本元の味

昨日、ある方にお会いすることができました。ずっと以前から知っている方でしたが、ご縁はいつも不思議で「場・間・和」の織りなす今のタイミングをいただけます。あの頃ではお会いしても全く分からなかったと、今、過去を振り返れば思うものです。

自分が通ってきた道の延長上にいらっしゃる方とのめぐり会いというのは、自分が通っているからこそその存在の価値を認識し、まるで過去と未来が回転します。

改めて道縁の素晴らしさに感謝するばかりです。

人は無意識ですが、風土の魂が宿るのではないかと私は思います。その風土とは、この私たちの住まう土地のことですがいつもそことつながり結ばれているのが私たちのいのちのように思います。

だからこそその自然の中には風土の魂ともいい、そういう人物のことを大和人と呼ぶのかもしれません。私自身の中に流れるその大和魂との邂逅も、道縁によって顕現してきます。

昨日は、ワークショップについてや様々な西洋からの教育手法についてのお話を拝聴することができました。この方の素晴らしいのは西洋から来たものを自分で美事にアレンジし、自ら風土に合うように仕上げていくところです。それはまるで海外の料理を、日本人が日本に合うようにアレンジしまた世界に返り咲かせるかかのように日本の和の精神を存分に取り入れたものに調理していきます。

私が目指した味付けをもう随分と先に現場で実現されており、ただ感動するばかりでした。なぜそうなるのかと内省するとき私が直観したのは、そこに「師弟一体心の境地」を感じました。

これは、日本の職人文化に似ています。師が全身全霊で弟子のことを思い、弟子も命がけで師を思う、その間、まるで自他一体の真心で智慧を受け継ぎます。そのようにして様々なことを結和させたのではないかと、これは智慧の感得力です。

そういうそもそも別であるものを自分のものにしていくチカラというのは、風土の魂や和の心が存分に発揮されたものではないかと私には感じます。そしてそういう人だけが「本元の味」を知っているのでしょう。本元の味を知るからこそ、様々な文化を含有でき異質なものを融和させていくことができるように思います。

本元の味が分かる人物に出会えるというのは、本当に仕合せなことです。
御蔭様の御引き合わせと、めぐり会いに心から感謝しております。

子ども達の未来のためにも引き続きこの縁起と学問を味わい楽しんでいきたいと思います。

本気=徹底

先日あるクルーが断酒をしました。子どもが憧れる大人になるために、自分の憧れる方の自分を優先しようと決心したそうです。決心をした後の、その人の言葉には本気さが滲み出ていました。

人は「本気」になると変わるものです。

その本気というのは何かということはそれぞれの理解ではなんとなく漠然としているものです。昔から本気になったとか、本気になれとか言いますが実際の本気になるとは一体何か、それを少し深めてみたいと思います。

最近人気の松岡修造さんの語録の言葉に「本気になればすべてが変わる」があります。日めくりカレンダーなども、本気を引き出すための様々な語録が集約されて紹介されとても売れているそうです。皆、人は変化に対して自分を変えたいけれど変われないで煩悶としていますからどうやったら変われるかということを悩むものです。

本来、人は人生を丸ごと変えようとするとき、表面ではなく根本から直さなければ本質的に変わりません。その根本とは”心から決める”ということです。心から決めるというのはなんとなくではなく、必ず「徹底」するということがセットになっています。

人がなんとなく徹底できないのは本気ではないからです。やったりやらなかったりすることは本気ではなく、やると決めたら徹底することが本気であるということです。なぜなら本気というのは、「決心」したものだからです。決めたという言葉は、決断した、決心した、決定した、決意したという「思い(信)が立った」状態のことです。

人が「思い(信)を立てた」時、必ずその次の行動として「徹底」があります。

心とは常に一つで、二心などというものはありません。もしも人が一つのことを徹底できないとしたら、それは心が決まっていないからです。あちらがいいかこちらがいいかと迷うとき、それは心が入っていないとも言えます。

心が入った、言い換えれば思い(信)が立ったとき人は実践を徹底することができるように思います。昔から凡事徹底という言葉がありますが、あの凡事は心の姿であり、それを徹底するという意味でしょう。

