時間の使い方~志間~

昨日、長年一緒に歩んできた理念の同志の志を確認するご縁がありました。改めて深く聴き直してみると、この期間どのような生き方を目指してどのような生きざまがあったかという時の変遷です。

人間は時間は等しく同様に与えられ過ぎ去っていきますが、その時間をどのように使ってきたかはその人の生き方で決まります。時間が同じであってもその人の時間はその人の人生になるからです。言い換えるのなら時間とは命のある時の間、生まれてから死ぬまでの寿命のことです。

そしてその時間を自分の為だけに使う人と、世の中や人の為に使う人がいます。同志は自分のことよりも誰かのため、他人のため、世の中のためにと使い切って歩んでいました。自分を捧げ切るという生き方は、頂いた命を捧げ切るという生き方でもあります。そしてそれは自分を生き切る、命を生き切るという生き方にもなってきます。

命の使い方をどのようにするかと決心することが覚悟の価値であり、その決心したままに生きることで実践が積まれ本物になっていくように思います。ここでの本物とは、素直なままの自分、あるがままの自分、天命のままの自分になるという意味です。

人は我執が強くなり、自利ばかりに傾くと天命に気づかなくなっていくものです。そして天命は自分の与えられた時間でもありますからその時間を「何のために使うのか」という自問自答は、自分の一度しかない人生を生きる上で何よりも大切なことのように私は思います。

そしてその人生をどう生きるかどうかを決める出会いや邂逅がその人にあったというのは、その人が幸運に恵まれているとうことでもあります。そしてどんな人が幸運に恵まれるかというのは、道を求め感謝の心を忘れずに素直に謙虚になろうと決めた人のようにも思います。

人間は自分の物事の受け止め方が歪んでしまうと、一つひとつの出会いを大切にできないように思います。出会いを大切にする人は、物事から逃げようとせず、避けようとせず、誤魔化そうとせず、言い訳しようとせず、ただただその出会いに感謝します。そしてその出会いに感謝できている人はそれを恩とし、その恩に感謝しその恩を自分もお返ししたいと思うようになります。

こういう生き方の態度が決まっている人は、自ずから幸運を味方につけていきます。それは周りから活かされていることを知り、その活かしてくださっている周りを活かそうと自然の流れに逆らわないからです。つまり幸運とは好循環する自然の摂理に適ってきたということでもあります。

自然の摂理に対して、自然に反して自分の方にひきよせようとすればするほどに問題が起きます。自分のことばかりを考えて自分の心配ばかりしていては不自然になります。もっと周りのために自分を活かそうとすることが自分自身のいのちを大切に使っていくことになるのです。畢竟、人間は己に克つことが肝要で日々に我執に吞まれないように、どのように時間を使っていくのかの積み重ねが最期の自分の人生を創るということなのでしょう。

同志の生き方や生きざまに勇気がもらえ元気になります。引き続き私も自分の理想とする生き方に近づいていけるようにあるがままの自分を丸ごと認め、日々の小さな心がけと志間の積み重ねを継続していきたいと思います。

機嫌好く

人には「機嫌」というものがあります。これは表情や態度に現れる自分の感情であり、その感情の良し悪し、気分の良し悪しで機嫌が分かれていきます。この機嫌というものは、自分で自覚できるものでありその機嫌をどのようにするかは自分次第で調整していくものです。

これは体の健康と同じで、調子が良い悪いはいつも出てきますからいつも体調が良い状態に維持するように努めるのは自分自身の自覚と日ごろの努力に由ります。そして自分にとって良い状態とは、悪い中でも最善を尽くしていくことや、好循環になるように気を配り続けることでもあります。

この機嫌というものは、心や精神の健康のことをいいいつも機嫌が好い人は心が健康であるということでもあります。さらには主体性が出ている人や積極的に楽観的な精神を持っている人は魂が健康であるとも言えます。日々に健康に過ごすというのは、常に自分の状態を好循環する方、言い換えれば機嫌を善くしていくことで実現するのです。

