畳~日本固有の文化~

昨日、聴福庵にて66年間畳業を営み今でも本物にこだわって作っている方とお会いするご縁がありました。畳も大切に使えば60年以上使えるものだそうですが、今までの痛みもありまた大切におもてなしする客間でもあることから畳を入れ替えることにしました。

お話をお聴きしていると畳の魅力や、畳がなぜこんなに日本的であるかを改めて再認識する機会になりました。

そもそも畳というものは、中国から渡来した文化が多い中で完全に日本で生まれ育ち延々と今でも大切に受け継がれている日本固有の文化の代表的なものです。つまり、日本人が生み出した発明品であり日本人の暮らしと共に一緒に今まで生活の中で息づいて共生してきた大切な道具であるともいえます。

この畳は、古事記にも記され莚(むしろ)・茣蓙(ござ)・菰(こも)などの薄い敷物の総称でした。そして現存する最古のものとして奈良時代のものがあります。今でも奈良東大寺の正倉院に保管されているそうです。その後は、平安時代には寝具や座布団の代わりとして用いられ鎌倉時代頃には部屋や床の全体に敷かれるようになります。武家が主だった畳も、安土桃山時代からは町人の間にも普及し、江戸時代頃には庶民の家にも普及します。

畳の名前の由来は使用しないときは「畳んで部屋の隅に置いた」ことから、動詞である「タタム」が名詞化して「タタミ」になったのが畳の語源とされています。

畳の効果は素晴らしく、イグサや藁が敷き詰められることで断熱性保湿性に優れ空気を浄化する作用もあります。つまりは夏は涼しく冬は暖かいということです。また音を吸収し遮音する効果があり足元から静寂を演出します。それに黄緑色の配力は心を癒すリラックス効果もあるといわれます。イグサ独特の香りも、私たちの心に懐かしく感じ和室の空間に流れる穏やかさをさらに引き立てるようにも思います。

また科学的にいうと人間の皮膚が呼吸をしていると同時に光も吸収しているといわれます。人間には自分の皮膚の色に近い反射率の色を感じると安心できるという本能があるとも言います。この畳の部屋の反射率が日本人の皮膚の反射率とほぼ同じということもあり畳の部屋は安らぎを覚える空間になっているそうです。

つまりは畳は土壁や木などと同じく「呼吸」をしているということです。私が感じる日本家屋の特徴は呼吸です。この呼吸は「息をする」ということ、つまりは「生きている」ということに尽きます。生きているからこそ、一つ一つの道具には「いのち」があります。そのいのちを大切に扱い、大切にいのちを伸ばしていこうとする作り手と使い手の「真心」があって「和」の空間は活かされていくのです。

イグサを育てている人の生き方、そのイグサだからこそ大切に作りたいという作り手の生き方、そして私たちがそれを子どもに伝承しようとする生き方、それが三位一体に寄り添って今回の畳替えが行われます。

12月には畳を私たちも一緒につくるという体験も得られます。この貴重な体験から日本人とは何か、日本の原点とは何か、日本の心とは何かをもう一度深め直したいと思います。

日本固有の文化に誇りが持てるような機会を子どもたちに伝道していきたいと思います。

 

学問道楽

昨日、一年ぶりにドイツに一緒に保育視察研修にいった仲間たちと熊本で同窓会を行いました。もうドイツに一緒に行ってから6年が経ちましたがこうやって毎年、欠かさずに歳月を共に噛みしめ、お互いの成長やご縁、その人生の物語や苦労を分かち合えることに感謝を覚えます。

同じ師に学びその後のお互いのことを語り合う、この人生の妙味があってこそ学問道楽の幸福を知るように思います。

江戸時代に伊藤仁斎という人物がいました。京都で私塾「古義堂」を1666年に開き、その門下生は3000人を超えていたといいます。ここに学びに来る人たちは豪商から農民まで幅広く、その徳を慕って集まりました。この私塾は明治末期、1905年まで続きます。

