面白い人

先日、天神祭でご縁のあった逆手塾の和田芳治さんがお亡くなりになりました。昨年お会いしてからまるで流れ星のようにあっという間に光り輝いていなくなられました。私にとっては、とても大きなご縁になりあの唄声や温かい励ましの眼差しや声が心に響き続けています。

いつかは私も天に帰る時が来ますが、その時までいただいた言葉を大切に胸にしまいその言葉をお守りにして歩み切っていきたいと思います。

今回、弔辞の中で「時が過ぎてみて時がわかり、友が去ってみて友がわかる」という言葉を知りました。いるときはあたりまえだと思っていたものが、いなくなってはじめてその存在の大きさを知る。

本来、私たちはいかに大切なものに囲まれて生きてきたかそれを忘れるものです。あるのものがあたりまえになって、それ以外のものを追い求めようとする。しかし本来は、あるものは得難いものばかりであたりまえではないことに気づけばそこに確かな仕合せや幸福はあります。

ないものねだりではなく、あるものに感謝するから「面白い」と感じるように私は思います。和田芳治さんは、私に面白いことをやること、自分が楽しいことをやることの価値を見せてくださいました。あの頃より、今はその意味が確かに観えています。

人生というものは一度きりなのは誰もがあたりまえに知っています。しかしそのあたりまえに気づいているか、なくなってみてわかるでは遅すぎるのです。二度とないからこそ、如何にその人生を喜びに満たしていくかは生き方次第、自分次第なのです。

悔いのない人生を送ろうとするのは、挑戦を続ける人生を送り続けるのはきっと、私の中にそのあたりまえがあたりまえではないことに気づいている自分というものがあるからかもしれません。

先に逝った同志を偲びつつ、私も今回の人生でやるべきことをやり切ってからまたお会いしたいと思います。ご指導ありがとうございました、ご冥福を心よりお祈りいたします。

熱中

人間は何かに熱中するところまで入り込むと、今までになかった力が発揮されていくものです。この熱中するには熱心があり、心が一つのところに傾け打ち込んでいる状態になっているということです。

心と頭が一体になってしまうと、まさに没頭状態になり心のままにあるがままに物事に盡していきます。その時の境地は、苦しいけれど楽しい、苦労が多く楽ではないけれど遣り甲斐があるというように複雑な心境ですが味わい深い境地であることは事実です。

人間は矛盾を抱えているとき、中庸の状態になっているとも言います。心がやりたいこと、動機や初心に対してどこまで本気で熱中しているか、その日々の熱中が自分を中庸の状態に導いていくように思います。

人間は、現実と正対しそれを直視し問題を解決しようとするとき真剣味が出てきます。真剣味が出てくれば、現実は次第に改善され現実の方が変わっていきます。これを人はよく現実味を帯びてきたという言い方もします。つまりは単なる机上の空論や、空想から本気や真剣に熱中し没頭することで次第に現実に変わっていくということです。

この現実にする力、現実を変える力、それこそが熱中すると中庸になるということに他なりません。

現在も、様々な問題に取り組み今までになかったものを手繰り寄せていっています。まさにその取り組みに熱中し熱心に時間を注いでいくことで真剣味を帯びて現実味に変化していきます。

人間の仕合せは、この熱中し夢中する楽しさの味を味わえることです。この楽しさの味は、仕事を通して得られます。自分の仕事が楽しく、その楽しい仕事が自分の歓びになり、その歓びが周囲や世の中の仕合せになっていくのなら熱中はますます続いていきます。

情熱というものは、炭と同じで燃えているから水が沸騰しているのです。そして一度着いた火を絶やさないように火を熾し続けるのはその火が消えないように次々と行動し実践し手を打っていくことです。火にもリズムがあり、心にも同様に響きがあります。

音楽と同じように、人生の中で長い目で見て一つの音楽を奏でていくのは自分次第です。楽しい音楽を奏でられるよう、楽器に磨きをかけ、調和に心を澄ませ、情熱をもって演奏していきたいと思います。

和のまま

一つ一つの日本の古来の伝統文化を深めながら本物を学んでいくとそこに共通している「和」というものを学びます。頭で見知っている和ではなく、日本の古来から大切にしている確かな「和」というものを学び直すことができます。

