自然界と人間界3

元々集団で生きている動物に猿やチンパンジーなどがある。
人間がよく例えられるのは行動が似ているからでもある。

例えば、先日ある農園で最近イノシシやシカやタヌキなどが、畑を荒らすという話をしていたときに彼らはまだましでもっとも面倒なのはサルだと口を揃えて皆が話をしていたのを聴いた。それはなぜかと話をしていると、道具を使う上に狡猾だからだと話をしていた。

まるでどこかの話だなと思いながら聞いていたけれど、人間界での出来事と同じく自分たちの群れを守るためなら猿山合戦を繰り返して終わりのない勢力争いを続けている姿を見ていても似たようなものだなと思います。

その群れの中でも徳の高いサルが出れば群れはよく治まります。ジャングルなどでも、繰り返される弱肉強食の世界でそういう群れのリーダーがいれば争いも少なくなり平和に修まっていくのです。

それをまず理解し、人間界ではどうあるべきかを考えるときもしもこのサルで例えればすべての動物のことを考えるサルがいたらどうかということなのです。サルが自らの群れのことだけを優先せずに全動物の調和や豊かな森を維持するためにと考えるならばどうなるでしょうか。

人間が自分たち人間のことしか考えなくなると、必ず所属する群れという国家というものを優先し争いはいつまでもなくなりません。それは元々生存していくためのそういう本能を持っているからだともいえます。 しかしそういうものを乗り越えていくことで、リーダーとして自然の調和を司ることができるのだともいえるのではないでしょうか。

自然界では、当たり前にそれぞれがそれぞれで自分らしくいることで調和を永続しています。人間は群れの大きさや安定などのために、何度も何度も争い続けます。

目先の集団の利益ではなく、全体の集団として捉える壮大な理想が必要なのだと思います。
もしも自然界というもので生きている人間としての使命を覚えれば、動物たちや植物たちが安心して暮らしていけるような世の中にしようと思うことはこれだけ科学技術を発達させてきた私たちの役割ではないでしょうか。

また人間の社会が、また目先にならないように如何に全体のために生きようとする人々を育てるかはその人間を全人類としてひとまとまりとして考えるのがすべての国のリーダーの共通理解であるべきではないでしょうか。

今、時代は二度の大戦を経てついに次への舵取りを迫られています。

視野を広げ、本来の人類がどうあるべきかを色の違う、住処が異なる生活ゾーンが分かれているサル集団同士の問題だけに躍起になるのではなく どうやってこの刷り込みから抜け出せるのかを議論して人道というものをまとめていくことではないかとも私は思います。

結局、派閥争いや集団のいがみ合いではいつまでも目先に囚われるのだからもっと全体としての自然界から学び直していくことで原点回帰し新たな役割というものを再定義していくことになるのだと思います。

子ども達と一緒にこれからも考えて動いていきたいと思います。

2012年のテーマ

昨年も無事に様々な新しいことを学び挑戦した一年になりました、これも皆様とのご縁により生まれているのを覚えると心からその一期一会の出逢いに感謝しています。

全ての出逢いには学びがあり、それを尽くしていくことで互いに成長していくのだと思います。
人は命は全てのものとの繋がりの中で活かし合っていくのだと改めて確信を覚えます。

一見意味のないような関わりに観えても、そこには隠された意図がある。
心と心の対話、つまりは裸になっていくことで自分の存在が明らかになっていくのでしょう。
心を澄ませて対話をする日は、思っていた以上に素敵な邂逅を与えてくださいました。
続けていける日までの道中ですが、これもまたご縁とし味わっていこうと思います。

また今年も師より新たなテーマを戴きました。

毎年、学問を通じて道中を同行できる歓びは最高の贅沢であり、師には長生きをしてほしいと願うばかりです。実践を通じて学びあい分かち合う日々は、それほど偉大な感動と感激に満ちているということを学べるのも師がいるからこそであろうと思います。

