時を待つ実践

人生には良い時もあれば悪い時もあります。この良し悪しは自分で決めていますから、それは心の持ち方や転じ方で工夫していきますがどうにもならない時というものもあります。

そもそも「時」というのは、人それぞれに速度も質も中身も異なりますから同じ時を一緒に過ごしてもその感じ方は十人十色です。生き死にを体験したような人は時の質量も異なりますし、マイペースでゆったりな人の時もまた異なります。人間にはそれぞれ与えられた時間と、また自分が求めている時間がありますから時は人によって平等だとも言えます。

その時というものに対する姿勢において「時を待つ」という心境があります。これはどんな人にも言えることで自分が蒔いた種が育ってくるのですからそれが育つのを静かに待つということです。

今起きている、良し悪しは以前自分が蒔いた種が芽がでて実になったともいえます。人生にも四季がありますから春蒔きと秋蒔きの種を蒔けば旬を逃さなければそれが実になります。実を収穫したいと思うのならば、その種を蒔き続けなければなりません。

人生には因果応報といって、必ずその原因と結果が結び付いているという道理があります。人生には必ず理由が存在し、いくら理不尽だと思ってもその原因は時間が経てば次第に解明していくからです。

その「時」との付き合い方や接し方が生き方であり、どのように時と上手く付き合っていくかが自分との向き合い方にもつながっているように思います。

松下幸之助氏はこうもいいます。「悪い時が過ぎれば、よい時は必ず来る。おしなべて、事を成す人は必ず時の来るのを待つ。あせらずあわてず、静かに時の来るのを待つ。」

また私がよく振り返りに用いる本田静六氏に「決して散る花を追うべからず、出づる月をただ心静かに待つべし。」があります。

心静かに待つためには、習慣というものを身に着ける必要があります。それを実践ともいいますが、良し悪しの時でも平常心で実践し続けて心を静かにしておくということです。

心がざわつくたびに実践をやったらやらなかったりするのは心を亡くしているからです。どんな状況下であっても心さえ手放さなければ心はいつも付き従ってくれて心を穏やかにしてくれます。この「静か」というのは、時を待つ心境のことを言うのでしょう。

「時を実践しながら静かに待つ」ためには、習慣というものを身に着けなければなりません。習慣とは努力のことであり、継続こそが忍耐力や平常心を育みます。子どもたちにその努力の意味や幼いころからの習慣が人生を好運に近づけることを背中を通して伝承していきたいと思います。

自信への道~心の転じ方を与える~

ありのままの自分を認めるということは、現実を受け容れることにおいてとても重要であるように思います。自分の認める場所を限定し、ここは認めここは認めないと自分のことを歪めていたら本当の自分のことが分からなくなるように思います。

人間は誰しも本当の自分のことを自分自身で知ることで、現実を受け容れ、現実に生きることができるように思います。現実から乖離すればするほどに様々な問題が出てきてしまいます。例えば自分のことを誰も言ってもらえなくなったり、思い込みばかりが強くなったり、周囲の人と上手にコミュニケーションが取れなくなったりもします。

つまりはこのままではダメだとか、これでは認められないとか、こんなはずではないとか、理想の自分と比べて今の自分を自己嫌悪し全否定してしまうとその自分をそこから見つめることができなくなります。そうなるとさらに自信を失い他に依存してしまいます。他人に認められないことを気に病み自分のことをさらに嫌いになって現実逃避に走ってしまうように思います。過去のどこかの時点で自分を嫌いになって自己否定したことは今でもそれが色濃く残っています。それが何らかの場面で出てきては心の恐れになりますから過去をずっと今でも引きずってしまいます。

私もかつてこうありたいと思うばかりに自分の理想以外の自分はすべて否定する時期もありました。しかしそうやって自分を否定すると他人に評価される自分にばかり目がいってしまい「本当の自分の価値」も次第に観えなくなりました。本当の自分の価値を自分が知ることが本物の自信になりますから現実の自分をみてこれも自分の一部と認め、さらに過去に自分のしてきた自己嫌悪をゆるしてあげることもまた自信への道になります。