かつて中心社の常岡一郎さんがこういう言葉を遺しておられます。

「機嫌のよい心には弾力がある。 機嫌のよい時は、おい隣村まで行ってくれないか
と言われても、「よし」とすぐ引き受け、すぐ走り出せる。 機嫌の悪いときは、なにもかもおっくうになり、 重苦しく感じる。 すべての人間はいつでも、どこでも自分の心の責任者である。 心に明るさをたたえた、機嫌のよさを失ってはならない。 これを失えば人生の旅はすぐ疲れる。 それが不幸や不運や病の原因となる 。」

常岡さんはこの機嫌の好いことを「心の弾力」といいます。これを言い換えれば「植物の新芽」であるといいます。常岡さんはこれを「伸びる力」であるといいます。

そして伸びるものはやわかいといいます。

「育つもの。伸びるもの。生命おどるもの。それは常にやわらかさを失ってはならぬ。固まったら伸びない。我執は人間を堅くする。偏狭は人間の明るさを失わせる。草や木も、やわらかな間にのびる。やさしい新芽から伸びる。堅くなったら伸びることが止まる。人の心もそうである。」(常岡一郎一日一言」(致知出版社)より

自分の心の責任者は自分という言葉、これはとても大切なことだと思います。誰のせいでもなく、言い訳もしない、如何に自分自身が感情を大切にし疲れないように手入れをするかは日ごろの心がけに由ります。

いつもニコニコ機嫌よく、穏やかで明るい人は、皆から安心され信頼されるだけでなく関わる人たちを元気にしていきます。好循環をつくりだす人はみんな運が好い人であり、そういう幸運の人の周りには幸運が集まってきます。

「ご機嫌いかがですか?」というあの挨拶は、心の健康はどうですかという挨拶です。他人と会うときにはまずは自分の機嫌を自覚し、いつも快活に元気に健康に日々に感謝の念と謙虚な反省の気持ち、そして素直な実践をもって自分を磨いていきたいと感じます。

最後に常岡一郎さんの言葉で締めくくります。

「あなたはいつも上機嫌ですか、こう突っ込まれてにっこりほほ笑むことの出来る人になる。これが他人の心に明るさを与える資格だと思う。」

子どもの周囲に思いやりを運ぶ仕事をする私たちだからこそ、働き方や生き方、その機嫌の在り方が大事だと思います。子どもたちのためにも、機嫌好く笑いの絶えない現場を創造していきたいと思います。

あるがままの自分

人は自分自身をどのように受け入れているかによって、他者への態度が決まってくるものです。自分というものに期待し過ぎたり、自分というものを卑下しすぎたりする態度は、周囲の人へも同じように接してしまうからです。

あるがままの自分を受け容れるというのは、あるがままの自分で善いと思えること。そこには自信が必要で、その自信は等身大の自分自身を受け容れるところからはじまるように思います。

例えば、理想が高いと自分は本当はまだできるはずだといつも無理をしようとします。また反対に、自分はできないと不安を抱えていると同様に無理をしてしまいます。これはどちらも「本当はこんなはずではない」という自分が描いている自分像とかけ離れるときに起きる執着の一つのようにも思います。

過信と自信は異なり、過信はそうであってほしいという自分の欲望が変化したものです。自信は謙虚で素直な心の態度であり、自分自身を深く慎み受け止め、いただいているご縁に感謝して自らを少しでも高めていこうとするものです。

ごう慢さというのは、自分がこれでいい、間違っていないという自分の思い込みを優先し他人の話に耳を傾けないところから発生してきます。これであっているはずと過信して取り組むことは周りに迷惑をひどくかけとても乱暴なことです。しかし自分がひょっとしたら間違っているかもしれないと、常に周囲への配慮、耳を傾け謙虚に自分自身のままで学び続けている人は本当の自信を持っています。

結局は、自信を持つとは自分のままでいられることであり、あるがままの自分を受け止めそれを肯定して認め、同様に他者を認め無理をせずに自然体でいることのように思います。そのうえで、自分自身を自覚し周囲への配慮を忘れないということです。