今年のテーマは、

「一呼吸おいて物事を観ること」

これは間や遊び心といい、虚空よく物を容るではないですが呼吸と呼吸の間での阿吽からよく学びこむということではないかと今は認識しています。 認識はあくまで認識ですから、学問とかんながらの道を通じて今年もまた実践し丁寧に掴み取っていこうと思っています。

最後に人間の一生には自然と同じく四季があります。

もっとも動いていないで停滞しているようなときこそ、冬の寒に耐える時期であろうと思います。自然は知っています、寒い時期にはどうすればいいのか、そしてよく観察すれば根は確かに地中奥深くにしっかりと根付いています。動いていないときこそ、強い気を蓄えているのも傍に寄り添ってみるだけで感じることができます。

これが春が来て、新たに種から種へと循環する中で偉大なエネルギーに受容されながらまた一つの役割と生涯を果たしていくのだと思います。私たち生命は、地球がまるで呼吸中でその胎内を巡りながら輪廻していくようなものです。新しいステージを迎え、新たな呼吸の間を感じつつ、いよいよ今までの冬の忍耐が次の春への元気の源になり自発していくのだと思います。

その季節季節を心から楽しみながら融通無碍に円満に日々を暮していきたいものです。
子ども達が憧れるような世界を創造するために、勇気を出して今年を切り開きます。

今年もよろしくお願いします。

伝統

人は世代を通して強くなっていくものである。

先代が創りあげた中で足りなかったものを次代が刷新し、そしてまたその次代がさらにバージョンアップしていくように参代にかけて学び続けて一つを完成させていくようにも思う。

自分で体験していく中でしか気づけないというのは、繋がりの中で継承していくからであろうと思う。元々、一つのことを為すにはかなりの長い時間がかかり父親譲りのところ、母親譲りのところ、祖父譲り、祖母譲りなどというように譲られている自分が存在している中で執り行われるのである。

その譲られているというのは、強さも弱さも同時に譲られているのでありそれを次代が引継ぎそれを進歩躍進していくことで伝統が保たれているのであろうと思う。

伝統とはありのままの善悪渾然一体となったものをまるごとそのままに譲られたということなのである。

それをどう自分が体験し、正しく理解しそれを形にしていくかというのはその人の一生涯により実験されていくのだと思う、そしてその実験された記憶がまた種に凝縮され次代へと譲り渡していくというのが生命の繫がりであろうとも思います。

自分の代を如何に真摯に全うするかというのは、その次代にそれが受け渡されるという責任を感じるところから生まれるのだとも思います。今、自分を思うと様々なものが譲られていることに気づけるものです、それがトラウマであったり幸せであったり、または苦悩であったり、感動や感情であったり、心も体もそのすべての真実の形が長い時間をかけて形成されていることが現実としてあるのです。

自分が今生きる中で今までの偉大な繫がりの中にいてそしてこの先もずっと続いていくのだろうということを自覚することは、今の自分を丸ごと受け容れることでもあるのです。

今の自分が丸ごと受け容れられれば、自らで体験したことで気づいたことはすぐに学び、すぐに改善していくしかなく、そうやって子々孫々が同じ失敗をしなくてもいいように配慮していくことができるようになるのだと思います。同じ失敗をしてほしいと思う親はいないと思います、その失敗を自分が何とか乗り越えて新しい次代になってほしいと願うのが本心であろうと思います。

歴史を正しく理解し、歴史を学び、今の自分の在る有難さを感じるというのは滾々と流れている生命の伝統を自覚することなのだと思います。日本は、神話の時代から天皇がいてその継承したものを私たちは眼にも見えることができるというのは本当に有難い日本の伝統だと感じます。

しっかりと自分の目と耳と手と体で実体験したものを譲り渡せるよう真摯に自らの役割を果たしていきたいと思います。

教わること

生きていく中で謙虚で素直であるかということはとても大切なことである。

いつも自分が自分を守っていたら誰もその人に本当のことを教えてくれることがなくなってくる。そのまま大人になってしまえば、プライドばかりが残り、大切なものに気づかずに感情に呑まれてしまっていることもある。

