります。なぜ読みだけでいこうとするのかは、聴けないからです。

今度は「聴く」というものがあります。聴くは聴き過ぎや、聴きが外れるとか、聴きが当たらないなどという言葉はありません。分からないときは素直に聴けばいい、また相手のことを深く聴けば聴くほどに共感し受容しますから問題はありません。聴けば真実がそのままに観えますから聴き外れもありません。

読みは独善的になりますが聴くは満善的になります。読みは自分中心になりますが、聴くは全体中心になります。人間は読みだけに頼るのではなく、聴くことが何よりもバランスを保つうえで重要になるということです。

独善的に陥らない方法は、聴くしかありません。聴き上手は常に、周囲の力を借りることができ、また人材を活かすことができます。

私は意味を深めるために、読み解く力は必要だとは思いますが生きていくためにはその意味の本質を理解するために聴くことの方がもっと重要だと感じます。聴くことで人は自他を信じることができ、聴くことで全体の声にならないようなすべての声を受容し円満に循環していくための道理を学ぶことができるからです。

聴福人というのは、独善的な人ではなく満善的な人になるということです。この満善的な力のことを私は聴福力と定義しています。

引き続き、組織の風通しを見極め実践を高めて聴福人の道を弘めていきたいと思います。

新しい発明、新しい自分

私たちは可能性というものを思うとき、できることやできないことから考えていきます。例えば、あれもできるこれもできるとやってもいないものでもある程度は今の自分の能力や状況から判断していく可能性というものがあります。同時に、今の自分にはできないという現実を受け容れるとき、今までにはなかった選択肢が新しい可能性として出てくるものです。

つまりは、できようができまいがそれがすべて可能性としてあらゆる選択肢を考えることができる。人間に可能性がなくなるときは、自分が先に可能性を見失うほどマイナス思考に陥っているだけで決して選択肢がなくなったことではないのです。つまりは人間はどんな状況においても可能性はなくならないということになります。

ではこのように可能性を持ち続けるためにどうすればいいか、そこには心も持ち方や発想の転換の訓練が必要であるように思います。何か行き詰ったとき、「だったらこうしてみよう」や「逆転の発想だとどうなるか」など、人間塞翁が馬であるとしたり、禍転じて福にするというように心の持ち方を鍛えていくのです。

発明という言葉があります。

これは「今までなかったものを新たに考え出すこと。」と辞書にはあります。つまりは心の持ち方を健全に鍛えて逞しくしていれば常に逆境や苦難は発明の糧になります。

この糧とは、これは本当は何の意味があるのかと深く自問したり、天からの何かしらの手紙ではないかと受け止めたり、ひょっとしたら自分は何か大切なことを見落としているのではないかと見直したりというアイデアの原点に出会うのです。

人は何もなければ今までやってきたことのままでいいや、延長線上に物事があると思い込んだり、階段のように上がっていけばたどり着くと思ったりします。しかし実際は、変化とはブラッシュアップのように温故知新し続け「今までになかった新しい自分になる」ことが求められます。

新しい自分とは、今までではなかった自分ということ。それは発想が変わることであり、今までの価値観ががらりと入れ替わることです。変化は常に自分の心の側で行われ、可能性もまた自分の心の側で変わります。人は日々に自分自身の新しい可能性に挑戦するなかで得られるその発明の糧の御蔭で自分自身の可能性を引き出し広げていきます。

難しい相手や困難であればあるほど、新しい発明と新しい自分を発掘していけるのです。引き続き、困難や苦難の意味を味わいながら新しい発明を楽しみたいと思います

前向きに諦める

人生には自分の思っていた通りになるものと思い通りにならないこと、思いもつかなかったことがあったりするものです。生きていく中で、色々と願望が固着し思いが重たくなってくるとその願望に執着して諦めることができなくなることもあります。

しかし本来は、目的を失うわけではないのだから手段は無数にあっていいわけで私たちはその手段を変えていくときに葛藤があるのかもしれません。言い換えれば、今までできたことができなくなることへの不安感であったり、今までその手段でやってきたことができなくなることへの心配が手放す勇気を減退させてしまうのかもしれません。

前に進んでいくためには、いろいろなことを手放していかなければなりません。それまでできたことが、新しいことをやろうとするとできなくなる。新しいことをやるために過去の手段を変えていこうと冷静になればいいのですがこれまでやってきたことはなかなか簡単に捨てることができないのです。

