社育

なぜ教育が必要なのか、その問いについて私なりの明確な定義があります。色々と賛否もあると思いますが、ここで書き記してみたいと思います。

そもそも教育とは何かというと世間では学力だの躾だの評価だの色々と語れます。それは何か知識を得て指導されることにより、優れた人間になるというように思われています。その優れたというものも何をもって優れているかと言えば、社會に善い影響を与える人だということは自明の理です。

世界でも学力ということが注目され、日本の教師も海外視察をし様々な学校の仕組みに注目しそれを国内へと取り入れるよう苦心しています。そういう私もオランダやドイツに訪問し、その国の学校の仕組みを観察したりもしました。

しかしそれは具体的な教育技術であって、そもそも教育とは何かという答えではありません。

私の思う教育者というのは、社會者というものです。

畢竟、社會がないのであれば教育は要りませんし、教育しなければ社會は成り立ちません。人が人と一緒に集団で社會を育てるために教育が必要になるのですから真の教育とは「社育」のことです。

つまり私は社會を育てることが、教育の真価であると定義しているのです。

以前、イエナプランのコンサルティング会社の経営者と会食する中で私が日本の社会が貧しいと嘆いていたら「教育に携わるものが社會の文句を言うべきではない、そうしてしまったのは教育がしたのだから」という話に感銘を受けたことがありました。

あの頃から、私にはオランダに行こうがドイツに行こうがどの国に行こうが、もしくは国内でも教育というものは常に一人一人が内省により実践し、自らの人格を高めることにあるということを自覚自明しました。

世界に影響を与える自分という社會を如何に自らが育てるか、つまりは社會人としての自分を如何に高めて学び徳を積んでいくのか、そういうことを自立し実践することが真の社會者=教育者であると私は思っています。

そしてこの人は真の教育者だというのは学校にだけいるわけではありません。

ある社會では会社であったり、宗教であったり、病院であったり、あらゆる1人以外の組織、コミュニティ(集団)の中にだって顕現しています。

善きリーダーが育ち、善き社會が顕われることこそが、真の教育に他なりません。

いくらテクニックばかりで教育を遠くに求めても、まずその自分自身の内省による社會が変わらないのならばそれはとても教育と呼べるものではないと私は思っています。

かつての神話にあるような世の中を、大国主が社育した世界、また聖徳太子が目指した社育、思いやりや正直に溢れた世に拡げていくことこそが日本人の伝統教育であると私は直観しています。

真の社會人になれるよう、矢印は自分に向けて自らの社育を実践し拡げていきたいと思います。

 

武士道精神

子どもの頃、父の影響で少林寺拳法を習っていたことがあります。約、4年間ほど通い色々なことを教わりましたが古武道を習い始めることでその時の記憶が甦ります。あの当時は、分からないことも子ども心には色々な教えが残っているものです。

少林寺拳法というものは、ただ相手に勝てばいいとか喧嘩をして負けなければいいというものではないことは習い始めてすぐに気づくものです。実際には、様々な行動規範を習います。私が一番驚いたのが、自分からは戦わないということを教わったときです。

では何のためにと思ったのですが、それは「力愛不二」という考え方があるからです。これは、慈悲心や正義感に溢れていても、力がなければ、誰かの役に立ったり、助けたりすることはできないということを教わります。また、そこにどれだけ力があっても、誇りや信念がなければ、正しい力の使い方もできません。

本物の強さというものは、相手を思いやることにあると教わるのです。相手を思いやるからこそ、守りに徹し、守ることから戦わないことを学ぶのです。

私は武道の本質というのは、それも思いやりや優しさから産まれるのではないかと実感します。無駄な戦いは避けたい、それは相手を思いやるからです。そして大切なものを守りたいと思うからこそ強くなる必要があるのです。

私の尊敬する師も、大切なものを守る時にはまるで不動明王のような威厳がでています。いつも圧倒されますが、あの強さは優しさや思いやりからだったということが理解できてきています。

正義というものも相手を思いやらない正義など、たいした正義ではないように思います。本物の正義とは、相手を思いやるからこそ御互いを活かし合い天に対しての正義=至誠を貫くことができるようにも思います。

流鏑馬の宗家からも先日、「本物の強さは戦わないことだ」と教えていただきました。

やはり古武道の源流は、自然一体の境地、つまりは「真心」にあるのでしょう。真心を学ぶには、優しさと強さを兼ね備えた真の武士道精神を持ち合わせる必要があるように思います。それを大和魂といい、ヤマトタケルから今の私たちまで連綿と継承した民族の血脈というものでしょう。

