発酵途上

昨日からタイを経由してカンボジアのプノンペンに来ています。空港に到着し外に出ればすぐに高湿度の蒸し暑さと、外には東南アジアの人々の暮らしの熱気に包まれます。言葉で表現できませんが、会話の雰囲気やバイクのクラクション、路上で集まり交流する姿、ゴミが散乱しその上を高級車が走りと、混沌とした都市部の風土そのものが舞い降りたようなこの雑多に蒸している東南アジアの雰囲気を味わっています。

昔、20年前中国に留学し仕事をしていた頃に似た急発展途上の国家の様相に似ていて懐かしくもあり、この先この国がどのようになるのかも想像し楽しむことができます。今のここの人たちは未来がどうなるか予想できるのでしょうか、もしもこちら側だったらどう見えるのだろうかとまた空想を広げて観るとワクワクするものです。人は常にその心境によって常に自らの新鮮さを保てるのかもしれません。

まだまだ一部を感じるだけですが、国の姿にはその発達と発展が今、どのくらいのところにいるのかを観察することができます。これはライフサイクルとも言いますが、起業期から導入期、成長期、そして成熟期、衰退期、そしてまた起業期というようにまるで種から花が咲き実をつけて枯れるように生物はそのサイクルを免れません。

その生物のサイクルは国家も同じく、そしてそこに暮らす人たちにもまた同じようにその道理に従い自然の一部として生きているのです。そう考えてみると、私たちは生物ですから人間の一生というものや国家、世界の一生というものは如何に発酵するかということにかかっているように思うのです。

この発酵とは何か、辞書には「微生物が自己の酵素で種々の有機物を分解あるいは変化させ,それぞれ特有の最終産物をつくりだす現象をいう。」とあります。

つまり私たちは微生物と何ら変わりがないのですから、如何に発酵していくかで周りの発酵を促す存在になっているのです。そして発酵途上だと今の状態を定義してみればどのような最終産物を発酵サイクルで作り出すかが洞察できるようにも思います。

微生物ならその中でどのような発酵をしているか、乳酸発酵なのか、アルコール発酵なのか、もしくは腐敗なのか、その発酵をどのように司るかで人間もまた国家も変化を已みません。

発展途上の雰囲気は発酵途上に似ています。

発展も発酵も同じく、その風土の中で生きる生物たちの生き方や初心が決めますからどんな風に人々が常に微生物のように栄養を分解しイノベーションしているのか、改めて風土と一緒に観察してみたいと思います。

そして教育はその栄養分、酵母そのものです。

学びというのはご縁であり、どんな化学反応を起こすかはその人の一瞬一瞬の味わう発酵度合いに由るのかもしれません。今回の不思議なご縁もまた、どんな組み合わせで何が起きるのか、偉大な見守りと御蔭様の中です。意味を繋ぎ意味を綴れることに、改めて人のご縁の有難さと不思議さに感謝が湧きます。

今回の視察でもまた、自分の価値観を揺さぶり刷り込みを取り払い、新たな視点でこれからの教育の在り方そのものから見直してみたいと思います。

 

 

やりたいこと~おかげさまで~

先日、ある人と一緒にやりたいことを考える中で思うことがありました。やりたいことをやるというものの中には、どこか自分勝手な傲慢な我が強く出ているようにも思います。自分が思い通りにしたいという欲求は、次第にやりたいやりたくないを決めてはそのうちやりたくないことはしたくないと我儘になったりします。

本来、やりたいかどうかよりも全ての出来事やご縁、役割はさせていただく中で発生していくものです。その役割が尊いと感謝できるから、はじめて「やりたい」という真心が発露するわけであってさせていただけることに仕合せを感じる心があってこそ真のやりたいに出会うのではないかと思うのです。

例えば、誰かが困っている、仲間が困っている、これをやることが世の中の人たちの救いになる、もしくはこの仕事をやることで周りの夢になり大きな貢献になると思うほどにそれをはじめて心は「やりたい」と思えるように思います。やりたいことから探す前に、させていただける感謝に出会うことで自ずからやりたいことに出会うように私は思うのです。