例えば、恥ずかしいということも知らなかっただけで知ってしまえばできなくなるのだけれどいつの年齢になってもそう思えないのはそれまで誰も教えて下さる人がいなかった、いやそういう人を自分が遠ざけているからでもある。

誰かが教えてくれるということは、自分では気づけなかったことを伝えてくれているのであり自分が気づかなかったのはそれを聴く心の姿勢ができていなかったからでもある。

いつも周囲に心を開き、素直な気持ちで話を聴けば自分のためになることを言ってくださっているのである。それをいちいち否定してしまうのは自分の中に心を閉ざした場所があるからでありそれを受け容れたくないと最初から心に重しがのっかっているからでもある。

もともと歪むという字は、正しいことの上に不が乗っている字でできている。

これは何でも正直でない捉え方をすること、何でも否定から入ってしまうような心境を持っていることを歪んでいると定義しているのである。

もしもそれが自分のために言ってくださっていると素直に感じ入るならば、感情的になるよりも前に諫言や助言は有難いことだと感得しすぐに改めるというのが教わるという境地なのである。

モノゴトを教わるというのは、今まで知らなかったことを教えてくださっているという姿勢を正すことである。それは今まで知ろうとしていなかったことを恥じて正しいことを素直に学んでいきたいという心の曇りのない状態を言うのである。

人はすぐに否定されると心が波立つのは、自分の心の中にそういう部分が存在しているからである。それを独り慎み、すぐに改善していくことこそが学問をしていく本懐であり意義であろうとも思います。

まだまだ自分は表面上に流され、感情的になることがあります。

しかし、他人は皆教師だということを学べるよう正直な自分を大切にしていきたいと思います。

感謝

生きた学問

昨日、久しぶりに臥竜塾に参加しドイツ報告も兼ねてお時間をいただき話をするお時間をいただくことができた。

ドイツ研修では、全員が発表する中でサポートに徹していたため自分の時間を持つことができなかったけれど先生からの粋な計らいでこのようなお時間をいただけたことに感謝しています。

私はどうも一番大事なことを優先するとすぐに自分を後回しにしてしまうため、なかなか本来の自分の考えを先に周知しようとはしない癖がある。ある意味で無邪気なところばかりを見せてはぐらかすのは恥ずかしがりやであるからではないかとも分析している。

相手を思いやることに国境はなく、自他の境目を超えた場所に真の心がある。

いつも見守られていると実感できるのは、そういう心の場所をいつも正していける学問の道が同じ天を戴いているからであることを知ると本当にご縁の有難さに感謝の日々です。

昨日は、自分がドイツ研修を通して知らなかったことを知ろうとしてはいなかったことを恥じたと総括したけれどこれはとても大きな気づきであった。

論語にこうある。

「学びて思わざれば則ち罔し」

これはいくら教えを受けても、自分で深く考えることをしなければ真の学問は身に付かないということ。

そしてこの後に「思いて学ばざれば則ち殆し」とある。

そしてせっかく教わったのにそれを実行しなければそれも真の学問ではないという。

他人の話を真実だとそのままに信じる事は間違っていることではない、しかしそこでの落とし穴はその話を「自分の頭で深めない」ことにある。さらに言えば、自分が知ったからとそこで終わってしまい「自分の実践で掴みとる」ことをしていなければそれではただ教わって知っただけで終わってしまうことを意味するのである。

ただ真理を知っていることが増えて、それを受身に鵜呑みにしていたら自分で考えるのをみんなやめてしまうのである。そんなことで掴めるようなものであればそれは最初から学んでいるわけではない。