なぜ今、此処で私が古武道なのか、少しずつ意味が自明してくる中で、子どもたちを守れる真の強さと優しさを身に着けたいと実感しています。里が応援し、願いを届けてくださり未熟な私を鍛えてくださっていることを有難く感じています。

道に終わりはなく、道は無窮ですから今、来ているものに感謝しつつ歩んでいきたいと思います。

型を遺す

佚斎樗山の天狗芸術論は、読み進めていると実践をベースに記されているのがよく分かります。もともと佚斎樗山が青年期に師事した熊沢蕃山は、陽明学から神道、さらには芸術にも精通しており、常に実践を優先し私心に囚われることのない真心を目指したのがその生き方から感じられます。

生き方を学んだ人が、その生き方を文字を遺すということは、後世のためにその「型を遺す」ということなのかもしれません。生きものではないものを使って後を託すのは、その心(生き方)は自ら修練し読み取るようにと先人を歩んだ実践者の強い祈りが入っているのかもしれません。

古の著作や、古の言霊に出会うことは実践を励まされているようで有難く感じています。

その天狗芸術論に「当世の修行者気質を嘆く」があります。

「古へは情篤く志し親切にして、事(わざ)を務ること健やかにして、屈することなく怠ることなし。師の伝ふる所を信じて昼夜心に工夫し、事にこころみ、うたがわしきことをば友に訊ね、修行熟して吾と其理を悟る。ゆへに内に徹すること深し。師は始め事を伝へて其の含むところを語らず。自ら開くるを待つのみ。是を引而不発(ひきてはつせず)といふ。」

(昔、武芸の道に志したものは、情熱ゆたかで志固く、技術の修練によく務め、挫けず、怠らず励んだものである。師匠が教えたことを信じて日夜心に研究を重ね、実技を試み、疑問があれば友に尋ねて、修業を積むことによって自らその道理を身に付けた。したがってその理解はとことんまで徹底したものである。師匠は、最初は技法は伝えても、それに含まれている道理を語ろうとはせず、自ら理解するのを待った。これを「近づけはするが明らかにはしない」という。これは惜しんで語らないのではない。)

「吝(やぶさか)にて語らずにはあらず。此間に心を用いて修行熟せんことを欲するのみ(中略)。是古人の教法なり。故に学術芸術とも慥(たしか)にして篤し。」

(この段階で心を働かせ、修行の実を挙げることを願うからこそのことである。これが古人の教育方法であった。これによって学問も技術も、ともにしっかりしていて内容豊であったのだ。)

「今人情薄く志切ならず。少壮より労を厭い簡を好み、小利を見て速やかならんことを欲するの所へ、古法の如く教ば、修行するものあるべからず。今は師の方より途(みち)を啓き(ひらき)て、初学の者にも其の極則を説き聞かせ、其の帰着する所をしめし、猶(なお)手を執りて是をひらくのみ。」

(今日では、武芸を学ぶ者も情熱が薄く、真剣な志を抱いていない。若いときから骨の折れることをいやがり、手軽なことを喜び、小手先のことで手早く上達するのを望んでいる。このような者に対して昔のようなやり方で教えたのでは、修行をしようという者がいなくなってしまう。そこで今日は、師匠の方から手ほどきをして、初心者にも極意をを説明し、その実際を見せ、さらには手をとってこれを教えこむほかはない。)

「かくのごとくしてすら猶退屈して止まる者多し。次第に理は高上に成て古人を足らずとし、修行は薄く居ながら、天へも上る工夫をするのみ。これもまた時の勢いなり。」

(このようにしてさえ、厭気がさして止めてしまう者が多いのである。こして理屈だけではだんだん達者になるばかりで古人の説では満足できなくなり、ろくな修行もしていないくせに、天にも登るほどのわざを得ようとするのだ。これもまた時の勢いとうほかはない。)(武道秘伝書 吉田豊編 徳間書店)

学び方一つとっても、今の学校の教え方と古の学問への姿勢は異なるものです。本質を学ぶということや、実践をするということが本来の学び方であったはずですが今のような情報や物が溢れかえった時代にはこの時代と同じような問題が発生するのかもしれません。