逆説かもしれませんが、やりたいことから探している人は本当にやりたいことには出会えないように思います。むしろ、なんでも自分にさせていただけるものは選ばずにさせていただきますと謙虚に生きる人は常に自分の思っている以上にやりたいことをさせていただけることに感謝してよりやりたいことをはっきりさせているように思うのです。

やりたいというのは、させていただける感謝を先にそのあとに何がやりたいのかを考えるという順番さえ守れば、自ずから素直になることができ、やりたいことをできている仕合せ、自己実現の充実感も味わえるのでしょう。

させていただける感謝は、積極的に御蔭様でと取り組む真心の実践で現実の仕合せと結ばれていくように思います。不平不満からやりたいとかやりたくないとか文句を言う前に、本来のあるべき自分を取り戻してから本物のやりたいことに出会っていければ人は仕合せです。やりたいことをみんなができる優しい社會、仕合せな社會は、おかげさまでの心ではじめてできると私は思います。

以前、父から紹介してもらった下記の詩を忘れないようにしていきたいと思います。

『おかげさまで』

夏がくると、冬がいいという  冬になると、夏がいいという

太ると痩せたいという、痩せると太りたいという

忙しいと暇になりたいといい 暇になると忙しい方がいいという

自分に都合のいい人は善い人だと褒め

自分に都合が悪くなると、悪い人だと貶す

借りた傘も雨があがれば邪魔になる

金を持てば 古びた女房が邪魔になる 世帯を持てば 親さえも邪魔になる

衣食住は昔に比べりゃ天国だが

上を見て不平不満に明け暮れ 隣を見て愚痴ばかり

どうして自分を見つめないのか 静かに考えてみるがよい

いったい自分とは何なのか 親のおかげ、先生のおかげ、

世間さまのおかげのかたまりが 自分ではないのか

つまらぬ自我妄執を捨てて 得手勝手を慎んだら

世の中はきっと明るくなるだろう

おれが、おれがを捨てて

おかげさまで、おかげさまでと暮らしたい

実践人~背中で語る~

人はその人の生き方の覚悟が人生の密度を決めているように思います。どんな一日であったにせよ、一日は全ての人々にとって平等な一日です。朝陽を拝み、夕陽を拝めば一日が暮れたことを覚えるものです。その一日をどのように過ごしたか、何を感じて何に気づいたかはその人の学び方、つまりは生き方によって影響をされていきます。大事なことは、その心に何を持っているか、どんな志があるかということになってくるように思います。

生き方を学び、人々にその背中を見せた人物に教育者の森信三先生がいます。教育者というものは、実践人のモデルであるということですが単に生きるのではなく、本気で生きたという姿から私たちは学び直すことばかりです。

「一生を真に充実して生きる道は、結局今日という一日を真に充実して生きる外ないでしょう。実際一日が一生の縮図です。 」

一日一生、言葉は知っていてもどのように真に充実したかはその人にしかわかりません。どのような人生を送ろうかと憧れたなら、気づき学ぶ力を発揮して体験を深めて味わい盡すように攻勢をかけ続ける実践が必要です。

そしてそうやって歩んでいると、出会いがあることを発見します。常に「何かある」と感じる感性は、その物語や出来事に対して主体的に意味を紡ぎ出していきます。それはご縁の奇妙さ、ご縁の有難さ、ご縁の御蔭様に気づくからです。

「縁は求めざるには生ぜず。内に求める心なくんば、たとえその人の面前にありとも、ついに縁は生ずるに到らずと知るべし。 」

ご縁とは不思議なもので、何も感じる気がなければ目の前に自分の人生に偉大な影響を与えるかもしれなかった人とも出会う事はありません。ご縁は自分の感性次第、自分の心次第で、いくらでも変化します。

