利よりも義こそ草莽の臣

今、国家の政治は乱れているといってもいい。

この数年で5人も首相が変わり、一部の人たちの利権と利害関係のみで政争を繰り返しリーダー不在の状態が続いている。

今のリーダーの在り方そのものが間違っていることから、政治に影響を及ぼし国家の忠臣も出てこず何かと行き詰っている状態が続いているようにも感じる。

昔、吉田松陰が以前に「狂夫の言」の中で下記のようなことを記している。

「天下の大患は、其の大患たる所以を知らざるにあり、いやしくも大患の大患たる所以を知らば、いずくんぞ之が計を為さざるを得んや」

これは、私なりに解釈すれば、「もっとも世間国家の大病の大本は、その大病の原因が自分たち自身であると気づかないことである、もしもこの大病が自分たち自身なのだということを気づけば、その対応策などは立てられるはずである。」といった感じだろうか。

これは色々な業界の既得権益で出来上がっている巨大な組織や団体など何よりも利ばかりを追っている人たちが自分たちが病気なのではないかとは思わずに問題を誰かのせいや外のことにばかりしているのを観てきて感じたことがあった。

水戸黄門の悪代官も、正義のヒーロー映画に出てくる悪役も、まさかあれが自分だとは誰もが思っていないのである、分外にいるものであると思うから間違いが起こるのであろうとも思う。

その矢印がもし、ひょっとしたらこの病の問題の原因は私自身にあるのではないかと慎み、省みることで対策を立てる事こそが政治の要諦であるようにも思う。

そして、吉田松陰先生はこの後、長く考え悩み苦しみ抜き朝廷幕府、諸藩に頼るのを止め、自らが国家の草莽の臣となると覚悟する。

つまりは、自分自らの変革により自由に世の中を易えることを決意するのである。その時、下記のような手紙を佐久間象山の甥に送っている。

「独立不羈三千年来の大日本、一朝人の羈縛を受くること、血性ある者視るに忍ぶべけんや。那波列翁(ナポレオン)を起こしてフレーヘード(自由)を唱へねば腹悶医し難し。僕固より其の成すべからざるは知れども、昨年以来微力相応に粉骨砕身すれども一も裨益なし。徒らに岸獄に坐するを得るのみ。(中略)今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼みなし。」

これも私の解釈で書くけれど、「独立国になり歴史のあるこの日本が、一部の役人によって滅んでいくのは忍び難いことである。ナポレオンが先頭に立って自由を手にしたようにできることを知っていたけれど、昨年以来ずっと政府や幕府、諸藩、朝廷に粉骨砕身働きかけたけれども一つも効果がなかった。竟には投獄されてしまった始末である。今の政府も関係するものものもすべて酔っ払っている人のようになっているのだからどうにもする術はない。だからこそ、野に散らばっている志ある人たちが立ち上がること以外に頼るしかない。」というような感じである。

自らが間違っていたと気づくのは吉田松陰先生が先だったのである。

言行一致にやってきたら周囲から狂人扱いをされ、自分は狂人ではなく猛人なのだと訴えても誰もそれを理解を示さず苦しみの中からなぜそうなるのかを考えたのだろうとも思う。

そして勇猛心を駆り立てて自らが草莽の人になって、世の中に出たことが変革の源になった瞬間だったのだろうとも私は思います。

今の私たちの未来の国を観て、松陰先生はどう思いますか?

利ばかりを追い求めそういう中にいて語る正義にやはり今昔変わらず酔っ払いばかりであると思われませんか。

まずは自分自身の間違いを素直に皆が気づくことこそが草莽の臣になることであると私は思います。

巨大組織や政治に頼らず、自らの生き方そのものや自分自身の志が義から入るようにしていくことから国家百年の計も必ず立っていくはずです。

変わらないと諦めるよりも、自分自身の志を信じて草莽の人になり共に歩んでいきましょう。それぞれの現場の人たちの志と真心が世の中を必ず治していくと信じましょう。

新たな旅路

人は旅をすることで様々な自分に出会うことができる。

過去に出会った風景との出会い、過去に出会った人たちとの出会い、過去のすべての出来事との出会い、そういうものも新たな旅路の中で出逢うことができるもの。

歩み続けるとういう日々は、常に今の自分との真の正対であるようにも思う。

どのようなことにありのままの自分が向き合って、日々の自分を刷新していくか、そうやって向き合うことこそが成長することであり、その実感することで人生を楽しめるようにできている。