この「和」は、自然と一体になった人間の智慧の結晶の姿であり私たちの先祖は自然のままに暮らしてきた歴史を道具からも感じることができます。

最近では、和風といって和ではない和っぽく見えるものが当たり前に流通していますが和と和風は完全に異なるものです。

和風は見た目だけ和っぽく見せることができるのなら、それは和風ということになります。和ではない和風に、日本人がなってしまうことはとても残念なことです。特にインバウンド熱が高まり海外から大勢の方が日本の文化に学びに観光に来る中で、どこもかしこも和風のものばかりを見せて本物だと信じ込ませてもそこに価値を感じてくれるのだろうかと疑問に思います。

何が和で何が和ではないかがわからない人が和風という言葉で都合よく取り繕ってもメッキは必ず剥がれていきます。何を変えて何を変えてはならないか、まさに温故知新を実践する人だけがその本質が理解できているからです。

明治以前の先祖たちは、和風にしたりすることはありませんでした。すべて和のままでした。和のままだから、その時の道具や建造物もまた和のままです。さらには生き方も、働き方も、そして衣食住すべてが和のままでした。だからといって時代に流されて和風にしたりすることはありませんでした。あくまで和にしたのです。

その証拠に明治のころの建造物や様々な道具は、和のままで存在しています。現在のように洋でもなく和でもない、洋風、和風のようにそれっぽく見せる大量生産消費型の手間暇がかからない便利なものはありませんでした。

和がわかるというのは、日本人として生きるための何よりの前提です。そのために、幼少期から和の家に住み、和の文化に触れ、和の生き方を学び、和の精神を身に着ける。和というのは何かというのを、空間や場所、先人たちに触れてその感覚を伝承していくことです。

何でも早く便利に海外の技術を持ち込んでくれば進歩になるわけではありません。本来の和で調理し、和の文化に昇華していかなければ本物の進歩ではない。和のままであることにこだわることは、この時代を生きる世代の責任だと私は思います。

引き続き子どもたちの未来のためにも、取捨選択し、和風ではなく和の生き方を貫いていきたいと思います。

新しい日本民家

伝統的な日本家屋というものは、高温多湿の夏が過ごしやすいようにできています。高温多湿というのは、身体への影響が大変多く熱射病をはじめ喘息、リウマチ、むくみ、下痢、食欲不振、倦怠感などから様々なカビ類などの雑菌の病気、ダニの繁殖による皮膚病、また水虫など問題が発生してきます。漢方でいうところの水毒という問題が発生します。

それに食べ物が腐りやすく食中毒の原因にもなったり、さらには木材が腐り白蟻が来たりと水による問題をどう乗り越えるかは日本の風土の課題でした。そのため日本の家屋は夏仕様になって建てているとも言えます。

徒然草の中で吉田兼好も「家の作りやうは、夏を旨(むね)とすべし。冬は、いかなる所にも住まる。暑き比(ころ)わろき住居は、堪え難き事なり」と言っています。つまりは、夏仕様ではない住居は決して耐えることができないほどに不快であるといっています。

現代では、夏は涼しく冬は暖かい家屋を建てようとします。日本の風土が夏が蒸し暑く、冬も寒いですからもし両方快適にするのなら自然を無視して建てるしか方法はありません。

自然を無視して建てるというのは、自然をシャットアウトした建物にするということです。高気密高断熱の住宅にするということです。これは夏は涼しく、冬は暖かいことをウリにしていることでもわかります。私は東京で住んでいる家はマンションですが、完全にこの高気密高断熱です。ですから、空調や床暖房がないとまったく生活することができません。なぜなら気密性が高すぎて夏の暑さは殺人的であり、冬の寒さは凍てつく大地のようです。魔法瓶のように熱しているものが冷めにくく、冷めたものが温まりにくいというものがこの高気密高断熱です。

そのためには常に電力や機械を用いて、熱をコントロールし夏は除湿器を、冬は加湿器を使わないといけません。その時は一時的に快適に感じても、体は自分で体温調節したり調湿したりすることをしなくなっていきますからそのうち次第に弱い体になっていきます。健康というものを優先するとき何をもっとも大切にするか、それは家の建て方次第で多大な影響を与えるのです。

本来、自然と調和する生きものである私たち人間もまた風土の気候にDNAも合致して健康は維持されていくものです。何百年も砂漠で暮らしてきた人が、いきなり日本に来ると大変ですしまたその逆もしかりです。