如何に貪欲に学ぶのかは、その人の真摯な生き方との向き合いなのでしょう。何のために学ぶのか、その初心を忘れないでいることが修行なのでしょう。先人の型をを参考にして取り組んでいきたいと思います。

神馬道

昨日紹介した天狗芸術論の佚斎樗山は、青年期に熊沢蕃山の指導を受け影響をされているというが分かりました。

またここで熊沢蕃山と出会うとは思っておらず、縁尋奇妙であることを実感します。

そもそも熊沢蕃山は、中江藤樹と深い親交がありそこから儒教の本質を学んでいます。その思想を本来の神道と結び、本来の智慧とは何かと明らかにした人物であろうと私は思います。時代の流れの中で、色々と評価がありますが私から観れば同じようにかんながらの道を歩んだ人のように思います。

その佚斎樗山は本名丹羽十郎右衛門忠明、万治2年(1659)生、寛保元年(1741)に亡くなっています。武蔵関宿の久世家三代に歴仕した後、享保16年(1731)致仕、以後十年ほど蒙童教導のための著述を遺しています。

そして教えの本質とは、畢竟、「自己一心の明悟」というところにあるとし、つまりは私の言葉でいえば「自他一体の境地」にこそ得られるという思想です。如何に、自分というものを突き詰めて自分本来でいるのか、自然体といってもいいかもしれませんがその境地を目指すために学問を楽しむということでしょう。

佚斎樗山の考え方には、熊沢蕃山が真に伝えようとした本質がはっきりと観てとれます。もしかしたら非業の死を遂げた師に対しての真心と大義がこの佚斎樗山の講義本として夜に顕現したのかもしれません。師弟の義の絆の深さを感じて、義に生きるものたちの志にまた心が揺さぶられました。

私の名をつけていただいたのも、豊前坊という天狗の山です。これからはじまる神事、流鏑馬ともに、この佚斎樗山の考え方を同一に智慧を深めてみたいと思っています。

智慧の第一に下記があります。

「人は動物なり。善に向かわない時は必ず不善に動く。この念がここに生れなければ、別の念がかしこに生ず。」

万物一体善のことをいうのでしょうが、如何に清明心でいるか、透徹するほどの純粋な真心でいるか、そういうものを善とし、それらを別の思念が邪魔をするということでしょう。

単なる馬術ではなく、神馬に手伝っていただきながらかんながらの道としての神馬道をこれから学んでいこうと思います。

大和の言霊

先日、世田谷の松陰神社に参拝する機会があり純粋な志に感応しました。

以前、ヤマトタケルが大和の風土であることをブログで書いたかもしれませんが私の思う純真な風土人の一人がこの吉田松陰先生です。

自然をお手本にしていますが、天人合一に自然一体となった純粋媒体の人物の生き方に触れるといつも心が揺さぶられます。もっとも有難いことはその人の遺産が歴史として書物として口伝として心に残っていることなのかもしれません。

その遺訓や遺産を志で承ることが志士の心得なのかもしれません。社會に出でては仕事をしますが、志士でなければ何ものかということでしょう。ただ自分が貪るために生きるのではなく、豊かに何か大切なもののために生きたいと願うならそれはもうすでに志士の一人です。

初心や理念、志を重んじて生きる事こそが生き方となって受け継がれていくように思います。

吉田松陰に下記のような大和の言霊が残っています。

「夫れ重きを以って任と為す者、才を以て恃(たのみ)と為すに足らず。知を以て恃と為すに足らず。必ずや志を以て気を率ゐ、黽勉(びんべん)事に従ひて而る後可なり。」

(重大な使命を掲げ、それを自らに課すものは、決して才能を頼みにしても、知識を頼みにしてもいけない。必ずその初心や志を以て仕事に励まなければならない。その時々の自分の思い付きや単なる小手先のテクニックなどで仕事を片付けようとしたり、いたずらに知識ばかりを増やしてはいけないのである。)

「士は過なきを貴しとせず、過を改むるを貴しと為す。」

(失敗して恥をかくのが嫌で挑戦をしないのは取るにたらない小人のやることである。志士はそういう無難であることを尊いとは決して思わない。使命感に生きる人は失敗してもすぐにその過ちを認めてすぐに正すことを優先する、チャレンジしては改善することを尊いとしているのです。)