例えば、健康などもそうですが怪我をしてみて今までできたことができなくなるとそれまでできていたことがなかなか諦めることができません。なんとか元に戻ろうとしますが、元通りにはなりません。リハビリをしながら、新しいやり方を身に着けていく必要があります。ひょっとすると、元にやっていた時よりももっと上手にできるようになるかもしれません。しかし元通りになることに執着すればするほどに過去の習慣が手放せず変わることができなくなるのです。

人生の中で前向きに諦めるときは、目的を達するために他の手段を考えようと諦めないと気です。ある部分は諦め、ある部分は決して諦めない。この諦めると諦めないの間にこそ諦観があります。

この諦観とは、辞書には「 本質を明らかに見て取ること。」「 悟りの境地にあって物事をみること。」と書かれます。

思い通りにいくことが目的を達する道ではなく、どんなに思い通りにいかないことがあったとしても目的を最期まで失わないこと。人生はどんなことが起きるかわかりませんから、その中でも目的を失わなければ色々なやり方があるという中に本当の可能性が隠れているかもしれません。

なんでもできるという可能性と、できなくなって明らかになる可能性。

前向きに諦めることの本質は、流れに逆らわずに我を手放し来たご縁をすべて活かしていこうとすることのように私は思います。

気づく感性を高め、何かを見落としいなかったか、無理をしていなかったかと、内省を深め、さらに一歩一歩前進していきたいと思います。

 

音楽の仕組み

先日、自由の森学園の音楽祭を見学する機会がありました。2日間に渡る音楽祭は、初日は生徒たちの有志によってそれぞれに自己表現を楽しんでいました。2日目はクラスや学年別、全校生徒による合唱が行われています。

生徒たちがそれぞれに楽しそうに音楽を奏でる姿に、学校の雰囲気や子どもたちの成長の様子なども表現されていました。音楽を奏でるというのは、それぞれの自己表現を楽しむということでもあります。自分らしく主体的に楽しく取り組んでいる姿がそれぞれの音として顕れ、その音楽に乗っかることでさらに主体性が引き出されていく。音楽は子どもたちの主体性を揺さぶるひとつの仕組みかもしれません。

人間はそれぞれに自分の人生があります。それは誰かと比較したり、誰かのようになろうとしたりしても意味がなく、それぞれに与えられた自分の人生があります。それがどのようなものであれ自分の人生なのだからその人生を謳歌することが仕合せであり、その謳歌したものが音楽として全体に響き渡ります。

ひょっとすればその人生は成功かもしれないし失敗かもしれません。しかしそれは他人が勝手に評価するもので自分自身がどう思うかとは別の話でもあります。

音楽というものは、どのようなものであっても楽しむということやどんなことも善いことへ転じるという人生への逞しい意志を感じます。歌を歌う人は、その背景に人生を力強く生き、その転じられたものを表現するときそれぞれが実感した人生の音を奏でていきます。

どのような音を奏でるか、どのような声を発するか、その人の人生が丸ごと歌になっていることを思えばその人生を如何に楽しむかが何よりも重要だと私は思います。

人生の大切な時期に、学校に入り、仲間と語らい、人生の大切な意味を知る。

音楽もまた自由を学ぶための大切な仕組みの一つです。深めたものを実践に活かすためにも、新たな仕組みを創造していきたいと思います。

 

聴福人の実践

私たちは聴く仕事をしています、その聴く仕事の人を私たちは聴福人の実践と定義しています。この聴くという実践は本当に奥深く、聴く境地に達するにはいのちがけの精進が必要になります。すぐに人は聞きましたと返答しますが、その実は聴いているようで聞いていないということが多々あるものです。

「聴く」ということにおいて、高木善之氏の著書 『ありがとう』(地球村出版)に「耳の大きなおじいさん」と題するお話が紹介されています。これは私の思っている聴くということに通じていてとても参考になるのでご紹介します。

『私が子どもの頃、近所に東(あずま)さんというお宅があり、そこにおじいさんがいました。おじいさんはいつも籐椅子で揺られていました。 耳が大きく、いつもニコニコして、いつも半分寝ていました。

もとは父と同じ病院の歯医者さんでしたが、数年前に定年退職しましたので六十五歳くらいです。いまなら六十五歳は高齢ではありませんが、「村の船頭さん」の歌詞にも「ことし六十のおじいさん」とあるくらいですから、当時は六十五といえば、近所でもっとも高齢でした。