自分自身が、何からも学ぼうと選ばずに来たものを感謝で受け取っているかということは人生全体においてとても大きな影響を与えるように思います。チャンスが来ても気づかない人、チャンスがあっても掴まない人、チャンスかどうかわからなくても自分から掴む人。人は、その人の積極的な姿勢が日々の充実さを決めるのかもしれません。人間は脳で消極的でネガティブなことを考えてしまうものです、危険予測のために体験のイメージを危険を予測するために持とうとします。確かに、それらは自分のいのちを守るために働きますから必要です。しかし、実際の人生ではだからとって消極的でいたらチャンスや気づきにも鈍くなってしまいます。自分の気づきたいものしか気づかない、自分がチャンスと思うことしか掴まないではそのご縁の尊さに気づけなくなるかもしれません。

「人生二度なしという真理ほど、われわれ人間をして人生の深刻さに目覚めさせる真理は、ほかに絶無と申してよいでしょう。 」

人生は一度きり、日々は一期一会、出会いは一日一生、今此処にどれだけ精魂を篭めているかはその人の積極的な学問と学力に懸っています。何のせいにもせずに、唯却下の実践をするということの大切さを感じます。安心する言葉をたくさん残してくださった森信三先生には感謝しかありません。

「キレイごとの好きな人は、とかく実践力に欠けやすい。けだし実践とはキレイごとだけではすまず、どこか野暮ったく、泥くさい処を免れぬものだからです。 」

「人間には進歩か退歩かのいずれかがあって、その中間はない。現状維持と思うのは、実は退歩している証拠だ。 」

先生とは常に実践する存在であることです、いつまでも応援してくださるその愛情深い背中で語る思いやりの言葉を心に抱き、子ども達に背中で感じてもらえるような一人の実践人を志していきたいと思います。

 

独りと仲間の合一

人間は一人ではできないことを仲間と協力してできるようになります。自分一人でできることなどは実際にはほとんどなく、多くの人たちの力をお借りしてはじめて事は為されていきます。人は傲慢や慢心になるとき、焦りが生まれそして役に立つということの本質を忘れてしまいます。感謝の心があるからこそ人は自分が何の役に立っているかを自覚し、御蔭様の心を知るからこそ素直に自分が役に立てていることの倖せを実感できるようにも思います。

人は自分と向き合い自分に打ち克つ孤独な精進を積み重ねていかなければ、結局は矛盾を受け容れられず刷り込みに負けてしまいます。本来の焦りや慢心とは、自己との対話や自己への内省といった本質からブレナイ実践を猛特訓して本来の自己や自信を確立していくしかありません。本当は何かと自ら深めているからこそ、ものの本質を見抜き見通し心が強くなり自分を強くしていくことができるのです。そこには自己への甘えを断つ必要があり、自分を自分で甘やかさないとった自律と自立の精神が必要です。根性もここが必要で根気をもって日々に実践をしていき、不満なら実践を高めて厚くし増やしていけばそのうちその人格が磨かれていくように思います。

しかし今度は仲間との信頼関係は、敢えて甘え合える関係を築けなければなりません。自分からどれだけ胸襟を開き、心をオープンにして、共感し、気遣い、他人ごとにせずに、絆やつながりを切らさないように助け合い、信じて、預けて、任されて、頼まれて、認められ、愛されて、感謝されるような関係を創造し築き続けなければなりません。それは仲間を心から信頼し、心から仲間に信頼されるといった絆を結ぶ心が必要になります。本来の思いやりもここで必要で、思いをもった人たちと一緒だからこそ、仲間の「思い」を大切に思いやり続けて真心で自分のもっとも得意なところや持ち味を最大限活用して貢献していくことに集中することでその人格が周りに認められていきます。

そもそも感謝の心というのは、猛特訓できる仕合せ、仲間がいる仕合せを感じているものです。自分が道に入り、道を歩けるのは果たしてだれの御蔭なのか、そして道を独立自尊して歩み続けつつも、そこに学問を朋にする同志が一緒に歩んでくださることも、それは本当に有難いことであると思います。