今の日本の社会環境は、歪んだ個人主義が蔓延し、比較や競争、個性を画一化することにより誰かの評価結果に対しての自信であったり、能力の優劣に対しての自信であったりが自信だと刷り込まれ、本当の自信を失う人が増えて圧迫感のある社会を生んでいるように思います。そのままでもいい、あるがままでもいい、その丸ごと認めている自分自身をさらけ出すことで周りが安心する社会をみんなで築いていけば無理をして頑張り過ぎて苦しむ人も減っていくようにも思います。人権尊重や個性尊重など当たり前のことがなくなってくると、ますます自己否定する人が増えていく気もします。

私たちの子ども第一義の理念の実践は、子ども心を守るための実践でもあります。私たちの会社がこういうことを向き合い続けるのは、子どもの心に寄り添い希望に生きる力を育めるように心の転じ方を与えていきたいと思うからです。

自信を持つ社会は自由であり、みんなが豊かにそれぞれの持ち味を活かし合える世界です。社会全体の閉塞感はそれぞれの自信のなさがつくっていきますから一人で抱え込んだりしなくてもいいように安心した社会を築いていくためにも本当の自分を見つめるものの見方や心の持ち方や転じ方を、一円対話や聴福人を通して伝道していきたいと思います。

 

真の協力~働く歓び~

昨日、初心を振り返る会議の中でパートナーの一人から「いい会社に入れてよかったねではなく、いい会社になってよかったねと言う人が何人いるかが大事」という話をお聴きする機会がありました。これは単なる受け身か主体かのことだけを示す言葉ではなく、自分が一緒に創り上げ真に協力しているかどうかの確認でもあります。

これを国家に置き換えてみても、「いい国に生まれてよかったねといい国になってよかったね」では意味が異なります。本来、いい国というのはどうやって出来上がるかといえばいい国にしようと思った人がどれだけの数いたかということになるのです。

自分たちが主になって活動するのなら、そこには自然に誇りや自信が生まれてきます。そして豊かで楽しく理想の実現に向かって協力し合っていくことができます。誰かが主で自分はそこに付属していればいいというものではなく、まさに自分が主になって一緒に取り組んでいくことではじめて真の協力は行われるのです。

この協力という言葉は、単に付属して手伝っていることが協力とは呼びません。まさに一心同体に一緒一体に、同じ目的に向かって同じ意識で相談したり連携したり助け合うときに真の協力は生まれます。

真の協力関係とは自分の立場とか、自分の成果や目標を手伝ってもらうことを言うのではなく本来の目的に向かって一緒に取り組んでいく中で成果や目標を分かち合ったりお互いを必要としあったり信頼し合ったりする豊かさを味わうものです。

目標管理ばかりをやってきた人や自意識や自我、保身が強すぎる人は、協力の意味をはき違えてしまいます。それは自分にとっての協力であって、真の協力ではないのです。先ほどのいい会社やいい国になってよかったねと「分かち合う境地」こそ、真の協力の後に出てくる言葉だとも私は思います。

そういう仲間こそ利害関係がある間柄ではなく、人生を分かち合う真の仲間になります。

そのためには素直な心でもっと自分をさらけ出し、一緒に取り組むこと自体を楽しむように人との信頼関係を築いていく必要があります。目的に向かう全てを分かち合うこと味わう仕合せこそ、働く歓びです。

働く歓びを感じて子どもたちが未来に希望が持てるように、ドライな関係やギスギスした関係を捨て去って表面上のつながりや形上の協力風な取り組みを取り払い、真の協力を創造していきたいと思います。

恩送り

人は何かしらの恩を受けて生きています。生きていけば必ず何かの恩恵を受けて生きています。誰にも助けてもらったことがないことなどこの世には存在しません。つまり生きていくというのは誰かから、また何かしらの恩を受けて生きているということです。