先日、恩師との懐かしい旅を再び新たに楽しむ機会があった。

御互いの今までの成長ぶりや、歩んできた道程を確かめることで生きるということの真の歓びを語り合うことができた。

今では昔は分からなかったことが分かるようになったこと、今まで分かっていたことが実は分からないことだったこと、一生の中で真の人格を陶冶していくまで終わらない始まりの時間は常に旅路の最中にこそ存在しているのだ。

これからどんな新たな扉が開いているのだろうか、そしてどんな素晴らしい旅をまた楽しむことができるのか、その時まで、真摯に今の自分を生き切ることこそが旅をより明るい未来への希望へと導いていくのだと思います。

私たちの目指す思いやりや真心の道は、日々足元の実践と現場にこそ存在しています。

これからも共に歩んでいく中で、確かめ合い励まし合い、そして支え合いながら元気に自らの道を開拓していきたいですね。

素晴らしい時間を与えてくださったこと、それを見守ってくださった周りの方々、色々な御蔭の上にあるこの真の自由を心の感謝にかえて明日からまた新たに向き合っていこうと思います。

次回、同行する日をまた楽しみにしています。

一期一会の旅路に感謝。

命の動機づけ

昨日、訪問したところでリスクを取ることについて考える機会があった。

今の学校教育は、子ども達には危険はすべて取り除き、失敗はさせないという環境が善いことだと思っている風潮もある。そんなことをしていたら子どもが大きく育つはずもない。

これは以前私が、ある偉大な方と仕事をする中で「この国は失敗者にとても厳しい、そういう人をも大きく包むような見守りがなければ挑戦することを皆がしなくなってしまう、だから自分は其処から立ち上がる姿を見せたい」という話を聴いて感動したことがある。

大人の都合で、子どものやりたいことまで都合よくするというのはこの先の社会がどうなってしまうのかを予見している。そんなにエリート思想で世の中がまわるはずもなく、当然雑草のような逞しさで困難を跳ね飛ばすリーダーも大変な時代には必要なのだ。

それを子どもの時から危険を取り除き失敗もさせない環境の中で放任していたら、自分の主体性や自分らしくなどと自分を肯定できる機会にも恵まれず自信がつかないということにもなりかねない。

元々、リスクとは何か。

自分やりたいことがあって、それを遣り切る時にはどうしても様々な障害が付きまとう、それでも自分を最期まで信じぬくことで自分自身で人生を溌剌と楽しみ玩味でき竟にはその人としての至高の幸福感は得られるものだ。

それを無難にできそうなことや、まず失敗せずにできることだけを先に考えてそれを基準にやりたいことを探そうという人になってしまっては、本当に遣りたいことに出会おうとしないという自らが自らを疑っていることになってしまっているから竟には受け身になり自分を滅して次第に元気がなくなってくるものだと思う。

自分らしく生きることはやってはいけないと勘違いした大人になれば、迷惑の本当の意味も分からない人になってしまう。本当の迷惑とは、自分らしく遣り切らないことである。共生と貢献の関係ができるのは、自分にしかできないことを遣り切っているときに存在しているものだからだ。

子どもの頃は大人の見守りがあるからこそ、周囲に多少のリスクがあったにせよ子どもを信じて子どものやりたいことを尊重し援助し支援し手伝うことは相手を信じているという見守りの実践になる。