不自然な姿が周りに不自然を作り出し、本来の自分ではない姿が周りに警戒心を与えたりするものです。自分以上のことは出せないし、自分自身であることが周囲への安心感を与えるのだからもっと自信をもって自分自身と対話し向き合い受け止めていくことを大切にしていきたいと思います。

引き続き、子どもの純粋な心を見守れる大人になるようにあるがままの自分を自覚し他者を認め自然体に近づいていきたいと思います。

思いは実現する

人は「思い」を持つことで、心が顕れてくるものです。「思いは実現する」といいますが、それが本心からの思いかどうか、その思いが如何に澄んでいるかどうかがその思いの実現に向けたプロセスに現れてくるように思うのです。

京セラの稲盛和夫さんは、「思い」を大切にされた方です。以前、何かの著書を拝読したときに「思う」ことの大切さを松下幸之助さんの講演で教わったとあります。それから毎日、社員の皆に「思う」ことの大切さを説き一緒に夢の実現に向かって邁進したとありました。

その稲盛さんはこう言います。

「私が創業した京セラは、もともとは中小零細企業です。私は、社員が希望を持てる会社にしたいという一心でやってきました。それには何が大事かというと「思い」です。それも非常に強い思いが必要になる。」

「人生は、心の中で強く思ったことが原因となり、その結果が現実となって表れる。だから考える内容が大切で、その思念に悪いものを混ぜてはいけない。」

「「思う」ということは、人間のすべての行動の源となっている。経営者が何かを強く心に「思う」と、まさにそのことが実現していく。」

「思いが人生を形作ります。現在の自らの状況は、その人が思い続けてきた結果です。現状に満足していなくても、それはその人の思いの集積なのです。」

この稲盛さんが言う「思い」とは、単に考えるというものではないことはすぐにわかります。明らかに覚悟が異なり、自分がそう決めたという決心のことであり、その決心の維持のことです。

言い換えるのなら「揺るがない思い」とも言えます。何度も何度も揺るぎそうな自分に打ち克って揺るがない自分を持つようになる。どんなに環境が変化しようが、どんな条件が発生しようが、一つのことを透徹するまでに「思い」続ける。この集中力があってはじめて物事が成形されてくるということのように思います。

そこには自我からの慢心などはなく、非常に素直に謙虚に物事に正対して思い邪なしの透明な心で理念や理想を念じ続けなければならないように思います。人間は「思い」にどうしても私利私欲が入ろうとしますからそれが入らないように常に手入れを行い清浄に掃除を続けていく必要があると感じます。

「動機善なりか、私心なかりしか」

稲盛さんは常にその言葉を自分に問いかけ「思い」を磨き続けおられたそうです。私でいえば、「御恩を感じているか、御蔭様が観えているか」という問いと同じです。

私は稲盛さんの言うこの「思い」に心から共感し、そこにはとても美しい日本人としての魂を感じます。

最後に稲盛さんの言葉で締めくくります。

「思いは必ず実現する。それは、人が「どうしてもこうありたい」と強く願えば、その思いが必ずその人の行動となって現れ、実現する方向に自ずから向かうからです。」

初心伝承の志を実践し、その志のままに生きるべく今日も精進していきたいと思います。

不易流行の真髄

不易流行という言葉があります。これは変わらないものと変わっていくものです。別の言い方では、時中時流とも言えます。如何に時の流れの中でも本質や本物を維持し続けるかということでもあります。

時が経てばかつての本質や本物は次第に色あせていきます。それは時が流れていくからです。いくらある時それが本物であったとしても、時が経てば次第にそのものが本物ではなくなっていくのです。

例えばお茶を点てるとします。しかしお茶は時間の経過とともに酸化して味が変わっていきます。そしてそれを美味しいと思う人の心も変わっていきます。昔ある時に飲んだ美味しい一杯のお茶と同じ味を維持しようとしたら自分が時の流れ、環境の変化を感じて自分の方が変化してその時の味に近づけなければなりません。つまりそのままでは古くなるから新しく磨き直すのです。