最後に、心に深く響く言霊です。

「自らその暗劣なるを忘れて日夜勉励し、古賢を以て師と為す。」

(自分が誰かよりも劣っているとか能力がないとかそういうことを思い煩うのを忘れるほどに日夜精進し真摯に実践することを怠らず、古の聖賢の背中や足跡を先生として生きていきなさい。)

意訳ですが、言霊の受け取り方はその人の心で受け取るものです。世間から学びはしても、世間の価値観には迎合されない確固として志がいつも自分を助けてくれます。群れる必要もなく、無理に合わせる必要もない、只ひたすらに自らの求めた道を歩んでいきたいと思います。

林檎聖人~地球人~

昨日、奇跡のりんごの映画で有名な木村秋則さんの講演会にクルーと参加してきました。
自然栽培という、新しい栽培方法を提唱されその農法を拡げるために活動されていました。

今の慣行農法では、地球が疲れてしまうということで肥料や農薬を使わないで自分の目と手を代わりにして育てていこうという考え方で実践されているものです。

講演では、最初に大小のりんごをポケットから取り出して 「最初はこんなに小さなりんごが30年経ち今ではこんなに大きくなりました」と語りかけ、これが現実ですと見せてくれました。その上で「本来、農の世界はものの大小が判断基準ではないのです」と言います。続いて「りんごは、毎年今年はこれで一生懸命だった、来年はもっと頑張るよと言ってくれているんです」と話す姿にまるでりんごそのものが喋っているかのような自他一体の姿を拝見しました。

世界中ではまだまだ人間の食糧の確保のために常に新しい肥料や農薬が沢山使われ、大量生産されています。りんごも同じく、消費があるから生産するのですがとにかく大量にと生産されることで土はどんどん疲弊してきています。

そこには何の疑問も思わず、人間だけが生きているかのような錯覚に陥ることで畑の土がどんどん生きもののいない真っ白な無生物無機質な姿に変化してきています。本来の地球が喜ばないようなやり方で無理やりに働かせてしまうと豊かであった生態系もまた貧しくなって焦土のようになっていくのかもしれません。

そもそも農薬や肥料というものを足さないという考え方は、無理やりに育てないということです。そのものが育つのを見守るのですから、足す必要はなくよりそのものが育つような環境を手伝っていけばいいのです。言い換えれば私の言葉にすると、何もしないということでありそれは天に従うということです。無私と無我ともいってもいいかもしれません、そういう境地であるがままであることを尊ぶことで自明する環境こそが自然であるというように定義しています。

それは感謝を基盤にして、あるがままであるということですから人間が謙虚でいるということです。謙虚な心で育ち合うことや、素直な心で学び合う環境こそがもっとも自然に近づくことではないかと私は思います。

話を戻せば、最後に「今、耳に入ってくるニュースはミツバチがいなくなったとか蝶がいないとか、そういう話ばかり、今私たちは何をなすべきか、日本中の人達は未来のために真剣に考えてほしい。」とありました。そして続けて「運河や大河も最初は小さな川からはじまった、信じていけばそこに必ず立派な道ができる」と。

今、私たちも見守る保育という実践を拡げようと自分たちも実践を行いつつ、仕組みを創造し仲間を増やしていますが業界が異なっていても同じ志で生きる人たちが真摯に努力する姿を観ると勇気が湧いてきます。

決して一人ではないのだから、みんなで力を合わせて地球が喜ぶような生き方と働き方、太古の昔から日本人が大切にしてきた天照大御神を中心にした社會をもう一度、復興、復活させていきたいと心に誓いました。

常に時代はうねりをあげながら変化を已みません、自然環境も待ったなしで偉大に揺れ動いています。この先のことを思えば、この今が文明に課せられた最期のチャンスなのかもしれません。同じ地球の上に生きるものとして地下や根っこは同じ土から出でたいのちなのだから天の命じるままに、このいのちそのものを運んでいけるように自然から学び続けていきたいと思います。

 

真心が至誠

昔から人は真心を持って生きる事や、至誠であることは天を相手にしているという言い方をします。これは天というものの存在を実感し、その天に恥じないような生き方をしようと心掛けているということです。

これをお天道様という名で呼び、そのお天道様がいつも見守ってくださっているのだからそれに恥じないように生きて活きましょうという声掛けをして正直にその性を全うしていたのだと思います。

そもそもこの天とは何かといえば、天地自然のことです。大宇宙という言い方をしてもいいのかもしれませんが、私たちを活かしてくださっている偉大な存在のことをいうように思います。