この伊藤仁斎の学問は、人の道についてです。人としての生き方を問い、自ら実践の中で学び改善していくこの学びはたくさんの人たちに人道の在り方を伝道していたように思います。独自を掘り下げて愛が実徳であると真心の実践を説き、自ら人の道を示す生き方を貫いていた仁斎の教えは人々の心を深く導いたように思います。

私も師の御蔭様で学問道楽の妙味を知り、如何に真心を尽くしていくことが人の生きる道であるか、また如何に内省し実践を重ねて自らの徳性を磨いていくか、そういう学問の妙の中にこそ人の生き方があることを教えていただきました。

孔子や孟子はもうずっと以前に亡くなり、他国の人でしたがその道は連綿と受け継がれ歩む方々によって今に伝承されていきます。学問道楽は決して道楽息子などの悪い意味で使われることではなく、この時の道楽は道を歩む道楽のことです。学問は、自学自問でありどんな徳性を天が自分に与えてくださっているのか、そして自然と一体になったとき自分の中にある真心の姿と邂逅できる仕合せに愛を感じることのように思います。

活かされている実感があって共生の歓びもあります。恩師というものは導師であり、この学問道楽に導いてくださった方のことです。そして導師があってこそ同志もまた出会えます。君子の徳を身近に感じられることは、人生において何よりもかけがえのない有難いご縁とご恩をいただいたということかもしれません。

論語に『君子の徳は風である、小人の徳は草である、草は風にあたれば必ずなびく』とあります。こうやって徳になびいていく人たちを見守りながらその人たちの支えになれることにもまた仕合せを感じます。

最後に伊藤仁斎の言葉です。

「勇往向前、一日は一日より新たならんと欲す。」

また同窓会で元気と勇気をいただきました。引き続き、子どもたちの未来のために自分のできることを真心で尽力していきたいと思います。

 

一緒とバラバラ

先日から一緒とバラバラという言葉を深めています。一緒というのは家族的であり、その反対がバラバラですがそこには今までの教育や社会の環境の刷り込みがあるように感じます。今、人と一緒になろうとしてなれず孤独で苦しんでいる人たちが多いように思います。誰といても孤独を感じてしまう、もしくは何も感じない人になるのは本心のままであることを否定してきたことで発生しているのかもしれません。

そもそもその大前提として、もともと個人がバラバラだから一緒になろうとするのともともと一緒だから一緒なのだと信じているのでは意味が異なります。一緒になっているというのは、丸ごと信じているということです。そしてバラバラというのは言い換えれば部分しか信じていないということです。

例えば、親でもなんでも見守る存在のことを自分自身が丸ごと信じ切っていれば安心しているものです。この安心こそが一緒を理解している場所であり、繋がりや絆を感じて一緒になっているのです。しかし不安や疑心暗鬼、疑念をいだいているのならすでにそれはバラバラの状態であり無理に一緒にしようとしても心がついてきていないのだから一緒になっているわけではありません。

そして一緒になれない理由の一つには、心を閉じていることが問題なのです。この心閉じるというのは信じないという心の態度です。信じられるまで相手を疑い、いつまでも自分が傷つかないように自分を守っていたら信じる人は現れません。ここまでは信じる、ここまでは信じないと自分で評価していたら疑うばかりで信じることができないからです。

信じるというのは一種の覚悟で、信じれるまで裏切るのではなく裏切られるまで信じるというように自分が信じたことを自分で信じるという行為によって成立します。これは単に盲目に感情的に信じようとするのではなく、自分の本心、あるがままの自分でいようと決めそこで人と関係を築こうとする心の態度です。今の社会は、競争、比較、評価と常に自分の身が危険にさられている世の中です。自分の身を守ることばかりに終始し思いやることよりも自己保身に走れば本当の自分をさらけ出すことはありません。そうやって自分を必死に守ってきたことで常に先に自分ばかりを気にするようになりそのうち相手との関係が築けずバラバラになっていったのでしょう。