かつて返せないほどの偉大な恩を受けた人に、恩を返せない場合は自分と同じような人を見つけてはその恩を返すという具合に恩は送られ続けていくものです。もしも与えた恩を自分に見返り求めて返してほしいなどと思うのなら恩を仇で返されたなどと感じるのが人間です。

大隈重信の遺した言葉に「施して報を願わず、受けて恩を忘れず。」があります。これは人に施しや親切を行っても、そのお返しを願ってはいけない。また、施しや親切を受けても、その恩を忘れてはいけないという意味ですが人間は我がありますからその逆を思っていたりするものです。こんな態度になれば徳を積むこともできません。

いつも誰かに助けてもらっているはずであるのに自分からは誰も助けようとしなかったり、自分がしてあげた分に報いようとしない相手に矢印を向けたりと恩を私物化してしまうのです。まさにこれこそが仇そのものであり、恩を仇に置き換えてしまっているのです。恩を仇にし仇を無理やり恩着せるでは恩の意味が違ってしまいます。

この仇というのは、辞書によればあだ、かたき、特に憎い相手。相手の仕打ちに対する深い憎しみ。あだする。憎む。恨む。また仲間、相手などという意味があります。今まで仲間であったものが裏切ったりすることで仇になります。つまりは恩を忘れると翻って仇になるというものです。

いつも自分から恩を感じることは、いつまでも助けてもらったことを忘れないことです。それを忘れては逆恨みをするというのは助けてもらった相手を憎むなどというおかしなことをしていることになります。

恩とか仇とかに悩むときは、ただ只管に徳を積むことを意識するといいのかもしれません。お互いに見返りを求めずにただ徳を積んで御蔭様や助けてもらっている存在に感謝して行動をし続ける。そういうことで恩は本物の恩として周囲に送られていくようにも思います。

恩が仇になっていくのは、してやったとかされてやったとか自分のやったことを正当化し過ぎるからです。させていただいたと謙虚にその機会にこそ恩を感じて自他を意識しない方がいいのかもしれません。

人間関係は対等であることや平等であること公平であることなど常に自分が意識して帳尻を合わせたがるものですから恩を仇で返すようなことは日常茶飯事で発生するのかもしれません。

恩送りのままにいられるように徳を積み、徳を磨いて精進していきたいと思います。

最高の宝、天性の持ち味~自分を見つめてみよう~

人は本当の自分になることで真実が観えて現実が変わります。その価値観の殻を毀すのは自分自身ですがそれは自分を自分で創り上げていくという人生の使命です。その自分を自分で知るには、自分の体験や経験を通して学んでいくしかありません。その学んだことを通して自分が何を感じて何が変わったか、その変わっていく過程を知ることが人生の本の一ページをめくることのように思います。

私の恩師がよくリジリエンシーの話をします。これは立ち直る力とも言われ、素直に起き上がるために何が必要かという力のことです。私の解釈ですがそこには三つ大切な要素があるといいます。

一つ目は、無条件で愛し愛されること。二つ目は、楽観的であること、ポジティブであること。言い換えれば禍を福に転じたり、ピンチをチャンスにしたり、短所を長所に転換できるということ。三つめは、自分が好きなことです。この自分が好きなことは自己肯定感とも言われ、自分の弱さも含め丸ごとそれが自分であると受け容れて自分自身を信じてあげることだと私は思います。

自分と向き合うためには、自分を見つめられるようにならなければなりません。その時に、自己嫌悪して自己否定ばかりしてきた自分を見つめたくない思いから人はなかなか自分と向き合うことができません。自分と向き合うには、自分のいいところを探したり、自分の信じているところや、自分自身のことをもっと深く掘り下げて本当の自分の良さを自分で見つけることが大事になります。