つまり生き物はその自然に適ったものが健康にも適っているということですから、如何に日本の風土に適しつつ、どこまで便利なものを導入するかというバランスが住まいをデザインするときに求められるのです。

私は偶然にも運がよく、田舎の日本の伝統家屋での暮らし、都会の近代住宅の暮らし、そしてその両方を併せ持つエコログハウスでの3つ巴の暮らしを今でもしています。そのことからそれぞれのメリットデメリットを知りつつ、暮らしに最適なバランスがどこにあるのかというその中心を掴むことができています。

これはメリットもデメリットも活かすという発想で、伝統職人さんが道具を使い分けるように今の時代の日本民家を甦生するのです。これからやってみたいことは色々とありますが、今は一つ一つのご縁を感じながら丹誠と真心を籠めて「家が喜ぶか」を基本に据えて学び直しを続けていきたいと思います。

自他一喜福

昨日は43歳の誕生日を無事に迎えることができました。生まれてから15695日経ったことになります。平均の人生が80歳であると仮定すれば、人生は約30000日ということになります。実際には、それぞれに寿命がありますから何歳で死ぬのかは誰も正確にはわからないものです。

もしこの30000日だとするのなら、私は半分残っていないくらいです。もちろんまだこれだけ残っていると楽観的に生きてはいますが悔いのない人生を送りたいと誕生日のたびに自分のこの一年の生き方を見直しています。

有難いことに充実した日々を過ごせ、素晴らしい方々のご縁に恵まれ、自分自身を大切にしながら夢に向かって挑戦を続けることができてとても仕合せです。みんな私に「悔いのないように頑張ってね」と励ましてくれる言葉をたくさん頂けます。

今まで悔いたことが今の挑戦にもなり、失敗したことがすべての成功になり、耐え忍んできたことで情熱が強くなり、辛酸をなめ苦労してきたことで智慧を蓄えてきました。

人生というのは、偉大な問題を解決したいと強く願うことでそれ相応の出来事が舞い込んできます。そしてきっと善くなると信じ切ることで様々な奇跡やご縁を呼び込んでいきます。さらに理想は高くても足るを知りすべての存在に感謝していくことで運を引き寄せていきます。

あと7年で今の会社の代表を引退することを決心し公表していますから残り私が社長をさせていただくのは2555日です。この期間に、どれだけ理念を文化に昇華し、長期的に成長し続ける体制を設け、人財が働きやすく多様性を保ち、変化し続けることをお面白がるようにし、生き方と働き方と経済と道徳の一致ができるのか、果たして可能なのかと思うと戦々恐々として薄氷の上の歩くがごとしの心境でもあります。

しかし、人生はいつか誰にも終わりがきます。

後悔していい、しかしこの悔いが残らないように生ききる事が人生の真の喜びであり、世界人類の平和や幸福へのお役立ちだと私は信じています。

ここにきて自他一体が成長し、自他一喜福に転換です。

変化を求めて、変化を愉しみ、成長の仕合せをかみしめながら神人合一に随神の道を邁進していきたいと思います。

心の友だち

昨日、古くからの友人が東京から聴福庵に来てくれて語り合う楽しい時間を過ごすことができました。不思議ですが20年くらい前からご縁がありますが、本当に時折しか合わないのにいつも通りに安心して喜楽に語り合える関係が続いています。

お互いに信じるものや、大切にしているものを知っているからか、もしくは心のどこかで相手を尊敬しているからか、生き方が共感し共鳴するものがあるからかは考えてもわかりませんが、「ご縁」があるのは間違いありません。

こうやってご縁がある人たちと結ばれていくことは本当に仕合せなことで、人生の節目節目に、出会いまた、離れ、しかしまた再会しとその時々のタイミングで人生を共にできることはなによりも幸福です。ご縁の存在に私はいつも救われ、ご縁によって人生が彩られ天の恩恵に感謝するばかりです。

今日が私の誕生日ということもあり、昨日はお祝いとお土産をいただきました。一つは、煎り酒といってはじめて味わった調味料ですがとても美味で感動しました。特に、うなぎの白焼を炭火で焼きあげて少したらして食べるとまさに風味がさらに引き立ち味わいが最高でした。