バラバラになったものを無理につなげようとするのではなく、本来は競争しなくても比較しなくても評価がなくても、自分という存在はあるがままに認められているということを自覚することが自分を知り相手を知るための大切な要素であると気づくことです。あるがままの自分を認めることは、あるがままの相手を認めることです。ここは認めているけれどここは認めないというような自分自身に対する評価は、必ず相手に向かって向ける眼差しになり無意識に周囲に攻撃します。こういう自分のことを理解し、こういう自分でも愛してくれている人たちがいることに感謝できてはじめて今の自分を丸ごと認めることができるのかもしれません。

最後に作者不詳ですが、「一緒」になるための要諦を記した素敵な文章があります。

『一週間一緒に居たいなら、相手の好きな自分を演じること。

一ヶ月一緒に居たいなら、相手に合わせた自分でいること。

一年一緒に居たいなら、自分の気持ちを全部伝えること。

ずっと一緒に居たいなら、ウソをつかないでいること。』

引き続き、一番身近にいる自分自身との付き合いを内省により見直していきたいと思います。そして未来の子どもたちの社會が繋がりと絆で満たせるようにその解決するための仕組みと仕法を見出していきたいと思います。

和の精神

日本人の食文化に「和食」というものがあります。この和を食べると書いて和食ですが、常に和合しあう精神に満ちた日本の食はユネスコ無形文化遺産に登録されています。「自然を尊ぶ」という日本人の気質に基づいた「食」に関する「習わし」を、「和食 日本人の伝統的な食文化」と題して認められたものです。

「和食」の4つの特徴として農林水産省HPにはこう書かれています。

(1)多様で新鮮な食材とその持ち味の尊重

日本の国土は南北に長く、海、山、里と表情豊かな自然が広がっているため、各地で地域に根差した多様な食材が用いられています。また、素材の味わいを活かす調理技術・調理道具が発達しています。

(2)健康的な食生活を支える栄養バランス

一汁三菜を基本とする日本の食事スタイルは理想的な栄養バランスと言われています。また、「うま味」を上手に使うことによって動物性油脂の少ない食生活を実現しており、日本人の長寿や肥満防止に役立っています。

(3)自然の美しさや季節の移ろいの表現

食事の場で、自然の美しさや四季の移ろいを表現することも特徴のひとつです。季節の花や葉などで料理を飾りつけたり、季節に合った調度品や器を利用したりして、季節感を楽しみます。

(4)正月などの年中行事との密接な関わり

日本の食文化は、年中行事と密接に関わって育まれてきました。自然の恵みである「食」を分け合い、食の時間を共にすることで、家族や地域の絆を深めてきました。

このように書かれます。

文化遺産に登録されるということは、その文化がもう消えかけてきたとも考えることもできます。消えかけてきたものを守るために活動しているわけですから、もともとあったその文化が失われているという現実と向き合う必要があります。

和食というものは、単に日本料理のことを言うのではなく私は「和」を尊ぶことを食でも実践したというように捉えています。私たちの先祖は、親祖の示した和の精神を大切に国家を形成してきました。それには家は和であるという考えに根差し、如何に一緒に暮らしていくかを様々な年中行事やあらゆる節目によって確認仕合い、その初心や理念を伝承し継承してきました。

今では、個食が進みそれぞれがバラバラに自分の好き勝手な食を進めてきています。欧米から入ってきた食の取り方を真似ては個ばかりが尊重され本来の和が失われてきました。そして次第に原点としての和の食の実践もまた失われつつあるのです。

文化の本質は自分の個性です。だからこそ子どもたちは、自分たちは何者なのか、日本人とは何か、そういうものを幼いころからの暮らしの中で体験し体得していくことで文化は醸成され自分たちの本物のアイデンティティを獲得していったのです。しかし今のように子どもの周りの環境の中で日本の文化に触れる機会もなくなってくれば自分のことがわからず終始さ迷ってしまいます。