自分と向き合い、自分を見つめてみれば外側の世界が問題なのではなく自分自身の問題で外側の世界や現実が歪められていることに気づきます。感情もまた向き合いたくない、見つめたくないから自分を防御するために出てくるのです。感情に呑まれるのも向き合いたくないから、見つめたくないからでもあります。

その現実を受け止めてそれでも自分が変わりたいと素直に思えるのなら、その素直に変わりたいと思う自分を信じて認めてあげることで諦めない自分を好きになれると思います。本心や自分の声を大事にするというのは、現実よりも自分の声を信じてあげることで大切にできるからです。

幼いころから閉塞的で画一的な社会の抑圧の中で自分ではいられない、自分を無理やり周りに合わせたり、自分を否定されたりすれば自分が歪みます。その歪みから自然体でいられなくなり、自分がわからなくなり苦しんでいることもあります。しかしそれも必ず殻を毀し抜けていくことができるのです。

そのためには自分の良いところや周りの良いところ、長所や持ち味を活かして自分自身も周りのことを信じてあげるところからはじめることです。みんないいのはみんなが違うときで、人と違うことはすべてその人にしかない天性の持ち味だからです。

もう一度、自分を見つめてみてください。

きっと天が与えてくれた最高の宝が、天性の持ち味が発見でき世界に一人しかない自分の個性を発掘できる仕合せに出会えると思います。子どもたちの心を信じきれるような大人になっていきたいと思います。

内省こそ本物の人生

内省という言葉があります。内観ともいい、英語ではリフレクションとも呼ばれます。一般的には、自分の考えや行動などを深くかえりみることとだとされていますがこれは人生において何よりも重要で優先するものなのは間違いないことです。

なぜ内省が必要なのかを少し書いてみたいと思います。

内省といえば、論語に「子曰。君子不憂不懼。曰。不憂不懼。斯謂之君子已乎。子曰。内省不疚。夫何憂何懼。 」があります。これは孔子が君子は憂えず恐れることはないといったとき、弟子が憂えず恐れなければ、君子と言えるのでしょうかと尋ねた時、自分自身の心に疾しいところがなければ何を憂え何を恐れるものがあるかと言いました。

この時の内省をする相手は誰か、それは自分自身の本心、本物の自分ということです。しかしもしもこの本物の自分自身が何処にいるのか誰なのかもわからず、そしてどんな人なのかを知ろうともせず、自分勝手にきっとこんな自分だろうと勝手に自分の仮定した都合のよい自分を自分だと思い込んでいたらこの内省は決してできません。

内省がとても難しいのは、本物の自分が観えず自分の初心や本心を自分が知ることができないからなのです。

人間は本来、自分の本心、つまりは何のために生まれてきて何のために自分を使っていきたいかということを知っています。しかしそれが様々な我欲や願望、周囲の環境や刷り込みによって自分というものの本心が隠れて別の自分としてこの世の中で立ち振る舞っているうちに自分というものが分からなくなっていくものです。

松下幸之助さんが素直の百段を目指していたのも、そうした本当の自分自身というものの声を聴くために内省を続け、素直であったかと自分を戒め天命に従い使命を全うされていたように私は思います。

論語には、もう一つ「三省」という有名な言葉があります。ここには「曾子曰。吾日三省吾身。為人謀而不忠乎。與朋友交而不信乎。傳不習乎」とあります。これは私は常日頃から自らのあり方を省みる。人の為に心を動かされて忠ならざる事はなかったであろうか。 志を同じくする友の意に従うばかりで信ならざる事はなかったか。己の身にもなっておらぬ事を妄りに発して、人を惑わせていなかったと。つまりは真心のままであったか、本心のままであったかと常に自分を確かめながら歩んだのです。

本心や真心を初心とも言いますが、この初心のままの自分であるかどうかがもっとも大切なことでありそれは自分の行動や発言、経験したことを常にその場で振り返り初心に照らして本当にそのような自分でいられたかと確かめ続けるということです。