いくら言葉で真理が語られていたとしても、その時代時代にその言葉の意味を磨き直す実践者が出てこなければその真理は本物ではなくなっているからです。それは仏陀であっても孔子であっても、それを今ならどう行うかというのはその時々の人たちがその本質を磨きかつてその言葉が語られた時と同じにする必要があるのです。

易経に、時に中ると書いて「時中」とありますがこの境地は本当に今、この時のままであろうかと変化の最中を確認するという意味であろうと私は解釈しています。

生命は不思議で、本来は老化しすり減って消滅していく身体を持っていますが何度も何度も使っている場所は逆にいつまでも皮膚も分厚くなり感覚もいつまでも鋭くなっていきます。経年劣化ではなく、磨き続ければ経年変化になるのです。

古民家甦生を通して私が学び直しているのはこの不易流行の真髄です。

変わるものと変わらないものを捉える心は中庸です。そして時機を逃さず最適なタイミングで直観したものを一つ一つ丹精を籠めて種を蒔くのは時中です。人間は徳が高まり、人格が磨かれれば自ずから不易流行の境地に入るのかもしれません。

徳を磨き続けることで本物は維持できます。本物か偽物か分からなくなっている今の世の中で、真に本物かどうかは徳が証明します。

学んだことをそのまま実生活に活かすためにも、学びに素直に、問いに謙虚に日々の体験一つひとつを今、此処の真心で真摯に磨いていきたいと思います。

力の本質

人間にはそれぞれに個性があります。そして個性と共に才能があります。その個性も才能も天から与えられたものです。例えば個性は、男性女性などの性も生まれながらに天が与えてくれます。そして才能もそれぞれの興味関心や体つき、また持って生まれた時から備わっています。

なぜそれが生まれながらあるのか、それは誰かのために役に立ちたいからとも言えます。全てのいのちは天から与えられるものですが、いのちは与えられた天分を活かそうとします。これは自分の意思に関わらず、自然の一部として存在する私たち生命の営みの根本原理であり生きている意味にもつながっています。

この世には無駄なものも意味のないものも一切がなく、どんなに自分が無意味だと思っていてもそれは大切なお役目を帯びています。だからこそそれぞれが自分らしく生きていくことは大切で、その存在により世の中は生き活かされていくように私は思います。

天分を活かすには、天分を活かしあう仲間が必要です。それを共生とも言います。人間は自分らしく生きていきながら仲間と共に生きていくことを使命にしています。そしてその場が生まれると安心し幸せな気持ちになるものです。

家族や一家を形成するのもまた、本来の人類の使命を本能で実感するからです。そして大切なことは、その天から与えられた才能を独り占めせずにみんなに活かすこと、みんなに使ってもらうこと、みんなのために磨いて役に立つようにしていくことです。

そのために教育や環境の場があるといっても過言ではありません。そういう場を醸成していくのが教育の本質だとしたら、私たちはそのいのちや才能がどのような状況の時に発揮できるのかを見極める必要があります。私はそれが協力や協働をする意味であると信じています。

協力というのは、当たり前過ぎてあまり議論もされることもありませんがこの字は分解するとわかりますがすべて「力」が合わさってできています。みんなが力を合わせれば天地のすべての御蔭様を得るということです。

これからの近い未来、また遠い未来において何をもっとも大切にしていけばいいか。人類の智慧はこの協力のこそあります。私は一円対話を通してこの智慧を伝承していきたいと思っているのです。

自分が天から頂いたものをそのままお返しする日が訪れるまで、子どもたちそれぞれが天分を活かし世の中を百花繚乱に多彩のまま輝かせていくためにも日々の御縁を大切に仲間を増やしていきたいと思います。

学びの鮮度~感動する心~

人は自分の間違いに気づくことで素直になるものです。どう考えてみても分からないものを「分かりません」と素直に言えるところに心の明るさがあるようにも思います。つまり素直さは、自分の心と向き合って分からないことが分かったといったありのままの姿を受け容れるということです。新しいことを学ぶときは、鮮度というか生々しさが必要でその生々しさを味わい感じることで新鮮な学びを持つことができます。