この煎り酒とは、日本酒に梅干等を入れて煮詰めたものをいいます。もともとは室町時代末期に考案されたといわれ江戸時代中期まで垂味噌と伴に広く用いられていたといいます。実際には醤油ほど保存が利かず味も強くないために江戸時代中期以降醤油が普及する過程で利用が減っていったといいます。しかし醤油に比べ素材の風味を生かす利点があるともいわて最近ではじわじわと人気が出てきているそうです。他にも藻塩や、加水されている飲みやすい焼酎、健康的で好印象を与える名前のお菓子などもいただきました。

かねてから日本の伝統の調味料においては、出汁をはじめいろいろと試していましたが私の興味や関心がさらに湧くものを見知っていて用意してくれているところにお互いのおもてなし合うあたたかな関係がずっと結ばれていることを実感しました。切磋琢磨とは奥深いものだと改めて学び直すことができました。

また誕生日のプレゼントに、お二人からは京都の「阿以波」のすかし団扇をいただきました。この阿以波は元禄2年(1689年)創業の団扇の老舗です。この京団扇は、とてもシンプルで、そぎ落とすところはすべてそぎ落とされた美しさがあります。また使い勝手もいいだけでなく、飾りとしても見栄えがあります。伝統職人が、独特の透かし模様を紙に切り抜き張り合わせていますがその丁寧で優美な印象がより全体の雰囲気を高めています。また香りも、アロマやお香を組み合わせて風と共にふわりとした味わいを周囲に与えます。

論語に、「「学びて時に之を習ふ。亦説(よろこ)ばしからずや。 朋有り、遠方より来たる。亦楽しからずや。 人知らずして慍(うら)みず、亦君子ならずや。」

まさに昨日はそのような心境を味わうことができました。心の友だちは人生を豊かにしていきます。これからどのような再会があるのか、楽しみです。

心の太陽

人間は振り返ることで、自分というものに出会います。自分のことを知るもっとも有効な手段は、この振り返りをするという習慣を持つことです。1日にたとえ5分でも、10分でも振り返る人は、自分を見失うことはありません。

私はこの日々のブログは振り返ったことを深めたものを綴っています。振り返りの時間は、もっともゆっくり振り返れる深夜に行います。そのほかにも、朝起きてからの日記や夜寝る前、他にも日中でも少し時間があれば振り返ります。

いつから振り返りオタクのようになったのか、それはメンターの影響が大きいと思います。

私のメンターは、「省みる」ということを何よりも重要にする生き方をなさっています。論語の三省を人生の自戒のようにされておられます。この三省は、一日に三回省みるという意味ではなく、漢字の三は、無限に広がっていく三ですから何度も何度も振り返るということです。

孔子は、論語で自分のことを三省で語ります。

「吾日に吾が身を三省す。人の為に謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝えしか」

毎日、孔子は自分の初心を失っていなかったか、自分を見失っていなかったかと、動機はどうだったかと、3つの軸によって自分自身を振り返っていたのです。

例えば、ご縁を大切に生きていきたいと願ったなら、自分はご縁に対して誠実だったか、活かしきったかと、ご縁あるたびに自分の動機や初心を確認していかなければなりません。そのうえで、安易なことをやっていたらすぐに反省し、ただちに修正できるものはし、できないものは次に活かし改善する必要があります。

こうやって習慣を持つことで、次第に自分を見失うことなく心のままに生きていくことができるようになるのです。

人生は自分自身との対話です。

自分がどう生きたか、納得のいく人生だったか、それは自分にしかわかりません。自分の心を無視して誰かのせいや環境のせい、言い訳をしてそのまま終わるのも一つの人生、それをすべて自分を磨く機会であり砥石だと福に転じて自分を味わい盡していくのもまた人生。

選択するのは常に自分自身の心です。

決心するというのは、その心を最期まで維持し続けるということです。そうい意味でこの維持こそが習慣であり、継続が力そのものである由縁なのです。

心は常に存在し、消えることはありません。脳の作用や感情によって霧がかかり曇ってしまっているだけです。どんなに曇ってもどんなに嵐がきても、太陽がまた出てくるように心も同様に風がやみ穏やかになれば澄んだ空気と共に太陽は現れます。だからこそ、私たち人間は心にいつも太陽を持ち続ける必要があると私は思います。