人間は本当の自分になることや、本来の自分自身になることが答えを生きることであり、いつまでも自分を探していても答えがあるわけではないのです。だからこそ内省が何よりも重要であり、内省なくしては本物の人生もまたないのです。

自分自身になることが本来の自立の本質であり、独立不羈、唯我独尊もまたその自分になっていくことです。心をかき乱されないように内省を続け、平常心のままに自分自身を自分自身で生きていく、そういう一生懸命な生き方の中で心を開き心豊かに自分の生を全うしていくことが自然の大道でもあり、人間本来の生きる道を叶うことだと私は思います。

自分に出会える仕合せと、自分でいられる仕合せ、まさに自分との邂逅が内省によって行われるとき人は本当の意味で世界を知り全体を知り、そして自分になります。

引き続き、子どもたちには内省の場の大切さを説きつつ内省の価値を伝承していきたいと思います。

天謙の道理

人間は、自分自身と向き合い初心を確認してその初心から離れないようにしなければ気が付くと他人の夢をいつまでも追い求めたりするものです。自分自身が本当の求めていたものは置き去りにして、自分が認められたいことや手に入れたいと思っていた願望を追い求めたら成功はしても仕合せではないという矛盾が発生してしまうこともあります。

今度はそのように成功してしまえばそこから離れることができず、いつまでも不仕合せが続いてしまうということもあります。この本当の自分が何を望んでいるかという初心を自分から先に手放してしまわないようにすることこそが初心を忘れないということです。

ではどのような時に初心を忘れるかといえば、自分に負けるときになります。例えば、比較競走社会の中で誰かと比較して自分が認められようとしたり、自分が差別されたり酷い評価をされたりすることへの復讐をしようとしたり、ないほうばかりを見てあるものを観なくなったりするときに自分に負けて初心を忘れるのです。

そもそも与えられた天命を謙虚に受け止めて、それが天命であり使命であると真摯にいただいたものに感謝して歩んでいる人は初心がいつも身近に備わっています。その逆に、与えられた環境には満足せずこんなはずではないや、もっとこうであるはずといったないものねだりばかりをしていたら自分に与えられた天分というものもまたわからなくなります。

身の丈が分からなくなるのもそのときで、自分の存在が本来の自分の姿より大きくなったり小さくなったりとしているうちに自分が歪んでしまうのです。自分が歪んでしまったときに、親切な身近な人の声を聴ける謙虚さがあればいいのですが往々にしてそういう時に自分に負けて人間はそういう親切な人の話に耳を傾けなくなるものです。

謙虚さというものは、天命に対する謙虚さのことです。つまり天=謙であるということです。謙虚さを忘れるとき、人は初心を忘れるのです。常に謙虚でいることは、常に初心を忘れないでいること。人の話に素直に耳を傾けられる状態でいること、つまりはもっとも自分が聴くことができる状態でいるということです。

子どもたちに背中を遺すためにも聴福人の実践をしながら、天謙の道理に外れないように初心を忘れずに歩んでいきたいと思います。

自分に矢印

私たちの会社には「自分に矢印」という言葉があります。これは矢印を相手ではなく自分に向けろという意味ではなく、「誰にも矢印を向けないこと」を「自分に矢印」という言い方で表現しています。

つまりは誰のせいにもしない、誰も責めないときこそが本当の意味で「自分に矢印」になっているということです。

この国にいると、幼いころから責任を常に誰かに押し付けられ、いつもどこか不安で責任から逃れることばかりを考えてしまう空気感があります。一人でできること、自分ですべてできることを最良のように教えこみ、誰の力も借りずにできた人のことを優秀だとさえ評価したりもします。