人は誰でも新しいことを学ぶとき、今まで使ったことがない筋肉、また脳の回線がつながっていないところで理解するしかありません。今までにないことを学ぶのは、今までにない自分の発見でもあります。発見というものは、今まで気づかなかったところが急につながるような感覚があります。「これはすごい!」という気づきや感動はそのまま感動のままに新しい回路につながり新しい筋肉を動かしていきます。

今までにないもの、分からなかったことに気づけた悦びは楽しみに変わります。人が変化するというのは、この学びの鮮度を高めていく必要があると私は思います。

できない理由ばかりを思ったり、分からないからよくないと思ったり、最初から無理だと諦めたりする前に、物事に対して出来事に対して素直に取り組んでいくという姿勢が学びの鮮度を保つ方法だとも私は思います。

学びの鮮度の高い人は、新しいことに挑戦して次々に自分を変化させていきます。それは生々しい体験とセットですが、この生生しさを全身全霊で感じながら味わいながら進んでいくのです。言い換えるのなら、感動しながら働き、感動しながら学ぶのです。

頭でっかちに考えてしまうとこの感動する気持ちが減退していきます。それはすでに鮮度が落ちている証拠です。同じ仕事などが発生することは一度としてなく、同じ出来事が起きることも一つとしていない。同じことだと思い違いをしてルーティンにしマンネリ化するのは自分自身の心です。

人間は同じことをしているうちに頭で処理できるようになりますが、無理やり自分の思い通りのものにすり替えてしまっているだけです。似ている事例を似ているようにやって学びの鮮度が落ちてしまえば新しいことに気づく感度は急激に減退します。

常に物事を究め上達し、変化し続ける人物は感動する心を持っています。感動する心があるから改善と工夫を怠りませんし、まただからこそ感動も続きます。つまり心の姿勢が素直で謙虚であるのです。

何が間違っているのか、その大前提を直すことは自分を変化させていくときの要諦です。新しいことに取り組んでいない日々は一日たりともないのだから、その変化を感動のままに楽しむ工夫を行うことです。それは気づいたらすぐ変わる、気づいたらその場で変わる、変化を迫られる前にサラリと自分の方が先に変わることです。

変化こそ、自然体であることを自覚し感動の心で新しいものを追求し道を深めていきたいと思います。

心のふるさと

先日、もう8年間一緒に理念の実践に取り組んでいる園で理念研修を行いました。ここは「心のふるさと」を子どもたちに持ってもらえることを目的にしておりそのために見守る保育を取り入れて実践しています。

私もこの心の故郷という言葉には、強く心が惹かれるものがあり懐かしく思います。この心の故郷とは何か、それを少し深めてみようと思います。

心の故郷を思う時、私は純粋な心を思います。純粋な心とは、子ども心のことです。子ども心は、あるがままの心、つまり心そのもののことです。これが歳を経ていくごとに次第に純粋さが日常の些事によって曇っていきます。曇ってしまえば、自分の純粋性も分からなくなり魂が何を望んでいたかもわからなくなります。

三つ子の魂百までという諺があります。私の解釈では、魂や心が望んでいることは誰にも変えようがない。つまりは普遍的に魂や心はこの世で何をしたいかを持っているという意味です。天命を与えられて生まれてきた存在は、そのまま死ぬまで天命がなくなることがないということです。

しかし実際は、その天命をやらせてもらえず教育によってやってはいけないことばかりを仕付けられてはそのものであることが否定されたりもします。純粋な心はそれによって曇り、自分自身が何をしたかったのかが観えなくなっていくのです。

その純粋な心、三つ子の魂の本来の心であり、その心のふるさとは魂の父母が住んでいるところ。それを心に持っている人はいつまでも自分の天命に回帰し、自分の使命に生きていく悦びを忘れないで魂と全うしていくことができます。生まれてきた意味を知るということは何物にも代えがたい安心感なのです。

そして子ども心が何かをしたいと思う時、如何に寛大に丸ごと受け止めてくれる存在があるか。そしてその子どものことを丸ごと見守ってくれる存在であるか。子どもを信じることで、その子どもは信じる道を歩むのです。