子どもは、環境さえ用意すれば好奇心旺盛に興味津々とやりたいことにのめり込んでいく。

そこには人間が成長したいとする根本的な本能があり、それをやりたいと思うのはどの生命も等しく皆で共生関係の中で生きたいと自然が願っているからでもある。

勘違いを語るとすれば本当の意味でのリスクとは、挑戦させないことである、言い換えれば成長させないようにすることである。今使われている社会のリスクこそがリスクだということに気づき、成長していこうと声をかけあい挑戦していくことを見守る社会を築くことがリスクを取るという意味である。

善い所どりを無難にやろうなどという怠けた精神が、自然の発展と繁栄を押さえつけてしまうのである。

大きく育てるとは、その人の本来の個性が存分に発揮できるように環境を用意して見守るということだと思う。

人が一番、命が輝くとき、それは自分のやりたいことを存分に挑戦して自分で考えて自分で決めて行動するときである。

それは遣りたいことに正直に生き抜くということの実践であり、自分の人生を信じているということである。

つまりリスクとは成長のことである。
成長の歓びは、何よりも命の動機づけである。

自分らしく生きる事ができる人が、そういう人たちが世の中に一人でも増えていくように見守る環境や社会を創りあげることに邁進し、只管に社業に専念していこうと思います。

学び方

分かった気になるや遣った気になるというのは、偏っているということを意味している。

例えば、いくら知識として先に話を聴いたり自分で調べたり何かを発見してわかったとしてもそれが具体的にどのようなシーンでそうなっているのかや、どのようにやることが現場実践なのかということがわからないという人がいる。

これは知識と現場での体験が繋がっていないからであり、頭では理解しているのだけれど実際にはやれないということである。

学識だけや権威だけでそれをやろうとしても、今までの現場での経験や体験による心体一致による気づきや習得がなければ頭でっかちに分かったとなっても実際はそれは分かった気になっているだけでもある。

経験主義ではないけれど、実際にやってみていないことは分かるはずがない、やったことだけが気づくことに繋がり、そこから学んだ本物の体験と経験が知識と重なり智慧と工夫を身に着け偏らない現実の話ができるのだと思う。

また逆もあり、現場でコツは掴んでいるもののそれを一向に言葉にできず語ることもできない人もいる。具体的なシーンだけを伝えても、それがどのような理論で科学的に証明されているのかや、分析したりといった周囲がそれを活用するために必要な知識を語れなかったりする。

どちらにしても、「知行合一」を実践していることこそ正しく学んでいるということであろうとも思う。世間では、学ぶということを勘違いしてどちらかだけで生きようとするから矛盾でバランスが悪くなっているのだろうとも思う。

もっと素直に正直に学ぶことからだと思う。

そしてこの学ぶというのは、真似るという意味だと師に教わったことがある。

簡単に言えば、コピーをすることだけれど、このコピーをすることを自信がない人ほど嫌がりなぜかいつまでも自分流などと真似もせずいつまでたっても一向に上達せず頑なに人の真似をするのを嫌がる人がいる。

礼儀や作法、その他、仕事の仕方などもいつまでもおかしなことをし失敗をするのは、真似をするよりも自分のやり方などという自分勝手な解釈での理解に固執している人もいる。

基本的には自尊感情というか、自分のことを信じる事ができるのならば別に他人の真似をすることは自分を失うことではないことはすぐに理解できる。しかしそういうものがないと、何か誰かの真似をすることは自分ではなくなると個性というものを勘違いしているのだろうとも思う。

子どもたちを見ても、赤ちゃんのときから周囲のやっていることを自らが真似をしできるようになっている。最終的に、それが個性がなくなったとは誰も言わないはずである。

自分できるようになるには、学び方の自立がなければいつまでも自立することはない。社会に出てきて、誰かに教えてもらうまで何もしないや、誰を見ても自分から気づいて真似もしないような状態ではその人が学ぶということを理解していないのだからほとんど本当の意味での上達はしない。

仕事はOJTの中でとあるのは、現場で背中を見ながら真似をしたりという風に仕事は見たものをやってみることや、見たものを聞いてみることなどで、現場の体験を通じで学んでいくのが学ぶことでもある。