掃除道で有名な鍵山秀三郎氏が、「凡事徹底」を座右の銘にしています。凡事徹底平凡を非凡に努めるという言葉もあります。これはつまり「心を磨く」ということを本懐にしているからではないかと私は思います。

本気になったかどうかは、その人の徹底ぶりによります。やったりやらなかったりではなくまさに「決めて断った」ことが、その人の本気なのです。その本気は時間をかけてじっくりとゆっくりとまるで悠久の大樹の樹の根のように土中に張り巡らされていきます。そして心を磨き続ける日々の修行や実践によって高まってくるように思います。そして高まり極まる時、その人は本心のままの本当の自分に出会う事が出来るように思うのです。

仲間が本気になっていく姿を見守れるのは有難く、本当に沢山の勇気をいただけます。こういう一人の変化が波打って周りに影響を与えていくような好循環こそが世の中を変えていくチカラになっていくのでしょう。一緒に理念に向かって取り組む仲間があるというご縁が仕合わせそのものです。

最後に応援と励ましを籠めて詩人坂村真民さんの言葉で締めくくります。

『本気になると
世界が変わってくる。
自分が変わってくる。

変わってこなかったら、
まだ本気になっていない
証拠だ。

本気な恋、
本気な仕事。

ああ、人間一度はこいつを
つかまないことには。』

自分自身の決心と決断を支えるのは自分の初心ですから、その時々の初心を常に省みて心を磨いていきたいと思います。

 

 

自然の直観力~観察の智慧~

自然を深め、自然と向き合っていると、自分たちの気づいていないことがまだ沢山あることに気づけるものです。例えば、身近な虫たちのことを観察してみても驚くことが多く、そこから不思議な能力を駆使して自然界を生き残ってきた智慧を学べるものです。

私は幼い頃から虫が大好きでしたから、虫を発見しては観察を愉しんでいました。諺の「一寸の虫にも五分の魂」の意味も、虫たちと直に接していたら自明します。その智慧のすごさと創意工夫と多様性の創造力には感動することばかりです。

虫のことを考えるとき有名な人物に「ファーブル昆虫記」を書いた「ジャン・アンリ・ファーブル」がいます。虫と直に接するということが、如何に人智を超えた智慧を学べるかということに於いて観察の重要性を生き方の実践で示された方でした。

その言葉には「観ることは知ることである」というものであったり、「現実は常に公式からはみ出すものだ」ということであったり、実際に「観察」することが如何に大切であるかということを仰っています。

人はすぐに自分自身の目や手、耳や鼻、五感を使おうとせずに物事を知識を使って分かった気になってしまうものです。しかし真実を知るということは、自分自身を使って観るということです。自分自身で観ることもせずに簡単に分かろうとすること自体が本来の姿を見失わせます。自然本来の学問の在り方にも警鐘を鳴らしているように私は思います。膨大な時間をかけることや、大変で面倒なことや、労苦を惜しまないでからだを動かして観察することこそが何よりも大切であるということを教えてくださいます。

ファーブルはまたこうも言います。

「学者というのは文句を言いたがるものなんだよ。私はこの目で昆虫を観ているんだからね。反対する人は自分で観察してみればいいのだ。きっと私と同じ結果が得られるだろう。」

これは昆虫に限られたものではなく、実践して道を深めてきた人の発言であることはすぐに分かります。文句を言う前に一緒に実践してみれば、同じ結果が観えるということなのでしょう。

虫の世界を知るということは、直接虫に触れて観察することで得られます。そしてそれは虫だけではなく、自然というものはすべて触れて観察し直感するものです。それが本来の自然の道、かんながらの道だからです。

自然を観察し直感する力こそが、虫や草花、動物たちの意識と視野であり自然のちからです。道を知るための自然の学び直しは続いていますが、観察力を磨き、自分の刷り込みを取り払い、自分の意識を変えて子どもたちの未来のためにも、確かなものを伝承していきたいと思います。

 

気分転換~福楽~

人はストレスというものを抱え込むといいます。このストレスは悪いものだと決めつけている人もいますが、ストレスは良いこともあります。実際のストレスには良し悪しはなく、そのストレスの御蔭で私たちは自己変革に向き合っていくこともできるとも言えます。

過度にストレスをかけてしまうのは、かえって柔軟性を失わせて変化を止めてしまいます。問題はストレスがあるかないかではなく、変化しているかどうかということになるのです。