子どもが安心して生きていけるというのはこの心の中に懐かしい故郷、その心の父母の無償の愛を持っているということです。その無償の愛とは、言い換えれば自然慈愛の魂とも言えます。この自然慈愛の父母の魂が、子どもの魂に宿るれば人は死をも怖がらなくなります。

純粋さを貫くことができること、それを「至誠」といいます。純心を死ぬまで持ち続けられた人をみると私たち人間は魂が激しく揺さぶられます。それは魂が望む姿を魂が感化されるからです。理想の生き方、真実の生きざまを魂は心の奥深くで求め続けて已まないのです。

その至誠の魂が子どもの魂を見守ることで、魂の純粋さは永遠に保たれていきます。その魂の純粋さを守ることで、その人は一生涯自分の安心基地を自分の心の中に持つことができるようになります。人がこの世で信じられるものを持っているということは、一生を生きていく中でとても大切なことです。本当の仕合せは魂の邂逅を得ることだと私は思います。

それを子ども時代に与えていきたいと願うのは、真心がそうさせるからです。真心の生き方を貫く人はみんなこの心のふるさとが助けて見守ってくれることを自覚しているのです。私がそうであったように、子どもたちが心のふるさとを持って自分の随神の道を歩んでいけるように自分自身の純粋な魂や真心を盡して子どもたちの環境に貢献していきたいと思います。

遺言として心の故郷を見守ることは、何よりも優先される死生間の仕合せであると明記してこのブログを締めくくりたいと思います。

 

視野を高める

松下幸之助さんの言葉で「視野の狭い人は、我が身を処する道を誤るだけでなく、人にも迷惑をかける。」とあります。これは以前のブログでも書きましたが、視野が狭いというのは物事の見方が自分の視界でしか見えていないということもでもあります。先入観や思い込み、他人の話に耳を傾けず自分の価値観の正否のみで物事を解釈する傾向が強いということになります。

例えば、どう考えても全体が観えたり多面的に客観的に長期的に観ている人から見ればとても可笑しなことをしていると観えていても本人は気づかないものです。自分の中で行き来するだけで他人に意見を求めなくなると人は自分の中で出てくる正解がすべてだと妄信するものです。

他人の評価を気にする人ほど心を閉ざし、心を開かないから人の話を素直に聴くことができません。周りから自分がどう思われるかばかりを気にしていて周りに合わせて自分の本心がバレないようにと保身をしている人は視野が狭くなっていきます。

視野の狭さの理由として、自分がどう思われたいかという自分の理想像の価値観を周囲に押し付けようとしたり、もしくは自分がこうありたいと思っている姿で見られたいという自分の願望もまた視野の狭さの原因になっています。

自分の価値観の基準か、他人の評価の基準を気にして自分の心と向き合わないで生きていくとそのうち自分の心のことが分からなくなります。これもまた視野の狭さとも言えます。自分がどうしたいかがわからないのは、いつまでも他人を基準にして生きていくことが沁み付いているからです。これは過去の歪んだ個人主義の影響を受けていることも一因になっています。つまり、自立の定義が自分ひとりでなんでもできることだと思い込んでいるからです。そして自分ひとりでできるというのは、これもまた周りの評価を気にする原因にもなります。

そして周りからどう思われるかを過度に意識すると自分らしくいることができません。日ごろそうやって我慢をしていて突然思い切って本心を明かすと周りが過剰に反応して余計な問題が起きてしまいます。だからまた心を閉ざして隠すという悪循環を繰り返してしまうようにも思います。

それを好いことに転じるには、一つは自覚すること。もう一つは、協力することのように思います。自覚は、自分で自分を理解すると自分の特徴が素直に理解できていきます。あるがままの自分が認められると、無理を押し通すことも少なくなっていくからです。そして人間社會は決して一人で生きていくわけではないのだから協力すればその中で自分の持ち味を発見しそれを仲間の中で発揮することにもなったりするからです。