本来、それぞれの風土がどのようになっているか、自分が生まれ育ってきたところがどのようなものであったかを自覚することで、自分が出来上がってきたルーツを確認して自分の全体の中での役割を自明し、循環する世界において自分を尽くして仕合せに生きていくのが人生の妙味です。

個ばかりを優先させ、歪んだ個人主義を教え込まれ、和の心が失われていては自暴自棄になっても仕方がありません。震災や災害の時の日本人には、自然に和が取り戻されていきます。それは失われているようで失われていないのが文化の本質だからです。大事なのは、自覚することでありそのような環境をふたたび用意していけば自ずから先祖とつながり、絆を深め自分たちを取り戻すのです。

引き続き子どもたちのためにも、和を尊び、和の実践を深めていきたいと思います。

一家一和

昨日、ある保育園で理念研修を行いました。ここは家族的であることを大切にし、安心して笑い声が絶えないことを優先していこうという理念の保育園です。今の日本では家族的ということが次第に失われ、子どもたちをはじめ家庭もバラバラになってきています。私たち日本人は和を重んじて和を尊んできた民族です。その主柱には「家」という思想がありました。この家というものは、一家のことであり一家は一和のことです。

仲睦まじく一家の一員として大切に思いやりながら暮らしてきた民族だからこそ、みんなで一緒に生きていこうと仲間と仲良くしていくためにも私たちは家を形成して家族をつくってきたとも言えます。

私たちの会社でも一家ということを重んじ、バラバラになってしまわないように数々の工夫と実践をつくっています。その一つに「だんらんち」というものがあります。これは一家「団欒」と「ランチ」とを合わせたカグヤ用語の一つです。

食文化というものは、言い換えれば「食即文化」「食は文化なり」「食=文化」ということです。おいしいものとは何か、それは「家族が一緒に食べること」です。一緒にというのは、安心してたのしい、そこにはつながりや絆を感じながら心休まる幸せで豊かな時間です。

月に一度、私たちは一緒にみんなで集まってちゃぶ台を出しては電気を消して自然の光の中で同じ釜の飯を食べます。そして食べて落ち着いたらみんなで近況の報告をしあいます。これは仕事であつまり仕事でやっているのではなく、家族一緒の時間を味わっているのです。

古来より先祖たちは囲炉裏を囲み、家族が集まっているのはこの食事の時間でした。この時間の幸せのためにみんな一生懸命にそれぞれが働きました。この幸福な食卓の時間こそ家族を顕します。そして絆を確認します、それはどんなに離れていてもいつも心は一つ、一緒だよというつながりを結ぶのです。

家族的の反対は何か、それはバラバラになることです。歪んだ個人主義が蔓延している昨今では、個の自由とかいいながら好き勝手に我を通している人が増えていく中でより一層つながりが消え、絆が分断されバラバラになって家が失われています。

どんなに豊かに物が増えてみてもつながりや絆の豊かさには絶対にかなうことがないのです。それが人間の本性であり、それが自然の摂理です。つながっているからこそ私たちは安楽に穏やかな人生が送れます。

もう一度、バラバラになったものをつなぎなおす必要性を私たちは心の底で感じているはずです。そのためにも理念が必要であり、そして一緒に生きて実践する仲間がいるのです。

仲間と一緒に過ごす時間は、かけがえのないものです。家族が一緒に過ごす時間は、最幸の思い出です。

子どもたちがもっとも望んでいるもの、子どもたちが将来幸せな人生を歩めるようにまずは自分たちが一家一和を実現し「一緒」になることを実践していきたいと思います。

歳月の真価

聴福庵の近くで解体している古民家の中には、樹齢数百年の松材が使われていました。梁についてはとても立派で大きく、美しい光を放っていました。これもまたあと数日で跡形もなく壊され捨てられていきます。

もしも今、この松材を手に入れようと思ったら工場で人工的につくる鉄やプラスチックと異なり数百年後まで待たなければなりません。当然、私たちは死んでいますから6代先くらいの子孫になってようやく木が切り倒されそれが材料として用いられることになります。