変化というのは、柔らかな感性が必要です。老子の言う、「柔弱の徳」のように柔らかく嫋やか、しなやかであるものがもっとも変化できるということなのでしょう。それだけ柳に風のように変化を楽しめる境地に入ればストレスもまた感謝になっていくように思います。

そのストレスに対する感覚は、現代ではリジリエンスといって立ち直る力としても注目されています。一流のビジネスマンやリーダーは、ストレスに対するメンタルの持ち様が磨かれているから失敗を恐れず挑戦し、仕事もまたできるようになるというような感じに世間では語られ研修なども増えています。

ストレスの発見者ハンス・セリエ博士は、ストレスとの付き合いのために「気分転換」を大事にしたといいます。

如何に気分転換するか、気持ちを入替えるかで視野が広がり心の余裕をつくることを言いました。よく考えてみると、脳ばかりを働かせ、意識ばかりを一つのことに囚われ、目ばかりで物事を見ていたら次第に息をしなくなってきます。つまり空気を吸わず呼吸をしなくなってきます。

そういう時は、外に出て新鮮な空気を吸うことが大事だということなのでしょう。

正解ばかりを探しては真面目に正しいことをやろうとして常識に囚われ脳みそばかりを使うと、人は呼吸を忘れてしまうかもしれません。呼吸が止まるというのは、脳と心のバランスが取れなくなっているという状態なのでしょう。

ストレスがあるということは、そのストレスをどう転じて福にしていくかということです。様々なストレスは変化の兆しですから、その変化を見逃さずストレスを味わいそれをどう転じて面白くしていくかで呼吸法もまた身に着けていけるように思います。

楽を選ばず、真楽は苦しみの中にありますからストレスの中にこそ本当の楽しみがあると言えます。それは変化の歓びであり、変化の仕合せです。気分転換は、嫌なことを我慢して嫌なことを嫌々やるのではなく、気分転換に初心や本心を優先してあげる心の福筋を如何に鍛錬するかによるのでしょう。

遊び心も笑いも気分転換もまた福筋を鍛錬するための方法論です。

日々を味わい次々にやってくる楽問を選ばず遊び、福を楽しんでいきたいと思います。

深さ~道に入る~

昨日、朝の一円対話の中であるクルーの内省の中で「自分の考えですぐに分かったと言わず、聴いてみること」というのがありました。

これは本当に大切なことで、自分の刷り込みを取り払うために必須な実践であろうと思います。では、なぜ人はすぐに分かったとなるのかそれを少し深めてみようと思います。

そもそも人は自分が正しいと思い込んでいるものです。自分の知識や経験から物事を考えますから、自分の知らないことや体験したことがないことは分かりません。何かの物事を判断するとき、理解しようとするのは自分の知識と体験の質量の中から選び出し、きっとこうだろうと”思い込んで”いるものです。この思い込みは、先入観ともいい、自分の知っている範囲で理解できることを言います。

例えば、物事には”深さ”というものがあります。

ある人が、死ぬ気でやりましたといっても、本当に死ぬ目にあった人がその死ぬ目を乗り越えて話した死ぬ気という言葉と、死ぬ目にあったことがない人が知識で知っていて自分の中でこんな感じだろうと自分の中で想定した死ぬ気では同じ言葉を語っても同じことにはなりません。

結局は本当に理解するというのは、その質量が同じであるときにはじめて自分のものになるのです。だからこそ「分かった気になる」というのは大変危険なことなのです。

道を歩む人や、達人といわれる実践者はその質量が自分の想像を超えているものです。なぜならそれは長い年月をかけて実践をし、単なる知識を得ただけではなく体験を積み重ねた智慧を語るからです。この智慧というものは、やった分の量と、本気と決心、覚悟による質によって得られます。

分かったとなってしまうのは単なる知識であり、分からないとして聴くという姿勢は智慧を学ぼうとするからです。本来、実力をつけるというのは知識を持つことではなく智慧を働かせることができるということです。智慧の中に、知識が入ることではじめてその知識は役に立つものになりますから分かっていないことに気づけることが智慧の入口のように思います。