この振り返りの習慣は、心の太陽を確認する習慣です。

自分を見失わず、子どもたちが自分の人生を生ききることができるように私自身の背中を通して子どもたちに伝承していきたいと思います。

居場所

先日、居心地について改めて考える機会がありました。この居心地という言葉は、居と心地からできた日本語です。居は落ち着く場所のこと、そして心地は仏教語であり、心を大地から支えるものとあります。心が落ち着き心の支えになっている居処ということになります。

この居場所というものは、改めて考えてみるととても大切なものであることがわかります。人間は何をして誰といてどこにいてどうしていることがもっとも気楽にいられるか、この居場所とは自分の心が安らぐこと、常に落ち着いている空間や関係ができていることをいいます。

つまりは日本文化でいうところの場と間と和が存在し、心がそのものと一体になって自然に解けこんでいるようなものをいうように思います。

そして居心地が悪いとは何か、それは自分が無理をして自分本来の心が落ち着かないこと。この無理をするというのは、素の自分の価値を否定し自分を偽っている状態になっているということです。言い換えれば、素を出せないということです。この時の素とは何か、それは素心のことで素直でいられない状態になっているということです。

素直になれないのはなぜか、それは自分の感情に囚われたり、相手を勝手に思い込んだり、自分が他人にどう見られているかばかりを気にして本音を誤魔化していたりという状態のことを言います。

本人にとっても居心地が悪いと思いますが、周囲の人たちもそのような人たちがいることで居心地が悪くなるものです。居心地の善さというのは、みんなで協力して居心地を善くしていく必要があります。

それはどのようにしていけばいいか、それは本音の対話を通じて行われていきます。本音の対話とは、心音の対話です。心がどのように感じたかを素直に言える関係、お互いに素心のままで尊いと思いやれる関係、そういう絆を結び合っている居場所は居心地が善いと感じるものです。

人間は色々な価値観の人がいます、生まれながらに異なれば育った環境でも異なります。そういう人たちを同一の価値観で同一の環境下で管理することは不可能です。特に現代は多様性が尊重され、人口減少の中でより協力して助け合って生きていく時代に入っていますから余計に居心地を気にすることが増えています。

だからこそ居心地がよくなるための努力を、みんなで一緒に取り組んでいく必要があります。一人ひとりが、お互いを認め合い、尊重し合う関係を築き、役割や力が発揮できるような場や空間を環境に創りこんでいくこと。

これからのリーダーは、この「居場所」の価値に気づけなければ人々の調和や協働を引き出していくことはできません。今の職場や日本の環境を見つめ直し、何の刷り込みを取り払い、何をどこから改善するのか、そのプロセスを経て本物の居場所を創造うのが私たちの会社の本業の一つです。

子どもたちが安心して自分らしく生きて、自己を発揮していけるように見守る環境を弘げていきたいと思います。

 

家の徳

先日、福岡でたくさんのお弟子さんがいらっしゃるお茶の先生の実家の築250年くらいの古民家甦生の相談にのるご縁がありました。昨年の水害で1階部分が大幅に破壊され、この2年間の湿気やカビなどでとても住める状態ではなく解体して新しく建て直すか、それとも修繕をするかを悩んでおられました。

地域の方々からこの家は地域のシンボル的な存在の家でありこの家だけはなんとか壊さないでほしいと頼まれるそうですが、実際には費用も具体的な方法もまったく検討がつかず立ち竦んでしまっている状態でした。しかしご先祖様やご両親、地域のことを考えたうえで遺そうと決心されました。

以前、この地域では130年くらい前に大火がありほとんどの家は消失してしまったといいます。しかし唯一この古民家だけが、燃えずに残ったそうです。その理由は、地域の人々がここだけはとみんなで集まり守ったからだといいます。

当然その時代は、現代のようにホースで放水などではなく近隣の家をみんなで道具を使って急ぎ解体してそれ以上、隣の家に火がまわらないようにする防火方法で消火していました。つまりこの古民家を守るためには近隣の数軒の家を壊して守る必要があったのです。そこまでしてでも大勢の方々が、協力してここだけはと守ってくださったからこそこの地域で唯一、250年建ったままでいるのです。

しかしなぜこの古民家をそこまでして守ったのかとその理由を地域の方々にお聞きすると、この古民家の家は代々お米問屋で貧しい人たちや生活できなかった人たちに進んでお米を恵み助けていたからそうです。さらには、むかしこの地域で大規模な一揆が発生した時にも農民たちはこの家だけは傷つけず守ったといわれています。それで日ごろから恩を感じていた方々がいつも四方から集まりみんなで守ったのだろうと仰っていました。

