覚悟の学び

人は何かの判断をするとき、そこまでしてまでもやりたいのかというのがある。

子どもを観ていたら、やりたいことをできなかったとき、それを大人に抑制されたとき、反発してきます。自分がやりたいと思うことは、それが必用だからやりたいのであり別に意味もなく反発するのではなくそれが大切なことだからやりたいのです。

そこまでしてでもというのは、本当にやりたいかを自問することに繋がっています。

そしてそれを実現するのに、遣り切るというものがあるのです。

昨日、ある園での情報交換の中で楽しいのは遣り切っているからではないかという話をしました。好きというのは、そこまでしてでも好きかということ、そして遣り切っているというのはそこまでしてでも大切なことだと感じたからというものがあるのです。

自分が自分を好きになるのは、自分が好きなことを遣り切るからです。

そして自分が楽しいと思えるのは、自分やりたいことを遣り切っているからだと思うのです。自分自身を尊重したり認めるというのは、やりたいことをやりきるときに感じるのだと思います。

自分が分からなくなるのもまた、この自分を抑制して我慢をさせているからだとも思います。
本来は、教育は社会の中で自立できるように導き育てることなのでしょうが実際は社会に適合させるための人を目指しているようなものになっています。

それでは社会の中での自立ではなく、社会の中での依存や孤立を生み出してしまいます。

自由と自律、自立や共生というものは、自分が好きなことをやっていい、そしてやりたいことは遣り切っていいと認め合う環境の中で醸成していくものだと感じます。そしてそれが全体にとって正しくあるように原理原則や法理などを指導配慮していくように思います。

遣り切った分だけ、自分のことが知覚できるように思います。
本当は何なのかも、そのプロセスで実感できるように思います。

人生は常に遣り切った者価値です。

これからの子ども達のためにも、そこまでしてでもの覚悟の学びを高めていこうと思います。

自分を省みる

自分を省みるのに育てるというものがある。

今の自分は昔の自分が育てたような自分になっているといってもいい。
そして自分の周囲ももちろん、育てたように周りが存在している。

つまりは自分自身の育て方によって、自分も周囲も育っているのです。

例えば、過去に自分の都合よく周囲に接してそういう自分というものを育てていれば今の自分が思っているようなものになっているのです。つい相手が育ったとか育っていないとか相手に矢印を向けてしまいますが本当は自分がそうなるように育てたのではないかということなのです。

そして特に仕事では分かりやすいことに、育てないということがあります。営業の仕事ができるように育てられても、マネジメントができるように育てていないのならばその人は営業でしかないのです。また周囲と協力して仕事をできるように育てるのではなく、個人で職人のように働く方法しか教えていないのならその人はそういう風にしか育っていないのです。

営業の育て方とマネジメントの育て方とは異なり、そして同じく一人で仕事をするのと周囲と協力して仕事をするのは同じではないのです。

その人の働き方に文句を言う前に、如何に自分がその人や自分自身を育ててきたかを省みることが大切であると思うのです。今までやってきた仕事の仕方が合わないと感じるときはチャンスで、それは新しく育ちなおそうとしているとも言えるのです。

人は環境を変えてみて育つこともできますが、同じところで育ちなおすには関わり方を変える必要があります。よく周囲を観て、本当はどのように育つことがいいのか、今までの刷り込みを取り除かなければなりません。

そしてそれは、育てる側と育つ側の思いやりによって実現すると私には思えるのです。

思い通りに育っていないと思う前に、思い通りに育ててきたのではないかを省みるのです。
だからこそ、素直に気づいたら自らを変えていくことだと思います。

こちらの関わり方や自分の在り方を変えていくための育成であると思います。
何度も挑戦しては、省みて気づいて自分から変わっていくことこそが尊いと私には思います。

心を遣い実践を高めていこうと思います。

 

子どもに遺すもの

内村鑑三に「後世への最大遺物」(岩波文庫)がある。

以前より、代表的日本人の定義が何であるのか、なぜ書き記すのか、そして今はどうあるべきかなどを深めていた時にふとタイトルが気になっていたけれどインスピレーションがありこのタイミングで出逢うことができました。

もともと友人である新渡戸稲造の武士道と共に日本人というものの本来の精神性、将来と世界にどのようにこれを伝え発信するか、それはやはり私たちの国に具わっている本来の大和魂そのものに対する祈りの行動であったように思います。