例えば、私たちの身体は何もしなくても自分で成長し自分で回復していくものです。これは本能とも私たちは呼びますが実際は何かによってそうさせていただいているということです。つまりは私たちの身体も英語で言う何ものかサムシンググレートによって活かされているということです。

私たちが天を感じるというのは、そのサムシンググレートを感じているということでありその天の運行、天の恩恵を素直に正直に承れるようにしていることが謙虚でいるということであるように思います。

本来は天が活かしてくださっているのだから何もしなければその恩恵は享受できるのですが、しかし人間は我や私が入りますからそれをすぐに邪魔をしてしまうように思います。自分の我や私が入り込むことで丸ごと受け取ることができなくなり、運が悪くなっていくようにも思います。

天は人間を活かし、そして万物を丸ごと包み育むのだから必ず善くなるようにしてくださっているのです。だからこそ天を邪魔しないように生きていくこと、自分に与えてくださったものを選ばないこと、来たものは全て善いことになるように祈り取り組むこと、周りの全てを受け容れて一体となって丸ごと善いことになるのだと信じた実践を積んでいくことが徳を高め運がより善く開けていけるように私は思います。

西郷隆盛の座右に「敬天愛人」がありますが、これは天が自分を愛してくださるように自分も人を愛する、それは天の真心のままに活かされますという覚悟ではないかと私は思います。

天人合一というのは、全てを一円の和の中で丸ごと善いことにしていく生き方のことです。言い換えれば、天に対しては謙虚、人に対しては素直でいるということであろうと思います。

人間は無我や無私になる時にだけ、すべての問題が自分の問題になるように思います。
自他一体とは、無我や無私のときにこそ実感でき同時というのもまた其処に存在します。

日々は学びの連続ですが、天に感謝し、全てを善いことにしていくよう内省したいと思います。
日々の有難い体験と学びという豊酬に心から感謝しています。

好奇心~決心式~

人間には何よりも大切な宝として好奇心というものがあります。

この好奇心というものがある限り、私たちは自然から離れることはありません。

子どもの心は純粋で無垢です。

この純粋と無垢とは何かといえば、好奇心を持っているということです。

好奇心というのは、自然に触れたいと思う心。自然と一体になりたいという心。自然を愛でたいという心です。つまりは五感を超越した第六感ともいえるもので、いのちの正体です。

いのちというものは、感じることで活き活きしていきます。

もしも無感動無関心になるとしたら、好奇心を苛まれる枠組みや常識によって本来のいのちが閉じ込められることで発生しているといっても過言ではないと思います。人は好奇心を失わない限り永遠に光り輝き続け、そしていのちの灯を炎々と燃やし続けることができるからです。

今の社會は好奇心というものをあまり大切にしていないように思います。

その好奇心を守るのは自分自身です。

如何に面白く楽しい日々を送っていくか、それは自分の生き方によります。そしてその生き方の根幹に「感じる」という力をどれだけ養うか、目には視えないものをどれだけ実感しているか、すべてのものにいのちがあるという感覚をどれだけ研ぎ澄ませているかで変わって来るようにも私は思うのです。

三つ子の魂とは何かといえば、私は好奇心のことであると定義します。

大宇宙の中で、地球の一部として活かされているこのいのちが、そのいのちの顕現である子どもたちが、いつまでも子どもたちらしくそのままでいられるような社會にしていきたいと思います。

引き続き、社業にいのちを懸けて実践していこうと思います。

天の恩恵

人は自分の人生を遣り切るかどうかというのはとても大切なことのように思います。

そもそも人生の善悪も好悪もそれは、自分の都合で置き換えられているものです。自然界や全体から観れば、そうなるようにそうなるのは必然であり、なぜ自分がと思うことの方が多いのが人間ですがそれはバランスの中に存在しているのが私達だからです。

誰かが強く引っ張れば、その反対は引っ張られるかのように御互いに関係を引きずりながら右往左往しているのもまた人間社会であろうとも思います。その中で如何に自分の人生を味わうのか、生き切るのかは、どうせどうにもならない運命だからと悲観するのではなく、運ぶのは自分だからと考えることで同じ運命でも異なったものになるように思います。

