魂の声

世の中では理で割り切れないことやその機会がとても多いように思います。

天道地理と義理人情ではないですが、自然と人間社会はどちらにも理が存在します。
だからこそ理は割り切ることができないということでしょう。

つまり日時、理屈でどうにもならないことばかりに生きているのが私たちであるのです。
それを言葉にしようとしても言葉にできず、それを伝えようとしても伝えられない。

それでも絞り出していけばそこに「魂の声」のようなものがあるように思うのです。

その魂の声は心を澄ませば丸ごと自然に出てくるものです。
そこに耳を傾ければ自分が何を一番大切にしたいかが出てくるのです。

そういうものがあると認め、自分の運を信じて伸ばすことが人生のように感じます。

ご縁というものは、その魂の声にも耳を澄ませていくことのようにも思います。

存在というものの大切さを思う時、人は本当の自他の価値を覚るように思います。
そういうものに互いに気づき合いながら運を伸ばすことができる心友というものがある。

この魂の声を交わせる人たちがひょっとしたら「ソウルメイト」というものかもしれません。

ご縁の不思議さ、その霊妙さに感激しつつ「有難うございます」という言葉を自然に何万回でも唱えたいとき、そこにソウルメイトとの邂逅を存分に感じているように思います。

答えなどは要らず、正しいなども要らない。

「自分がそうしたいからそうする。ただそれだけのことです。」

これのみの対話です。

これからも謙虚に素直に、理由よりも魂の声に耳を傾け、運に正直に信念のままに自らの人事を尽くして天命を待つを掌に容れながらかんながらの道、その精進の日々を送ろうと思います。

今、生きている幸せを噛み締めて歩んでいます。

忠義

今年は義について確認することが多かったように思います。

特に源義経、木曽義仲、楠木正成、そして上杉謙信と義についての武将から忠義ということが何かということを学び直すことができました。

それぞれが天に対して定めた生き方そのものを貫くときに顕われてくるのがこの義です。相手が比較や人ではなく、天であるからこそより凛とした厳しい姿勢で自分を尽くしていくことがどれだけ純粋な魂であるかを憶えるのです。

これらの人達から生き方を照らして学ぶというのはとても有難いことで、自己観照するときに自分がこの人だったらと考えるそれだけで自分がどうあることがより物事の実相を正しく掴むことができるかを学ぶ事ができます。特に上杉謙信はとても自己観照していくことに相応しく思うのです。上杉謙信の思想や実践、そこにはとても共感するものがあります。

例えば、謙信に有名なものに「敵に塩を送る」ということがあります。

これを新渡戸稲造は武士道でこう書きます。「聞く北条氏、公を苦しむるに塩をもってすと、これきわめて卑劣なる行為なり、我の公と争うところは、弓矢にありて米塩に非ず、今より以後塩を我が国にとれ、多寡ただ命のままなり。」と。謙信は戦は戦、それで塩を止めて民衆を苦しませることはならぬと、自分は卑怯な方法で戦うことはしないと述べるのです。正々堂々と、公平に天に忠義を照らして常にその瞬間を判断していくのです。

この上杉謙信のことを共に戦ったものたちや家臣はこう語ります。

武田信玄の場合は死を前にして、「あのような勇猛な武将とことを構えてはならぬ。謙信は、頼むとさえいえば、必ず援助してくれる。断わるようなことは決してしない男だ。この信玄は、おとなげなくも、謙信に依託しなかったばかりに一生、彼と戦うことになったが、甲斐国を保つには、謙信の力にすがるほかあるまい」と勝頼に言い残し、菊姫が上杉景勝と婚姻します。

そして北条氏康からは、「信玄と信長に表裏つねなく、頼むに足らぬ。ひとり、謙信だけは、請け合った以上、骨になるまで義理を通す人物である。だから、その肌着を分けて、若い大将の守り袋にさせたいと思う。この氏康が、明日にでも死ねば、後事を託す人は謙信だけである」として謙信を認めています。

そして関東の知勇兼備の名将、太田資正からは、「十にして八つは大賢人、残り二つは大悪人である。彼は勇猛・無欲で清浄、器量が大きく正直である。物事を明敏に判断して、しかも慈悲深く、もし人から諌めららればこれをよく聞き入れた。ただ怒ることが多く、心違いをしたこれが欠点であろう。ともかく謙信は善所が多い稀にみる名武将であった」と、その謙信の人柄について語られます。