先日もオリンピックのニュースで日本人はメダルがとれなかったり周りの期待に応えられないとすぐにみんな泣きながら謝罪している人が多いとありましたが、責の重圧の中で押しつぶされてしまっているような人たちも多く見かけます。生前アインシュタインはこうも言っています。「どうして自分を責めるんですか?他人がちゃんと必要な時に責めてくれるんだからいいじゃないですか。」と、すぐに自分を責めて先に謝りますが別に誰もその人を責めてはいないのになぜ自分から先に責めるのか。自分で先に責めれば他人からのアドバイスや助言もすべて責められていることになってしまいます。本来は、それは助言や成長するための知恵であるのにそれを自分への責めにしてしまうことで責任意識ばかりが強くなっていきます。

日本人はマジメな国民と自評もしていますが実はこのマジメは、自分を責める人が多いという意味で使われている気もします。人間はそんなに強くありませんから自分をこれ以上責められないところまで来ると今度は他人のことを責めようとする。この責めるということの負の連鎖は、さらなる不安で孤独な人を生み出しより一層孤立を深めてしまいます。

だからこそ何よりも重要なのは、不安な人が余裕を持てる環境をつくること。そして自分が誰も責めなくてもいい環境にしていくことです。見守りや安心基地というのは、責めない場所でもあるのです。

まずは自分で責めるのをやめること、そして誰かを責めるのをやめること。誰も責めないというのは、「そこから学んで次に活かそう」という前進し成長するあるがままの素直な姿になるということです。

責めることでいつまでも感情の渦の中に引きこもって停滞してしまったらせっかくの機会も無駄にしてしまいます。責められることで自分を他から罰されて楽になったり、責めることで自分を守り楽になることは自他ともに幸せになることはありません。それは単に一時的に責めたり責められることで自分がバリアを張って自分を守っているだけでバリアが強く厚くなっていくだけです。ピンチはチャンスだと、責める前にその機会に食らいつき活かそうとしたり、誰も責めずにそこからどう福に転じるかと一瞬の間を与えずに取り組んでいくことで解放していく方法もあります。

どちらにしても、「マジメじめじめ」ともいいますがすぐに誰かを責めてしまう癖を捨てていくことがこの閉塞感から抜け出せ、好奇心を呼び覚まし挑戦を味わい楽しんでいくための知恵になります。

誰かを追い込むか、自殺をするかしかないような閉塞感があるこの社會を変えていくのは自分が責めるのをやめることからはじめるしかありません。「自分に矢印」の実践を積み重ねていくことこそが、社會を変えていくということです。この刷り込みが根深いからこそ、今の大人たちがそれに気づき解放していく必要性を感じます。

子どもたちに同じような不安で苦しい思いをさせないように、自他を責める生き方をやめ自他をゆるす生き方のお手本を示していきたいと思います。

観念

物事には目に見えるものと目に観えないものがあり、その眼に観えないものを観る力を観念ともいいます。この観念はもともとは仏教用語で「観想の念仏」からできた言葉だといいます。「観」は知恵を持って観察し悟りを得るというサンスクリット語「vipaśyanā」の漢訳で、「念」は心に思うというサンスクリット語「smŗti」の漢訳だといいます。

この観念をどのように持っているか、それによって観えている世界は人によって異なります。見た目が同じであろうとも、その人物がどのような観点と観念を持つかはその精神によって異なるのです。その観念は物事をどれだけ掘り下げていくかという物の見方の修練によって磨かれていきます。

最近、ある著書で知った金子みすゞさんの詩に「蜂と神様」があります。

蜂と神様             金子みすゞ

蜂はお花のなかに
お花はお庭のなかに
お庭は土塀のなかに
土塀は町のなかに
町は日本のなかに
日本は世界のなかに
世界は神様のなかに

そうして、そうして、神様は
小ちゃな蜂のなかに。

日本人には昔から八百万の神々という精神があります。自然の道理と共に暮らしてきて民族だからこそ、小さな蜂の中にも神様の存在を感じることができたはずです。身近な小さなものを広げていきもっとも大きなものまで辿りつき、そして小さなものに回帰していくという発想もまた観念です。