きっと代々のご先祖様たちが人々の間で徳を積んできた歴史があり、その徳に報いようとして人々がその時代の災害から愛をもって家を守ってきたのでしょう。そして現代になり、大規模な水害で壊滅状態になったまた古民家を再び守ろうとする動きをこれからはじめることになります。

費用があるわけでもなく、具体的な公的補助金が入ることは一切ありません。

しかし私はこの「家の徳」を信じ、未来の子どもたちにこの道徳の伝説を子孫へ伝承するためにもこの古民家の甦生を丸ごと引き受ける覚悟を決めました。

道徳というものは、一体どこからはじまるのか。それは人々の愛の中からはじまります。美しい話を語り続け、地域に永く愛され続けるこの古民家は日本人の子どもたちを永遠に見守り育むはずです。

道徳は一般の教科書には書かれていなくても、人間はその場に来てみれば必ずそこに何かを感じます。私たちの精神文化の中に息づく、道徳心というものは場の力によって甦り、そして和の空間の中で活かされ続けます。そしてそれが愛であり、愛は循環することで人々の心の中を廻るのです。私たちに空気が必要なように、私たちには愛が必要ですからこれは決して失われないものの一つなのです。

そして伝統的な日本の民家はまさに、民族でいうところの精神的な長老であり指導者、そして親であり先生なのです。ただの家を残すのではなく、民家を遺す、そして道徳を遺すということ。

生き方は、まさに代を重ね徳を積むことで高まり、より一層、美しく光り輝きます。

まずは家族が災害前よりもかえって福になって快適に暮らせるように智慧を絞ります。この場で育った子どもたちが、将来どのように日本を変えていくのかとても楽しみです。

おもろいか

昨日、私が尊敬する芸事の先生と一緒に雛祭りの見学に同行するご縁がありました。この先生は、茶道、華道、書道、陶芸に絵付け、料理に詩に絵画、他にも数えきれないほどの芸事に達している方です。どの作品も一流の業界紙に特集されるほどで、自らを数寄ものと名乗っておられます。

なぜ数寄ものかとお聴きすると、ものが好きだからと仰っておられました。つまりもの数寄だからと。その証拠に、この先生にかかればどんなものも輝いて持ち味を発揮します。ものの持ち味を引き出す室礼はまさに圧巻で、先生の作品からは壮大な物語を感じます。

この壮大な物語の源泉は、先生の歴史や由縁に精通していることもあります。日本の故事や由縁、そして伝説などもよく見知っておられ、それを物語として結び表現されるのです。

まるで物がすべてを語るように、この先生にかかれば物がひとりでに語り始めます。それを観てわかる人はすぐにそのものが何を語っているのかを直観するのです。昨日の雛祭りに同行しても、「これはもっとこう配置したほうがいい」とアドバイスを受けているとものの楽しみ方を学びました。この世のものをどのように見立てるか、まさに雛祭りは小さな世界の見立て遊びでもあり、まさに家の中に一つの自然や宇宙を表現する舞台のようです。

そう考えてみると、私たちにとっての舞台とは人生そのものです。

それをどのように面白く演出するか、そしてどのように楽しく結んでいくかはその人の生き方、そしてかかわり方、布置の見方などに因るように思います。四季のめぐりのなかで、どのようなテーマを持ち、何を組み合わせ、面白がるのはまさにこの世を美しくして暮らす日本の精神文化のように思います。

先生にお会いすると実力の差を実感しますが、それにも増して観ている世界に好奇心が湧き、これからの新たな場数や新境地にわくわくするばかりです。大阪生まれ大阪育ちの先生なので「そっちの方がおもろいやん」と、なんでも「おもろいか」と判断する生き様に生き方の方にも大きく憧れました。

子どもの心は、自分が守り育てていけば必ず唯一無二の自立になる。年齢は関係なく、若くても好奇心が枯れている人もいれば老いてもますます好奇心が瑞々しく偉大な人もいる。

一生の一度の人生だから、自分軸を大切におもしろく生きてみたいと思います。次回は具体的な「ものがたり」を学べることを楽しみにしつつ子どもたちに日本人の智慧を伝承していきたいと思います。