上杉謙信を自己観照すると純粋に天に殉じて義を貫いたその生涯に勇気と愛をいただけるような心地になります。時代がどのようであったとしても、義の生き方は普遍であるようにも思います。

今年は辰年、私にとってはとても大切な節目の年でした。忠義は常に天と人との純粋な関わりがあり、はじめて顕われることを実感します。最後に、上杉謙信が春日山城の壁に書いた回訓を紹介します。

「運は天にあり。鎧は胸にあり。手柄は足にあり。 何時も敵を掌にして合戦すべし。疵つくことなし。死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり。家を出ずるより帰らじと思えばまた帰る。帰ると思えば、ぜひ帰らぬものなり。不定とのみ思うに違わずといえば、武士たる道は不定と思うべからず。 必ず一定と思うべし」

これは意訳ですが、人は運でどうこうを決めるのではなく常に運は天に任せて、どれだけ自らの人事を尽くすかということを戒めるということだと思います。人はすぐに何かあると誰かや運のせいにして言い訳をしますが、自らに課した人事が果たして天に叶うものであったかとそこにも我が真心、その凛として律した己が忠義を正すことをやめないということです。

心頭滅却していくということを、常に意識して修養をした一生だったのではないかと毘沙門天の姿から実感しました。大義や龍に恥じないような純粋な魂を磨きつつ、気づきをさらに自問の糧にし子ども達の幸せを祈り、今の日々を精進していきたいと思います。

 

 

楽しい学び

昨日、社内を古民家のように改造し楽しい職場についての研修を行いました。

講師には、新宿せいが保育園のベテランのお二人に来ていただきお鍋を食べお酒を飲み日頃の楽しい事例について語り合いました。気の合う仲間との会食はとても嬉しくそして美味しく、時間が過ぎるのもあっという間でした。

その中で、色々と教えていただいたこともあり学び直しを楽しむことができました。

一つには、学ぶ姿勢。

いついかなるときも、自分が学ぶからこそ教えない、日々に子ども達から学び自分を変えつづけているからこそ色々な意見を聴いてもその人の答えが正しいということになるのだろうと思います。分かった気にならない実践、つまりは自分自身が常に様々なものから真摯に学ぼうとする姿勢が何よりもこのベテランの姿勢であることを自覚していらっしゃるのです。

そして二つ目には、バランス感覚。

方針があり目標があり皆と歩む中で間にいるベテランがバランスを取ることができるからこそ周囲も安心してそこで委ねて一丸となっていくことができるのです。私の解釈ではアメーバのようにふわふわとカタチを換えながらもその粘着を緩やかにしているのがこの中間の役割です。自分の価値観に固執し、偏りバランスを崩せば組織も同じようにバラバラになってしまいます。しかしこの間にいる中堅やベテランの人達の絶妙なバランスが全体の調和に非常に役にたっているのだと思うのです。いつもバランスを意識するには余裕もゆとりも、そして自分の主軸をきちんと持てるということ、それはつまりトップの思想やビジョンに精通していらっしゃるのです。

そして最後は、分を弁える。

自分の役割というものを正しく理解すれば、分度という自分の分を弁えることができるということです。欲目から自分を過大にも過小にも評価せず、あるがままにありのままに正直にいれば自分がどのような役割を担っているのかを知ることができます。そしてそれは自分を活かしてくれている上司や周囲に対して自分にしかできないことを正しく理解することができるのです。つまり出しゃばらないということ、言い換えれば見守るなのです。自分の分度を正しく理解するから余計なところは手をださず、その人の役割にお任せすることができるのです。これは人や相手を心から尊重していらっしゃることをいうのです。

そしてこの分を弁えるという言葉は、身の丈を知る、過大評価しない、これは「自信」そのものです。本当の自分の「実力」が分かっているというのは、本当に自分や困難に向き合って乗り越えたものだけが使っている「謙虚」そのものの言葉のように思います。

そしてそれは確実に夢や道を自らの脚で正しく歩むときに出てくる言葉です。

私も昨夜はお酒が入っていたので、盛り上がりましたが今朝がたには感動して身震いし心が熱くなりました。こういう人たちがいる職場には自然に求心力が働いていくようにも思います。子ども達の周囲にこのような大人がいるということそのものが尊いと感じる一夜でした。

また道を歩む中で、時折、学問を語り合い、学び合うことができればと思います。これもいつもながら見守られている御蔭とし、さらにより一層の向上と精進を積み未来の子ども達のためにも実践で還元していこうと思います。

 

 