何を見失うから当たり前のことが観得なくなるのか、それは足るを知らず、ないものねだりをしては完璧を目指し評価ばかりを気にするから自信がなくなるのです。本来は足るを知り、自分に与えられた天分をどれだけ周囲に役立てているかは自分が自他をどれだけ自ら尊敬しているかに由るのです。

子どもに譲ろうとしている生き方と働き方があるからこそここに一切の妥協があってはならないと思います。譲っていく真心は、己を忘れ周りのために真心を盡すことで子々孫々へとその「思い」が継承されていくように思います。

日々に何を優先しているかはその人の生き方や働き方に出てきます。自分の生き方や働き方を日々に内省してチェックし、改善を続けてもっとも至善な生き方、もっとも自然な働き方にチャレンジしていきたいと思います。

真の強さ~人類の目的~

先日、ある人と話をする中で強くなることについて考える機会がありました。

強さについての定義はそれぞれで異なります。それはヒーロー願望などもそうですが、そのヒーロー像もそれぞれです。例えばドラゴンボールのように、常に自分ばかりを強くして自分をバージョンアップして強化していくヒーロー像もあれば、ワンピースのように仲間たちと一緒に強化していくというヒーロー像もあります。

先日、ドラゴンボールで強い敵と戦うときに、主人公の孫悟空は仲間と一緒に戦うよりも一人で戦いたいからともっと強くなりたいといって一人で出ていきました。そしてライバルのベジータもそれでいいとし、自分も一人でやりたいと言いました。この物語は個人の最強を目指しているのです。それに対してワンピースの強さは全く異なります。ワンピースは自分たちの生き方とその絆や夢を生きるファミリーを守りたいわけで最強を目指しているのではなく、仲間たちとの物語そのものを大切にしているのです。

集団や組織で圧倒的な主人公でいたい場合はドラゴンボールを目指すのでしょうが、それぞれが主人公でいる場合はワンピースではないかとも思います。目指す姿も異なりますから、自分が好きな方を選べばいいのですが目的が異なる場合は別の番組を選択してその人がそれぞれに強さと求めればいいのではないかと思います。

しかしこの強さという言葉は、昔から”我が強い”という言い方もあるくらいですから強いというのは我がとても関係しますから真の強さがある人は弱さも強さも受け容れる人になっているのですからきっと無我の境地ということなのでしょう。人間は何のための強さであるのかを省みるとき、誰かのためにの志が偉大であればあるほどに真の強さに近づいていくように私は思います。

私の思う本当の強さとは仲間との信頼です。

なぜならそれが人間の意義だからです。もちろん自分に克つことは自分自身との向き合いですが、社會で克つためには仲間たちとの協働が必要です。人間は社會をつくる生き物ですし、人類は如何にいのちを次世代へと存続していくかが最大の使命ですから本質的には信頼をカタチにして多様化していくことでそれを実現してきたのでしょう。

最後に私が子ども達の未来を思う時、とても示唆がある言葉があります。この言葉がきっとその人らしさを引き出し、子どもたちが安心して自分らしくいきていく道にたどり着くのではないかと思います。これは若い頃、私の人生の価値観を変えた「7つの習慣」の著者、スティーブン・コヴィーが語ったものです。

「強さは、似た者同士の中ではなく、多様性の中にこそ存在する。」

志に従って理念をカタチにして、子どもたちに勇気を与える存在のままでいたいと思います。人類の成熟した未来にあるものが何か、それを見守り続けていきたいと思います。

試行錯誤~楽しみを湧き出す~

自然農の田んぼではありとあらゆるものを毎年チャレンジしています。作物も毎年同じものを同じ場所でやることもあれば、異なる環境でやってみることもあります。水はけや日当たり、また他の草草や虫たちの繁殖の状況、今年の天候の様子や土のかおりや植え方、育て方など毎回少しずつ試行錯誤しています。そうして試行錯誤した後は、振り返り内省するのです。このやってみては振り返り、観察しては改善できる、この面白さは遊びそのものです。これは別に田んぼや畑だけをやっているのではなく、仕事でも同じように私は試行錯誤と内省をするのでよく周りから”楽しそう”と言われることが多くあります。