今の時代は、私たち日本人の誇りというものを見失ってきているように思えます。

戦争に負けて、世界の文化に入り混じりそもそも私たちはどのような生き方をしてきたのか、そしてどうあったのかというものも次第に忘れ去られていこうとしているからです。

しかしこの自然の美しい国に生まれ、私たちが天地の間でより善く生きた証は何よりも私たちの血脈とその精神性に根付いているはずなのです。

そうしてそれを後世に引き継いでいくこと、遺して譲っていくことこそが先人たちの願いで後人たちへの祈りではないかとも私には思えるのです。子どものことを思えば思うほどに、何を遺せるのか、何を遺すのかを考えない日はありません。

そしてここに代表的日本人と同じく、大切な日本の心、大和の心というものがあります。

私に響き共感するところを連ねて抜粋していきますが内村鑑三は先述した著書の講演の中で、このように魂に語りかけてきます。

まず、

「私は何かこの地球にMemento(メメント)を置いて逝きたい、私がこの地球を愛した証拠を置いて逝きたい、私が同胞を愛した記念碑を置いて逝きたい。それゆえにお互いにここに生まれてきた以上は、われわれが喜ばしい国に往くかも知れませぬけれども、しかしわれわれがこの世の中にあるあいだは、少しなりともこの世の中を善くして往きたいのです。」

そして後世への最大遺物としてこう続きます。

「それは何であるかならば勇ましい高尚なる生涯であると思います。それが本当の遺物ではないかと思う。他の遺物は誰にも遺すことのできる遺物ではない思います。しかして高尚なる勇ましい生涯とは何であるかというと、私がここで申すまでもなく、諸君もわれわれも前から承知している生涯であります。・・・」

ここで二宮尊徳を例えに、生涯ということを省みます。

「それでこの人の生涯を初めから終わりまで見ますと、『この宇宙というものは実に神様・・・神様とはいいませぬ・・・天の造ってくださったもので、天というものは実に恩恵の深いもので、人間を助けよう助けようばかり思っている。それだからもしわれわれがこの身を天と地とに委ねて天の法則に従っていったならば、われわれは欲せずといえども天がわれわれを助けてくれる。』というこういう考えであります。その考えを持ったばかりではなく、その考えを実行した。」

そしてこう締めくくります。

「それにゆえにわれわれは神がわれわれに知らしたことをそのまま実行いたさなければなりません。こういたさねばならぬと思うたことはわれわれはことごとく実行しなければならない。もしわれわれが正義はついに勝つものにして不義はついに負けるものであるということを世間に発表するものであるならば、その通りにわれわれは実行しなければならない。これを称して真面目なる信徒と申すのです。・・」と。

今に生かされ今を生きる自分の本来の使命を感じつつ、真心のままにかんながらの道を真面目に往こうと思います。

力を実らせ、そして譲る

二宮尊徳の高弟に、富田高慶がある。相馬藩にて報徳仕法を実践し、二宮尊徳の意志を受け継いで数々の成果をあげた人です。

歴史には、功績を上げるために何かをする人と、思いやりや真心をもって人々のために尽くす人がいます。前者は、他人のためといいながら実際は自分の名誉や地位、その欲のために行うことになりますが後者はそういうものではないもののために譲り尽くそうとするのです。

二宮尊徳の実践は大変厳しく、常に民の立場を慮り民の心になってともに過ごし上からの報酬などは一切もらわず質素に事を為すことを誠をもって勤めていきます。

人はすぐに功績を自分の物にしたいと思うものですが、そういうものがあるから余計な気持ちが芽生えてくるのだと思います。我が我がというものがあるのも、いつまでも過去の功績にしがみ付いてそこから離れないのもそういうところから来る人間の欲であろうとも思います。

不思議ですが、囚われのない人は融通無碍に自分の功名などは気にもならないのでしょうが次第に人は自分の立場などの認識を持ち謙虚さを見失っていくものです。

そもそもその功績とは本来は天に与えられたもので、それに自らが人事を尽くさせていただくことでお役に立つ幸せを実感することができるとも言えます。つまりは、天の法則に対して人の道を尽くすということで私たちは生き生かされて互いに安住安心していくことができる生きものともいえるのです。

二宮尊徳の意志は、富田高慶というご縁を経由しその意志が松下村塾の品川弥次郎、西郷隆盛、渋沢栄一などに引き継がれて日本の経済の礎になっていくのです。このご縁というものの中では本物は感化しあうというか、必ず道が繋がっていくことを思えば真理真実の真心の道を実践した人たちは必ずいつの日か天の下で通じあう日がくるのだと思えます。