発酵し楽しむ~求道の心~

先日、千葉の自然のままのお酒を醸造している寺田本家を訪問することができました。

先代の著書、「発酵道」というものを拝読し生き方が似ていたところから関心を持ったものです。人は道から外れていると色々な体験をします、それでもと求道するからこそ敢えて大変な方へと飛び込んで自らその道に気づくようにできているように思います。

私の場合も、善かれと思って取り組んだことがその通りにいかず人間関係に悩み、仕事に悩み、善悪に悩み、結局は自分の方が間違っていたと素直に反省するに至ることがありました。

求めていけば与えられるというのは真実で、どんなことでも自分が求めていけば必ずそれが道につながっていくようにも思うのです。そしてその道に出会えば、その道を歩むことを楽しもうと精進していくこともまた人生であるように思います。

さて、発酵の話になりますがご当主ともお会いし訪問した時にも言われ改めて深く実感したことがあります。そのご当主の御挨拶の中にこのように書いてあります。

「寺田本家で無添加でお酒を造るのも無農薬の原料米を使うのも、そのほうが楽しいか らです。手造りにこだわるのも、造っている僕たちがそのほうがワクワクと楽しいからです。正しいことよりも、楽しいことを選ぶと、自然と本物へと近づいていくってことですね。発酵するって楽しいほうへどんどん変わっていくことなのかも知れません。」

正しいことをしようとすると自分が窮屈になり価値観に縛られ、全体も歪んでいきます。誰かが正しいと言い出せば言い出すほどに正しくないものが顕われ、それが邪魔をしてまた素直でなくなっていくように思うのです。

しかし本来、自分が楽しいと思うものは道につながっているものでそれを究めていくことがもっとも自分に合っているということになるように思うのです。

楽しくなくても正しいのだからと遣っている人たちはたくさんいます。これは今の仕事をみていてもそうかもしれません。

ただ楽しいというものは、自分の中から込み上げてくるもので何度も楽しい楽しいとつぶやくのは自分の求めている道につながっているという実感のことであろうとも思います。

私は保育道のお手伝いをしながら、その道が広がっていくことを祈ってやみません。
そしてそれは正しいからとやっていたことが多いように思います。

しかしここにきて、これは楽しいからだと思えるようになっています。
それは共に歩んだ時間が何よりも幸せであったといつ回顧しても思えるからでしょう。

子ども達のためにも自分から発酵し続けるため、求道し大好きなことをしようと思います。
ご縁に心から感謝しています。

いのちの糧~生態系の循環~

昨日、千葉にある藤崎農場さんを訪ね不耕起栽培の実践を拝見し学ぶご縁を頂くことができました。

25年もの間、一度も耕したことのない田の土は触るととてもトロトロでその中ではまだたくさんの生きものたちが活動を続けていました。この時期は冬期潅水をして水をはっているのですが藻類、浮草、貝類、イトミミズなどが活動して代謝したものが沈殿し独特な土の甘い匂いを醸していたのが印象的でした。

生態系の話では、人間が全部を取り過ぎないということで生きものたち全体が食べられるようにと配慮してお米の育成をその中心に据えている謙虚な姿勢にとても感動しました。今は、一部の生きものは人間都合で要らないとして農薬をつかったり肥料を増やしたりと都合都合でやろうとする農業が当たり前ですが、それでは長期的に継続することはできません。そのことから、あらゆる地球上の種が絶滅の危機に瀕しているのです。

本来は自分だけで搾取するのではなくみんなのことも思いやりながら同時に取り組むということが自然の共生です。かつての私たちは自然に棲み決してそれを独占し全部を取ることはしませんでした。それでいてお互いに恩恵を享受し合い、助け合い、響き合い、見守り合い、今までいのちを共にしてきたのです。

今回の出逢いを通して本来のもっと目には見えない小さな存在や、弱いと思われるような微かな存在を大切にすることが生態系そのものをもう一度正しい循環に導くのだと確信したのです。

生態系は決してピラミッドでできているわけではなく、私は〇でできていると思うのです。つまりは球体であるというのはそれがどれだけ長いスパンで観るのかで決まるからです。長い目で遠い心でみれば全部はつながっていて必ず此処に戻って来るということです。

出したものが帰って来るという真理も、因果応報もそれはすべて長いスパンで語られる言葉です。自然は偉大で悠久、つまりおおきくゆっくりだからこそ、その一番の元になっている小さなもの微かなものを大切にしていくことが大切なのです。