そういうことなしに、学んでいますとか学びましたとかいうことはありえないのであり、それがわかった気になるややった気になるという自己都合の自己満足の学んだ気になっているという勘違いを生んでいるのである。

勘違いをしていたら一向に積み上がっていかないので、すぐに改め一つ知り一つを行動し、行動したものから一つを学び、そして真似から繰り返すことで自分なりにあり方とやり方を習得して個性が発揮されるのである。

子どもたちからも自然からも教わり、本来の学ぶ意味を感じ取っていきたい。

個性と自由

教えないということは大切なことである。

その人の自分がもっともやりたいことが、世界のためになったり、その人の持つ最高の個性が人々の貢献になるというふうにしていくことこそ自己実現でもある。

今の時代は、先に答えがあるように教え込み、その模範解答を探して苦しんでいる人は本当にたくさんいることのように思う。

自分らしく生きることが認められず、自分なりにやったことが評価されない。とても不自由の中で与えられた微かな自由を自由と思って生きている窮屈な人たちばかりでもある。

如何に自分らしく生きるかは、社会の在り方として見守る必要があり、そして教育のあり方として余計なことは極力しないという風に、相手を尊重して相手のことを信じてあげるようにしないと安心して発達していくことは難しいのであろうとも私は思う。

子どもであれば、自分がやりたいことを見つけるために環境を用意し引き出したらそれをどのようにしたら喜びとして見出せ、貢献に換えていけるのか、その仕組みを一人一人にあわせて皆で取り組めるようにしていけるか、そこに見守り手の真の実力が光ってくるのだろうと師を見て学んでいる。

刷り込みというのは、最初に答えを教える事であり、何かの教科書によって正しいということを思い込ませることでもある。

こんなことをやっていたら、その人らしさを出す前に間違っていないかが不安で何もしようとはしなくなるのではないか。そしてその教科書通りに生きていこうと必死に周囲の評価を気にしながら恐怖を感じるのではないか。

世界の学校はもう変化している。

この国は、もうすでに相当数刷り込まれあるがままに物事が観えている人たちも減ってきているけれどまだまだそういう人たちは前線で勘違いだと声高々に真実を語りもう一度根本的に見直そうではないかと伝えている。

できれば、子どもたちのためにも大和魂を思い出し早く気づいてほしい。

自己実現や自分は何者なのか、そして生きる喜びそんなものを存分に味わい楽しむことが人生なのだと示せる大人であることが何よりも大切なこと。

自由に生きていいということを自分から刷り込みを取り除き実践することこそ個性を活かすことになると信じるように脚下の道を楽しみ抜いていこうと思う。

今この瞬間に真心を

何かを判断する際に、今というものをどう解釈しているかで判断が変わってくるものであろうとも思う。

今というものを肯定して受け容れている人と、否定している人ではその判断軸はすべて異なってくる。

今というものに感謝し、充実した生を送る人は起きている出来事の全てに意味を感じて丁寧に前向きに自らの道を歩むことができる。逆に、今というものに満足せず感謝を忘れてしまえば、どの出来事へも不平不満を持ち後ろ向きになってしまうもの。

時というものは、面白いもので流されていく人と流されない人がいる。

流される人はマイナス思考で今に不平を持つ人たち、流されない人は今というものをこれでいいのだと全肯定できる人たちである。

今、この瞬間、今、このすべてに命を懸けて生きる人は人生に絶望したりすることはない。真摯に、今、改善すべき課題に一生懸命になれるからでもある。

そうではない人は愚痴ばかりをこぼし、何かあると自責の念にかられて何を真摯に取り組むべきかという目標についても覚束ないままになる。

人間は、自分がどのような心構えでいるか、今というものをどう捉えるようにするかで、時というものと心というものを感じているのであろうと思う。

以前のブログで、時=心であると書いたけれど今の自分の心の在り方こそが時であるのだから如何に今を大切にしているのかということがすべてである。

今を大事にできない人は、時を大切にすることはできない。時を大切にすることができないのならば、今は大事ではないということである。

この今はいつも最高の今という風に、今を更新していくことこそ時を豊かに充実して更新していくことでもある。

後悔しない人生とは、今というものに感謝して満たされている心で感謝と御蔭様をいつも心に抱き生きていく人生でもある。

自分が今あるのは、一体誰の御蔭であるのか、一体何の御蔭であるのかと考えれば今が観えてくる。その今というものがあるのは、自分が時を大切にしてきたものの集積で成り立っているのである。