だからこそ、他人の話は素直に聴くけれどそれを本当の意味で素直に聴くというのは「ちゃんとそれを咀嚼し自分のものにしていく」ことなのである。

聴いても聴かないというのは、自分で考えるということを言っているのである。つまり自分自身の持っているこの全ての五感や六感など自らの目と耳や頭でちゃんと考え抜くことで、それを自らのものにするために具体的な実践を通じて掴み取っていくことが正しい学び方なのである。

私はだいぶ一つの業界に留まり様々なことを知った気になり分かった気にもなったのである。

それは素晴らしい師に出会い続け、先達の道にもめぐり逢い、非常に有難い恩恵溢れる最良の環境の中で学んでいることができていることからもよく分かる。

しかしそれに甘んじ学んで学ばなければあまりにもくらいのである。

知っていたことが知らないことにある日突然に変わることは素晴らしいことでそれはもう一度初心に帰り最初から学び直せる楽しみを日々に実感できるということなのである。

初心とは何か、学問とは何か、それは常に自らの頭で考え抜くことをやめてはいけない、そしてそれを自分で掴みとっていくこともやめてはいけない、なぜならそれが真の生きた学問だからであろうと私は思います。

日々は知らないことばかりだからこそ素晴らしいとしあの子ども達に恥ずかしくないように今からもさらなる学びを深めていきたいと思います。

師友同窓

ドイツ研修の最終日を迎えた。

旅の仲間たちとの心の通じ合いも体験を通した学びも、一期一会の邂逅が思い出となってこれから生き続けることになります。

同じ時間や同じ人との「間」は、二度はありません。

この一度きりというものだからこその真の学びの意義があり、その一つ一つを大切に卒業して次の学びへと移りそれぞれが自らの道に戻っていくのだと思います。

同じ道を志せばたとえ物理的な別れはあっても、本質的な別れはなく、同じ道の中で互いの便りが聞こえてきたり、その道のどこかで再会することもあるのだと思います。

心は全てを観ることができ、必然的に繋がりを用意してくれます。

この長く短い唯一の道のりの中で、師と友に出会うということは素敵なことで往来する時空の中で一人一人の感動がいつまでも心に刻まれていくのだと思います。

心はとても不思議で無限の響きを持っています。

子ども心のままに、先生と友というものから何を学び、先生と友というものから何を頂き、先生と友というものから何を掴んだか。

私たち学び舎の中で先生と友はいつもお互いに道の中での絆を結び、見守りあいながら旅をするのだと思います。如何にそれが豊かなことかと感じない日はありません、人は一人ではないのです。

これだけの仲間がいると思えることや、いつも誰かが自分を見守ってくれていると感じることでその道を心強く歩み続ける勇気を得るものです。

時に諦めそうなこともあろう。
そして時に、悲しみに負けそうなときもあろう。
そして時には、一人で立ち尽くすこともあろう。
そして時には、誇りを失いそうなときも。

しかしそんな時にこそ、今、歩んでいる一期一会の旅の師友が自分を支えてくれるのだと思います。

二度とない旅路に、誰かと共に歩めた道程こそが私たちの真実だと思います。
一度しかない旅路だからこそ、同窓と楽しんで歩んでいくことだと思います。

今回のドイツ研修も、もう一度、師と道の確認ができました。このタイミングで素晴らしい出逢いを再びいただけたこと、心から感謝しています。

これからもありとあらゆるものを心が無限に永久に感じつつ、好奇な観念を全開にし楽しみながら「かんながらの道」を邁進していこうと思います。

子どもが鏡

ドイツ研修も5日目を迎えた。

森の幼稚園からはじまり、ミュンヘンで2番目に規模の大きな幼稚園を視察した。

学校の理念が保育に顕われ、それが子どもたちに顕われてくるものでどの施設を視察しても目には見え難いところでそれぞれの園の環境を感じることができる。

小さな社会が空間に存在し、その社会をどのように見守るのか。

いつの時代も、子どもを見ながら私たち大人が如何に今を真摯に生き切るかというのは鏡のように反射して映し出すものであろうとも思う。

鏡と鏡に映る間にこそ、そこに浮き上がってくる本当の姿というものがある。

それを如何に洞察しバランスのとれた自然の姿かを観照するか。

人は生き方そのものでしか、人を感化できず、まずは子どもにとって恥ずかしくないような自分らしい命を尽くしていくことが根本に据えておく必要があるのではないかと改めて感じる。