視野の狭さは転じれば天才的集中力であり、視野の寛さは天才的調整力になります。一人では完結できないのが人間ですから、自分にしかできないことを発見し、自分のあるがままでもみんなの力になれるように助け合い思いやることで視野を高めていくことができます。

視野を高めるにはまず自立の定義を換えてしまわなければなりません。自立とは一人でできることではなく、本来の自立とは周囲の人たちに感謝し御蔭様の心で常に助け合いいつも思いやることができることであるということに意識を換えるのです。

視野を高めるというのは、自他を認めそのままあるがままがいいとそのものの価値を丸ごと認識することです。そのまま活かそうとするところに人間の叡智があるように思います。

刷り込みで苦しんでいる大人たちが多いからこそ、子どもたちのためにも自らの視野を高めていきたいと思います。

本当の失敗とは何か

人は失敗をすることで成長していきます。成功か失敗かの二元論で育ってきてしまうと極度に失敗しないでいよう、優等生であろうとするものです。特に失敗をキャリアに傷がついたと思っている人は、結局は何もしようとはしなかった人ということになります。

失敗の御蔭で人は自分の間違いに気づけます。本来は失敗か成功かではなく、その後の方が大切だということです。ある人は失敗してもそこから学び、それを糧に次の挑戦に活かす人がいます。またある人は成功してもそこに奢らずに謙虚に成功が失敗ではなかったかと自分を戒め一つ一つを大切に積み上げていく人もいます。

また反対に、失敗をしなかったり、成功したらそれっきりになったり、それが本当の意味の失敗であることには気づかずにいつまでも変わらない人もいます。変化というものは、学び続ける姿勢であることでありそれは失敗か成功かに一喜一憂するようなことではないのです。

新しいことに挑戦するのは確かに不安ですし時折怪我をするものです。しかし何度か繰り返しているうちに「コツ」が次第に掴めてくるものです。それと同時に、自分の何が間違ったのかという自分自身にある癖に気づけるのです。例えば、事前準備をいい加減に済ませてあとからそれを修正するのに時間がかかる癖があるとか、集中力が途切れるとすぐに雑になってしまう癖とか、失敗を通して自分の至らなさに気づけるものです。また同時に失敗から立ち上がることで、自分の中にある信念や奥行きに気づき、自分にはこんなに諦めない癖があったのかと感心したりもします。

つまり人間はみんな、この失敗と成功の体験を通して学ぶのです。学ばないことがもっとも勿体ないことであり、それは失敗も成功もせずに無難に何もしないでいることのようにも思います。

考えて何もしないよりは、実行してみて考える方が学びが深くなりますしその方がワクワクドキドキと心が動き続けます。この逆にある格言に「失敗する人には二種類ある。考えたけれども実践しなかった人と、実践したけど考えなかった人だ」とあります。どちらも失敗なのは、学ばなかったということでしょう。

失敗は何か大きな出来事によって決まるのではなく、日々を学ぼうとしないことによってすり寄ってくるように思います。学ばない日はすでに失敗だとしたら、何もしない何も考えない日こそ失敗であったとも言えます。

成功や失敗の二元論ではない成功とは、日々に学び続ける積極的人生を送るということです。それは失敗を恐れずに挑戦するということです。そして挑戦とは失敗した後にやってくるものですから挑戦し続けるというのは失敗し続けるということです。

最後に本田宗一郎の言葉です。

「私がやった仕事で本当に成功したものは、全体のわずか1%にすぎないということも言っておきたい。99%は失敗の連続であった。そして、その実を結んだ1%の成功が現在の私である。私の現在が成功というのなら、私の過去はみんな失敗が土台作りをしていることになる。私の仕事は失敗の連続であった。」

「失敗もせず問題を解決した人と、十回失敗した人の時間が同じなら、十回失敗した人をとる。同じ時間なら、失敗した方が苦しんでいる。それが知らずして根性になり、人生の飛躍の土台になる。」

失敗の中に真の価値があると、この失敗しないことを畏れようとする心が人を積極的に甦らせ活きらせるように私は思います。子どもたちのためにも失敗から学ぶ姿を示していきたいと思います。