しかしその分、試行錯誤をしている最中は他人から誤解されることも多くあります。目標はどこにあるのかや、ポリシーがないのではないかや、ふざけ過ぎではないかなどです。その時は、周りも心配してくれてそのままではダメだと私に修正を求めてきます。もちろんダメなのかもしれないけれど試行錯誤したいのだと説明しては放り投げたりせず必ず実現させるからと伝え時間が解決するのを待っています。

この試行錯誤とは何かということです。

試行錯誤を辞書で調べると(新しい物事をするとき、試みと失敗を繰り返しながら次第に見通しを立てて、解決策や適切な方法を見いだしていくこと。)とあります。しかし私にはもっと本質的な意味が試行錯誤そのものに隠れているように思います。

それは子どもの時の可能性、つまりはアイデアや発明につながっている遊び心や余裕、好奇心を発揮させるものがあるということです。

例えば、仕事でも目標や計画通りに進めようとする人がいます。もちろん、結果と目標があってその通りにいけば自ずから求めたものは手に入ります、つまり正解を求めて正解したのです。しかしそのやり方が果たして面白いかといえば私には面白く感じず敢えて様々なことに挑戦しながら辿りつく方が楽しいと感じるのです。教科書通りに教科書をなぞって出す答えではなく、試行錯誤こそが答えだという信念通りに進む答えです。

実際の人生も同じように、計画通りではないけれどいつも計画以上のことが発生するのは様々なことを試行錯誤しているのを已まないからです。この試行錯誤という考え方は、「この方法もやってみよう、この方法も試してみよう、あの方法ではどうだろう」といつも心が夢中にワクワクドキドキとそのものへの取り組みを心底楽しんでいる状態です。もはや四六時中同じことを考えては、もっとああしてみたらどうか、もっとこうしてみたらどうかと試したいことてんこ盛りです。

実際に先ほどの自然農でも実際は苦労の方が多く、肉体的にも精神的にも過剰なエネルギーを使っています。しかし、それをもし結果のためにただ決められた通りにやるだけならこれは続かないように思います。自然農を楽しめるのは、自然から学び観察をし、それを実践する中で上手くいかないことが多いからこそ面白いのです。

他人からは趣味だから楽しいと言われることがありますがこれは趣味だから楽しいはずはありません。何を取り組むことでさえ、試行錯誤できるから楽しくなっていくのです。つまりは趣味にしてしまうほど試行錯誤をしたのです。特にきつい仕事や大変だと思えるからこそ、自分の好奇心が枯れないように様々なことを試してみてはちょっとずつ変えてみて挑戦しているうちに次第に楽しい心が湧きでてきて趣味になるのです。

試行錯誤というのは、子どもの遊びに似ています。目標ばかりを押し付けられ、計画通りにいくことがもっとも正しいと刷り込まれると「もっとこうしてみよう」という楽しむ発想が消えていくように思います。厳しいプレッシャーの中で、正確無比にやっていこうとし過ぎては楽しくない日々でも無理に納得している人もいます。しかしそれがかえって生産性が落ちてアイデアが失われ、無機質に作業に没頭しているではかえって効率も効果も下がるかもしれません。

同じ遣るのなら、同じやらないといけないことなら、どうせなら思い切って試行錯誤を楽しもうと転換して取り組むことで子どものように遊び心や余裕、試行錯誤を味わえるように思います。

子どもは夢中で遊びこむ中で人生の大切な智慧を自分で会得していきます。人生は常に子どもから学び方を学び直す必要を感じる日々です。そして子どもが憧れる大人とは、子どものそういう試行錯誤を失っていないユニークな大人ではないかと私は思います。

試行錯誤できる有難さを感謝のままに、常に日々新たに楽しみを湧き出す実践をしていきたいと思います。

時間をかける営み~善きこと~

自然の中で様々な作物を育てているとじっくりとゆっくりと物音が動くことの真価に気づくものです。先日も「ちょっとずつ」こそ智慧であると書きましたが、この時間をかけてじっくりと行われることについて物事が成就することの本質を感じます。