それまでの間、自然環境に恵まれ虫害に負けず立派に育った場合、また形も整い住宅に適したものだけを選別され利用されます。壊すのは簡単ですが、ここまでくるまでにかけてきた年数、またその木材を運び加工してきた大変な手間を考えると今の時代では非生産的非効率的ということになるのでしょう。

人間が作り出せたものだけが価値があるように信じ込まされ、自然にあるものは古く利用価値が低いとする。こういう教育というものを施され、そういう社会の中に平然と生活していると「暮らし」そのものが消失します。

歳月というものがかけてきた時間というものの真価は、とても尊いものです。それを文化と言います。文化の価値がわからないというのは、今の自分が存在してきた歴史の価値もわからないということです。自分を大切にしていない人が増えているのも、暮らしが消失していく中で発生しているのかもしれません。

自然と共に生きて暮らしていく人間の知恵の中は、親祖をはじめ先祖たちが歳月を紡いでくださったものがあったのです。歳月というものの価値がわかって人ははじめて物のありがたさ、また心のもったいなさに気付けるというものです。

この先、未来を思えば先祖たちはどのような不安を抱くでしょうか。古民家の解体にあるように何百年も維持されてきた暮らしは一瞬で壊されて失われます。文化が失われるということは、もう後戻りはできないということです。壊して捨てた古民家はもう二度と戻ってくることはないのと同じです。

壊さないという選択肢、大切に遺していこうとする選択肢、それを今までの歳月の上に温故知新していこうとする選択肢、つまりは伝承しようとする生き方をするかどうかが、これからの日本人にかかっているように思います。日本の原点を忘れた文明は、歪んだ発展を繰り返し衰退し消失してしまいます。本物以外は駆逐するのが自然の姿だからです。

如何に本物を遺すか、如何に本質を維持するか、それがなつかしい未来のための子ども第一義です。引き続き、真摯に初志を貫徹しご縁を活かして実践を積み重ねていきたいと思います。

いのちの扱い方

昨日、福岡の聴福庵の近くで古民家の解体作業が行われていました。すぐに訪ねては、ちょうど昔の建具などを使えるものがあれば譲ってもらえないかとお願いしたら有難く了承してくれました。

中に入ると午前中からの作業ですでにほとんどが壊されていて、昔からのゆらゆらガラスや雪見障子、その他のものは粉々に崩れていました。それでもまだ残せば活かせるもので年代が古民家と同じものを探しいくつかを持って帰りました。

聴福庵に戻り夜一息ついて解体の家のことを振り返っているととても複雑な思いがして昨夜はほとんど眠ることができませんでした。今、私は必死に古民家再生をしていて長い年月をかけて手作業で丁寧に直して「なつかしい未来」のため子どもたちの代もいのちを大切にしてもらえるようにと祈りながら再生させ修繕していっている最中です。しかし解体の方は、これとは逆に一気に1日か2日で乱暴に重機を使って粉々に粉砕してゴミとして焼却します。

手塚治虫の「ブラックジャック」という本で天才外科医ブラックジャックという名医と、一思いに患者を安楽死させようとするキリコという医者の話が出てきます。なんだかそのシーンのことを思い出されました。その矛盾を抱えながらもブラックジャックは自分が生き続けるためにといのちの限り信念で患者を救い続けます。そのシーンが今回の古民家に似ていると感じたからです。

現場ではなんとか100年くらいたった古材の天井板だけでも残そうと業者さんに相談したら、板を剥がす手間よりも次の現場もあるのですぐに壊したいのが正直なところだと話をされました。解体は時間の方が優先だと仰っていました。解体現場を見渡せばその家に住んでいた人たちの思い出の品々があります。ここでは大切に処分するのではなく、あっという間にゴミになって捨てられます。しかし家に思い出と生きた記憶、そのいのちがあると思えば、再生を通して大切に修繕していくことと同じくらい、大切に処分していく必要があるのではないか。家にもいのちがあり、それまでの家族の暮らしを大切に見守ってきた存在、そういうものが再利用されていくというのが本来の解体ではないかと自問自答を何度もくりかえしました。