天の道理にしたがって謙虚でいる藤崎先生の姿は人柄からも感じられこれは以前お会いした自然農の川口先生も同じような姿をみせていただきました。天の道理にいる人たちのあの穏やかな様子に自分の憧れもありかんながらの道の先覚者であることを知り本当に嬉しくなりました。

それと同時に、日々に自分の道を楽しみまで昇華させ往く年に向けて創意工夫と学びの姿にも経営者として多くを反省する機会になりました。今の道を楽しむというのは、着実に少しずつ実績をつくりながら広げていくのだというお言葉には勇気をいただきました。

人の道理にしたがって創意工夫をして已まずに精進し続ける姿に、道を楽しみつつしっかりと利益と収量を保持していくという経営の豊かさも感じてまた嬉しくなりました。

人は謙虚と素直があれば、天道地理の自然の道理に沿っていくことに実感を深めます。

今回の体験を通して、私たちのいのちを通して生み出させていく代謝物を次のいのちの糧になるよう、今回教えていただいたことを、実践に換えて子ども達へと継承していこうと思います。

貴重なお時間とご縁を有難うございました。

今を探し求める

古き善きものの理解ということで、温故知新がありますがこれをドイツではロマンティックであると定義していました。

今の日本では明治維新後から、新しいものが良いものであるという価値観が一般的に横行しています。今でも新商品となればすぐに飛びつき、さもそれが目新しければ取りいれるという考え方に溢れているように思います。

どのTVCMも派手なものや珍しいものばかりを取り上げようとしているのもそういう大衆の方が多いということを意味しています。そしてその反対に古いものは価値がないとさえ思われ、もともと先祖たちが遺してきた様々な美意識も今では衰退して陰りをみせています。

私は自然農をはじめ、自然から学びだしてから何が最先端なのかの価値観が逆転しました。

昔は見向きもしなかった道具であったり、家づくりであったり、様々な民芸品、その全てが大変な自然の観察から練り上げたものであるのを実感するからです。なぜ何百年も残っているのか、なぜ今でもそれが本物である輝きを秘めているのかはそれが自然の法則にそって創造されたものであるからです。

本物というのはいつの時代も、余計なものがそぎ落とされ究め尽くした頂点であるからです。

そこからいろいろなものを足していく方が良いはずだという価値観というものは、例えば円い玉に派手な飾りものをしてさも宝石のように見せるかに似ていて宝石そのものではない価値で無理にそれを良く見せるのに似ています。

付加価値というのは大切ですが、本来の価値が観えるというのはもっと大切であると私は思うのです。いつの時代もなぜ本質的な価値を遺しておく必要があるかといえば、それが時代時代にあわせて参考になるからです。

どんな時代も、どこに合わせて修正するのか、どこを視て少しだけ改善するのか、その元となるものを引き継ぐことこそ先祖の遺訓を守ることのように思うのです。

大切なのは新しいか古いかではなく、本物の善きものとは何かという審美眼、言い換えれば真善美が正しく行われることだろうと私には思えるのです。それがどの国の歴史であっても必ずそれを求めて生きた証として様々なものを受け継いでいくことが今を正しく実現することのように思うからです。

真善美というものを理解するには、古きを温め、新しきを知るという両面から錬磨育成していかなければならないと私は思います。一見、矛盾している中にこそその本質を捉える自分の感性が響いてきます。

私の今、もっとも探し求めているものはこの「今」なのだろうと感じます。

さらに直観を高めて、子ども達に遺せるもののを自然から創意工夫し発明していこうと思います。

自らの文化創造

ドイツ研修のふり返りの中で気づいていくものに歴史というものがあります。

その国の歩み方や進み方の中に、過去の経験が活きていてそれがものづくりに活かされたり、生活の智慧になったり、そして思想や性格などになるのです。

例えば日本も昔からたくさんの建造物をつくりあげてきましたし、他国でも創造してきました。その延長に料理というものがあったり、商品があったりと、その国々で究められ生み出された美があるのです。

そして世界では、それぞれの美意識をそれぞれの生き方に取り込んでその国で生まれた精神やその中で練り上げられた心を学び自らの生の質を高めてきたのだと思います。日本製というものが精巧で精密、正確であるのもそういう日本の美学が生きているからでこれはスイスでもドイツでも言えることです。

お互いの文化を味わっていくというものは、どのように自分の国の「ものにした」かということの歴史を感じるとも言えます。

私たちの先祖では、かの空海もただ中国へ留学するのではなくそれを日本のものへ呑み込んで私たちの生活に新しい文化が生まれました。その広さは、料理だけではなく建築、土木、治水、広げてみると大変なものです。その後も、明治維新のときは西洋諸国の数々の文化を呑み込み新しい日本のカタチを模索して取り込みました。この時は急ぎ過ぎたのか、そのまま取り入れたものが今の時代の弊害にもなっています。