だからこそ、今、この一瞬に真心を籠める生き方こそが時を豊かに一期一会にあることでもある。

人を幸せにするには、自分を幸せにする力がいる。自分を幸せにするには、今に満足し感謝して生きていく力を育てていくことでもある。発達というものは普遍性が存在する。

発達を見守っていく中で、真の仁慈の繫がりが新しい時代を築くのであろうとも思う。これからも、今というものを大切に生きていこうと思います。

実践者の学び

師との話の中で、実践の重要さを感じない日はない。

今の社会は情報が多すぎて、目の前にいる人に心を籠めるよりもそうではない遠くの人たちのことばかりを論じて何も自分を変えようとはしない人が増えてきている。

環境問題をはじめ、世界各国で起きる出来事のことに思い憂いているのに実際は目の前の自然や自分の地域の出来事に対しての繫がりの方はそのままおざなりにしていることもある。

保育で言えば、何かの運動のように方法論だけは広げていくけれど実際に目の前にいる子どもたちのことは放ったらかしにしている場合もある。

まず足元にあることや、周囲に起きる出来事を丁寧に対応していくことができてはじめて遠くのことをやればいいのである。それをせず、思い悩み憂うことでどうにもできないと無力感に苦しむよりも自分のできる範囲でしっかりやっていくということがその実、全体の調和や変化の礎になっていくのであろうとも思う。

すぐに人は数の論理や、力の論理で、さも広がったかどうか影響力がどれくらいあるかということばかりに目を当て、大きいか小さいか、広いか狭いかということばかりを議論する。

しかし真の実践者というものは、そういうものを大事にはしていない。
自分ひとりの影響力の偉大さを現実的に自覚しているのである。

方法論ではなく、それは実践論でなければ意味がないことを知っている。

やり方ばかりを探すのは情報が多いからであり、簡単に入手できる時代になっているからである。しかし、その方法を先に知るから苦しむのであり追い付いていない自分に焦るのであるのだろうとも私は思う。

じっっくり時間をかけて玩味していくことではないけれど、何かを感じようとするには感性を研ぎ澄まし日々に応じて心をあわせていくようなことが必要なのであろうとも思う。

どうしても、答えが先にあるかどうかを知りたくなるのは私たちがそういう教育を受けてきたからなのかもしれない。人生の意味は、味わい尽くすことで得ることができるものなのに本当に時間にあくせくともったいないことをしているなと本来のいのちや心、繋がりを味わうのに必要な穏やかな時間すらもなかなか取れなくなってきているのだろうと思う。

心を落ち着かせることは、自分をいつもの平常心にしていることでもある。感情に巻き込まれるのは、味わう気持ちよりも解決したいという焦りに心が攫われているからである。

平常心とは、必ず心が先に実践し頭が後付けであるということであると私は思う。実践することが前提であることは正道から入る事であり、決して裏道から入らないことである。いつも優先順位からブレず実践していれば頭ではなく心が先に動いているから方法論にも運動論にも陥らないのである。

私たちが学び広げる実践者の語る声はすべて方法論ではなく、実践の在り方そのものを語っているのでありそこを実践しながら学びなさいということなのである。

師は見守る保育というものは方法論ではない、保育とは子どもを見守ることからはじまっているのであるという。

これは、充実した人生というものは方法論ではない、人生とは生き方が充実しているところからはじまっているのであるという意味でもいい。

実践をする人からの学びとは、そのものの実践を深める事である。決して方法論として受け取ってはいけないし知識をただなぞり得るようにやってはいけない。

尊敬する実践の真似をすることであり、まねぶ、つまりは学ぶことなのである。

こういう情報リテラシーが特に必要な時代は、常に自ら主軸の実践のために情報を取捨選択し続ける心の調整を実践していかなければと真摯に感じる。一つひとつの課題に対して、そこから常に取り組んでいきたい。