今は経済消費効果時間効率が優先され新しいものばかりが重宝され、古いものは価値がないように扱われます。古いものにはいのちがびっしり詰まっており、そのいのちは大切に受け継がれ使われる人たちによって甦生していきます。甦生し続けていくいのちは、人々に安心感を与え、先祖からのつながりを結び直して地域のご縁、報恩感謝の絆を強くしていきます。

親切な解体業者の方々は、「使えるものがあればできる限りもっていってください捨てるだけだから。窓ガラスなどをすでに割ってしまったことを申し訳ない」と仰っていました。

これを見てただの私の妄想かもしれませんが本の中で手の施しようのない患者への安楽死をキリコが請け負うとき「命を活かすことと安楽死で殺すことのどちらがよいか?」と皮肉られた時の返答でキリコが「ふざけるな、おれも医者のはしくれだ。いのちが助かるにこしたことはないさ・・・」というセリフを思い出しました。

みんな何とかしたいと思っていても、どうにもならない宿命も現実もあります。しかし、私はこの世に生まれてきたものとして根本的なことを忘れてはならないと思うのです。そこにみんなが気づき、もしも協力していくのなら歴史もまた変わると思うのです。未来はかつての最も優しく穏やかで幸福であった暮らしに回帰すると思うのです。心は痛いですが、この痛みを忘れずにいることこそが古民家再生の要になると私は思います。

最後に、ブラックジャックのメスをつくる琵琶丸という刀鍛冶の遺言で締めくくります。

「天地神明にさからうことなかれ おごるべからず 生き死にはものの常なり 医の道はよそにありと知るべし」

引き続き、現実を直視ながら子ども第一義の理念を実践していきたいと思います。

 

ゼロベースの大切さ~変化の仕法~

人は何かをはじめるときにゼロベースでやれる人がいます。こういう人は、最初から持っている知識を使いませんから素直に体験しその体験を深堀り、その分野の必要な力を習得していきます。誰でも人は最初からやればいいのですが、なぜかそれができずに体験が億劫になっていきます。これは学校で学んだ知識の刷り込みが邪魔をして体験を避けてしまうということが起きるからです。

人は学校で知識というものを持つことで体験をしなくなっていきます。知っているからやらないという人がとても多く、知識を先に入れてしまうことで結果から物事を考える癖を持ってしまいます。なんでも先に勉強する人は、勉強することでこうなるだろうという思考の癖が沁み付きます。先にわかってしまうと好奇心が減退し、そこに向かって感じるワクワク感というよりももしも間違っていたらどうしよう、もしも失敗したらどうしようといった保身ばかりが気になるものです。そのうち消極的な生き方で評価され成功してしまうと、自分からやるよりはやらないために知識を持つという受け身の悪循環に陥ります。そうなるといわれたことだけをやり、言われていないことはやらないほうがいいという、ついには正直者は馬鹿を見るとさえ思う人になっていくこともあります。これは人生の主人公、積極性を持つということにおいてとても残念なことです。

本来、知識というものは体験する中で深めていくものであるしそこに辿り着くための道具の一つでしかありません。知識一つに体験一つと、知行合一できる人は知識だけに偏ることはありません。体験をしても知識にならなければ人に伝えることができません、大切なのは知識と体験のバランスなのです。単に知識を持ち知った気になり、結局は体験を避けては結果だけ似せていくことを目的にしていたら実力が備わることはありません。

学術の評価の世界、つまりは学校の中だけで生きるのならそういうことも価値があるかもしれませんが現実の世界で自分の可能性を拓き目的を実現するのなら体験して深く学びそれを自分のものにしていかなければなりません。