その富田高慶の組織改革の重要性について下記の語録が残っていてとても共感しました。

「それを主張した者が、己れが功を取る気になるといかぬ。十分に骨を折って、功を人に譲る気ににならなければならぬ」

(これは自分がやろうと言い出した人が、自分がそれをやったのだという功績を持とうという気持ちが一番いけない。何よりも誰よりも苦労をかってでて、その仕事に何よりも尽力し、その成果や功績は他の人に譲る気持ちにならないといけません。)と。

これはとても至言であると私には思います。

人はすぐに自分の功績にしたいから、どうしてもその身につけた力をいつまでも私物化して手放そうとはせず、そしてそれは自分がやったのだとしていつまでも他の人に譲ろうとはしません。譲ろうとはしないのは、自分の功績だと思っているからで本来はもっとお役に立ちたいと思うならそんなものにしがみつかずに誰よりも大変なことの方に取り組んでいくのが本来の人の道の姿であろうと思うからです。

そもそも謙虚になれば自分がやったのではない、これは皆の御蔭様をもって皆のために自分がその尊いことをさせていただいたからこそそれを為したらその功績と力はすぐに他の人に譲り、さらに自分はもっと大変な方を選び、その苦労を自らがかってでてももっとお役に立とう、そのような仕事を自分にさせてもらおうというのが推譲の精神のことであろうと思うからです。

そして志と力がある人ほど、そのように謙虚であることが何よりも周囲を活かし組織を改革していくのだろうと思います。

「実るほど頭を垂れる稲穂かな」

成長していく方を選んでいく人生、御役に立つためにいのちを活かしていこうとする人生、常に自身の人格を磨き、謙虚に取り組んでいけるよう初心を大事に精進していきたいと思います。

自然の学問

料理をするときに、レシピに書いてあるのを創るのと自分で創りあげていくものがあります。

私の場合は食べたものや味わったものを、感覚的に理解してそれを創造していくときに料理の楽しみを味わいます。様々な食材がどんな味になるのかを共通するところに集中し想像しながら近づけていくかのようなものです。

これは上手な言い方が分かりませんが、共感や共鳴といった共通するものの組み合わせを楽しんでいるように感じています。

この共にするということの本質は、全て自分側の方から働かせていくものであって相手や対象物に合わせることではありません。心はとても不思議でそういう万物全てのものが容れてあってそれをシンクロさせていくことができるように思うのです。

そして生きる力、その学び方というのはもちろん基本としての自然の法理や法則があることは大前提ではありますが色々なことを日々に体験し観察し、それを発掘し、真似をしていくことで自分のものにしていくことが学びの真の歓びであるように思います。

この自分のものにするというのは、簡単そうで決して簡単ではありません。善いものを取り入れるには素直な心が働かなければならないように思うからです。それは共通しているということがわかりそこから智慧を学びとることを行っているからです。

自分と共通するということは、自分の中に共通するものをどう発見するかと同じで自分の中にあるものを見出す内観がなければそれをものにはできません。

自然界には、学ぶものばかりですがそれを自分はどれだけものにしているのかと思うと本当に未熟です。それは智慧というものまで行き渡っていないからのように思える事が多いからです。

私が自然の中にいることがもっとも学べる理由は、自然にはどんな事柄からも学べる素地に満ちているように思えるからです。

今朝の雨であっても、昨夜の風であっても、もちろん木々の感じ方であっても、それをどう感受してどう感得しているかということから学びはさらに深まっていくように思えるからです。生き方からあり方から共に学べることは無限に存在しているのです。

孟子にこうあります。

「学びて厭わざるは、智なり。教えて倦まざるは仁なり。」

学ぶ事を嫌がらないものは本当の智者で、教えて飽きない人は本当の仁者だとありますが、自然界はすべて自習自得の世界であるように思えます。

そして続けてこうあります。

「これを自得すれば、すなわちこれに居ること安し。これに居ること安ければ、すなわちこれに資ること深し」

これは私の意訳ですが、(他人から無理に学ぶ人ではなく自習自得する人はいつも安心して学び続ける事ができる。そしてその安心した境地で自主的に学び続けるからいつも智慧を得られるのです。)ということになるのだろうと思います。