どのような自然の状態の時、子ども達の本性が発揮されるか。
そこにどれだけ自分の心の鏡に「信」の空間が存在しているかによる。

子ども達同士の関係性もその空間に信が入っていれば見守るとなり、そうでなければ放任となる。一見、何もしていないように見えたとしてもそこに信が入っているかどうかはすぐに分かるもの。

子どもが情緒が安定するのも、信じてくれていると本人たちが感じているからである。

それを自らで信じていないはずだと思っていては情緒が安定するはずはない。

如何に信じてくれるものに対して見守っているというサインを送るか、そのサインは「信」の行動や環境によって合わせていくのである。親子の道ではないけれど、親が子を見守るように丸ごとでなければそれはできないのである。

そして子としての自分を見守ることができる人が、自他を見守ることができる。それはまるで鏡のように自分の生き方や生きざまが、保育に顕われているのである。

その道をどのように歩むのか、保育者のその歩み方に勇気づけられ、保育者のその生きざまに憧れ、保育者のその歩む後ろ姿に大人としての畏敬の念、自然そのものを感じられるのであろうとも思う。

今回の研修で得た視察もまた、どのような生き方であるかであったように思う。

まだまだ分からないことばかり、これから年を経て師ののようにたくさんの体験をし、その歩み方で信を感じている妙味の境地もいつの日か味わえるのではないかとワクワクしながら子どものように無邪気に自分らしい命を輝かせていこうと思います。

子どもこそが自分の映し鏡である。

私たちの目の前にいる子ども達も、そしてこの自分の心の子どもも周囲の人々も自分を含む空間の中の今というものを映しているのです。

有難い旅に出逢い、自分と向き合い、そして学び直しの日々はまさに今も充実しています。

日々学問

私たちの国の先人には、実践を学べる偉大な方々がたくさんいる。
私が尊敬する一人に、中江藤樹先生がいる。

今から約400年前に日本ではじめての私塾だといわれる「藤樹書院」をつくり、その弟子たちが実践することで徳風が広がり、そのずっとのちに松下村塾などをはじめ私塾というものの意義が各地へ広がったのではないかと私は感じている。

その藤樹先生の塾の学則は、冒頭に大学の明徳を明らかにすることを根本に据え、「天命を畏れ、徳性を尊ぶ」というような理念で日々の生活を通して学びを実施されていたということになっている。

この明徳というものは、人間誰にしろ備わっている心こそが自然あるがままの万物と一体になっている真の姿であり、この姿が明らかになることではじめて命そのものになるという意味になると私は解釈している。

そしてその明徳という自分に備わっている真心や命は、学問をすれば誰でも聖人になることができると言い切り、自らが致良知の実践を行って証明したのがこの中江藤樹先生であろうとも思う。

何かをやりたいのではなく、どうありたいかということを極め、その生き方そのもので聖人となることでその教えを広げるという考え方こそ、君子そのものではないかとその生前の姿に触れて感動することばかりである。

私が、現在学んでいく中でとても大事だと思っていることがある。

それは如何に日常というものが道場であるか、日々の自分の生活が実践の試練場であるか、そういう日々の中で自分の心と向き合い続けて理のままであるかどうかを確認することが道の上であるのだと思います。

最後に中江藤樹先生の明徳の詩を紹介します。

「天上心なくして 泰陽を生じ
 人間意あって 新正をよろこぶ
 人間天上 もと異なるなし
 日用の良知 これ至誠」

日々に自戒を持ち、天地自然の道理に従い生きていくこと、之即ち、真心であるという気がしています。

秋の澄んだ青空のように天晴な心で今日も生き切っていこうと思います。

君子と志士

今の時代は君子や志士というものが何であるかということがあまり明確に定義されていないように思う。

明治維新の頃もそうだけれど、歴史で顕われる志士とは一体どういうものか。

吉田松陰は、志士ということをこう定義している。

「志士と云うは即ち道に志すの士なり、即ち君子なり」(武教全書講録)