そして運に対して命とは何かといえば、どうにもならない中でも最善を盡すということでしょう。

その最善を盡すとは何かとえば、「必ず意味がある、必ず善いことになる」と信じているということです。一見、今までの過去から捉えたり、一般的な解釈からみれば不幸であったり不運であったり、不調であったりと感じることがあったとしてもそれを如何に前向きに捉えて福にするかということです。

幸せという字は仕合せであり、ぴったりと合わさっている意味です、そしてそれが福であるということです。つまり何事も全ては福であるという考え方のことをいうように思います。

人は最も苦しい時、前向きになれるかどうかが何よりも大切なことのように思います。そしてそれは誰もが善くないことが起きていると思うことを仕合せ、それを転じてこれは総じて善いことだと誰よりもその人の運命を丸ごと信じることができるかということです。

信じるというのは、言い換えれば結びは必ず善いことになると信じ切っているということです。そこに疑いを持たない生き方というのは、自分の人生を生き切る実践とその眼差しのままに、目の前の人のことを思いやり一緒に遣り抜く覚悟を持っているということなのでしょう。

そしてそのたった一人の自分の御役目を諦めないというのは、最期まで自分の役割を全うさせていただくという感謝の発心のように思います。

産まれてきては、日々に様々な御役目をいただき、そして豊かな役割を与えてくださるのが天の恩恵です。その天の恩恵すべてを受け取ることができて活かされているのが私たちなのかもしれません。

出会いがいつもそれを形を変えては教えてくださいます。

これからも真心のままにかんながらの道を噛み締めて往きたいと思います。

大自分

人間は自分の中に罪悪感や負い目というのを持つと日々は怒りの感情に囚われるものです。

我というものは自分の思い通りかそうではないかという価値観に囚われます。そしてその感情が怒りを誘発するのです。いつも自分が中心になっている考え方に起点を置けば思い通りにならず上手くいかないと感じるものです。

言い換えればそれは自分の中にこうであるべきといった自分が思い込んでいる「正しい」という観念に縛られているのです。

自分の中に自分の思い通りにいくことが正しいと思えば思うほどに周りに矢印を向けてしまうものです。自己中心的というのは、周りも自分も正しいではなく、自分の正しいが最も正しいという価値観に執着しているのです。

本来は正しいかどうかよりも来ているものに正直に生き切ることで全体でバランスをとるものだから、何かがあれば常に自分の方を柔軟性を持って受け容れることができればいいのですがそれでは自分の思いどおりになっていないから自他を責め、自他嫌悪するのです。

例えば自然界は思い通りにならないけれど、それが必然的に全体を調和させているものです。自分にとっては都合が悪い天気であろうがどうであろうが、地球が全体調和をしようと天候が調整されていくのと同じです。人間の心身の調和でいえば、病気や治癒も同じく感情は波打ちますが自然(体)は全体バランスをとり回復するためにいつも働いているのと同じです。

以前、面白い体験をしたことがあります。

子どもが海の水が服にかかって海に向かってずっと怒っていた様子を拝見したときです。自然からすれば海は波打ちますから水がかかることは当然です、しかしそれに怒ってみても相手は自然ですからどうにもなりません。

自分は自分の世界からしか世界を見ていませんから、それが思い通りにならないということが理解できないのです。妄想や空想の中では自由でも現実は不自由です、その現実を自由にしていくのなら全体の叡智の方へと自分を合わせていく必要があるのです。

自他を一体として正しいと思えるにはとても時間がかかるもので一生ものの学びかもしれません。しかしそれが文化と文明の調和にもなっていくのですから私たちに課せられている大命なのかもしれません。

自然から学び、自然を尊ぶのは、そこに「本物の信」があるからでしょう。

世間では、狭い世界での正義を押し付けて自由というものも平等というものもその隔絶された組織の中だけで通用するようなものを強要し刷り込んでいきます。村社會のような隔絶された秩序の中で自由や自律もはき違えられています。

もっと視野を広げ、世界の大きさで捉えるのが自由であり自律なのでしょう。それは本物の信の世界の中の一員としての自分を捉えられるか、自然という全体調和した中にいることを自覚しているか、人間はいつでも自然から離れずに学び続ける必要性を実感するのです。

一度きりの人生ですし自然の中で活かされている大自分ですから、ご縁を信じて来たものを選ばずに丸ごと受け取り、どんな事件があっても許し、それが有難いと笑っていられるような感謝と御蔭様の真心の実践を精進していきたいと思います。