インド独立の父と呼ばれるマハトマ・ガンジーに下記の名言があります。

「善きことはカタツムリの速さで進む」

この善きこととは、自然の悠久の流れのことをいうように私には思います。自然の浄化力というものは、とても偉大であり壮大な時間をかけて自然は元に回帰します。それはまるで宇宙の銀河が無に回帰するように、星々の存在が無限であるかのように私たちの想像をはるかに超える営みによって改善され続けます。

地球の悠久の営みの前では、私たち人間が何かの人工物をいくら創ったとしても、そのうちすべて土の中に戻っていき何事もなかったかのようにしていきます。どれだけ人間が眼前の変化に焦ってみても、長い時間をかければ必ず自然に戻るという安心感こそが自然の醍醐味であろうとも思います。

世間にはこのままでは地球は滅ぶと危惧する人もいますが、実際は人類が亡びそうなだけで地球の営みはまた悠久の時間をかけて回帰していきます。「時間をかける」ということは、その心に自然の営みに逆らわない本質のままの実践をするということです。周りから見れば変な実践に見えるようなつまらないことであっても、その決心が自然に照らしたものならばそれは時間をかける営みになります。

今の時代、あまりにもスピード重視、効率重視、結果重視で、不安をあおり焦りを与える競争原理が空気のように社会を包みますが、その心に理念や初心が根付いているのなら本質からブレずにじっくりと実践し歩むことを忘れないでいられるように思います。

ガンジーがいう人類に対してのもう一つの言葉です。

「人生は速度を上げるだけが能ではない。」

魂を生きたガンジーだからこそ、速度というものについて普遍の考えを持っていたのかもしれません。終わりもない始まりもないところにもしも自分を置くとしたら、速度というものは関係がないものであることに気づきます。

「重要なのは行為そのものであって結果ではない。行為が実を結ぶかどうかは、自分ではどうなるものではなく生きているうちにわかるとも限らない。だが、正しいと信じることを行いなさい。結果がどう出るにせよ、何もしなければ何の結果もないのだ。」

これもまた「善きこと」そのものの言葉です。

この重苦しい社会の雰囲気を、一つひとつの実践で取り払っていきたいと思います。

忘れてはいけない視点

人は物事をどれだけ長い目で観るかで物事の視方が変わっていきます。

自然はとても長いときを生きていて、自分だけの人生などを考えている暇がありません。何万年も何千万年も変化を已まずこの地球で生きることを許されているということを味わい楽しんでいるかのようです。

全ての「いのち」には自立というものがあります。

例えば、親子がいて幼い頃は守られますがある時期からは自分でやることを促され自立していきます。猿であろうが犬であろうが、鳥であろうが親が子に対してある時期を境にそれまで分けていた食べ物を一切分けない姿をみかけます。

ここに一つの気づきがあります。

長い目でみたら親は必ず先に死んでいきます。死んだら子どもは自分で生きていかなければなりません。見た目には親が子を突き放し大変厳しいように見えても実際は深い慈愛から行っているものです。その時に生きて往けず死んでしまう子どもがいて可哀想だと思いますが、長い目でみたらそれを乗り越えていかなければ先々にもっと辛いことが起きることを知っているのです。長い目でみるとそれは甘やかしているのかどうかは一目瞭然です。自然の親子は長い目で観て善くないことは絶対に善くないとして厳慈に透徹するのです。真の愛情というものは、狭い視野た短慮では理解できず長い目で深慮するときにこそ実感するものだと私は思います。彼ら自然の親子の愛情は少しも変わらず「いのち一切の愛」を丸ごと与え続けて悔いはありません。

自然というものは偉大な長い時間を長い目で考えて活動しています。

今の時代の私たちはとかく短い時間の短い目で物事を考えてしまいます。全ての中心に自分を置いてしまえば、視野も狭くなり余計に目先の問題だけに終始してしまうのでしょう。今は生き方の実践というものをあまり優先されなくなったのでしょうが、昔の生き方を守っているインディアンや少数民族たち、古老たちが語る言葉には何代も廻ることを優先させる文化があります。