分かった気になっている人は、自分の分かった分で学びが止まってしまいます。分かった気にならないようにと戒めるのは、実践することが前提になっていて智慧を学ぼうとする人です。そうならないように「分かりましたと言わず、やってみます」と常に自戒するのです。その上で近づいたかどうかをその人に実践で得た智慧を語り確かめて掴み取っていくのです。

話を整理すると、「深さ」があるということがあってはじめて分かりましたが言えるようになるように思います。つまり深さが分かりましたと言えるには、自分の浅はかな知識で補おうとするのではなく、それを語る人の経験や体験と同質ものを自分が味わいその智慧を自分のものにしようと自分が貪欲に実践で近づいていくことではじめて真の深さが理解できるように思います。

深さがあることが分かることは、道を歩んでいる証拠です。道に入って道を歩まずということにならないように、常に分かった気になろうとする楽を選ぶ姿勢に気づきその時の自分の心を静かに見つめることが内省の真価のように思います。どれくらい覚者や先達に近づいているか、それを確かめることが愉しくなればもうそれは道楽の深さを味わっている人です。

道を歩んでいる仲間の姿を見守れることは仕合せです。一緒に無二の体験を一期一会に結んでいきたいと思います。

小僧の心~未熟者の真価~

人に限らず、全てのいのちは発達していくものです。例えば、植物の実が未熟から成熟していくように時間を経過することで実もまた完成していくものです。実が熟すときは種が落ちるときとも言えます。

そして人を未熟で例える言葉に「小僧」という言葉がります。

これは仏教語で坊主に対して未熟な修行中の姿のことを言います。小僧といえば、「門前の小僧習わぬ経を読む」という諺もありますが、人は自分の置かれている環境によって、無意識に影響を受けているという意味でつかわれます。ひょっとすると環境で自分がいくら経が読めても小僧は小僧、未熟者であるという自覚がないと自分が坊主と錯覚してしまうこともあるのかもしれません。

社會は結局は、未熟者たちが集まって運営していますが自分が小僧の自覚がなければそれぞれがなぜこんなに大変なのかということにも気づけなくなります。知識偏重の評価ばかりを気にして何かをやってはできたできないと一喜一憂していたら、未熟であることすらも忘れてしまうのかもしれません。

小僧というのは、別の言い方では青臭いや世間知らず、くちばしの黄色いなどの言い方をされますがつまりはそもそもが未熟であるということです。

人はできるできないの二者択一の考え方しかもっていないと自分が強く出るときは人を責め、自分が弱ると自分を責めても、そのものが未熟であることはなんら変わりがあるわけではありません。結局は未熟である自分を認めることがいつまでもできないから、成熟の意味が分からなくなるのでしょう。

本来、未熟という言葉は悪いように使われていることが多いのですが言い換えればこれからの伸びしろがあるということです。まだ伸びる可能性があるという風にも理解できます。成熟していく過程が未熟ですから、自分を責めるのではなく、まだまだ成長の余地があるのだと何が課題かを見つめてその改善を怠らなく努めていけば必ず成熟した人物に近づいていくのです。

人は理想が高く、自分が理想に近づきたいと思うものです。

しかし実際はその理想に対して現実は厳しく、必ず成熟するにはそれ相応の時間を要します。一足飛びにいこうとしても、小僧が経は読めても何も実になっていないではその経の有難さを感じることもないように思います。

本来、小僧の心で学ばせていただけることに感謝することが何ものも責めず自他を許しつつ互いに学び合っていく仕合せな関係のように思います。できない自分を責めたり、できる自分を錯覚するのではなく小僧の心で真摯に学び続けていくことが何よりも責めない実践になるようにも思います。

急いで速く熟したいと焦っては、自他を責め罰し、焦燥感と自己嫌悪感をまき散らしても結局は前に進んでいるわけではありません。目標が高い分、当然苦しみも増えますがそうしているうちにまた責めては今の心から離れてしまえばそれは単なる被害妄想に変わっていくだけかもしれません。

悟れることなど一生ないのだから、今できることで自分の体験したことを周りの人たちのために役立てていくことが責めない実践、福に転じていく生き方なのかもしれません。

自分の体験が必ず誰かのお役に立っている、そう信じて歩むことこそが小僧の心なのでしょう。人生には一切の無駄もないと認めることができるなら、人は一生小僧のままで学び続けられるのかもしれません。私も小僧の心を忘れないように、日々の体験を学びに換えて誰かのためにと役立てていきたいと思います。