正しく取り入れるためには、全てのものを自分で咀嚼する力が備わっていなければなりません。それはよく日本文化に精通し、自らが日本という生き方をしそれを体現し一つの高みまで昇華させた人でないと難しいように思います。

そのためには、自分がどうしたいのか、自分の本当の目的が何か、それを問い続けて自らの文化創造から取り組んでいなければ難しいのではないかと思うからです。

お互いに善いものを取りいれるというのはあっちがいいやこっちがいいではなく、そこに大変な謙虚さや素直さが必要だと思えます。それは本物を見分ける力が働いているように思います。いろいろな環境の中でいろいろな人がいるから人は学んでいくのでしょう。

自分が何をしたいのか、そこから考え直してふり返っていこうと思います。

楽しみ方

ドイツで持ち帰ったものにふり返りの楽しさというものがある。

現在もふり返りを続けていく中で、仕事を含め楽しみというものに3つの大きなものがあるのを感じます。これは旅の楽しみと同じようで、旅は行く前の楽しみ、最中の楽しみ、帰ってからの楽しみと3つあります。

そしてそれを全部楽しむとき、旅の醍醐味を感じて心は遊び旅を楽しみ続けていくのです。そしてその旅が、また次への旅へと誘い、人生がいつも旅によって味わえるという感動を連れてくるように思います。

そして同じように仕事にも楽しみというものがあります。

これは仕事に取り組む前の楽しみ、仕事中の楽しみ、そして仕事後の楽しみなのです。

仕事とはこうやって楽しいものにしていくのは自分の自主的な行動によって得られます。一生かけて取り組む仕事を楽しめるかどうかは、楽しんでいるように旅をするかに似ていて楽しんでいるように仕事ができるから仕事によりのめり込み集中し一体となりより自分から楽しんでいくことができるように思います。

この仕事の楽しみには具体的には3つあります。それは発見や発掘といった気づきの楽しみ、そして創造していく楽しみ、最後にふり返りによる改善の楽しみです。

仕事は全体を通して、色々な気づきを楽しめます。それは今まで気づかなかったことに気づけるということは発見する歓びで、人はオモシロイと感じるものはみんな新しいものを見出した時です。そして創造するという歓びというのは、カタチになっていく楽しみで今まで頭にあったものや漠然としたもの曖昧なものがどんどん顕われていくのはまるで家が建っていくようにオモシロイのです。カタチがどんどん増えていくから、全体が顕われそうしているともうすぐ自分たちの家が建つと思って希望にワクワクしていくからです。最後のふり返りの歓びですが、これはより自分が磨かれていく、上質になる、洗練されて善くなっていく喜びです。仕事がどんどん善くなってきたと感じることは、自分が本物に近づいてきたという歓びで未熟なものが成熟していくように次第に立派に成長していく実感を楽しむものです。

こうやって楽しみというものは、具体的な楽しむものにしていくことで得られます。

ドイツから持ち帰ったものにふり返りがありますが、楽しみ方にもいろいろとあるのだとふり返りをふり返り続ける事から得られています。人生はすべて学びなのだから、見落とさないよう、日々の発掘をより発掘し、日々の想像をより創造し、日々のふり返りでより改善するというのがまさに自分を空にして没頭していくことのように思います。

仕事の仕方というものがあるのなら、それは旅を楽しむように味わうことだと思います。

一番の危険は怠惰と惰性です。
慢心を恐れることは、今、ここへの集中力、即ち常に楽しむかということにあると思います。

日々の生活のなかで、好奇心と集中力を高めてより記憶と渾然一体になりたいと思います。

御土産の種

昨日、クルーの間で先日のドイツ報告を再び行いました。

何を御土産にするのか、何を持ち帰ってきたのか、その御土産の種を共有するのです。その歴史の中にある古き善きもの、その土地にそのまま残っているのもを自分の内面に照らして共通するものを取り出していくのです。

気づきの方の観るということや聴くということもそうですが、何を観たのか何を聴いたのかはすべて自分の中から探していくものです。そうやって自分の中から感じて出てきたもの、探し出したものを観てもので発見したらそれをそのままにせずに掘り起こして思い出したままに自分に活かしていくのです。