私にとっては私も自然の供であり、そして自然は私の先生そのものです。

最後に孟子でこう締めくくります。

「万物みな我に備わる。身に反して誠なれば、楽しみ、これより大なるはなし。」

自然と共に道を往き、真心の中にある学問をいつも楽しんでいきたいと思います。

虫も草も家族の一員

自然の中で農を学びつつ、自らの道に照らして一年が経ちました。

自然農のコンセプトの虫と草を敵にしないとありましたが、これもやってみて分かることがあったのですが今の時代の農法では農薬や除草剤により常に虫や草が敵だとみなしそれをどう排斥するかということに取り組んできたもののように思います。

あの手この手を用いて、様々な方法で虫も草も増えないようにとしてきたのです。

実際に作物を自然の中で野生的に育つのを見守ると、大量の虫たち大量の草たちが発生してくるのが分かります。その中で一緒に育っていくのが野菜なのでしょうが、それでは虫に喰われ、草に負けてしまうと思い込んでいるようにも思えるのです。

もともと最初から自然界は、持ちつ持たれつ、食べ食べられることで成り立ちます。

葉っぱを食べる毛虫を蜂が食べ、また別の葉を食べるバッタをカマキリが食べ、それをまた鶏が食べ、その卵を人間が食べと、常に食べ合う関係で成り立っているとも言えるのです。もしもその食べる関係が壊れれば、当然食べるものがなくなってしまいます。

虫がたくさんいるということは、食べ物がたくさんあるということですし、雑草が生い茂っていることもそこには食べるものに溢れているということです。自然界では、それは共に生かしあっていく楽園であるのです。

農園を楽園にするのか、農園が苦園にするのかは、人間都合でやっているともいえるのです。

今は私のやり方が注目され色々と非難されるのは、今まで自分たちがやってきたことへの否定や自分たちが正しいと信じてきたことへの挑戦であるように目に映るのかもしれません。

しかし私はただ虫も好きで草も好き、そして自然が好きで仕方がないからやりたいと思うのです。これは子どもが好きということも同じで、純粋に素直に好きだと思うから垣根が低くなり、障害がなくなっていくようにも思うのです。

もちろん虫には刺されるし、草にも負けるし、作物だって3分の1以上は食べられてしまうこともあります。思い通りにはいかないことがほとんどです、しかしこれは慈善でいうのではないですがその御蔭で生きものたちがいることを実感でき人間だけではないことを知り、食べるということが何かを覚り、自分の取り分がいただけることに感謝の念が湧いてくるのです。

虫も動物も草も、独占しようとはしていない、必ず食べる分しか食べないということも分かってくるのです。急激に害虫が増えるのは人間が自分の都合で減らしたりするから一部のものがたくさん食べれば同じくその食べる対象がいなくなるのだから一部の生きものだけが増えてしまうのです。

虫も草も敵にしないという言い方よりも、私には虫も草も家族の一員と思った方がいいかもしれません。それが私が虫を育て雑草を育てていると笑われている由縁かもしれませんが、地球の中でみんなで棲み共に暮らしていく豊かさを味わい尽くすことが繋がりという安心へと導くのです。

これからもこの永続してきたいのちの共生の体験と気づきを一つでの多くの子ども達の現場に引き継いでいきたいと思います。

本物のリーダー

運を伸ばすというのは素直でいるということにはっきりと自明するご縁があった。

昨日、ある組織の幹部研修の中でリーダーについての講義があり、そもそもリーダーとは何かともう一度私も感じてみるとやはりそこには運が善い人であるようにも思えたのです。

人が着いていきたくなる人はやっぱり運をもってそれを伸ばしていける人のように私には思うのです。もちろん、リーダーの人格や人徳、その志や向上心、誠実さやバランス感覚など総合的にリーダーは分析されていたりもします。

しかし一番何にとってリーダーの資質があるかといえば、私にはどうも運が関係しているように思えるのです。

この人といることは運を伸ばすことになるという確信は、言葉にはできませんがはっきりと持っているように思います。そもそも自分というものは、自分の実力を勘違いしているときの方が焦ってしまいキャリアや地位など外側の自分の願望に魅せられるように思います。

若い時は、腰を据えて根をはっていくようなことよりも早く伸びようと伸ばそうと躍起になるばかりで地に足がついていないようなことを繰り返して質を高めることよりも量を追っていたものです。しかしある一定の挫折を経験しそれを深めていく中で質というものに転換され今度は来たものをどれだけ選択してそれをものにするか、意味づけしそれを次に活かすかという枝葉を伸ばしていく時期になるように思うのです。