自然は悠久の時をもっています。

その悠久の時に自分を合わせるとき、長い視野の実践が如何に自然の智慧そのものであることを自覚するのでしょう。情報化社会のスピード重視の変化の中で、長い目でなど死語になりつつありますが本来の視点は「いのち」や「生き方」にあることを子どもたちのためにも私たち大人が忘れてはいけない視点であると思います。

刷り込みに負けない胆力、刷り込みに流されない信念、そういうものを長い目を通して培っていきたいと思います。ここまで「いのち」をつないでくださった方々たちのご縁があって今の私が存在できているという真実は決して忘れてはならないと思います。

子ども達のためにも長い目で見守っていきたいと思います。

 

自分を変える~刷り込みを取り払うこと~

人間は動機の目的を常に初心や理念で腹に据え、自ら掃除をするかのように我欲や私心を取り払わずに何かに執らわれてしまうと本質を見失ってしまうものです。そもそも何のためにやっているのかを自分自身が忘れてしまい、自分がこうしたいやああしたいといった執着に囚われてしまえばありのままに視野を広げて素直に物事を観ることができなくなるものです。

以前、小林正観さんの「MUST」くんと、「としこ」さんという話を知ったことがあります。このMUSTくんというのは、「ねばならない」という状況になっている人で、もう一人のとしこさんは「とらわれない・しばられない・こだわらない」の頭文字の略で、「融通無碍」の状況になっていると言います。

このねばならないというものがあればあるほど刷り込みが深くなっているのではないかと私は思うのです。例えば「親子はこうあらねばならない」「会社はこうあらねばならない」「私はこうあらねばならない」「社長はこうあらねばならない」「部下はこうあらねばならない」「世の中はこうあらねばならない」など、これらも全て自分の刷り込みに縛られている元凶でありそれをどう断念し手放すかということが肝心なのです。これらの「ねば」ならない人を総称して冗談でしょうが「ねばねばした人」と呼ぶそうです。

またとしこさん「とらわれない・こだわらない・しばられない」の方は、「それもいいね」「そうなったら嬉しいね」「だったらこうできるね」「転じてみてら面白いかも」というように、視野も広く心も寛く、あっという間に「物の視方」を変えて自分の方を変化することができます。こういう状態を素直というもので、それは単にその人がポリシーがないからそうなっているのではなく、確かな理念や初心を忘れずに揺らぐことがない信念があるから変化を楽しんでいくことができるのです。

私もよく「なんでもいい人」と勘違いされることがありますが、実際は理念や初心、本質には徹底的にこだわります。なぜならそれが全ての動機の理由であり、それがやりたいから自分を変化させていきたいからです。相手を変えようと思えば思うほどに執らわれは深くなりますし面白くなくなってきます。しかし自分の方が変わればいいと、物事の観方を変えてしまえば嬉しい楽しい仕合せと感じることが増えるのです。

しかし人はいくらこれらの理論を頭で理解しても実際にはそれはできないものです。現実は頭で考えたようにはラクにはいかず、常に現実を変えるには「現」場+「実」践という現=実の方を変えなければ信が身につかないものだからです。物事を観方を変えるということであったにせよ、それは実際に自分の方を変える実践を日々に積み重ねて年数を経ていかないとできるようにはなりません。簡単に分かったからと現実が変わるわけではなく、それ相応の実践と体験を経て本質から外れにくくなってくるのです。

だからこそ何よりも「信じること」と「実践すること」が大切なのです。

相手と自分との執着で「こうあらねば、あああらねば」と投げつけ合ってはねばねば粘着して身動き取れない人間関係を続けていても御互いに苦しいだけです。せっかくのご縁なのだからと思い切って一緒に新しいことにチャレンジしようとか、新しい自分に出会えるかもとか、新しい発見があるかもとか心を気楽に笑って取り組むことでねばねばもまた解きほぐされていくように思います。