 

グローバル意識~資質と実力の本質~

私たち日本人は島国の中にいて国内事情ばかりを優先するあまり、アジア圏をはじめ世界のことを意識することが少なくなっているとも言えます。先日のニュースでも社会課題は国内志向が強く、「紛争鉱物」や「貧困」「人権」など含めたグローバルな課題への関心は低くなっているそうです。

アジア圏に出て各地で活躍している人たちをみていたら如何に国際人として常に全体を観て自分たちがどうあるべきかを考えて行動しているのが分かります。私も高校を卒業してから中国に留学し、その後、英国に留学し、いくつかの国の方々と仕事をし、また今でも関わりがありますが常に世界では共通する問題にそれぞれの人々が様々な異なりを理解し、違いを超えて挑戦しています。

特に今は情報化社会が進み、経済的に密接に繋がり合い、ますます国境がなくなってきていますから世界のある場所で起きた出来事はすぐさま世界全体に影響を与える時代になっています。つまりは私たちは常に地球運命共同体として、私たちは世界の中に生きているということです。

昔のように関わりが薄かった時代はまだ対岸の火事で済んだ出来事も、今ではとても他人事ではなくすぐさま自分たちに多大な影響を与えてきます。世界の未来の問題をどう今解決していくかは、それぞれの人々の意識に懸っているともいえるのです。

そういう意味では日本という国は、世界の中でもとても大切な役割と使命があるように思います。それは老舗に見られるように私たちの伝統は何百年も前から大切に維持され、世界の称賛を受けていることにも見られます。また、瑞々しい国土のほとんどは森林に囲まれ清らかで澄んだ水と、恵まれた気候風土の中で満たされています。もちろん地震や火山も多くありますが、それはまだ産まれたての風土だからこそこのように若い感性に満ちているのでしょう。

先日のシンガポール訪問でも、アジア圏の中でどう私たちがリーダーシップを発揮していかばいいのかを自覚する機会になりました。そして同時に私たちの資質と実力とは一体なんであろうかともう一度、向き合う機会をいただけました。

日本人としての資質とは何か、日本人としての実力とは何か。私はかつての日本古来の心こそ、私はその問題を解決する鍵になると信じています。

最後にシンガポールを考えながら、同じアジア4龍と呼ばれる国家、客家出身の台湾の李登輝首相のことを思い出していました。それぞれにリーダーシップを発揮して、今後の世界でどう国家を運営していけばいいか、歴史はとても未来への参考になります。その李登輝首相が、「世界の偉人たちが贈る 日本賛辞の至言33撰」ごま書房新社の中で日本についてこのように語っている一文があります。

「『進歩』を重視するあまり『伝統』を軽んずるというような二者択一的な生き方は愚の骨頂だと思うです。『伝統』という基礎があるからこそ、初めてその上に素晴らしい『進歩』が積みあげられるのであり、『伝統』なくして真の『進歩』などありえないのです。数千年にわたって営々として積み上げられてきた日本文化の輝かしい歴史と伝統が、60億人余の人類社会全体に対する強力なリーディング・ネーションとしての資質と実力を明確に証明しており、世界の人々からの篤い尊敬と信頼を集めているからです」

古来の心は伝統文化の中に籠っています。温故知新、今こそ日本文化と伝統というものをもう一度学び直しつつ、今後のグローバル人財、地球人財の一人として準備を怠らず実践を高めていきたいと思います。

心のやわらかさ~一生青春~

人間は色々なことを悩みすぎると心が硬くなっていくように思います。一つのことに思い煩いそこに感情が呑まれればどうしてもその執らわれから抜け出すことができなくなります。そうやって自分自身への思い込みが強くなってくると、次第に心が硬くなっていくように思います。

魂を如何に消耗させないでいるかは、常に青春を続けていくことのように思います。

しかし年々、様々な柵が纏わりついてきますし人間はどうしても様々な人たちとのかかわりの中で利害なども発生していますから悩みはつきません。相田みつおさんが「一生勉強一生青春」の中で「年をとって困ることは、身体が固くなるばかりでなくて、頭が固くなること、心が固くなることです。心が固くなると、感動、感激がなくなります。一生青春を保つためには、心のやわらかさを保つこと。そのためには、具体的に何かに打ち込んでいくことだと思います。」と仰っています。