これは才能などとも同じで、もともと自分の中に備わっている才能を磨き開花させていくのに似ています。人間は感性が鈍ってくるともともとあるものを使おうとしなくなっています。例えばそれは冷暖房があるところにいると次第に肌感覚や体内器官を衰えさせ自分の内から体温調整をしなくなっていくのと同じです。

人は最初から自分のものを使おうとしないと、次第に他人のものでやろうとしていくものです。つまり自分の力を使わないでも済む方法にマンネリ化されていくのです。

だからこそ人を当てにせず、危機感を持って全ての物事に主体的に自主的に取り組んでいかなければ自分のセンスも永遠に開花していかないのです。成長が止まるというのは、実はこれのことで自分のもともとあるものを磨かなくなることを言うのだと思います。

それに加え今は教えられたや気づかされたという発想が通常ですが、ここでの気づいたことは一般的には足し算のようになっています。つまり気づきが足し算だと思っているのです。そうすると、気づいたのになぜか長続きしないと悩んでいます。しかしそれは私にとっては刷り込みで、単にもともとあるものに気づかず外から借りたものだったりして受身になったり流されたから感覚が鈍って使わなくなってしまっていたともいえるのです。

素直というものでも同じです。

そういうものがもともとあったのを次第にそうではなくても世渡りが上手いこと生きてこれたなどで一度その味をしめてしまうと素直が何かというセンスが衰えていくのです。本来はいつも正直でいることや素直でいること、直向でいることができているから自分の持ち味というのは生き活かされていくのです。

私もすぐにメソッドやノウハウなどに惹かれるときがありますが、その時は心の力、もともとの自分のいのちの力を使おうとしないでやろうと考えているときです。本来はやはり「覚悟」であろうと思いますが、そういうものが出ないのはまだまだ自分にとって都合のよいように身をおくからだと思います。

二宮尊徳に「飯と汁と木綿着物は身を助く。その余はわれを責むるのみなり」があります。

覚悟というのは、自分の内面から出してくるものですから常に内省と学び直しが必要です。

持ち帰ったものをそのままにするのか、それを正しく活かし続けるのかはその覚悟の力です。
そしてそれが長く続けば続くほどに、そこに信の一念が積み重なっていくように思います。

まだ見ても観得ていないことがあり、聞いても聴いていないことがあります。ドイツのふり返りをさらに続けていますが、御蔭でまだ発見が掘り起こされてきます。師友との有難いご縁とその道中に心から感謝しています。

しっかりと、覚悟から観て実践から感じて子どものための本質を貫いていきたいと思います。

シンプル

思想に遊び、本質でいるために刷り込みを取り除くのはシンプルを目指すからです。

シンプルというものは、全てのものがそぎ落とされ必要であるものだけに絞り込まれるともいいます。つまりは真善美そのままがそのままに顕われたともいえます。言葉では表現しにくいものですが、大変複雑なものを一つのカタチで表したり、一つの言葉で伝えたり、一つの道具で観得るようにしたりとも言うものです。

東洋西洋の垣根もなく、本質やシンプルさというものは人間が自然そのものになったというものに如何に近づけていくかということであるのです。特に今の時代のように複雑に生きている時代は、何が生きる事かということも忘れてしまっているものです。

もちろん山中で仙人のように暮らすのではないのだから、何が本質的に生きるのかということも考え抜かなければ自らの本質に近づくことはできません。周囲から分かりづらいと言われるのはそれだけ世の中がシンプルではないからでもあろうと思います。

何をしようとしているのかというのを、何のためにかを透徹するまで深め磨けばやっている実践はシンプルであることを証明するのですが周りにはそれが観えないだけであるのです。言葉も行動も思想も全部はシンプルであることが本質であるという証拠なのです。

アップルの創業者であるスティーブジョブスもシンプルに徹底してこだわった人のようで著書「Think Simple」に下記のような語録が残っています。

「シンプルであることは、複雑であることよりもむずかしい。物事をシンプルにするためには、懸命に努力して思考を明瞭にしなければならないからだ。だが、それだけの価値はある。なぜなら、ひとたびそこに到達できれば山をも動かせるからだ」

心を打つ言葉やカタチや行動には普遍性があります、それはその人が探求し已まない情熱で究めた真実が存在しているからです。そしてここでの到達するという場所そのものが本質のことです。

子ども達のためにももっと気づきに気づき掘り下げてそこから引き揚げ、本来の真理が観えるところをカタチまでへと昇華しかんながらの今へと辿り着きたいと思います。

そして世の中をシンプルに、商品をシンプルに、自分をシンプルに同時に一変していきたいと思います。