その際、何が一番邪魔をするのかは先ほど書いた思考の癖、つまりは正解やわかることを目的にしてしまっている刷り込みですがこれを取り払うことが先決です。そのためには、それまでに沁み付いた癖や思考をいっぺんご破算にして捨ててみることです。

すべて真っさらににしてゼロベースでそれを学ぼうと覚悟し、過去の経験や過去の知識に頼らずに今、目の前にあることを新鮮な気持ちで挑戦していけば自ずと今までの刷り込みが取り払われ新しい体験に出会います。かつてのような古い体験や過去の成功体験に依存せずに、今の自分を自由自在に変えていくことができます。

いっぺん最初からやり直すということに必要なのは勇気だけです。今まで得たことをいつまでもしがみついて手放さないからその人は変わらず成長が止まるだけで、今までのものは通用しないのだと今だけを見つめて素直に謙虚に学ぶ姿勢を大切になんでもやってみる人は確実にその実力が備わり多くの人たちの役に立ちます。

一つの人生で、過去に一度うまく言った事例や成功にしがみついて生きるのはもったいないものです。いろいろなことが天から与えられ、日々は体験に満ちています。それを正解か失敗か、わかるかわからないか、できるかできないかなどといった視野の狭い判断基準だけで生きていくのはつまらないものです。

面白く生きるというのは、常に新鮮、常に知新、常に好奇心に満ちています。学ぶチカラというものは本来は、深めること、本質であること、真理に近づくことでしょう。

常にゼロベースであれば可能性は無限大です。

なんでもやってみる姿勢のままにワクワクドキドキしながら挑戦していきたいと思います。

一和の実践

人は生き方と働き方を分けると自分勝手になっていくものです。実際にどこまでが仕事でどこまでが家庭、どうやって分けるのかと考えるとわからないものです。仕事も家庭もどちらも人生と考えるのなら、どれも分かれておらず日々が自分の生き方次第ということになります。

これを置き換えると、社長と社員というものも同じものです。どこからが社長の仕事でどこからが社員の仕事なのか、どうやって分けるのかということもあります。本来、社長も社員も同じ理念で一緒に働くものであってそれは一家のようなものです。一家であれば、家人は誰がやってもいい気づいた人がやればいい、しかしその中でも家長はその役割を果たし、家人もまた役割を果たす、そこには対立したものではなく調和しているものがあります。

相対するものを調和するとき、そこには平和が生まれます。実際に、平日や仕事勤務時間だけは働き方だけを変えて生き方を変えなかったとしたらそこに生き方と働き方は対立します。しかし平日も休日も人生だからと、志に生きていくのならそれは生き方と働き方が一致して調和が生まれ平和が訪れます。この対立する考え方というのは、自分を中心に対立させているということになります。

人が自分勝手になるとき、我を通して我儘になるときすぐに事物を対立させてしまうのです。一緒にやっている人には対立はありませんが、上下左右と自己中心に相手を分けてしまうとそこに対立が発生します。

如何に相対するものを中和するか、一和するかができてはじめてその人は生き方と働き方を一致させたということになります。自分自身が本当にやりたいこと、その生き方、自分探しではなく、自分に与えていただいた天命に生きること。そういうことができたとき、人は自分に出会います。

今の時代は、自分探しと言いながらいつまでたっても自分から逃げている人がいます。本当はこんなはずではないとか、もっと自分には合ったところがあるとか、そんなものはあるはずがありません。生まれ落ちてくる場所も親も選べない自分、そういう自分が自分探しなどしても無意味なのです。分を弁え自分を慎み、自分に与えていただいた天命を感じれば、この場、この環境、この時、この自分をどれだけ一生懸命に全体のために役立てていくか、ないものねだりではなく今のある自分に感謝して自分を活かし、周りを活かしていくのが大調和になるのです。