心のやわらかさというものをどう持ち続けるか、そこに魂を消耗させないヒントがあるように思います。

河合隼雄さんが「冗談による笑いは、世界を開き、これまでと異なる見方を一瞬に導入するような効果をもつことがある。八方ふさがりと思えるとき、笑いが思いがけぬ方向に突破口を開いてくれる。」とも言います。

心のやわらかさを思う時、この”笑う”ということを思い出します。笑っていられる心のしなやかさ、そして果報は寝て待てではないですがその時が来るまで面白いことや好きなことにでも没頭して待つこともまた心のやわらかさかもしれません。視野が狭くなり心も硬くなってしまったら、見守りや御蔭様、周囲からの応援にも気づけなくなってしまうかもしれません。

そう考えてみると、「一生青春」というものはあらゆる出来事を楽しむ境地にあるように思います。どんなことがあっても笑っている、何があっても笑って歩んで往く、そういう「笑う門にはいつも福が来る」ように思います。

時折、大切な人のことが理解してあげられず、そして自分がどうしてあげていいのか分からず、ただただ悲しみ、無事を祈りつつも実際は何もできない自分に苛立ち、独り悔しい思いをすることが幾度もあります。しかし本来は丸ごと信じているのだから先に自分の心が硬くなってしまえば、かえってもっとも身近で応援しようとしている自分がその人の邪魔をしてしまうかもしれません。

だからこそそういう時こそ常に明朗快活に心をやわらかく、子どものようなしなやかな姿のままに笑って福を待つことで正直に生きていきたいと感じます。正直さというものは、まっすぐで潔白というイメージもありますが同時にとても柔和な側面もあるように思います。

心に正直に、人生の醍醐味を和らいながらその時が来るまで日々粛々と実践を怠らず天命を待ちたいと思います。

地球人財4~本質的であるか~

時代は過渡期に入り、国境を超えて人種を超えて多様化はますます進んでいきます。そしてグローバル化していく経済や社會の中では一つの正解を頼りにしてはいけず、あらゆる無数の正解を受け容れていく柔軟性が必要になってきます。

そもそもグローバル人材に求められる力として、コミュニケーション力や相手を理解する力、プレゼンテーション力とか色々と言われていますがそれは手段であろうと私は思います。

ではグローバル人財にもっとも必要な力とは何かということです。

私はそれは「本質的であること」であろうと思います。

なぜなら多くの正解の中で物事を進めていくというのは、本質的かどうかということに由ると私は思うのです。人間にはそれぞれに価値観もありますし、その人の視野の広さが事物を決めてしまっているものです。実際に目の前に見える世界だけを世界だと信じている人と、地球規模で物事を観ている人ではその目に観えているものは異なっているからです。

特にグローバルリーダーともなれば、どれだけの視野で物事を捉えているかは何よりも目的を完遂する上で重要です。そうなると、常に本質的かどうかを確かめなければならなくなるのです。

本質的であるというのは、中庸であり続けるということに似ています。全ての情報の中から右に偏らず左に偏らずそのものの中心を見抜く力、本来のあるべき姿から物事を洞察する力のことです。

本質というのは、世の中の常識に囚われず型破りであるともいえるのです。本当のことが合っているのなら、それ以外のことは別にどうでもいいという柔軟性があるということです。私の言葉で言い換えれば初心や理念がはっきりしているのならば、後は流れに任せて応じて合わせる柔軟性を持っているという感じです。

これらの本質を維持する力というのは、常に自分自身が本質的かどうかを振り返り、常にそこから心を離さずに心を入れて物事に打ち込んでいかなければなりません。信念ともいってもいいかもしれませんが、本質を維持するには常に「何のために」という自問自答を続けて根気強く本質的であることを意識していなければならないからです。

これは心の力とも呼んでもよく、心が育っていなければ本質の維持は難しいのです。それだけ人は世の中の都合の悪くなった現実の帳尻合わせのためのルールや法則に惑い翻弄されているともいえるのです。自然から学ぶ力もまた本質の性質を伸ばすためにあります。教育の在り方を思う時、まず何が自然かがわからないような人物が果たしてグローバル人財と呼べるのだろうかと私には疑問に思います。