人間は誰しも剣豪宮本武蔵のように「無の境地へ」とはなかなかいきませんが、しかし本質や理念を少し自分よりも優先し自分の執らわれに気づくようには努力していきたいものです。自分がどうしても行き詰り生きづらいのは我執がこびりついているからでそれを理念の実践によって仲間たちと一緒に一つ一つ取り除いていけばそのうち心もまた楽になっていくように思います。

私たちの仕事は「子ども第一義」、子どもが憧れる生き方を譲ることを優先するのだから今の社会や今までの過去の柵から沁み付いた自分の刷り込みや執らわれを一つ一つ丁寧に向き合い実践により取り除いていきたいと思います。

自分が変わる機会というのは人生では何度でも出会えます。そのつど、感謝の心で変わらせていただける仕合せに出会った御縁を大切にして無二の一期一会を味わっていきたいと思います。

ありがとうございます。

競争原理の刷り込み

人は競争原理の社會の中で、できる人とできない人、勝つ人と負ける人というように二分化しているものです。社會の価値観というものは、まるで空気感のように、当たり前にその意識を存在させているものです。

例えば、魚が水があることをいちいち意識することがないように、鳥が風があることをいちいち意識することがないようにそれは当たり前になっています。競争原理というものも産まれたときから当たり前になっていたら、それを疑うことはありません。

しかしよくよく本質から省みてみると、確かにその価値基準は自分の人生観において多大な影響を与えていることに気づきます。

そもそもできる人にならなければならないという考え方は、できることが良い、できないことは悪いという価値基準に縛られているものです。できる人というのは、学校では100点の人、できない人は赤点と言われるような成績が悪い人です。学校でも二分化してどちらかといえばできる人、どちらかといえばできない人と分かれます。

そうやって一つの集団ができる人できな人に分かれて評価されることでモチベーションを上げようとしますが、それは競争原理が働き真の協力は生み出せません。できる人が人を育てられないとか、できる人はできない人の気持ちが分からないとか、できる人は周りの自信を奪っていくとか、そうなる理由の根本にはこの競争原理の刷り込みが関与するからのようにも思うのです。

できる人は同時にできない人をつくります、これは被害者が同時に加害者をつくるのと同じです。自分というものを中心に、そのどちらかと分けるという考え方そのものが競争原理であるという捉え方です。そうではなく、そのままゼロベースでフラットで物事のモノサシをもっているか、それが刷り込みのない状態での理解です。

もしもこの競争原理の刷り込みが取り払えるのなら、できる人やできない人という分け方ではなく「できないことができる人」という考え方が持てるようになります。それは言い換えれば、「自分にしかできなことができる=自分らしい人ほどできないことができる。」ということになります。

自分らしさというものは、この競争原理の刷り込みのないところで初めて持てるように思います。その人らしい、その持ち味を自分で発揮できているというのはその組織や集団の中から競争原理が消えていくということを意味します。

今の時代、一人で何でもできる人を目指し、なんでも一人で完璧に行うことが最善であるかのように錯覚して孤独に苦しんでいる人ばかりです。これを私のメンターは現代うつだと言います。ようやく苦労してできるようになっても、結局は孤独だったでは何のためにできるようになりたかったのかを忘れてしまっています。

自分らしく生きるということは、競争原理を手放すということです。これは競争か協力かという意味ではなく、そもそも自分は自分のままでいい、自分の得意や持ち味を活かしてできることをやっていけばいいという執着のない自然体の姿になることです。

様々な固執や執着が、自分の立場のことばかりを憂い、周りにレッテル貼りをしては他人の自信を奪っていきます。そうではなく、「自分らしくいる」ことを大事にしていけば周りのもその人らしくいることを認め尊重するつながり和合する関係になっていきます。

競争や協力を超えた、和合、つまりは八百万の神々と日本古来から大切にしてきた真の関係をこの時代に取り戻すことが刷り込みを取り払うことではないかと私には思えます。自らの実践を用いて、その刷り込みを解き明かしていきたいと思います。