こういう観念や観点を持てるというのが道理に精通するということであり、そういう人物が出てくることで私たちの国は何回も甦生してきました。守られているという実感は、歴史の中で道理に精通する人物の顕現によって感じることができます。

この日本の観念のことを大和魂ともいい、その大和魂を持つものを古は日本武尊とも呼びました。

時代が変わっても、本質は変わらずに存在し、日本という国が如何に変遷を辿ってもその精神の奥深くにはこの観念が根付いています。

私たちは同じ地球の中にあり、日本も日本人もまた大切なお役目をもって生まれてきています。だからこそこの観念の醸成はその国々の使命であり、未来を生きる子どもたちがもっとも発揮して貢献していく基礎になるはずです。

復古創新から、復古起新へと舵を切りつつ子どもたちの中に眠る大和魂を揺さぶりながら日本武尊の観念を身近な暮らしから子どもたちに伝道伝承していきたいと思います。

現実を直視する~正直な生き方~

現在、世界のことを改めて再認識して掘り下げつつ日本というものを如何に発信するかということを保育を通して考えていますがその大前提には現実を直視するということから始める必要があります。

この現実を直視するというのは、余計なバイアスをかけずにありのままにあるがままに物を視るということです。これは世界に限らず、自分自身のことも直視すれば現実が正しく理解できるものも、直視したくないから現実を歪めて勝手な期待的観測や希望的評価などを入れ込み現実を自分の都合のよいようにゆがめてしまいます。

先日、ある人に日本は今、中国の台頭やアジアの興隆からみて世界では欧州の英国のように高齢化でインフラも古びれ、これから衰退していく国家として見られているという話をすると烈火の如く否定する人がいました。

しかし現実には、技術大国で豊富な資金をもって経済大国になってからのち、今では近隣の国々の技術が日本を凌駕し、さらには中国などはアメリカに次ぐ世界第2位の経済大国へと発展していきました。世界の中で日本がどのようになっているか、そしてこれからどのようなことが予想されるか、現実を直視して私たちは近未来に対して行動を起こしていく必要があります。今更かつてのように世界1位に回帰しようとしても、そういう状況などはないことは客観的にみてもすぐにわかることです。

この現実を直視というのは、本当のことを知る心のことです。こんなはずではないという執着や、もっとこうあるべきや、本当はこうなんだなど自分の願望や期待で物事を無理に歪めないためには受け容れる力が必要になります。今の自分の身の丈を知り、今の自分がどの程度のものかを受け容れることではじめて現実というものを理解できます。

その現実を理解すればこんどは、どのようにしてその現実に手を打っていけばいいかといった本物の戦略が出てきます。そして戦術を立てて手を打てば、現実的な結果が訪れます。なぜ現実が思うようにならずにいつまでも滑っていくままなのかは、現実を直視しないところにこそ原因があるのです。

そうであってほしくないという感情を乗り越えて、現実としてそうかもしれないと受け容れる方が真実の対応ができるものです。油断も少なくなり、己自身との闘いにも負けなくなります。現実を受け容れる力を持つことこそ本当の実力であろうと私は思います。

しかしその現実を正しく受け止めて、受け容れることができるのならそこから本物の変化がはじまります。肥大化された願望や期待的観測を破り、現実を直視した間違いのない努力や手を打っていけるのです。現実から逃げたくなるのは人間の性で早く楽になりたくなったり思い通りにしたいと思うのでしょうが、そのためにもまずは現実から伝えるという正直な生き方をしていきたいものです。

引き続き子どもたちの近未来のためにも不正直に歪んだ現実を信じさせていくような刷り込みを遺すよりも、自分自身が現実を直視し、歪んだ刷り込みを取り払い現実的な戦略を実践し正直に生きていく生き方を譲り遺したいと思います。

我が道をゆくような会社ですが、世界のお手本になるような日本になれるよう現実を直視するところから取り組んでいきたいと思います。