この「耳の大きなおじいさん」は、「悩み事、相談事をするととても楽になり、解決が見つかる」 ということで評判で、近所の人はもちろん、遠くからも人がやって来ました。

私は、小さな子どもだったので実際に相談したわけではありませんが、人の話によると、おじいさんは、どんな話も黙って聴くのだそうです。

相手が笑うと、おじいさんも微笑んでくれるのだそうです。 相手が泣くと、おじいさんも涙を流してくれるのだそうです。

相手が黙り込むと、おじいさんはやさしい目で見つめて黙って待ってくれるそうです。

そして、相手が立ち上がると、抱きしめてくれるそうです。そして玄関まで送ってくれて、相手が見えなくなるまで手を振ってくれるそうです。

相談に来た者は、最後にはみんな涙を流して「ありがとう!ありがとう!」 と感謝して帰っていくそうです。

「耳の大きなおじいさん」はどんな悩み事も、受け止めてくれるのだそうです。

あとになって私は、父親にこのことを聞くと、

「あのおじいさんはね、耳が聞こえなかったんだよ」 と衝撃的なことを話してくれました。

「えっ!どうして!どうして耳の聞こえない人が相談を解決できたの?」 と聞くと、父は

「さあ、わからないけれど・・・きっと愛だったんだろうね」 と言いました。

そして父は、 「ボケ(認知症)がかなり進んでいた」と付け加えました。

耳が聞こえないおじいさん、認知症のおじいさん、 相手の話も聞こえない、相手の話も理解できないおじいさんが、 多くの人の相談事や悩み事を解決したということ。

そのおじいさんを思い出すと、いつもニコニコしている笑顔が浮かんできます。

相談者は、

黙って聴いてくれること、

うなずいてくれること、

共に喜んでくれること、

共に悲しんでくれること、

それを一番に求めているのです。』

人間は、自分自身を信じられなくなる時、心情が揺さぶられます。そのとき、「うん、うん」と心を寄り添って、きっと深い意味があると丸ごと信じて聴いている存在に、自分自身が救われ信じる力を取り戻していくものです。

様々な人生の困難があるとき、その困難を解決することが大事なのではなくその困難の意味を学び、その体験を周りの人たちのために活かすことが何よりも大切なのです。

それが人の本質であり、それが人生の意味であり、人間は助け合うことで信じる仕合せと幸福を実感するようになっているのです。

聴くということは、話すことよりも重要です。如何に、相手にとっての善い聴き手になるか、話し上手よりも聴き上手という諺もありますが聴き手の力によって相手はもっと成長し、さらに学びを深めていくだけではなく自信と誇りを持ったり、勇気や元気を出したり、自分のやっていることの背中を押されたり反省したりすることもできるのです。

聴き手の力はどのように磨かれるか、それは「省みること」によって行われ、「信じること」によって高まります。自分の真心はどうだったか、相手のことを丸ごと信じたか、そしてご縁を一期一会にしたか、その場数によって磨かれ研ぎ澄まされていきます。

現場実践による聴福人の生き方とは、その場数を高めて精進することで本物になります。引き続き、子どもたちのためにも聴くことが徳であり、徳こそが人であるという背中を遺していきたいと思います。

聴福人の実践目録

人間というものは様々な感情を抱きかかえながら生きていくものです。また真面目に生きていけば、理不尽だと感じることがあったり、なぜ自分だけこんなことになど被害者意識に苛まれることもあるかもしれません。人間は弱いからこそ人と繋がりますから甘えもまた人間の大切な感情の一つです。

私たちの目指している「聴福人」は、傾聴や共感、受容というプロセスを大切にしていますがこれはできるようで大変難しいことだと実感しています。人には、みんな異なる苦しみがありそれを乗り越えようと努力する中で葛藤があり成長していきます。その成長に寄り添うということで人は安心して成長を選ぶことができます。

成長を選べない理由は、成功や失敗を恐れたり、不安や不信があれば成長よりも無難であることを望むようになります。成長は失敗をすることで学び、不安を乗り越えてしていきますから誰かが見守ってくれていると実感しながら取り組むことは成長を助けるうえでとても大きな要素になると私は思います。

人間の感情を詩にして励ましてくださる方に詩人の「相田みつを」さんがいます。この詩にはすべて傾聴、共感、受容、感謝があります。一人で抱え込んだりして辛く苦しいときは心情を見守り理解してくれる存在として聴いてくださっているのを感じます。

「ぐち」

ぐちをこぼしたって
いいがな
弱音を吐いたって
いいがな
人間だもの
たまには涙を
みせたって
いいがな
生きているんだもの」

(にんげんだものより)

生きていればいろいろなことがある、それを丸ごと共感してくれます。さらにこういう詩もあります。

「うん」

つらかったろうなあ
くるしかったろうなあ
うん うん
だれにもわかって
もらえずになあ
どんなにか
つらかったろう
うん うん
泣くにも泣けず
つらかったろう
くるしかったろう
うん うん

(いのちいっぱいより)