子ども達には、実践しながら学ぶよう知行合一の豊かさを示していければと思いまず今を受け容れ楽しんでいる自分でいようと努めようと思います。

真の味わい

子どもやこの仕事をしていると本当によく自覚するのは、自立の重要性である。

如何に他人に対してさも問題意識や危機感や鋭い洞察を幅広い知識で語っても、自分のことをきちんとできていない人が人を救うなどを容易に語る事自体が大変恥ずかしいことだと私は感じることがある。

これは当然のことだけれど自らのことをきちんと修め、自らが自立して生きていてはじめて他の人を共生と自立へ導くものができるもの。これは全てに言えることで、自分ができないことを人に語らない、本当に自分のものになってもいないことを人に教えないという風に、自他ともに誠意を尽くせない人では決して世の中を真の意味で正していくことはできないと思う。

しかし、周囲を見ていたら自分のことはできていなくても他人には色々なことを好き勝手に言う人がとても多い。営業マンでもそうだし、表層上で得た知識を少し大きく鋭く話せばや、この辺の幅で偉大に伝えればという自分の実践から得た真の確信からではなく他人の話をさも自分で掴んだ実践での話のように伝えればその伝えた人はそれを間違って信じてしまう。

もしもその人がその信じたことを深く聴いてきたらその人は何と答えるのだろうか?もしも本当に困って助けてくださいと言われていたとしたらどうするのだろうか?もしも自分を信じたことで最期の希望を持っているとしたらどうするのだろうか?などとは一切考えず、軽い気持ちで自分都合でやっている人もいる。

これは人と人とが本当の意味で絆が繋がっていることを知らないからだとも思う。

これは人間に限らず、植物から動物、自然界全ては大いなる繋がりと絆の中で生き生かされている。それは、お互いが誠意を持って生かし合っているともいえる。それを共生という。

その生命ひとつがもしも不誠実であれば周囲へは不誠実が陶冶する。その生命ひとつがもしも誠実であればその周囲はいつも誠実で陶冶する。つまりは、自立したものたちが渾然一体になって自然環境の中で自然淘汰されるように、この道理に従い互いに変化に順応するために、つねに生命は自らを変革し、自らを陶冶育成するものだとそれが万物一切の保育環境であるとも私は思う。

だからこそ、自分の自立は自分で責任を持つことができてはじめて人々に貢献するということができるのだ。これを勘違いして、いつまでも誰かに依存しつつさも自分が貢献していると他人にアピールしたって逆効果だからやめた方がいい。

中国に「菜根譚」という書がある、これは「人よく菜根を咬みえば、すなわち百事なすべし」という言葉から来ている。よく噛み締め、味わいがわかる人になればいいということだ。その中の一説にこういうものがある。

「欺詐的の人に遇わば、誠心を以て之を感動させ、暴戻的の人に遇わば、和気を以て之を薫蒸せしめ、傾邪私曲的の人に遇わば、名義気節を以て之を激礪す。天下、我が陶冶の中に入らざること無し。(菜根譚前集176)」

私の意訳だけれど「どんな詐欺的な他人にあっても誠意を持って応じ、乱暴者にあえば、温和な気持ちで包み込み、捻くれて素直ではない人にあえば、筋道を正して導いてあげるようにする。すべては、自らの陶冶の中でできることである。」

この陶冶というもの、何万言の言葉で語られるよりも私自身は自立のプロセスの中で、師の薫陶を受け、師との邂逅、師との人生観、師との道を深く噛み締め味わうことで自分の実践を心底楽しむものには何ものも叶わないといつも感じている。

自らを自立し陶冶する中で、心を省み誠心誠意でいるというのは、謙虚であることや尊重するということの生命の真意が貫かれものを確信する生き方を選択するのであろうとも思う。