どこまで伸ばすかというよりも、その根の分だけ上へと伸びていくように思います。この後は、まだ体験が深まっていないのですが花をつけ実がなり種となっていくのだと思います。このめぐりというものを思うとき、やはりそこには運というものがはっきりとあってそれを如何に伸ばしたかというものが大切であるように思うのです。

そしてその運を伸ばすというのは、どれだけ素直になっているかということに尽きるようにも思います。ここでの素直さというものは、どれだけ運が善くなるような生き方をしているかと捉えてもいいようにも思うのです。

言葉にするのは難しいのですが、やはり運の善い人というのはいます。例えば、よく他人のお世話をし誠実で前向き、最期まで遣り遂げ、丹誠を籠めて取り組む、または強く優しい思いやりがあり、ピンチをチャンスに換えて笑顔を絶やさず周囲に信の環を広げていくなど、キリがないですがこのように運に恵まれる生き方を大切にしている人が運が善い人だなと思えるのです。

そう考えてみると、運を伸ばすというのはそういった生きていく上での大切な智慧をものにしていく人のようにも思えるのです。そしてその智慧を使える人というのはやっぱり素直な人、そういう真心の人柄の薫る人物であるようにも思います。

ロシアのバルチック艦隊を破ったかの東郷平八郎の逸話に、なぜ国家の命運を懸けた戦いの海軍の司令官に彼を選んだのかと明治天皇が山本海軍大臣に尋ねると「東郷は運の善い男ですので」と答えたといいます。

日本の命運を懸けたような時、それを導くリーダーの条件は「運が善い」ということなのです。

これは楠木正成などでも深めてみて気づいたのですが、やはり運が善くなるような生き方をしている人だからこそリーダーであるのだと実感した気がしています。真のリーダーとは、このように素直な実践を続け運を伸ばし、「真善美というものを追及していく人物」のように私には思うのです。

私が同行している師を確信する理由はすべてこの運に確信があるからだと実感しました。

人生の中で、このように振り返り省みて自明する機会を得られたことにご縁の不思議さを感じるばかりです。人生は本当に面白いと好奇心に心を遊ばせていたら、一期一会の歓びと幸福観に満たされ自然に偉大で尊い感謝の豊穣の気持ちがこみ上げてきます。

貴重なお時間、貴重な出会いをいただけたこと、この学びに天の真心に感謝しています。
また道を歩みゆく中での運のめぐりを楽しみに学びを実践していきたいと思います。

有難うございました。

天与の才、天与の心

人はつい油断すると傲慢になって自分の存在に驕りが出てくるのものです。

例えば、自分の力というものでもそうであろうと思います。

もともと自分の力は自分でつけたものだと思っている人がほとんどですが、実際はその力は何かによって与えられたものです。例えば、両親によって身体が与えられ、たくさんのいのちをいただきながら維持し、天地自然の中で私たちは生命を持続させていくようにその自分の力というものも同じく天から与えられたものであると思うのです。

自分というものを私物化するところから、傲慢さというものはでてくるのだと思います。

その延長が国家であり、組織であり、資本主義の課題でもあろうとも思うのです。

もともと自分のものと思うのは、それが私的なもの、つまりは私物であるというところから問題が発生するのだと思います。これがもしも自分や自分の能力、才能はみんなのもの、自分は公器であること、自分のお役目は皆さんへ貢献することだと気づいていればいつまでも謙虚さを失わないようにも思うのです。

会社も自分の私物にし、仕事も自分の私物にし、時間も私物、気づきも私物、何でも私物化すればみんなと一緒に何かを行うずっと以前に自分勝手に自己中心的な人たちなのだからいつまでも同化せずにバラバラになってしまうと思うのです。

すべてはお借りしているもの、いつかはお返ししないといけないと正しく思っていたり、もしくはこれは天から頂いたものだから皆さんに活かさないといけない、または有難い能力を授けてくださったのだからお役目を果たそうと思う心にこそ、素直さや謙虚さが働くようにも思います。

それが一人はみんなのために、みんなは一人のためにの本質であろうと思います。
つまりはもともとは自分もみんなも個人の私物ではない、公物、みんなのものという意味です。

今の時代は、何でも自分のものかどうかということをはっきりさせる世の中のように思います。だからつい人は自分のものばかりにしようと躍起になっているようにも思います。しかしもともとは自分だけのものにしていいはずがないのです。

子ども達だって、子どもたちは天から与えられた大切な宝でもあります。そして自分の子どもではなく、子どもたちはいのちの中のみんなの子どもであるのです。だからどんな子どもも大人たちは育ちを見守っていく必要があるようにも私は思うのです。