このうん、うんと聴いているのはただ聞くのではなく丸ごと受容してくれているのがわかります。誰かにわかってほしい、逃げ出さずに頑張っている自分をわかってほしい、そうやって自立に向かって甘えを乗り越えて巣立っていく。人間は弱い自分を受け容れてはじめて自分自身と素直に向き合うことができるのかもしれません。そうして御蔭様や見守られたことを実感し人格が高まり感謝を知るように思います。

またこういう詩があります。

「肥料」

あのときの
あの苦しみも
あのときの
あの悲しみも
みんな 肥料に
なったんだなあ
じぶんが自分になるための

(いちずに一本道 いちずに一ツ事より)

振り返ってみると、苦しみがあったから成長したともいえます。困難から逃げず、苦労に飛び込んではじめて今の成長があります。成長の過程で人間は、己に克ち己と調和するために、挑戦の最中ずっと自分を誉めたり、慰めたり、労わったり、安らいだり、癒したり鼓舞したり、激励したりと自分自身との対話を通して本物のじぶんが磨かれ自分になっていきます

だからこそその時の心情がそのまま詩になります。

心情を吐露することができるのは、苦労の真っ最中であり幸福の真っ最中、まさに生きている真っ最中ということです。生きている実感や生きている歓びや充実は、困難や苦労の中、つまり成長にこそあります。

成長する仕合せを福に転じ続けていくためにも聴福人的な生き方が大切であることを改めて感じます。引き続き子どもたちのためにも、聴福人の実践を積み重ねていきたいと思います。

 

自然治癒の根源

坐骨神経痛になった御蔭で、自然治癒のことを学び直す機会が増えています。医と農は私の生涯の学習テーマであり、自然に照らして自己を内観することでさらに道が深まり楽しみも増していきます。

昨日は、「自助」ということについて考える機会がありました。本来、人間をはじめいのちのあるすべての生き物は偉大な恩恵を宇宙や地球からいただいて生活を営んでいくことができます。

当たり前のことですが、自然の中に空気も水も光もあり、さらに地球には重力というものがあり私たちはその存在によって活かされています。この活かされているもの、それが自然治癒の根源とも言えます。この自然治癒の根源の力が常日頃から発揮されて私たちは生きています。

その活かされている力は、例えば重力であればそのことによって筋力も骨力も高まっていきます。他にも空気や水であれば、美しい森の森林浴のように私たちは心身を癒され安らいでいきます。

当たり前すぎて忘れてしまうものですが、私たちの体は自然の一部です。自然の一部だからこそ自然治癒をする。その自然治癒を邪魔するものが何か、それが人間の意識であろうとも思うのです。

自然治癒を邪魔するものは、不自然なもののことです。例えば、昔の人たちはよく自然の中で歩き、歩くことで心身を循環し鍛錬し健康を維持していました。今では車社会になり、ほとんど歩くことも亡くなってきています。道路は舗装され、かつてのような弾力のある土や砂利、草の上を歩くこともありません。

不自然な生活を積み重ねることで生活習慣病になり、様々な問題が発生してきます。それを一時的な対処療法で治してしまうと自然治癒がより働かなくなることにもなります。

自然治癒の特徴は、じっくりとゆっくりと治していくというものです。即席栽培のようにいきなり育たせるのではなく、自然栽培のようにじっくりと周りの環境に適応しながら治していきます。

私たちが生活習慣病になるもの時間をかけて行われるように、同時に生活習慣病が治癒して本来の自然な姿に原点回帰していくのもまた時間がかかります。その際に、何が不自然なのかを見極め、その不自然な暮らしを少しずつ改善していくことで自然治癒に向かっていきます。

自然をよく観察していけば、何が不自然で何が自然であったかを学び直すものです。もっとも危険なことは、不自然なことが常識になってしまうことと、不自然であることに気づくことがなくなってしまうことかもしれません。

自分の不自然に気づくために病気もあり、活かされていることを忘れていることで不安も葛藤も起きてきます。これは実は自然なことかもしれません。人間が自然の一部であることを忘れることから問題が生まれ、その問題に気づくために病気がある。病気とは天の声であり、その病気はすべて治癒のはじまりなのです。

自然治癒の根源に気づくことこそが、自然治癒の極意なのかもしれません。

見守られていると感じながら病を得ることは、病があることに感謝する生き方です。この病が自然から離れないように心が自分自身を助けてくださっているのかもしれません。自然に見守られる中で如何に自立するか、これはすべての生き物のいのちの命題です。

子どもたちに不自然な道を残していかないように、かんながらの道を歩んでいきたいと思います。