今は、子ども達のためにも焦りよりも自立のプロセスを楽しみ真の味わいを噛み締めていきたいと思う。自立や共生や貢献には、敬天愛人と同じような趣がある、まだまだじっくりと歩んでいこうと思う。

自己肯定感

先日、1/4の奇跡という映画をカグヤクルーと一緒に拝見することができた。この映画は、障害を持った方々に接する山元加津子さんという方にフォーカスして制作したドキュメンタリーであった。

映画の中では、障害を持った人たちから心で生きることを学びその言葉を多くの人たちに伝えようという意志がとても伝わってきたものであった。私の師は、子ども心にとても精通している人であり、この映画では障害者の心にとても精通した方だなと実感した。やはり現場で実践している人たちの言葉はいつも重くそして深い、だからこそ心が揺さぶられシンプルにありのままの真理を伝えられるのだろう。

他人が自分に本当の意味でできることできないことを自覚し、お互いを真剣に尊重しあいながら生きている無二の関係を見ると私は自分自身のことが浮き彫りになり、同時に素晴らしい人たちからもっと学びいつの日か同じように自分らしく使命に準じたいと思えるようになる。有難いことである。

人間の心に深く精通している人は、その心の世界が持つ玄妙微細な叡智を言葉にすることができるし、それを深く理解して正しく世の中へ表現することができる。人間にはそれぞれ役割分担があり、もっとも弱い立場や抑圧されているところにこそ真の優しさと強さが必要であると訴える必要があると私も生きていていつも思う。

いつも思いやりをもって命を尊重し、人々がすべて必要不可欠な強い繋がりに於いて生き生かされているのだとそうではない社会の在り方を義憤を持って貫くのだろう、そこに偉大な人間愛があることを感じると世の中にはまだまだ人物は沢山いると思い嬉しい気持ちになり論語の「徳は孤ならず必ず隣あり」の意味を実感する。

自分の心には色々なものがある、それは自分を守りたいと思ったり、何かを奪いたいと思ったり、厳しくしてしまうことや、自分さえよければなど、心をむき出しに素直になればたくさんの嫌な部分もでてくる。しかし、そのすべてを見ても自分は優しい心があると選択するとき人は偉大なものに動かされていることを感じるのではないか。

それが必要とされていると感じる事であり、それが何か偉大なものによって生かされているものであるし、自分を最終的にはそうさしめている不思議で玄妙な何かの力が働いているからであると感じることもある。

もともと自分の尺度から物事を考えれば、思い込みという価値観の色眼鏡で心を封じ込め世界を自分色に染めてしまうもの。鏡であれば、塵や埃にまみれれば本当のものは心にも映し出さないし、水も汚れて波を打っていたら、その表面は歪んでしまい心には正しいものは何も映らないように、その心がまず清らか澄んで平安でなければ何も本当のことは見えることはない。

素直であるとは、そういうあるがままの心、つまり本当の今の自分を受け容れた後の無理をしない素直な心で善悪好悪すべてをもっている自分の心のあるがままを受け容れることを言うのであろうと私は思う。それを否定したい気持ちに自分が克つことである。

これは師も以前、雑談の中で話してくださった中に「人は完全に善ではない、子どもを見ていたら子どもの中にはその善悪の両方が渾然一体に存在している」と仰っていたことがあった。あの時はよく理解できなかったけれど、これは自分の心と正対し見つめてみれば今ではそれがよく分かる。

人は自分はそんなはずはないと思いたがるものだし、自分はあんなのとは一緒ではないと嫌悪するのだろうけれど、そういう人が真の意味で他人に自分のことのようにと思いやりを持てる人には決してなりはしない。

自分に誠心誠意がない人が、他人に誠心誠意ができないように、自分の心に誠実でなければ、他人に誠実であれるはずがない。弱さも強さもさらけ出すのは、自分の心そのままを他人に見せれるからである。それは別にかっこ悪くてもいい、情けなくてもいい、酷いと醜いと思われてもいい、自分はこんな自分なんですと言える正直さという勇気であると思う。