つまりは、道に志す人物こそが即ち君子だという意味になる。私も最初は君子とは、徳が高い人や立派な人だと思い込んでいたけれど維新の時代は君子を目指すということは志士であることをいうことであったのだと自分が思い違いをしていたことに気づいたことがある。

今ではあの西郷隆盛も坂本竜馬も高杉晋作も、有名な志士をはじめ日本全国から出土した志士たちはすべて学問により顕われた君子であったのではないかとも思う。

そして同じくこの君子とは何かということを孔子は弟子とのやり取りの中で下記のように定義している。弟子が君子とは何でしょうかという問いに対して、

「まずその言おうとすることを実行してから、ものを言う人物のことである」

と応えている。

つまりは、まず真心で先に行動しそれを理論化しているのでありその信じる道がまずどれほどのものかということを語っているのだと思う。知行合一の本質は、言葉を先にしないということである。

私の師が、先日の講演で「私は目の前に子どもがいるのに理論から信じない、理論を信じる前に私は子どもを信じます」と話をなさっていたけれどこれも同じく道を志す君子が放つ言霊であると思う。

私はこういう言葉を聴くとすぐに全身が衝撃を受けたように痺れてしまう、道を志す中で顕われる言霊はいつも感動のエネルギーを滾々と湧き出してくれるように思います。

志士とは、何かを語るのではなく実行して世間や社会でその真心を体現させるものだと思います。

私たちの目指す道もまた志の中にあるものであり艱難辛苦や逆境は志士には最高の栄養分となります。

君子と志士の共通点は道を得るかどうかによるということ。

私たちはより大きなもののために命の道を歩むことを真摯に楽しんでいこうと思います。

妙なる境地

昨日のブログに言葉の定義を書いたけれど、その人の使う言葉が自分の知っている言葉ではないということをまず理解することが大切だということである。

例えば、孔子をはじめ過去の聖賢と言われる人たちが語る言葉に、至誠、忠恕、真心、思いやりなどというものがある。

君子というものがどういうものか、それを聖賢は実行したのちに言葉にするもののことであると様々な文献で定義してある。陽明学の知行合一というのもそのことを再三書いていても、それを読み解く人がどれだけの心の場所で聴くのかではその解釈も同じではない。

吉田松陰の言葉に至誠というものがある。

毎年松陰神社に参り、純粋純心な気持ちで自分が学問をしているか、そして学びを世界のために自分を活かし切っているかを問うと、まだまだ私はこの吉田松陰がどこまで至誠というものを語っていたのかが分からないのではないかと思うことばかりでもある。

松陰が語る至誠には、「妙なるもの」という定義がある。

とても神妙な世界、真心を持ってすれば決して動かないものはないという単に国家のことだけを憂い維新をしたかったのではないのではないか。

その妙なる至誠の生き方とはどういうものか、それを人生で試してみたかったのではないか、そういう純心な気持ちが如何に天に通じて奇跡と一体になる感覚を持ち融通無碍の境地を楽しみたかったのではないか。

それを思う場面が所々にある。

私が尊敬する一人の諸葛孔明にしても、同じように学問を静かな境地、つまり神妙な場所で学びそれを理想と現実の中庸にて真実を体現した生き方を示した。

自分自身の生を、自分自身の命をどこまで昇華できるのか。

聖賢はすべてにこの「妙なる境地」を学んでいるように思います。

子ども達には志とは何か、学ぶとは何か、生きるとは何かを、私自身の生き方で示していければと思います。吉田松陰の至誠という言霊の機縁に出会えたこと心から感謝しています。