自分探しをやめて、自分を見つめ受け容れること。その方が、自分自身を直視でき自分にもできることがあると本来の努力や苦労を味わっていくことができるのです。

相対するもの、この世の中にはたくさんありますがそれを自然に回帰するのも人間の知恵です。自然は分かれたものは一切なく、分かれていないから自然体なのです。自然体というのは、人生そのもので調和しているということです。自分自身の人生なのだから、悔いのないように日々は人生だと思ってやりきっていくことです。

引き続き、生き方と働き方のモデルを示し子どもたちに自分らしく自分の人生を歩んでいけるよう分かれているものを一和して実践を続けていきたいと思います。

自分らしく語る文学

アメリカのロック音楽界の重鎮、ボブ・ディラン(75歳)が、2016年度のノーベル文学賞を受賞しました。音楽家としてははじめての文学賞の受賞で、世界では賛否両論あるそうです。文学と音楽は別のものだと思うのは大きな勘違いで、そもそもすべての学問は分かれるものではなく一つのものです。

今回の受賞の理由は、選考にかかわったサラ・ダニウス事務局長から古代ギリシャの詩人・ホメロスの名を引き合いに出しながら、ボブ・ディランは「口語で表現する偉大なる詩人」と評されたそうです。これはかつて日本でも尾崎豊のように弾き語りをしながら即興で音楽を詩に乗せていたのを私も覚えています。言葉を語り文字を紡ぐというやり方は、そのままその心のままに綴り文を磨くことに似ています。

いろいろと言う人もいますが文学とはそもそも誰かの主観で独占できるものではなくみんなのものですから、それぞれの見方があることはいいことだと私は感じます。十人十色あってこそ、その解釈が新たな文学のエネルギーになっていくからです。自分らしくあることこそが、伝統に根差した学問であろうと私は思います。自分の中にあるボブ・ディランがあっていいと思います。そのうえでブログで紹介します。

ボブ・ディランにはこういう言葉もあります。

「あなたの心に従ってゆきなさい。そうすれば最後にはきっとうまくいく。Boy, go and follow your heart. And you’ll be fine at the end of the line.」

心のままに弾き語る、その姿から生き方や実践からのメッセージ性を感じます。他にもこういう言い方もします。

「私が自信を持って出来ることは、自分自身であること。たとえ自分という存在が、どんな人間であろうとも。」

「僕にはヘンな癖があるけど、捨てなかった。それがぼくの個性だから。」

自分自身であることを大切にしました。そして自分らしくあるものと向き合うためのチカラを伝道してきました。

「最低の犯罪者とは、間違ったものを目にし、それが間違っていることに気づいたにもかかわらず、そこから目を背けてしまう人たちだ。」

「僕はよそ者だった。ますます疎外感を感じた。違うのに道づれにしようとするんだ。」

「ヒーローとは、自分の自由に伴う責任を理解している人のことだ。A hero is someone who understands the responsibility that comes with his freedom.」

そして行動すること、自ら変化を促すことを語ります。

「やらなきゃいけないことをやるんだ。そうすればうまくいくさ。You do what you must do and you do it well.」

「朝起きて夜寝るまでの間に、自分が本当にしたいことをしていれば、その人は成功者だ。A man is a success if he gets up in the morning and gets to bed at night, and in between he does what he wants to do」

「日々生まれ変わるのに忙しくない人は、日々死ぬのに忙しい。He not busy being born is busy dying.」

「泳ぎ出したほうがいいよ。そうしないと石のように沈んでしまう。」

「私は一日の中で変化する。朝起きた時はある人で、寝る時は確かに別人だ。」

理想を求めて歩んでいくことの大切さを語り綴ります。

「すべての美しいものの陰には、何らかの痛みがある。Behind every beautiful thing there’s been some kind of pain」

最後に、いろいろな賞があろうがなかろうがずっとボブ・ディランさんの歌は普遍性を持っているように私は感じます。

「どんなレッテルを貼られてもかまわない。歌うためなら。」

志を定めて生き切る方の背中には勇気をもらえます。どんなレッテルを貼られても構わない、子ども第一義のためならとやりきっていきたいと思います。