むき出しの心を見つめたとき、人は本当の意味で優しい心を持つのであろうと思うし、人がはじめて人を本気で信頼することができるのであろうと思う。完全なる善人もいなければ完全なる悪人もいない、ただ人がいるだけなのである。

私自身、課題が多く、まだまだそれができず相性などもあり大変な思いをすることがある。しかし、大切なことはそういうことも気づかせていただけるすべてに深く感謝し、あるがままであることの真の価値を見出すことが差別のない尊重し合う平和な世の中を創るのであろうと思う。

いつまでも自己否定せず、自己肯定するということの本当の意味を子どもたちに還元していきたい。自己否定とは、自分はそんなはずではないと無理に抑え込もうとせず、自己肯定とは、そんな自分もあるのだなあと素直に受け容れること。

自己肯定感が低いと言われ、自分を受け容れることをなかなかしない今の社会で、自己肯定感を高め心を気軽に気楽に生きていけるような自信を子ども達へその輪を広げていきたい。

一円対話を用い、さらに自己肯定感を真意を愉しめるような子ども第一主義の社業を実践していきたい。まずは自分から、真実の自分自身をいつも受け容れていきたい。

2011年のテーマ

昨年も本当に色々なことに気づきまた新たな出会いと発見と感動があった一年になった。年々有難いのは、常に周囲に素晴らしい人たちや子どもを愛する人たちに溢れ本気で人生に向き合うことから逃げず道を楽しもうとする人に恵まれていることであると思う。

一期一会を座右にし、出会いというものが自分を導いてくださるのを実感するとこの時代にめぐり逢い幸福を分かち合いながら共に歩めることに何より感謝しています。

昨年も師の背中や現場の実践から王道というものを学ぶことができた。常に成長を已まず刷新していくその姿に人としてどうあるべきかという生き方のモデルを見せていただけるのは我が童心の鏡であるようにも思う。

今はその憧れとともに、同じくたくさんの人々へその真心が受け継がれていけることを祈るような気持ちのまま社業を邁進しています。

そして有難いことに今年もまた新たにテーマをいただくことができた。

それは「あるがままに今を生きる」ということ。

どの時点を最高とするのかはその人の考えによるもの、たとえ過去の最高時に戻ろうとしてもそれはできず未来の結果を最高としても今の積み上げたその結果が未来なのだからそれもまた同じく往こうとしてもできることではない。

この今こそが一番最高だという「今」というものを如何に楽しめるかということが、何よりも素晴らしい未来と過去を築き上げていくことだということなのだろう。

しかし頭でいくら分かっていたとしても、実践現場では頭でわかったものは通じないからこそ心の感応力で今を見つめるために日々のテーマというものがある。

私は、どうしても何でも無理にでも押し通し何とかしようと力みすぎることがある。それをすることでその時は全て何とかはなっているもののその無理をした自分の分をあとで修正するということを繰り返すことがある。

何でも遣り切るということは大切なことだけれど、今の自分を全面的に受け入れることもとても大切なことなのだと思う。

この今の自分は過去と未来のつなぎ目の自分であり、そこが澄んで清らかで明るく素直かというのが私のかんながらの道の実践道義でもある。

だからこそ、今というものを全面的に肯定し受容しその今の状態をより楽しむために日々の発見や発掘、感動や青春を一生涯続けていくことがより我が道を究めるということになると信じることだ。

それを改めて感じていると、師の愛の深さを感じて改めて感激に満ちる。
この恩寵を多くの世の人々へ還元してくことで示していこうと思います。

いよいよ今年も一年はじまった、社会はより切迫さを増してきている、だからこそ遠くを観て鑑照しつつ春に種を蒔き、秋に実ることを心に定め、今の社業をリ・ブランディングしていく最高の今を楽しみながら刷新していきたいと思う。

子どもたちの心に平和の灯を広げつつ、明るい人格を豊かに味わい尽くして楽しんでいきたい。

感謝