そして話を戻しますが、この自分自身で生来からいただいたこの力も祈りの中で磨かれ授かったものですし、真摯に志を実践し、一期一会の真心の出逢いによって顕われてきた天与のものであろうと思います。

つまりその天与の自分、天与の才を如何に多くの人達の役立てていくか、それを思うとき私物としている自分を内省し、これでは宝の持ち腐れになってはいないかと姿勢を謙虚に見つめ直さなければならないのではないかと反省するのです。

この天与のものを活かすとは、天与のものであるという自覚によって生まれると思います。
いつも天の心を感じていたら、心が震えてきます。

忘れないためにも感謝の気持ちをカタチにしていきたいと思います。

子どもを先生に

昨日、GTサミットの中で藤森代表から「私たちは子どもの姿を先生にする」という話があった。

私も自然から学ぶとき、同じように子どもから学ぶ事の尊さを実感しそこに真実があるようにいつも思えるのです。

子どもが育つということ、生まれるということ、育てるということ、この「育」つというのはとても深い真理が潜んでいます。育という字の語源は、子どもが逆さまに母親から出てくるという文字から形成されています。

私にはこの逆さまということに大切な意味があるように感じるのです。

子どもの視点から物事をみたら、この世はどのように映っているのか。
子ども側から、育てるや育つ、生まれるとみたらどうしていることが自然なことなのか。

子どもと接する自分を省みるというのは、子どもの方が正しい存在して自分が果たしてどうなのかに気づくことのように私は思えるのです。

子どもに求めるよりも、自分自身の心の眼差しがどうなっているのかを省みるときはじめて子どもが先生となるのです。 しかし今の先生は、そうではなく先生の方が子ども達に求めてばかりで子どもたちからの本当の求めには応えようとはしていないように思います。

子どもの発達を信じて見守るというのは、本来の先生とは誰なのか、もともと先生とは何かというところに立脚することのように思います。

子どもを先生にして、自分自身を変えることに素直であることではじめて子どもの先生になるように思います。当たり前のことに気づける感性を、今の世の中の世間知を打ち破る強い信念を醸成して、子どもの周りに自然を呼び戻していきたいと思います。

教育保育の本質

昨日はGTサミットが、東京で開催された。

全国各地から保育理念を同じくする仲間たちが集まり、それぞれの実践の取り組みを拝聴するのは刺激をたくさんいただけます。

それぞれの園が試行錯誤しながらも、何をすることが子どものためかということを本質から省みて、最終的には見守っているかどうかと自分に矢印を向ける。私には、保育を志す真心に感じて子どものために実践を真摯に取り組むそのものの姿勢が何よりも尊いと感じるのです。

見守ったか見守らなかったか、信じたか信じなかった、できたかできなかったというのはあまりここでは問題ではありません。自分が決めた道、自分が信じた子どもを信じる道を歩もうと決心し、そこに直向に精進していくことこそが尊いことでそれが教育保育の本質だと私は思います。

人はつい頭で自分の都合よく物事を解釈し、自分の思った通りにいかせようと考えます。

しかし頭で考えたことは浅はかであり、本当に自分がやりたいかと自問すればそうではないことがほとんどなのです。自問は心が澄んでいるとき、もしくは魂がうずくとき、自分自身が自分で納得して実践する決めたまさにこの世の中の信した念のビジョンの世界です。

一度それをやろうと決めたなら信念を磨き、試練を糧にし歩んでいくしかないように思います。

共生の中にある親や子どもを思う心というのは、親子の道、天地の道、かんながらの道です。

そこに、確かな天の真心、人の愛が満ちていてそれを自ら糸を紡ぎ伝道したいからこそ魂は歩みを止めないのだろうとも私は思います。人は、本気で生きていれば必ず人と人との間にある確かな真実を確かめたくなるものです。

幾多の困難もあるかもしれませんが、天の試練は確実に自らの使命に気づくチャンスです。
数は急には増えませんが、着実に保育が広がっていることに歓びを感じ遣り甲斐を感じます。

何が本当に子どものためなのか、子どものためとは何をすることか、分別智を超えたところで真摯に学問をしていきたいと思います。自らが丸ごと信じる生き方そのものを、教育保育で彷徨うことがないように子どもの周りに自然を顕現させ、これからも広げていきたいと思います。

素敵な一日を有難うございました。