グローバルリーダーは、混沌の中でも常に本質を見抜き、本物を確かめ、自然であることに精通している中心人物です。人間の浅はかな多数派の意見や、何かしらの偏った正論などには目もくれず粛々と自分の”生き方と働き方”を変えて世の中に貢献していくのでしょう。

これからは無数の正解があっていいと言われる世の中になると言われます。それは言い換えれば、本質的な世の中に入ってくるという意味でしょう。だからこそいよいよ対話が求められる世の中になっていくでしょう。

子どもたちの道しるべになるように、日々に本質を磨き、自然一円観を伸ばして世界のお役にたっていきたいと思います。

地球人財1~グローバルとは何か~

昨日は、シンガポールにあるIB教育(International Baccalaureate)「国際バカロレア」を導入している学校を中心に視察を行いました。シンガポールはグローバル人材を育成することを念頭に、「Teach Less ,Lean More」という基本指針で世界で活躍するために様々な教育を導入しています。

インターナショナルスクールから大学まで、新しい学校を中心に視察しましたが多種多様な人種の中で共通の言語を話すだけでなく、如何に御互いの違いを認めつつ、技能や才能を開花させるかということおいては、今までの暗記詰め込みのような形だけではなくファシリテーターといって教師自らが生徒たちに寄り添い生徒たちが自ら主体的に問題を解決していく手伝いをするという方式が取られていました。

そもそも何のために学ぶのかと考えるとき、子ども達が如何に自ら学ぶ力を発揮するかと考えれば自ずからどんな教育方法がいいのかは古今から変わらない在り方があります。身近な大人たちの生き方や働き方が教え方になりますから、何よりもまず先に時代の変化に対して柔軟に自分自身を変化させ続けていくことがよい実践のモデルになるように思います。

シンガポールは、もともとが海港都市であり世界のHUBになることで国家の持ち味を活かそうと努力しているように感じます。資源がないこの国の資源は人財であるとし教育予算は国防の次にかけて投資しています。実際に現地に降りたってみると、その環境と地の利があることを感じ、アジアの発展と共に如何にアジアでシンガポールの人たちが活躍できるかで国家の未来を決めるというは分かる気がしました。それだけ「グローバル」というものはこの地では大切なキーワードなのです。

シンガポールに新しく開校した「イェール・NUSカレッジ」を訪問して国際会議のシュミレーションを行うサークル活動「模擬国連」のリーダーとして活躍するある学生から話を聴く機会がありました。その際に、彼が私たちに「私たちが日本人に求めているのはアジアのリーダーを排出してほしい」とありました。それだけアジアの発展ということに対して責任を持っているのを実感し、日本という国の人財が若い人たちからも期待されていることを改めて感じました。

本来時代というものは、常にその時分に社會貢献し発展に役に立つ人たちを求めてきました。時代の変化の中で境界線がなくなり益々多様化していくグローバル社會の中で、どんな環境下であっても役に立つ人財をどう育成するかは世界の共通課題になっているということです。

今回の視察では教育の見直しをしていましたがそれと同時にそもそもグローバル人材とは何かについて考え直すよい機会になりました。明日から何回かにわけてこのグローバル人材について整理しますがすでに日本でもある一定の定義は定まっているようでここにはこう書かれています。

「未知の世界、時に非常に厳しい環境に、『面白そうだ』『やってみたい』という気持ちで、積極的に飛び込んでいく前向きな気持ち、姿勢・行動力を持っていること。そして、入社後に一皮、二皮剥けるため、『最後までやり抜く』『タフネスさ』があること。しっかりと自分の頭で考え、課題を解決しようとすること。」(厚生労働省)

世界というのはどこか別の世界の話ではありません。現実の中で生き方や働き方の中に世界はあります。なぜなら世界とは自分自身のことだからです。どんな自分になっていくか、どのように世界に役立てていくか、そのために必要な人財の要素とは何か、そこを紐解くと一つの明確な人物像が観えてきます。

子ども達のためにどのような大人の生き方と働き方を伝えていくか、地球人財の本質を学び直していこうと思います。